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やはり俺の青春が灰と隣り合わせなのは間違っている。 (コノヱ)
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やはり俺の青春が灰と隣り合わせなのは間違っている。 やはり俺の青春が灰と隣り合わせなのは間違っている。

 青春とは嘘であり悪であり──灰色である。

 別に何処かの省エネ主義のリア充主人公の話ではない。
 エセルナートと呼ばれる所謂剣と魔法(ファンタジー)の世界、そのリルガミン王国──特に狂王と名高いトレボー王の治める城塞都市──におけるほとんど全ての青少年の在り様を端的に言ってしまえばこの一言に尽きるだろう。

 嘘であり悪であるの部分は以前、リテイクと折檻と強制入部を食らった作文で説明した通りであり、例え世界が違っても大なり小なり僅かばかりの誤差はあれど、揺るぎ無い真実であると確信をもって言える事なので、ここでは灰色の部分を語るだけにする。

 エセルナート全土における職業と社会的な地位は基本的に世襲だ。リルガミン王国の王都リルガミン市然り、城塞都市然り、一部の特殊な例外を除いてこれはどこも同じである。
 貴族の子は貴族であり、職人は職人に、商人の子は商人になる。恐ろしいことに農奴に生まれてしまえば、その子供も農奴として地主の所有物(・・・)になってしまう。現代日本では考えられないことだが、この世界では割と普通だ。それどころか自ら進んで奴隷になる者までいる。労働と引き換えにして、誰かに安全と衣食住を保証して貰うのは確かに理想だよな。俺も冒険者ではなく主夫になりたかった。可能なら今すぐにでも転職(クラスチェンジ)したいところだ。
 話を元に戻すが、要するに親の世代の貧富の格差は、往々にしてそのまま子供の世代に引き継がれてしまうと云う事である。そして当然ながら裕福層のトップカーストに君臨する王侯貴族は限りなくゼロに近い小数点以下の比率でしかなく、商家や豪農、士族階級などの中産階級に当たる世帯が占める割合もおよそ日本では考えられないほどに少ない。国民の大多数が低所得層の労働者(・・・・・・・・)なのである。
 一応、世襲は強制では無く職業選択の自由らしきものも存在するが、ハローワークも無いし、ましてや求人情報誌など存在すらしない。まともな仕事を探すのは容易な事ではないのだ。エセルナート全土は就職活動超氷河期であり、少なくともリルガミン王国では実質的にステップアップ的な職種選択など存在せず、あるとすれば現状からより職業的社会水準を落とすような選択だけだ。

 故に国民は基本的に貧しい──エセルナートの若者達に突き付けられた極めて過酷な現実である。

 呑気に青春を謳歌(笑)とか言って遊んでいられる若者はとても少ない。ほぼいない。極めて一部の特権階級の子弟くらいだろう。貴族のバカ息子とかそう云った類のアレだけだ。
 薔薇色の人生とか薔薇色の高校時だ……い、ではなく青春時代か。そもそもまともな学校すら無いからな──薔薇色の青春なんて単語はこの世界では多分死語になっている。て云うか無い。そんな概念すら無いんじゃね? 俺としてはこのふざけた世界における唯一の美点とも思える事だが、当事者達にとってみれば堪ったものではないだろう。
 衣食足りて礼節を知るではないが、貧しければ十分な教育も儘ならず、おまけに学校らしきものも無いときた。まともな教養が無ければ仕官や起業など当然ながら夢のまた夢、いつまで経っても貧困から抜け出せない悪循環がこの世界では長く続いて、それが当たり前のようになっていた。
 平和で景気が良ければ少しは話が変わってくるかもしれないが、戦争、飢饉、モンスター……世情は極めて悪い。改善の兆しが無いどころか益々悪くなるばかりだ。隣の街まで総武本線の稲毛から西千葉くらいしか離れていないのに、一歩城郭から外に出れば歩いてそこに向かうだけで命懸けなんだぜ、ここは。この世界は豊かさとか幸福とかそう言った優しさが絶望的なまでに欠けている。

 将来どころか今日生きて行くだけで精一杯──エセルナートの若者達の大半が抱いてしまう現実だ。

 落魄れるのが容易いのは何処の世界でも共通だが、立身出世の困難さにおいてエセルナートと云うこの世界は、とりわけリルガミン王国はおよそ考えうる最悪な世界だと俺は断言する。ほんとに夢も希望もねぇ社会だ。
 この世界で普通(・・)に生きている限り、彼らの青春は灰色だろう。
 だが決して絶望しか無いのかと云えば実はそうでもない。辛い現実を変える事が出来るかもしれない方法は、案外簡単だ。

 兵士に志願すればいい。

 長く王国内外で戦争が続いているおかげで何処も兵士不足。志願者は基本的に出自前歴を問われずに入隊が許されるし、タダで専門的な訓練まで施して貰えるのだ。給料も出る。食事も寝床も支給される。おまけに手柄を立てれば市民権どころか正式な仕官も夢では無かった。
 この絶望的な世界にしては信じられんほど至れり尽くせりである。
 まぁ所詮一山幾らの雑兵なので、ほとんどの奴が前線送りにされて初陣で死ぬらしい。例え初陣を生き残っても三ヶ月後くらいにはほぼ全滅だそうだ。バカ高い蘇生費用を支払うだけの蓄えが仮に有ったとしても、生命力も運も低いレベル1や2の兵士なんぞ灰になってしまうのがオチである。灰からの蘇生は低所得層には事実上不可能だ。万単位のお布施など払える者はそういない。奇跡は安くないのだ。
 因みに新兵の初任給はおよそ六十ゴールド。それに装備と衣食住が付くから実質百ゴールド前後だろうか。命の値段としては破格なほど安いよな。
 兵士は基本的に使い捨て前提でこき使われた挙句、回復薬一つ買えない賃金に命をかけなければならない。それを良しとするかは本人次第ではあるが、それでもそんな兵役の方がまだまし(・・・・)に思える様な生活水準で暮らしている人々は決して少ない数ではなかった。

 ほんの僅かな希望は無きにしもあらずだが、ハイリスクのくせにリターンが割に合わないどころか、受け取るのも難しいとかブラックなんてレベルじゃねぇ。灰色どころか物理的に灰になって(死んで)るし。

 世の中そうそう美味い話は無いのだ──と、ここでオチを付けてしまっても良いのだが、実はとんでもないビッグチャンスがここトレボー王の城塞都市には転がっていた。当然、アイロニーなオチは付くけど。
 実際、件の〝美味い話〟が各地で広まるや、城塞都市には続々と人々が集まった。前途に夢も希望も無い若者達だけでなく、文字通り食い詰めた浮浪者から修練を積んだ腕に覚えの在る者まで、種族、出自、職歴、世代と実に様々な者達が噂を聞きつけ遥か遠くの国からも、この城塞都市に押し寄せた。
 最初の布令が出て既に五年以上経っているらしいが、未だ毎月百人近い人々が周辺各地からやって来る。俺もその内の一人ではあるのだが、断じて!決して!!間違っても!!!望んでここに来た訳では無いと、はっきりと明言しておく。断じて望んでなどいない!寧ろ今すぐにでも小町のいるあの懐かしい我が家に帰りたい。ほんと帰して下さいお願いします……

 てかなんで千葉からこんな死亡フラグ乱立の異世界に来なきゃならんのだ、ハチマンイミワカンナイ。今なら解る、千葉(そこ)が楽園だったと。ほんとお家帰りたい。終いには泣くぞ? マスターレベルを超えたハイマスターがガチ泣きすんぞ? 高二で失踪、異世界で冒険者やってます──俺の青春ラブコメは間違ってるなんてレベルじゃねぇ。ラブコメの要素は千葉にいた頃から無かったけどね!
 まぁ気休めにもならん話だが、俺みたいなのは実は結構いるらしい。
 らしい(・・・)と言うのは実数が全く判らないからだ。面識がある奴だけでも四十人ほど。皆、元居た場所も時代もバラバラで、共通する事は、気付いたら城塞都市行きの馬車に乗っていたと云う一点のみ。これが如何なる意思に依るものなのか、はたまた人知を超えた超常現象の為せる業か、誰も何も解っていないのが現状だ。
 訓練場で何かと世話になっている2004年の(因みに俺は2013年から来た。ちょっとした未来人扱いである)日本──それも冬木市と云う聞いたことも無い(・・・・・・・・)街──から来た女教師によれば、ここ数年で少なくとも数百人は来ているらしい。それも日本人だけでだ。城塞都市にはアメリカ人、ドイツ人にロシア人や中国人もいる事から、いったいどれだけの地球人(・・・)がエセルナートに来ているのか想像もつかない。ぼっちの俺の周囲ですら十八人もいるくらいだからな。その内の一人、兵庫県から来たらしい奴とは少しばかり…いや、俺としては有り得ないレベルで親しくなっていたりする。

 そいつを一言で言ってしまえば痛い女だ。もうそれだけで緊急回避からの全力ダッシュでエリア外まで逃げ出したいところではある。
 外見は完璧(パーフェクト)、中身は…………中身が色々全部台無しにしているとても残念な奴だ。ぶっちゃけ初対面から関わるどころか会話すら拒絶したつもりだが、いつの間にか「あれ? 俺ってこいつの友達なんじゃね?」と日に三度は必ず自問自答してしまう程度の関係になっていた────俺じゃなかったら間違いなく勘違いして告って振られるまでが予定調和だった筈だ。だが訓練されて今やハイマスターにまで登り詰めたぼっちの中のぼっち、ぼっちマスターに進化したと言ってしまっても過言では無い俺がそんな目に見える地雷を踏み抜く様なヘマをする筈がががが…無いに決まっている。ああ勿論無い。華麗にスルーした。した筈。あれもこれも全部あいつが傍若無人で一方的でストーカー気質なせいであってハチマンナニモワルクナイ……

 まぁつまりなんと言うかともかく──俺もあいつもこの世界で今日を生き抜くための手段や方法として、件の布令に応じるしか選択肢は存在していなかった。こんな世界でホームレスとか即死レベルの死亡フラグだからな。

 エセルナート全土どころか異世界からも人々を引き寄せる狂王トレボーの布令(美味い話)は大体こんな感じだ。

 曰く「魔術師ワードナが魔法のアミュレットを盗んだ──」
 暴れまくって周辺諸国を震撼させた狂王トレボーからな。その実力は推して知るべし。
「奴は街の外れの地下迷宮に立て籠もっている──」
 どっか遠くへ高飛びするだろ普通。てか、何でダンジョン(そんなもん)が街外れに在る!
「奴を討伐してアミュレットを取り戻して来い──」
 返り討ちに遭ったらしいな。精鋭揃いの近衛親衛隊が。
「見事、ワードナを討伐しアミュレットを奪還したなら──」
 親衛隊に出来なかった事をな。無茶振り過ぎるだろ流石に……
「莫大な報奨金と──」
 五万ゴールドらしい。確かに大金だな。だがワードナを討伐できる程の冒険者にとっては、きっと端た金である。
「城塞都市の市民権を与え、近衛親衛隊に取り立てる」
 ここら辺が目玉だな。近衛親衛隊は基本的に騎士階級しか任じられないなので、自動的に騎士叙任って事だ。いきなり貴族か。破格どころか非常識ですらある。

 正直、ツッコミ所が満載過ぎて、普通ならこんな布令に絶対乗らない…………のだが、現実にはワードナ討伐のダンジョン攻略に参加しなければ、市民権を持たない俺らは宿を探すのも一苦労、下手すると街にすら入れて貰えないまであるので乗らざるを得ない。世の中、理不尽過ぎるよね、実際。戸塚も小町もいない、マッカンも無い──大枚叩けば限り無くそれっぽいマッカンカッコカリ(命名俺)は入手可能ではある──こんな悪夢みたいな世界でひたすらダンジョン攻略するしか生きる術が無いなんてな。

 かくして大志だの野望だの様々な想いを抱き、薔薇色の未来を夢見た多くの若者達は狂王の訓練場に集い、促成の冒険者となって日夜仄暗いダンジョンに赴いては、無数に蠢く凶悪な化け物共と死闘に明け暮れ、富と栄光の眠る最下層を目指した。

 ────まぁ、ほとんど初日に死ぬんだけど。正に人の夢って書いて儚いだ。

 普通に生きても夢も希望も無く、夢と希望に縋りついて貴重な青春時代を暗くじめじめとした()と隣り合わせの絶望に満ちたダンジョンで、ただひたすら殺伐として過ごす────故に、エセルナートにおける青春とは灰色である。

 しかし、目が腐ってると揶揄される程度に目付きが悪い事と、妹を愛する典型的な千葉の兄という事くらいしかこれといった特徴も無い俺がこんな灰色の世界に強制参加とか、おかしいだろ絶対。

 俺はあの日、それでも本物が欲しいと願っただけなのなのに────なんでこうなる(・・・・・・・)? あいつか? あの変なラマだな!? あのララなんとかって喋るラマのせいだよな、これ! あの珍獣め……何が「君の願いを叶えてあげる」だ──何をどう解釈したらこうなる(・・・・)んだよ。そもそも叶えてくれとか頼んでねぇし……全く──


 ──やはり俺の青春が灰と隣り合わせなのは間違っている。

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城塞都市のハイマスター

 薄暗いダンジョンに白い靄の様な影が揺らめく。それは背景に溶け込むように薄っすらと透けていて注意深く視界に捉えていなければ瞬く間に見失ってしまうほど儚く朧げな姿だ────まぁ、俺の事なんだが。

 上から下まで全身新品同様の真っ白ずくめ、見る者から重度の厨二病疾患を疑われかねない純白の忍装束(ニンジャガーブ)に、これまた純白の覆面とマフラーを纏っていれば、ダンジョンの内外を問わず否応も無く目立ってしまいそうなものだが、秘められた魔法効果と俺の磨き上げた忍術(ぼっち)スキルとが相まって、元々無かった俺の存在感は今や幽霊と同程度ぐらいにまで希薄になっていた。
 こんだけ派手な白装束姿であろうとも、グループで街を散策していて俺だけ置いて行かれるとか、点呼の数と頭数が揃わなくてちょっとした怪談騒ぎになるまで最早平常運転である。尤も、俺はグループで行動しないし、街を誰かと散策する事も無い。当然点呼を取るような催しに参加する事も無いので、全く持って参考にならない例えなんだけどな。初めからぼっちだからこれまでと何も変わらないし、新たなトラウマになることも当然皆無だ。寧ろメリットばかりである。
 モンスターと遭遇(エンカウント)してもスルーできるし、玄室の守護者(ガーディアン)すらスルーできてしまう。俺の隠密(スルー)スキルぱねぇ…マジぱねぇわ。ついでに宝箱の中身を頂戴しても気付かれないんだぜ。気分は怪盗、最下層で中身が空の宝箱があったならそれはきっと俺の仕業だ。今度からキャッツカードでも残しておくか。
 最近酒場で、地下一階に謎の幽霊(ゴースト)が出現するとかしないとかで冒険者達が盛り上がってたと魔理沙が言ってたな、それ多分俺だわ。マーフィー先生は徘徊しないからネ……て、俺のステルスが神がかって来たからって《愚者の統制(Identification Friend of Foe)》にまで存在を認知されないとかねぇよな……やべぇ不安になってきた。帰ったら訓練場に確認に行こう。存在が希薄過ぎて冒険者登録まで消えてたら流石に落ち込むわ。

 足音一つ、ほんの僅かな物音すら一切たてずに俺はふわりと地下四階に降り立った。
 もし昇降フロアに誰かいたなら、無人のエレベーターがひとりでに上下していたと新たな怪談が生まれていたに違いない。なんか俺って日増しに怪異に近付いているような気もしないではないんだよな、ちょっとばかり不安になってくる。あいつらに言わせれば最下層をソロで徘徊する俺はとっくに化け物らしい……特に目が。なんてこった、俺は千葉にいた頃から既に化け物だったのか。
 俺にしてみれば《爆炎(ティルトウェイト)》を連発してモンスターを片っ端から殲滅したり、弓で鋼鉄を撃ち抜いたり、村正二刀流で暴れ回ったりするあいつらの方がよっぽど化け物に見えるんだが。言えないけど。だってあいつらマジおっかねぇし。
 しかし、魔術師(メイジ)ってのは偉大だね。《爆炎(ティルトウェイト)》とか火力も大概だけど、何より《転移(マロール)》の呪文を唱えればダンジョンの入口から最下層の手前まで一瞬で移動できるのだ。地下一階から地下四階、地下九階といちいち順番に歩いて回る必要無いとか最高じゃん。良いよなー、あれ。超便利。割と真剣に覚えたいんだけど今更転職(クラスチェンジ)すんのもちょっとなぁ……なんで忍者が修得できる魔法は錬金術(アルケミスト)系なんだろうか。いや、便利ではあるんだけどな。でもなー、やっぱなー、派手だったり色々便利だったりで魔術(メイジ)系の魔法を使える連中が心底羨ましいどころか妬ましいまである。
 特に侍。主に侍。てめぇらの事だ侍共。大体、侍に魔法なんぞいらんだろ。あいつら魔法無くても物理攻撃めちゃくちゃ強いじゃねぇか。なんでそんな連中に火力魔法まで持たせる? 意味解んねぇ。そもそも侍に魔法の要素なんてどっから持って来たし? エセルナート(ここ)の世界観ちょっとどころか根本的におかしいだろ。
 そして俺の知ってるマスターレベルの侍は、どいつもこいつも多少どころではない残念な方々ばかりなので余計理不尽に感じてしまうのだ。比較的まともなのが訓練場の藤村先生とか、もうなんかいろいろ終わってるだろ、城塞都市の侍は。
 忍者? もっとダメだ。中二病とガチホモと露出狂とぼっちしかいねぇ──トレボー王は泣いていい。

 あー、やっぱ徒歩で最下層まで行くの面倒臭い。ここ暫く《転移(マロール)》で移動してたからなぁ……人間堕落すんのって一瞬だわー。
 一応、緊急脱出用に転移の兜(リング オブ ムーブメント)を持ち込んでるから、これでテレポートする事も可能なんだが……これ一回きりの使い捨てなんだよな。楽したいからって片道切符に二万五千ゴールドは出せんわ、いくらなんでも。
 因みに二万五千ゴールドあれば冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)のロイヤルスイートを年間契約できる。こないだ払ったばっかりだっての──て、あれ? あん時、俺五万ゴールド払ったぞ……あれ? ぼったくられてね? てか、まさかの二部屋分か? あいつらの部屋代の請求、俺に来てたの? おいこらふざけんな、まさかのATM扱いか? これ返還請求できるよね? 弁護士か? 弁護士雇わないと──ダメだ、城塞都市には弁護士事務所どころか裁判所すらねぇ……
 どうやってあいつらから二万五千ゴールドを取り戻すか────何通りかの方法を模索して泣き寝入りも覚悟し始めた辺りで俺は足を止めた。

 場所は第二昇降フロアに続く回廊の中程である。回廊は行き止まりまで後八十メートルも無い筈だが暗いダンジョンの視界はほんの十メートル先も見通せない。だが音や気配はちゃんと届くし察知できる。

 喧騒、悲鳴、嗤い声────嫌な声だ。聞き覚えがある。忍者か。地下四階(ここ)ならレベル3忍者だな。三…四……五体。雰囲気からしてどうも冒険者達は分が悪いようだ。

 レベル3忍者──地下三階から出現する人間型のモンスターである。人の形をした全く別モノの忍者だ、それも下忍クラス。やっと金の鍵を手に入れた程度のパーティーだと少々危険かもしれんが、所詮上層を徘徊する雑魚だ。奴等は基本的に徒党を組んで、必殺の頸刈り(キリジュツ)スキルを隠密、待ち伏せからの奇襲や後衛強襲(バックアタック)と割と忍者らしい(・・・)戦術で仕掛けてくる。おまけに毒も使う。極めて好戦的で相手を格下と見做すと、戯れにいたぶって嬲り殺しにするような嗜虐性を露わにする厭な連中だ。尚、不利だと思ったら忽ち逃げ出す模様。下衆と云う言葉が実に相応しい。
 地下四階を探索できる実力を持ったパーティーならさほどの脅威にはならない筈だが……奇襲でも食らったか?

 俺は回廊の先、闇の向こうを見据える。まだ距離が離れ過ぎているのか《愚者の統制(IFF)》は発動しない。だがこの先で今まさに一方的な殺戮が行われようとしている(・・・・・・・・・・)

 ……放っとけ。所詮は赤の他人、目の前で全滅しようとも俺には関係無い。己の実力を測り損ねた間抜けがどうなろうと、俺の知ったこっちゃ無い。寧ろ目障りなリア充共は少しくらい減ってくれた方が良いまである。頼まれもしない他人事に自分から首を突っ込んでどうする? 俺にとっては善意でも相手からしてみれば只のお節介、余計なお世話で有難迷惑……きっと彼等は俺になど助けて貰いたいとは思わないだろう。だから俺は────最初から期待などしないし、何も求めない。関わらない。俺は俺の為だけにやりたい事をやるだけだ。

 目を閉じ、ゆっくり息を吸い込む。そして深く深く吐き出す────心を切り替える。

 己を研ぎ澄ませ。身体を鋼に、心は刃に。俺は弱いからな、レベル3の格下とか思わねぇ。全力で殺す。

 ゆっくりと眼を(みひら)く。空気が張り詰めた気がした。良い感じだ。今日は身体が軽い。このまま最下層まで行こう。
 俺を幽霊と見違えた奴はあながち間違っていない。すぐそこに在るであろう戦場へと音も無く歩き出した俺の姿はきっと幽霊そのものだ。腐った目は今どれだけ淀んでいるのだろうか。白い朧な姿はさながら幽鬼と言った所か。やはりこんな俺が人助けなど端から間違っている。
 ま、進路上の障害物を物理的に排除するだけだし? それで結果的に誰かが救われたとしても、俺には関係の無い事だ。

 錆びた臭いが鼻に衝く。いい加減慣れても良さそうだが、顔を顰めずにはいられない。
 ────血の臭いだ。
 石畳の床に散った今し方そこで戦闘があったと判る真新しい流血の跡。血溜りの中に転がった死体は三人分、一瞥しただけでそれがやり過ぎ(オーバーキル)だと見て取れる。
 あれでは蘇生は難しい。きっと彼等は灰になるだろう。
 バラバラに切り刻まれた死体は簡単には生き返らない。加えて奴等の刃は猛毒の類が塗りたくってある筈だ。毒に侵された死体はより蘇生が困難になる。それでもカント寺院の《還魂(カドルト)》なら生き返る可能性はゼロでは無いが──強欲坊主共は大儲けだな。忌々しい。
 救われるべき者は搾取され、救うべき者達が暴利を貪る。この世界の理不尽は大概理解しているつもりだが、それでも釈然としない現実だ。だからって訳じゃ無いが、たまにはやり場の無い義憤に駆られてみても良いだろう。らしくないとは解っちゃいるけど、気紛れで、ただ気に入らないってだけで殺す。別に遠慮は要らんよな、だってモンスター(・・・・・)だし。だって俺、〝悪〟だし。

 慣れた手つきで左右のウェストポーチから手裏剣を取り出し、両手に三枚ずつ指の間に挟み持つ。一撃必殺、五体同時でもいけると思うが、念のため首と片脚を落としておこうか。
 初撃で三体、続けて残り。ぶっちゃけ素手でも十分なんだけど、油断とか慢心はどんな時でも禁物だ。獅子は兎を殺すにも全力って言うしな。ほら、俺ってどっちかって云えば兎だから、全力どころか死力尽くさないとダンジョン(ここ)じゃ生きて行けない訳よ。

 ──じゃ、始めようか。

 俺は隠形を保持したまま出せる最速で駆け出した。
 一瞬で彼我の距離は詰まり《愚者の統制(IFF)》が反応する。視界の端に友軍を示す薄緑の文字で冒険者達の情報(クラス)がポップした。同時に敵性の赤文字で簡潔に(エネミー)のポップが浮かんだ。つくづくゲームみたいな世界だ。だが無いと不便だから実に有り難い呪符(システム)である。
 忍者は五体、対して冒険者は二人。かろうじて生き残っている状況か。だが連中は既に足掻くことすらできないのか、まるで反撃をしている様子は窺えなかった。
 死体が転がっていた辺りで襲撃を受け、逃亡を試みたのなら方向が逆だ。エレベーターに飛び乗らないでどうする?
 回廊の行き止まりに玄室の扉はあるが、通行証(ブルーリボン)を持っていないと決して開かない。ある意味、逃げ場の無い袋小路なのだ。
 仮にブルーリボンを持っていたとしても玄室の中には守護者(ガーディアン)が待ち構えている。前門の追撃、後門の守護者(ガーディアン)…詰んでるな。パーティーが全滅するテンプレみたいな展開だ。
 モンスターは逃げても追って来る。ゲームみたいな世界であっても、ゲームでは決してない。敵は簡単には逃がしてくれないのだ。逃げれば嵩に懸かって追撃して来るし、腹具合や気分次第なんだろうが割とどこまでも追っかけて来る。下手すりゃ地上まで追って来るしつこい奴もいる程だ。その為にダンジョンの入り口には兵士詰所があり、強固なバリゲードで内側からの流出を厳重に封鎖しているのである。
 モンスターから逃げ切るには魔法で闘争心を沈静化させて追撃そのものをさせないのが一番確実だが、パーティーに錬金術(アルケミスト)系の呪文所持者(スペルユーザー)がいなければ成立しない戦術だ。それ以外だとスピードで振りきるか、どこかに隠れてやり過ごすくらいだろうかね。どちらも簡単ではないな。運が良ければ追って来ない怠惰な俺みたいな奴もいるかもしれんが、それは余程の僥倖だろう。
 戦争じゃ撤退が一番難しいって言うし、ダンジョンも戦場に違いない訳だから当然と云えば当然の話ではある。

 間が悪いと言うか運が無いと言うか、レベル3忍者の姿を視認するのとほぼ同時に、冒険者の一人が首を刎ねられた。
 寄って集って切り刻まれた仲間の死を目の当たりにして、絶望と恐怖と悲しみが綯交ぜになった様な絶叫が耳を劈き、忍者共の下卑た嗤い声がそれに重なった。
「……ちっ」思わず舌打ちをしていた。隠密行動中だってのにな。
 ほんの数秒俺の判断が早ければ、隠形に拘らなければ、全力で走っていれば──意味の無いifだと解っていても想わずにいられない。
 俺がもっと速く投擲していたなら────刹那、三体の忍者の片足と首が同時に千切れて飛んだ。遅いよな、ほんとスマン。だからまぁ、きっちり仇は討っとくわ。
 瞬きする間に三体の仲間がバラバラに散乱する様を目の当たりにして、残りの忍者共は思考が追いつかないのか、厭らしく歪んだ嗤い顔を張り付かせたまま、ただ呆然と突っ立っている。理解を超えた現実にその反応は仕方の無い事かもしれないが────ならば遠慮なく俺のターンを続けるまで。

 一拍──俺の手に投げた手裏剣が全て復元した。

 二拍──六枚の手裏剣を残りの忍者の首、右足、腹に狙い撃つ。

 閃光の如き流星の軌跡が六条の弧を描き、狙い違わず穿ち貫き切断した。忍者共の体は血飛沫を撒き散らして四散する。やり過ぎ(オーバーキル)だな。でもお前等も嗤いながら似た様な事をやったんだろ? だったら別に同じ様な目に遭っても文句は無いよな。

 惨劇を背に俺は純白の忍装束(ニンジャガーブ)のステルス効果をオフにして朧な姿を解除した。モンスター扱いされたら流石に傷付くからな。しかし、今度は白装束の忍者スタイルと云う中二病疑惑(リスク)が発生するのだが、これはさほど問題にならない。こんな姿を晒すことを憚る様な存在は小町と戸塚と材木座くらいだ。幸いにして不幸な事に、皆エセルナート(ここ)には居ない。

 俺は音も気配も無く歩み寄り、唯一人残った女冒険者と対峙した。
 自然に足音が消えてしまうのは、消音効果の付いたブーツのお陰だが、気配が勝手に消えてしまうのはぼっちのぼっちたる生存本能の為せる業だ。俺本人に由来するパッシブスキルなので解除はできないし、しない。ついでに言えば三年に及ぶダンジョン生活によって総武高に通っていた頃よりも遥かに強化されていた。今なら平塚先生の授業中にモンハンやってても気付かれない自信がある。寧ろ最初から欠席扱いにされてしまうまである。ステルスヒッキーぱねぇ……最早俺が実在しているのか自分で不安になるレベルだ。

 座り込んだまま呆然と俺を見上げる彼女は、まだ事態の成り行きを理解できていない様だった。
 一瞥した限り特に怪我など無い様だ。これなら自力で街まで帰還できるだろう。エレベーターで地下一階まで戻れば近くに転移じいさんも居る事だしな。
 一人でも生存者がいるなら残りの連中はまだ(・・)生存の可能性が残されている。彼女が(・・・)死体を回収して、彼女が(・・・)カント寺院で高額なお布施を支払って、彼女が(・・・)蘇生を依頼すればいい。運があれば生き返るだろう。それは俺が心配する話でも、迂闊に首を突っ込んでいい話では無い。彼女が(・・・)決断する問題であって、俺には全く以てどうでもいい他人事である。

 さて、安否確認は済んだ。彼女と会話を交わす必要など無いし、直ぐに立ち去────れなかった。

 やや吊り目気味の大きな目と澄んだ瞳が印象的な彼女は、まだ未熟な幼さが色濃く残っていて、小町とさほど変わらない年頃の様に思えた。彼女の泣き腫らした跡がなんとも痛々しく、溢れた涙と鼻から垂れ流している液体とで、年頃の少女が他人に晒してはいけないレベルの凄惨な有り様になっている。
 妹を持つ千葉の兄としては、とても見ていられなかった。見兼ねてハンカチを差し出してしまった俺のらしからぬ行為も致し方無いだろう。無論、後悔が伴うのだが、これを見て見ぬ振りしてスルー出来るほどに俺は強くない。

「つ…つか使って…くだ下ひゃい」

 やべぇ……いきなりやらかした──流石俺のコミュ力、まるで役に立たねぇ。そもそも俺にコミュ力など元から無いのだからある意味当然か。そして俺の印象や評判など端から最底辺なので、何も失わないし、変わらない。問題も影響も実害も無い。精々俺の悪い噂が一つ増えるくらいだ。これも今更どうでもいい些細な事である。やらかしたと思ったけど実はノーダメージ……これが人間強度と云うモノか…………ともかく、どん引きされてる間に逃げ────られなかった。解せぬ。

「──あ、ありがとうございます…」

 少し驚いたようだが彼女は普通に受け取ってくれた。それもはにかんだ様な笑顔で。天使か……いや、それは小町だ。いや待て戸塚も天使だ。寧ろ戸塚は女神か──て、いかん。想定外の反応に八幡は混乱した! 司教さーん(メディーック)!《快癒(マディ)》を…《快癒(マディ)》を頼む!

 俺の内心の錯乱を他所に、彼女は「ちょ…これ汚くない?」とか「うわー、キモいんですけど…」等と心を抉る様な毒を吐く事も無く、かけらも厭な顔を見せずに俺のハンカチで顔を拭いていた。拭いている傍から涙がぽろぽろと零れ落ち続けるのを、俺は気付かぬ振りをして黙って見守るしかできなかった。
 今直ぐ踵を返して逃げ出したいのが本音だが、気まずい空気に飲まれてしまった俺は言葉を発する事すら憚られ、居た堪れないのに身動き一つできないもどかしさを、これまで気にも留めていなかった彼女の情報(クラス)を改めて確認することで紛らわせることにした。厭な手持無沙汰である。早く泣き止まねぇかな。

 ──知らない顔だ。いや、城塞都市にいる冒険者なんてほとんど知らない人なんだけどな。出入りが激しいくせに常時三百人以上いるし。寧ろ俺に顔見知りの冒険者が少しでもいる事に驚きである。驚愕のあまりエイプリルフールか詐欺か陰謀を疑うまである。

 友軍色の薄緑で〝G-Kan〟とだけ、大雑把な彼女の情報がポップしている。
 敵味方の色分けと、戒律(アライメント)職業(クラス)の三種類の情報しか表示しないが、有ると無いでは大違い、無いと困る。俺の場合だと最悪、モンスター扱いされるか存在すら否定されるまでありそうで洒落にならんから。
 軍事用語でいう所の敵味方識別装置(Identification Friend of Foe)の魔法互換版である《愚者の統制(ラマピック・デュナ・マスカルディ)》は、その名の通り敵と味方の区別すらつかないアホでも、無理やり視覚に敵味方の識別情報を直接表示して最低限必要な判別能力を強引に付与する促成兵士養成の切り札である。
 訓練場で冒険者登録(兵役志願)するだけで、どんなアホでも自分の名前を書ける程度の知能さえあれば、敵と味方の区別と魔法の道具(アーティファクト)の運用を可能にしてしまう拠点永続型の都市付呪──本物の大魔法だ。欠点らしい欠点と言えば有効範囲が場所によって曖昧な事と、敵性表示が割と適当な事ぐらいか。

 〝広大な戦場にあって(ラーアリフミームアリフペーイチェー)その心を知り(ダーウークヌーンアリフ)正しくその命を見通(ミームアリフシーンチューアリフラーダー)(ルイ)

 だいたいこんな感じの真言葉(トゥルーワード)が示す通り、本来は千単位で敵味方が入り乱れる野戦場を想定した呪符だったのだろう。その為か、見通しの良い場所なら三百メートル先の敵でも判別できるのに、ダンジョン内だと扉一枚、曲がり角一つ隔てただけで、そこに味方がいるのか敵が待ち伏せているのかも判らない。
 敵の表示に至っては赤文字で(エネミー)と実に簡単簡潔だ。いっそ清々しい程の潔さである。手抜き、とも言えるだろう。尤も神学(プリースト)系3レベル呪文(スペル)識別(ラツマピック)》で識別機能を強化できるので、元々呪文(スペル)との併用ありきで構築された呪符(システム)なのかもしれない。
 長いので頭文字を取ってIFFと呼ぶのが一般的だ。真言葉(トゥルーワード)でも呪文(スペル)でもなく、英文の略なのは、この呪符を編み出した旧帝国時代の偉大な魔法使いがそう提唱したせいである。彼はアメリカ空軍のパイロットだったらしい。冗談みたいなそんな記述が大真面目に旧帝国魔法史の解説ページに綴られているのだ。
 ワードナの迷宮に挑む冒険者はこの《愚者の統制(バカでも解る敵味方識別呪符)》を身体に刻印する事が義務付けられていて、城塞都市で暮らす氏素性の知れぬ俺の様な者達にとっては身分証明の変わりにもなっていた。
 因みに俺だと〝E-Nin〟となっている筈だ。呪符(システム)にまで存在を忘れ去られていない限り……無いよね? 流石にそれは本気で落ち込むからな?

 GでKan──か、Gは〝(Good)〟の簡易表示である。Kanは……艦? 艦娘? そう云や戦艦みたいな和服だな……え? マジで? ツインテールにしてるけど実は金剛型だったり? 榛名なら本気でお持ち帰────あ、あー(カンナギ)か。確かそんなのがあったわ…………て、(カンナギ)!?
 マジか、初めて見た。てかバイトじゃないリアル巫女さんってほんとにいるんだな。よく見りゃ紅い袴だ。スカートじゃねぇし。紅白の巫女さん装束だな、千早だっけ。ツインテ巫女さんか────アリだな。
 一瞬で、ピンチに颯爽と登場ヒロイン救出からの王道展開を妄想した。だって男の子だもん仕方ないよね。だが当たり前の様に告って振られるで完結してる辺り、流石は俺だと思いたい。
 危ねぇ……巫女さんだから踏み止まれたが、艦娘だったら轟沈していた……榛名だったら……その場で自殺していたかもしれん……
 この状況、俺じゃなかったら本気で王道ファンタジーラブコメ展開と勘違いして新たな黒歴史かトラウマを作っている筈だ。かなり危険なシチュエーションじゃね? それにこの人、善じゃん。ダメだ、最初っからアウトじゃねぇか。勘違いして話し掛けたら、毛虫を見る様な感じの蔑んだ目で睨まれるんですね、分かります。
 だって俺、〝悪〟だし、目も腐ってるし、幽霊みたいだし。

 ならば長居は無用、比企谷八幡はクールに去るぜ。

 ──と、行きたいのだが、この巫女さんが扉の前で座り込んでおられるから先に進めないでござるよニンニン────空気読んで退いてくれねぇかな。
 ……仕方ない、ここは限りなくゼロに等しい俺の話術スキルで切り抜けるしかねぇ。さっきは失敗したけど「通れないので、ちょっとそこ退いて貰えますか?」と落ち着いて、ゆっくり、はっきりと言えばそれで済む話だ。
 それでサヨナラ、彼女とはもう会う事も無いだろう。夕方にはきっと俺の事など忘れているに違いない。だがそれでいい。俺は予定通り最下層へ。お宝ゲット、帰る、酒場でマッカンカッコカリを飲んで寝る。いつも通りだ、何も問題無い。

「「……あ、あの──」」

 被っちゃったよ────やべぇ、想定外。すっげぇ気まずい。助けて小町……お兄ちゃんかなりピンチだ。

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瑞鶴さん(仮名)とハイマスター

 気まずい空気が地下四階の片隅に停滞していた。
 その中心にいるのは俺と、見ず知らずのツインテ巫女さん──よくよく見ると瑞鶴っぽいので俺は密かに彼女の事を瑞鶴さん(仮名)と呼ぶ事にした。

 出鼻を挫かれ多少動揺はしたが、たかが台詞が被っただけ。まだ焦る時間ではない。もう一度だ。そう、冷静(クール)に──

「「……あ、えっと──お先にどうぞ」」

 意を決して再度挑戦したつもりが、また被ってしまった……なにこれどうすればいいの?
 白い覆面の下で俺が内心きょどっていると、瑞鶴さん(仮名)はクスクスと可愛らしい笑い声を零した。
「あははっ…また被っちゃいましたね。あ、ごめんなさい。なんかおかしくって……」
「あ……いえ、こっちも……なんかその…申し訳ないッス」
 思わず頭を下げていた。レベル3忍者に全滅しかけた冒険者相手にレベル26忍者(ハイマスター)の俺がなんたる低姿勢! やはりカースト最底辺に生息するぼっちは例えハイマスターになろうとも、相手が面識の無い女の子と云うだけでこの有り様である。
 てか、今のやり取りの何処ら辺に笑う要素があったのか理解できん。あれか? リア充だと通じ合うとか解り合うみたいな謎の伝達力的な何か? ちっ……やはりぼっちにリア充対応は難易度が高過ぎてストレスがマッハだ。今直ぐ立ち去りてぇ。
「あの、これ──ありがとうございます……えっと…」
 あー、ハンカチな。そりゃ迂闊に返すに返せんわな、涙だけじゃないもんな拭ったの。汚れたそれで何かどうこうされるかもしれん危険性がある以上、そりゃ扱いに困るわ。洗って返すの選択肢が無いからな。だってもう二度と会わんだろうし。
「別にそれ、返さなくて結構ですんで。処置に困る様なら遠慮なく捨てて下さい、そんな良いもんでもないんで」

 ダウト──貴族相手の衣類を取り扱う東区の呉服店でアイツがわざわざ俺の為に見繕ってくれたものだ。それ一枚の支払いに金貨を出すレベルの高級品である。肌触りも耐久性も抜群、流石は貴族様ご用達だが、ぶっちゃけこんなもん貰っても扱いに困るわ────と言って、こんなところで使い捨てにしていい筈がないんだけどな……

「え? でも……」
「あ、ほんとに構わないんで、気にしないで下さい」
 アイツには後でちゃんと謝ればいい。機嫌が悪くなっても解ってはくれるだろうし。
「そうですか……ありがとうございます。えっと……私の方はそれで」
 どうぞ、と俺に促すその上目遣い、ほんとに止めて貰えませんか。解ってそれをやっているなら一色いろは程度のあざとさでしかないのだが、この瑞鶴さん(仮名)は間違い無く天然のそれだ。破壊力が段違いである。一色よ、これが本物だ。なんかお前と比べるのも瑞鶴さん(仮名)に失礼だわ。
「あ、ああ。その──そこ、退いて貰えたら助かるんですが……通れないんで」
「──あ。すすすみません! あ……でも──」
 瑞鶴さん(仮名)は慌てて立ち上がって扉から離れてくれた。その立ち姿は正に巫女さん、一瞬ここは何処かの神社かと勘違いしそうなほど千早姿が似合っていた。そして彼女から醸し出される場違いなほどに、ほんわかとした日常の匂い(・・)。なんだこれ、さっきまでの殺伐とした闘争の空気は何処に消えた!?
 何か言いたげな顔の瑞鶴さん(仮名)は俺と扉に視線を巡らせる。
「ん? なんスか?」
「あ、その──この扉…開きません、よ?」
 成程、ブルーリボンの情報すら知らない、と。瑞鶴さん(仮名)、情報収集はダンジョン攻略の基本ですぜ?

