数々のフィールドレコーディング音源の制作や
映画および舞台芸術の音楽監督などを務めてきた
サウンドデザイナー、ディレクターの森永泰弘が
演出を手掛ける公演「MARGINAL GONGS」。
音や映像、言語を用いた新たなる物語表現を試みるこの公演において、
ひとつの重要な要素となっているのが衣装だ。
今回衣装を担当するスタイリストの長瀬哲朗は、
南米などを回り、各地の伝統的な儀式・祭祀を体験してきたという。
4回にわたる対談シリーズ2回目は、本連載の第1回に登場した大石始を聞き手に、
森永と長瀬による「儀式」をめぐる対話をお届けする。
今回の公演で長瀬さんに衣装を依頼した経緯を教えてください。
森永泰弘(以下 森永)ちょうど今回の作品制作公演の準備に取りかかっていたころ、共通の友人や知人を通じて長瀬さんと初めてお会いし、いろんな話をさせていただいたんですね。これまでの自分が経験したこと、考えてきたこと、好きなこと、嫌いなことなんかを話してて、これまでの経験をどうやって咀嚼するかという部分で共感できたポイントが多くて。今回の公演では衣装もひとつの大事な要素ですし、思考や表現の軸を持った方々、インプットがきちんとしているコラボレーターと一緒に作品をつくりたいと思っていたので、ここは長瀬さんしかいないだろうと考えたんです。
Yasuhiro Morinaga|森永泰弘
the-concrete.org/project/
長瀬哲朗(以下 長瀬)今後大切にしていくべき価値観であるとか、自分の作品を通じてどのようなことを伝えていくべきなのか、そこの部分ですごく共感できたんです。難しい話をする前に、気持ちがパッと通じたというかね。
森永そうですね。
長瀬そのときにも少し話したんですけど、ぼくは生活全般をふまえて、服から発信するメッセージみたいなものをいろんなトライブの人たちから学んでいる部分があるんですね。社会の仕組みの根底というか、いちばんベーシックかつ最先端な感覚ってシャーマニズムに近いものがあると思っていて、自分の洋服やある種の空気感としてそういうことを伝えていけるようになるといいかなと考えています。
長瀬さんはこれまでに南米など世界中で伝統的な儀式を体験されてきたわけですが、どのようなきっかけでそうした儀式を回るようになったんでしょうか。
Tetsuro Nagase | 長瀬哲朗
長瀬もともとぼくはパリやNY、ロンドンのような主要都市以外の場所や僻地にも撮影のためによく行ってたんですね。万里の長城だったり、あるいはいまはもう入れないシリアの神殿だったり。20代後半のころ、サハラ沙漠にも行ったんですけど、サハラの朝日と夕日に信じられないぐらい感動しちゃって。100年前も100年後も絶対変わらない景色というものが存在するということにね。そうこうするうちに2000年にはアメリカのネヴァダで行われている「バーニングマン」というパーティにたまたま出合ったんですけど、そこにはぼくが求めていた世界があったんですよ。
どのような世界だったのでしょうか。
長瀬「バーニングマン」をやってる場所はブラック・ロック・デザートっていうネイティヴアメリカンの保護区域なんですけど、そこではセレモニーもやっていたんですね。その土地に根付いている人たちはどのような衣装を着て、何を食べて、どんな音楽を伝承してきて、民族の歴史を絶やさないようにどのようなことを伝達してきたのか。そうしたもろもろにまつわる表現方法が、自分の仕事とすごくリンクするものがあったんです。不特定多数のメジャーに向けて感動を与えるというよりも、自分の手の届く範囲で一つひとつ細部まで気を使いながら物をつくっていくというのが自分がいちばんやりたいことだなとそのとき思ったんですね。
森永さんもこれまでアジアやヨーロッパなど各地を回ってこられましたね。
