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ミードとシカゴ学派

シカゴ学派社会学
■シカゴ学派社会学とは
 1890年に創立された「シカゴ大学」の「社会学科」(1892年設置)のスタッフおよびその教え子からなる、社会学者集団と、その諸思想、及び、その思想に基づく業績群を指して、「シカゴ学派社会学」Chicago Sociologyないしは「社会学のシカゴ学派」The Chicago School of Sociologyと言う。
 シカゴ学派は通例、4世代からなるとされている。それぞれ主要な人物をあげてみよう。
 第1世代・・・創設期のメンバー。初代のスタッフと大学院生(W.I.トーマス)。後に「Big Four」と呼ばれる人物たち。A.W.スモール(初代学科長、ヨーロッパの学説のアメリカ社会学界への普及に貢献する)、G.ヴィンセント、C.R.ヘンダーソン(あまりこの2人は重要ではない。)、W.I.トーマス(第1世代と第2世代にまたがり、シカゴ学派社会学の研究方法を前進させる。当時はまだ大学院生。アメリカ社会学の形態を「思弁的段階」--学説的研究。理論的・演繹的研究中心--から「経験的段階」--調査を行い理論を帰納的に検証するやり方。調査を行うなかから理論を生み出すやり方--へと移行させるのに貢献したと言われる)。
 第2世代・・・シカゴ学派の「黄金時代」を築いた人々といわれている。R.E.パーク・E.W.バージェス、W.F.オグバーン。前者は、フィールドワーク(野外調査。参与観察やインタビュー、手紙や日記、生活史の収集など)を主体とした研究方法(質的方法)を大学院生に推奨し、数々の「シカゴ・モノグラフ」(当時のシカゴの様々な領域を調べ上げ、レポートにしたもの。後にこれらの一部は博士論文となり、シカゴ大学出版局より公刊されていった)の産出を促した人物である。都市社会学(人間生態学)の創始者としても有名。この2人の指導のもと、数多くのシカゴ・モノグラフが生み出された。一方オグバーンは、彼ら2人の後にコロンビア大学から赴任(1927年)、それまでシカゴ学派に欠けていたとされる「統計的・数量的調査法」の開発・教育に努めた。「文化遅滞」cultural lag説の提唱者としても有名。
 第3世代・・・第2世代の教え子で、シカゴ大学のスタッフになった人物である。H.G.ブルーマーとE.C.ヒューズはそれぞれ「シンボリック相互作用論」の創始者に、L.ワースは、パーク・バージェスによって築かれた「都市社会学」urban sociology--生物学・植物学における生態学を人間社会に応用したところから、人間生態学human ecologyとも呼ばれている。人間に関する棲み分け理論みたいなもの--の発展に貢献した(有名な論文に「生活様式としての都市化」がある)。
 第4世代・・・第3世代の教え子ではあるが、主としてシカゴ大学から離れて活躍した人々。H.S.ベッカー(ラベリング理論)、A.L.ストラウス(医療社会学)、E.ゴフマン(自己呈示論)、T.シブタニ(流言、準拠集団論)、R.H.ターナー(役割論、役割形成論、自我論)など。
 第2世代までを「初期シカゴ学派」と呼び、第4世代以降を「第2次シカゴ学派」「ネオ・シカゴ学派」と呼んだりもする。

■初期シカゴ学派の問題関心
 一口に言えば、当時、眼前のシカゴに噴出していた種々の社会問題、とりわけ移民の問題(人種葛藤)にその関心が向けられていた。
 1850年代から1920年代にかけての間、アメリカは、諸外国からの移民の大量流入に見まわれる。とりわけシカゴ市の場合、「1850年から1860年にかけてのシカゴの人口増加のほぼ半数は、外国からの移民によってもたらされたものであった」と言われている(H・W・ゾーボー、吉原直樹・桑原司他訳、『ゴールドコーストとスラム』、ハーベスト社、20頁)。
 おおざっぱに描写するならば、移民たちは、南欧・東欧・西欧・北欧からもたらされたものであった。初期移民は主として、西欧・北欧からもたらされ、彼らは「旧移民」と呼ばれている。それに対して、その後にやってきた南欧・東欧からの移民は「新移民」と呼ばれる。前者は、アイルランド・イギリス・ドイツ・スカンジナビア諸国など、後者はロシア・オーストリア=ハンガリー・イタリアなどを指す。