 地下九階まで直通するプライベートエレベーターがある第二昇降フロアに続く玄室の扉は、他と違って荘厳で立派な造りになっている。そして取っ手も無ければ閂や錠の穴すら無く、何処からどうやって開くのかすら解らない構造になっていた。それが茨の様な鋭い棘の蔦が複雑に絡まり合って扉を蔽っている。よく見れば辛うじてそこに扉があると解るが、魔法の知識がある程度無ければこれが強力な呪符による封印とは解らない。

「あー、この扉ね。通行証が要るんスすよ」
 俺はポケットのブルーリボンを取り出して見せた。彼女は呆気にとられ、そして胡乱な目で俺を見た。まぁ、知らないとそうなるわな。あいつらも初めて目にした時、そんな顔をしていた。
「……リボン?」
「ですね、見たまんま青いリボン(ブルーリボン)。この階にあるアロケーションセンターの奥で手に入るから憶えとくと良いッスよ。で────こうする、と」
 俺はブルーリボンを軽く手に巻き付け、封印されている扉にかざした。
 扉を蔽っていた蔦がザワザワと音を立てて端に寄り集まり、さながらアーチの様に形を変えた。蕾だった紅い薔薇に似た花が一斉に開花し、その花に飾られたアーチの中に扉の開口部が淡く青白い蛍火を放ってダンジョンの仄暗い空間に浮かび上がる。無数の蛍火に照らされて俺と瑞鶴さん(仮名)の周囲は少しだけ明るくなった。
「この光ってるとこを軽く押すだけで開くんスよ。ま、当然中には守護者(ガーディアン)がいるんでアレなんスけどね」
「綺麗…………」
 見惚れて聞いちゃいねぇ。まぁ、解らんでもないが。この光景はここでは珍しく実に幻想的(ファンタジー)でそれっぽい演出だもんな。
 さっきまで泣いてた瑞鶴さん(仮名)も多少は元気が戻ったようだ。少なくとも立てるし歩けるようだし、僅かばかりの余裕も見て取れる。それが空元気であったとしても────自力で街に帰るくらい出来るだろう。よし、解散だな!
「……じゃ、俺はこれで──」
「──えっ!? まっ、ま──」
 我ながら自然な動作で玄室に入ろうとしたと思う。彼女が黙ってそれを見送るならそこでサヨナラの筈だった。
 瑞鶴さん(仮名)のそれは咄嗟に口から零れてしまったのだろう。だからそれを言ってしまう事を(・・・・・・・・・・・)ギリギリのところで躊躇し、途中で黙り込んでしまったのだ。だが、そのか細い声音は確かに俺に伝わり、止せばいいのに彼女に振り返ってしまう。失敗した。

 やめろ、そんな顔で俺を見るな。解ってしまうじゃねぇか……

 瑞鶴さん(仮名)は分かり易い少女だ。表情がほんの短い間にも拘わらずころころと変わった。感情の変化が実に分かり易く表情に直結しているのだ。可愛らしいと云えばそうなのだが、多分これ以上ないほどにあざとい(・・・・)。自覚が無いだけにより質が悪い。嫌でも察してしまう(・・・・・・)
 彼女の顔には絶望が張り付いていた。大きく見開いた目の中で僅かに揺れる瞳は一人になってしまう不安と恐怖がありありと見て取れ、今にもまた泣き出してしまいそうだ。
「……なんスか?」
「あ、あの……えっと…………」
 俺が足を止めた事に心から安堵したようだったが、結局何も言い出せず、すぐに俯いてしまった。

 言えんわな、戒律(アライメント)が〝善〟の彼女が、通りすがりで見ず知らずの〝悪〟である俺に、行かないで欲しい、助けてくれなんて(・・・・・・・・)

 おまけに俺は既に彼女を助けている。まぁ結果的に、だが。偶然とは言え命を救われた事は〝善〟の彼女が自覚していない筈が無い。そんな俺に、まだ手を貸せと言えるだろうか。

 面識も無い俺に、彼女の仲間の死体を運んでくれ、と。

 たった一人分の死体を運ぶのですら重労働なのに、それを五人分、いずれも手間のかかるバラバラ遺体を。只でさえ危険なダンジョンを死体を抱えて、未熟な冒険者を連れて突破しろ、と。それがどれほど危険で困難な事かは、殺されそうになり、全滅しかけた彼女なら言わずともちゃんと理解しているだろう。どこぞのヶ浜さんでも解りそうな事だしな。

 言えんよな……まともな人間なら猶更。

 結論から言えば、俺は彼女を助ける事ができる。要は五人分の死体と彼女をダンジョンの入り口まで運べば良いだけだからな。そっから先の事は流石に彼女も誰かに頼るつもりはないだろうし。
 ま、だからって俺の方から援助を申し出るとか、俺的にも戒律的にもあり得ないし、彼女もそれをどうしようもなく解っているが故の葛藤であり、沈黙であると受け取りたい。

 瑞鶴さん(仮名)はゆっくりと顔を上げて、俺の腐った目を正面から真っ直ぐ見つめた。
 澄んだ瞳に迷いは感じない。彼女の中でいろいろ決着が付いたのだろう。
 正直、異性と目を合わすとか拷問にも等しいのだが、俺も彼女から目を逸らす事無くその視線を受け止め、黙って見返した。
 彼女は俺に見据えられても全く不快感を表さない。この距離ならほんの僅かな表情筋の動きすら見逃さない俺の観察眼を以ってしても、その下にネガティブな感情を隠している様には見えないし感じなかった。彼女は────俺に悪意を持っていない…だと?
 大抵の奴は俺と目が合っただけで露骨に顔を顰めるし、何も言わなくても何を思ったかなど簡単に察しが付く。まぁ、悪意しか(・・)無いので、わざわざ観察してまで確証を得る必要があるのか疑問ではあるが……その精度たるや魔王雪ノ下陽乃の正体すら一発で看破できるチート性能っぷりだ。

 だが瑞鶴さん(仮名)はそう(・・)では無かった。なんてこった。こいつもか────

「…………ありがとうございました!」

 それは、きっと今の彼女にできる精一杯の笑顔だろう。蛍火の淡い光に照らされ、可憐で、儚くて、とても眩しくて素直に美しいとすら思えた。
 下手をすれば──否、確実にその笑顔が人生最後の笑顔になる筈だ。彼女の前途は暗雲立ち込めるどころか最早《恒光(ロミルワ)》すら掻き消す暗黒地帯(ダークゾーン)と言っても過言では無い。てか状況的には詰んでいる。
 そもそも笑える状況でも心境でもなかろうに。きっと彼女はあの短い沈黙の間に覚悟を決めたのだろう。だから、目の前から去り行く蜘蛛の糸()を笑って見送る事ができるのだ。

 強いな。俺なんかとは違って。だからパーティー組める(リア充な)んだな。

 俺としてはその気になってはいるのだが────まだ、足りねぇな。
「……で?」
 きっとそんな返事があるとは思いもしていなかったのだろう。笑顔から一瞬にして呆けたその顔も、なかなかどうして悪くはなかった。
「──え?」
「で、お前はどうしたいんだ(・・・・・・・・・・)?」
 もう遠慮は要らんだろ。見るからに俺の方が瑞鶴さん(仮名)より年上みたいだし。世の中には合法ロリと云う化け物も存在する事を知ってはいるが、あんなのがそうそう居て堪るか。
「あ、あの…」
「なぁ、俺としてはこんだけ道草食った以上、今更急いで先に行くのも、まだ多少寄り道して行くのも、さほど変わらないんだ。それを踏まえた上で、お前はどうしたい? 死体を見捨て──」
「見捨てません! みんなを見捨てたりなんて、絶対できません! できる訳…できる訳ないじゃないですか! みんなを置いて行くなんて!」
 目に涙まで溜めて彼女は感情を爆発させた。それが彼女の出した答えか。〝死体を捨てて自分だけ逃げ帰る〟の選択肢を選んでくれたなら、俺としては楽だったんだが。しかし、ほんと表情がくるくる変わるな。でもちょっと音量下げようぜ、モンスター来ちゃう。
「できんのか、お前に?」
「──っ!」
 言葉を詰まらせた彼女は悲し気に俯く。何も言い返せないのは自分の非力さを冷静に理解しているからだ。ここで感情だけの全く意味の無い反駁でもしてくれたのなら、俺としては「勝手にすれば?」の一言で見捨てて行けるんだが。
「お前独りで五人分の死体抱えて帰れるのか? こっから街までの最短ルートは地下一階まで戻って転移じいさんの部屋に逃げ込む、だな…………ざっと二百…八十……多分三百メートルくらいだけど、いけそうか?」
 たった三百メートル、されど三百メートル。ダンジョンの中では時としてほんの僅かな距離でさえも絶望的な距離に変わる。今の彼女には十メートル先も見通せないこの仄暗い回廊を真っ直ぐ引き返し、エレベーターのある昇降フロアまで辿り着く事すら困難だろう。
 死の寸前まで追い詰められ、仲間の死を目の当たりにし、ダンジョンの只中に孤立、そして重く圧し掛かる自身の体重の数倍にもなる仲間達の亡骸……いっそ殺されていた方が楽だったかもしれない。彼女もそう思っているのだろうか。彼女は……俺に助けられてしまった(・・・・・・・・・)彼女は、俺を──

「……ません…………できませんよ! 無理に…決まってるじゃないですか──」
 だよな。知ってた。

「……助けが、必要か?」

 それは、彼女が望んで、諦めて、飲み込んだ筈の言葉に違いない。俺から聞ける筈が無いと決めつけていたのだろう。だから彼女は俺の言葉に戸惑った。
「──え? た…助けて…くれるんですか?」
 本当に彼女は解り易い。ポーカーとかブラックジャックでカモにされるタイプだ。ババ抜きとかも鬼門だろうな。
「あー、いや…無条件に助けるってのはちょっとアレなんで…戒律とかいろいろアレだろ。だから──」

 この場合、趣旨が違ってくるだろうけど、この際構わないよな。お前等だってきっとこいつを見捨てたりしないだろ? 雪ノ下…由比ヶ浜……


「──俺に、奉仕部に依頼しろ(・・・・・・・・)


 言ってる意味が伝わったのだろうか。忽ち瑞鶴さん(仮名)の大きな目から大粒の涙が溢れ出した。

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奉仕部のハイマスター

 奉仕部──俺の所属する部活である。だがここは総武高でもなければ、千葉どころか地球ですらない剣と魔法の世界(エセルナート)だ。誰もその存在を知らないし知る由も無い。そもそも部活と云う概念すら無いまである。

 俺の記憶の中だけにしか存在しない部活動。そして、ここには雪ノ下雪乃も由比ヶ浜由衣もいない。彼女達の存在があったからこその奉仕部であり、あの空き教室が特別な場所になり得たのだ。
 冒険者になって既に三年経つ。彼女達は今頃、卒業して、進学して、それぞれ新しい生活に没頭していることだろう。高校時代の部活の事などとっくに記憶の片隅追いやられ、たまに懐かしむ程度の思い出になってしまっている筈だ。俺の事など記憶から抹消してるまであ……流石にそれはないよな? くっ……無いと言い切れん。だがまぁ、俺のことなどどうでもいい。
 要するにだ、彼女達にとっての奉仕部は、既に終わったであろう(・・・・・・・・)存在なのだ。

 終わっていないのは俺だけ。拘り続けているのもきっと俺だけ。多分もう奉仕部には俺しか残っていないだろう(・・・・・・・・・・・・)
 雪ノ下も、由比ヶ浜も、小町も、戸塚も、平塚先生も、材木座も、川なんとかさんも、誰もいなくても──
 奉仕部は、俺があの世界で確かに存在した事を忘れない為の、こんなふざけた世界で俺が俺のままでいる為の、心に深く打ち込んだ楔だ。

 だから俺は拘り続けるし、俺の奉仕部は終わらない。


 地下四階の南端、プライベートエレベーターに続く玄室の手前で、俺と瑞鶴さん(仮名)はふわふわと浮かんでは消える幻想的な蛍火の下で、互いに見つめ合っていた。俺じゃなかったら間違い無く勘違いして大変な事になるだろう。
 仮に傍でこの光景を見ている者があるとすれば、きっとこの後に俺が振られる展開を幻視した筈だ。もしくは彼女が泣いている事から、ホームルームで俺が全面的に悪いと云う結論ありきの吊し上げを食らった挙句に土下座強要からの、クラス全員からハブにされるまで──あるのだろうが、元からぼっちの俺にはノーダメージだった。やはりぼっちは最強か。また勝ってしまった……敗北を知りたい。寧ろ敗北しか無い気もするがそれはきっと気のせいではない。

「……ぇぐっ…ひっく……ごめ…ごめんなさい……」
 彼女はその手に握りしめていたハンカチでまた涙を拭った。あのハンカチとしては既に保水力とかに不安が出始める程に未曽有の使用状況だろう。
 ハンカチとして生産された以上、俺なんかに使われるより瑞鶴さん(仮名)の様な愛らしい少女の涙を拭う目的で使用された方が本望だろうし、この後廃棄される運命だったとしても本懐を遂げた感じに満足して散ってくれる筈だ。俺が持っててもポケットに入れっ放しのままだろうしな。
 アイツもまさか俺が使う前に、見ず知らずの少女に使い捨てられるとは思ってもみなかったろう。てか俺、ダンジョン入る時は手拭い持ち歩くようにしてるから三桁ゴールドのハンカチなんて持っててもなぁ。なら手拭いの方を渡せばよかった? ばっか、使い古しの手拭いなんぞ差し出したら「…あ、ありが…とう? うぇぇ……」と指で摘み持ちからのその場でぽい捨てまであるだろうが。ソースは俺。確度は高いなんてもんじゃない、トラウマレベルだ。

「……あ、あの……依頼、したら……助けてくれるんですか?」
「あくまでお前の抱えてる問題(トラブル)解決する為の手助け(・・・・・・・・・)をするだけだ。お前を助ける(・・・)とは言ってない。まぁ……結果的にお前が助かってしまったとしても、それは別にいいんじゃね? 俺には関係無いし」
 雪ノ下雪乃は言った。魚は与えない。釣り方を教えるだけだ、と。だがこの場合、瑞鶴さん(仮名)は釣り方を知っている。物理的に実行できないだけだ。為すべき事もできる事も一つしか無く、そしてそれは雪ノ下の言った奉仕部の趣旨とは異なる。だが結果的に依頼人の問題が解決するのなら別に俺が肉体労働をほんの少しばかりやるくらい構わんだろ。

「──します、依頼します! 助けて下さい!」
「だから、手助けだって……まぁいいか。お前の依頼は仲間の死体を残らず回収、それとお前自身の生還、そんなとこか?」
「は……はいっ! ありがとうございます! ありが…とう……ぅう…ございます…」
 おいやめろ、そんなに泣くと俺がなんかやらかしたのかと不安になるから……全く、涙脆いにも程があるだろ。てかそれって甲状腺に異常があるかもしれんから、街に戻ったら一度、医師に相談した方がいい……残念、城塞都市には病院なんてものは無かった。しかしあのハンカチ、大活躍である。俺より働いてんじゃね?

「……いいだろう。奉仕部としてお前の依頼を引き受ける」
「……あ、でも…依頼ってことはやっぱり報酬が……いるんですか?」
 五人分の蘇生費用が頭に過ったか。出費は抑えたいだろうしな。てか、聞いてねぇな、奉仕(・・)部だっての。
「気にすんな。見返りが目的でやってる訳じゃねぇから。あくまで奉仕(・・)活動だから」
「……あの……悪、ですよね?」
 訝し気な顔で俺を見た彼女の目はチラチラ空を泳いでいる。きっと《愚者の統制(IFF)》を確認している事だろう。何度見ても"E-Nin"だと思うけどね……だよな!
 正体不明の存在とか不確定名っぽくなってたらガチ泣きするからな?
「見ての通りだ。まぁ奉仕って言うか悩み相談とかトラブルコンサルティングみたいな感じだから、名前の割にさほどボランティア精神とか要らんのだ。それに俺はもともと強制入部だし。入りたくて始めた部活って訳じゃねぇんだわ。取り敢えず、卒業も退部もしてねぇから個人的に部活を続けてるだけだ」
「えっと……なんとなく理解しまし…た?」
 疑問形ですか。まぁそうだろうけど。
「…部活…卒業…………あの、あなた()日本から来たんですか?」
 マジか。瑞鶴さん(仮名)なだけに、やはり日本から来ていたとは……横須賀か? 呉か? 佐世保か? ラバウルなら俺の艦隊の瑞鶴って可能性もあるんじゃね?
「…………千葉から」
「すごい! 私、埼玉なんですよ! 初めてです、私と同じような人に会うのって」

 埼玉……だと?

 ふっ……やはり海のない県出身だと艦娘になってもこの程度か。埼玉だしな……あれ? あれあれー? 埼玉県民が千葉県民に助けて貰っちゃうのかなー? いいぜ、助けてやんよ。見せてやろう、千葉県民の圧倒的な戦力と云うモノをな。なーに、礼には及ばんよ。千葉県民には余裕だから。埼玉県民は知らんけど。埼玉か……埼玉埼玉…ごめん、千葉県の隣って事くらいしか知らんから、ぶっちゃけどう応えていいもんか皆目見当もつかんわ。ほんとごめんな。あと千葉の方が都会だから。そこだけはっきりさせとくわ。

 一瞬で優位に立った気がする。千葉県専用スレに勝利報告を書き込めないのが残念だ。仕方ねぇな、少しは優しく接してやるよ。

「あー、その…なんだ、会ってんじゃね? 訓練場で。ほら、藤村先生。あの人、確か西日本のどっからしいぜ」
 冬木市って何県? 俺、マジで聞いた事ねぇんだけど。瑞鶴さん(仮名)が知ってるか聞いてみるか? あー、やっぱいいや、別に藤村先生にそこまで興味ねぇし。寧ろ関わり合いになりたくないまである。
「あ、そう言えば藤村先生もですね。じゃ、先生以外では初めてって事で」
「……城塞都市には結構いるぜ? つっても俺が知ってる日本人は八人だけどな──て、のんびりしてる暇はねぇから。さっさと始めるぞ」
「あ、はいっ!」

 俺は懐からペンダント状の小瓶を取り出した。小瓶と言ってもパッと見は金属製の巨大ミノムシだ。見た目こそ奇妙なアイテムだが、多分ダンジョン有用アイテムランキングを作ればトップ3入賞間違いナシの超便利魔法道具(アーティファクト)だ。
 金属製の蓑を軽くひねってやるとそれは螺旋状に巻き上がり、包まれていた玻璃(ガラス)の小瓶が露わになる。忽ち青白い蛍光の灯りが周囲を明るく照らした。

 エルフの玻璃瓶────古のエルフの王女が所持していたとかいないとか、そんな伝説付きの魔法道具(アーティファクト)である。瓶の中には常時発光し続ける青白い発光液が満たされていて、瓶を覆っている蓑状の金属細工を操作すれば調光も可能だ。光量は最小なら夜、本を読んでいても隣で寝ている奴が気にならない程度で、最大だと神学(プリースト)系3レベル呪文(スペル)恒光(ロミルワ)》に匹敵する。つまり魔法の灯が無限使用、ただのチートですほんとうにありがとうございました。俺が手に入れたアイテムの中では屈指の逸品だ。もうこれの無い生活なんて考えられない!

「うわぁ……魔法の懐中電灯もあるんだ」
 どっちかっつーとランタンじゃね? あと電灯は間違っていない。瓶の中身の正体は溶かしたウィル・オー・ウィスプらしいから。あのプラズマの塊みたいなのを液状にするとか、割と魔法ってなんでもありだと思う。
「これで足元見易くなったろ、死体のパーツを回収するぞ。欠片も見落とすなよ? 欠損があったら蘇生の確率がガタ落ちするらしいから」
「はい!」
 ここにある死体は二人分、内一人が特に損傷していた。彼は難しいかもな。
 瑞鶴さん(仮名)は涙を浮かべながらも泣き言も弱音も飲み込み、黙々と腕や頭の梱包作業に没頭した。
 五体の忍者が寄って集って、倒れても、既に事切れていても執拗に切り刻んだ遺体は無惨の一言に尽きる。
 金属鎧を着込んでいたならまだマシだったろうが、革の鎧やローブは最早原形を留めない程で、その下の身体も当然酷い有り様だ。剥き出たり飛び散った内臓を中にしまって零れないように紐や布切れを繋ぎ合わせた簡易包帯で固定する作業も彼女は決して泣かなかった。血や脂でドロドロに汚れようとも、凛とした表情を崩さずに黙って俺の指示に従った。
 やはり瑞鶴さん(仮名)は強い。なかなか出来るもんじゃないと思う。俺は素直に感心していた。寧ろ俺の方が先に心が折れそうだ。
 だが彼女の健気な奮闘もさほど報われないだろう。
 とにかく状態が悪い。首を刎ねられただけならともかく、これだけ損傷が酷い死体だと下手するとカント寺院の坊主ですらそのまま埋葬する事を勧めるかもしれん。頭、手斧で割られてんだぜ? 俺なら墓地に直行して貰う。わざわざ大金を払って灰にするようなものだか……ある意味火葬して貰うようなもんか? いやいや、それは間違っている。

 二人分の死体を運び易く梱包するのに思ったより手間がかかった。死体袋が欲しいと思ったのは人生で今日が初めてだ。
 瑞鶴さん(仮名)は良くやっている。だが今の彼女の最大の敵は時間だ。確実に状況は悪くなる一方だった。俺も正直、焦りが出始めていた。そろそろ目敏いモンスターが血の臭いを嗅ぎつけてもおかしくはない。
 血の臭いや死臭を嗅ぎつけてダンジョンの掃除屋共が群れで押し寄せてきたら、流石に死体の運搬どころでは無くなってしまう。彼女を護りながらヒュージースパイダーやボーリングビートルの群れと戦うのは無理だ。護り切れるもんじゃない。
 せめて魔術(メイジ)系の火力魔法があれば話は変わってくるが、残念ながらこの場に魔術師(メイジ)は居ない。
 知っている魔術師(メイジ)の中で最も頼りになるあいつは、今頃酒場でバイトに励んでいる筈だ。きっと、呑気に朝から酒を飲んでる酔っ払い相手にチップをせしめてニヤニヤしているに違いない。
 ハイウィザードが何やってんだか。そもそもバイトの切っ掛けが窃盗と無銭飲食とかどうなんだ?

「梱包に時間食っちまったな、こっから急がねぇとな。お前はそっちのホビットを頼むわ」
 彼女は黙って頷いた。小柄なホビットと言えども四十㎏はあるだろう。華奢な彼女にはキツい注文かもしれんが……なんとか、やれそうだな。少なくとも内心で悪態をついているような、甘ったれた顔はしていない。不屈の意思と覚悟があった。
 あいつらが戦う時に見せる表情と同じだ。それは気高く威風凛然としていて、俺なんかには眩し過ぎる。直視するのも憚ってしまう程に良い顔だ。やべぇ、惚れてしまいそう。俺の正規空母()は飛龍だったんだがな。多門丸に怒られてしまいそうだ。やるな五航戦、見直したぜ。
「引き摺っても構わねぇから、とにかくこの先まで運ぶぞ。多少手荒に扱ってもこの際目を潰れ、どうせ今更なんだから」
「…はい……うぅ…ごめんね、ケインくん」
 俺はもう片方の死体を担ぎ上げた。
 ……重い。超重い。おいあんた、生き返ったらダイエットな。それも超ハードなやつ。
 左手の玻璃瓶を掲げて、回廊を前方から天井部分へと淡い蛍光で照らした。残りの死体が転がっている場所まで、ざっと四十メートル。特に向かって来るモノも動くモノもいない。天井も特に何かいる様子はない……今の所は、な。
 ダンジョンの天井高は一フロアの縦横の半分ほど、だいたい十メートル前後だ。天井ギリギリの壁面には大気循環のダクトなのか、ただのモンスターの(ねぐら)か、通り道なのか、横穴らしきものが不規則に並んでいる。これは地下一階から最下層までそこかしこにあり、大きさも数も場所に拠って不規則だ。
 更に地下四階の天井には幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣が、折り重なったカーテンの様に垂れ下がっていた。階層全域が巨大人喰い蜘蛛(ヒュージースパイダー)の一大生息地になっているのだ。たまに一メートルサイズの糸の塊がぶら下がっていたりする。中身については考えたくないし、知りたくもない。一つ言えることは、ここ地下四階は地下一階南西部周辺に次いで二番目に死亡率と未帰還率が高いエリアだと言う事だ。

 幸いにしてまだ付近に巨大蜘蛛の影も、巨大カナブンの姿も、巨大火吹きトンボの飛影も、取り敢えず見当たらない。だが次の瞬間、横穴や物陰からぞろぞろと這い出して来てもおかしくはなかった。
 しかしどう云う訳か、気紛れな筈の幸運の女神は瑞鶴さん(仮名)に微笑み続けていた。流石の幸運艦、憑いている幸運の女神は健在のようである。俺の所にも幸運の女神が来て欲しかった……変なラマじゃなくて。

 結果的に何事も無く残りの死体の所まで辿り着けた。安定の幸運艦に嫉妬すらしてしまいそうだ。たまには俺にも微笑んで下さい。
 問題があるとすれば、たかだか四十メートルの移動に費やした時間と、瑞鶴さん(仮名)の消費したスタミナ、それと損傷した死体の応急処置をまた繰り返さなければならない精神的な累積ダメージである。主に俺の心がヤバい。正直、もう何もかも投げ捨てて千葉に帰りたいまである。そして絶望的な事に、ここで転がっているのは鋼鉄の甲冑(プレートアーマー)フル装備の大男が三人だった。
 なんでお揃いの装備なんだよ、どんだけ仲良しなんだこいつら。しかも内一人はトロールみたいな巨漢である。重過ぎ、笑えねぇ。
 レベル3忍者に殲滅されるリア充重戦士(タンク)トリオの見掛け倒しっぷりを嘲笑してやりたい気分だ。瑞鶴さん(仮名)のパーティーにいるからって浮かれてんじゃねぇよ。前衛共、仕事しろ。彼女に迷惑かけてんじゃねぇよ。あと爆発しとけ。おっと灰化しそうだよな、冗談抜きに。不謹慎だった、すまん。だが爆発はしとけ。

「──この辺に一旦まとめとこうか。そっちの奴、梱包してここまで引き摺って来れるか?」
 一応、配慮して比較的に軽そうな奴なんだが……高校時代より身長も体格も成長した筈の俺より、体格良さげとか正直泣きたい。ハイマスターとは一体何だったのか。なんで遥か低レベルの戦士(ファイター)に負けてんだよ、意味解んねぇ。格差か? これがリア充とぼっちの格差なのか?
「は…はい……が、頑張ります…」
「任せた。あと、これ持ってろ」
 玻璃瓶(照明)を適度に調光し、彼女の首に掛けてやる。これなら両手が塞がっても足元は明るいだろう。
「ふぁっ!? ────あ、あ…の、いいんですか? 大事な物、ですよね?」
「大事な上に極めて希少で高価だ。何かあったらお前の預金残高がかなりヤバい事になるので無傷で返却するように」
「あははっ、それは困ります。大切に扱いますね」
「おう、そうしてくれ。じゃ、さっさと取り掛かろうぜ」
「はい!」
 瑞鶴さん(仮名)が素直な良い娘過ぎて惚れてしまいそうなほど好感度とかいろいろヤバい。これって絶対吊り橋効果とかそんなのあるよね? それとも五航戦だからか? くっ……俺とした事が……うっかり思ってしまった。

 この笑顔、護りたい────と。


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白き孤影のハイマスター

 最大の難敵、トロール男を二人がかりで引き摺って、漸く五人分の死体を一箇所に集める事はできた。

 だがやはり経過時間が気がかりだった。他の階層ならここまで心配はしないのだが、死肉大好き巨大ムシ天国みたいな地下四階では話は別だ。いつ襲撃されるか、どれほどの数で来るか気がかりでならない。俺一人で殲滅できる群れなら迎撃すれば済む話なんだが……

「ここで一旦、キャンプだな。簡易結界の中に死体を入れておけば気休めくらいには虫除けになるし。警戒しとくから結界の方は頼むわ」
「はい、任されました! 私、結界張るの得意なんですよ」
 流石だな、五航戦。空母の結界って対空防御とか輪形陣とかそんなやつか? 烈風ガン積みしてんの? 俺としては江草隊や友永隊とまで言わんが、できれば彗星一二型甲とか流星改とかも積んでいて欲しいのだが。冗談抜きに、いざという時の直接支援火力(ダイレクトサポート)的な意味で。
 正直、俺は緊急時に彼女を戦力として扱っていいものか判断に迷っていた。果たしてこの娘は自力で自分を守れるのか?
「…変わった特技だな。まぁ、手早く頼むわ。少し休憩入れようぜ」
「あ、やっと休憩ですか? 良かった~、もうくたくたですよ……」
 言いながらもテキパキと簡易結界を用意する瑞鶴さん(仮名)。まだ余裕ありそうに見えるが、あんまり無理させる訳にもいかんしな。つーか、こっから本番だから。
 エレベーターで地下一階まで上がればモンスターの脅威は減る代わりに、距離と経路が問題になって来る。
 街までテレポート(マピロ・マハマ・ディロマト)させてくれる謎の老人、通称転移じいさんが居座っている部屋がこの依頼のゴール地点なのだが、そこは魔法の光すら闇に呑み込む暗黒地帯(ダークゾーン)の真ん中であり、エレベーターのある昇降フロアから二百メートル近く離れていた。道は一直線なのがせめてもの救いだが、視界ゼロの真っ暗闇を死体を引き摺りつつ、手探りで目的の部屋に到達しなければならない。そしてトロール男は二人がかりでも超重たかった。それを二百メートルだ。軽く走っても三十秒くらいの距離なのになぁ。それを重量抱えて二人で三往復──か、なんかもう考えただけで疲れるわ。今日はこれで街に帰ろうかなぁ……体力より心のケアが要るわ、これ。具体的にはマッカン飲みてぇ。無いからマッカンカッコカリで妥協するわ。とにかく飲みてぇ。

 死体に囲まれてキャンプとか、字面だけ見たらエキセントリック過ぎて正気を疑われそうだが、散々拾ったり集めたり括りつけたりと、司法解剖の医者か葬儀屋並に触りまくった後だけに、忌避とかそういったネガティブな感情は既に湧かなくなっていた。
 瑞鶴さん(仮名)も似たような心境なのか、至って平静だ。まぁ過度の精神的ストレスと重労働で一時的に感覚が麻痺してきているのだろうとは思うが……少し心配だ。PTSDに似たような症状はこの世界でも普通に存在している。この状況はそうなっても不思議ではないキツイ展開なのではないか? あと、俺も死体を担いだり捏ね繰り回したりで、何か大事な数値(SAN値)とかガリガリ減った気がします、誰か優しく癒して下さい。

 俺と瑞鶴さん(仮名)は玻璃瓶(照明)を間に、向かい合って座り込んではいたが、お互い黙り込んだまま、ただ仄暗いダンジョンの闇に視線を彷徨わせていた。
 疲れて口を開くのもしんどい──と言うのは建前で、本音は出会ったばかりの女の子と二人きりで差し向かい等と云う、ぼっちには難易度の高すぎる非常事態をどう穏便に切り抜けるかで俺の頭の中は喧々囂々としていた。結局、こういった微妙な時間は学生時代における休み時間の過ごし方と同じく、瞑目からの寝たふりがベストであると、脳内作戦会議は全会一致でこれを可決。直ちに実行するつもりが、目を閉じるよりも早く、五航戦に機先を制されてしまった。

「──あの…少し、お話とかしてもいいですか?」

 一応、周囲と背後を確認する。ひょっとすると横の死体に話し掛けたのかもしれない可能性もある以上、迂闊に返事はできない。一通り周囲を見回し瑞鶴さん(仮名)を窺うと、こちらをじっと見つめていた。
「…………俺?」
「なんで疑問形!? 他に誰もいないのに!」
「あ…いや、そこのホビットの亡骸(ケインくん)に話しかけたのかもしれんし? ほら、会話してる相手と違う奴に返事されたら気まずくなるだろ?」
「二人っきりなのに、どうして自分じゃなくて死んでるケインくんに話しかけたと思っちゃうんですか!? 意味解んないんだけど!」
 おい、うっかり二人っきりなんて単語を出すな、考えないようにしてたのに。意識しちゃうだろ。
「あー、ほら…アレだよ、交霊術とかコックリさん的なアレかなと。ここって剣と魔法の(ファンタジーな)世界だし、そう云うのもあるかもしれねぇだろ? 気を遣ったんだよ、察してくれ」
 瑞鶴さん(仮名)は盛大な溜め息をついた。おい、その残念な人を憐れむような目で見るな。新たなトラウマになるだろうが。
「その気の遣い方、絶対間違ってますよ? それに、こんなとこでコックリさんなんて怖くてする訳ないじゃないですか……仮にそうだったとしても、普通何かするなら、ちゃんと断ってから始めますよ、二人しかいないんだし…」
「いや……普通、俺には(・・・)何も断ったりしないだろ…………その…ぼっちだし、俺」
 最悪、睨みつけるまである。邪魔、どっか行け──的な。まぁ、最近はそう云うの無いけど。寧ろ、何かある時は強制連行、強制参加からの、俺の意見は自動的却下がデフォルトになりつつあった。当然、全て事後承諾……すらねぇし。拒否権も事前連絡も確認もねぇ! 挙句、金づる(ATM)疑惑まである。俺の周囲に多少、人が増えたにも関わらずなぜかこの有様で、やはりぼっちである事になんら変わりが無いどころか、厭な方向に超絶悪化してんだが。
 あと、二人しか(・・)の部分を強調するな。ほんと、意識しちゃうから。
 俺が近況の理不尽さを憂いていると、何やら察した様子の瑞鶴さん(仮名)は悲し気に俯いてしまった。いや、察してくれとは言ったが……あれ? そこは目を逸らしてあからさまに話題を変えるとか、急な用事を突然思い出して会話ぶった切りとかの流れじゃないの?
「あの……えっと……なんか、その…ごめんなさい」
「……あー、気にすんな。いつもの事(・・・・・)だから」
 そう、いつもの事だ。だが今日は久し振りの単独行動(ソロ)だからこうして俺の好きにやれている。奉仕部とかその最たるものだ。罷り間違ってもあいつらに奉仕部の存在を気取らせる訳にはいかねぇからな。意味が違う奉仕活動を二十四時間体制で強制されるに決まっている。
「いつも…なんですか……あの、私でよかったら相談に乗りますよ? あまり出来る事は無いかもだけど──それでも…それでも話し相手がいるだけで絶対違うと思いますし!」
 ……何やら盛大な勘違いをされてしまったような気がして、そこはかとない不安を感じるのだが。あと、ハブにされて悩んでる人向けみたいな微妙な対応は止めて下さい。好きでぼっちをやってる人だっているんです! ……最近、自分でもぼっちの意味が解らなくなる時もあるけどな。
「…いや、ほんとそう云うのいいから。つーか、俺の事は捨て置くとして──で? なんか話あんだろ?」
「ちゃんと聞いてるじゃないですか。最初から素直に返事してください……て言うか、捨て置けちゃう軽い話じゃなかったですよね!?」
 やたら食いついてくるな……なんなのこの娘? 良い娘なの? うん、知ってた。戒律(アライメント)が〝善〟の奴ってみんなこう(・・)なのかね……確かにこれは相容れないわー。
「──で? なんか話あんだろ?」
「聞かなかったことにされた!?」
「──なぁ、am11pm7のプレミアム宇宙キーマカレーって20ゴールドもぼったくる割にイマイチ不味いよな。俺としてはもう少し美味けりゃ週二で食いに行ってもいいんだが」
「強引に話題が変わった!? しかも全く関係無い話だ──て言うか、キーマカレーがあるんですか!? その話詳しく聞きたいんですけど!?」
 瑞鶴さん(仮名)って割とノリが良いよな。ツッコミ気質だし。あと結構、言葉遣いがアバウトなんだな。
「──で? お前、なんか話あんだろ?」
「ちょ──ま、待って! 話題振っておいて、さらっと流さないでよ! そんな事どうでもいいから、キーマカレーについて詳しく説明してよ!」
  ……必死すぎだろ。そんなにカレーが食べたいか。まぁ解らんでもないが。俺の知る限りカレーらしきモノ(・・・・・・・・)を提供してくれるのは城塞都市広しと云えどもam11pm7だけだ。リルガミン王国で唯一かもしれん。
 つーか、言質取ったからな? さっきの話は〝そんな事どうでもいい〟んだから、もう蒸し返させねぇ。
「……なんだ知らねぇの? バラック通りの場末にam11pm7ってコソビニがあってな、そこの店長が以前、宇宙大王ってカレー屋っぽい別の何かをやってた流れで、今でもビスクファルス風本格印度キーマカレーっての売ってんだよ」
 因みにビスクファルスってのは城塞都市の正式名称である。城塞都市って名称が一般的になり過ぎて誰もそう呼ばないのは、トレボー王の元の家名がビスクファーンであり、それを軽々しく口にするのを忌み、憚ってるってのが元々の理由だそうだ。そんな曰くを異世界人の俺ですら知っているのに、周囲の空気をガン無視して堂々とビスクファルス風を謳っていた。どんな店かはお察しである。
難民居留区(バラック通り)なんて怖くて昼間でも近付けませんよ……それに、え…えーえむ、いれぶん、ぴーえむ、せぶん……って、どんだけやる気が無いんですか」
「日頃の言動や経営態度から察するに、全力でウケ狙いに走っているとしか思えんな。それも暴走気味な感じで」
「芸人さん? ……でも、コンビニとしてどうなんですか、それって」
「そんな上等なものがエセルナート(ここ)にあるわけねぇだろ────コ()ビニ、だ」
 ローソンとかセブンイレブンあったら日参で通うわ。マッカン置いてるなら、もうギルガメッシュの酒場にも行かねぇし。くそっ……思い出しちまったじゃねぇか。マッカン飲みてぇし、ピザまん食いてぇな。あー、ガリガリ君かじりてぇ……
「え? コソ……こそびに……こそびにってなにー!?」
「知らんでいい。寧ろ知ってはダメだ。穢れる。あとSAN値も減る。なるべく関わらない方がいい。最悪、向こうから這い寄って来る様になるし」
 どこのニャル子さんだよ、それなら寧ろ大歓迎だ。ララなんとかじゃなく、ニャル子さんに逢いたかったわ。真尋、ちょっと今すぐ俺と変わってくれ。
 だが、あんなのでもある意味宇宙的恐怖の深淵(コズミックホラー)の一つと言っても過言では無い。店長、宇宙人だし。もうほんと、エセルナートって割となんでもありだと思う。取り敢えず、店長(チャダ)は全インド人に謝れ。お前のせいでインドはとんでもない風評被害受けてるから。
「け、穢れるって……一応、カレー屋さんですよね?」
「違う。〝カレーらしき別の何か〟()扱ってるコソビニだ。あれは断じてカレー屋ではない。アレをカレー屋のカテゴリーに入れてしまう事は全宇宙のカレー愛好家に対する挑戦であり──冒涜だ」
 どっかの黄色いカエルみたいな宇宙人が知ったら戦争になるんじゃね? カレーを巡って異世界で宇宙人同士の星間戦争(スターウォーズ)か、胸熱だな。どっか他所でやってくれ。
「結局、なんなんですか、そこ……て言うか、ほんとにあるなら食べたいです……カレー」
「正確にはカレーらしき別のものだけどな。一応、俺の中ではカレーって事にしている、俺の中では──」
 大事なことなので二回言った。アイツには全否定されてたからな。後でコレジャナイとか俺に言われても困る。
「ま、アレに20ゴールドの価値をお前が見出せるなら一度食ってみるのもいいんじゃね? 暇な時にでも訪ねてみろよ。あんなもん探すまでもねぇから。ある意味、城塞都市で一番目立つ店だからすぐに見つかるだろうよ。後、何が出て来ても正気を失わないように……警告はしたからな?」
 何かあっても苦情は受付けねぇ。文句があるならチャダに直接言うなり、保健所か消費者庁にでも相談してくれ。
 だが、アレを食すとなると瑞鶴さん(仮名)にもそれなりの覚悟が必要だろう。ダンジョンで戦うのとは違う種類の覚悟かもしれないが。少なくとも俺はその出所や中身、製造過程、調理人の素性に至るまで全て、目を瞑り耳を塞ぎ深く考えないようにする事で、己の精神の安定を図りつつ週一で通っている。リルガミン王国では珍しい白米のご飯が食べられるのも地味にポイントが高いからな。乗っかってるのが例えカレーっぽい何かだとしても。
「…えーと、いろいろ意味不明だけど……今度、探してみます。カレー食べたいし」
 なぁ……その、案内して欲しいなー、してくれないんですか? みたいな上目遣いはやめろ。ほんとやめて。うっかり誘ってしまいそうになるから。あと、必死だな瑞鶴さん(仮名)、どんだけカレーに飢えてんだよ。戒律(アライメント)とか完全に忘れてるだろ。
「おう、そうしろ──あの通りは割と物騒だから、仲間(・・)と一緒に行った方がいい……そいつらを生き返らせてから、な」
「は──はいっ! そうですね、まずは…ちゃんとみんなを生き返らせてあげないと…」
 案外、余裕ありそうだな。こんな状況なのに食欲に気が回るんだから、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とか特に心配する必要もなさそうだ。彼女もワードナの地下迷宮で冒険者を続けている時点で精神面は相当タフなんだろう。やはりダンジョン(ここ)で修練積んでレベルを上げてると心も強くなるのかね。尤も、フラッシュバック的な感じで街に戻った後どうこうなったとしても、それは俺に関係の無い話だ。俺は専門医でもなんでもないからな、それに心のケアは生き返った仲間がしてくれんじゃね?
「…だったら、地下四階(こんなところ)でもたもたしてられんだろ。もう少し休憩したら、さっさと運ぶとしようぜ」
「はい! ──て、そうじゃなくて、あの!」
「なんだよ、まだ何かあんのか? 俺は別に城塞都市のグルメガイドじゃないから他に変な店なんて知ら──」

 ……来たか。

「そんな事聞いてません! そうじゃなくて、私まだ貴方の名ま「喋るな」」
 俺は一瞬で彼女に近付き、口元を押さえて強引に言葉を遮った。迂闊に俺も声を出せないので耳元で囁くしかないのだが、これは不可抗力であって他意はない。断じてない。ほんのり良い匂いがするとか、これっぽっちも感じていない。
「ふぐ…んん──っ!?」
「声を絶対に(・・・)出すなよ────見ろ」
 玻璃瓶を片手で手早く懐にしまい込む傍ら、彼女にも解るように天井を指差した。俺の突然の行動に顔を真っ赤にして暴れ出しそうな様子だった瑞鶴さん(仮名)だが、すぐにこちらの意図を理解してくれた。俺に(・・)襲われると誤解されてもこの際、致し方なしだったのだが、理解が早くて助かった。賢い娘だ。
 瑞鶴さん(仮名)は俺が指し示した天井に目を向けた。訝しげだった彼女の表情が、次第に玻璃瓶の明るさから仄暗いダンジョンの闇に目が慣れて来るに従って目に見えるほど青ざめ、見開いた大きな目には恐怖がありありと浮かんだ。密着するほどの距離で俺は彼女の身体が強張って行くのを感じた。震える彼女の色白の手が、純白の忍装束(ニンジャガーブ)の袖をぎゅっと握り締めた。

 真っ暗なダンジョンの天井に、無数の赤い光点が満天の星空のように浮かんでいた。

 回廊の南側にも、北側にも、赤い星が蠢いている。
 いずれ遠からずこうなると分かっていたので俺はさほど驚かなかったが、想定していた以上に数が多かった。多少の数なら彼女を護りながらでも撃退できると踏んでいたのだが……これは多過ぎる。俺はある決断を迫られた。

「…時間が無いから黙って聞け。反論はナシな?」
 彼女はすがる様な目で俺を見つめ、黙って頷いた。

「お前の依頼なんだがな、俺にできる事はここまでだ。そこから先は、お前独りでなんとかしろ」

 俺の言葉を理解した彼女の瞳は瞬く間に涙で歪み、それでも黙って俺を見つめていた。俺の袖を握り締めていた震える彼女の手を強引に離し、その手を無理やり開かせる。
 彼女がどんな気持ちで聞いているのか手に取るように解った。俺っていつからニュータイプに覚醒したんだろうな。
 これで二度と会う事は無いと思うと少しばかりの寂寥感を抱いてしまうが、結局のところ彼女は俺にとって〝瑞鶴〟でしかなかった。名前も知らぬ巫の冒険者ではなく、艦これの正規空母、ゲームの中の彼女、レベリングすらまともにしなかったさほど思い入れの無い艦娘──俺に都合の良い架空の存在でしかなかったから、彼女は俺を嫌悪しなかった。俺に裏表の無い優しい笑顔を向けてくれた。だからこれほど良好な関係が短時間で築けた。これはダンジョンの中で見た白昼夢、最初から幻想だったのだ。だから、この欝になりそうなシチュエーションも、彼女と会話するのもそれほど厭じゃなかった。それなりに悪くない夢だった。ならば俺に────

 迷いは無かった。

 背中のベルトに固定していた緊急脱出用の転移の兜(リング オブ ムーブメント)を外し、瑞鶴の震える手にしっかりと握らせた。
 西遊記のサルが頭に嵌めてる輪っかみたいなこの魔法の兜(アーティファクト)があれば彼女の問題は全て解決する。
 たった(・・・)二万五千ゴールド、艦娘に逢えたと思えば安い買い物だ。きっと全財産でも投げ出せる提督達もいるだろうしな。ドサクサに瑞鶴の手も握ったし? 嫉妬に狂って俺に殺意を抱く提督もいるんじゃね?