森永そうですね。ほんと、色々な場所に行きました。いろんな場所行くことで見えたもののひとつが、地理学的な考え方で隔てられている「国境という国」という価値観はどうでもいいということだったんです。今回の公演のモチーフとしたゴングにしても、地域や民族によって形状や意味が違っているとはいえ、それぞれの土地のなかで長い年月をかけて少しづつ形を変えてきた背景があるわけで、そもそも国で区切るのは変だなって。
儀式に関していえば、ぼくはあんまり「この儀式に行こう」というはっきりした目的意識をもって特定の場所を訪れることってあまりなくて、たまたま儀式の場面に立ち会ってしまうということの方が多いんです。みんなが集会場に集まって音楽を聴きながら興奮してる場に遭遇してしまって、あとから「あれってなんだったんだろう?」と思い返してみて、「ああ、儀式だったのか」という。
森永さんならではの特殊なケースではあるとは思いますが(笑)。
森永まあ、そうかもしれません(笑)。
長瀬ただ、意識したらたどり着けないということってあると思う。ぼくも入り口は「バーニングマン」っていうわかりやすいところだったわけですけど、そこからピュアな感覚を頼りに考えていくなかで、突然「呼ばれる」こともあって。ぼくもたまたま儀式をやってるところを通りかかったことがありますし。
言語化と体験
長瀬各地のセレモニーに参加してすごく感じたのは、言語化ということそのものの難しさ。本来ピュアな感覚で捉えていたものを言葉にして、言葉として外に出た瞬間に、持論とか先入観みたいなものが伝わっちゃう。これからの時代はそこに気をつけなきゃいけないと思うんです。
ある意識を言語化せず、ご自身の表現に落とし込んでいくというのはすごく難しい作業じゃないですか?
長瀬そうですね。自分では一生をかけて仕上げていく作業なのかなと思い始めてますね。服や魂にメッセージを込めるという作業の、やっと入り口に来たかなっていう感覚はあります。これからそこをどう伝えていくか。
森永さんもさまざまな場所で強烈な体験してきたと思うんですけど、そうした体験をご自身の表現に落とし込んでいくにあたってはどのようなことをお考えですか?
森永結局のところ、その場所に足を運んでもらうしか方法はないと思ってます。たとえば、ぼくはカメラやマイクを持ってその土地に入っていくわけですけど、録音はOKと言う人のなかには、カメラを嫌がる人もいるんですよ。レンズの力っていうのはやっぱり強くて、対象との距離ができちゃう。知らない土地や人と会って、まず大事なのは距離を縮めることだと思います。せっかく自分を受け入れてもらえる環境があるのに、そこで距離ができてしまうのはもったいないなと。だったら彼らがぼくの存在を受け入れてくれるまで待ったり、できるだけ多くその地を行き来し、地元の人たちと会うようにします。
そうすれば、録音や撮影はもちろんのこと、それぞれの個人的な思いや別に知らなくてもいいことまでをどんどん話してくれたりします。そうやって距離を縮めて友達になっていくと、知らない間に一緒に表現をしようということになったりするんです。だから、マイクやカメラは二次的なものなのかもしれない。
また、現地の人はぼくが撮影や録音準備をしても、長くは待ってくれません。ぼくもそこに参加してるという部分をすごく大事にしているので、綺麗な音や画角で録るということよりも、体験的なものをどのように瞬時に捉えるか捕まえることができるのか、そこに対する興味をずっともってきたんです。
でも、長瀬さんが言うように言葉はもちろん、映像や音にも限界があって、いくら頑張ってもたどり着けない領域がある。その場合の解決法は、人と会って一緒にいることなんです。そうやって距離感が縮まってくれば、表現というか作品が色々なところから湧き出るし、一緒に何かを生んでいくことができると思っています。ただ、そうするには、色々な制約や大変な労力が必要になってきますよね。
森永さんのなかにはそのもどかしさが常にある?