 旧移民が、主として、英語が話せ、プロテスタントを信仰していたのに対して、後者の新移民たちは、英語が話せずプロテスタントを信仰していない人々(カトリック系)が主流であった。
 後者の新移民がシカゴを含め、アメリカの諸大都市に大量に定着する構図が、1890年頃に成立することになる(中野正大・宝月誠編、2003年、『シカゴ学派の社会学』、世界思想社、第2章第1節、参照)。
 1920年代まで、シカゴを含め、アメリカの諸都市は、多様な社会的・文化的背景を持つ移民たちが流入し成長を続けることになる。とはいえ都市は、「人々の特徴を溶かして均一化する『坩堝るつぼ』」にはならず、類似した者同士の集住によって(「凝離」)、「小世界のモザイク」を構成していった(たこつぼ状態。つまり互いに混ざり合わなかった)。各移民ごとに「コロニー」(移民街、「集住地区」)が作られ、各コロニーは、近接して作られていたにもかかわらず、互いにコミュニケーションを絶っている状況にあった(「物理的距離と社会的距離の不一致」)。
 1920年、シカゴの全人口270万人のうち、外国生まれの人口は以下の通り。
 ポーランド・・・14万人
 ドイツ・・・11万人
 ロシア(ソビエト)・・・10万人
 イタリア・・・6万人
 スウェーデン・・・6万人
 アイルランド・・・6万人
 チェコスロバキア・・・5万人
 イギリス・・・4万人
 オーストリア3万人
 こうした状況の中、当時のシカゴでは、様々な社会問題が生じていた。とりわけ、それは「人種葛藤」として現れることが多かった。
 アメリカ白人集団・旧移民v新移民(及び農村部からやってきた黒人)
という構図が顕著に見受けられた。
 初期シカゴ学派の人々の関心は、自ずと、「言語、価値観を異にする者同士の相互適応は如何にして可能か」、換言するならば、相互に異質なパースペクティブを持つ人々同士の健全なコミュニケーションは如何にして可能となるのか、という問題に向けられることとなった。
 別様に表現するならば、
  「移民のアメリカ社会への適応は如何にして可能か」
  「(新)移民をも包摂した新しい社会秩序の建設は如何にして可能か」
 に向けられていたと言える。
 パークとバージェスは、アメリカでもっとも良く読まれた社会学の教科書である『科学としての社会学への誘い』1921--初版はハードカバーで緑色のクロスをしていたため、『グリーン・バイブル』とも呼ばれた。1000ページを超える大部の書物--を執筆、この書において異質な人々が相互融合へと至る道筋を理論化した。
「競争」(相手を意識しない相互作用。経済的要因に基づく棲み分け過程)→「闘争」(相手を意識した敵対的相互作用)→「応化」(闘争の結果としてある一定の社会関係、例えば上下関係・支配服従関係などが形成される段階)→「同化」(ある一定の文化を共有し異なる人々が相互に融和する段階。←G.ジンメルの影響(「心的相互作用」としての社会。「社会化」Vergesellschaftungの「形式」)

「競争」の具体例
当時のシカゴの状態(バージェス作成の「同心円地帯理論concentric circular zone」より)
 →各種の人々の棲み分け(「凝離」segregation)状況。この棲み分けは、主としては、所得などの「経済的要因」によって決定される。植物生態学との類比で作成されたもの。パークの言う「競争」の段階を通じて、この棲み分けが決定される。シカゴにやってきた移民はまず、遷移地帯に流入する。そこで先住の移民たちが形成している「移民コロニー」でお世話になる。お金を稼ぎにシカゴにやってきたのだから、まだお金を持っていない。そこで交通費がかからない、通勤するのに車など必要ないこの場所が必然的に最適の場所となる。裕福になればなるほど、同心円の外側へと旅立っていく。その意味で、遷移地帯は「仮の宿」。とはいえ成功しなかった人々はそのままその遷移地帯にとどまり、そこに沈殿していく。コロニーを維持・継承するか、別のコロニー(スラム・暗黒街)に流れていく。
中央業務地区central business district・・・「ループ」と呼ばれる。工場や高層ビルなどの産業施設が建ち並ぶ。工場街、オフィス街。