魔法遺物(アーティファクト)の使い方は解るよな? これの《転移(マロール)》で今すぐ地下一階の入り口(エントランス)までテレポートしろ。バリケードの内側だからな、間違えるなよ? そこにいる衛兵に頼めばカント寺院まで運んでくれるから。全員分の死体がちゃんとパーティーに編成されているかだけ確認しとけ。取り残されたら、もう跡形も残らんだろうからな」

 俺は伝えるべき事を言うだけ言って、覆面を被り直しながら彼女の張った結界の外に出た。同時にニンジャガーブのステルス機能をオンにする。
 己の姿を半透明にする魔術(メイジ)系2レベル呪文(スペル)透身(ソピック)》と、一定間隔であらゆる干渉を遮る次元障壁で身を包む精神学(サイオニック)系3レベル呪文(スペル)点滅(ブリンク)》が同時に発動し、それに連動して純白のマフラーから湧き上がった魔法の干渉を妨げる白い霧が俺の体を包み込んだ。ぼんやりと白く朧げな姿になった俺は簡易結界を背に付かず離れずの距離で巨大蜘蛛の群体と対峙した。
 弱いから姿を隠し、小心だから正面を向かず、怖がりだから近付かない。自分だけ魔法で守りを固めて、隠れる事ばかりに苦心する俺の背中はきっと誰よりもか弱く儚いだろう。彼女はどんな顔で俺の背中を見ているのだろうか。悪いな、俺は戦士でも侍でも、勇者でもなんでもない、ただの忍者だから。やはり俺が誰かを護って戦うなど間違っている。

 瑞鶴は結界を張るのが得意だと言った。その言葉が額面通りならこの大群の中でも少しは持つ(・・)だろう。ならばその〝少し〟を稼ぐ事ができれば、彼女の依頼は達成できる。

 ────身体は鋼に。

 きっと彼女はこんな形で自分の望みが叶うとは思っていなかっただろう。俺もできればちゃんと彼女に死体の回収をさせたかった。どんなにしんどくても。だがそう(・・)はならなかった。たったそれだけの話だ。

 ────心に刃を。

 そもそも最初から俺が身銭を切ればそれで簡単に解決する依頼だった。
 要は俺が虎の子の転移の兜(リング オブ ムーブメント)を初対面で見ず知らずの彼女に供与できるかどうかと云うだけの事。あの時、真っ先に思い付いた、一番手っ取り早い解決法だった。脊髄反射で却下したけど。当たり前だよな、なんで俺が見知らぬ女の為にレアアイテムを投げ出さなきゃならんのだ。
 だが結果的に彼女は二万五千ゴールドの希少な魔法遺物(アーティファクト)を使わせる事に成功した。出会ってからの短期間で、俺に切り札を切らせてもいいと思わせるまで、彼女はせっせとフラグを回収して俺の好感度を上げていたのだ。そうでなければ「諦めろ」の一言で彼女を抱えてエレベーターに飛び乗りそれで終わりである。
 だから何も問題無い。彼女は自分で助かった。俺を動かすと云う方法で。俺は死体の梱包を手伝っただけ。ん、これなら雪ノ下も納得すんだろ。つーか他に解決方法はないし。だから、これでいい。
 この儚げな簡易結界を離脱するまでの僅かな時間護り切れば依頼は達成である。ははっ、エセルナート(こっち)の奉仕部は実にイージーだ。楽勝過ぎて俺独りでもなんとかなっちまう。雪ノ下がここにいたら、この世界の問題は全部解決すんじゃね?

 ────さぁ、始めようか。悪いが蹴散らすぜ。

 巨大な蜘蛛の群れが最初に突撃を仕掛けたのは、嫌らしい事に結界を挟んだ反対側からだった。俺は振り返り様、六枚の手裏剣を左右に放ってそれを迎撃した。綺麗なカーブを描いて結界を躱した六条の流星が、迫っていたヒュージースパイダーの群れを薙ぎ払った。七、八体は纏めて粉砕できたかもしれないが、手裏剣が自動装填(リロード)されるまで待っていられない。敵は次々に這い寄ってくる。
 天井から落下して来る奴がざっと五体、左右からも同時に三、四体が迫っていた。まだ暫く(・・・・)俺のターンは終われない。
 無手となった掌の指先まで力を込めて、ほんの一拍、気合を込める。

 これが、師匠直伝の──

 勢いをつけて体ごと回転しながら左右の手刀を一気に振り抜いた。音速で駆け抜けた見えない刃が旋風となって空気を螺旋に切り裂く。空中にいたヒュージースパイダーは全て真空波に切り刻まれバラバラになって周囲に飛散し、こちらを包囲する様に接近していた奴等も纏めて真っ二つに粉砕した。ちょっとした殺虫ミキサーだな。

 ──忍火流忍法、円空かまい太刀だ。

 師匠のオリジナル忍法らしいが、ネーミングセンスに俺とは相容れないものがある。材木座とは方向性が違う中二病なんだよな、あの人は。無駄に熱いし。何が炎のニンジャマンだよ、者とマンで意味被ってるじゃねぇか。だが……この忍法は便利だ──上層限定で。最下層ではあまり役に立たない事は師匠の名誉の為にも秘密にしておかなければならない。

 両手に手裏剣が戻る。すぐさま俺はそれを正面と後方に向かって乱れ撃つ。伝説の武器(レジェンダリー ウェポン)の一つに数えられる逸品だけあってか、威力が強すぎて後続にも貫通して次々と爆散する巨大蜘蛛や巨大カナブン……ボーリングビートルも混じってやがった。今、ドラゴンフライまで湧かれると迷惑だな。幸いまだ天井付近の空間に耳障りな羽音の巨大トンボは飛んでいない。一応、警戒しとかないとな。
 続けて再度、手刀での円空かまい太刀を放った。群れごと纏めて押し潰せた代償に、両の掌の毛細血管が破裂して五指全ての指先から出血していた。俺の軟な腕では連続使用に耐えきれないようだ。本来、刀で使う技らしいからな、そもそも使い方が間違っている。
 血塗れになった両手は痛みよりも、痺れの方が酷かった。感覚が鈍い。これじゃ宝箱の罠を解除するのは無理だ。だが手裏剣は投げれる。円空かまい太刀もまだ放てる。何も問題、無い。俺は三度目の円空かまい太刀を振り抜いた。誰に傷つけられた訳でもないのに流れ出た血が派手に飛び散る。骨が軋む。
 遠く闇の向こうから嫌な羽音が響き始めた。ちっ……ウザいのも寄って来やがった。
 虫相手でも結構しんどいな。死体を瑞鶴と運ぶ方が楽だったわ。


 刹那の時間を稼ぐだけでいい話の筈が、やけに時間が掛かる気がする。
 まぁ集中して《転移(マロール)》を発動させる訳だから多少は時間が掛かるのは仕方ないか。魔術師(メイジ)の奥義みたいなもんだしな。
 五度目の円空かまい太刀が限界のようだった。流石にこれ以上は手裏剣の投擲に支障が出る。仕方ない、自動装填(リロード)待ちの間は直接殴るか、拳で。殴る蹴るの喧嘩はやったことは無いが、やれば一撃で首を刎ねられるくらいには鍛えてある。忍者の必修科目だからな、素手の格闘術は。虫くらい余裕だろ。あんまりやりたくないけど。寧ろ素手で触りたくない。
 簡易結界は健在だった。瑞鶴の張り方が良かったのか、俺の働きあってか、ともかくまだちゃんと機能していた。その結界に青白い光を派手に放つ魔法陣が浮かび上がった。
 漸く《転移(マロール)》が発動したようだ。転移魔法陣さえ正しく発動させたなら、もう多少モンスターが近付いた所で魔法陣そのものが放出する膨大な魔力(マナ)が障壁となって遮るだろう。
 魔法陣の中で佇む瑞鶴と目が合った。おい、そんな顔をするな。あとまた泣いてるじゃねぇか、それは仲間が生き返った時に取っとけよ。
「──忍者さん!」

 …………誰? あ、俺の事か。瑞鶴の奴、俺をそう呼んでいたのか。そのまんまだな。

 テレポートが始まった。周囲の空間が歪み、青白い光に包まれて行く。
「……じゃあな」
「私、ひいら──」
 訣別の言葉は瑞鶴に届いたろうか。彼女は消え行く瞬間、何か俺に叫んでいたようだが、それは正しく伝わる事無く、眩い光の中にかき消されてしまった。
 ……ひいら? ひいら……ぎ? ヒイラギ、樹木だな。ひいら……ぐ? 疼ぐ? 国語の学年順位3位を舐めんなよ、ひりひり痛いって意味だ。え? 瑞鶴の奴、最後の最後で意味不明なもん置いて行きやがった……
 ……まぁ、どうでもいいか。これで終わった(・・・・)。瑞鶴の依頼は達成だ。久し振りに奉仕部でいられた。悪くない結果だ。さて────

 俺は最下層に向かうとしようか。割と本気で稼がないといけないからな。

 テレポートの残光が完全に消えて、再び仄暗いダンジョンの闇に戻った時、俺は既に簡易結界があった場所から離脱していた。
 巨大な蜘蛛やカナブンの間をすり抜け、朧な白い影がダンジョンの闇に音も無く疾走する。
 ブルーリボンを一日に二度使うと云う得難い体験を経て、俺は第二昇降フロアまで一気に駆け抜けた。玄室に緑のドラゴンみたいなのとか居たけどスルーだスルー。手が痛いんだよ、また今度な……瑞鶴のパーティー、ブルーリボン持ってたら後衛だけで緑竜(ガスドラゴン)が待ち構える玄室に闖入してたのか。結局何やっても詰んでたんだな。逃げる方向を間違えた時点で。
 地下九階まで一気に下降できるプライベートエレベーターに乗り込んだ俺は、迷う事無く〝9〟のボタンを押した。ガコンッと一瞬不安になる機械音がエレベーターのかご室の外で響き、その後ゆっくり下降し始めた。俺は操作盤の側の壁にもたれかかり、その場に腰を下ろした。ポーチから聖水を取り出し、手早く両手に治療を施す。ついでに非常食の干し肉を一切れ齧った。あんだけ死体をどうこうした後だってのにちゃんと食欲が出る。肉を食べられる。俺の心も相当鍛えられてんのかね。とてもそうは思えんのだが。

 やっと一息付けた……ここはダンジョンの中では珍しい安全地帯だ。モンスターは階段を昇降することはあっても、エレベーターの中には入ってこない。なぜだかは解らないが、きっと魔法的な何かだ。深く考えるだけ馬鹿らしい。それよりマッカン飲みてぇ。エレベーターの側にはだいたい自販機置いてあるだろ? ワードナ、コカ・コーラの自販機置けよ、気が利かねぇな。

 地下九階に到着するまでの一時、下降するかご室の微かに揺れる壁に身を委ね、独り瞑目する俺は不思議と穏やかで和らいだ気分になっていた。やはり独りだと楽だ。まぁ瑞鶴もさほど悪くなかったが、彼女といて落ち着かなかったのは確かだ。そこがあいつらとは決定的に違う。だがやはり俺は独りがいい。
 まぁでも、悪くなかった。たまたま出会ったのが榛名や飛龍でもなく、瑞鶴な辺りが俺らしい。おかげで何の未練もねぇしな。


 普段はツンツンしてなかなか微笑んでくれない幸運の女神も、今日はデレてくれそうな気がする。幸運艦の瑞鶴に少しはあやかれるかもしれない。

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黎明編 城塞都市の比企谷八幡

 ガタガタと激しく揺さぶられ、俺は目を覚ました。

 すぐに意識を失う前に感じていた苛立たしさと恐怖が蘇る。
 俺は反射的に周囲を見渡し、あのラマを探していた。不愉快な金毛はどこにも見当たらな……ラマとかそんな状況ではなさそうだった。なんだ…これ?
 助かったとはとても思えない。これは明らかにあのおかしな真夜中の────続きだ。

 ……つーか、どうなってんだ、これ?

 なぜか俺は馬車に乗っていた。乗せられた──が正しい筈だ。乗った記憶が無いからな。あと千葉に路線バスはあっても路線馬車なんてものは存在しない。そもそも日本で馬車が使われている事すら疑問だ。この時点で既に嫌な予感しかしないのだが、きっとこれはまだ本番ではない。馬車で移動しているからには、どこか目的地がある筈だ。そこ(・・)からが、きっとこの非常事態の本番に違いない。

 俺の脳裏にはとある箱庭RPGのオープニングが過っていた。
 そのゲームの主人公は何の説明も無いまま馬車で処刑場に運ばれて行くのだ。主人公が処刑されそうになる直前、ドラゴンが襲って来て──思わず俺は隣の席に目を向けていた。ゲームではそこに反乱軍のリーダーが囚われているからだ。座っていたのはむさ苦しい王様ではなく、小さな女の子だった。多分、小学生くらいだな。だが少し体形がおかしい。
 違う……のか。
 僅かばかりの安堵と、同じだけの失望……実はちょっとだけ期待していた。俺がドラゴンボーンならそれはそれでアリかもしれない……と。仕方ないよね、男の子だもん、ドラゴンボーンに憧れたって。盗賊ギルドと闇の一党のシナリオは面白かったしな。その場合、あのラマをほんの少しだけ見直してやってもよかった。だがどうやら違うようだ。俺の正面に座っていた男は、タフで勇敢な反乱軍の兵士などではなく、チャラそうな若い男だ。こんなチャラそうな奴と窮地からの脱出行なんて無理ゲーにも程がある。てか、隣の美人を口説いてんじゃねぇよ。

 ここは俺の知るゲームの世界ではない…とは思うが、それでも処刑場に連行されている可能性はまだ消えていない。恐らく現場に到着してしまうと打つ手は無くなるのではないか?
 逃げ出すなら今しかない……のだと思うが、走行中の馬車から飛び降りる度胸は流石になかった。無理。超怖い。それに痛そう。馬車って案外速いんだな。
 それに目が覚めた瞬間から、俺は姿勢を保持するだけで割と必死だ。この安定性が皆無で、半ばすし詰め状態の狭い荷台で素早く身を翻して飛び降りるとか難易度が高過ぎる。
  ガラガラと車輪の音が激しく響き続ける中、車体全体が揺れ続けていた。
 俺が目を覚ます切っ掛けになった酷い揺れは馬車が悪路に入ったからだ。今もまだそこから抜け出していないようで揺れがとにかく酷い。
 路面がアスファルトどころか石畳ですらなく、ただ地面を平らにしただけのむき出しのデコボコ道だからだ。それもかなり適当な工事である。きっとあまり整備していないな。道路公団は仕事しろ。
 乗っているだけで精一杯などという意味不明な状況下にあった俺は、逃げるどころでは無かった。

 とんでもなくヤバい事が、あろうことか俺に(・・)起こっている。それが具体的にどういった事なのかはまだ今一つ不明だが、その原因は──あいつしかいない。あの金毛のラマだ。ララ……ララなんとかだ。

 とにかく嫌な予感しかしない。この状況について納得の行く説明をあのラマに小一時間ばかり問い詰めたい所だったが、奴の姿は既に影も形もない。きっと今頃〝お茶会〟なのだろう。あのラマが怯えていたベルンなる人物──か、どうかは定かでは無いが──に、そこで酷い目に遭わされていれば多少なりとも溜飲が下がるのだが、今のところ奴ともう一度接触する方法は完全に不明だ。寧ろ二度と会いたくないまであるのだが、そうも言っていられそうにない。あのラマに連れて来られたのなら、帰る手段も奴が一番詳しい筈だ。あいつ、スマホ持ってたな──ダメだ、番号交換してねぇ。つーか交換したくない。

 これが本当に俺の〝願い事〟を叶えた結果なら、キャンセルやクーリングオフを交渉する相手は奴しかいない。とは言え、今ここにあのラマが居ない以上、自力でなんとか事態を打開する術を探る必要がある。

 馬車は木製で軽トラックよりも少し大きいと言った所か。荷台は簡易ベンチが左右向かい合わせで並んでいるだけの簡素な造りだ。幌も無い。
 そこに俺を含めて十人ほどが並んで座っていた。狭い。俺は御者側の一番端だ。隣には小学生くらいの女の子、気のせいか縮尺が変だ。彼女の反対側にはバスローブみたいなガウンの髭男、その更に向こうはよく見えなかった。
 目の前にはチャラい茶髪の外人男、長いので茶ラ髪だな。実に軽薄そうだ。クラスのトップカーストにこんな奴がいたな。そいつの横で口説かれている北欧系を彷彿とさせる金髪色白の美人。気のせいか耳が尖ってて長い。さらにその横には厳めし面の大男、少しみすぼらしい男が二人──見知らぬ外人が五人、並んで座っていた。こちら側の席も恐らく五人座っているのだろう……見たところ西欧系の外人ばかり。なんだこれ、どんな集まり? 俺、要らなくね? 帰っていいですか?

 御者は背中しか見えないが体格の良い男だ。毛皮のコートみたいなのを着ているが、そのシルエットからして多分レスラーか格闘家だ。背中を見ただけで解る、この人おっかねぇ。物理的に絶対勝てない。黒髪をウニみたいにツンツン逆立てている事から、俺はこの御者をウニ男と呼ぶ事にした。
 ウニ男の隣には修道女…らしき姿のガラの悪そうな女性が座っている。こちらも背中しか見えないが、足をだらしなく広げて投げ出し、座席に深々ともたれかかっていた。彼女は左手にデカいクロスボウを抱えていて、それが否応なく目を引いた。背中を見ただけで解る、この人おっかねぇ。馬車から飛び降りたなら、後ろから撃たれるイメージが瞬時に浮かんだ。今すぐ逃げるはナシの方向で。俺はロリクステッドの馬泥棒の様にはなりたくない。

 御者席の二人がとにかくヤバかった。おっかない二人が俺のすぐ近くに居座っている以上、悪目立ちするのは危険だ。今は大人しく様子見しかなさそうだった。

 空はどんより薄雲っていた。まだ少し薄暗く、空気が冷たく澄んでいた。霧の様な靄も出ている。まだ夜が明けきらない払暁と言ったところか。
 ジャケットのポケットを探るがスマホも財布も無い。血の気が一瞬で引いた。
 ズボンのポケットには家の鍵が入っていた筈だがこれも無かった。持っていた筈の持ち物は、全て無くなっている。
 着ている物だけは出掛けた時となんら変わりなかった。冬物のジャケットに、厚手のシャツとGパン、下着も多分そのままだろう。それとホムセンで買ったスニーカー。鋼板入りのやつなので足を踏まれても痛くない。いざと云う時のセルフディフェンスになる筈だが実際は、重いだけだ。
 それだけだった。
 俺は愕然とした。俺を俺と証明する物が何も無い。何処とも知れない場所で、俺と小町のいる我が家を繋ぐ物が何も無い事に気付いた。

 頭上の曇天と同じで明るい展望が何一つ無かった。

「あの……大丈夫ですか?」
 不意にジャケットの袖を引かれた。隣の小さな女の子だ。心配そうに俺を見つめている。そして全体的に等身とかどこかおかしい。
「……あ…その…」
「顔色、悪いですよ?」
 だろうな、気分も何もかも最悪だ。それが知らず顔に出ていたとしても不思議では無いが、俺としてはどうでも良かった。俺の腐った目が今更どんな風になっているかなど全くもってどうでもいい。あの晩、鏡の前の俺は酷い有様だった。きっとそれより酷い事になっているのだろうが、それで俺が気を遣わなければならない人間は今この場に誰もいない。そもそもそんな相手はいない。せいぜい小町と戸塚くらいだ。
「……えっと、大丈夫…です…」
「そうですか…あ、もうすぐ城塞都市に着くみたいですよ」
 城塞都市? どこだよ、それ。だがその城塞都市とやらを知らないで乗っているのはどうやら俺だけの様だ。他の同乗者にも彼女の言葉は聞こえていた筈だが誰も何の反応も示さない。当たり前の事だと言わんばかりに、流れる景色に目を向けていたり、じっと瞑目していたりと全く興味がなさそうだ。対面の茶ラ髪に至っては隣の金髪美人を口説くのに夢中なようで、何人かはそれを鬱陶し気に見ている。
 当の金髪美人は終始すまし顔で茶ラ男を相手にしている素振りは全く見えなかった。あれは脈が無い。つか、明らかにウザがられている。気付いていないのは多分、茶ラ髪だけだ。ここにいる全員そう思ってんじゃね? さっさと諦めて退散すれば笑い話で済むだろうに。深入りは危険だ。ソースは雪ノ下。あいつが興味無い或いは快く思っていない奴と会話する時の顔にそっくりだ。展開次第じゃ最悪、トラウマになるんじゃね? 茶ラ髪ざまぁ。知らん奴だけど、ざまぁ。

 不意に金髪美人と目が合った。おい、今尖った長い耳がピクピク動いたぞ、なにそれどこのエルフ?
 基本的に俺と目が合ったら露骨に嫌な顔をするもんだが……彼女はなぜかニヤリと不穏な笑みを浮かべた。不穏過ぎて漫画やアニメでたまに見かける丸く光る眼に三日月形に口角を吊り上げた笑い顔、そんな感じに幻視してしまった。あ、これ茶ラ髪死んだわ。

「──ねぇ、話の途中だけどちょっといいかな?」

 よく通る声だ。そして狙い澄ましたであろう悪路を抜け、石畳の路面に入って騒音が収まった絶妙のタイミング。彼女の可憐な声は、きっと馬車にいる全員が聞いている。

「なんだい? あ、君って声も綺麗だね、まるで──」
「あ、そう言うのいいから。キミさぁ──」

 そこで一拍置いたのは絶対わざとだ。殺傷力を上げるために"溜め"やがった。わざとらしく間を置いたせいで狭い馬車の中で注目がより集まった。

「口臭が臭くて堪らないんだ。周りに迷惑だからずっと息を止めててくれないかな?」

 死ねって事ですね、分かります。しかも公開処刑か。茶ラ髪、悲惨過ぎ。俺なら新しいトラウマになっている。寧ろ、そのまま引き籠りになるまである。そしてここは逃げ場が無い。晒し首の刑か──情け容赦無い致命打撃(クリティカルヒット)の殺人コンボだな……悪魔か、この金髪美人。あと、為て遣ったりみたいな満面の笑顔でこっち向くな。ウィンクとかしないで下さい。意味が分かりません、勘違いしちゃうだろ。それと、尖がり耳がピコピコ上下に動いてるんですがそれは一体……エルフなの? ディードリッドなの? ここはロードス島だったのか!?

 彼女の言葉で茶ラ髪は引き攣った笑みを浮かべたまま凍りついた。狭い荷台だからな、嫌でも周りの反応が解ってしまう。
 したり顔で踏ん反り返る金髪美人の横で、震えながら身悶えしてる厳つい大男。無理に笑いを押し殺すより、寧ろ腹抱えて笑ってやった方が救いになるかもしれんのにな。隣のみすぼらしい奴らみたいに。こいつらは爆笑している。きっとこいつらは事あるごとに吹聴して回るだろう。ソースは俺。他人のトラブルに居合わせた時、爆笑するような人間はその事を持ちネタにする。人の噂は七十五日なんて云うがあれは嘘だ。きっとこいつらは一生ネタにし続ける。
 隣の小さな女の子も身を捩って笑いを堪えているが、もう爆笑してるのとさほど変わらないくらいにバレバレだ。つか、俺の袖に縋り付かないで下さい。勘違いす……流石にねぇわ。プリキュアは画面の中にいるから萌えるのであって、現実の子供にどうこうとか流石にないわー。
 まぁ概ねそんな感じで、公開処刑は為され、茶ラ髪は見事晒し者である。果たして、ここまでされるような事か──と思わないでもないが、それを決めるのは実際に口説かれて(被害に遭って)いた彼女だけだろう。俺個人としては内心、彼女にグッジョブとサムズアップする程度には評価している。どうせ茶ラ髪はリア充だろ、爆発しとけ。
「──あの」
 小さな女の子が俺の袖を引いた。
「ん? なんだ?」
「あのエルフさん、お知り合いなんですか?」
「……知らねぇよ。なんでだ?」
 初対面だ。流石に間違えようも無いわ。つーか、やっぱりエルフなのか…………オークとか女騎士もいるん──いや、なんでもない。
「あのエルフさん、貴方にウィンクしてましたよ?」
「……気のせいだろ」
 よく見てるなチビッ子。てか、俺は見なかった事にしてんだから蒸し返すな。うっかり勘違いしたらどうすんだよ。エルフだぞ? ディードリッドだぞ!? 告って振られたら、もう立ち直れねぇだろうが…………つか、振られる事は確定なんだな、俺。まぁ確かに振られない未来は全く想像できないが。

「──な、な、お…おま…」
 茶ラ髪が再起動し始めた。湯気が出そうなほど顔面を真っ赤にしている。CPUに無駄な負荷が掛かってんじゃね? メモリとか足りてなさげだし。それと変なウィルスも疑ったほうがいい。チャラいだけになんか貰って(・・・・・・)いそうだ。
 つーか、キレちゃうタイプか、茶ラ髪。こう云う時は大人しく敗北しとけばダメージが最小限で済むのにな。相手は美人だぞ。勝ち目なんて最初から無いのが解らんとは……
 美人と金持ちとは喧嘩をしてはいけない──この世の理と言っていい至言だ。人の世はこれらに対して、絶対に勝てないようにできている。
 なにやら第二ラウンドと云う名の一方的な蹂躙が始まりそうな予感が、そこはかとなく荷台の中で漂い始めた。

「──ちぇめぇえぼぐほぁ」
 茶ラ髪が激昂したその瞬間、彼の頬はクロスボウの先端を捻じ込まれ何か大変な事になった。

「ヘイ、色男(ロミオ)黙ンな(Fuck yourself)。これはハイスクールのピクニックバスじゃねーンだ。発情す(サカ)るなら場所を弁えな。すぐに練兵場でタフな教官達に可愛がられ(be Gangbang)てヒィヒィ〝イ〟わせてくれるさね。てめぇの(くっさ)い口臭でこっちは息もできねーほど迷惑してンだ。街に着くまでその口閉じてろ。こっちは別に縫い付けたって(・・・・・・)構やしねーンだぜ? 解ったか(Ya dig)色男(ロミオ)?」

 いつの間にかガラの悪い修道女は装填したクロスボウを構えていた。おっかねえ…この人メチャメチャおっかねぇ! この人に比べたら平塚先生とか乙女だよ、可愛く見えるよ! 誰か貰ってあげて! 茶ラ髪、既に涙目じゃねぇか。てか口に穴開いてね?

 おっかない修道女の一喝?で、荷台の乗客は全員凍りついた。そのまま呼吸すら憚られる空気の中、馬車は軽快に森の中を走っていた。茶ラ髪? 体育座りでガタガタ震えてるよ。

 森をそろそろ抜けそうな頃、次第に辺りは木漏れ日に溢れ始めた。夜が明けたようだ。木々の合間から見える空が青い。覆っていた雲は何処かに流れたようだった。
「──あ、森を抜けますよ!」
 小さな女の子は前を見ながら俺の袖を引っ張った。おい、やめろ。ぼっちは小学生と話しているだけで通報されかける世の中なんだぞ。雪ノ下がいたら既に通報されているまであるってのに。
 森を抜けた。
 眩い朝日に照らされた世界は輝いて見えた。そして──

 緩やかな丘を下った先には城壁に囲まれた巨大な都市が広がっていた。その中心には旭日を背にそびえ立つディスティニーランドの象徴的なあのお城……よりも壮大にして威風堂々としていた。それが──否応無く俺に突き付けられた現実だった。

 おっかない修道女が荷台(こちら)に振り向いた。


「ようこそ、城塞都市へ。歓迎するぜ、新兵(ルーキー)共」


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訓練場の比企谷八幡

 俺とエルフを乗せた馬車は城門を抜けて街に入ることなく、城壁に隣接した大きな施設に直行した。あ、他にも何人か乗っていた気がするけど、割とどうでもいいよな。重要なのはエルフだけだろう。だってエルフだし。

 その建物は赤いレンガ造りで白い漆喰の重厚な佇まいをしていた。明治とか大正の西洋建築を彷彿とさせる外観だが、中の構造自体は多分、もっと旧時代的だろう。外から見る限り二階建てのようだが、地下室くらいは普通にありそうだった。
 玄関先の広場で俺らは馬車から降りるようおっかない修道女に促された。

「おら! さっさと動け新兵(ルーキー)共、もたもたしてんじゃねぇぞ! ステキな教官殿がお待ちかねだ、とっととパーティーの支度しな!」

 皆、ベンチの下から荷物を取り出して次々に馬車を降りて行く。一番奥にいた俺は順番的に最後なので何食わぬ顔でその様子を見ていたつもりだが、多少顔に出てしまったかも知れない。エルフさんが訝し気に俺を見て降りて行ったし、縮尺にどうも違和感がある小さな女の子──もうロリでいいや。ロリも何か言いたそうに俺に一瞥くれて下車していった。
 最後に残った俺は期待を込めてベンチの下を覗いた──ビンゴ。俺の座っていた席の下に、粗末なずた袋が一つ置いてある。荷台には既に誰もいない。全員が手荷物を持って(・・・・・・・)馬車を降りた。残っているのは俺だけ、そして袋が一つ。消去法でこれは俺の荷物と云う事にしてしまっても構わないだろう。つーか、この中にスマホや財布が入っている事を期待している。
 中身を確認する猶予はなさそうだった。あのおっかない修道女にどやされては堪らないので早急に降りるとしよう。だが一応、ベンチの下を全て見渡した。やはり他にめぼしい物は何も無かった。
「なあアンタ、少しいいか?」
 立ち上がろうとした時、ウニ男に声をかけられてしまった……これか(・・・)? ずた袋の所有権についてか? やべぇいきなり詰んだ。
「……あ、は…はい…」
「なんて言うか──頑張れよ。いろいろ辛い事があるかもしれないけど」
 激励されてる…だと?
「……は、はい……どう、も?」
 ウニ男は御者席から俺をまっすぐ俺を見ていた。当惑気味に俺が曖昧な返事を返すと目が合った。あ──あれ?
「……ア…アンタ、なんか心得があるのか(・・・・・・・)? 武術とか、武道とか──」
 は? 何言ってんの、この人……て、なんで俺に怯えているんだ(・・・・・・・)
「……いえ、別に…」
 俺の目を見て嫌悪されるのは毎度の事だ。腐っているだのなんだの言われるのもな。だがウニ男は、何か恐ろしいモノを見る様な目で、俺を見ていた。外見からして端から俺とは比較にならないほど強そうな格闘家(グラップラー)体形のマッチョが、だ。何この人、格ゲーの主人公みたいなゴツい顔して、チキンハートにも程があるだろ。
「そ、そうなのか? いや……とても素人には見えなかったんでな」
 ダメだ……この人、完全に目が節穴だ。俺の何処を見て────目か。
 初対面の人に盛大な勘違いをされてしまうほど腐っていましたか、そうですか。
「Hey 坊や(Cherry Boy)(ゲスト)殺し屋(ヒットマン)みたいな目してっからって、ブルってんじゃねェよ。腰にぶら下げてるご立派なのは飾りかァ? でけぇ図体して、なーにガキに睨まれたくらいでビビってンだ、シャキッとしな! だべってないで、さっさと積み荷を降ろさねェと宿(ホテル)でシケこむ時間が無くなンだろォがよ!」
「ちょ、ま──エダさぁぁんんんん!? なんてことを大声で言ってくれちゃってるんすかぁ!? あとビビッてませんから! 団長の目とそっくりだなーって思ってただけで、別にビビッてないですから!」
「うっせーンだよ! ンなこたァど──でもいいんだ、坊や(Cherry)。Hey ご同輩(Brother)! あんたにいろいろ(・・・・)レクチャーしてくれる親切なお姉さんのお迎えだ。とっとと降りな」
「は、はいっ」
 クロスボウを突き付けられた俺は全力で馬車から駆け降りた。何この人、ほんと超おっかない。アメリカのセインツでロウな箱庭ゲーかよ、ここは。チェンジで!
新兵(ルーキー)共は中の受付で登録して来い。騒ぐんじゃねーぞ。おら、もたもたすんな! ──殺し屋(ヒットマン)、てめぇはこっちだ」
 受付…登録…新兵(ルーキー)……大口開けて下品に喚くおっかない修道女はあまり楽しそうではない単語を連発する。嫌な予感は募るばかりだ。
 同乗者達はぞろぞろと黙って彼女の言葉に従って建物の中に入って行く。エルフとロリが途中一度こちらを振り返ったような気がしたが、別に俺を見た訳ではないだろう。他人の視線をいちいち自分に絡めて気にするほど俺は自意識過剰では無い。ほらあれだ、忘れ物がないか心配したのかもしれんしな。安心しろ、既に俺が確認した。使えそうな物は何も無かった。
 それと初対面の、それも明らかに堅気じゃない人から殺し屋(ヒットマン)呼ばわりされている件。いろいろネガティブな表現を駆使してディスられては来たが、遂に殺し屋ですかそうですか。腐った目と殺し屋みたいな目ってどっちがマシなんだろうな。その筋の人からすれば同義なのか? 無論、俺は殺人どころか軽犯罪の一つも犯した事はない、善良な千葉県民である。本当に闇の一党宜しく殺し屋家業を始めたら、いったい俺の目はどうなってしまうんだろうな?
 こっちだ、と修道女が顎で指し示した先には小柄な女性がクリップボードを片手に立っていた。着ている服装が古めかしい。てか、ファンタジー物のゲームやらアニメやらで見かける類のデザインだ。中世ヨーロッパ風? 俺としてはスカイリムっぽいの方がしっくりくる。つまり俺がドラゴンボーンの線もまだあると見ていい。エルフ、馬車、城、キーワードは十分だ……多分。アメリカ人? 居るに決まってるだろ、奴等が作ったんだから。
 年の頃は俺よりずっと上、平塚先生よりはやや下…と言ったところか。見るからに神経質そうで、眉間に皺を寄せて俺を値踏みするようにねめつけていた。第一印象は、関わり合いになりたくない。更に付け加えるなら、できれば会話も遠慮したい。
「こちらの方が今回の──」
「ああ、員数外(アウトサイダー)だ。アタシらが拾った新兵(ルーキー)は定員きっかり十人(・・)。だが数えてみりゃァ十一人(・・・)。毎度の事だがいつ紛れ込んだのか全く気付かなかったぜ。名簿は確認済みだ。この殺し屋(ヒットマン)だけ(・・)載ってねェ」
「なるほど…了解しました。こちらでお預かり致します。お疲れ様でした、デイム・エダ」
「お堅いねェ、お嬢ちゃん(Tootsie)。いっつもエダでいいっつってンのにさァ」
 デイム? デイム…でいむ…あー、どっかで聞いた…見た? 知ってる単語の気がするんだが……ダメだ。思い出せん。
「勤務中ですので」
「上司に言ってやれよ、それ。ンじゃ、後ヨロシク。Hey 坊や(Cherry)ギルガメッシュ(酒場)に繰り出すぞ! さっさと馬車回しな」
 馬車に乗り込んだおっかない修道女はウニ男にもたれかかるようにして乱暴に座った。手綱を握ったウニ男の顔がだらしなくやに下がる。けっ、見せつけやがって。爆発しろ。
「徹夜明けで痛飲っすか? 宿とってか「黙ンなッ(Shut the fuck up)! 飲ンで食わねェと絶倫(てめェ)の相手なんかできるかボケ!」あ、ハイ」
 なにこのおっかねぇバカップル。どっか他所でやってくれんかな。美女と野獣どころか野獣×野獣じゃねぇか。おい、誰か隔離しとけよ。割と本気で目障りなんですが。つか、こんなもん見せつけられるとかなんて拷問? あと爆発しろ。
 馬車がゆっくりと動き出し、横で聞いていた限り俺に"いろいろレクチャーしてくれる"らしい女性は、律儀なのか作法なのか、あんな二人に対してでも、きっちりと両手でスカートの裾をつまんで軽く持ち上げ、深々と頭を下げて見送っていた。
 去り際、馬車の二人が俺に向かって声をかけた。
「Hey 殺し屋(ヒットマン)! ようこそ、エセルナートへ。あんたに祝福(カルキ)あれ、だ」
「おう、アンタ! いつか俺と勝負し「睨まれてガクブルしてたヤツが何カッコつけてンだ、アァ? 言ってみろ、この童貞野郎(Cherry Boy)!」サ、サーセンンッッ! でも八極拳は無理でも将棋なら…」
「うるっせェッ!! 黙って頭撫でてろカス!」
 馬車が城門の中へ消えて行くまでおっかない修道女の大声が辺りに響いていた。俺はただ茫然とそれを見送った。なんか昨夜からずっと俺の日常からほど遠いんですが気のせいですか? あと俺の中でアメリカ人と修道女のイメージは大暴落だ。
 横で身じろぎ一つせずに頭を垂れていた〝いろいろレクチャーしてくれる〟らしい女性は、彼等がいなくなると同時に居住まいを正した。
「──大変お見苦しいモノをお見せ致しました。騎士団を代表して謝罪させて頂きます」
「あ、いえ…別に」
 思いだした。確かデイムって女性のナイトの敬称だわ。うわー、あのおっかない修道女、叙勲士かよ。てっきりアメリカ人だと思ってたわ。あんなのが女騎士とか間違ってるだろ。純真な幻想をぶち殺さないで下さい。こっそりコレクションしていた人だっているんだからな──まぁ、あくまで一般論だが。しかし……エルフ、女騎士……リーチかかってんじゃね? 加賀さんじゃないけど、気分が高揚します。
アレ(・・)でも優秀な巡察吏なんですよ、二人とも。とてもそうは見えませんが────さて、では改めまして。ようこそ、城塞都市へ。貴方を歓迎いたします、異邦人──いえ、戦争狂(ウォーモンガー)さん。私はロザリンド、王立練兵場の一等書記官を務めさせて頂いております。以後、お見知り置きください」
 彼女は軽く一礼すると「こちらへ」と俺を促し、俺が付いて来ているかなど確かめもせずにさっさと歩いて行く。慇懃無礼って奴か。取り敢えず、思いっきり軽く見られているのは間違いない。俺を一瞥した時、ほんの一瞬だが道端の毛虫を見る様な目をしていた。きっと俺の印象は最悪だろう。まぁ、大体いつもの事なので、そう云った些細な事は別にどうでもいい。異邦人と言うのもその通りだ。だが……戦争狂(ウォーモンガー)って、何?

 馬車の同乗者達は正面の玄関から入って行ったが、俺は建物の脇を通り抜け、施設の奥へと案内された。
 似たようなレンガ造りの建造物が三棟ほど連なり、隣接して体育館や武道場みたいな建物が巨大な運動場を囲む様に立ち並んでいる。一周1キロ程はありそうな巨大グラウンドのその先には、ローマのコロッセオを彷彿とさせる巨大建造物が城壁からはみ出る様に聳えていた。それとも城壁の一部がコロッセオモドキなのか? どっちにしてもあまり楽しい催しが開かれる場所ではなさそうだ。しかし、とにかく規模がデカい。施設全体なら簡単に万単位の兵員を収容できそうだ。
「……何をぐずぐずしているんですか、さっさと付いて来なさい。こっちも慈善事業やってる訳じゃないんです」
 周りに気を取られていたらいつの間にか置いて行かれていた。そして既に慇懃でも無くなっている。この分だと目的地に案内される頃には敬語ですらなくなっている可能性も高い。地味に酷くね?


