皇后さまは20日、82歳の誕生日を迎えられました。皇后さまは誕生日にあたり、記者の質問に対して、この1年を振り返りながら文書で回答を寄せられました。
この中で皇后さまは、天皇陛下が8月にビデオメッセージでお気持ちを表されたことについて、「現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました」と述べられました。
続いて、「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」と記したうえで、「ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした」と振り返られました。
皇后さまは、また、熊本地震などの自然災害を挙げながら、自然の歴史にはある周期で平穏期と活性期が交互に来ると言われるとしたうえで、「今私どもは疑いもなく、その活性期に生きており、誰もが災害に遭遇する可能性を持って生活していると思われます」と述べられました。
そして、「皆が防災の意識を共有すると共に、皆してその時々に被災した人々を支え、決して孤独の中に取り残したり置き去りにすることのない社会を作っていかなければならないと感じています」と記されました。
ブラジルのリオデジャネイロで開かれたオリンピックとパラリンピックについては、「健常者、障害者を問わず、優れた運動選手が会心の瞬間に見せる姿の美しさには胸を打つものがあり、そうした写真の幾つもを切り抜いて持っています」とつづられました。
さらに、心にかかることの1つとして、視覚障害者の駅での転落事故が引き続き多いことを挙げ、「事故の原因をホーム・ドアの有無のみに帰せず、更に様々な観点から考察し、これ以上悲しい事例の増えぬよう、皆して努力していくことも大切に思われます」と記されました。
皇后さまの誕生日に合わせて、天皇陛下と皇后さまが小学生の時の教科書を懐かしくご覧になる映像が公開されました。
映像は天皇皇后両陛下のお住まいの御所の応接室で撮影されたもので、天皇陛下が学習院初等科で使っていた教科書を手に取り、皇后さまと会話をされる様子が映っています。
テーブルの上には国語の教科書が置かれ、このうち、「サイタサイタサクラガサイタ」と書かれたものは、天皇陛下が1年生の時に、また、和歌や源氏物語が載せられた教科書は、6年生の時に使われたものだということです。
中には、戦後、GHQ=連合国軍総司令部の指示により、文字の一部が墨で塗りつぶされたものも見られます。
宮内庁によりますと、天皇陛下と皇后さまは、小学2年生から6年生まで同じ教科書を使っていて、ふだんの会話の中で、教科書にあった言葉や物語を懐かしく思い出すこともあるということで、この日も当時を回想しながら言葉を交わされていたということです。
今上天皇は、これまでの伝統を守りつつも、時代の流れに合わせて柔軟に対応される姿が数多く見受けられ、歴代の天皇の中でも偉大な天皇陛下との呼ぶ声も高い。
陛下を影に日向に支えてきた皇后さま。
心から陛下に文字通り身を以って尽くすエピソードがあります。
**日本愛ページより転載**
平成4年(1992年)に山形県で行われた第47回国民体育大会(山形べにばな国体)、開会式でのことです。開会のお言葉を述べられる今上陛下、その隣には皇后陛下がお立ちになられています。
そこへ突然、競技場内のトラックから男が駆け寄り、「天皇訪中反対」「天皇は帰れ」などと叫びながら両陛下のいらっしゃるロイヤルボックスに向かって発煙筒を投げつける事件が発生しました。(当月に両陛下には中国ご訪問のご予定がありました)
男が動き始めたそのとき、皇后陛下はすぐさま異変を察知されます。
そして一瞬のご判断で、皇后陛下は一切の躊躇なく右手を今上陛下の前へ伸ばして、陛下を庇われたのです。
幸いなことに発煙筒が両陛下の近くまで届くことはなく、今上陛下のお言葉が中断することはありませんでした。
事態が大事に至らないとご判断された皇后陛下は、すぐにお手を下ろし、何事もなかったかのように元のご姿勢に戻られます。
皇后陛下が異変にお気づきになってから、右手をお伸ばしになり、元のご姿勢に戻られるまでの時間はなんとわずか4秒。一瞬での的確なご判断と、それを実際に行動に移すご瞬発さ、さらには開会式の場を騒動にしてしまうことなく、すぐに平時の微笑をお湛えになる平常心、どれをとってみても感服の極みです。
今上陛下もまた、お手元の文面をお読みになりつつも、視線を前方へ向けたりされていたので、暴漢の登場にはお気づきになっていたのかもしれません。しかし、何ら動揺されたご様子をお見せになることもなく、粛々とお述べになり続けておられました。
あとにもさきにも、このようなことはこのとき限りと思いきや、実はさらに時を遡り、今上陛下が皇太子だったころにも、命を狙われる事件があったのです。
昭和50年(1975年)、沖縄でのことです。この年に開催された沖縄海洋博覧会にご出席のため、皇太子殿下と妃殿下(当時)沖縄県に初めてお入りになります。これは終戦後初の皇族による沖縄行幸啓ということもあり、来沖に反対する過激派による抗議活動が懸念されていました。
糸満市にあるひめゆりの塔に慰霊に向かわれた両殿下。献花台に花を手向け、案内役のひめゆり同窓会の源ゆき子氏の説明を熱心にお聞きになっていたそのとき…
「ひめゆりの壕」内に潜んでいた過激派が至近距離の殿下へ向けて火炎瓶を投擲。幸いにも殿下に直撃することはなく、献花台に当たり炎上しました。
当時の警備責任者であった警察庁警備局警備課長佐々淳行(さっさあつゆき)氏は現場で全てを見ていたうちのひとり。火炎瓶が投げられた瞬間、妃殿下が皇太子殿下の前にサッと半歩お進みになり、やはり片手を殿下の前に伸ばし、身を挺して守ろうとされたのを目撃されていました。そのあとすぐ警護の警官に囲まれて両殿下は避難されますが、妃殿下はその際に打撲を負ってしまわれます。
この沖縄行啓は妃殿下のご不例(体調不良)の身をおして実現したものでした。炎天下の沖縄で芳しくないご体調のなか、それでも6か所の戦跡をお巡りになられ、暴漢に襲われる事態にまで及んだにもかかわらず、妃殿下はひとことの不平をもお漏らしになることすらなかったといいます。
**終了**
私たちは世界最高権威であり、祭祀王である天皇陛下のご存在があるからこそ日本人であるのです。
何千年もの長き間に渡り、脈々と続く皇室の伝統を守り、その根底とも言える国民の幸せを何より願い、毎日祈り続けてくれています。
その陛下を支える皇后さまもまた、私たちの国母であるのです。
天皇皇后両陛下を目の前にした多くの人が、感無量と感じ、涙を自然と流す事もあります。
私たちが皇室を守り、天皇皇后両陛下を支えているのではなく、そのご存在に私たち日本国民が支えられ、生かされているのです。
*画像は、第47回国民体育大会山形大会の開会式で右手を伸ばされ今上陛下をお庇いになられた瞬間のお写真。
すめらみこと 弥栄
心よりお祈り申し上げます