遷移地帯・・・絶えず新しい人々がやってきては、絶えず出ていく地域。成功した人々は絶えずさらに外側の地域へと移動し、成功しなかった人々が沈殿していく地域。暗黒街・スラムが形成されるのもこの地域。この地域には他に、主として独身者向けに家具付きの貸部屋を日貸し・週貸しで提供する「貸部屋furnished room地区」が作られている。治安は良くない。裕福な人々ほど、同心円の外側、外側へと出ていく傾向にあった。
労働者住宅地帯・・・遷移地帯から脱出したものの、なお勤務先に便利なところにすむことを望んでいる工業労働者の住宅街
高級住宅地帯・・・文字通りの場所。最高級地帯。白人専用住宅地があるのもこの一帯。
通勤者地帯・・・通勤時間が(鉄道?、自動車?)で30~60分の地域。比較的裕福な人々が住んでいる。
 そうした彼らがほぼ一様に着目したのが、シカゴに住む人々のパースペクティブから見た社会的・物的環境(=シカゴ市各地区)、すなわち彼らの「意味世界」であった。
■意味世界の重視
 意味世界とは・・・個々人のパースペクティブによって「類別化」された世界を指す。
同じ物理的空間に存在していても、異なった意味世界に住んでいる可能性が高い。人間というものをそうした存在としてシカゴ学派は捉えていた。
 ↑どういうことか?↓
 例えば図書館という物理的空間をあげてみよう。「図書室の閲覧者にとってはその場所は静かに読書をする場所であるのに、図書館に工事に来て、はばかることなくかけずり回る職人にとっては、そこは工事の現場でしかない」。→類別化の違いは異なった意味世界(読書の場所/工事現場)を生み出し、異なった意味世界は、異なった行動パターン(静かに読書/かけずり回る)を生み出す。
 移民たちは--言語(パースペクティブ)・価値観・習慣などが互いに異なっているが故に--、同じ物理的空間に存在していても、異なった意味世界に住んでいる可能性が高い。
 、というようにシカゴ学徒たちは考えた。シカゴ学派のこうした現実把握は、第2世代の指導のもと数多く産出された「シカゴ・モノグラフ」として具体化されていく。
■シカゴモノグラフとは
 第2世代パーク・バージェスの指導のもと、シカゴ大学の大学院生たちによって陸続と「シカゴモノグラフ」が公刊されていく。シカゴモノグラフの産出に際しては、とりわけパークによる参与観察法の推奨が大学院生たちに強い影響を与えていた。
 パークは、自らがもともとジャーナリストであったということ、また自分の娘婿である有名な文化人類学者R・レッドフィールドと共同研究をしていたということもあり、ことのほか参与観察(別称「フィールド・スタディ」「フィールドワーク」)、すなわち、「実際の観察に基づく調査研究の重要性、第1次資料--ちなみに文献の類などから収集された資料は第2次資料と呼ばれる--の収集の必要性」を重要視した。
 参与観察とは・・・広義には「観察者がある一定の期間、・・・・研究対象となる人々の世界に参与して、そこで生じた事柄を観察し、語られたことを聞き、人々に質問すること」とされている。とはいえ、細かく見るならば、そのあり方(やり方)は、観察者のあり方の如何によって以下の四つに分類されるとのこと(中野・宝月編、2003年、『シカゴ学派の社会学』世界思想社、19頁)。
 1)完全な参与者(complete participant)・・・調査者が自分の正体や調査目的を隠してできるだけ自然に被調査者とコミュニケーションを営むもの。
 2)観察者としての参与者(participant-as-observer)・・・調査者・被調査者ともに自分たちの役割が調査上での関係であると自覚した上でコミュニケーションを営むもの。
 3)参与者としての観察者(observer-as-participant)・・・戸別訪問調査のような一時的・表面的な接触による調査。短期的にも長期的にも一緒に生活を営むわけではない。いわゆる訪問形式のアンケート調査。
 4)完全な観察者(complete observer)・・・調査者は被調査者と全く接触を持たない形で調査を行う。これは厳密には参与観察とは言えない。いわゆる「郵送-返送調査」のことだろうか?