 それは一見すると古くさい伝統的な和風建築だった。瓦屋根の平屋で木の桟と障子張りの窓、玄関の間口もいかにもな造りで、これは道場ですかと尋ねたら、きっと半分はYesと答え、残りは寺とか武家屋敷や旅館だと主張する感じの──建物だ。ここだけ周りの景観から浮いていた。いっそ世界観が違うまである。
 ご丁寧に玄関先には木製の看板が掛かっていた。書道家の豪胆な筆を訳も解らず意識するあまり、結果的に素人目にも痛い感じに綴ってしまった様な文字が丁寧に彫り込まれている。

 侍養成タイガー道場──と。

 もう全ツッコミである。ツッコミ所は絞ろうぜ。なんかもう、どうでもよくなってくるから。
 俺の脱力感など当然の如く気にも留めずロザリンドはスタスタと玄関に向かっていく。これ以上扱いが悪化すると心に要らないダメージを受けてしまいそうだったので、俺もそれに続いた。ダメージコントロールは自身の生存率を高める基本中の基本だからな。
 軽くノックをしてロザリンドは木製の引き戸に手をかけた。
「失礼しま──」
 彼女の言葉を遮るようにガラガラッと大げさな音を立てて両開きの引き戸が左右に開け放たれた。それもかなり乱暴に。
 中から出て来たのはしかめっ面で顔色の悪い女剣士──としか言いようがない。やや癖っ毛の黒髪を後ろで一本結びにして、白い胴着に青い袴姿。それで腰から刀を無造作に下げている。特筆すべきは目付きが尋常では無い事だ。顔立ちは整っているだけに、いろいろ台無しにしている。案外、俺といい勝負かもしれない。主に目付きが。
「──うぶぉっ」
 なにやら……聞いてはいけない類の呻き声を漏らした気がする。女剣士は両手で口元を押さえ、俺とロザリンドさんの間を強引に割って駆け抜けて行った。どう云う状況か解らなかったが、これからあの女剣士がどう云った惨状になるかだけは容易に想像が付く。
「つ、月影様!?」
「…3…2…1…点火(イグニッション)
「ぶぉげぐぼがふぁぁぁ────」
 我ながら正確なカウントダウンだった。これなら弟がいなくてもNASAかJAXAで働けんじゃね? ただカウントダウンを読み上げるだけの仕事……悪くないな、専業主夫がダメな時の第二志望にしておこう。
「月影様────ッッ!?!? い──や──ぁぁぁぁ……」
 ロザリンドが頭を抱えている先で、女剣士が派手に撒き散らしていた。胃の内容物その他を。無残。酔っ払いの末路は何処も同じだ。平塚先生も気を付けた方がいい。寧ろあれより酷──い? 一瞬、寒気を感じたがきっと気のせいだろう。
「……なぁ、あのゲロ吐「見るなぁぁッッ!!!!」いっっってぇぇぇ!」
 この女、躊躇無く目潰ししやがった! みのりんかよ! しかもイケメンって言ってないんですが。

 俺が盲目状態でのたうち回っている間に、ゲロ吐き女剣士は復活したらしい。寧ろ俺の方が回復に時間が掛かった。なにこの理不尽、意味解んねぇ。

「……大丈夫ですか、月影様」
「もう大丈夫。いや~、ダメね、起き抜けに変なお酒飲んじゃ。はぁ…迎え酒のつもりがとんだ災難だわ」
 つい今し方ゲロゲロ吐いていた奴とは思えない朗らかさで女剣士はロザリンドに応じていた。
 先ほど一瞬見せた尋常じゃない目付きはまるで幻の如く綺麗に消え去り、今は切れ長の流し目がやけに色っぽい年上のお姉さん──いや、多分これは宝塚的なアレだ。同性受けする類の美人だ──が、そこにいた。ただ酒臭い。とても酒臭い。そして隠しきれぬゲロの臭い。この女性は一見キラキラ輝いていても、本質はゲロ吐き女であり酔っ払いだな。
 だがロザリンドは変なフィルターを通しているので、そんな汚い部分は何も見えないし、気にもならないのだろう。
 月影〝様〟が現れてから別人みたいに瞳を輝かせてやがる。あれは間違い無く乙女フィルターと云う特殊な現実逃避機能がオンになっている。用量用法を間違えると大変な事になるんだがな。ソースは海老名さん。悪化して腐ってしまった良い例だ。ロザリンドの場合は百合百合しい方向に向かっているようだった。なるほど、それで俺に対してあの扱いか。
 そう(・・)云う類の人種と解れば、こちらも相応に対策し易いものである。
 そんな宝塚的酔っ払いと百合年増よりも俺には別に一つ、気になっている事があった。
「あの……あれ、放って置いてもいいんですか?」
「……何ですか?」
 …その、露骨な月影〝様〟との会話に割り込んで来るんじゃねぇよ、空気読め…みたいな目、止めて貰えませんか。俺の様なガラスハートには少々攻撃力が高いと思うんですが。あと多分、誰か死に掛かってると思うんで大目に見て下さい。
「……あ、そー言えばトラちゃんもアレ飲んでたわ」
「連隊長……ですか?」
「そう。さっき私が吐いちゃったお酒、あの娘も一緒に飲んでたのよ。今頃きっと──」
「……あそこで噴水(・・)になってるのが、その連隊長さんじゃないんスかね?」
 俺は開け放たれた玄関先から床張りの広い道場の真ん中で仰向けになっているナニカを指差した。
 吐瀉物、俗に言うところのゲロを盛大に吹き上げているナニカ。これ以上このテの現実を直視するのは耐え難かった俺はハワイの有名な火山が噴火するイメージに置き換えて己の心の平常を保っていた。
「れ……れ…連隊長ぉぉぉ────ッッ!?」
「あちゃー、やっぱりトラちゃんも吐いちゃったかー。だよねー死ぬほど不味かったからねぇ…」
 あの(・・)女騎士の次がアレ(・・)な書記官で、連隊長はこれ(・・)……ここは練兵場って言ったよな。この国、大丈夫なのか?
「……ゲロ吐きとゲロ吹きってどっちがマシなん「見るなァァ──ッッ!!!!」天丼かよぉぉ──ッ!?」
 目がぁ──目がぁぁぁ──ッッ! このレズ女、悪魔か!! 俺はムスカ大佐の如く再びのたうち回った。


 いい加減、俺の目の耐久値がヤバい事になりそうだが、幸い失明する事無く割と簡単に回復した。ギャグ補正の存在を一瞬疑ってしまったがそんな都合の良いものがある筈もなく、単にレズ女がそれなりに武芸の心得があったからであり、一応の手加減らしきものもあったらしい。だがそんな事はどうでもいい。取り敢えず、ロザリンドは俺の〝いつか泣かすリスト〟にその名を刻んだ。今の俺の腐った目はダメージと相まってかなり酷い事になっているだろう。少なくとも周囲を不快にする程度には。知るか。本当に痛かったのだ。
 だが現実は非常である。そんな俺の心境など誰も何も気にせず、ただ事態は益々悪化するばかりだ。

「いや~悪いね、(はっ)ちゃん。エセルナート(こっち)来たばかりなのに、いきなり掃除まで手伝って貰って」
「…いや、別に…構いません…」

 俺は道場に飛散したゲロの後始末に駆り出されていた。月影さんと掃除をしている訳だが、ダウンしたままの連隊長(笑)を介抱するロザリンドからは時々殺気のようなモノを含んだ視線が飛んで来る。これは掃除をサボるな!と言った平穏な意味ではなく、月影様と仲良くしやがって──と言う嫉妬と殺気が多分に込められた警告のそれだ。レズ女怖ぇぇぇ。
 当の月影さんはと言うと、初対面なのにやけにフレンドリー。つーか、コミュ力の高さがパネェ。きっとカンストしてる。

「あたしは月影 蘭。ただの美人の酒飲みだ。あんた、名前は?」

 ──からの、ものの五分と経たぬ内に今や俺を〝(はっ)ちゃん〟呼びである。そして誤解や勘違いに発展しない絶妙の距離感と、裏を全く感じさせない屈託の無い笑顔に、非の打ち所の無い話術と態度……こんな女性もいるんだな。それとも本当の大人の余裕と言った類のモノなのか。だがそんな稀有な友好的な扱いが原因で、ロザリンドからは多分命を狙われている。

「比企谷さん、連隊長が目を覚ました様です。水を一杯、汲んで来て下さい」
「……うっス」
「水場はそこの奥だ。水差しもそこに有る筈だよ」
 月影さん、マジ天使……では無いか。あまりそう言った感じではない。小町とか戸塚とか戸塚とは何か根本的に違った。
 あとロザリンドにも一応、名乗った。心底どうでもよさげだったが。礼儀だよ、礼儀。月影さんに名乗ったのに、側にいるロザリンドに名乗らないのは変だったから。てか月影さんに名乗ってる時、私には名乗りませんでしたよね? と無言のプレッシャーかけてきてた、間違い無く──からの興味無いです、な態度である。俺じゃなかったらアレで心が折られていてもおかしくないだろう。ぼっちなめんな。

「ゔゔぅ……みず~…ロザリーちゃん、みずぅ~」
 吐瀉物で汚れたまま寝転がって呻く連隊長(笑)である。月影さんと同じ白い胴着に青い袴、髪はショート。歳も月影さんそう変わらないだろう。尤も、月影さんの年齢は不詳だが。
「汲んで来たっス、どうぞ」
 何気なく転がっていた湯呑みに飲料水を注いで差し出した。自然な行動だった筈だ。だが──迂闊だった。

 馬車、練兵場、道場と毎度毎度、次々と濃い(・・)人物に遭遇していた筈なのに……油断、だったのだろう。ここに来て月影蘭という清涼に接してしまった事で、ぼっち本来の危機感知能力が低下してしまっていたのかもしれない。

 俺はこの時、知る由も無かった。ゲロ塗れで床に転がって呻いているのが、間抜け面で半口開けて吐瀉物だか唾液だか解らない何かを垂れ流しているのが────"虎"だと云う事を。

 キラーン!と一瞬目に危険な光が宿った気がした。
 連隊長(笑)は差し出した湯呑みではなく、持っていた俺の手を両手で掴んだ。それも女性らしからぬ力で。

「──く…口移しでお願いします」

 何を言っているのか理解できなかった。それはロザリンドも同じだったようで、二人して固まってしまったとしても仕方無い筈だ。
 沈黙を破ったのは月影さんだった。スパ──ンと良い音を響かせ束ねた扇子で連隊長(笑)の頭を(はた)いた。
「いつまでも寝惚けてんじゃないの。子供相手に何言ってるかね、この娘は」
「いっったぁーい! 何すんのよ、もー! 今大事なとこなんだから、蘭ちゃん邪魔しないでよー」
「いい歳した大人が、子供を手籠めにしようとしてたら止めるに決まってんでしょ?」
「子供じゃないわよー、これ(・・)きっとわたしの王子様なんだよ! 昨夜、流れ星にお願いしたんだから! お婿さん下さいって!」
「で、彼が来たと?」
「そーよ! 間違いないわ、これは運命なのよ!」
 あまりの出来事に思考が止まっていた。そして今すぐに逃げろと俺の理性が警鐘を鳴らすが、俺の手は連隊長(危険)にしっかり捕まっている。万力みたいな力でピクリとも動かねぇ──俺は背中に嫌な汗を感じていた。ヤバい。ある意味、昨日の晩から一番ヤバい。これもララなんとかの仕組んだ事なら、あのラマ絶対許さん。例えそうでなくとも許す気はこれっぽっちも無いけど。
「連隊長……彼は今し方、城塞都市に運ばれて来た異邦人です。貴女の王子様とやらではありません。正気に戻って下さい」
「きみ、異邦人なの!? ……接点の無い筈の二人が異世界で出会う──やっぱり運命じゃない! そうよね! そうだと言って、蘭ちゃん!」
 俺を掴んだ手に力が篭って超痛い。振り解きたいのに全く動かねぇし! つーか、この人必死過ぎて怖い。とにかく怖い。今すぐ逃げたい。
「あたしに言われてもねぇ……(はっ)ちゃんはどうなの?」
「…あ、俺っスか?」
「そう。この娘はこう言ってるけど?」
 チラリと連隊長(怖い)を一瞥した。彼女は瞳を輝かせて何かを期待した目で俺を見ている。正直、訳が解らない。だがなにより──
「そうっスね…よく知らないってのもありますが──」
 ここで一拍"溜め"て、あのエルフは殺傷力を高めていた。使える技は見習わないとな。

「ゲロ臭いのはちょっと……」

「ぐはぁぁっ!」
 その一撃は狙い通り致命打撃(クリティカルヒット)となって連隊長(怖い)を悶絶させる事に成功した。
「なかなかやりますね、比企谷さん」
「容赦無いねぇ……まぁ今回はトラちゃんが悪いんだけど」
 この二人も割と容赦ねぇし。
 暫く床にゴロゴロ転がって悶えていた連隊長(怖い)だったが、自分の姿が吐瀉物塗れで酷い有様だと漸く気付いた様だ。慌てて衣服と顔をペタペタと手で触って確認する。血の気が引くと言うのはこうなんだろうな。見る間に顔が青ざめて行き、最後に彼女は練兵場全体に響くような絶叫を上げた。

「いいい────やあぁぁぁぁぁぁぁ──ッッ!!」

 泣きながら道場の奥へと走り去った。
 どうやら助かったらしい。危機は去った。だがいつか第二、第三の連隊長(怖い)が現れるかもしれない。その時人類は……いや、今は考えるのはよそう。今はこの束の間の平和をただ享受していたい──第三部完…………あれ? ここで夢から覚めるなりして千葉に帰れる流れじゃ…サーセン。現実逃避していました。なんで、これで終わってくれないかなぁ、この連隊長(怖い)さんは……

「いーやー! いーやー! やーりーなーおーすーのー! 最初っからー!」

 これである。大人が、連隊長が、練兵場の責任者がこの様だった。もう付き合いきれねぇ…ハチマンオウチカエリタイ……
 そして信じ難くも認めたくない現実、俺の様な異邦人は、彼女から(・・・・)この世界のレクチャーを受ける決まりになっているそうだ。ロザリンドの言葉によれば。つまり、俺はこの駄々っ子…では無く駄大人をなんとか正気に戻す必要があった。

「比企谷さん、ここは彼女に付き合ってあげて下さい。きっと元に戻ると思いますので。このままでは私の業務にまで支障が出ます」
 それが本音か。まぁ、少しくらいならいいか。どの道、このままでは埒が開かないからな。
 因みに月影さんは縁側で迎え酒の最中だ。飲んでる間は邪魔するな、との事である。頼りになるかと思いきや、この人も十分ダメな大人だった。いざと云う時に助けてくれるのか一抹の不安を禁じ得ない。
「……解りました。道場に入るとこからっスよね?」
「ええ、それで納得してくれると思います」
 連隊長(マるでダめなオんな略してマダオ)の我儘に付き合うべく、一旦道場から出た俺とロザリンドの顔はきっと余人に見せられないような有様だったに違いない。

「失礼します、異邦人の方をお連れ致しました」
 やるからにはきっちりこなすロザリンドさんマジかっけー。全く棒読みじゃなかった。
「うむ、入りたまえ!」
 今更、カッコ付けてもねぇ。連隊長(いい加減にしろ)を見る俺の目はきっと腐りきっていた筈だ。だが当の彼女はまるで意に介した様子も無く、上座に踏ん反り返っていた。

「よくぞ集まった我が精鋭よ! わたしが練兵場の塾長、藤村大河であーる!」

 なんで塾長? とかもうツッコむ気力もねぇ。早く終わらんかな、この茶番。
 ロザリンドが肘で小突いて俺にセリフを促す。学芸会かよ……
「へぇ~、そっスか…」
「ちっがーう! そこは『なぜ貴女のような美しいお姉さんがこんな所で塾長を!?』って聞いてくれなきゃいやー! いやー!」
 さっさと言えこのクズが──みたいな目で睨まないで下さい。ちゃんとやりますから……もうやだ、ここ。早く帰りたい。助けて小町……
「……なぜ貴女のような美しいお姉さんがこんな所で塾長を(棒)」

「んふふふふ~ん! それはね、ヒ・ミ・ツ!!!!」

 にぱーと、やたら良い笑顔で決めポーズまで取りやがった。


 殴りてぇ────その笑顔ッッ!


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TIPS.1 ラマと出会った夜

 それは、ほんの些細な分岐点。
 まっすぐ家に帰るか、寄り道をして帰るか。
 大好きな甘いコーヒーを選ぶか、ほろ苦いコーヒーを選んでしまうか。

 それは無限分の一の可能性の中のたった一つのカケラ。それを彼が選んでしまう確率は、本来ならば那由多に一つも存在しない筈だった。

 運命の夜、彼は普段より寝付きが悪かった。

 今日の出来事を思い返すとどうしても身悶えしてしまう。それが恥じ入る様な内容では無い事ははっきり解っていても、それでも気恥ずかしさやらなにやらがごちゃ混ぜになって彼の心の平安を乱すのだ。
 枕に顔を埋め、声にならない呻き声を上げ、何度も何度も寝返りを打つ。不思議な高揚感に苛まれ、布団を目深に被っても熱くなるばかりで一向に寝付けない。目を閉じれば今日の出来事が何度も何度も繰り返しフラッシュバックする。さっさと眠ってしまえば多少は楽になれると思っても、眠くない。眠れない。それどころか意識は逆にどんどん覚醒して行くようだった。
 何か変なスイッチでも入ってドーパミンが過剰分泌しているのではないかと自身の頭の中にまで疑いをかけたが、人体の、それも脳内の分泌物に基づく生理現象など専門外にも程がある自分に、確信をつけるような答えなど幾ら自問自答を繰り返したところで結論を出せる筈も無かった。だが割とどうでもいい事を思考したせいか、一周回って逆に冷静になった。
 結局、彼は眠るのを諦めた。枕もとのスマホに手を伸ばして時間を確認する。
 まだ真夜中、だがこれから眠るにしては微妙な時間で、このまま朝までずっと起きているには少々疲れそうな微妙な時間だった。
 起きたついでに水でも飲もうかと、ベッドからのそのそ起き上がった彼は、ごく自然に寝間着を脱ぎ捨て、着替えようとしていた。
 ふと手が止まる。
 なぜ着替えようとしたのか理解できない。
 少しばかり喉が渇いたので水を飲むだけだ。部屋から出て、階段を降りて、台所に行けばそれで済む。家から出る訳でもないのだ、寝間着のままでいい。だが自然に着替えようとしていた。これから外出をするかのように。そう、なんとなくコンビニまで歩くのも悪くないと思っている自身がいる事に、やっと思い至った。自身の思考に妙な違和感を感じる。だがそれがなんなのか解らない。解らないまま、季節がら低下してしまった室温に彼は悪態をつきながら普段着に着替えていた。
 何か暖かい物が飲みたい。大好きな甘い缶コーヒーが頭に浮かんだ。きっとそれを飲めばこの妙な気分も落ち着くだろう。
 常備している買い置きは今日に限って切らしている。彼は近くのコンビニまで真夜中の散歩に出る気になっていた。
 外出用のジャケットを着こんだ彼は財布の中身を確認し、スマホと一緒にポケットに放り込んだ。
 洗面台で顔を洗い、鏡の自分を覗き込むと、そこには普段よりも三割増しで酷い目をした自身の姿があった。うげっと思わず呟き、きっとこの睡眠障害のせいだと適当な理由を付けて自身から目を逸らした。
 玄関でスニーカーを掃いていると、とんとんとんと、軽い足取りで階段を降りる音がする。その足音は妹のそれだ。決して聞き間違える事など無い。この時間にまだ起きていた事に少々驚いたが、仮にも受験生ならばまだ起きていても不思議ではないかと思い直した。

「あれ? お兄ちゃん、どっか行くの?」

「ああ、コンビニまで…」

「…こんな時間に? 止めとけば?」

 そう言われてもなんらおかしくない時間だ。靴紐を結んでいた彼の手が止まる。


 それはきっと日常へ戻る最後の回帰点────無論、彼にそれを知る由も無い。


 彼は結びかけの紐を最後まで結んだ。

「…マッカン飲みてぇから…」

 その日、買い置きが無くなっていた事も決して偶然では無かったのかもしれない。

「そこは、我慢しなよー。でもお兄ちゃんだから仕方ないか。あ、小町は勉強がんばったので糖分が、糖分が足りなくなってピンチなのです! シュークリーム食べたいなー?」

「……太るぞ?」

「ゴミぃちゃん、そう言うデリカシーの無い発言は小町的にポイント低いよ。減点分を取り返すために、ここはロールケーキも追加だね!」

「…より悪化してんじゃねぇか……まぁいいけど。シュークリームとロールケーキな。つか、まだ起きてんのかよ」

「うん、もう少しやっとこうかなーと。なんかねー、乗ってるんだよね。こう、すらすら~っとペンが勝手に動くみたいに!」

「そか……まぁ、あんまり無理すんなよ」

「してないよー? じゃ、買い出し行ってらっしゃーい!」

「…おう。行ってくる」

 玄関の扉が閉まる。家族のいる暖かい家と、寒い外界とを隔てる金属音が、普段よりやけに重く響いた気がした。



 公園の片隅のベンチで、彼は独り星空を眺めていた。珍しくやけに澄んだ夜空に無数の星々が瞬いてる。
 吐く息がうっすらと白くなる。
 両手に包んだ缶コーヒーの暖かさが心地良い。

 なぜだかここに来たくなった。コンビニにも行かず、まっすぐここまで来た。夜中であるにも拘らず家では妹が待っている筈だ。だがそんな事すら気にならない。
 ここに、今夜、来なければならない──いつしかそんな強迫観念にも似た衝動に駆られていた。
 星空を見上げていた彼はいつしか昨日の出来事をまた振り返っていた。そして昨日に続く、その切っ掛けとなった事象も全て、流れる様に脳裏に浮かんでは消えて行く。
 そして最後に、一番印象深く、きっと忘れる事などできない、その場面が浮かんだ。

「……俺は、それでも本物が欲しい」

 彼は知らず呟いていた。それは誰にも聞こえない程度の呟きだった。だが────

『それがキミの〝願い事〟かい?』

 彼の呟きに応える者がいた。誰もいないと思っていただけに、一瞬にして彼は全身総毛立ち、声も出ないほど吃驚した。ショックのあまり心臓を鷲掴みにされた気がするほどだ。それでも身動き一つできなかったのは、彼が豪胆だったからではなく、本当に金縛りにあったかの様に身体がピクリとも動かなかったのだ。恐怖のあまり声が、出ない。息を吐くのも、吸うのも苦しい。
 いつの間にか世界から音が消えている。静かだ。こんな時間でも遠く微かに聞こえていた車の騒音や街の喧噪も今では何も聞こえない。
 経験したことの無い、本当の静寂──

 何かがおかしかった。明らかに、尋常ではなかった。

『キミの願い事はそれでいいのかな? えふえー?』

 ゆっくりと、顔を声の方に向ける。本当は怖くて見たくも無かったのだが、身体が勝手にそちらを向いてしまう。
 彼の目に、それは映った。

 隣のベンチにラクダが座っていた。いや違う──彼は否定した。以前、見た事がある。背中にコブが無いし、全身が毛深い。だが自分の知っているそれ(・・)はもっと地味だった筈だ。これは柔らかそうなふわふわの黄金の毛に覆われていて、体を赤い布で包んでいた。長い首をもたげ、こちらを見ている。長いまつ毛の下にぱっちりとした大きな目。これはリャマだ。或いはラマとも呼ぶ事を彼は知っていた。だが、ここにいていい筈がない。あろう事かベンチに座ってハンバーガーを食べている等、あってはならない。彼は目の前の現実を受け入れる事ができなかった。

「──ラマ?」

 つい口からこぼれた疑問。彼の頭の中は半ばパニック状態だったが、そんな時でも冷静で客観的であり続ける彼の人格の一つが「よく声がでたな」と自分に感心していた。それを苦々しく思いながらも、彼のおかげなのか次第に心が落ち着きを取り戻していくのが分かった。
 冷静にそれを見た。やはりラマだった。ベンチに座ってハンバーガーを食べるラマ、それを見ているだけで、彼は心の均整がほんの少しずつ削られているような気がした。

『ララ・ムームー』

「……え?」

『ララ・ムームー。ボクの名前。ボクを知っている人はいろんな名前で呼ぶけど、これが一番気に入っている名前。高貴だけど親しみやすくて隠しきれない叡智が溢れ出るような感じで、ちょっぴりキュートでしょ?』

「…いや、意味が解んねぇ…」

『キミの願いを叶えてあげる』

 ラマが喋っている。会話が成立する。彼にとって受け入れ難い事実だった。これが夢なのか現実なのか既に曖昧で確たる実感は何もない。あるのは戸惑い、そして恐怖だ。
 こいつは絶対に油断してはいけない奴だ、と彼の生存本能が警鐘を鳴らしている。彼の真骨頂とも言える相手の核心を見抜く観察眼を使うまでもなく、相対しただけで、否応無く解ってしまった。
 蛇に睨まれて動けなくなるカエルってこんな感じか──なぜか彼は、いつか自分を比企ガエル君と呼んだ少女を思い出した。彼女や彼女の姉、担任教師の視線が蛇に該当するとこれまでは思っていたが、実際そんな生易しいモノでは無かった。所詮、彼女達は同族だ。本当の恐怖など、与えられる筈がない。だって同じ人間なのだから。蛙だってアマガエルがヒキガエルを見たら怖くて動けなくなる筈だ。だが、蛇ではない。蛇は、もっと怖い存在に違いない。

 そう──この喋るラマみたいに!

 できる事なら逃げたかった。だが身体はぴくりとも動かない。徹底的にリアリストの彼は、自分は既に詰んでいると察していた。だがそれは認めたくなかった。どうしても、認めたくなかった。

『キミの願い事はさっきのでいいの?』

「…………ね…願い事って──あれ……聞いてた…のか?」

 声を絞り出す。良かった。喋れた。彼はほんの少しだけ安堵した。

『見てた。ずっとキミを見てた。キミは面白いから。だからキミが願ってくれるのを待ってた。ボクに届くほどの願い事をずっと待ってた。だからボクはここにいる。キミにとってはちょっとした奇跡だよ? もっと喜んでくれてもいいんだよ?』

「いや、まて…あれは別に──」

『本物が欲しいで、えふえー?』

「…つーか、えふえーって……なぁ、さっぱり意味解んねぇんだが。なんか説明とかねぇの?」

『キミ、賢いのに結構バカだね。えふえーって言うのは──』

「いや、そこは知ってるし。ファイナルアンサーだろ、最終決定か最終回答な。あとお前の言い方、バカっぽいから」

 ラマにバカ呼ばわりされて彼は少し傷付いた。そこは否定しなければならないと強く感じ、思わず口を挟んでいた。

『そんな現代用語の基礎知識をひけらかしてドヤ顔しなくても』

「いや待て、おいこら。誰がドヤ顔してた? あとひけらかしてねーし? 普通に指摘しただけじゃねぇか」

 ラマはパッチリした大きな目で彼をじっと見つめ、あからさまに人を見下した様なため息をわざとらしくついた。

『そう云う事にしといてあげるよ(・・・・・・・・)

「…………ああ、そうかよ」

 上から目線のラマに内心、身悶えする程に憤懣やる方なかった。沸き立つ激しい怒りは恐怖を忘れさせてくれた。だが彼はそれを全て飲み込んだ。言い返せばラマの思惑に乗ってしまうような気がして、それはもっと癪に障った。
 それがどうやら的を得ていたようで、ラマはガツガツと不愉快そうにハンバーガーを食い散らかした。その顔は相変わらず表情らしきものは容易に窺い知れなかったが、思い通りにいかなかったのは確かなようだ。
 ほんの少しばかり溜飲が下がった。同時に心に余裕が生まれる。だが相変わらず身体は思うように動かない。喋るのがやっとだった。そして喋っていなければ正気を失いそうなほどに怖かった。目の前の金毛の動物が怖かった。

「なぁ、お前は何なんだ? ラマじゃねぇって事は解るが」

『ボクはララ・ムームーだよ。それ以上でもそれ以外でもないね。ただのララ・ムームー。面白い人を見つけたらその人を観察するのが好き。その人の願い事を叶えるのも好き。でもボクは願い事を叶える事しかできない』

「……なんでも叶うのか?」

『なんでも叶うよ。願い事なら。でもボクに届いた願い事の方がいいよ。人の願いは危険なものが多いからね。だいたいロクな事にならない』

「……本物が欲しい──こんなのが……叶う…のか?」

『叶うよ。キミが望んでいるから。それでえふえー?』

「いや──確かに願ったけど…これは…」

 ピロピロピロ、と気の抜けるような着信音が彼の言葉を遮った。心臓に悪い不意打ちだった。たったそれだけのことなのに彼の心臓は狂ったように早鐘を打ち鳴らし続けている。

 ふわふわとラマの目の前にスマホが浮かんでいる。もうなんでも有りかよ、彼はその様子を睨みつけながら毒づいた。それが虚勢である事は彼が一番感じている。だがそれでも強がっていなければ、一瞬で心の均衡が崩れてどうにかなってしまいそうな気がしていた。

『あ、メールだ。ボクにメールをくれるコはラ。mdmm;sダとベルfmsdぁfしかいないんだ。どっちだと思う?』

 会話の途中で何か酷い雑音(ノイズ)が混じり、その瞬間、耐え難い頭痛が彼を襲った。奥歯を噛み締めて必死で耐える。
 頭痛はすぐに治まり、彼はなんとなく理解していた。今、聞いてはいけない何か(・・・・・・・・・・)をラマが喋った、と。

「……いや、知らねぇし…」

『;glルンだったよ────どうしよう、お茶会の約束すっぽかしたの怒ってるよ。どうしたらいい?』

 また先ほどと同じ雑音(ノイズ)と頭痛。だが今度は耐え難いほどでもなかった。
 ラマがガタガタと震えだした。本当に怯えている様に見えたが、正直彼にはどうでも良かった。だがこの異常な状況がこれで終わってくれそうな気がして、メールの差出人に感謝した。ほんの僅かだが光明が見えた気がする。

「あーあれだ、そう言うのって、メールで謝りつつ、すぐにそいつの所へ詫び入れに行くのが良いんじゃね?」

 我ながら巧い誘導だと自画自賛しつつ、彼はなるべく親身に思っているように心がけて助言した。この蜘蛛の糸にも似たか細いチャンスを逃すつもりは無かった。
 結果的にそれは目論見通り巧く行った。彼の狙い通り、この状況はすぐにお開きになる。その一点においては。

『それだよ! キミはやっぱり賢いね。きっとベúルンも許してくるよね』

 ベルンと云う単語にほんの一瞬だけ雑音(ノイズ)が混じり、頭の奥にチクリとした痛みを感じた。彼にとって普段なら気のせいにしてしまう程度の些細な違和感だ。極度の緊張で張り詰めた神経状態の今だからこそ感じ取れた違和感だった。
 ラマのスマホには何も触れていないのに画面にはメールの文章が次々に書き込まれ、やがて画面いっぱいに送信中のアニメーションが表示された。

『送ったよ! これで安心だね。やっぱりキミは頼りになるなー。これから行こうと思ってる学園都市って所にキミも来ない? 迷子になったときとかキミがいてくれると安心なんだけど』

「いや、待て待て。お前、何言ってんの? メールで謝っただけで済むわけねぇだろ。すぐに詫びに行けって」

 彼の言葉にピロピロピロと、気の抜ける着信音が再び重なった。

『……またベルンだね、どうしたんだろう…………すぐに来ないと殺すって……どうしよう?』

 もうベルンの名前を聞いても何も感じない。やはりさっきのは気のせいだったのか? ではあの激しい雑音(ノイズ)と耐え難い頭痛は何だったのか──彼には解らない事尽くめだった。そしてそれを詳しく知ってはいけない(・・・・・・・・・・・)気がしていた。

「さっさと行くしかないんじゃね?」

 とにかく立ち去って欲しい。なのにこのラマはもたもたと優柔不断な態度……彼は内心の焦燥と苛立ちを表に出さないように必死だ。

『怖い』

 俺はお前が怖いと危うく言ってしまいそうになったが、彼はなんとか堪えた。

「…いいから行ってこいよ。殺されるんだろ?」

『キミも一緒に来てくれない? キミが謝ってくれたら多分二万回殺すくらいで許してくれると思うんだ』

「全力でお断りします。いいから、さっさと──」

 ピロピロピロ……と、また気の抜ける着信音が鳴り響き、今度は一度ではなく鳴り続けた。

「…電話、鳴ってんじゃね?」

『誰だろう? ボクに電話するコはラムダとベルンしかいないんだけど。どっちだと思う?』

「どっちにしてもお前、さっさと出ないとヤバいんじゃね?」

『……ベルンだ。どうしよう?』

「それ、一秒でも早く出ないと危険。時間経過に比例して相手の怒りゲージが跳ね上がっていくパターンだな。ソースは俺」

『キミ、代わりに出てくれない?』

「アホか。それ一番やったらダメなやつだ」

『……キミがそう言うならきっとそうなんだろうね。いつもは考えてると切れちゃって、次に出会った時に酷い目にあわされちゃうんだ』

「よくそれで続いてるな……普通、縁切りされんじゃねぇの? そう云うのって」

『ベルンは優しいコだからそんな酷い事しないよ? バラバラにされて串刺しで焼かれたり、シチュー鍋で煮込まれたり、お腹の中に香草とお米を詰めてオーブンで焼かれるくらいで、いつも許してくれるよ?』

「いや……それ、調理されてるし。お前、食材かよ。つーか、さっさと電話出ろよ」

『そうだった。忘れていたよ──もしもし?』

 その後暫く、電話の相手は一方的に捲し立て、それをラマが時折、見当違いな返事をしてさらに相手を怒らせているように見受けた。彼はこいつ、わざと煽ってんじゃね? と火に油を注いでいるとしか思えないラマを胡乱な目で見ていた。そして、このラマは見かけと言動ほど甘い相手ではないと改めて実感した。

『──うん、わかったよ。じゃあね、また後でね?』

 ラマは電話を切ると大きなため息を吐いた。浮かんでいたスマホは背中の赤い布の中に潜り込んで行った。

『許してくれるからすぐ来なさいって。やっぱりベルンは優しいね』

「ならさっさと行けよ。怒ったら怖いんだろ?」

『うん、そうだね。でもその前にキミの願い事を叶えるね』

「いや、それは別にいらな────」

 彼の意識はそこでぷつりと途切れた。

 その後、ラマがどうなったかなど彼は知る由も無く、知りたくも無かった。だが願わくば不幸な目に遭えばいい。ベルンと云う人物に酷い目に遭わされてしまえ──と言う、彼の呪詛が届いたかどうかも定かでは無かった。
 だがララ・ムームーの名前だけは決して忘れないと誓った。その名は、彼が密かに綴る"絶対に許さないリスト"のトップに君臨し続ける事になる。


 その夜、比企谷八幡と言う名の高校生は忽然と失踪した。
























 ────何処かの〝お茶会〟にて。

『──結局、アナタはその子の〝願い事〟を叶えたのね?』

『うん! ボクはそれしかできないからね』

『アンタねー、どんだけカケラを消滅させれば気が済むのよ』

『今回は大丈夫だよ、彼の願い事は彼にだけ作用した筈だから。カケラはきっと大丈夫だよ』

『アナタ、バタフライエフェクトって知ってる?』

『ベルンはたまに難しい言葉を使うね。ちょっと背伸びしたいお年ご痛い痛い痛いよベルン』

『あら、ごめんなさい。おたまが腸を引っ掛けちゃったわ。ついでにこれ腸詰めにしたら美味しいかしら』

『そのカケラ、その後どうなったか、アンタちゃんと見てきたの?』

『何言ってるの? すぐに来ないと殺すって言ったじゃないか。すぐに来たんだからボクは知らないよ』

『呆れたわ。またカケラを壊したのね。ほんと、はた迷惑なラクダだわ』

『まー、その子の〝願い事〟が叶ったんなら、その子だけは幸せなんじゃないの? 宇宙を一つ丸ごと犠牲にしてまで叶えた訳だし……て、これをその子が知ったら面白そうじゃない?』

『悪趣味よ。でも悪くないわね、晩御飯の余興には。ラクダのカレーだけじゃ味気ないもの』

『ねぇ、さっきからラクダ呼ばわりとか酷いよ。ボクはララ・ムームーだよ』

『今はカレー鍋じゃない。アンタは黙ってカレーを煮込んでりゃいーのよ』

『酷いよ、ラムダ! ボクに〝黙ってろ〟なんて! でもどうかなー、あのコ少し壊れちゃったみたいだから大丈夫かなー』

『アンタどこまでポンコツなのよ……〝願い事〟を叶えるしか能が無いんだから、せめてちゃんと叶えてあげなさいよねー? バカなの?』

『酷いよラムダ。パーにバカ呼ばわりされると傷付くんだよ?』

『違うでしょ? ラムダのパーは二回転半捻ったクルクルパーよ』

『アンタ達……よくわかんないけどディスられてんのは解るわ! あったまきた! 謝罪と賠償を要求するわ!』

『具体的には?』

『ベルンにはお風呂で背中を流して貰おうかしら。薔薇の花びらを一杯に散らして、あっま~いエッセンスでひたひたにした泡風呂で』

『楽しそうね。爪先まで舐めてあげてもいいわよ、たまには。で? このラクダには何を請求するのかしら?』

『モモ肉追加で』

『そこは一緒にお風呂の流れじゃないのかい? 痛い! ベルン、仕事が速いよ! まだ弁護士も用意してないのに』

『おバカさん。アナタ、弁護士に知り合いなんていないでしょ? 裁判なんかできる訳ないじゃない。それにどうせアナタも食べるんだから足の二本や三本くらい提供するのが筋ってものよね。これでカレーが少し豪華になったわ』

『筋だけに筋張ってるわね、この肉』

『ラムダ、無理にウマい事言う必要はないんだよ?』

『な、何よ! ちょっと言ってみただけじゃない! ラクダに言われるとムカつくわ。モモ肉倍プッシュで!』

『酷いよ! それじゃ歩けなくなるじゃないか!』

『おバカさんね、カレー鍋は歩く必要無いじゃない』

『それもそうだね。ベルンはたまに鋭い痛い痛い痛いよベルン』

『あら、ごめんなさい。モモ肉を切り取るつもりが膝を刻んでしまったわ』

『ねぇ、それでアンタ、その壊れたかもしれないって子に何したのよ』

『そうね、〝願い事〟を叶えるしか能が無いラクダに何ができたのか、ほんの少しだけ興味があるわ』

『何もしてないよ? 会ってお話しただけだよ』

『『最悪だわ』』

『酷くない?』

『……その子、よく発狂しなかったわね。どんだけメンタル強いのよ』

『そうね。〝願い事〟云々よりも、寧ろそっちの方が興味深いわ。ラクダの吐いた息を吸っただけで即死してもおかしくないもの』

『でしょー? そのコとっても面白いからいろんなカケラで見てるんだよ。たまたまボクに〝願い事〟が届いたコがいたからね。ちょっと嬉しくって。ところでベルン、ボクはちゃんと口臭のケアしてるよ?』

『アンタねー、アンタの息そのものが凶器だって事、いい加減覚えなさいよ。でも面白そうじゃない、その子。アンタが見つけた子にしては』

『ふふっ、そうね。確かに面白そうね、一度会いに行ってもいいかもね。アナタ()〝世界〟にいるんでしょ、その子?』

『うん、そうだよ。ボクはエセルナートに召喚する事しかできないからね』

『ほんっと、ポンコツよねー、アンタ』

『酷い。クルクルパーにポンコツ呼ばわりされたよ』

『ほら、そろそろカレーが煮えるわ。続きは晩御飯の後にしましょう』

『ねぇラムダ、ボクのお腹で煮込んだカレーを、ボクが食べると、ボクのお腹の中はどうなるんだろうね?』

『すごいじゃない。無限にカレーが食べ続けられる夢のお腹よ、それ』

『そうね、画期的過ぎて明日論文に纏めてネイチャーに投稿しようかしら』

『そう聞くとなんだかとても嬉しくなるね。でもなんだか、適当にあしらわれているだけの気もするんだけど?』

『『気のせいよ』』

 ────fade-out…


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タイガー道場の比企谷八幡

「タイガ──道──場──!!はっじまーるよー!!」

 うぜぇ。

 やたらハイテンションの連隊長こと藤村大河から、俺は女騎士(デイム)エダの言うところの〝いろいろ〟とレクチャーを受ける事になった。

 潜在的な敵とは云え、表面上は上司に対して諫言してくれるロザリンドは書記官の仕事があるとかでさっさと何処かに行ってしまい、一見ダメな大人だが話せば案外頼りになりそうで、やはり全く役に立ってくれそうもない自称ただの美人の酒飲みである月影さんは、酒飲みと称するだけあって早朝にも関わらず既にいい感じに出来上がっており、最早ただの酔っ払いである。現状、俺の周辺に頼りになりそうな大人はいない。
 尤も、俺のこれまでの人生においてそんな大人が必要な時に近くに居てくれて、必要なタイミングで俺に手を差し伸べてくれた事など殆ど無いに等しいので、実は平常通りだったりもする。
 ぼっちはぼっちであるが故に何者にも頼らず、如何なる困難に対しても常に独力で解決し乗り切ってみせる孤高の姿勢こそが在るべき姿であり矜持と言えるだろう。そして俺はそれを実践し、貫いて来た筈だったのだが…………今だけは誰かに、誰でもいいから近くにいて欲しかった。小町、マジ助けて。

 要するに餓えた虎(プレデター)と差し向かいで個人授業である。尚、逃げられん模様。

 四十秒で支度すると言って奥に篭った連隊長に体感で四十分近く待たされた。
 漸く出て来た彼女はほんのり薄化粧に紅まで引いて、身形も地味な胴着ではなく鮮やかな緋牡丹で飾った山吹の振袖と茜色の袴に真っ白の足袋まで履いていた。鼻に衝いた吐瀉物の酸っぱい臭いも綺麗さっぱり消えて、上品な芳香を仄かに漂わせている。それが彼女本来の仕事用のスタイル──なら演歌歌手を疑うレベル──であり、その姿が初対面だったなら恐らく俺でも一瞬見蕩れていたかもしれない。
 だが残念ながらあの(・・)痴態の後だけに、(獲物)を狙う勝負服(戦闘態勢)肉食系独身女(プレデター)にしか見えなかった。
 しかし、振袖って正月か成人式用と思ってたわ。まさかこんなところでお目に掛かるとは思いもしなかった。ファンタジーと云う言葉に少々眩暈を感じずにはいられない。あと俺のドラゴンボーンの可能性は多分今消えた。
 合コンや婚活に精を出していた平塚先生も、きっとこんな感じだったのではないか。悲しいかな、先生を前にした男達は今の俺と同じ心境だったに違いない──全力で逃げたい、と。だって必死過ぎて怖いんだもん。お二人共、もっと擬態して下さい。そして誰か貰ってあげて!
 しかし、まさか俺がターゲットになる日が来るとは夢にも思わなかった。しかもこんな訳の解らない状況下で。全部、あのララなんとかが悪い。

「コホン──では、改めまして。リルガミン王国ビスクファルス方面軍王立練兵場総代、ビスクファルス近衛兵団教導連隊連隊長、ウェルファ女伯爵(カウントレス)、侍マスターの藤村大河です」

 長い。そして初見と中身から乖離したやたらノーブルな肩書。え? 貴族様ですか? さっきゲロ吹いてましたよね? もうやだ、この国……女騎士はアレで、女伯爵がコレかよ。トスカーナ女伯爵と、女伯爵マティルダを読んで☆5を付けた俺に謝れ。この世界は割とマジで俺の幻想を殺しにきてんじゃね?