森永そうですね。時間って過ぎちゃうもんだし、ぼくも色んな制約のなかで生きています。そして何よりも、彼らからしたらぼくは外の人なんです。だから、さまざまなもどかしさを共有できる人たちが、そういうのを全部寄せ集めて自分たちで何かつくっちゃおうというのが今回の作品につながっていることなのかもしれません。
儀式とテクノロジー
長瀬それ、テクノロジーのすごくいい使い方ですよね。
森永昔の人からしてみたら、祈ったり呪いをかけたり、歌を歌ったりして薬を使って病気を治すという行為は、それ自体が、いってみればある意味テクノロジーなのではないかと思います。テクノロジーって一種の「手段」なんだと。
先ほど長瀬さんが言ったシャーマニズムのあり方もテクノロジーを介した考え方で、いってしまえば手段だと思います。こういうことって現代にもリンクしてて、例えばカプセル錠の薬なんかも、個人差はあるかもしれないけど、体にいれると症状が治まったりもする。普通に考えたらすごいことです。ただ見方次第では、この薬をつくるための研究はテクノロジーを介して生み出された賜物であって、祈ったり、呪いをかけたりすることと同じなんだと思うんです。
長瀬ぼくもつい最近思い始めたことなんですけど、太陽暦が取り入れられる以前の日本人は太陽や月の動きを見ながら生活をしていたわけですよね。それが当たり前の感覚だった。
森永古代からいろんな地域の人たちが海を渡り、交易を通じて、民族、宗教、人が交わってきたわけですけど、いったいどうやってコミュニケーションを取って混じり合っていたんだろう?と思うんですね。言葉がわからないのにコミュニケーションを取り、商売や交易もしていたわけですよね? 考えられるのは、きっと彼らは「適当だった」のかもしれません。その人たちが何かしら「モノ愛」を通じて混じり合い、大きな文化をつくったということはたしかなんです。でも、それってすごいことだと思うんですね。
長瀬90年代にクラブで遊んでいたころも、いいDJが空気をつくったことによってその空間自体がひとつになって、その瞬間に夢の時間が始まるような体験が何度かあったんですけど、それってそのあとに体験したシャーマンのセレモニーと変わらないと思ってて。そういうことって古代にも現代にも同じ感覚として伝わってるんじゃないかと思うんですね。
時代を超えて貫く感覚ということですね。
長瀬そうですね。チャーハン専門店の料理人のなかにも凄い人がいたりますよね。毎日チャーハンを淡々と炒めてるだけなのに、信じられないクオリティの美味しいチャーハンつくる人っている。
いますね(笑)。
長瀬そういう人の神がかったバランスにお金を払いたいと思うようになったんですよ。チェーン展開をしているわけでもなければ、変な広告を打っているわけでもない。古い建物でも隅々まできれいに磨かれた空間で、淡々とチャーハンを炒め続ける料理人。そういう人たちとつながっていくことの大切さも、各地の儀式を回って覚えた感覚なんです。とはいえ、都会にいるといろんなことがあるんで、「文明デトックス」のために奥地まで入っていくことはあります。
感覚的になれる時空間をつくる
今回の公演では「儀式性」が重要なテーマとなっていますが、公演のなかで各地の儀式を単純に再現しているわけではないんですよね。
森永そうですね。単に再現するだけであれば、ぼくらがみんなにお金を渡して現地まで一緒に行くのが、いちばんいいと思うんですよ(笑)。
長瀬本当にそう(笑)。同感です。
では、単なる「再現」ではない今回の公演の「儀式性」とは、どのようなものなんでしょうか。
森永どう言えばいいのでしょうか。作品を通して感覚的になれる時空間をつくることなのかもしれません。儀式っていうと、なんかスピリチュアルな感じがしますけど、実は日常レヴェルでぼくたちの生活習慣に根付いていると思うんです。そもそも儀式って「自分が何か」という問いを介して、他者や物事、もしくは別の自分と新たにつながり合うことだと思うんです。祭りみたいなものです。決して一人ではできないものだと思うんです。それで、そういった儀式にテクノロジーという手段が入ると、Skypeで友達と話すことや、真夏に冷えた飲み物を冷蔵庫から取り出したり、真っ暗闇で電気をつけて明るくすることなんかも全部儀式的だなと感じるわけです。ただぼくたちはそれが生活上、当たり前すぎて考える必要もないんです。