 パークとバージェスという2人の第2世代の指導のもと、シカゴ大学の大学院生たちは、眼下のフィールド(調査対象地)としての「シカゴ市」の様々な地区を調べ上げ、都市に生きる人々の生態について数々の調査研究を行った。その数々の調査研究は、当初は学期末ごとに提出する研究レポート(「term paper」)となり、やがて、修士論文→博士論文へとまとめ上げられ、その多くがシカゴ大学出版局から公刊された。それが「シカゴ・モノグラフシリーズ」である。ちなみにその邦訳については、ハーベスト社というところから5巻(既刊は3巻)公刊されている。私も1冊共訳で訳している(H・W・ゾーボー『ゴールドコーストとスラム』)。ちなみに「モノグラフ」とは、端的に言うならば、「分析の施された調査報告書」。
■W.I.トーマスの「社会解体論」
 F.ズナニエッキとの共著『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(1918-20)が有名。公刊当初は5巻本。後に(1927年)全2巻で再版。膨大な質的データ(「ヒューマン・ドキュメント」human document)を駆使して、19世紀末から20世紀初頭にかけてのポーランドの農民社会とアメリカのポーランド移民社会を研究したもの。当時のポーランド移民のアメリカ社会への不適応な大きな社会問題となっていた。
 当時のアメリカの社会学の大きな二つの流れ
 1)実証無き、思弁的な社会進化論(H.スペンサー)・・・・壮大な理論を構築し、一つの理論ですべての社会を説明しようとするもの。個々の社会の固有性が犠牲にされる。
 2)理論無き、実証研究(ピッツバーグ調査などの社会踏査)・・・・概念や理論抜きで、調査を行い、その調査に極めて常識的な分析のみを加えたもの。何か「問題」が見つかったとしてもそれに対する対処法が編み出せていなかった。たとえばスラムの住人の視点を無視して、調査者の基準によって「劣悪な状態が問題を生じせしめる」と結論したとする。とはいえ、よそ者にとっては乱雑で不潔な場所でも、当の住人たちにとってはひょっとすれば住みよい何も問題のない場所かもしれない。
 上記の『ポーランド農民』は、1)2)の欠点を克服しようとしたもの。
 実際に暮らす人々(研究対象)が「何を考え、どのように行動し、その結果何が起きたのか」が分かる「資料」を収集し、その資料を適切に解釈する「概念」を用意し、場当たり的な解釈(概念の適用)を避けるために、その概念群に一貫性を与える「理論」を装備した、当時としては画期的な実証研究。
1)通底する理論枠組みとしての「個人と社会の相互作用」
 個人と社会は、互いに依存しあっており、それぞれ独立して存在することは不可能。それ故、社会(の変化)を説明するためには、両者の影響関係に注目しなければならない。社会が個人を規定する側面のみならず、個人が社会を規定する側面も考察しなければならない。
2)「態度」と「価値」
 態度・・・「社会的世界において、実際のあるいは可能な個人の活動を決定する個人の意識過程」
 この意識過程は個人の内部に存在するだけでは態度にはなり得ない。それが外部にある何らかの対象に向けられ、その対象に対する個人の活動を生み出す状態になってはじめて態度となる。
 価値・・・態度の対象となるもの。「ある社会集団の成員たちが接近しうる経験的な内容を持ち(五感で把握可能。共有が可能。)、実際のあるいは可能な活動の対象との関連から意味を持つあらゆるもの」
 たとえばお腹が空いたとする。しかし「とりあえず寝るか」という活動が生じた場合には、この「空いた」という意識過程は態度にはならない。「空いた」→「そばを食べる」という活動に結びついたとき、その意識過程は態度となる。