 居住まいを正した彼女は先程見せた痴態とかけ離れていた。仕事と私事を区別しているにしても、そのギャップたるや最早別人である。せめてそのギャップを目にする順番が違っていたなら、彼女の印象はまるで変わっていたかもしれない。だが今となっては詮無きifだろう。如何に取り繕ったところで俺の中では、月影さんとセットでダメな大人の代表格だ。人間、第一印象がいかに大事かが解る。
 では俺はどうかと省みれば、俺の場合は終始一貫して第一印象は常に最悪であり、ぼっちであるが故に彼女の様に取り繕うような真似も、誰かに気を遣う理由も、どう思われているか等と意味の無い事に悶々として過ごす事も、どこぞのトップカーストの様に脆弱な上辺だけの人間関係の維持管理に他人を巻き込んでまで腐心する必要も全く無いのである。その生き方を俺は肯定しているし、今更変える気も無い。雪ノ下や平塚先生が聞けば眉根を吊り上げそうだがこればかりはどうしようもない。これが俺なのだ、としか言いようが無い。だが連隊長は出会い方からして何もかもいろいろと間違っている。

「…比企谷八幡です」
「わたしも比企谷くんと同じ異邦人で、日本人だよ。冬木市で高校の先生してたんだー」
 エッヘンと胸を張る連隊長。冬木? どこ? しかし、なぜ俺が出会う女教師はこうも危険な香りがするのだろうか。物理攻撃力的な意味で。ネットで女教師と検索するともう少し魅惑的でドキドキする様な意味合いのモノで溢れているのに……なぜこうも怖くてドキドキなんだろうか。とかく現実とは非常である。
「比企谷くんは?」
「あ、その…千葉から。高二っす」
「千葉!ディスティニーランドだ!いーなー、わたしも行ってみたかったなー。あ、高二って事は士郎と同い年なのかな。何年生まれ?」
「…1996年っす」
「え? きゅうじゅうろく…てことは…いち繰り上がって…に、にせんじゅうさんねん!? て…ことは2004年の時は…は、八歳……だ…大丈夫!まだ圏内だわ!」
 いえ。残念ながら圏外です。俺のストライクゾーンどころかワイルドピッチで捕球すらできません。三塁ランナーがいたらホームに戻って来るレベル。平塚先生ですらギリギリ捕球がで……きなかったのでボールは何処か遠くに転がって行きました。他を当たって下さい。そして誰でもいい、この人達貰ってやってくれ、それも早急にだ。


 結果的に言えば、藤村先生(・・)による〝いろいろ〟なレクチャーは、意外な事に当初思っていたよりもずっと有意義だった。

「えーコホン、ではまずこの世界について説明します。
 この世界はエセルナートと呼ばれています。それがこの〝大陸〟を指す言葉のなのか、わたし達で言う〝地球〟と同じ意味なのか実際、よく分かってないわ。
 とりあえず、一般的に知られていることは〝エセルナート〟の中にある〝デュナス半島〟の東側にリルガミン王国があって、半島の東西をコルキア山脈っておっきな山脈が分断しているの。反対側にはラーダって大国があるけどで、お互いに行き来は殆ど無いわね。
 北方には大森林って樹海が広がっていて、更にその先は高地って呼ばれているわ。高地から先はどうなっているのかよく分かってないの。あの辺りは魔土って言う土地そのものが強力な呪いに掛かっていてね、まともな農作物が育たないし動物も奇形になっちゃうしで人が住むにはとても困難なの。おまけに亜人の支配圏だから実質、人の生存権は大森林から南に限られている。広大な樹海が境界線と緩衝地になっている形ね。
 で、海の向こう、東側の先には〝ヒノモト〟って日本っぽい国があるらしいんだけどよく解ってないのよね。
 同様に南の海の先にはズダイ・ツァ?だったかなリザードマンの帝国が在るとか無いとか。
 西の海の先に至っては何があるのかすら全く不明。とにかく世界は解らないことだらけ。大航海時代の前のヨーロッパとかってこんな感じだったのかもね」

 大雑把な地図を見せてくれた。インドのような頂点を南側に向けた逆三角形の半島だ。北側はアバウトに山々が描き殴られていて、単に〝高地〟と記してあるだけで海岸線も何も記されていない。半島の東海岸の中ほどに〝リルガミン〟と記されていた。その中心からやや北に城塞都市があった。

「案外、狭いんスね」
「あははは、確かにね。でも多分デュナス半島だけでアフリカ大陸より大きいんじゃないかって話だよ?」
「それ…半島って言うんですか?」
「まぁ、先史文明の旧帝国時代の地名だしね、イマイチよく解んないんだよ。文献も殆ど残ってないし。ちょっと前まではワードナ先生が発掘調査してたんだけどねー。今は戦争とかいろいろあって手付かずなんだ……この辺の事情も後で説明するから、まずはリルガミン王国と城塞都市の事から説明していくね」

 エセルナートの地図をくるくると丸め、別の地図を開く。今度はリルガミン王国の地図だった。王国はこれまた大雑把に線引きされて六つに分けられていた。

「これがリルガミン王国の地図よ。で、この北側の端っこが城塞都市のあるビスファルクス地方。城塞都市もほんとはビスクファルス市って言うんだけど今は誰もそう呼んでないわ。トレボー王がリルガミン家に婿入りする前の家名がね、ビスクファーン伯爵家だったの。それで王様の実家の名前を軽々しく口にするのはどうかな、て感じに憚って呼ばなくなった──説と、トレボー王って狂王って呼ばれるほどリルガミン内外の人達から恐れられてるからね、怖くて口にするのも縁起が悪いって説もあるんだけど……実際、こっちが有力っぽいんだよねー、一応トレボー王に仕えている身としては複雑なんだけど。うーん、ビスクファーン伯爵家についてはあんまり深入りしない方がいいし、知らない方が幸せってこともあるから──そういうもんなんだー、くらいに思ってればいいかな」

 大衆が口に出すのも憚る様な事、それも貴族や王様が絡むような醜聞や事件なら確かに深入りは危険だろう。彼女のはっきりしない口振からしても、関係の無い他人である俺が好奇心で知ったところであまり良い結果にはならない筈だ。助言通り気にしないでおくのが賢明だな。
 ビスクファルス地方は王国の最北に位置し、北側から行く筋も伸びた街道が城塞都市で交差している。交通の要衝であり、その名の示す通り王国北側の防衛拠点なのだろう。

「で、ビスクファルスのお隣で、この大きな湖の東側湖岸から海岸線がニーダバウ地方。漁業も盛んなんだけど湿原を開拓した広大な農地と海運でかなり豊かな地方ね。首都はホリヴァルグ市、遠くの国との交易も盛んだからちょっとした異文化交流の港街になってるの。面白いわよー? アルタイル王が治めているわ。トレボー王とは同盟関係にある友好国よ」

「そのニーダバウとずっと紛争中なのが、もう一方のお隣でコルキア山脈に繋がる山間部のクロスバル地方。ファズー王が治めていて首都はシリップ市。鉱山開発とか盛んで、山の民と呼ばれている半分山賊みたいな部族社会の集合体ね。トレボー王とは停戦協定を結んでいるから今のところ安心…かな?」

「リルガミン市を挟んで南側の大平原がヴァルダム地方。ヴァルック王が治めていて首都はコロル市。リルガミンの一大穀倉地帯よ。もっぱら収穫物で商売する事に一生懸命だから基本的に中立ね。大規模な農業をやってるから、どうしてもその労働力は奴隷中心になっちゃうみたいでね……その、労働力確保の為にいろいろ酷い事もやってるみたいで、あんまり良い噂は聞かないわ。とりあえず、一人でヴァルダム地方を歩かない事」

「最後に王国南側のアプリオン地方。割と最近、入植が始まった新しい地方なの。土地の開墾と沿岸の群島の入植や開発に積極的……て言うよりまだ経済基盤も軍事組織も何もかもが脆弱だから戦争どころじゃないが本音でしょうね。マレル王が治めるアプリオス市が首都よ。一応、ここも同盟国よ。アルビシアの植民島から届くカカオやコーヒー豆は超貴重だから、個人的には末永く仲良くして頂きたいものだわ。ニーダバウとヴァルダムに依存している面が強いから、ここの王家はあまり発言力が無いの。上級王はまだ一度も選ばれていない筈よ」

 コーヒー! 良かった…ここにもあるのか。あとは砂糖とコンデンスミルクがあれば……。

「で、最後に王国の中心にあるリルガミン地方。王国を構成する六つの地方を治める王様達の代表であり、リルガミン王国の〝国王〟であるリルガミン上級王が治めているこの国の中心地よ。王都はリルガミン市。歴史も古くてすっごい大きな街なんだけど、ちょっと特殊でね、さすが魔法の世界って感じなのよねー。この街にはね、〝リルガミン市に対する悪意〟を持った人は入る事ができないの。精霊神ニルダって神様の加護でね、軍隊で攻め込んでも誰も街の中に入れないって超常現象で守られている不思議都市なのよ。密偵や泥棒も入れないって言うから神様パワーすげー!って感じなのよね。最近、なんか鎖国政策? 始めちゃったみたいでやけに内向的なのよね。おかげでウチのトレボー王やら他の王様連中も好き勝手やってるってのが現在のリルガミン王国」

「地方を治めてる王様も全てリルガミン王家の分家でね、上級王は王様達が会議をして決めるのが習わしなんだよ。よっぽどの事が無い限り、基本的にリルガミン上級王の子供が後継者になってるんだけど、城塞都市(ウチ)のお偉いさん達はそれにトレボー王を捻じ込もうとしてんのよねー。確か若い王子様と王女様がいるらしいんだけどまだ子供だから……ね。可哀想なんだけどこればっかりはね、わたしにはどうしようもないし。確かアラビク王子とマルグダ王女だったかな」

 なぜだかアラビクとマルグダの名前が印象に残った。

「こんなとこかな? この世界の大体の構成については。わたしも専門じゃないから、詳しく知りたかったら王立図書館で自分で調べてみてね」

 図書館なんてものもあるんだな。何かの役に立つかもしれない。気に留めて置くことにした。

「で、次にこの国の内情について。まずリルガミン王国。上級王が引きこもってるからみんな好き勝手、以上! 地方同士で戦争してるのはニーダバウとクロスバルだけなんだけど、基本的に何処も政情不安よ。治安も良いとは言えないわ。悪い事は言わないから用も無いのに他所の地方、特にヴァルダムに近付いちゃダメよ? あそこはヤバいから。拉致監禁とか奴隷とかレイプとか、もうなんだかあそこだけ空気が違うの! そのくせ見た目は平和そうな農村とか田園風景ばっかり広がっててね、その裏では……いろいろ怖い事やってるの! とにかくサスペンスやホラー映画みたいなとこなの! いい? ヴァルダム、ダメ絶対!いいわね!」
「…なんかあったんスか?」
「何人もね……ヴァルダムでいなくなってるの。異邦人の子が。あそこは中立だから、戦争に巻き込まれないで済むからって、ね……だから女の子もたくさん……一度だけ、逃げ出せた子がいてね…うん。とにかく、あそこは…ダメ」

 その子がどうなったのかは解らない。彼女は多くを語らなかったから。だがどんな目に遭ったのかは(・・・・・・・・・・・)想像できた。そう言う事が、普通に、国家レベルでまかり通ている世界なのか。

「ここではそんな事ないから! 城塞都市は仕切ってる人達がしっかりしてるから、治安は良い方なんだよ。けどね……外国と戦争してるの」
「地方領主みたいなもんなのに、ですか?」
「甘いなー、リルガミンの六つの地方はそれぞれちょっとした国家レベルの版図と経済規模を持ってんだよ。中でも城塞都市は軍事力に特化しててね、王国の北に割拠している都市国家群とも単独でやり合えちゃうんだな、これが」

 それは城塞都市が凄いのか、都市国家群がショボいのか。

「戦争してる割には呑気にみえるんですが──月影さんとか」
「蘭ちゃんは戦争中でもあんな感じだよ? 三年前のゼナ攻囲戦からこっち大規模な動員を控えてるからね、あんまりギスギスした空気じゃないんだよ。今は国境付近でたまに小競り合いがあるくらいだね。徴兵も暫くやってないから練兵場はもっぱら暇なんだー。ま、その代わり今は冒険者の育成に力を入れてるから訓練場の側面が強くなってるの」
「練兵場…訓練場…言い方が違うだけじゃないんですか?」
「練兵場はあくまで徴兵した兵隊さん達の軍事教練。基本的に集団戦闘の教導がメインなんだ。訓練場は個人の為の技能向上訓練や技術指導を行うの。どっちもわたしの管轄なんだけどね──で、ここから比企谷くんに直接関わって来る大事なお話」

 彼女の瞳が僅かに曇り、心なしか表情が陰った。

「…比企谷くん、きみの今の立場はね、異邦人……つまり、流民なの。人権も無くて誰も守ってくれない。仮にきみを誰かが戯れに殺したとしても罪に問われない。逆に比企谷くんが誰かのパンをひとかけらでも盗んだとしたら、公的にきみが受ける刑罰は死刑か強制労働刑、軽くても国外追放。個人的に捕まれば奴隷にされちゃっても文句が言えないの」
「それって……」
「うん。流民の立場は王国で一番下。住むところも、働くところも最低……それどころか、人間扱いすらされないの。だからみんな人頭税を払って〝市民〟になるんだけど……流民の立場じゃまともな仕事にも就けないから……人頭税は二カ月に一回、成人一人につき四〇ゴールド。十五歳未満なら一人につき十五ゴールド。家族四人なら百十ゴールドだね。月額だと五十五ゴールド……これってね、リルガミンに住んでる大半の人がギリッギリまで切り詰めて漸く作れる金額なの。だからね……ちょっとした事で払えなくなたりもするの……そんな時ね、売られちゃったり…とか、捨てられちゃったり…なんて事がね、結構あるんだ…」
「そうまでして〝市民〟でいるメリットってあるんですか?」
「街で自由に商売できるし、国営の施設も利用できるわ。何より法律と魔法で守られる。市民を傷付けでもしたら忽ち赤ネームだからね、悪い事はできないようになってるの。この世界ではね、誰かに無条件で守られるってのはとっても得難い事なのよ」
「赤ネーム?」

 ネトゲのPKかよ。

「ふふふん! それがこの後、説明する凄い魔法なのよ! で、比企谷くん、きみには兵役に就いて、冒険者になって貰いたいんだ」
「兵役…冒険者……馬車に乗ってた他の人って…」
「そう、彼等は兵役に志願しに集まった人達。定期的にね、離れた村々を巡回して志願兵を募っているの。それで徴兵と志願兵の違いは待遇に出るわ。流民とか市民とか関係なく徴兵に引っ掛かって連れて来られると、基本的に最前線に連れて行かれちゃう……でも志願兵は欠員次第では街の警羅に配属されるかもしれないし、後方の警備隊に回されるかもしれない。まぁ紛争中だったら優先的に最前線だけど。それでも扱いが違うわ。そして何より、志願兵は志願した時点で兵務リストに入るから王国での地位が"兵士"になるの。市民より待遇も扱いも上よ。徴兵された兵士はあくまで"徴用兵"で三年間兵役を勤めなければ兵務リストに載せて貰えないわ。お給料も倍ほど違うしね」
「それだけ待遇に差を付けても、徴兵しなければならんほど兵士が足りてないんですか?」
「足りてないわ。大規模な会戦を控えているのは慢性的な兵員不足なの。急いで訓練して速やかに兵隊を前線に送る事はできるの。でも兵士の数はねー、一朝一夕じゃどうーにもなんのいのよねー。あんまり徴用すると生産性とか社会基盤がガタガタになるし、出生率も下がっちゃうしね。バランスが難しいってエグザス様がよくぼやいてるわ」
「兵士はなんとなく解りました。冒険者は?…」
「冒険者はね、元々は流民の武装集団や傭兵団の個人規模みたいな日雇いの傭兵みたいな人達の事を指してたんだけど……三年前から城塞都市では意味合いが変わったの。城塞都市ではね、ワードナの地下迷宮(ダンジョン)を攻略する専任の兵士を冒険者って定義しているんだ」

「──事の発端は三年前。トレボー王に仕えていた宮廷魔術師だったワードナ先生は旧帝国時代の遺跡の調査発掘の任務に就いていたの。そこで発掘したのがなぞの"魔法のお守り"。旧帝国時代の魔法遺物と云うよりも神々の残した聖遺物ではないかって話なんだけど、とにかくトレボー王は悦んだわ。「戦争に使える」ってね。実際、魔法のお守りの実戦投入でそれまで難攻不落を謳っていたフェルキス要塞を僅か一日で落城させた訳だから、とんでもない力を秘めていたのね。よく解んないんだけど。
 で、気を良くしたトレボー王は一気にゼナって北部同盟の中心的な都市国家を制圧しようとしたんだけど……盗まれちゃったの、魔法のお守りを。
 すでにゼナの攻囲戦が始まっていたからね、大変だったわ。魔法のお守りの使用を前提でかなり無茶な作戦立ててたから、現場は大混乱よ。補給線も伸びきっていたし、援軍がすぐに来れる敵地のど真ん中だったからね。逆にこっちが包囲されて挟撃されて惨めに潰走。近衛兵団が踏ん張ったから全軍崩壊までは行かなかったけど、ばらしー団長とモンちゃん参謀がいなかったら殆ど全滅だったかもしれないわ」

 ば、ばらしー団長に、モンちゃん参謀……話の流れ的にヤバかったのは解るが、それを救った立役者がまるで緊張感が無い名前なんですが……この人も近衛兵団の連隊長だったな……この国の、トレボー王の近衛兵団って……

「──それでも、たくさん死んじゃった……新兵ほど前に配置されるしね。わたしも蘭ちゃんも結構頑張ったんだけど……久し振りの大負けだった。それまで上手く行ってただけにみんなショックだったな。
 魔法のお守りを盗んだ犯人はすぐに判ったわ。宮廷魔術師のワードナ先生。盗まれた日に一人だけいなくなったらバレバレだよね。
 トレボー王は大嫌いなマレル王を殺すつもりが大敗北する結果になってしまった事に、宰相のエグザス様はワードナ先生一人のせいでとんでもない人的被害が出た事で、そりゃあもう大変だったわ。激おこぷんぷん丸?
 しかも、ワードナ先生、遠くに逃げるならまだしも、なぜか城塞都市の街外れにダンジョン作って立て籠もっちゃったの。わざわざトレボー王を挑発する手紙まで残して。無茶な命令とか、いつもなら止めに入るクールな宰相様まで怒ってたもんだからね……すぐにワードナ討伐隊が編成されたの。
 最初は第三軍の若手エリート将校くんが一個大隊率いて乗り込んだんだけど……三人しか帰還しなかったわ。
 次に親衛隊から精鋭部隊が選抜されてダンジョンに入ったんだけど……未帰還率が三割を超えた時点で作戦は中止。これ以上、優秀な兵士を失う訳にはいかないってね。
 そこでモンちゃん参謀とエグザス様が考えた第三案、王国全土に傭兵や志願兵を広く募集して彼等にダンジョンの攻略とお守りの奪還を命じると共に、見所のある人材も同時にゲット!人材不足も大・解・消!!って云う作戦で行くことになった訳なのよ」
「…それ、上手く行ったんですか?」
「そこできみの出番なのだよ、比企谷くん!ちょっとダンジョン攻略して、お守り取り戻して欲しいなー」

 おい、ふざけんな。精鋭部隊が返り討ちに遭ってるのに、素人に何やらそうとしてんだよ。無茶ぶりにも程があるわ。

「因みに報奨金は五万ゴールド!凄いっ!!そして親衛隊に大・抜・擢!!!今日からきみもナイト様だよー!いえーい」

 いえーい!じゃねぇよ。報酬が破格って事はつまり無理ゲーって言ってるようなもんじゃねぇか。

「──それが」

 急に彼女は声のトーンを落とした。相変わらずにこやかな笑顔を張り付けてはいたが、なぜだか……悲しげに見えた。

「それが一番、きみの生存率が高い方法なんだよ。比企谷くん、きみはね、とっても弱いの。この世界では。誰もきみを守ってくれないの。日本では当たり前にあった物がね、ここには何も無いの。そしてね、きみは受け入れないといけない。どんなに嘆いても、どんなに望んでも、どんなに願ったところで元の世界に帰れないの。まず……それを、それだけは、理解──して」

 冷水を掛けられた気がした。彼女の言っている事が、いちいち胸に突き刺さる。
 なにより、一番聞きたくなかった事────元の世界に、帰れない……

「冒険者になれば、ダンジョンの攻略が義務になる。でも訳も解らないまま前線に送られるよりはマシよ。前線で使い捨てにされるより、流民として生きるよりはずっと安全。確かに危険だし、殺されてしまうかもしれない。でもね、エセルナートは何処に行っても危険なの。だから可能性に賭けてみて。冒険者なら無理せず、自分のペースで強くなる時間もあるわ。理不尽な任務や命令に翻弄されることも無い。この訓練場できみが強くなる為に、わたし達も手を貸す事ができる。それに、城塞都市には比企谷くん以外にもたくさんの異邦人が冒険者になっている。おんなじ境遇の彼等はきっときみの力にもなってくれる筈だよ」

 自分でなんとかするチャンスがあると言っている。そしてそれに賭けろ、と。彼女の言葉は俺はすんなり受け入れていた。反駁も疑問も湧かない。それしか無いのだろう、本当に。

「あの、質問、いいですか?」
「うん、いいよー」

「藤村…先生は…エセルナートに来て…何年ですか?」

「今年で十年、だよ」

 十年経っても帰れなかった人、この世界で十年生き抜いた人……彼女の言葉は重く響く訳だ。

「……やっぱり、帰る方法は…」
「──わたし達もね、ずっと帰る方法とか手掛かりとか、探してるんだよ。でもね……十年経っちゃった(・・・・・・・・)けど、何も解らないんだ。どうやってエセルナート(ここ)に来たのかすら何も……」
「俺以外に、異邦人は…どれだけいるんですか?」
「今年に入ってからなら比企谷くんが八人目。毎月三人から五人。多い年で年間五十人くらい。国籍も年齢も性別もバラバラ。多分、生きてきた時代も違うんじゃないかな。わたしが訓練場で働くようになってからの数は正確だと思うけど、その前は解んないかな」

 意外なほど多かった。確かに、ここに来てまだ時間は殆ど経ってないにも関わらず、それらしい人物を含めると既に四人も出会っている。

「エセルナートに来た時のこと、覚えてます? あと他の異邦人がどうやってここに来たか、とか」
「──わたしが聞いた限り、みんな元の世界で気を失って、気付いたらいつの間にか城塞都市行きの馬車に乗っていたみたい。わたしもね、あの日、学校でみんなが次々に倒れ始めて……助けを呼びに行かなきゃって思ったんだけど、わたしも動けなくなってそのまま気を失って……気付いたら馬車に乗っていたわ」

 共通する事は目が覚めたら馬車に乗っていた事。そして元の世界で気を失っている事。あのラマが出て来ないのはなぜだろう。聞いておく必要がある。

「エセルナートに来る前、直前にでも……ラマを見たって人、いませんでした?」
「──ラマ? りゃま? なにそれ? うう~ん…聞いた事ない、かなー」
「金色で毛むくじゃらで、ラクダみたいで、首が長くて…赤い布を体に巻いている変な動物なんでですが……忘れてる、なんてことは…」
「そんな変なの見てたら絶対忘れないよー。でもなんで?」

 今は秘密にしておいた方がいいだろう。確信はあっても確証は無い。

「……ひみつ。さっきの意趣返しって事で」
「秘密? さっきの仕返し? あ・れ・かー!!やっぱ第二プランで行くべきだったか!? やり直していい? あ、ダメ……ダメ? ちーくしょーぅう!」

 長い話だった。
 時間の感覚すら忘れるほどに、俺はいつの間にか彼女の授業に没頭していた。
 藤村先生の説明は大まかだったが、終始誠実だったと思う。彼女の言葉には俺が警戒していた下心など微塵も無く、ただただ俺の今後を──きっと俺以外の、ここに来た全ての異邦人の事を──親身に案じている事がその言葉の端々から窺い知れた。彼女はそれが最良と理解しながらも、どうしても〝死地〟に送り込まざるを得ない現実に対して果てることの無い葛藤と自責の念を抱き続けているように見受けた。だから彼女の助言は真摯で、言葉に重みがあった。素直に受け入れる事が出来た。俺は教師としての藤村大河を信用する気になっていた。尤も、一人の大人として見るなら、ダメ人間の評を取り下げるつもりは全くない。

 この理不尽な世界を受け入れて自身の居場所を勝ち取る程度に彼女は強い。今の俺など到底及ばない圧倒的な強さだ。そしてそれこそが、今からの俺に必要なものだった。
 藤村先生ほどの地位と実力があっても、十年まるで手掛かり無し。それはつまり、何の力も持たない俺がこのまま幾ら我が家への帰還を願ったところで、己の現状を幾ら嘆いたところで、方法をがむしゃらに探してみたところで、誰かに当たり散らしたところで、目の前の現実を受け入れられなかったところで、何も変わらない(・・・・・・・)
 元の世界への帰還を願うにしても、まずはこの世界を生きて行く力が必要だ。
 いつか帰る方法が見つかるかもしれないその日まで、生き抜く力が必要だ。
 元の世界に帰る為の方法を探し出す力が必要だ。
 元の世界に帰る為の力が必要だ。
 俺にはそれが絶対的に足りていない。そして城塞都市(ここ)では、その不足分を埋め合わせ、更に必要な分だけ手に入れる事が出来るかも(・・)しれなかった。

 俺には選択肢など、最初から無い。ここ(・・)に来た時点で決まっていたのだろう。これがララ何とかの思惑の内だと言うのなら忌々しい限りだ。だがそれすらも俺にとっては武器に成り得た。

 俺は、どうしてこの世界に来たか知っている(・・・・・・・・・・・・・・・・・)奴を(・・)知っている。

 俺をエセルナートに連れて来たのは間違い無くララ・ムームーだ。奴が全ての元凶に違い無い。ならば俺の目的は一つ。奴を見つけ出し、元の世界に帰る方法を奪い取る(・・・・)。それだけだ。

「──わたしからのお話は以上です。その……今すぐ決めるのは難しいかもしれないけど……」

「やります。俺は────冒険者になります」

 迷いは無かった。

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冒険者の比企谷八幡

「そっか──うん。そうだね、だったら城塞都市のこと、もっと知っとかないとね!」

 藤村先生は俺が冒険者になると告げた後、やはりどこか悲しげな顔をしていた。それだけ俺の前途は暗澹としているのだろう。まぁ当然か。
 冒険者になると言ったものの、それがどんなモノなのか、どれだけ危険な道なのか、俺自身今一つ実感が伴ていない。ダンジョン攻略に参加している冒険者達にどれだけ被害が出ているとか聞かされても、これまでの生活からかけ離れ過ぎていてまるで想像がつかなかった。
 曰く、毎月百人単位で冒険者を登録しているのに、城塞都市の冒険者の総数は三百人前後。毎日死人が出る。新米冒険者がダンジョンに潜って五分以内に死ぬ確率は65パーセント。統計的に三人に一人は確実に初日に死ぬ。三人とも初日で全滅する確率は誰か一人が生き残る可能性よりも高い。生き残っても冒険者から兵士に転属を希望する者が多数──等々、どこからどこまでが本当か判らない眉唾な上に、現実味も乏しい。
 藤村先生、初心者を脅かし過ぎじゃね? そんな事を漠然と考えながら藤村先生の説明を聞いていた。

 俺はまだダンジョンがどんなモノなのかよく解っていなかった。それは、後に思い知る事になる。


 街で冒険者が利用できる施設についての説明で藤村先生の講義は一旦終わった。
 随分長い抗議だった気もするが、実際は一時間も経っていないらしい。明らかに時間の感覚がおかしかった。

練兵場(ここ)の施設全体に時間の経過が遅くなる呪符が施してあるの。だから一日でとりあえず(・・・・・)必要な基礎訓練だけは全て施せるんだよ。本来、一年以上かけて身に付けるような特殊な技能や訓練を全部一日で詰め込めちゃうトンデモ魔法なんだー。すごいよね」

 それ、なんて精神と時の部屋? 魔法は何でも有りなのか。

 続けて俺の冒険者登録をする事になり、先刻馬車の同乗者達が入って行ったレンガ造りの施設に改めて案内して貰う事になった。
 藤村先生の案内はロザリンドの時に比べてやけに時間が掛かった。ついでとばかりに道々の施設の説明から、割とどうでもいい事まで饒舌に語り続けたからだ。なるべく直視しないようにしている彼女の下心は別にして、藤村先生の様々なレクチャーは悪くなかった。寧ろ良かった。そう言った意味では俺がこれまでに出会った教師の中では屈指の、いやここは素直に"最良の"先生の一人に数えてもいい。きっとこの女教師は元の世界でも良い先生だったのだろう。

 今現在、最大の関心事である冒険者の待遇については、藤村先生のおかげでおよそ理解できた。
 基本的に衣食住がある程度(・・・・)保証されているだけである。ある程度……つまりは割引をしてくれるだけなのだ。法的に魔法的に守られる──の意味がまだイマイチ解らないが、他に特典らしい特典は無いようだった。因みに兵士は給料が出るが、冒険者は自力で稼がなければならない。ダンジョン探索ってゲームみたいにそんなに儲かるのか甚だ疑問なのだが……
 城塞都市の各種施設は天守閣や国政、軍関係の重要施設を除いて、ほぼ自由に出入りできるとは云え、結局のところ先立つ物が無ければ全く意味が無い。図書館も読むだけで閲覧料、貸りるつもりなら貸出料が必要だ。週一で開かれると言うバザーも現金が無ければ買い物などできない。全ては金次第。エセルナートでの単位はゴールド。銅貨よりも銀貨、銀貨よりも金貨、何事も所持金の量がモノを言うのは何処も同じという事だ。
 冒険者が利用する主な施設は訓練場を含めて六カ所。それだけで一応、冒険者の〝暮らし〟は成り立つらしい。

 今後恐らく最も世話になりそうな施設が〝冒険者達の出会いと別れの憩いの場〟とか言うギルガメッシュの酒場だろう。〝リーズナブルな値段で美味しいご飯〟を提供してくれるらしいのだが、果たして現代日本人の洗練された味覚を満足させてくれるのかは疑問だ。
 酒場だけに当然、酒も飲ませてくれるであろうが、未成年の飲酒は厳禁と釘を刺された。言ってる本人が悪酔いしてあの様なだけに説得力に欠けるが、俺としてもさほど興味はない。そんな物よりコーヒーだ。マッカンとは言わんがせめてそれっぽい物は飲みたい。そしてこのギルガメッシュの酒場は城塞都市でも数少ないコーヒーを出してくれる店らしいのだ。後は砂糖と牛乳だな。それらが揃えば練乳もマッカンも再現は不可能ではない。
 酒場の二階は娼館なので未成年の俺は立ち入り禁止を言い渡された……決して興味がある訳ではないが、かのナポレオン・ボナパルトは若い頃、本を買うつもりで食費を切り詰めてまで貯めた金で、なぜか娼婦を買って哲学的な体験をしたと述懐しているくらいであり、俺も偉大な英雄に少しばかり肖ったところで……いや、何でもない。因みにエセルナートにおける成人は十五歳からだそうだ。ならば俺はとっくに成人している事になるのだが「高校生なんだから未成年でしょ!」と言う藤村先生の常識的なようで納得し難い理屈により子供扱いである。ではその未成年に対して色目を使うのはどうなのかとツッコみたかったが、わざわざ藪を突いて〝虎〟を刺激する必要はないし、なによりそんな下心丸出しの彼女から目を逸らしていたかった。
 ともかく、ここで仲間を募り、最大六人の小隊(パーティー)を編成してダンジョンを攻りゃ……無理。多分無理。きっと無理。そんなコミュ力があれば、ぼっちやってない。

 冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)は冒険者なら誰でも格安で利用できる宿泊施設。それも相場の半値以下、らしい。そもそも相場を知らないので有難味は実感できない筈だ。値段相応に部屋のグレードが上がり、部屋を中~長期契約して私物化するのも有りだとか。中には好んで馬小屋に潜り込んで睡眠をとるツワモノもいるそうだ……タダだから。本気なら正気を疑ってしまう理由だ。聞く限り冒険者は肉体的にも精神的にもキツそうな仕事なのに、そんなんで英気を養えるのか? 十分なコンディションを維持管理できるのか? 命懸けの仕事なんだろ? 最低ランクの簡易寝台一泊の料金が1.3ゴールドらしいが、ダンジョンで1ゴールドを稼ぐ事はそれほど困難なのだろうか……先の死亡率云々と言い、少々不安にもなる。

 ボルタック商店は城塞都市一の品揃えを誇る雑貨屋で王国全域で手広く商売をやっている有名店らしい。武器防具に、各種サバイバル用装備から医療品の類まで様々な道具を扱っているだけでなく、戦利品の識別と買い取り、装備のメンテナンスまで一挙に引き受けているそうだ。頼めば特注で特殊な装備も作ってくれるらしい。流石に魔法の道具は無理らしいが。冒険者がダンジョンから持ち帰る戦利品は取引をする場合、全てボルタック商店を通すのが〝決まり〟だそうだ。

 そしてカドルト教の総本山カント寺院。お布施を払えば各種回復魔法のサービスの他、死者の蘇生まで行っているらしい。なにそれすげぇ。尚、自分が死んだ時は、誰かが依頼して生き返らせてくれないといけない。つまりぼっちの俺には意味の無い機能だ。因みに蘇生が失敗して灰になったとしても料金は返還されないそうだ。灰からも蘇生を試みる事は出来るが、桁外れに高いらしい。なるべくお世話になりたくない施設だな。

 あとは国営のシャムロック銀行。紙幣制度ではない貨幣社会では有る程度纏まった現金は重量が大変な事になるからな、信用できる預かり所があるのは有難い。両替もしてくれるし、貸し金庫もやっているそうだ。冒険者なら誰でも普通預金の口座を開設できて、利息が市民より1パーセント高いらしい。それ優遇じゃなく誤差じゃね?

 他にも重要ではないが知っておくと便利かも、と言う前置きで教えてくれた施設として、街の外れにある馬屋と練兵場に隣接した闘技場がある。
 馬屋では馬やラバが買えるだけでなく、王国内を巡回する駅馬車も出ているそうだ。一応、憶えておいて損は無いだろう。いつか利用する日が来るかもしれないしな。まぁ、当面用は無さそうだが。

 そして城壁にくっ付いてたコロッセオモドキ。モドキでは無くなくガチの闘技場でした。月に一度、奴隷や剣闘士やモンスターによるガチの殺し合いが興行されるとか。城塞都市も普通におっかないじゃねぇか。でもローマのそれと同じく大人気らしい。興行が行われる日はお祭り騒ぎだとか。あと希望者は出場できるらしい。飛び入り参加で殺試合とかどこの戦闘民族だよ。

 およそこんなところだな、藤村先生の講義は。後は実際に訪れて直に見て触れてみて欲しいとの事だ。それは暗に「娼館も行って良し」と言っているのだな、と拡大解釈して受け取った事は言うまでも無いだろう。勿論、黙っていた。暗黙の了解と云うやつだ。いや、行かねぇけどな?


「──おや、説明は終わりましたか。お疲れ様です、連隊長」
 受付に座っていたのはロザリンド。ちらりと俺を一瞥し、わざとらしくため息を吐いた。
随分(・・)時間が掛かったようですが(・・・・・・・・・・・・)?」
 俺の呑み込みが悪いと言いたげですね判ります。そして嫌味ったらしく藤村先生に問う辺り流石ロザリンドである。直接本人に仕掛けず、わざと関係の無い、それも標的に対して友好的な第三者に嫌味をぶつける事で標的の罪悪感を煽りつつ、同時に標的をナチュラルにハブる事により殺傷力を二倍にも三倍にも高める高等テクニックだ。彼女の鋭利な精神攻撃は藤村先生(リフレクターインコム)に反射され容赦無く俺の心を穿ち貫いた。このレズ女……俺に何か恨みでもあんのか。だが残念だったな、最初からぼっちの俺にはハブにするの効果は無いのだ。
「いや! 違うの! ちょっと講義に熱が入っちゃったと言うか…アレよ!」
「なんでも構いませんが……どうして第一礼装をお召しに? 本日は陛下と謁見の予定はございませんが」
 それ(・・)第一礼装だったのか。てっきり演歌歌手かと思ってた。
「あ、うー、ほら、偶然の事故(・・・・・)で胴着が汚れちゃったし」
「替えはございましたよね。それにわざわざウィドマークの香水まで」
「ロ…ロザリーちゃんは、ゲロ臭いって言われた女の気持ちが解らんのかぁ────ッッ!!!!」
 虎は吠えた────だが、ロザリンドには効果がない!
「普段とはまるでお化粧の気合いの入れ様が違いますね……子供相手にがっつき過ぎです──ドン引きされてますよ?」
「──ぐはぁっ」
 ロザリンドの口撃!急所に当たった!虎は倒れた。
 特に理由も無い暴言で俺の心を圧し折りに来ていたのかと思ったが、標的は藤村先生だった。この書記官、上司に対して容赦ねぇ。そして結局俺の被害者妄想だったと言うオチ。ロザリンドの悪意は全部俺にぶっ刺さる様になっている訳ではないらしい。少し安心した。
「…全く。比企谷さん、連隊長がとんだ粗相を…騎士団を代表して謝罪致します。セクハラとかされませんでしたか?」
「いや、それは別に…」
「してないもん!セクハラなんてしてないもーん!」
「そんなお見合いの席みたいな装いをして何を今更。もう少し立場と年齢を弁えて下さい」
 やはり藤村先生の身形はおかしかったのか。演歌歌手的な意味で変とは思ったが、TPOにも反していたとは……それとお見合いの席なんて比喩はやめて下さい。初見の恐怖が蘇るだろマジで。
「うわーん! ロザリーちゃんのいじわるー!」
 泣きながら何処かに走り去って行った。三十過ぎた大人の行動としては痛いだけです、藤村先生!

「──さて、悪は去りましたので登録を始めましょうか。冒険者登録でよろしいですね?」
「あ、はい」
「では、こちらにお名前をフルネームで」
 渡されたのは一枚の書類。普段お目にかかっていた普通紙でもコピー用紙でも上質紙でも、ましてや和紙ですらない。これ…紙?
「それは神聖紙(パピルス)です。カドルト教徒やニルダ教徒等の聖職者達が教会で作っている特殊な紙で、簡易呪文封印巻物(マジック・スクロール)の作成にも使われる魔法儀式用の専用紙なんですよ」
 パピルス──古代エジプトで使われていた紙の事だ。だが、ここでは意味合いが違うようだった。少しピンクがかった乳白色で、不思議な肌触りだ。麻布とボール紙の中間みたいで、それでいて滑らかな艶があった。
 これが魔法儀式用と云う事はこれから何らかの魔法の儀式を行うという事だよな。事務手続きにも魔法とは急にファンタジーっぽくなってきたな、ほんのちょっぴりエセルナートを見直した。

 比企谷八幡──俺は特に何も考えず、ごく自然に漢字で記入していた。

「…結構です、比企谷さん。では貴方の右手にある円盤の上に立って貰えますか?」
 彼女に従って視線を移すと、そこに見るからに怪しげな円盤状の台があった。床から五cmほど高く、半径は六十cmほどだろうか。素材は黒曜石の様にも見えるが、その表面には不思議な透明感があり、石の内側には複雑怪奇な紋様や見た事の無い文字がぎっしりと白字で書き込まれていた。魔法陣?
「…なんスか、あれ?」
個体走査陣(スキャナ)です。貴方の特性値を取り込み転写出力機(プリンター)で先ほどの書類に印字します」
 おい、ファンタジーっぽくない単語が連発してるんだが。見直した直後にこれかよ。
 俺は当惑しながらもスキャナの上に立った。中心に立つと光の輪が俺を囲み、足元から頭上へと一瞬で駆け昇る。頭の高さを越えると光の輪はパッと消え去った。
「──はい、結構です。確認しますので、こちらへ」
 あれで終わりなのか。もっとこう…なんか……いや、演出とか別にいいんだけどさ……魔法の儀式と聞いてもう少し派手なのを期待してたなんて言えない。
「…うっス」

「それでは一応、確認の為に読み上げます。

 お名前は〝比企谷(ヒキガヤ)八幡(ハチマン)
 人種は〝人間(ヒューマン)
 性別は〝男性〟
 年齢は〝十七歳〟
 戒律(アライメント)は〝(Evil)

 以上、ご確認下さい。続けて特性値を──」
「あ、あの、すんません。この…戒律(アライメント)の〝(Evil)〟って云うのは一体……」
 俺って悪人だったの? 意味解んねぇ。ぼっちだけど善良な千葉県民だと思ってたんだが。
「あ、あ…あの役立たず、戒律(アライメント)の説明をしてませんでしたか。あれだけ時間を掛けていったい何の説明をなさっていたんでしょうかね。ちょっと小一時間ほど問い詰めたい気分です────さて、簡単に説明すると物の考え方や性格、行動基準、行動原理等、人それぞれの生き方の指針を大雑把に善・悪・中立の三つに分けて判りやすくしているだけです。
 悪だからと言って悪人だと云う訳ではありませんが、確かに犯罪を犯すような悪人も大抵〝悪〟なのも事実です。一般的に悪の(かた)は善の(かた)に比べて全体よりも個人を優先する傾向が強く、協調性に欠ける所がありますね。思い当たる節がある筈ですよ?
 深く考えずに、気の合う人と合わない人をより分ける程度に考えて結構です。悪である貴方は善の(かた)とは考え方や価値観がまるで違うので、きっと上手くいきません。余程の事が無い限り、善の方は悪の方と関わろうともしませんし、逆もまた然りです。
 例外的に中立(Neutral)戒律(アライメント)の者はどちらとも上手く付き合えます、往々にして。ま、例外も多分に有りますので一概にこうであるとは言い切れませんけどね。
 善の(かた)が常に正しいかと問えば決してそんな事はありませんし、悪の(かた)が人助けをする事だってあります。善と悪の(かた)が互いに惹かれ合い恋人関係に発展する事もあります。
 戒律なんて云っても、ちょっとした事で変わってしまう事もありますし、さほど気にする必要はありません。せいぜい選択できる職業(クラス)に制限が付く程度ですから。パーティーを組む時の参考にするくらいに考えるのが妥当ですよ? 嫌いな人や考え方が根本的に違う人と危険なダンジョンに赴く事はお互いの為にもなりませんしね。
 ──それに、どうせ部隊に編成されたらアライメントは(そんなの)お構い無しなんですから」

 まぁ、そう言われると……そうなのか? 釈然としないがエセルナート(この世界)では、ぼっちは〝悪〟らしい。まぁ、お前は善人だ!と言われるよりはしっくりくるか。ふむ──ま、考え方が違う奴が予め解れば対処し……すみません、ほとんどの人間が(ぼっち)とは考え方が違うと思うのですがそれはどうすれば。あれか? 総武高にいた殆どの生徒は〝善〟だったのか? 俺と根本的に考え方も価値観も違っていた訳だからな。確かにその理屈なら葉山は〝善〟なのだろう。そう言われても納得できる。だがそうなるとあの(・・)相模南やその取り巻き達、そしてあの(・・)雪ノ下陽乃すら〝善〟になってしまうのではないか? いや、アレこそ中立なのかもな。ははっ……なるほどなるほど、そりゃ確かに生き辛い訳だ。俺の様な〝悪〟人には。
 まぁ彼女の言う通り、あまり深く考えても意味が無いか。どうせ俺はぼっちなんだし。独りなら善も悪も関係無い。

「──では次に貴方の特性値をか……」
 なぜかロザリンドは俺の書類(パピルス)を見て固まった。
「比企谷くーん! ちっがーうでしょー!? さっきのとこは、わたしを追いかけて来て、優しく慰めてくれる場面でしょー?」
 うぜぇ。変なテンションの虎が復帰した。なんだろう、急に帰りたい。それも千葉まで。
「あ、もうスキャンしたんだ! どれどれー? 比企谷くんのステータスは……」
 そして固まる虎。なぜか俺のステータスとやらを見て二人共石化してしまった。何? その紙、石化の呪いでも出てんの? 俺のだからか? 俺の目が腐ってるのと何か関係あるとか言わないよな?
 いい加減、不安になって来たので声を掛けようとしたら、二人は俺をまじまじと見つめ、紡いだ言葉は重なった。

「「凄いわ(です)」」

「え?」
「──すッッごいよ! 比企谷くん! 何この特性値! 何なのこのスキル! 何? 千葉にいる時なんかやってた? 忍者? 忍者よね? 忍者やってたんだね!?」
「……素晴らしいです。稀に最初から侍の素養を持った方も来られますが……これ程とは」

 なぜだか俺を見る二人の視線がやたらキラキラしていると云うか──え、何? ただの高校生ですが。いや、違うな……ぼっちの高校生でしたが、何か?
 それとなぜ忍者? まぁ確かに存在感を消して休み時間をやり過ごす俺の隠密スキルは忍者レベルと言っても過言無いのかもしれんが……ステルスヒッキーすげぇ高評価なの? マジで!? ぼっちやってて良かった……いや、それはおかしい。

「簡単に言うとね、普通のレベル1新人さんと比べたら比企谷くんのステータスは5~9レベル分くらい高いの。一番高い知恵(Intelligence)なんか殆ど最高評価だよ!?」
「特性値、ステータスと我々が呼んでいる数値は、兵士に必要な身体能力の評価なのですが……貴方はそれが極めて高評価なのです。これは個体走査陣(スキャナ)で魔法的に調べて評価した結果なので間違いはありません。これを疑う事は呪符(システム)そのものを疑う事になりますから」

 少し興奮気味のロザリンドは「ご覧下さい」と俺の書類を指し示す。どうでもいいが、このパピルス……テーブルトークRPGのキャラシートに似てんだけど……気のせいだよな?

