疾走する神戸製鋼のSO平尾誠二。神鋼が7連覇を達成した=東京・秩父宮ラグビー場で1995年1月8日
ラグビー担当記者が見た「ミスター・ラグビー」
ラグビーの神戸製鋼で日本選手権7連覇に貢献し、「ミスター・ラグビー」と称された平尾誠二さんが20日、53歳で亡くなった。かつてラグビー担当記者として、何度も平尾さんにインタビューをさせてもらった。53年の短い人生を惜しみつつ、印象的なエピソードと言葉をつづりたい。【落合博】
ともに日本代表でプレーした林敏之さん(56)、大八木淳史さん(55)の両先輩とは異なる雰囲気を漂わせていた。華麗という形容が似合うプレースタイルと、端正な顔立ちはまぶしかった。
3人は「林、大八木、平尾」と並び称され、その輝きは1980年代後半から90年代前半にかけてのラグビー界を照らしていた。
同志社大、神戸製鋼と同じ道を歩んだ3人は、必ずしも仲がいいようには見えなかった。舞台の上では息のあった芸でお客さんを楽しませるが、出番が終わったら、素知らぬ顔をして別々の家に帰っていく漫才コンビみたいな関係だったと思う。林さんによると、「平尾ジャニーズ事務所、大八木軍団、林興業新喜劇」と言ったのは大八木さんだった。
英国留学を経て神戸製鋼に入社した当時、平尾さんは「フリーマン」になりたいと思っていた。その真意を尋ねると、「昔から強制されてやるのが嫌なんです。僕をフリーに動かせてくれたら、チームや組織にとって最大、最高のパフォーマンスをする自信がある」と話した。
目指したのは個人技をベースにしたラグビーであり、平尾さんの言葉を借りれば「脱日本」だった。作戦を考えて、そこに個人をあてはめるのではなく、今いる個人の力を最大限高めたうえで試合ではその判断に委ねる。
連覇を続けていたころの神戸製鋼は「型にはまっていないラグビー」と言われていた。支えたのは平尾さんをはじめ多くの「フリーマン」だった。
流れを見つけ、読み取って、その流れに身を任せる。試合に限らず、人生の転機に立った時、平尾さんはそんな選択をしてきた。流れにあらがわず、かと言って、流されることもない。自然体の生き方とでも呼んだらいいのだろうか。
病に倒れたのは、その流れなのかもしれない。