 他方、価値とはただ単に物理空間上に物質的に存在しているだけでは価値たり得ない。人々の態度が向けられ、そこに一つの意味が発生したとき、その存在物は価値たり得る。目の前に「蕎麦」と「ラーメン」がある。お腹の空いた桑原がラーメンを選択した場合、ラーメンは価値となるが、蕎麦は価値にはならない。
 意味は人によって異なる。目の前に焼酎が3合残っている。桑原からすると「もうこれだけしかないのか?」という意味を持つ。とはいえ、お酒の弱い人ならば「まだこんなにある!」という意味を持ちうる。桑原は「残りが少ないから、薄めで呑もう」という活動に出るが、後者の人は「まだまだあるから、思う存分呑もう!」とがぶがぶ飲むかもしれない(かなりたとえに無理がある)。
 お酒を飲みたい(態度)→目の前に3合の焼酎がある(価値)→「ちびちび飲もう(と決定)」(「状況の定義」)。人々が具体的な活動に先立って態度と価値のペアを作る営みを「状況の定義」という。
3)社会解体と個人解体
 トーマスの学問体系は、態度を研究する社会心理学と、価値を研究する社会学の二部門に分かれる(無論、相互に連関しあっている。)
 社会解体論は彼の社会学の分野の理論に相当する。
 人間は1人で生きていくことは出来ない。何をするにしても複数の人々からなる集団が必要となる。そうした集団の中で生きる以上、勝手気ままな振る舞いは許されない。何をして良いか、何をしてはいけないか(何を我慢しなければならないか)、それを決めるための「規則」がそうした集団の維持及び個々人の生活条件の成立には必要となる。すなわち、人とともに同じ目的を達成するために、何を我慢してどのように振る舞うべきかを指示する活動方針(状況の定義の指針)が不可欠となる。こうした規則は、人々がそれを認めている限りにおいて効力を持つ。すなわち、規則もまた、人々の態度の如何に依存する価値の一つなのである。
 1人で生きることの出来ない人間は、家族・部族・共同体・国家といった様々な集団を形成する。こうした集団にはそれぞれ規則の体系があり、人々がその体系を是認している限りにおいて、規則は規則たり得、個々の集団は存続が可能となる。こうした体系化された規則の束は「社会制度」と呼ばれる。社会制度には様々なものがある。家族制度、学校制度、企業(制度)、医療(制度)・・・・。こうした複数の社会制度によって成り立つ全体(制度)を「社会組織」という。
 ところで、既存の社会組織は永続的に存続し続けるものではない(永久不変のものではない)。ある規則体系が人々からの是認を失えば、別の規則体系に作り替えられることも当然ある。そうした「作り替え」は、大規模なものから(大政奉還)、比較的小規模なもの(離婚)に至るまで様々なものがある。また一部の人々が規則を無視する部分的なものもあれば、大多数が無視する全体的なものもある。こうした「作り替え」という現象を指して「社会解体」(行動に関する既存の社会的規則の、集団の個々の成員に対する影響力の減衰)と呼ぶ。
 さて、社会解体が生じると、一時的に当該社会が不安定な状態となる。人々は再び安定を求めて、次の二つのうち何れか(あるいは両方)の行動に出る。そのうちの一つは既存の規則を再強化し、再び同じ安定状態を生み出そうとする行動、もう一つは新たな規則に基づいた新たな安定を生み出そうとする行動である。この二つの現象を「社会再組織(化)」と呼ぶ(とりわけ後者は「社会再構築」と呼ばれることもある)。刑罰の強化/フランス革命
 人間は社会が不安定な状態では、自らの不安定を来すことがある。必ずそうなるというわけではないが、そうなる場合が多い。「自分の根本的な諸関心を、効率的・発展的・継続的に実現するために〔その個人の〕生活全体を組織化する能力」が衰退する現象を「個人解体」と呼ぶ。

■ミードとアメリカ社会
1)当時のアメリカ、とりわけシカゴの状況(1850年代から1920年代)