「特性値は(Strength)知恵(Intelligence)信仰心(Piety)生命力(Vitality)素早さ(Agility)器用さ(Dexterity)魅力(Charisma)幸運(Luck)の八項目。これらの数値はそのまま能力の評価であり、どの職業(クラス)に適性があるかを判断します。例えば、(Strength)が11あれば戦士(ファイター)の適性はありますが、知恵(Intelligence)が8しかなければ魔術師(メイジ)の適性は無いと言う事です。適性が無い職業(クラス)の訓練を受ける事はできませんので、当然その職業(クラス)に就く事はできません。比企谷さんの場合──殆どの特性値が13レベル以上(マスタークラス)のステータスとさほど変わりません。そして──上位職業(クラス)、忍者の適性があります」

 それが如何に異常(・・)な事なのかこの時の俺は知る由も無く、ただ無条件に自身を認めて貰えている事に戸惑いながらも、それがまんざらでもない俺がいた。〝上位〟と〝忍者〟と云う単語は、とっくに捨て去り永遠に封印した筈の俺の心の奥底に沈んでいた中二心を擽った。
 忍者、と云う言葉は不思議としっくり俺に馴染む気がした。

「一応、確認しますが、貴方は戒律(アライメント)の制約で選択できない職業(クラス)以外は全て適性があります。
 下位職業(クラス)戦士(ファイター)魔術師(メイジ)僧侶(プリースト)盗賊(シーフ)
 中位職業(クラス)狩人(レンジャー)霊能者(サイオニック)錬金術師(アルケミスト)(カンナギ)使用人(メイド)…それと使用人(メイド)。他に使用人(メイド)もあります。
 そして上位職業(クラス)司教(ビショップ)忍者(ニンジャ)の中から好きな職業(クラス)を選んで下さい。と、言っても余程の理由が無い限り忍者以外──失礼しました。使用人(メイド)以外を選択するとも思えませんけど」
 彼女の語ったそれらの中に、忍者ほど俺を惹き付けるものは無い。
 ゲームでおなじみの単語が並ぶ中、明らかにおかしいのが混じっていた気もするが、俺のファンタジー観を嘲笑うかのようなこのエセルナート(世界)のいい加減さからして、きっと気にしたら負けなんだろう。そもそも侍や忍者が出てきた辺りで世界観についてはなるべく考えないようにはしているが……ここに来て謎のメイド推しである。メイドってなんだよ、メイドって。わざわざ言い直してまでメイドを推してくる意味が解らん。
「ここで登録する志願兵も冒険者も、殆どの人は下位職業(クラス)しか選べないし、適性もせいぜい一つか二つなんだよ。たまーに中位職業(クラス)の適性がある人もいるけどね。訓練前の特性値としては(サムライ)の適性が限界じゃないかって話だったけど……忍者もあるんだねー」
生まれながらの(イノセント)君主(ロード)は前例があります。尤も、アレは英才教育とは名ばかりの、幼子を寄って集って改造して作り上げるモノらしいですが。同様に忍者も可能なのかもしれせん、何より比企谷さんは異邦人ですし」
「比企谷くん、忍者の末裔説だね! あれ? でも満太郎くんも確か忍者の一族だから、小さい頃から厳しい特訓をしてたって言ってたよね?」
 それはない。あと小さい頃から訓練もしていません。中二の時に少し変な訓練をしたことはあるが、あれは一種の病気なのでノーカウントだ。
「忍火さんですか? ああ…結局、才能の差ではないのですか? 彼は所詮自称(・・)忍者だった訳ですから。アレでよく忍者マスターまで出世できたものです。ですがあの人事には疑問が……あ(察し)。
 きっと身体を張ったのでしょうね。刺しつ刺されつ枕営業、ホークウィンド卿×満太郎ですか、城の侍女達が喜びそうな(ネタ)ですね」
「いや、そこは認めてあげようよ……頑張ったんだから。そしてあんまりだよ、その展開は」
「あくまで可能性の話です。決してアングラで出回っている薄い本の内容ではありません。とは言え、あの忍火さんが多少死に物狂いで頑張った程度では、月影様のような優雅さや気高さからはほど遠いですね……なんて言いましたっけ? えっと────そう! 無駄な努力です」
 酷ぇ。死に物狂いで頑張った結果が無駄な努力……まぁ、よくある事か。だがシノビマンタローとやらを盛大にディスってるロザリンドはなぜこうもご満悦なんですかね。どうでもいいが凄い名前だな、シノビマンタロー。流石に偽名だよな?
「いや…蘭ちゃんは優雅ではないと思うなー。気高くもないと思うなー」
「さて──比企谷さん。貴方の職業(クラス)は忍者でよろしいですか? 別に使用人(メイド)でも構いませんが。寧ろ使用人(メイド)を推奨します」
 構うわ!そんな推奨は不要だ!そしてなぜ例をメイドにした? 女装か? 俺に女装させたいのか、このレズ女。一体、誰得だよ。
「…忍者で」
「──っ!? そ…う、ですか────ちっ」
 おい、待て。なんだ今の反応は。そしてそのあからさまに「使えねぇ奴だ」と蔑んだ目で、わざと聞こえる様に舌打ちするんじゃねぇレズ女。そこまで露骨だと最早ネタにしか見えねぇぞ、コラ。
 ……ネタなの? この人息を吐く様に毒を吐くけど、それネタだったの!? あんた、もしかしてウケ狙いで人の心を抉って……まさかな、流石にそれはない…よな? 人としてかなり間違ってるからな、それ。
 この人、訳が解らないよ……

職業(クラス)が決まったところで冒険者登録の最後の仕上げだよー。はい、ちょっと頭下げて?」
 言われるまま頭を下げると、藤村先生はジャケットの後ろ襟を少しばかり押し下げた。セクハラ……ではないよな?
「ちょっとピリッてなるけど我慢してね?」と、言い終わる前にピリッときた。
「──はい! ご苦労様、これで冒険者登録は完了。後は忍者の基礎訓練を受けて貰うだけなんだけど──その前にちゃんと《愚者の統制(IFF)》が機能するかテストしとこっかー。比企谷くん、わたしを〝視よう〟って意識してみて?」
 は? 何言ってんのこの人……え? 我が目を疑うってのはこう云う事か。
 藤村先生の頭上に薄い緑色の文字が浮かんでいた。

 〝N-Sam〟

 これは一体……思わず目を擦っていた俺はきっとおかしくない。自然な反応の筈だ。
「えぬ、えすえーえむって緑色の字が見えるかな?」
「…は、はい。見えてます。何なんです、これ?」
「では次に私を"視て"下さい。どうですか?」
 ロザリンドに目を向けた。

 〝N-Val〟

 やはり薄い緑色の文字が浮かんでいる。
「読み上げて下さい」
「…えぬ、ぶいえーえる…」
「結構です。緑は友軍、Nが中立(Neutral)、Valは戦乙女(ヴァルキリー)と云う意味です。私の職業(クラス)戒律(アライメント)を表示しています。貴方の視覚に直接」
「わたしのは中立(Neutral)(サムライ)って意味だよー。比企谷くんもちゃんとE-Ninになってるからね」
 驚いた……ほんとにゲームみたいになってきたな。前に読んだデスゲームでヴァーチャルなネトゲのラノベみたいなオチとかじゃないよな?
「これは《愚者の統制(ラマピック・デュナ・マスカルディ)》と云う呪符です。城塞都市の冒険者は一応〝兵士〟なのでこの呪符を施される事は義務だと思って下さい。説明も何も見えている通りです。敵と味方を識別します。絶対に見落とさないように視覚に直接投影します。緑色は友軍、黄色は所属不明、赤は敵です。黄色と赤が表示されたら躊躇なく殺して下さい。きっと相手も同じような行動をしてきます。注意点として緑表示の者に対しての犯罪行為は赤ネーム化、つまり〝敵性〟になります。衛兵や冒険者に寄って集って殺されますので、犯罪行為は控えた方がいいでしょう」
「通称《愚者の統制(IFF)》、敵味方識別装置(Identification Friend of Foe)から付いた名前なんだって。欠点は〝視よう〟と意識しないと表示されない事、表示できる対象との位置関係が一定ではない、全体的にアバウトって事くらいかな」
 聞く限り、すげぇ便利そうなんだが。
「より詳しい解説等は図書館の一般資料に解説本もありますので、興味があれば閲覧しに行って下さい。私からは〝緑は味方〟、〝赤と黄色は敵〟としか説明できません」
 投げやり過ぎだろ流石に。つーか、所属不明(アンノウン)も最初から敵扱いなんだな。一応、確認くらいし……てる間に襲われたら厭だもんな、確かに敵だわ。
「モンスターを視るのは当然だけど、なるべく知らない人がいたら〝視る〟ように習慣付けてね。それと、上手く使いこなせるようになればね、気配だけでも〝視える〟ようになるよ!」
「この呪符は五感で知りえた情報を表示できるので、視覚だけでなく聴覚や触覚、味覚や嗅覚でも敵味方を識別できます。尤も、味覚で敵を判断する状況など想像もつきませんが」
 なるほどな。見えてなくても〝視える〟のか……それってかなりトンデモ性能じゃね? すぐに何通りかの〝有効利用〟を思い付いた俺も、いい加減このエセルナートに毒されて来たのだろうか。

「と、言う訳でタイガー道場のカリキュラムはこれにておしまい! お疲れ様、比企谷くん。これから忍者の基礎訓練を受けて貰うんだけ「拙者の出番でござるなッ!!!」」

 どっかで聞いた事のある様な熱い(・・)声音が轟いた。このウザい感じ、あいつの同類だわ。すっげぇデジャブ……ラノベ書いてたりしないよな?

 俺達が三者三様、胡乱な目で見守る中、それ(・・)は天井からくるくると回転しながら落下した。
 しゅたんっ!と、効果音か音喩が付きそうな程の見事な着地だったが、この場にそれを褒める様な奇特な者はいない。寧ろ頭を抱えてため息が出るまである。おっと、これは藤村先生の反応か。
 ロザリンドの顔に一瞬、危険な笑みが浮かんだのは気のせいだろう。馬車で見たエルフのあの(・・)顔とそっくりだった様にも見えたが、それはきっと気のせいに違いない。仮にそうだったとしても、惨劇の被害者はこれ(・・)だろうから、割とどうでもいいのだが、正直なところ俺のいない何処か遠い所でやって貰いたかった。もうお腹一杯です。
 だがそんな空気を一切読む事なく、それ(・・)は両手を腰に添えて胸を張り、堂々と声高に叫んだ。ほんとに叫びやがった。おい、少しは空気読め。それと場所も弁えろ。書記官の顔が怖ぇから。


「近衛兵団教導連隊忍術忍法指南部・(カシラ) ニンジャマン、参上ッ!!!」


 ……なんて言うか、どこからツッコんでいいのか解らない。

 こんなの(・・・・)が忍者とか、やはりこの国の近衛兵団は間違っている。

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師匠とLv.1八幡

「…に、ニンジャ…マン(・・)…?」

 受付カウンターがある玄関ホールの高い天井から舞い降りた……忍者? いや、模範的千葉県民である前に日本人の端くれとしてアレ(・・)は忍者と認めたくない。えーと……コスプレ? 何のだよ。
 着ている上下は学生服だ。どこかの学校指定の制服なのは間違いないだろう。黒地に金縁の学ランと云う変わったデザインだ。きっちり襟にカラーまで付いている。まぁそれだけなら別にいい。例え着ているのがどう見ても学生には見えない大人だったとしても。人にはいろいろ事情があるだろうからな。
 だが首にマフラー? スカーフ? を翻し、両腕にはモビルスーツの肩アーマーみたいなプロテクターと手甲、ズボンには脚甲、更に学ランの下に鎖帷子を着込んでいるようだ。当然の様に背負った刀は良いとしても、極めつけは顔の如何にもな面。額と頬しか守ってないあたり素顔を隠す気はないらしい。堂々として潔いとも言えるが、仮にも忍者を名乗るならそれはどうよ?

「そう! ニンジャマンだッ!!」

「……者とマンで意味被ってね?」
「くっくっく…うわっはははははは!!俺にそんなくだらん事を訊くのは貴様で二人目だ。しかと聴け、未熟者め!」
 そしてわざわざ間を置いたニンジャマンだが、アレはきっと言い訳を今考えてる。もしくは必死で思い出してるアレだ。
 しばし瞑目してセリフが纏まったのであろうニンジャマンは無駄に熱い眼を(みひら)き、やたら上から目線で俺を見据えた。

「男がそんな些細な事に拘ってどうするッ!? 貴様も男ならもっとデカい事にぶつかれッ!!!」

 ──はい、論点ずらしましたー。つまり反論できないで、えふえー? ……て、これじゃあのラマじゃねぇか。
 そして言ってやったとドヤ顔のニンジャマン……なんだろうな、この虚脱感は。方向性が百八十度違うけど材木座と話してる時みたいな感覚とそっくりだわ。言っても碌に聞きやしねぇし、言うだけ無駄だろうし、そもそも何も変える気がない奴と話してる時のアレだな。
 俺は心底げんなりしていたが、当のニンジャマンは豪快に高笑いだ。俺って何か変な呪いに掛かってんのか? なんで行く先々でこう云うのに出くわすんだろうか。割と真剣にどっかでお祓いして貰いたい気分である。

「あー、ごめんね比企谷くん、びくりしちゃったよね。大丈夫だよー、あれでもちゃんと良識のある良い子だから」
「騎士団の不始末は騎士団にお任せを。アレは私が躾けておきますので────忍火さん、よろしいですか?」
 気味が悪いほど愉しげな笑顔のロザリンドに俺はドン引きだ。あれは笑うではない。嗤うだな。少しくらいその悪意を隠してくれ、心臓に悪いわ。

「彼は忍火満太郎くん。わたし達と同じ異邦人だよ。六年くらい前にこっちに来たんだけどね。まぁ……見ての通り忍者…よ?」
 そこはやはり疑問形なんだな。良かった、アレがここの忍者の一般的なスタイルではなくて……もっと変なのが出てくるとか、ないよな?
「あれでも本物のマスター忍者だから安心して、忍者の基礎訓練を受けてね」
「…アレが訓練教官なんスか? 忍者の……」
「うん、そうなんだー。でもでも大丈夫だよっ!前任者に比べたら絶対まともだから!」
 おい、聞き捨てならんだろ、それ。アレでまともなら、前任者って……
「だから比企谷くんは安し──て、満太郎くん!?」
 なぜか玄関ホールの隅で体育座りして落ち込んでいるニンジャマンこと忍火満太郎。その傍らで満面の笑顔でご満悦な邪悪な書記官……その何かをやり遂げた後の達成感に満たされたかの様な爽やかさが逆に怖いわ。つーか、あの一瞬で何やったらそこまで人を絶望させられるんだ。
「あらあら、ちょっと事実を指摘して差し上げたら、動かなくなってしまいました。忍火さんったらほんとに可愛ら──だらしないですね。お豆腐メンタルにも程があります。このポンコツは後で私が責任持って調き──元に戻すとして──さて、困りました……忍者の指導教官がいなくなって(・・・・・・)しまいました。これでは忍者になれませんね。これは使用人(メイド)になれ、と云う天啓ではないでしょうか?」
 あんた、どんだけ俺をメイドにしたいんだ。そしてその謎のメイド推し、まだ続いてたんだな。一体何が彼女をそうまで駆り立てるのか。
「いや、そこはすぐに満太郎くんを社会復帰させればいいだけだよ、ロザリーちゃん」
「例え連隊長のご命令でもそれはお断りです。久し振りに忍火さんを心神喪失まで追い込めたんですよ? このチャンスに、いろいろやらなければならない事があるんです。ヌードデッサンとか着せ替えとか!すぐに同志(サークル)を招集しないと……せめて来週まで見逃して下さい」
 おいコラふざけんな。てめぇの正体は貴腐人かよ。
「ロザリーちゃん!仕事中はそー云うのナシって言ったでしょー!?」

「──おいおい、イイ男の匂いがすると思って来てみれば──何やら楽しそうな事になってるじゃないの」

 いつの間にか大柄な青いツナギの男が玄関先に立っていた。
 その姿は一見すると整備工か何かの労働者のようだった。オールバックでちょっとワルっぽい。間違いなくイケメンの範疇に入るのだろう。だが不思議と葉山に代表される世のイケメン共に共通する特に理由も無い苛立たしさみたいなものは感じなかった。
 鍛え抜かれた強靭で均整の取れた体格が厚手のツナギの上からでも見て取れた。この人、ただ者じゃねぇ。そしてなぜか、やけにこっちを視てるんですが……これは俺の見慣れた視線ではない。悪意とか嫌悪のそれではなかった。寧ろ熱い視線と云うか……俺は本能的にその男から何か(・・)危険なモノを感じていた。

「ホークウィンド卿!?」
 ロザリンドは慌てて居住まいを正しスカートを少し持ち上げ、深々と頭を下げてお辞儀(カーテシー)をした。
「おいおい、そう畏まられても困っちまうぜ。頭をあげな、お嬢さん」
承知致しました(イエス・マイロード)
「ちょ、なんで? どーしたのよ、阿部さん。リルガミン市で内偵してたんじゃなかったっけ!?」
「なぁに、ちょいと大事な報告がてらちょいと寄ってみただけさ────ほう、いきなり忍者の適性有りとは驚いたな」
 ツナギの男は値踏みするかの様に俺を上から下まで眺めるとニヤリと笑った。俺と目を合わせても眉一つ動かさない。エセルナートに来てからこんなのばっかりだ。俺の目って確か腐ってたよな?
「なかなかイイ身体してるじゃないの。鍛えガイがありそうだな。それに──イイ眼をしている。おっと!不躾だったな。俺は阿部高和。たまにホークウィンドなんて呼ばれちゃいるが元自動車修理工で、今はお前さんと同じ忍者だ。よろしくな」
「あ、ひ…比企谷、八幡っス」
 差し出された手を俺は自然に握っていた。力強く握り返してくるその大きな手は、ゴツくて頼もしい大人の手だった。
「八幡? 八幡大菩薩かい? 縁起担ぎにしては大胆な名前だな。と、言うよりも……お前さんのご両親はなかなか意味深だね。しかし、名は体を表すとはよく言ったもんだ」
「……えっと、なんの事っすか?」
「なに、お前さんのその眼、その名前。そしてエセルナートに来た事。何かこう宿命付けられてるような気がしたのさ、ピンと来たって言うのかね」
 言って自分の頭を指差した。どうでもいい訳ではないが、この人なんでこうまっすぐ目を見て話すんですかね? ぼっちには居心地が悪過ぎて今すぐ逃げ出したいまであるんだが。
「俺はお前さんと同じ様な眼をした奴を知っている。そいつらは皆、誰にも負けないほど強い(・・)。強過ぎて周りから弾かれ、国から弾かれ、最後には世界からも弾かれちまったくらいだ。お前さんも似たような経験があるんじゃないか? 学校や周囲から、いや下手すると家族からも浮いてたんじゃないか?」
「そんな事は──」
 ある。俺の周りには結局、小町しかいなかった。
「ま、〝ヒーローは孤独なもの〟ってやつだ。まさにお前さんの名前の通りさ、エイトマン」
「ちょっと、阿部さん。何言ってんのか解んない」
「ははっ、悪いな藤村。俺はお前と違って学が無いもんだから口下手なんだ」
 ……ダウト。この人、多分見かけよりかなり頭がキレる。
「強すぎるヒーローってのは悪と戦うしか(・・)道がないんだ。自分の身体も何もかも犠牲にしてでもそう(・・)するしかない。そしてその苦悩も痛みも悲しみも、誰からも理解して貰えない。たった独りだ。だがそれがいい。それがヒーロー、ハードボイルドってもんさ。ま、平井和正の受け売りみたいなもんだ。これでも昔、ウルフガイとか読んでたクチでね」
 何か、見透かされている様な気がした。思い当たらないと言えば嘘になる。だが認めたくはなかった。間違っても俺はヒーローではない。ぼっちではあるが。そして孤高ではあったが孤独ではなかった。小町がいる。戸塚も…それと戸塚と……あと戸塚と…カマクラもカウントしていいんじゃね? それに奉仕部──少なくとも俺には居場所があった。だが今は……
「まぁ聞き流してくれて構わんさ、ただの戯言だよ。だが──見所が有るってのはホントだ。どうだい? 俺が鍛えてや「待たれいッ!!」おう、やっと正気に戻ったか」
「──確かにッ!確かに今のおれは阿部殿と比べて何かが三ランクは劣っているッ!何より阿部殿はエセルナート(ここ)でのおれの師匠だッ! だがッ!
 だが今は、訓練場(ここ)指導教官(忍者マスター)は拙者にござるッッ!!!! 要らぬ口出しは無用に願いたい!」
「ほう、言うようになったじゃないの。イイねぇ……益々俺好みのイイ男になってくれちゃって。だが、それを決めていいのは俺でもお前でもないぜ?」
「無論にござるッ! 比企谷八幡ッッ!!!! 貴様が決めろ!拙者と阿部殿、どちらが己の師に相応しいか!どちらに命を預けられるか、選べッッ!!!!」
 えええええー……普通に考えたら選ぶも何も選択肢にすらなってないじゃん。ニンジャマン自身過剰過ぎだろ。
「比企谷くん、比企谷くん。ちょっといい?」
「なんスか?」
「さっきわたし言ったよね、満太郎くんはあんな感じだけど前任者よりまともだって」
 確かそんな事言ってたな──て、もしかして……
「阿部さんが満太郎くんの前任者なの……阿部さんってね────ガチのゲイなのよ」
 さっきからずっと気になってた妙な熱視線はそれ(・・)でか────っ!!
「満太郎くんにしときなさい。ほんッッッとに貞操が危ないから」

 中二病忍者忍火満太郎に師事する事を決めた瞬間である。後悔はしないが運命は呪いたい。ガチホモよりも中二病よりも、もう少しマシな忍者は他に居なかったのかと。そして後に俺は絶望する事になる。城塞都市にいる忍者の実態を知った時──だが、この時の俺はまだ忍者と云う言葉の響きにまだ幻想を抱いていた。

「委細承知ッッッ!!!! このおれが貴様を何処からどう見ても立派な忍者に鍛え上げて見せるでござるッッ!! うわっはははははは!!!!」
「ま、お手並み拝見といこうじゃないの。比企谷、同じ忍者の誼だ。何かあればいつでも俺を頼ってくれていいからな。それと──ようこそ、新兵(ルーキー)。歓ゲイするぜ」
「比企谷さん、後ほど転職(クラスチェンジ)の説明を致します。まだ使用人(メイド)の道は閉ざされた訳ではありませんので」
 いや、そこは最初から閉じてるし未来永劫開かないから。
「ならば早速、修行開始だッッッ!!!! 修行中は歩くの禁止! 常に全力だッ! 否ッ! 命懸けで死力を尽くして疾走しろッッ!!」
 ほんと大丈夫か? この人が師匠で──て、もういなくなってるし!! あのニンジャマンどこ行きやがった!?

 そして俺の長い一日が始まった。

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幻想の街のLv.1八幡

「──じゃ、貰っときますんで」

 師匠から巻き上げた小太刀をベルトに括り付け、基礎訓練を終えた俺は道場を後にした。

 豆腐メンタルのニンジャマンは俺との賭けに負けたショックなのか道場の隅で体育座りで落ち込んでいる。レベルが上がった時の追加訓練までに復活していれば問題無いので、今はそっとしておこう。
 ロザリンドに感付かれない事を祈るのみだが、それは難しいかもしれない。修行中、大した用も無いのに幾度となく道場に顔を出していた彼女の事なので、恐らく時間の問題だろう。まぁ、見つかったところで師匠の尊厳が多少傷つく程度であり、俺からしてみればそれもリア充の一形態と言えなくもないので、ぶっちゃけ「勝手にやってろ」が本音である。寧ろ砕け散れまで無きにしも非ずだが、師匠に何かあると今後の修練に不穏な気配が漂いかねないので、なるべく生活に支障が出ない程度の不幸になって貰いたい。その意味で、この小太刀(戦利品)は適度にリア充の心と財布にダメージを与えると共に、俺の生存率を向上させると云う正に一石三鳥、エセルナートに来て初めての快事ではなかろうか。
 慣れない物を腰にぶら下げた為、左側だけベルトごとズボンがずり落ちないかと不安になる。違和感がパねぇ。これがホンモノの重さか。だがこの重さは今の俺にはなんとも心強かった。仮にも忍者マスターである師匠が普段使っていた以上、それなりの一品である事は間違いあるまい。餞別代りの中古品とは云え、初期装備としては申し分ない筈だ。

 訓練が終わり忍者としての第一歩を踏み出したとは言え、懸案事項は山積みだった。やるべき事は〝手早く〟と、どこぞの省エネ主人公も言っていた事だし、俺としてもさっさと諸々の案件を片付けたい。

 まずは宿だ。今夜の寝床だけは最優先で確保しなければならない。
 元の世界はこれから本格的な冬に入る時期だったが、エセルナートは逆にこれから暖かくなる季節らしい。だが夜ともなればかなり冷え込むようなので野宿は危険だろう。そもそも野宿とか無理、余裕で死ねる。なんとしてもまともな宿泊施設に泊まらねばならない。
 贅沢を言えば個室でトイレ風呂シャワー完備が望ましいのだが、ファンタジーな世界にそれを求めるのは流石に厳しいか。だがハードな訓練の後だけにせめて汗は流したかった。
 そして師匠によれば冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)は日が暮れてからだと良い部屋が取り難いらしいので、早めにチェックインだけでも済ませおきたいところだ。

 次に食事だな。
 あまりの空腹で機嫌が悪いどころか、飢餓状態まで悪化している俺の目付きはきっと普段の三倍増しで汚濁してるに違いない。師匠も露骨に目を逸らしていたし……まぁ、そう云うのは慣れてるけどな。
 だいたい訓練中に支給された食事が兵糧丸二個とか絶対おかしいだろ。おいニンジャマン、ふざけんなよ? なんでこんな微妙なところだけ古式ゆかしい伝統的な忍者っぽさを醸し出してるんだよ、普通の食事でいいだろ、そこは。
 ついでに言えば朝からまともな物を何も食べていなかった。こんな事なら昨晩、寄り道などしないで真っ直ぐコンビニまで行って、肉まんかおでんでも食っとけば良かった。いやそれなら、そもそもあのラマに会う事もなかった筈だ。くそっ、昨夜の俺をぶん殴りてぇ。つまりこの事態は小町のお使いを無下にして、あのラマなんぞと関わってしまった為に起きてしまった天罰なのだ。やはり小町マジ天使だったか。いや、知ってたけど。反省してるから助けて小町……お兄ちゃん、専業主夫じゃなくて忍者になっちゃった。
 まぁ何にせよ、とにかく今は食事がしたい。具体的にはドリアとハンバーグステーキ、フォッカチオも付けるか。否、ここはマルゲリータピザだ。そして帰りにマッカン飲んでまったりしたい。ああ……近くにサイゼねぇかなぁ。それとコカコーラの自販機。こんだけ適当なファンタジーなんだし、どっかに有るんじゃね? あったらエセルナートをかなり見直すんだが。
 今の時点ではギルガメッシュの酒場とやらが俺の希望だ。コーヒー飲めるって言質は取ってあるからな、藤村先生。無かったら泣いてしまうかもしれん。

 そして最後に装備だ。
 武器は取り敢えず師匠から調達できたが、できれば飛び道具も欲しかった。手裏剣みたいな携帯しやすい投擲用の補助武器(サブ・ウェポン)が望ましい。訓練場では師匠の手作りと言う安っぽい十字手裏剣で練習したのでなんとも微妙だったが、もっと本格的な手裏剣なら十分殺傷力が見込めるのではないか? 忍者が普通にいるんだから、手裏剣くらい普通に売っているに違いない。
 防具については判断が難しいところだ。師匠の様に鎖帷子を着込んでも良いが、慣れない重さで動きが鈍るのはあまり面白くなかった。
 忍者の戦闘スタイルはスピードと奇襲に尽きる。正面から打ち合うなど論外、死角を突き、先手を取って〝ずっと俺のターン〟で完封するのが理想だ。
 故に万が一の防御力など端から捨てても良いのではないか? かつて偉い人は言った「当たらなければどうということはない」と。全部避ければ鎧なんて必要ないのだ。尤も、レベル1忍者の俺に果たしてそれが可能なのかは全くもって不明だが。とは言え、師匠との掛かり稽古では最終的に三割近く躱せる様になっていたので、なんとかなるような気もしている。地下一階のモンスターが忍者マスターより正確な命中率を誇るとはとても思えんしな。
 それよりも背負い袋(バックパック)やロープ、錠開けのピック等のツールや小物が欲しい。そういった必需品は全てボルタック商店で扱っているらしいので、所持金に余裕がある今の内に見繕っておくべきだろう。

 因みに馬車で回収した〝ずた袋〟の中身は着替えの上下と下着が一枚、財布らしき小さな皮袋に1ゴールドの(デナリ)貨が二十枚、10ゴールド相当の大銀(ドラクマ)貨三枚と、丁寧に布で包んだ50ゴールド相当の(デュカード)貨が一枚入っていた。合計100ゴールド、俺の全財産だ。聞けば異邦人は皆、これが支給?されているそうだ。あのラマが用意したと考えるのが自然だが、まさか元の世界との手切れ金なんて事は無いと信じたい。
 この100ゴールドは俺一人なら人頭税を払っても一カ月は余裕で暮らせる金額である。だがそれだけだ。その一カ月で次の一カ月分の生活費と更に翌月の人頭税を稼ぐ算段が付くとは到底思えなかった。身寄りも無く身元もはっきりしない上に、この世界の常識にも欠けた異邦人にそれほど需要があるとは考え難い。早晩、詰む。結局、藤村先生の言葉通り兵士か冒険者になるのが一番手堅い選択なのだろう。ならば惜しみなく有効な初期投資をすべきだ。生存率が高くなればそれだけリターンも望めるだろうから。


 途中、受付の前を通ったがロザリンドの姿は無く、代わりに人の良さそうな中年男性が座っていた。あんなのでも見知った顔がいないと一抹の寂しさを感じてしまうのはきっと疲れているからに違いない。
 一応、世話になった訳だし一言でも挨拶して然るべきかとタイガー道場まで足を運んだのだが、藤村先生の姿も無かった。仮にも連隊長と云う仰々しい肩書がある以上、何かと忙しいのかもしれない。それとは対照的に美人の酒飲みである月影さんは、道場の真ん中で大の字になって寝こけていた。朝から酒飲んで夕方まで爆睡ですかそうですか。実に羨ましい生き方が許されている人もいるんだな。美人だからか? どうでもいいが無防備すぎじゃね? 襲ったら忽ち赤ネームだろうけど、世の中には視か……なんでもない。きっとここは安全地帯なのだろう。なにせ虎の縄張りだ。


 訓練場を出ると空は茜色に染まっていた。
 朝日と共に訓練場に入り、夕焼けと共に出る……まだ(・・)城塞都市に来て半日しか経っていないのだ。

 夜中、得体の知れないラマに会って──

 払暁、異世界で馬車に揺られてドナドナ──

 早朝、ゲロイン二連発からのタイガー道場──

 午前から夕方にかけて、中二病の師匠と忍者の基礎訓練……

 今日はきっと俺の人生で一番内容の濃い一日の筈だ。今後、今日より長い一日はきっと無い。
 朝、一介の高校生でしかなかった俺が、夕方には駆け出しとは云え、本物の忍者になっているんだぜ? 二十四時間前にはまだ総武高にいたなんて自分でも既に信じられねぇっての。
 そしてあの(・・)醜態から、まだ一日しか経っていないと云うのに、なぜかそれが遠い昔の出来事の様に感じている俺がいた。
 確かに、思い出せば悶えるほどに気恥ずかしくはなっても、その事自体については後悔がない以上、さしたるダメージが残る訳でも、ましてやトラウマになるような事でもない。要するに雪ノ下と由比ヶ浜に晒してしまった俺の本音の吐露と云う醜態など、今となっては割と些細な事でしかないのである。
 これまでの日常とは、天と地ほどに乖離した質の悪い冗談みたいな事態が現在進行形であり、その当事者として俺は城塞都市(ここ)にいる。今この場にいない者に対しての羞恥心など、差し迫った生存の危機の前ではどうしても霞んでしまうのだ。
 ここは遠い。昨日までの何もかもから遠すぎる。たった一日で、俺はいったい何処まで遠くに来てしまったのだろうか。

 それにまだ〝今日〟は終わっていない。後、六時間くらいは残っている。なるべくお手柔らかに、消化するだけで過ぎ去るような時間であって欲しいものだ。

 人通りも疎らな街外れから厳めしい城門を抜けて街に入ると、通りには様々な人種が行き交い、想像していたよりもずっと活気があった。
 藤村先生と師匠の説明からして、どんより停滞した空気の暗澹とした街並みを想像していただけに、あの二人に一杯食わされたのかと本気で疑ってしまった。
 通り沿いの街並みはきちんと区画整備がなされているようだったが、その裏側や、表通りから離れたエリアはどうもごちゃごちゃしているみたいだ。そして建ち並ぶ木と石とレンガを漆喰で組み合わせた様な西洋風?建築の建物は、どれも後から無理な建て増しを繰り返しているような複雑な構造だった。無秩序、とも言えるだろう。一歩、裏通りに入ると迷子になりそうだな。西側の商業区画だけでもかなりの広さがあるようだ。
 夕暮れ時にも拘わらず人通りは絶える事無く続き、様々な商店や露天が賑わいを見せている。
 おい、戦争中とか言ってなか……戦争景気(・・・・)か。それと冒険者効果だろうか。人の流入が多いと云う事はそれだけ様々な消費が増大するからな。
 賑やかな目抜き通りを真っ直ぐ東へ進むと城塞都市の中心である王城に繋がっている。俺は初めて新宿や渋谷を訪れ、そのビル群を見上げるお上りさんの様に眼前に聳え立つ城塞に目を奪われていた。それはディスティニーランドの象徴である灰被り姫のお城よりも遥に巨大で、幾つもの尖塔が高く天に向けて連なる荘厳な巨城だった。
 都市の内側にも城壁がぐるりと城を囲んでいるようで、二駅分ほどありそうな通りの突き当りにその内郭の門があった。内郭にそって南側に目を向ければこれまた巨大な聖堂が見える。あれがカドルト教の総本山、カント寺院だろう。死者の蘇生と云う信じ難い奇跡を商売にしている宗教施設だ。実際に見た事はないので曖昧ではあるが、ヨーロッパに点在する有名な大聖堂とデザイン的にはそう変わりは無いように思える。
 練兵場が隣接する外郭西門から内郭西門までの目抜き通りを中心とした城塞都市の西側商業区画が冒険者の拠点となるエリアだ。この通り沿いに重要施設の全てが点在している。冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)、ボルタック商店、ギルガメッシュの酒場、他にも軒を連ねた商店や露店で珍しい物や見た事のないような物がそこかしこに並んでいた。
 道行く人々の大半は白人系の人間だった。だがドワーフやノーム、エルフと言ったファンタジーでお馴染みの異種族達も大勢見かけた。俺にしてみれば目を見張る光景だったが、ここで暮らす人達にとってはきっと珍しくもない普通の情景なのだろう。ネコや犬が二足歩行で歩いていてもきっとごくありふれた日常なのだ。何より俺が一番驚いたのはハン・ソロ船長の相棒の毛むくじゃらがいた事である。おい、エセルナートには宇宙人までいるのか。ここのファンタジーはほんと何でもありかよ。
 やはり聞いただけでは実態は掴めないものだ。実際に目で見た印象はまるで違った。これが狂王の城塞都市か。


 西外門近くのメインストリートの一角に一際大きくて重厚な建物があった。これが冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)だろう。まずは部屋の確保だな。
 宿の中に入ると玄関正面がフロントのようだった。玄関ホールは訓練場のそれとさほど変わらない大きさで、やけに立派なシャンデリアが天井から吊り下がっているせいか、中はとても明るかった。フロントの右手には二階へ上がる大きくて広々とした階段があり、吹き抜けに面した二階のラウンジに続いている。左手はロビーになっていた。ゆったりとしたソファーや長椅子が並んでいて、更にそこから廊下が奥へと続いていた。
 内装は地味だが清潔感があった。掃除や手入れは細部まで行き届いているようだ。主人の潔癖さが窺える。

 フロントにはとんでもない美人がいた。

「いらっしゃい。見ない顔ね。新参の冒険者さんかしら?」

 不思議な藤色の長い髪に、青い瞳の大きな目がまず人目を引きそうだが、俺にはその声が衝撃だった。

「…雪ノ下?」

 思わず声に出していた。
「は?」
「…あ、いや──人違い…と云うか、知り合いの声と似てたもんだから…つい」
 似ている? 寧ろ本人だ。この声を聞き間違える事はない。伊達に日々罵倒され続けていないからな。
「あら、そうなの? 奇遇な事もあるものね」
「あ、ああ……全くだ」
 落ち着け。似ているのは声だけだ。見た目はまるで違う。歳は俺とそれほど変わらない気もするが、ずっと年上の様な気もする。これは雪ノ下ではない。
 俺は《愚者の統制(IFF)》で彼女を確認した。まだはっきり意識しないと発動しない。日常的に使っていれば無意識に発動するくらいにはなるらしいが、流石に一日目ではまともに扱えている気がまるでしなかった。
 薄緑でN-Lorと彼女の頭上に表示されている。ろー、ロード…君主(ロード)かよ! あれ? 君主(ロード)は〝(Good)〟しか転職できないとか師匠は言っていたような……あのニンジャマン、デタラメ教えやがって……いきなり話が違うじゃねぇか。今度会ったら問い詰めた上で、使えそうな忍者道具を没収だな。