ある島の儀式に遭遇したとき、その儀式の中心人物であるシャーマンがトランス状態になって、何かに憑依して病人に取り憑いた悪霊を取り払ってしまいました。でもほかの参加者は日常となんら変わらない感じで寝っ転がって、お酒を飲んで、うだうだとほかの人と世間話をしてシャーマンの憑依なんて全然気にしていませんでした。
この光景を見て、あることを思ってしまったんです。このシャーマンは自分が何かに憑依したとしても、自分は何に憑依しているかなんてリアルタイムでわからないはずだと。というか、わかったらそれは憑依していないですものね。でもそういうことが起こっても、参加者は何も気にしない。でもシャーマンはめっちゃ真面目に憑依して、踊りを踊って、病人に呪文みたいなものをかけていました。
つまり儀式ってあらゆる行為がなんでも当たり前に許されるんでしょうね。皆が同じ場所にいて、誰がどうなってもいいんだ、みたいなものを感覚的に共有することができる時空間。ぼくはそういうものを作品から生んでいきたいと思ったんです。
いったい何なのかわからない。でもわからなくていいっていう感じが、割と平然にポジティヴに受け入れられてしまうこと、そういうことを作品の儀式性として結びつけることができればと思います。例えば、映画を見終わって、物語がよかったとか、音がよかったとか、そういうことではないところをぼくたちは目指していると思ってて、それが一種の儀式性なのかなと思います。
長瀬自分も、都会にはない変わったことをしている人たちを見世物的に見せて楽しませるということはしたくないし、その次元は終わったんじゃないかと思っていて。儀式のフィーリングをどう感じ取ってくれるか、どう伝えるか。各地のトライブの人たちと会って、いろんな話をしてきたわけですけど、最終的にみんなが伝えていることってそう変わらないんですよ。つまり、地球と自分たちは一体化していて、生物は息を吸って吐き、吐いた息の風で草が伸び、その草を食べる昆虫を鳥が食べ、鳥が稲を落としてという。
自然と生命体が一体となったコスモロジーということですね。
長瀬お金の使い方が支配している世の中だと、お金というツールがすべての価値観のトップにあるわけですよね。ぼくが海外に行ってどんなこと思うにしても、なんだかんだ文明社会から完全には逃れられない。やっぱりマインドに響くやり方で、一人ひとりのハートを実らせていくという作業がいちばん大切だと思うんですよ。でも、ただ単にアナログに戻るんじゃなくて、テクノロジーが発達した世界の中で、そういう意識をもったまま進化していけたらいいと思っていて。
立体音響などさまざまなテクノロジーを用いた今回の公演にも繋がってくるイメージですよね。
長瀬そうですね。見世物的な感覚じゃなくて本質の部分を伝えられる時代になってきてるので、今回の公演のお話をいただいたときにもすごくやりたいなと思ったんですよ。会場にやってくるきっかけはなんでもいいと思っていて、「そんな変わったことやってる人たちがいるんだ」という興味本位でもいいと思う。でも、会場に来てくれた方がそこのヴァイブス、空気感を感じて、帰るときにはすごく穏やかで暖かい気持ちになってくれたら成功だなと思ってます。
森永そうそう。結局はそこなんですよね。
長瀬もちろん一定のクオリティをキープするため、もしくは幻想的な空気感をつくり出すためにそれぞれの衣装をエンターテインメント的に見せていくということは考えますけど、あのダンスがなんというスタイルだったとか、タトゥーの柄がどうだったか、または「あの衣装やばかったね」「歌声がすごかったね」ということじゃなくて、「めちゃくちゃいい時間だったね」と思っていただけるものにしたい。ぼくにとっては儀式的空間のなんたるかを伝えると写真 いうのはそういうことなんです。
森永いい時間・場所をつくるということだけですよね。ある人がひとりだけ突出しててもいけないし、みんなが見えない力でつながることでいい時間・場所が生まれてくるわけで、そうした結晶を生み出すことができたら今回の公演は成功だと思ってます。
長瀬見終わったあと、1週間や1カ月後くらいに、その体験をようやく言語化できるような、そういうものをやりたいですね。