 一言で言うならば、melting potの状態からsalad bowlの状態に移行した時期です。つまり、海外からアメリカへ流入してくる移民たちがアメリカ社会の中に溶け込んでいっていた状態から、モザイクのように棲み分けを行いはじめた時期に相当します。
原因・・・「新移民」から「旧移民」へと移民の主流が変わった。
 新移民・・・うまく先住のアメリカ白人と混ざり合ってくれた。
 旧移民・・・混ざり合わず、互いに葛藤する状況が生まれた。それぞれの移民コロニーに「棲み分け」する状況が出現し、コロニーの境界上では「人種葛藤」が頻繁に起きていた(吉原直樹・桑原 司他訳、1997年、『ゴールド・コーストとスラム』、ハーベスト社、第2章を参照されたい。)。
 こうした状況を鑑み、二人の思想家が、アメリカ社会とりわけ白人社会に対してある「倫理的要請」を提言しました。C.H.クーリーとG..Hミードがそれに他ならない。

2)クーリーの見解
 人間とは本来的に、等質な存在であり--つまり、頭の中身が比較的似通っている、ないしは思考回路が個々人でそれほど異ならない、ということ。--、従ってどんな人々も「分かり合えるものだ」という前提が彼の思想の根底にはありました。その根拠が「第1次集団」に他ならなりません。
 ※第1次集団のなかでは、「民主的な協同が営まれ、暖かい共感が支配的である」。
 ※確かに世の中には様々な文化・慣習・言語を持った人々や社会がある。
 ※とはいえ、どの社会にも必ず、第1次集団が存在するはずである。とりわけ「家族」が存在するはずである。
 ※どの社会でもおそらくは人々は、まずこの第1次集団において基本的な価値観や理想を習得することになる。
 ※従って、どの社会に暮らす人々も、必ず「我々アメリカ人」と「同じ部分」を持っているはずだ。
 このようにクーリーは考えました。
とはいえ、
 欠点・・・確かにどの社会にも第1次集団は存在するかもしれない。しかしそこでは必ずしも同じ「価値観」や「理想」が育まれているとは限らない。この辺をクーリーは見落としていたわけです。
 一言で言うならば、クーリーの提言は「異質な人々のなかに共通部分を見つけよう」というものでした。
 とはいえ、この世界には、とうてい「アメリカ人」には理解不可能な価値観を有した人々が多数存在しております。もしそうした人々のなかに「同じ部分」を見いだすことができなければ、彼らは「非人間(人間にあらざるもの)」として扱って良いということになってしまいます。この考え方は、クーリーの思惑とは裏腹に、逆に、人種差別を促進し、人種葛藤を激化させる思想となりかねません。
 クーリーの考え方は、いわゆる「アメリカ中心主義」です。アメリカ的徳目(勇敢・親切・女性に対する優しさ)と一致したが故に、その人は「良き人間」と見なされ得る、という発想です。逆に一致しなければ、一致していない人々が「悪い」という形になってしまいます。
 クーリーは終生、アンアーバーという静かな町で暮らしていました。一度もシカゴに赴くことの無かったクーリーには、当時のシカゴの人種葛藤状況というものがよくわかっていなかったようです。
 ところが喧噪渦巻くシカゴで暮らし教鞭を執り、社会活動を活発に行っていたミードは違いました。彼にとって「人々」とは、「基本的に異質な存在」として捉えられていました。
3)G.H.ミードの思想
 一言で言うならば<<「他者の他者性」を認識することが重要だ>>、という思想です。
人間とは本来、どんなに「似通って」見えても、本質的には「異質な存在である」、こうミードは考えたわけです。
 では、互いに異質な人間が仲良くやってゆくためには、どのような「姿勢」が必要なのでしょうか?そこでミードが提示する「要請」が、「科学的方法のコミュニケーションへの適用」という提言に他なりません。