「初めてのようだから一応説明するけど、食事は出してないわ。でも二階のラウンジはバーになっているからお酒は飲めるわよ。お酒を飲むなら是非ここで飲んで頂戴。
 それと治療のサービスは〝気休めていどの応急手当〟が100ゴールド、〝軽傷ならばっちり治療〟と〝二日酔いから致死毒までなんでも状態治療〟が200ゴールド、〝腕が切断しててもきっちり完全回復〟は400ゴールドよ。ダンジョンで怪我をしても安心でしょう? カント寺院なんて要らないから。
 それであなた達冒険者に提供している部屋は四種類よ。
 一番安いのが簡易寝台。三十人ほどまとめて寝泊りしてもらう大部屋ね。荷物はベッドの下にでも放り込んでおけばいいわ。解ってると思うけど、誰も盗んだりしないから安心して良いわ。それでも万が一赤ネームがいたら殺してもいいけど、後片付けの料金はきっちり請求するから。
 次にエコノミー。六人部屋だからパーティーで一カ月単位とか長期間借りる人達が多いわね。
 その上はスイート。寝室にはシングルベッドが二つだけど、必要ならリビングに簡易寝台を増設しても構わないわ。
 最上級のロイヤルスイートはキングサイズのベッドが一つだけ。ここも必要なら簡易寝台の増設をするけどあまりそんな事をする人はいないわね。
 後……馬小屋に潜り込んで寝てるバカもいるけど、あなたはそんな真似しないでね?」
 この人、ほんと雪ノ下じゃないよな? 声がそっっっくりなんだが。そして部屋が思っていたよりも、かなり大雑把だった。個室はねぇのかよ。
「…因みにスイートは一泊何ゴールドなんだ?」
「30ゴールドよ」
 高っ!
「……エコノミーは一人でも泊まれんのか?」
「構わないけど、相部屋になるわよ。一泊7ゴールド」
「…相部屋か。まぁ仕方ないな。それで頼む。風呂とかないのか?」
「見掛けによらず贅沢なのね、あなた。ロイヤルスイートなら浴室もついているわよ。一泊70ゴールドで、チップを5ゴールド付けてくれたら、いつでもバスタブにお湯を張ってあげる。但し夜中は深夜割増で10ゴールドね」
「…いや、それは魅力的だが破産する」
「そう、残念だわ。湯桶のサービスならチップ込みで1ゴールドよ。2ゴールドなら石鹸とタオルも付けてあげるけど?」
「それで頼むわ」
「ならここにサインを」
「……ん」
「──それ、か…かん…漢字、だったかしら? あなた、異邦人なの?」
 漢字が一発で出てこない…だと? つーか、雪ノ下の声でそんなたどたどしく喋られると違和感がとんでもないんですが。何? 俺を萌え殺す気か?
「…おう」
「不思議な字ね。なんて読むの?」
 漢字が読めないのか。あれ? ロザリンドは先に名乗ってたけど普通に読んでるみたいだったがな。やはり日本人に囲まれてると読めるように……なるか?
「ヒキガヤ、ハチマン──だ」
「ヒ…ヒキ…ヒキギャギャ……」
 盛大に噛んだ。雪ノ下ボイスの彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。何なのこの可愛い生き物、雪ノ下が変装して俺を嵌めようとしている可能性もあるかと思ったが、やはりそれは無いわ。これ(・・)は雪ノ下ではない。声が似ているだけの全くの別物だ。て言うかこの際、こっちが雪ノ下でいいんじゃね?(錯乱)
「……言い難いわ」
「そ、そうか…なんか、すまん」
「ハ、チ、マ…ン……ハ、ちマ…ん……うん。こっちの方が言い易いわね、八幡?」
「──っ!? お、おう…」
 おいやめろ雪ノ下ボイスで名前呼びは心臓に悪い。うっかり勘違いしたらどうするんだ。
「不思議な響きね。はい、これは部屋の鍵よ。案内させるからちょっと待ってもらえる?」
 雪ノ下(仮名)はやけに白い肌のすらりとしなやかな手で呼び鈴を三度鳴らすと、奥の方から「は~い!」と甲高い声が返ってきた。
「料金は全て前払いよ。エコノミーで一泊と湯桶に石鹸とタオル付き、全部で10ゴールドね」
「…いや、9ゴールドじゃねぇの?」
「言い忘れていたわ、説明料が銅貨2枚、案内の給仕にチップが銅貨1枚……後はそうね、わたしのスマイルで1ゴールドよ」
 意味不明な請求に対する俺のツッコみは、雪ノ下(仮名)の満面のにっこり笑顔で封じられた。その笑顔に俺は0.7ゴールドも払わされたのか。笑顔の押し売りとか初めてだわ。しかも有料。この悪どさ、マックが良心的にすら思えてしまう。
「それと、わたしは此のりゅ…冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)の管理人、フラン・ペンドールよ。管理人さんと呼ばれる事が多いけど、フランでいいわよ。何か用があれば遠慮なく言って頂戴。有料で対処するから」
 有料かよ。奉仕じゃねぇのな、そこは。まぁ、奉仕部はあくまで手助けするだけか。最近の依頼は、趣旨が違ってる気がしないでもなかったが。
 折角名乗ってもらってアレだが俺の中では〝雪ノ下(声だけ)〟でいいだろう。どうせ俺が名前を呼んだら微妙な顔をされるに決まっている。どうせ裏じゃ「あいつ勘違いして名前呼びしやがって、キモいんですけどー。死ねばいいのに」とかだろうしな。はいはい、社交辞令社交辞令。
「…おう、何かあったらその時は頼むわ、管理人さん(・・・・・)
 俺の大銀(ドラクマ)貨を受け取った彼女は喜色満面、実に機嫌が良さそうだった。


 以前、映画で見た冒険したり指輪が大変だったりなホビットとは名ばかりで、なんとも愛くるしい70cmほどの人形みたいなメイドさんに案内された部屋は、きわめてシンプルだった。部屋の中には保健室にあるベッドが高級品に思えるような粗末なシングルベッドベッドが六つ、それぞれの横にサイドテーブルが備え付けてある。そして入口の正面に格子の嵌った小さな窓が一つあるだけだった。ベッドは壁面に三つずつ横並びで、向かい合わせの真ん中が通路になっている感じだ。通路と言うよりも隙間と言ってもいい。部屋の大半はベッドが占めている。
 俺に割り当てられたのは廊下側のベッドだ。既に他のベッドには荷物が丁寧に揃えて置かれている。やっぱり同室の方はいるんですね。いや、覚悟はしてるけどな、相部屋だし。一晩だけだし。黙って寝て起きて終わり、いつものステルスヒッキーで問題無く乗り切れる…筈だ。ああ、早くスイートで独りの空間を確保したい。明日からの目標は宿代30ゴールドのゲットだ。
 同室の冒険者は時間的に飯でも食べに行ってるのだろう。俺も空腹で死にそうだ。だが今なら誰もいないので、今の内に汗を流す事にした。と言っても濡れタオルで体を拭くだけなのが辛い。それでも誰かに見られてるとちょっとハズカシイノデス。
 湯桶は頼むとさほど待たされずに用意してもらえた。風呂のお湯よりは少しぬるいくらいだ。それが直径60cmくらいのバケツの様な木桶に半分ほど。そして小さな石鹸の欠片と粗末なタオルが一枚。タオルは貰ってしまっても良いらしい。一々洗濯するより売りつけた方が楽だからな。こんな石鹸の欠片とタオルで1ゴールドはきっとぼったくられている。探せばもっと安く手に入るだろうが、今はこれで我慢するしかない。雪ノ下(声だけ)め、暴利を貪りやがって……多分。
 石鹸で髪を洗うのは良くないとか聞いた事もあるし、シャンプーの類とかも探さないとな……明日にでも藤村先生に聞いてみるか。そう云う事の知識は、あの人も女性である以上ニンジャマンよりはマシだろう。
 シャンプーもだが歯ブラシとか歯磨き粉も要るよな……どっか"お泊りセット"みたいなのまとめて売ってないかなぁ。しかし、異世界に来た初日に悩むような問題かよ、これ。


「あら、出かけるの?」
 フロントには雪ノ下(声だけ)が一人、退屈そうにしていた。
 そこで読書でもしていたなら雪ノ下と錯覚したかもしれないが、彼女はやはり声だけ雪ノ下であって中身はまるで違う。少なくとも雪ノ下はあれほど立派な胸部装甲を装備していない。由比ヶ浜にも勝ってんじゃね? 雪ノ下(声だけ)の胸囲的な戦力を前にして、俺の視線は初見からずっと泳ぎっ放しだ。いい加減、不審者扱いされないか心配になる。だがこの状況、下手に正面を向いて話そうものなら胸をガン見してると疑われかねない。ソースは俺。目を合わせたら露骨に嫌がられ、目を逸らしたら胸をガン見してるとキレられる。どうしろってのさ?
「…ああ、飯食いに」
 言葉短めに鍵を預け、会話をする気が無い事をアピールしたつもりだったが、効果は無かったようだ。
 彼女は下心丸見えの、それでも可愛いと思ってしまう自分が嫌になるレベルのにこやかな顔で、鍵を差し出した俺の手をがっちり掴んだ。女とは思えないトンデモ握力だ、びくともしねぇ。流石、前衛上位職業(クラス)君主(ロード)と云ったところか。
「……なんだよ?」
城塞都市(こっち)は初めてなんでしょう? 良い店を紹介してあげるわ」
 なるほど、紹介料を取ろうってか。銭ゲバ雪ノ下(声だけ)め。魂胆が見え見えだぜ? ここら辺は本家雪ノ下の方が強敵だ。それに比べたらこちらの管理人さんはちょろい。やはり胸部装甲が由比ヶ浜化した為に若干、情報管理が緩くなっているのかもしれん。
「…ギルガメッシュの酒場に行くから問題無い…です」
「なら目抜き(サイファー)通りをお城の方へ真っ直ぐ行った狂える恩寵品(ルナティック パンドラ)広場で一番大きな店よ。目立つからすぐに判ると思うわ」
「…なぁ」
「案内料は1ゴールドよ」
 破顔一笑、彼女は俺に綺麗な手を差し出した。さぁ払え、と。なんて奴だ。美人なら何やっても許されると思ったら大間違いだからな。
「…高くね?」
「そうね、初めてなんだしサービスしてあげる。案内料は銅貨一枚でいいわ。残りはわたしのスマイルよ」
 さっきより値上がりしてんじゃねぇか。て言うか、ひょっとしてカモにされてんのか? つーかこれ、犯罪じゃねぇの? 払うまで離さない気か、キャッチセールス雪ノ下(声だけ)め……くそっ、つい胸部装甲に目が行ってしまう。本当にありがとうございました。
「……ほらよ」
「ふふ、ありがとう。あまり遅くならないようにね、八幡」
 眼福だったからな。拝観料だ。しかし、これからずっとこの調子でスマイルを請求されそうで怖い。あとナチュラルに名前を呼ぶな。勘違いしちゃうから。

 これ以上小金をせびられては堪らないので、俺は足早に宿を出た。背中で彼女の「いってらっしゃい」を聞いた時、思わず振り返って足を止めてしまった。そこに雪ノ下がいる訳ではないと解っていても、振り返らずにはいられなかった。
 にこやかに手を振って俺を見送る彼女に、さりげなく手を挙げて応えてしまった自分が恨めしい。あれは雪ノ下ではないのだ。

 やはり彼女の声が雪ノ下とそっくりなのは間違っている。

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ギルガメッシュの酒場のLv.1八幡

 戦争景気に沸く城塞都市は陽が暮れても活気に溢れていた。

 雑多な街並みの窓々には何処も明かりが灯り、見上げれば王城の巨影が、窓から零れ出た無数の灯りと城壁の彼方此方で焚かれた篝火によって煌々と夜空に浮かび上がっていた。それはとても幻想的で、ここがファンタジーな世界である事を思い出させてくれた。
 目抜き(サイファー)通りは夜になって人が減るどころか、逆に夕刻よりも増えているみたいだ。どの店も閉店どころか増々活気付き、往来から人の波は途絶える事がない。やはり「戦争中で貧窮している」と聞いて抱いていた街のイメージとかなり違う。

 だが少し考えてみれば解る話でもあった。

 軍隊を維持するには金が必要だ。その金は何処から来る? その金は何処に行く?
 軍隊を維持し続ける為には、兵士を食わせる必要がある。食料はどれだけ、何処から?
 兵士達は戦うだけか? ノーだ。彼等も彼等の為に金を使うだろう。その為に命を懸けている。
 兵士達は金を何に使う? 何処に使う?
 そもそもいったい何人兵士がここにいるんだ?

 この城塞都市には兵士だけでなくその関係者、その家族も住んでいる。それらは決して少ない数では無いだろう。そして行政の中心である以上、それを維持する官僚や文官も合わせれば更に膨大な数になる筈だ。
 城塞都市に常駐する兵士は練兵場で訓練中の部隊を除けば、トレボー王直属の第一軍団こと近衛兵団約六千人と近衛親衛隊が約二千人、加えて冒険者が三百~四百前後。これは純粋な戦闘員だけの数で、後方支援の文官や技術者集団を加えれば総員で三万~四万近くになるらしい。忍者マスターとしては優秀だが、その他はやや微妙な師匠は大雑把な数しか知らないようだった。単に勉強不足なのか、知らされていないのか──今後も関わって行くであろう人物なだけに、後者では無い事を祈りたい。
 その三万~四万の軍団が城塞都市以外のビスクファルス地方の重要拠点三ヵ所と最前線の占領地とに展開している。全軍で二十万人くらいだろうか。二十万人がずっと戦争をやっていられる程、このトレボー王の領地は経済的に潤沢なのだ。例え誰かが、大多数の誰かがその煽りを食らって搾取されているとしても。

 生産性皆無の巨大な軍事組織を維持するには、それなりの経済基盤が必要である。そしてその盤上で経済を回す原動力が膠着状態の対外戦争と間接的に支援している国内紛争であり、そこから生じる金と物と人の急激な流れがこの城塞都市を潤わせ、列国最強を謳う軍組織を維持させているのだ。

 その流れをゼロから構築し管理運営する人物こそ、この国の宰相エグザス・グラフツであり、彼の才覚を見い出し重用するトレボー王は、狂王と呼ばれている程イカレてなどいない事は明白である。
 この国の指導者達は戦争を利用して、力尽くで国を発展させようとしているのではないか?
 幻想的な異界の夜景を見渡しながら、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。実際はもっと複雑な思惑があるだろう。だが俺にはこの程度の認識と考察が精一杯だった。専門家じゃないし、そもそも興味が無い。軍事特需のおかげで砂糖とコーヒー豆が輸入されていると云う現実が確かなら、それだけで後は割とどうでも良かった。

 明日をも知れぬ身であるが故に、ひと時の享楽に耽る兵士や冒険者達で通りは溢れ返り、そんな彼等の欲望を満たす事を生業とする怪しげな客引きや派手なドレスの女達が裏路地に繋がる辻々に立って、値踏みする目で道行く人々を窺っている。
 日没と共に退廃的な歓楽街の様相を曝し始めたこの情景こそが、西側商業区の本当の姿なのかもしれなかった。俺にはどうにも落ち着かない空気だ。

 見渡せば人ごみの頭上辺りは、文字が幾重にも重なり合って読み取れないほどのフレンドカラーで、さながら緑の雲である。皆、兵士か冒険者だ。市民(Cit)の表示なんてほとんど歩いていない。露店の主人や客引き、商売女、ここにいる市民はそんなのばかりだ。

 魔法の灯りと思しき、蛍光灯よりも青白くて淡い光の街灯が一定間隔で立ち並んでいるおかげで、通りは普通に明るかった。所々篝火も焚かれていて、そこには金属鎧と槍で武装した屈強そうな衛兵が二人組(ツーマン セル)で立哨している。
 彼等は犯罪を未然に防ぐのが仕事ではあるまい。きっと赤や黄の表示を見かけたら、即座に捕縛、もしくは殺すのが仕事なのだろう。まぁ城門で所属不明(アンノウン)は弾かれるだろうから〝赤〟が混じっていないか見張っているだけだろうな。
 視ただけで敵と味方が判る《愚者の統制(IFF)》はその名の通り犯罪者(愚者)を抑制している。この緑一色の集団の中で、一人赤を示せばどうなるのか。そんな事は考えるまでもない。殺してくれと公言しているようなものだ。
 彼等の槍は街中にも拘わらず刃が抜き身だ。端っから殺す気じゃねぇか。あれほどあからさまにしていれば、変な気を起こして犯罪者になってしまうような奴も思い留まるに違いない。すげぇ抑止効果だな。

 だがこう云うやり方に反感を持つ奴はきっといる。彼等は絶対に従わないだろう。だから戦争が終わらないのだ。戦争は一人ではできない。明確な敵が必要だ。故に狂王や宰相にとって彼等は、実に都合良く敵対してくれている(・・・・・・・・・)のだろう。

 城塞都市における基本的なルールは〝殺すな〟、〝奪うな〟、〝盗むな〟の遵守、市民は王に〝忠誠〟と〝納税〟の義務を、兵士は〝納税〟の代わりに〝兵役〟が義務となり、加えて〝服務規程〟の遵守が求められる。それがこの国の法律の根幹となっている実にシンプルなルールだ。
 罪を犯せば単純明快、即赤ネームである。赤は敵性、つまりモンスター扱いで人権の全否定だ。誰に殺されようとも、誰に奪われようとも、どんな目に遭わされようとも全て合法だった。定められたルールや手順を踏まない黄色の所属不明(アンノウン)も同様である。故に、城塞都市には裁判所は無い。警察も無い。憲兵と衛兵がいるだけ。それだけで犯罪に関する殆ど全ての問題は解決してしまうからだ。
 因みに揉め事の仲裁や解決は、憲兵隊か王城に訴えれば相談に乗ってくれる事もあるらしい。だが基本的に揉め事の類の発端は、拡大解釈すればどちらかが必ず奪うなり、盗んでいる。故に、問題は当事者同士で、或いは善意の第三者によって、すぐにカタが付いてしまうのが常であり、訴訟が持ち込まれる事はほとんど無いそうだ。
 稀にではあるが、当事者同士の合意があれば罪が赦され赤ネームが消える事もあるらしい。だが殺人であれば赦免してくれるかもしれない相手は確実に死んでいるので全く意味が無いよな。ああ、蘇生できるかもしれないか。だが自分を殺した奴を赦せるか? ノーだ。どんな間抜けでもそれは無いわ。それでなくともこんな殺伐とした世界で、被害者が加害者を簡単に赦すような事など、とうてい有り得るとは思えない。

 トレボー王の勢力圏内では《愚者の統制(IFF)》の存在により、全ての市民と兵士は犯罪行為に対する最強の抑止力を得られる。善良な市民(・・・・・)以外は一目で炙り出せる以上、この国で犯罪や諜報活動などを取り締まるのは実に容易い。それを知る者は好んでリスクを冒さない筈だ。それでも愚かな行動をする者はそれに相応しい扱いを受けるだけの話だった。
 故に市民権を持つ者にとってこの国の治安の良さはこれ以上ない程の楽園レベルだろう。戦乱の続く他所の国の惨状を考えたならより明確だ。
 この魔法を作り上げた古の魔法使いは間違いなく天才だ。犯罪の解決と抑制に一つの明確な回答を打ち出せたのだから。人権? エセルナートの犯罪者にそんな良いモノは無いんだとさ。

 これが〝市民は無条件で守られる〟の答えだ。

 そしてこの偉大な魔法を復活させ、実用化に成功させた魔術師ワードナも相当な偉人の筈である。
 この街の冒険者は、そんな偉大な魔術師と戦わねばならない。それが如何に困難であるかは、既にトレボー王の精鋭達が身を以て証明していた。

 まぁ、俺も本気でワードナを討伐しようとは思っていない。ここで自らを鍛え、このエセルナートで生き抜く力を身に付ける事ができればそれでいい。騎士や貴族になりたいとも思わないしな。

 狂王の不夜城に睥睨された歓楽街は、戦争と云う狂乱の宴のお零れを享受する者や、これから頂戴しようと躍起になる人々の群れが、昼夜の区別なく狂奔している様に見えた。なんとも不自然で異様な光景だ。そう思ってしまうのは俺がこの世界の事も、戦争も何も知らないからなのか? だが今や俺もその中の一人だ。
 戦争のおかげで(・・・・・・・)俺は未来に希望を見出す事ができる。ワードナの地下迷宮も、魔法のお守りも、冒険者も全て、この国で起きている戦争の延長線上でしかないのだ。
 戦争放棄を声高に謳っていた日本で生まれ育った俺や師匠、藤村先生などにしてみれば、これほどの皮肉はないだろうな。
 戦争を知らない俺が、異世界の戦争に縋って生きる術を模索し、戦争を利用して生きようとしている。その果てに希望を求めている。こんないイカレた理屈をすんなり受け入れてしまえる辺り、やはり俺も何処か既に狂っているのかもしれない。それでも求めるモノが、諦められないモノが、捨てきれないモノが俺にはあった。

 ──だが、狂ってまで元の世界に、日本に帰還したとして……俺は、元の生活に帰れるのか(・・・・・・・・・・)

 小町は、雪ノ下は、由比ヶ浜は……俺を受け入れてくれるのか(・・・・・・・・・・)

 そこに俺が求めた〝本物〟は────

 其処ら中で絶える事の無い喧騒と笑い声や歌声、怒号、楽し気な会話……何もかもが騒々しい。
 華やいだ雑踏の中で、俺は独り暗鬱としていた。


 取り留めも無く、割とどうでもいい事ばかり思考しながら雑踏の流れに身を任せていると、いつの間にか目的の狂える恩寵品(ルナティック パンドラ)広場だった。
 似た様な佇まいの店がぐるりと広場を囲むように並んでいる中で、目当てのギルガメッシュの酒場はそれと一目で判った。確かに管理人さんの言葉通り、広場に面した店の中では一番大きな店舗だ。よく通っていたサイゼよりも規模が大きいかもしれない。二階が娼館と聞いていたが、建物は三階建ての様だ。外観は他とさほど変わらない。どこか退廃的に感じてしまうのは、予め娼館の事を聞いていたからだろうか。
 西部劇を思わせる両開きのスイングドアを開けると、中の喧騒はストリートの比ではなかった。
 大小の丸テーブルがそこかしこに並び、どこも武装した冒険者で一杯だ。なにそれおっかねぇ。おまけに、どこも複数人でテーブルを占有している。お独り様は俺だけかもしれん。なにこれ冒険者ってみんなリア充なの? 砕け散れよ。ぼっち飯がデフォルトの俺は、既に席どころか居場所すらない気がする。なにより空気が殺伐とし過ぎだ。竪琴やリュートで楽し気なメロディを奏でながら唄ってる奴や、豪快に笑ってる奴等もいるけど、なんて言うか場末の古いビルの裏側にある半地下のテナントに入ってそうな、いかにも不良の溜り場的な店員も客も何もかも胡散臭い感じの店、それを最上級まで強烈にした感じの危険な香りが漂っている。ヤバい超コワイ。今すぐ家に帰りたい。こいつら全員、緑だけどなんか無理。俺の一番苦手な空気だ。そりゃそうか、ここで冒険者は探索の仲間を募り、六人パーティーを組むのがセオリーらしいからな。要するにこの世界は最初からぼっちを殺す気なのだ。故にこのギルガメッシュの酒場は、ぼっちの処刑場である──無理。こんな場所で落ち着いて飯など食えるか。もっと大人しそうな店を探そう。それがいい。回れ右をしかけたその時、俺は横から声を掛けられた。と云うか、引っ張られた。

「おい、入り口で突っ立ってんのは営業妨害だぜ? さっさと脇に避けろよな。どん臭いヤツだぜ」

 男勝りな物言いの、黒っぽいやつが俺の腕を掴んでいた。

「あ、う……その、スミマセン……」
 取り敢えず謝ってしまうのは日本人の悪い癖だ。でも仕方ないよね、俺は小心で人畜無害な千葉県民だから、こんなリア充の巣窟(危険地帯)でまともに会話などできる訳ねぇだろ、歴戦のぼっちなめんな。しかも、よく見ればかなり可愛い女の子だし。金髪だし。なんで片側だけおさげ垂らしてんだろうな。途中で編むの飽きたのか?

「──で、酒か? 飯か?」
 やべぇ客と思われた。いや、確かに客になろうとは思ってたけど。つーか、この娘なんか怖い。超睨んでるんですけど。俺、なんかした? 初対面だよね? 目か? 目が腐ってるから威嚇されてんのか? あー、そういや腹減って気が立ってたから、ちょっと酷い事になってるかも……なんだ、平常運転じゃねぇか。やっぱりさっきまでのが間違っていたんだな。月影さんとか藤村先生とか管理人さんとか阿部さんとか。
「……飯、なんだけど……」
「一人か? だったら席はカウンターだぜ。ついて来な」
 ついて来な、と自主性を促しながら、この黒っぽい金髪少女は俺の腕をぐいぐいと引っ張って行く。あの、離して貰えませんかね?
 冒険者達で賑わうホールを突っ切り、俺は奥のカウンター席に連行された。
「ここに座れよ。安くて不味いのと、そこそこのと、高くて美味いのがあるぜ?」
「…高いのは、幾らするんですか?」
「3ゴールドだぜ」
 ちょ! 待て、高い(・・)料理が、3ゴールド……だと? 俺はついさっき、欠片みたいな石鹸とぼろきれみたいなタオルに1ゴールド支払った。いや、まだだ。この酒場は冒険者に安価で酒と料理を提供してくれる店だった筈。なら本来はもっともっと高い料理なのかも……
「あ、あの、ちょっとした質問なんですが、ここの料理って冒険者は割引料金なんですよね? その料理って本来は何ゴールドくらいなんですか?」
「お前、変な目してるだけじゃなくて、変な質問するやつだぜ……そうだなー、多分4ゴールドくらいじゃねーか?」
 1ゴールド……25パーセント引きか。良心的……なのか? つーか、やはりあの管理人ぼったくってやがった!
「あ、ありがとうございます……それでお願いします」
「おう! ちょっと待ってな、すぐに用意するぜ。マスター!! 高いの一つだぜ!!!!」
 黒いのが厨房に向かって叫ぶと「……応」と、なんか凄みのある男の声(バリトン)が返ってきた。おっかない店のマスターだもんな、声からしておっかないおっさんなんだろうなぁ。
「なぁ、酒は要らねーのか?」
「……結構です。あの、ここってコーヒー飲めるって聞いたんですが……」
 これ、重要!
「コーヒーか? あるけど高いぜ?」
「…何ゴールドですか?」
 10ゴールドまで出す。いや、20ゴールドでも……待て、それじゃ殆どスイートに泊まれる金額になるじゃねぇか。
「1ゴールドだぜ」
「それ下さい。食前と食後で二杯下さい。あと砂糖と練乳とか有りますかね?」
「砂糖はあるけど……アルファさーん! 練乳ってあんのかー?」
 黒いのが大声で呼び掛けると、カウンターの端でコップを磨いていたウェイター姿の女性がこちらにやって来た。
 正直、唖然とする色彩だった。ポニーテールの彼女の髪は緑色で、人懐っこそうな優し気な目の中の瞳の色はあずき色だった。
 緑の髪なんてアニメとかゲームじゃよくあるけど、実際にお目に掛かるとこれほど異質とは。それが、染めた不自然な色では無く、ごく自然に見えてしまう色合いなのが、余計に不自然だ。弓型の綺麗な眉毛もだが、長いまつ毛まで緑だよ……本物の緑髪なんだな、この人。なんて言うか……人間と全く同じ姿なのに、絶対に人間じゃないと解る。何なんだ、この人? 美人の宇宙人?
「どうしたのー、魔理沙ちゃん。練乳なら有るには有るけど……何に使うの?」
「おい、変な目のルーキー! 練乳も有るらしいぜ……何するんだ?」
 二人の視線が俺に集まる。すげぇ気まずいから止めて下さい。つーか、砂糖も練乳もあった!これで勝つる!!
 ……まぁ、偽物の代用品でもこの際いいよね。どっかにコカ・コーラの自販機ねぇかなぁ。
「…コーヒーに、入れま「えええ──っ!?」」
 なんだこの反応……緑の人、カウンターから身を乗り出してるんですが……そんなにおかしいか? マッカンの主成分は加糖練乳であってコーヒーでは無い、常識じゃねぇの?
「甘くなっちゃうよ? それも、すっっっごく!」
「コーヒーに練乳入れるなんて初めて聞いたぜ。お前、目が変だし、コーヒーの飲み方まで変だぜ。どこの変な世界から来たんだよ」

 ……千葉だし。た、確かに1975年の発売当初は千葉と茨城と栃木でしか販売されていなかったが、それから関東全域に広がり2009年二月十六日から全国販売だってされたんだ。まぁ確かに2013年現在、関東と一部エリアに限定されてしまってはいるが……メジャーな缶コーヒーなんだよ、マッカンは。この場合、黒いのが変な世界から来たと断言できる。どこの怪しい世界から来たんだろうな!

「甘党なんで問題無いです。砂糖と練乳アリアリでお願いします。分量としては、練乳>砂糖>コーヒーな感じで。あ、糖分量は9.8パーセントで」
「一割が砂糖!? 練乳はそれより多めなのに!? それってコーヒー味の甘い練乳だよ~」
「そうとも言います。でもマッカンの有り様とはそう云うモノなんです。尤も、あの味の再現は民間レベルでは不可能ですけどね、多分」
 利根コカ・コーラボトリング、マジ有能。けど、利根の改二は流石に来ねぇだろうなぁ……重巡だし。まぁ当然ながら榛名改二実装の方を優先して貰いたい訳だが……あー、最近ごたごたしてたから、あんまりログインできなかったんだよなぁ。飛龍のレベリングも途中だってのに……つーか、アルペジオのコラボイベントってクリスマスからじゃなかったか? イベント始まるまでに帰りたいなぁ……

「……できますかね?」
「えーっと……流石に、ちょっと追加料金貰わないとダメ……かな?」
「払います」
「即答だぜ……」
 当然だ、黒いの。基本価格が1ゴールドなら10倍でも問題無い。想定内だからな。
「ありゃま、迷いが無いねぇ~。えーっと…「3ゴールドだ」…マスター?」
「3ゴールドだ、坊主。アルファ、坊主の注文通りに作ってやれ。魔理沙、〝B〟二人前だ。さっさと配膳しろ」
 奥からのっそり現れたバリトンのマスターにどやされ、黒いのは慌てて料理が盛り付けられた皿を次々トレイに乗せて行く……すげぇ、二人前の配膳を一度で済ませる気か。乱雑なのにスープは一滴たりとも零れないし、メインディッシュは盛り付けた形そのままに微動だにしない。技だ。結局全ての皿を片手のトレイに乗せて「そこそこのができたぜー!」と、狭いテーブルの隙間を足取りも軽やかに運んで行った。黒いのすげぇ。
 あとバリトンのマスター、やはり凄みがあるって云うか……渋いオッサンだった。中肉中背、丸太みたいな腕で全体的にゴツイ。もみあげから顎に繋がった虎鬚に口髭……三国志の無双っぽいゲームとかに出てきそうだ。張飛っぽい。もしくは最近のガンダムにいたな、こんな艦長。マスターはE-Fig、悪の戦士か。引退した歴戦の戦士って感じだな。膝に矢を受けたのか……まさかな。
「3ゴールドだって。ちょっと高くなっちゃったけど……いいかな?」
 アルファと呼ばれた緑の人は申し訳なさそうに手を合わせた。軽く拝む様なその仕草は紛れもなく日本人のそれ(・・)だ。この人、異邦人なのか? あと上目遣いが可愛いです……俺より年上、だよな? 取り敢えず〝視る〟。彼女はN-Cit、一般市民だった。

「構いません、それでお願いします──食前と食後で」
「うん! ちょっと待っててね~、すぐ淹れるから」
 あ、ミルで豆を挽くのか。ガリガリと豆を挽く音がカウンターに響き、ほんのりコーヒーの香りが漂い始めた気がした。なんだかここだけ普通に喫茶店みたいだな。
「……あ、お支払いは」
「それなら魔理沙ちゃんが──」
「お待たせだぜ! おい、変な目のルーキー、さっさとチップ払えー! それとついでに飯とゲロ甘コーヒーの料金もだぜ」
 チップが先で料金はついでかよ……銅貨(小銭)が無いから10ゴールドでいいか。俺は大銀(ドラクマ)貨を一枚取り出して黒いのに手渡した。
「…これで」
「お前、変な目の癖に男前だぜ!チップに10ゴールド出すやつは初めてだぜ。やっぱりあれか? わたしの美貌か? 美貌のせいだな! いやー、わたしみたいな美人はモテ過ぎて辛いぜ。気分が良いから水くらいサービスしてやるぜ」
 うぜぇ。あー、なんでこう面倒臭いやつばっかりなんだろうな、城塞都市は……
「…いや、どう考えても料理とコーヒーの料金だろうが。釣り銭からチップ引いといてくれ。それとお釣りはちゃんと戻せ。あ、チップは銅貨一枚な」
「……わたしが一度受け取ったチップを返すと思ってんのか? チップは受け取った、次は飯代払え」
 こいつ……良い度胸だ。だが、バカだな……丁度良い機会だ。どこまでがセーフで、どのタイミングで犯罪扱いになるのか試すには絶好のシチュエーションである。黒いのには悪いが──まぁ、バカには良い教訓だろう。多少、手痛い教訓になるかもしれんが……それに赦せるのか(・・・・・)試してみるのも悪くない。

 黒いのはE-Mag、まだ薄緑色だ。俺と同じ"(Evil)"で魔術師(メイジ)、か。さて────

「おい、そう云う態度ってどうなんだ?」
「あ? なにがだよ、うぜぇ事いってんじゃねーぜ?」
 新参冒険者だからって舐めてるな、こいつ。
「それで俺が泣き寝入りするとでも? お前、割とバカだろ。ああ、すまん。バカだから言っても解らねぇか」
「……いい度胸だな、おまえ」
「そりゃ、お前だろ。魔術師(メイジ)|如きが忍者相手によくもまぁ舐めたマネしてくれるぜ。正気かよ? バカもここまで来るといっそ清々しいな」
「おい、言いたい事はそれだけか? 何のつもりか知らねーが、因縁付けんのも大概にしとけよ? 営業妨害で叩き出してもいいんだぜ?」
 まだ変化なし。やはりはっきり釣銭詐欺で客から金を巻き上げようとしてるとか、はっきり告発でもしないとダメか──て、やべぇ。アルファさんが口を挟んで来そうだ。そしてそれよりもマスターがこっち見てるのがマズい。
 黒いのを挑発してるのがばれたら流石にマズい事になりそうだ。そろそろ引き時、だな。
「だったらお前が先に釣銭詐欺だろ……こんなところで赤ネームになったらマズイんじゃね?」
「──ッ!?」
 黒いのはビクッと一瞬体を震わせ、強気だった瞳は急に陰ってしおらしくなった。魔術師(メイジ)だけあって頭は回るようだな。
「──魔理沙ちゃん、ダメだよ?」
「……う、うん。冗談……冗談に決まってるぜ、最初っからな! ちゃ…ちゃーんとお釣り持ってくるつもりだったんだぜ? ……だぜ?」
「あの、ごめんね? その、ちょっと出来心っていうか、悪い癖っていうか……」
 すげぇ……効果覿面じゃねぇか。《愚者の統制(これ)》の抑止力は……
 頭が良いやつ程、これの怖さが解る。出来心だとか、魔が差したとかの言い訳が通じない。赤になってしまったら終わり(・・・)と云う恐怖だ。
 逆に考えると、こんな簡単な事も解らないバカは要らないから、勝手に淘汰されてしまえ──と言う、身も蓋も無い悪意が、どうしても見え隠れしているような気がするのは、俺が〝悪〟だからなのかね。

 わざわざアルファさんが助け舟を出してくれた以上、俺としてもこのビッグウェーブに乗るしかないだろう。何より、コーヒーを淹れてくれるアルファさんに悪印象を持たれるのは宜しくないからな。今後、城塞都市にいる間は世話になり続けるだろうから。マッカン的に。それにある意味目的も果たせた。まともな奴相手が前提だが、上手く誘導してやれば──《愚者の統制(これ)》は脅迫に使える(・・・)

「……いや、良いっスよ。俺も別に本気で言った訳じゃないし……あー、すまん。ちゃんと小銭が無いって言えば良かったな」
「あ……うん。悪かったぜ、わたしも勘違い(・・・)しちゃて……ほら、お釣り! きっちりちゃんとあるぜ?」
 黒いのはポケットから小銭を差し出した。きっちり銅貨が九枚。俺はその内の六枚をポケットに突っ込み、二枚をカウンターに置いた。
「すみませんでした。なんか迷惑をかけてしまって……」
「だ、大丈夫だよー! ほら、何にもなかった訳だし──」
「これ、コーヒーのチップ、置いときますね」
「あ、私はチップとかは別に……」
「それと……これ、案内してくれた(チップ)だ。取っとけよ……その、助かったし」
 残った一枚を黒いのに戻してやった。
 受け取った黒いのは銅貨と俺をまじまじと見比べた後、やがて「そっか!」と破顔一笑、忽ち機嫌が直ったようだ。実に安いやつである。俺みたいな悪いヤツに端た金で騙されないか少々心配だ。だがその心配もアルファさんがコーヒーを淹れてくれた頃には、綺麗さっぱり俺の思考から消え去っていた。

 結論から言えば、これはマッカンではなかった。マッカンカッコカリだ。

 飯は普通に美味かった。
 故に明日から稼がなければならない金額が60ゴールドに増えてしまったが、それは仕方のない事だ。この世界で俺が求める最低限度の生活をする為にどうしても必要な経費なのだから──

 宿と飯とマッカンカッコカリで一日60ゴールド、ひと月で1800ゴールドか……どうなんだろうな、ノルマとしてこの金額は。つーか、冷静に考えれば新兵の月給を日給で稼ぐって事じゃねぇか……できんのか、俺?
 ──まぁ、目標は高く持つ方が良いに決まっている。やれるだけやってみるだけだ。なら次は、戦う為の準備をやっとかないとな。

 二杯目のマッカンカッコカリを飲み干した俺は、満足してギルガメッシュの酒場を後にした。思ったより悪くない店だ。明日は朝からアルファさんにマッカンカッコカリを淹れて貰おう。

 ……そう言えばここの二階の事、聞きそびれたな──いや、流石にアルファさんと黒いのにそれ(・・)を聞く勇気は無かった。マスターには終始、坊主呼ばわりされたしな……

 やはり俺が未成年扱いなのは間違っていないのかもしれない。

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TIPS.2 僕がぼっちなのはどう考えてもお前らが悪い!

 ────どこかのカケラの海で

『アンタ、まだやってたの? いい加減諦めなさいよ』

まだ(・・)たった845,623,476個目のカケラだよ? これくらいのリセマラ、XYより前の厳選作業に比べたら遊びみたいなものだよ』

『ほんと、諦めの悪いラクダね。アナタ好みの奇跡(・・)は起きないって私が保証してあげるわ』

『ならあたしも絶対(・・)見つからないって付け加えてあげる』

『やれやれ……プラチナで理想色違い6Vを国際孵化だけで引き当てるボクが、奇跡なんてモノに頼ったりする筈ないじゃないか。ベルンには悪いけど』

『無意味な努力ねー。乱数調整くらい簡単よー? そんなの五分もかからないのに」

『おバカさんね。そんな面倒臭い事しなくても、ツールで作った方が簡単よ』

『バカはアンタよベルン、改造だと大会とかで弾かれるじゃない』

『大会には参加しないから関係無いわ。そもそも対戦もしないわ』

『それだと理想個体を用意する必要ないじゃないか』

『ねぇベルン、対戦くらい相手してあげるわよ? ちゃんと接待パ使うから。それに改造ポケモンはセーブデータが壊れるリスクがあるから止めときなさいよ』

『結構よ。サブロムと予備機使ってるから。改造ポケモンはね、〝ミラクル交換で無差別に放流〟したり、〝ゴミみたいなポケモンで伝説や幻を要求するバカを駆逐する〟為のモノよ』

『『テロリストだー!! お巡りさん、コイツです』』

『失礼ね、正義の代行者に対して』

『しかも愉快犯じゃなく確信犯だよ』

『余計始末が悪いわ』

『アナタ達、後で憶えてなさい? 話が脱線したけど、あのコはこの時空系列の〝主人公(ヒーロー)〟なのよ? それを全否定する様なカケラなんて、幾ら探しても有る筈が無いわ』

『無限の魔女が魔女にならないカケラを探し出したベルンの発言とは思えないけど』

ここ(・・)を、あんな小さな世界と一緒にしないで』

『まー、理屈じゃあらゆる可能性があるかもしんないけどさー、流石に無い(・・)わよ。主人公が、主人公のまま、主人公になれないカケラなんて』

『そうね、そこに拘る意味がまず解らな──』


「──それでも! 守りたい世界があるんだ!!」


『……アナタ、呼ばれてるわよ?』

『いい加減、在りもしない〝彼〟を探すのなんて諦めて、さっさとあのコの願いを叶えてあげなさいよ』

『ラムダ、諦めたらそこで試合終了ってカーネルおじさんみたいな先生が言ってたよ。ねぇ、そんなの置いといてフライドチキン食べに行かない?』

『ほんと脈絡がないわね、このラクダは』

『ま、こんな不毛な事してるよりはよっぽど建設的よ。たまには脂っ濃いのも悪くないわ』

『じゃあ、今日の厳選作業は次のカケラで終わりにするよ。次はひ弱なカラルであって欲しいなぁ。なーにが殺したくないだよ。なーにが明日が欲しいだよ。あのコ(・・・)は厭だ。ボクに願いが届く頃のあのコはキライ。どうせ願いが叶うのはあのコなんだから、もっとボク好みなあのコの願いを叶えてあげたいよ』































 それは、無限分の一の可能性の中のたった一つのカケラ。それを彼が選んでしまう確率は、本来ならば那由多に一つも存在しない筈だった。




 ────コズミック・イラ 68 四月

 少年は、親友との別離に直面していた。

 別れを告げた親友は、少年に手作りの鳥型ロボットを贈った。それは最初、少年が作ろうとしたモノ。でもできなかった。いつかはできたのかもしれない。だが親友は「お前には無理だ」と言って、代わりに作ってくれた。きっと簡単ではなかった筈だ。でもやり遂げた。少年は素直に親友の技量を褒め称えた。少しだけ心の奥底がチクリと痛んだのをごまかすようにして。

 親友は少年との思い出をずっと留めて置きたかった。きっとこのトリィは離れていても二人を繋いでいてくれる。きっとまた会えると信じて手渡した。
 少年もまた同じ気持ちでそれを受け取った。

 親友との別れは辛かったが、彼のくれたトリィは寂しい心を慰めてくれるには申し分なかった。


 その夜────

 少年はなぜか寝付けなくて何度も何度もベッドで寝返りを繰り返した。別に寝苦しい訳でもない。なぜか眠くならなかった。
 抜けば(・・・)疲れて眠くなるかと思い、ごそごそといろいろ試してみたが、おかず(・・・)やら後始末やらで余計に意識が冴えてくる始末で、全くの逆効果だった。
 時計を見れば午前二時を少し過ぎていた。溜息を一つ零した少年は、無理に寝る努力を諦めて、手を洗うついでに何か飲み物でも……と、ベッドを抜け出した。
 勝手知ったる自分の部屋、目を瞑っていても何処に何があるか把握している。わざわざ灯りを点ける必要はなかった…………昨日までなら。

 鳥のロボットだからと言って鳥目だったとは考え難い。なぜ床にいたのかと聞いた所で、ロボットが答える筈も無く、何を思って行動していたのかなど、機械ならぬ人間でしかない少年には到底理解の及ぶモノでは無かった。きっと、運が悪かったのだ。そうでもなければ、こんな惨事が起こる筈が無い。
 強いて惨劇の原因を求めたなら、きっと親友のプログラムミスであったのだろう。だが惨劇が起きてしまった今となってはもうどうでもいい問題だ。
 それに加害者になり得る親友は、もうとっくに遠いプラントまで旅立っている。文句を付ける相手はもういない。

「トr──ピギュ「いッッッ!!!!」」

 何かを、踏んだ。踏み抜いた(・・・・・)

「あ゛あ゛あ゛ぁぁッ──いっ…痛……なん、なんだよ…」

 右足の裏に激痛が走った。ズキズキと経験の無い耐え難い痛みが眠気を一瞬で消し去り、少年は立っている事もままならない。

「「キラ!?」」

 部屋に明かりが灯る。時ならぬ少年の叫びを聞きつけた両親がすぐに駆けつけたのだ。
 少年は激痛の発生源に目を向けてしまった。本当は見たくなかったが、それ(・・)を見てしまう。

 トリィの羽だったモノが三枚、足の甲から貫通していた。ひしゃげて、つぶれた、トリィだったモノが、足の裏に張り付いている。

 チカチカと赤い小さな目が点滅していた。
 それはきっと気のせいに違いない。だが、少年には小さな機械の赤い眼が、自分を睨んでいるような気がした。

「う……うあああああああああ────」

 親友との絆は、体と心に痛み残して儚く消えた。代わりにそれを埋め合わせるように、心の奥底で深い闇が静かに生じていた。

 運命の歯車はこの夜から狂い始める。


 少年は搬送先の病院で入院する事になった。全治三週間と診断されたが、結局一カ月入院した。



 ────コズミック・イラ 68 五月

 入院中、暇を持て余していた少年は、電子の海を当てもなく彷徨っていた。
 そして、出会ってしまった。前世紀の遺物に。この新時代にも、未だ提督達は健在だった。

「……艦隊これくしょん?」

  未来永劫、出会う筈のなかった古の文化は、目に見えぬ毒となって少年の心を汚染する。
 その日から、少年の煌めくような純真な心に霞が掛かり始めた。

 運命の歯車はこの日から少しずつ錆び付き始める。



 ────コズミック・イラ 68 八月

 かつてない規模の戦争が現実味を帯び始めて来た頃、少年の両親は中立コロニーのヘリオポリスへ移住を決めた。
 新学期を目前に控えていたが、どうせなら少年がヘリオポリスで新学期を迎えられるようにとの親心だった。転校と云うモノは、いつの時代、何処の場所でも学園生活を左右しかねないリスクが付き纏う事を、彼の両親はよく理解していた。

 少年に異存は無かった。それどころか歓迎していた。引っ越しの不安よりも、期待に胸が躍った。
 移住の話を両親から切り出された少年は、すぐにヘリオポリスにおけるインターネットの通信状態を確認していた。
 艦これメインサーバーにログインできるのかどうかは、少年にとって死活問題だったからだ。その過程において、熱狂的な提督達の有志によって運営されている"艦隊これくしょん(コズミック・イラ)"の大本営がヘリオポリスにあると知った時、少年は運命を信じた。運命が未来を決めても良いと思った。

 将来はここ(・・)に参加しよう。進路の目標も決まった。少年の未来は希望に溢れていた。

 運命の歯車に余計なパーツが連結してしまった事で、狂うどころの話ではなくなっていた。



 ────コズミック・イラ 69 九月一日

 少年は工業カレッジに入学した。

 この年は特筆すべき事は特にない。強いて上げるなら────

 カレッジデビューに失敗した。
 司令部レベルが97まで上がった。
 ビスマルクの建造に成功した。
 加賀改二と最初のケッコンカッコカリをした。
 ブログが炎上した。

 以上である。

 運命の歯車は盛大に歯車を軋ませ始める……ネジが何本か既に落下しているが、まだその時ではない。



 ────コズミック・イラ 70 二月十四日

 世の中は〝血のバレンタイン〟騒動で騒然としていた。
 だが世情の不穏な空気を全く読まないヘリオポリスは至って平穏だった。
 そんな〝血の〟バレンタイン当日、見てくれだけ(・・)は完璧な十五歳の少年は、人生最初のモテ期と修羅場を同時に経験した。

 いつも一人で愁いを湛えた紫の瞳で寂しそうにしている〝美〟少年の姿は、一部の女子生徒達の母性本能と保護欲を大いに刺激し、ぼっちと云う弱い立場からして簡単に落とせる男(・・・・・)、と認識してしまった彼女達は間違っていない。事実、少年は簡単に陥落した。複数の女子生徒によって。
 女性経験が皆無で、複数の女性の間を器用に立ち回れるような甲斐性も度胸も無い少年が、彼女達との関係を破綻させるのに時間は掛からなかった。そもそも優柔不断な性格で、重課金&重コンカッコカリ主義の時点で既に詰んでいた。艦これは現実の女性とのコミュニケーションに全く役に立たないと彼は思い知る。
 その後、爆弾処理に失敗して地雷まで盛大に踏み抜いた少年は加藤ゼミで吊し上げを食らい、ゼミの男子生徒全員を敵に回した。

 第一次アーガイルの乱、勃発。

 開戦当時の戦力差は1対11だった。数に勝るサイ・アーガイル等の男子生徒連合の前に、少年は成す術も無く蹂躙されると思われた。

 見かねた女生徒達が少年を庇うように彼等を制止しようとした。それが引き金だった。
 自らの正義を信じて疑わない彼等は、少年を擁護する女子生徒が赦せない。
 こうなった元凶が未だのうのうと彼女達から守られている。なぜ彼女達が少年を擁護するのか、単純すぎるほど解りやすいから、余計に腹が立つ。少年の容姿が自分達とは比較にならないほど整っている事を自覚し、大なり小なりコンプレックスを抱いていた彼等の心中は煮えたぎっていた。
 今日に至るまで、彼等が思いを寄せる少女達が見た目だけ(・・)で少年に心奪われる姿を見せつけられていたのだ。耐え難い嫉妬と苦痛はマグマの様に心の奥底に沈殿し、一触即発の危険域まで膨張していた。
 だがそんな彼等の事情など知った事では無い女子生徒達によって、収まるモノも納まらなくなってしまった。そして──

「──あなた達、やめなさいよ!」

 日頃から何かと少年を気にかけていたミリアリア・ハウの声に過剰に反応した者がいた。彼女を知る者なら解っていた筈だ。ミリアリアはゼミで孤立している少年を純粋な親切心だけで心配していた事を。そこに恋愛感情など欠片も無い事を。だが、切っ掛け一つで爆発してしまう危険域にまで達していたある男子生徒は、それを知っている筈なのに、解らなかった──彼女と交際していたトール・ケーニヒが最初にキレた。

 ──開戦。

 彼は勇敢だった。身を躱され、足を払われて地面に突っ伏すまでは。その後の記憶は無い。
 夕刻、気付いたら医務室のベッドだった。携帯端末にはミリアリアからメールが一通入っていた。

 from ミリアリア : 見損なったわ。殺人鬼! シね!

