「モデル上がりの女優」「ライター上がりの作家」
「モデル上がりの女優」という言い方を躊躇なく使えるのは、モデルよりも女優が上位にいると皆が認知しているからであって、そこに「AV落ち」なんて言葉をぶつけてみると、人様の上下降を職種で判別しているのだから、私たちったらすこぶる適当である。ライターを名乗る自分の身に置き換えるならば「ライター上がりの作家」や「作家くずれ」なんて言い方が用意されるが、途端に「別に作家に上がろうとする気はないし、そもそも作家様から下った場でライターをやっているつもりなどない」とすっかり機嫌を損ねてしまう。「モデル上がりの女優」という言い方に対しては、女優に上がった元モデルも、女優に上がっていないモデルも、その都度機嫌を損ねているのではないか。
モデル上がりの女優は「演技がヒドい」と言われがちだ。劇団出身の女優は「演技が上手い」と言われがちだ。確かに多くの場合においてそのテーゼの通りではあるのだが、人様の上下降を職種で判別する私たちは、実際にその演技を見る前から、あらかじめ減点や加点を済ませてしまう。モデル上がりの女優、本田翼と山本美月がW主演を務めた新作映画『少女』を観に行ったのだが、個々人が抱える安直な闇が「これが伏線となりますので!」とシーンごとに声高に主張され続ける映画で、「それって伏線と言えるのかしら」と首を傾げてしまった。言葉としては矛盾するけれど「単純な複雑構造」がなかなか苦しかった。でもそれは観る前に済ませておいた減点が影響しているのかもしれない。
困るシーンでめっちゃ困り、泣くシーンでめっちゃ泣く
それなりの期間、本田翼の演技を見かけてきたけれど、この人は、いつもその役やシーンに要請されている一つの感情のみを直接的に演じていく。悲しむべき時に悲しむ。驚くべき時に驚く。疑うべき時に疑う。冷たい目をすべき時に冷たい目をする。モデルから女優に上がれば、挨拶がわりに「大根役者」方面の悪口を投じられるわけだが、普通、それをかき消そうとするために、要請されている感情以外の部分をオリジナルで持ち込もうとする。それを一切せずに突っ走ったのは『特命係長 只野仁』に出た蛯原友里くらいだ。
オリジナルで持ち込もうと試みる反復がモデルを女優に「上げさせる」のだろうけれど、本田翼は要請されている感情以外をさほど投入しようとしない。困るシーンでめっちゃ困り、泣くシーンでめっちゃ泣く。『少女』では本田が演じる女子高生が書き上げた小説が物語のカギとなるのだが、その小説を書き上げた時、とにかく「書き上げた!」という演技をする。もう、小説を書き上げた以外の何ものでもない演技をする。で、これを「下手」というまとめ方で済ませていいのかどうか。
下手に上手な女優を使うよりも
ドラマ『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』については、それなりの期間を書籍編集者として過ごした人間からすれば突っ込みどころは満載だが、こちらを納得させるリアリティなど不要だし、ドラマを作る側はハナからそんな突っ込みなど想定済みで無視している。そのスタート地点すら把握せずに「超有名作家と食事に行くシーンなども出てきますが、あまりに現実離れしすぎていて、放送事故レベルにも思えます」(50代校閲者・「Business Journal」記事内コメント)とコメントしてしまうドヤ顔の恥ずかしさったらない。現実との乖離をすぐさま「事故」と称する見識こそ、事故っている。尖った赤鉛筆を口元に寄せるポスター写真で、例のごとく唇を強調させられている石原さとみに向かって、「それ、危ないですよ」と伝える程度に留めるべきだろう。
このドラマで本田翼は、石原演じる校閲者・河野悦子が憧れる雑誌「Lassy」の編集者役で登場している。もちろん、感情の出し方はシーンごとに1種類。疲れている。困っている。喜んでいる。ト書きにある指示をそのまま体現したような直接的な演技だが、この手のスピーディーに進んでいくコメディドラマには適役とも思える。副編集長から新しい男性モデルを探してこいと迫られた後、金に困ったイケメン大学生(菅田将輝)をモデルとして育てるべく自宅に住まわせるのだが、彼にモデルウォーキングを教えるシーンがあった。この時だけ、本田はやたらと意気揚々と演技をする。いつもの1種類ではなくなる。バリエーションがある。
校閲という仕事からいくつもの事件を発生させ続けるドラマに求められるのは、その場を賑やかす為のハッキリとした演技であって、石原も本田もそれを理解している。言葉遊びのようだが、下手に上手な女優を使うよりも、そのシーンの目的にひた走る一本調子な演技が求められている。日頃の仕事でもあるモデルウォーキングのシーンだけ、ドラマの狙いから逸れるように豊かな演技を披露した本田翼を見かけると、むしろ日頃、1種類の演技にひた走っているのって稀有な演技力なのではないかという気もしてくる。
モデルから上がらない女優
女性誌が繰り返す「着回し1ヶ月コーディネート」企画に添えられているエピソードの文章が好きで、しょっちゅう読んでいるのだけれど、例えば本田翼が表紙を務めた『non-no』(2016年11月号)を開いてみれば「day13 図書室で資料を探していたら、ふと視線を感じて。あれ?先輩だ!」といった1日が捕獲できる。こういう文章に対応するモデルの表情はいつだって直接的でそのまま「あれ?先輩だ!」という表情をしている。合致しすぎている感じが外様からは少々滑稽なのだが、これは間違いなくプロの仕事で、合致すればするほど、その洋服を自然に印象づけることができる。
本田翼の演技って、こういう「着回し1ヶ月コーディネート」的なところがある。つまり、要請と瞬時に合致する演技。そしてその意図がテレビやスクリーンの前にそのまんま漏れる演技。「モデル上がりの女優」というか、むしろ「モデルから上がらない女優」のまま。「演技が上手い」って大勢でシェアするのが難しい曖昧な評価軸だと思うし、本田翼はその曖昧さを直接的な演技で塗りたくっているようにも思え、その行使がもはや個性を創出し始めているようにも見えるから、それってもしかして女優としても斬新なのだろうか? 最後に疑問形なのは、断言したくないからではあるけれど。
(イラスト:ハセガワシオリ)