科学Science・・・大別して近代科学と前近代科学の二つに分けられます。
 前近代科学の目的は、人間の世界および自然界「全体」を説明しうる「絶対的な理論」を構築することにありました。
 まず最初に壮大な理論があって、その理論から様々な「分類枠(カテゴリー)」が導き出され、その分類枠に収まる現象のみが「正常な現象」として取り扱われました。収まらないものは「異端な存在」あるいは「何らかの原因でそうなった」「異常な存在」と見なされ、「例外」という枠に位置づけられることになっていました。
 近代科学の目的・・・「ある特定の領域」に関する「仮説的な理論」を構築することにあります。
 およそ人間には、この世界全体についてすべてを説明する理論の構築など、どだい無理なことです。
 そう考えることは人間の傲慢に他ならない、とミードは考えます。
 科学者が行うべきことは、この世界のある特定の部分に関して「仮説」をたてることでなければならない、こうミードは考えていました。
 「仮説」である以上、それに対する「例外的な実例」が発見されたならば、科学者は積極的に、その実例をも包摂して説明しうる新たな仮説の形成に着手しなければなりません。
 否、科学者は、常に自らの仮説に対する実例(=反証事例)を積極的に探し回り、絶えず仮説の再形成を試みなければならない。これがミードの考える「近代科学の姿」に他ならなかったのです。
 こうして科学理論は発展してゆく、このようにミードは考えていました。http://space.geocities.jp/isssn03890104no54/kuwabara2003a.htmの「自然的探求」の章をご覧ください。
4)科学的方法のコミュニケーションへの適用
 科学者は自らの理論(仮説)に対する例外的実例を積極的に探し回り、それをふまえた新たな仮説の形成を試みることで、様々な分野で様々な理論を発展させてきました。これは歴史が教えるところです。
 この発想はそのまま当時のアメリカ社会にも当てはまるのではないか、とミードは考えたわけです。
 当時のアメリカ社会にとって、「旧移民」はまさしく<<「アメリカ社会」にとっての「例外的実例」>>でした。
 であるならば、この例外的実例たる旧移民を異質なものとして排斥するのではなく、むしろ「アメリカ社会(の文化)」(という理論)の発展をもたらす「種」として積極的に受け入れていくべきではないだろうか。このようにミードは考えたのです。
 そのためには、「アメリカ社会」の「一人一人」が、「近代科学者」の「姿勢」でもって、この旧移民の人々と接していかなければならない。自らの抱く価値観や理想を絶対的なものと見なすのではなく、一つの「仮説」として捉え、この旧移民をも包摂して説明しうる新たな「仮説」を作らなければならない。こうした地道な努力の積み重ねが「アメリカ社会」という「理論」の「発展」を促すはずである。
 これがミードが当時のアメリカ社会の人々に発した提言でした。
 上記のミードのコミュニケーション理論は、「存在」というよりも「当為」に力点を置いたものでした。「実際にはどうなのか」ということよりも「どうあるべきか」に焦点が当てられています。この発想を「存在」のレベルで捉え、コミュニケーション理論の新たな展開を促したのが、私が専門にしている、ハーバーと・ブルーマーという人の「シンボリック相互作用論」(Symbolic Interactionism)に他なりません。
 ブルーマーのシンボリック相互作用論について
「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」
 こうした前提のもとに彼は以下のようなコミュニケーション理論を提起しました。


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