 少年に対してバッテリー駆動の鋼材裁断用回転ノコギリ(モーラー)を振り回したせいだった。
 慌てて申し開きをしようとしたが、既に着信拒否されていた。

 先駆けのトールに奮起した後続の男子生徒達は、一斉に鬨の声を上げて彼に続いた。愛用の工具を掲げ、さながら中世の騎士の様に突貫して行く。工業系の学校では古来よくある光景だ。日本のとある高専なら寧ろ日常的ですらあった。
 彼等もまた、勇敢だった。例え一瞬で制圧されたとしても、彼等の勇気は称えられるだろう。いつかブルーコスモスと称する人々から。だが今この場には少年をコーディネイターと知る者はいない。
 この場で全てを目撃した女子生徒達からしてみれば、ただの乱暴者である。彼等を見つめる彼女達の目は最後まで冷ややかだった。

 最後に真打が登場するのは古来から不変のお約束である。
 舞台は整った。友軍の屍の山を越え、彼は少年と対峙した。
 サイ・アーガイルの士気は既に失せていた。と云うより、最初から無かった。ここまでするつもりも、乱闘騒ぎにしてしまう事もだ。少年の態度を改めさせればそれで良いはずだった。それは話し合いだけで、確実に解決できた筈である。

 どうしてこうなった? 今更、自問自答しても答えは出てこないない。

 最初はゼミで一人だけ孤立している少年を、なんとか皆の輪の中に加えてやりたいと本心から思っていた筈なのに、なぜか彼と決定的なまでに対立している自分がいた。

「サイ! 負けちゃダメよ! ぶっ飛ばせ!」

 アレが原因だった。

 ゼミの女生徒の大半が少年の擁護に回る中、対立を煽る側に立ち、無責任な言動を繰り返す女子生徒がいる。
 名をフレイ・アルスター。サイ・アーガイルの婚約者である。
 ミリアリアが光なら、フレイは闇。東京スカイツリーがミリアリアなら、フレイはあべのハルカス。きのこの山がミリアリアなら、フレイはたけのこの里と言った具合に、決して相容れない存在だった。少年に対する態度に限って、ではあったが。他は別に問題無かった。寧ろ仲が良い友人同士である。

 フレイ・アルスターは入学式で出会ったその日から「前世でこの子に酷い目に遭わされた」と、訳の解らない言い掛かりをつけ、因縁をつけ、少年を攻撃の標的にしていた。
 本来、善良でお人好しのサイ・アーガイルには当然それが理解できないし、共感したくも無い。寧ろ、孤立している少年と打ち解けたいと思っている。
 そしてここに来て、この騒ぎだ。彼女に不信を抱くどころか、今や自身の将来に不安を感じ始めている。こんな女と結婚して大丈夫なのか?
 よし、もう止めよう。降参しよう! サイ・アーガイルは全て投げ出す事にした。そして少年との関係を再構築しようと決めた。
 とにかく殴られたくないし、何よりまるで勝てる気がしない。既に10人が瞬殺されているのだ。フレイ・アルスターとの関係は拗れるかもしれないが、そんな事どうでも良い。寧ろ向こうから婚約を解消してくれるなら、面倒な手間が省ける上に後腐れも無くて万々歳だった。

「……なぁ、俺がわ「打ちたくない……僕に打たせないで!」──いや、()ってるし!!」

 少年の左フックからのハイキックでサイ・アーガイルは三メートルほど飛翔して、機材に叩き付けられた。周囲のガラクタが彼を目がけて雪崩込み、頭上からは一斗缶や金ダライが次々と落下してくる。加藤教授の先祖はきっとコメディアンだったに違いない。

「やめてよね……本気でケンカしたら君らが僕に敵うはずないだろ」

 ゼミの男子生徒全員を瞬殺した少年の言葉は彼等には届かなかった。聞いていたのは女生徒だけだ。彼女達の反応は様々だったが、この時はまだ少年を好意的に見る、寧ろ見蕩れる者が殆どだった。

 戦いは終わった……

 それはある意味、公開処刑であり、新たな戦いの幕開けでもあった。

 その後、花見シーズンに第二次アーガイルの乱、プール開きに第三次アーガイルの乱が勃発。少年は廃スペックの無駄遣いでこれら全てを迎撃、殲滅した。
 毎回なぜか中心人物にされているサイ・アーガイルは、元凶であるフレイ・アルスターとの関係の見直しを本気で模索し始めていた。

 強過ぎる者が恐れられるのが世の宿命、そして移ろいやすく扱い難いのが女心。力を誇示し、力で人を屈服させる者は、例え正義があろうとも相応の対価を払わされるのが人間社会の摂理である。社会秩序の中で模範的であろうとする人は、決して暴力を肯定しない。

 加藤ゼミ〝血のバレンタイン〟事件から一時期、少年の周囲は目まぐるしく変化した。
 同じゼミの女子生徒だけでなく噂を聞きつけた学内の先輩や後輩から、次々とデートの誘いや交際を申し込まれるようになったからだ。
 学内の女子生徒達を取っ替え引っ替えする彼の姿は男子生徒達の憤怒の対象だったが、実際は次々と少年が一方的に振られているだけだった。誰一人長続きできない。大抵、最初のデートの翌日には別れ話を切り出されていた。酷い時にはデートの途中で「急な用事を思い出した」と帰られてしまう有様だ。

「なんでだよ……ギャルゲーとかエロゲーなら選択肢を間違えたりしないのに……」

 数多の先人達が通って来た道を、彼もまた知らず歩いていた。
 理由を聞けば総じて「一緒にいてつまらない」「女心が解ってない」「趣味がキモい」「話を聞いてくれない」「自分勝手」の組み合わせである。
 これまで同年代の異性とろくに話した事も無かった少年が、いきなり年頃の少女を満足にエスコートできる筈も無く、ましてや女心を理解するなど無理難題もいい所だった。
 意味が解らない。どうすれば良かったのか、何が悪かったのかすら解らない。挙句、デートをしてやった(・・・)のに、なんで僕が責められないといけないんだ──からの自己正当化と、相手のビッチ認定である。敗因は明らかなのに、それすら気付かない。それを指摘してくれる友人もいない。月のコペルニクスにいた頃は何かと世話を焼いてくれた〝友人〟もいた気がする(・・・・)が、もう顔も思い出したくなかった。
 彼に姉や妹がいれば、まだ少しはマシだったかもしれない。だが仮にそんな者がいたとしても、きっと状況はより悪化していただろう。所詮、少年の姉、もしくは妹なのだ。いったいどれだけアテになると云うのだろう。

 少女達のネットワークを通して少年の悪評は光の速さで伝達された。
 いつしか少年の与り知らぬ所で「空気が読めない痛い男」の烙印が押されていた。

 夏休みを迎える頃には、少年を襲う者はいなくなったが、デートに誘う者もいなくなった。

 再び彼は孤立した。
 今までは少なからず彼を擁護してくれる者や心配してくれる者がいた。だがもう誰もいない。
 少年は、本当にぼっちになった。

 当然、ゼミの空気は最悪である。加藤ゼミの評判は地に落ち、彼が密かに関わっていた軍用モビルスーツの開発は多大な影響を受ける事になる。
 サイ・アーガイルはそれでも現状を好しとはしていなかった。自分以外にもこのゼミの空気をなんとかしたいと思っている筈だと信じている。だが、課題やらフレイやらの直近の問題に追われる内に、いつしか夏休みが始まっていた。

 孤独な夏休みは艦娘と戯れるだけで終わりを告げた。
 明日から新学期と云う日の午後、ひと夏を振り返った少年が得た物は、カンストした嫁艦達と有り余る資材、レアドロップの新たな艦娘だけだった。少年は一抹の寂しさを感じながらも、愛好家が集まるインターネット掲示板にレア艦を手に入れた自慢話を書き込む程度には満足していた。

 新学期を迎え、クリスマスが過ぎるまでの工業カレッジでの学生生活は、少年にとって耐え難い苦痛だった。次第にカレッジをサボりがちになるが、不登校にまで発展しなかったのは、叱咤してくれる両親と、少年の技量に頼りっ放しの加藤教授がいたからだった。

 孤独…焦燥……この頃、少年は漸く己の犯した過ちに気付き始めていた。だが、どうすればいいのか全く解らない。なんら効果的な解決法を見つける事ができないまま、失意の少年は新たな年を迎えた。

 ままならない実生活から目を背け、少年の心にひと時の安らぎを与えてくれたのは艦これだった。彼が益々のめり込むのは必然である。

 運命の年を迎えた正月、少年は第一艦隊から第四艦隊まで全てケッコンカッコカリを交わした艦娘で編成し、秘書艦を取っ替え引っ替えして戯れながら穏やかに過ごした。重課金、重婚提督の鎮守府は現実と違って平穏だった。


 運命の歯車は静かにその時を迎えようとしていた。



 ────コズミック・イラ 71 一月二十五日

 正月イベントを堪能した少年は比較的に穏やかな新学期を過ごしていた。相変わらずぼっちだったが。

 十六歳になる今年は、自分を変えたいと漠然と思いながらも、何も変わらぬまま時間だけが進んで行った。世界はプラントのザフト軍と地球連合の間で、戦争が激化していたが、中立コロニーのヘリオポリスは少年と同じで周囲の空気を全く読まずに、ダラダラと変わらぬ平穏な日常を続けていた…………表向きは。

 孤独だが廃スペックを誇る少年は、恋人も友達もいなかったが、教授の評判と成績だけは良かった。
 メールで加藤教授に泣き付かれた少年は仕方なしに彼の実験棟に赴いた。ラボではゼミの連中がなにやらごそごそやっていたようだが、誰も何も教えてくれないし、知りたくも無かった……嘘である。廃スペックの少年が一目見れば、それが何でどういった目的の物かなど見抜けぬ筈が無い。それの問題点もなんとなく解った。確認の為にゼミの連中の個人端末をクラッキングした所、少年の見立て通りだった。ついでに何人かの端末が質の悪いウィルスに感染していたので、こっそりクリーニングしておいた。ただの自己満足だが、できれば気付いて欲しかった。
 ひと声かけてくれたら手伝ってあげるのに。少年は、誘って欲しかった。
 これまでの事を全て詫びた上で、こちらから協力を申し出たら彼等は迎え入れてくれるではないか? これが自分を変える為の一歩を踏み出すチャンスのような気がしていた。だがこれ以上拒絶されるのが怖くて、自分から言い出す事がどうしてもできなかった。

 その日の実験棟には見知らぬ人物がいた。無遠慮な少年はまじまじと見つめてしまい、彼?と目が合った。睨まれた気がした少年は慌てて奥に逃げ込んだ。

 加藤教授から個人的に(・・・・)頼まれた課題を抱え、ゼミの連中の視線を気にしながら少年はそそくさと実験棟を後にした。何か言いたげなサイ・アーガイルと目が合った気もしたが、今更彼とどんな言葉を交わせばいいと云うのだろう。少年は彼に振るった暴力を後悔していた。でももう遅いのだろう。次はきっと失敗しない。今度は間違えない。でも本当は今をやり直したかった。いつしか少年の目には涙が浮かんでいた。体が震えて立っていられない。

「……う、うう…僕は…僕はなんで……」

 近くの港湾施設にも繋がっている廊下の真ん中で、場所も弁えずに泣き崩れてしまいそうだったが、どうにも止まらなかった。

 不意に世界が揺れた。底から突き上げるような揺れが何度か繰り返した。正常な宇宙コロニーでは有り得ない振動だった。少年の心は一瞬で覚醒した。弱っていた心に活が入る。あってはならない揺れ、その原因は幾つか考えられたが、最悪なのがザフト軍の攻撃だろう。少年はこの中立コロニーに地球連合の戦艦が入港している事を知っていた。少年が趣味でやっている無差別クラッキングでたまたま見つけていた機密情報である。

 嫌な予感がした。

 少年は躊躇い無く実験棟に向かった。実験棟にはゼミの連中が残っている。警告だけでもした方がいい。例え間違っていたとしても、すでに自分の評価は最低なのだ。何も状況は変わらない。

 それよりも、万が一に備えて早めに避難した方がいい。そう思っていた最中、再びフロア全体が振動した。先ほどより強い。振動の発生源が近付いているのかもしれない。
 コロニーを揺らせるモノに少年は心当たりがある。ザフト軍が誇る戦術兵器モビルスーツだ。あの巨大兵器なら、こんな軟なコロニーを破壊するくらい簡単だろう。

 道すがら、窓の向こうで閃光が走った。立ち止まって一瞬光った方向、港へ続く専用道路の方向を見据える。少し遠いが見えない距離ではない。
 次の瞬間、グレーの翼を広げた人型が飛翔するのが見えた。

「……ジンだ。やっぱり…ザフト軍が────いけない! 急いで避難しないと!」

 少年は駆け出した。邪魔な課題や端末は投げ捨て、廃スペックの全力で実験棟までの道を駆け抜けた。途中、カレッジの技師や職員達が慌てて避難している列とすれ違った。その中に加藤ゼミの生徒の姿はなかった。
 近くで爆発音が轟き、激しく施設が揺れる。振動は無かったが続けて爆音が三度轟いた。すぐ近くでも戦闘が始まっている──少年は戦慄した。想像以上に事態の進行は早い。
 エレベーターは既に止まっていた。少年は非常階段を駆け上がり、加藤ゼミの研究フロアを目指した。シェルターは非常階段の上には無い。避難先は下方向だけだ。エレベーターが止まっている以上、すれ違わなければまだラボにいる可能性が高い。エレベーターが止まる前に避難できていれば、柄にも無い事をやろうとした間抜けの笑い話で済む。そうであって欲しかった。緊急用の脱出カプセルを兼ねた避難シェルターはコロニー内のあちこちに点在しているが、その性質上それぞれ人数制限がある。定員オーバーになってしまうと、別の場所のシェルターを探さなければならない。既に大勢の人間とすれ違った。彼等は手近なシェルターに駆け込むだろう。果たしてゼミの連中を全員受け入れられるシェルターは近くに残っているのか? 少年の脳裏に不安が過る。
 ラボに通じる廊下まで漸く辿り着くと、先刻ラボにいた見知らぬ人物が避難する人の流れとは逆に搬入口の方へ向かっているのに気付いた。何か様子がおかしい。だが気にはなっても、まずは優先させねばならない事があった。一息に廊下を疾走した少年はラボに駆け込んだ。
 中にいた全員の視線が少年に集まる。まだ、いた……それは目的ではあったが、喜ばしい事では無い。彼等に事態の急と、今すぐ避難シェルターに向かうようにちゃんと伝えなければならないのだ、少年自身の言葉で。果たしてできるのか? 僕の言葉を聞いてくれるのか? でも──

「みんな聞いて! ザフト軍が近くまで来ている。もう戦闘が始まっているんだ、すぐに避難して!!」

 ちゃんと言えた。上手く伝わるのか、聞いてくれるのかは不安だったが。幸い、皆から注目はされていた。無視はされない──と思いたい。
 だが少年の言葉にも反応は鈍かった。不審げに顔を見合わせるばかりで、誰も動こうとはしなかった。
 これまでの己の行いの悪さが原因とは言え、流石にイラっとくる。本当に事態は急を要するのだから。どうして解ってくれない! 苛立ちが沸き上がる。未熟な彼は、これまで何度もそれで失敗したのに、またもその悪い癖──思い通りにいかないとすぐに感情的になってしまう──を出してしまいそうになっていた。この場で激昂などしようものなら最悪の事態を招く事など彼自身解っている筈なのに、感情を抑えきれない。

「──な」
「それ、本当なのか? 見て来たのか?」

 昂ぶりかけた少年を寸前で止めたのはサイ・アーガイルだった。ゼミのまとめ役の落ち着いた声は少年を冷静にさせた。自身の言葉に応えてくれたことが嬉しかった。

「うん。港口の方でジンが飛んでいるのを。それにもう避難が始まっているんだ。さっき大勢すれ違ったから。早くしないとシェルターが一杯になるから……」
「何度も揺れたけど、それでか。警報は鳴ってないのか?」
「どこも鳴ってないみたい。それにエレベーターも止まってるんだ……システムがクラッキングされてるのかもしれない……」
「できるのか? そんなこと」
「うん、できるよ……多分、ザフト軍も──」
 コーディネイターだから……言いかけて飲み込んだ。自分がコーディネイターであることは隠している。
「そうだな。なら、急いだ方が良いな」
「うん。もう一番近い所のシェルターは一杯だと思うんだ。だから少し遠いけど資材倉庫の方に行った方が良いと思う。港口から反対側だし、あそこは普段働いている人が少ないから」
「ああ、それが良いな。よし、それで行こう。皆、聞いた通りだ。すぐに避難しよう!」
 サイ・アーガイルの一声で皆は動き始めた。彼が話を聞いてくれなかったら、こんなに簡単に誰も動かなかっただろう。
「全員ここにいるの? どこか別の所に行っている子はいない?」
 念のための確認のつもりだった。少年は加藤ゼミに参加しているにも関わらず、ゼミの人間全員を把握できるほど繋がりを持っていなかった。
「ああ、全員ここにいる……いや、加藤教授の客だ。あいつがいない! カズイ! さっきまでここにいた加藤教授のお客さん、どこに行ったか分かるか?」
 カズイと呼ばれた少年は「見ていない」と、首を振った。
「ミリアリア! 君は見ていないか?」
「……さっき、加藤教授から連絡があったから……搬入口かも。港口側の搬入口で今日、搬出作業があるって聞いてるから」
 あの人だ。さっき見かけた。少年は自分ならすぐに追い付けると判断した。今から搬入口に行くよりも連れ戻した方がきっとリスクは少ない。
「搬入口か……遠いし逆方向じゃ──」
 突然、激しい揺れと共に天井の一部が崩れた。爆発の衝撃らしき揺れが二度、三度と続き、その度に女子生徒の悲鳴が上がる。
 爆音に重なるように激しい銃撃の音が響く。ここが戦場になっていると否が応でも思い知らされる。もたもたしている暇は無かった。
「僕が見てくる。皆は先に行って」
「駄目だ! もうここは危険だ、お前も避難するんだ。きっと搬入口のシェルターに避難しているさ」
「ここに来る前に見かけたんだ。まだ遠くまで行ってないよ、連れて来る。その方が安全だよ」
 見かけた時間から考えて、まだ遠くに行っていない筈だ。この短時間で辿り着けるほど搬入口は近くない。
「……確かにそうかもしれないが……」
「気になるんだ。先に行ってて、すぐに追いかけるから!」
 少年は皆とは反対側に向かって駈け出そうとした。後ろからサイ・アーガイルが叫ぶ。
「いいか、絶対戻って来い! 後で──後でゆっくり話そう」
「うん!」
 意外な言葉だった。少年は彼もまた、壊れた関係を最初からやり直そうとしてくれているのではないかと思った。だったら……嬉しいな。少年は身体に力が漲る気がした。



 ────コズミック・イラ 71 その時

「待って!」
 尋ね人はすぐに見つかった。やはりさほど遠くまで行けなかったようだ。
「なんだ、お前。私の事などいいから、あっち行ってろ!」
「そうはいかない! ここも危険なんだ、港側の搬入口は戦場になっているかもしれないし」
 と言っても、その人物は聞いてくれそうな感じではなかった。今は議論している暇は無い。急いで皆と合流したかった。それにサイ・アーガイルは後でゆっくり話そうと言ってくれた。必ず戻らなければならない。戻って彼に今迄の事を全て謝ろう。そして最初からやり直すんだ。もう間違わないように──
 少年は、こんなのに(・・・・・)構っていられなかった。故に躊躇いなく強行手段を実行できた。
「だったとしても! 私は──な、なにをする!?」
「ごめん! 急いでるんだ」
 有無を言わさず抱え上げた。所謂、お姫様抱っこである。暴れようとしたが、させない。見た目は優しく抱え上げているが、実はがっしりと掴んで身体を固定している。コーディネイターの全力でだ。男なら尊厳に深刻なダメージを負いそうだが、今は命が優先である。そして少年には見知らぬ人間の尊厳よりも優先させたいモノがある。早く戻って彼と話さなければならない。謝らなければならない。犯した過ちを償えと言うなら、どんな罰でもあまんじて受けよう。だから今は──
「な、な、な────うわわあああああ!?!!」
 何か言いたげだったが無視した。気にせず所々崩壊し始めた廊下を駆け出した。叫んでいるけど気にしない。しかし、誤って舌を噛んだら困ると思い直した。
「ごめん、ちょっとだけ我慢してね?」
「──え? むぐぐうううぅぅっ!!!!」
 被っていた帽子を強引に口に捻じ込んだ。これなら舌を噛む心配はないだろう。
 そこで初めてこの人物が女の子だった事に気付いた。そう言えば、抱えていても負担にならないほど軽かった。
 帽子の下にはシャギーカットをミディアムまで伸ばした金髪が隠れていた。気の強そうな金の瞳が、眉根を吊り上げこちらを睨んでいる。
 少し動揺した少年はどうでもいいだけでなく、余計な事を口走る。
「あ、女の子だったんだ。ごめんね、気付かなかったよ」
「むぐー!? むぐー! ふぐー!!」
「あ、暴れないでよ! このままシェルターまで走るから!」
「む!? むぐぅぅ────ッッ!!!!」

 金髪の少女を軽々と抱えた少年は再び駆け出した。目的地までの経路は頭に入っている。後は最短ルートをただひたすら走ればいい。
 爆音や轟音はまだ続いている。戦闘はまだまだ続くのかもしれない。今はまだ建物が揺れる程度だが、いずれコロニーそのものにダメージがいかないとも限らなかった。なにせザフト軍が持ち出しているのは二十メートル近い巨大兵器なのだから。

 目的の資材倉庫に人の気配は無かった。皆、既にシェルターに避難できたのだろう。
 シェルターの入り口にも誰もいなかった。避難シェルターは三基、内二つが満員を示していた。少年は空きがある事を示しているシェルターのインカムを押した。既に中から操作して貰わなければ入れない状態だ。

「すみません! 避難させて下さい! 二人です!」
『キラか! キラ・ヤマトだな!?』
 サイ・アーガイルの声だった。その声に少年は安堵した。ちゃんと戻って来れたと。
「サイ・アーガイル! 加藤教授のお客さんも一緒だ! 中に入れてくれ!」
『そうか! よし、今開け──なんだよ、フレイ?』
『サイ、もう一人分しか空いてないわ!』
『──な!? 嘘だろ? 確認したのか!』
『し…したわよ!』

 インカムから聞こえて来るサイ・アーガイルとフレイ・アルスターの怒鳴りあう声は絶望的な知らせだった。外にいるのは二人、中には一人しか入れない──

 ……もう、失敗はしないと決めたんだ! 少年の心に迷いは無かった。

「サイ! サイ・アーガイル! 僕はいいから、一緒にいるのは女の子なんだ! 彼女だけでも入れてあげて!」
『──フレイはちょっと黙ってろよ! 何言ってるんだ、お前はどうするんだ!』
「僕は大丈夫だから、だから早く!」
『くそっ! 今開けるからな!』
「むぐーっ! んむ──ぶはっ! お前、何を言ってる! 私のことなど放っておけと──うわっ」
 シェルターが開いた。そこに金髪の少女を押し込む。
「お前──」
 彼女は何か言いかけていたが、透明な内壁のシャッターがすぐに閉じて彼女の声は届かなかった。続けて外壁も閉まりシェルターがロックされる。
 これで彼女はきっと大丈夫だ。少年はシェルターが閉じるのを見届けると、すぐさま身を翻した。次は自分自身を助ける必要がある。

 それはきっと最後の日常への回帰点。彼がもっと他者との距離に気を遣っていたなら、違う未来があったのかもしれない。少年は気付かなかったが、閉じたシェルターは未だ満員を示してなどいなかった。

 来た道を戻るより、別のルートを辿って開いているシェルターを探す。広大なモルゲンレーテの施設内には無数のシェルターが埋設されているが、それ以上に働いている人間の数は多い。事務施設や一般区画はすでにどこも一杯だろう。こんな資材倉庫のシェルターすら一杯なのだから。
 多少危険でも、港口の方へ行くしかない。
 少年は港口へ続く搬入口を目指した。

 工場や格納庫にも思える搬入口までは難なく来る事ができた。その施設内にあるシェルターへ向かおうとした少年は目を見張った。
 目の前で、巨大な人影が二体、ゆっくり大型トレーラーから身を起そうとしていた。
 思わず立ち止まった少年は、最悪の選択をしてしまった事を後悔する。突っ走って(・・・・・)逃げるべきだった。
 地響きを立て立ちあがった二体の灰色の巨人機に挟まれた少年はうかつに動けない。大型トレーラーの影に隠れるのが精一杯だ。


「キラ!?」
 地球連合軍の新型モビルスーツを起動させたアスラン・ザラはモニターに映る少年の姿に戸惑った。なぜこんな所にいるのか理解できない。だが間違いなかった。三年前に別れた親友を自分が見間違う筈など無いと断言できる。同時に背筋に寒いものが走った。
 親友がいったいどれだけ危険な状況なのか────少年を挟んで向かい側には、地球連合軍の士官が動かしている新型モビルスーツ。白兵戦をやるにしても近い距離だ。
 一旦離れて距離を取りたくても、迂闊にスラスターを吹かせば熱風で親友を焼き殺しかねない。ゆっくり一歩一歩後退るしかなかった。
 だがそれを敵の新型は許すか? 一瞬の逡巡、それは彼にとって致命的なものとなる。

 対峙していた新型はこちらの都合など意に介さず、いきなり盛大にスラスターを吹かして後ろに飛び退いた。足元の民間人など意に介していないのか、見えていないのか……

「──あいつ!!」
 頭に血が上りかけた。民間人を無視した。だからナチュラルは……新型モビルスーツを動かした地球連合軍の士官に強烈な殺意が湧いた。
 その民間人が自分の親友でなければ、きっと彼もまた民間人など構わなかった筈だ。だがあそこにいるのは親友だ、許せない。彼もまた短絡な所があった。
 慌てて親友の様子を窺うが、なんとか無事だったようだ。胸を撫で下ろしたかったが、それどころではないと思い至る。なぜ、距離を開けた? パイロットとしての勘は、敵は逃げ腰だと告げている。自分が離脱しようとするなら、まずは牽制射撃で距離を──牽制射撃!!

 この新型には75mm対空バルカンが二門搭載されている。敵の機体にも同じ物が積んである可能性は極めて高い。そしてあの新型は携帯武器を持っていないようだ──コクピットにアラートが響く。ロックオンされた。警戒システムが敵機の頭部を拡大して使用武器を予測する。

 敵機:GAT-X 105
 予測使用武器:【イーゲルシュテルン:75mm対空自動バルカン砲塔システム】
 …………対策1、フェイズシフト装甲展開。推奨。
 …………対策2、回避行動。

 回避行動は──取れない。今度こそスラスターの熱風が親友を焼き殺さないとは限らない。なら──フェイズシフトを起動させ、一歩前に出てあいつの盾になる!
 アスラン・ザラはフェイズシフト装甲の起動スイッチを叩いた。すぐさま機体全体の装甲に通電し、ディアクティブモードの装甲が相転移して有彩色に変化する。同時に機体を一歩前進させようとした。
 親友を映し続けていたモニターに、それは映った。


 熱風が吹き抜けた。モビルスーツが一体、跳躍して少し離れてくれた。
「くっ…熱……」
 スラスター噴射を直接浴びたら即死だった筈だ。大型トレーラーを盾にしただけでやり過ごせたのはきっと僥倖、次はきっと無いだろう。少年はこの瞬間をチャンスと捉えた。ここから少しでも離れなければ! 立ち上がり、走りだそうとして、爆音に耳を劈かれた。
 ドンッ! 垂直に跳ね上がった噴水の様に、土煙が派手に吹き上がった。
 ドンッ!ドンッ!立て続けに土煙が盛大に跳ね上がる。
 モビルスーツに搭載されているバルカン砲だと思った。世界がまるでスローモーションになったように感じる。だが身体は動かない、動けない。感覚だけが加速している。
 後退したメタリックグレーのモビルスーツが射撃したバルカン砲は、モビルスーツの武器としては砲の口径も威力も小さい。だが人間にとっては紛れもなく大砲である。掠りでもすればひとたまりも無く即死だ。その射線上に、自分がいた。二門の75mmバルカンが二列の砲火を放っている。背後にいるモビルスーツに向けて。その間に、自分は、いる。

 音速でばら撒かれた大口径の砲弾を躱すなど不可能、左右どちらも射線で退路は、ない。

 あ、詰んだ──

 刹那の中で、少年は他人事の様に死を覚悟した。
 死にたくなかった。こんなところで無意味に死んでしまう理不尽さに腹が立つ。だが、どうしようもない。なぜか達観していた。

 僕はもうどうにもならない。ならせめて「皆は助かって欲しいな──」誰にも聞こえない筈の小さな呟き。それが末期の言葉になる筈だった。



 少年の〝願い事〟は届いてしまった。



『その言葉が聞きたかった!』

 どこかでラマに似た化生の大迷惑が歓喜の声を上げ、それを苦々しく見ている魔女と、口の周りを脂塗れにしてフライドチキンを貪る魔女がいたが、当然それを知覚できる者はいない。



 目の前で砂煙が上がり、その時が訪れるのだと思った。怖くないと言えば嘘になる。だから少年は〝死〟から目を逸らすように眼を閉じた。
 瞬間、意識が途切れる。


 少年の姿は消え去っていた。




 バルカン砲が撒き散らした土煙が晴れた時、彼の姿も、痕跡も、何も無くなっていた。
 アスラン・ザラは狭いコクピットの中で絶叫した。
 例え一方通行の想いであったとしても、少年を親友だと思っているアスラン・ザラの慟哭がヘリオポリスに轟き、彼の中で何かが弾けた。
 瞳から光が消え、世界が止まっているかの様に全てを遅く感じながら、機体に自身の怒りを重ねた。

「お前はッ、お前だけは────ッッ!!」

 ぎこちない動作で後退しようとする敵モビルスーツに、彼の怒りが乗り移った真紅のモビルスーツは光剣を抜刀し、一瞬で距離を詰める。
 再び親友を殺したバルカン砲が火を噴いた。だが物理的な衝撃を無効化させるフェイズシフト装甲に包まれた真紅の機体はまるで意に介さず、光剣を突き立て一撃でコクピットを焼き抜いた。
 乗っていた地球連合軍の女性士官は、超高温に曝され一瞬にして肉体が沸騰して膨れ上がり、跡形もなく散華した。

 復讐を果たした彼に、同僚からドッグ内に係留された出港準備中の新造艦を発見したと通信が入る。たまたま脱出ルートを変えたら出くわしたらしい。
「すぐに向かう」
 アスラン・ザラの涙に溢れた目は、未だ光が戻らずどこまでも獰猛だった。
 修羅と化した彼は鹵獲したモビルスーツを僚機に任せ、ヘリオポリスの空を駆けた。
 途中、エンデュミオンの鷹と呼ばれた地球連合軍のエースパイロットに邪魔をされそうになったが、今の彼の敵ではなかった。鎧袖一触、パイロットごと機体を両断して、新造艦を目指した。

 ドッグ内では地球連合軍の新型モビルスーツを強奪した僚友達が攻撃を仕掛けていた。
 アスラン・ザラに彼等と連携をする気など端からなかった。自分の手で皆殺しにしなければ気が済まない。
 機体をモビルアーマー形態に変形させ、対空砲火をものともせず突進した。戦艦の外殻を強引に突き破り、艦橋(ブリッジ)に機体をめり込ませる。
 新造艦の指揮官らしき黒髪の女性士官の驚愕した顔がモニターに映った。
「お前たちのせいで、キラは!!」叫びと共にトリガーを引く。
 大口径のビーム兵器が艦橋(ブリッジ)にいたクルーを全て焼き払い、艦体を縦に貫いた光弾は新造艦のメインエンジンまで達していた。

 バラバラのピースが一つに纏まった時、不沈艦として名を馳せる宿命を持っていた大天使は、結局一度も飛翔する事なくドッグで爆散した。


 少年の願いは、叶えられた(・・・・・)


 彼がこの世界から消える事でアスラン・ザラを突き動かし、崩壊する筈だったコロニーはその運命から逃れ、少年の守りたかった人々は結果として救われた。




















「……ここは?」

 見知らぬ馬車の上で、キラ・ヤマトは目を覚ました。
 御者席に乗っていたガラの悪い修道女(シスター)がニヤリと笑った。

「やっと起きたか、新兵(ルーキー)。ようこそ、剣と魔法の世界(エセルナート)へ!」

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ボルタック商店の提督とLv.1八幡

 ボルタック商店──その店は一言で言ってしまえばコンビニである。その汎用性から寧ろドンキか?

 二十四時間営業、値が付きさえすれば何でも買い取るし、何でも取り扱う。店先に乱雑に積まれた用途不明なガラクタ同様のモノから、奥のガラスケースに飾られた希少品(レア アイテム)まで、取り揃えた商品の価値は正にピンからキリまで。
 扱う商品の種類も、何の肉で作ったのかよく判らない干し肉から、武器防具、魔法の薬に魔法の関連書物、果ては下着や女性用の生理用品まで扱う無節操ぶりだ。まぁ便利と言えば間違い無く便利である。探せば大抵の物はここで事足りるに違いない。仮に無ければきっとこの店の主人は自前で作ってでも(・・・・・)売りつけるのだろう。

 実際、店番をしていた優男は、俺がダガーを品定めしている間に、注文通りの品を用意して見せた。
「…どうかな? これならちゃんと、どのダガーからでも出し入れできるし、音もしないと思うんだ」
「……完璧(パーフェクト)だ」
 とてもやっつけの仕事には見えないのに、作り始めてからまだ十分と経ってねぇだろ。技だ。それも絶技って言うの?
 この優男、見ためは戸塚級天使のくせに、中身は名工(マイスター)だ。天は二物を与えずなんて格言は、格差社会を知らない世間知らずの先人が残した妄言だと言ういい証拠だな。世界は不公平で満ち溢れてるじゃねぇか。

 俺が投適用ダガーの鞘に付けた注文は三点。

 一、音が出ない。
 二、刃渡り20cm最大幅が8cmほどある投擲用ダガーを五本携帯できて且つ、抜き差しが容易い。
 三、軽快な運動の邪魔にならない。

 完璧だった。これなら邪魔にならないし、携帯もしやすい。
 薄い板のような革製の鞘が五枚、絶妙な角度で扇状に重なっていて、腰に下げても邪魔にならなかった。寧ろ小太刀の方が邪魔臭い。五本のダガーを差し込むと流石に重さはあったが、これなら許容範囲だ。

「良かった! サイズもピッタリに合わせられるように、ここで調整できるんだ。今は五本分だけど増やそうと思えば幾らでも増設できるし、逆にここを……こうすれば、一つ一つ取り外す事もできるよ。数を減らせば足とか腕にも巻き付けられるように紐の通し穴も開けておいたから。素材も凶眼トカゲ(ゲイズ・ハウンド)の革を使ったから頑丈だよ。この凶眼トカゲ(ゲイズ・ハウンド)の革はね────、────」
 饒舌、と云うか……何か変なスイッチが入ってしまったようだ。いや、寧ろ地雷か。やべぇ。こいつが語り始めると止まらない事は、先刻承知(・・・・)していたのだが……
 機能性の説明の(くだり)はちゃんと聞いていたし解りやすかった。いつの間にか素材について熱く語り始め、今は何やら難しい化学式を諳んじて錬金術(アルケミスト)呪文(スペル)の科学的な考察やら、エセルナートにおける材料工学の今後の展望についての彼なりの考察など、最早いったい何を語っているのか訳が解らない。俺の表情筋はさぞ愉快な形に引き攣っている筈だ。
 だがそんな俺の事などまるで意に介さず──と言うか、よほど暇だったのか、人との会話に飢えていたのか、自分の世界を開示するのに夢中で周囲がまるで見えていないようだった。
 なんとも危なっかしいやつである。俺じゃなかったら、勉強はできるけどウザいヤツか痛いヤツ認定、或いは自分語りばかりして人の話を聞かない空気の読めない男認定されるかして、周囲からドン引きされた挙げ句ハブにされて「誰も俺の事を解ってくれない」とか「どうせ、俺はダメな奴なんだ」等といじけて引き籠って……それ、俺じゃん。ああ……こいつ、ずっと昔の俺だよ。ぼっちになり始めて訳が解んなくて空回ってた頃の、俺だよ。
 それでこんなにも、こいつを見ていて胸が痛いのか────

 少しくらい優しくしてやってもいい。話を聞いてやるくらい構わんさ。それにこいつは提督(同志)だからな。



 話は少し遡る────

「……から、左手の三軒目…と。ここか」
 酒場でボルタック商店の事を尋ねると、黒いのが道を教えてくれた。サイファー通りを真っ直ぐ。その通り沿いにある時点で教えるも何もないのだが、彼女は親切丁寧に教えてくれた。助かった、と云う事にしておこう。迷わず目的の店を見つける事ができた訳だし。
 あの一件から店を出るまで、なぜか黒いのがやけに絡んで来るようになっていた。霧雨魔理沙と名乗った彼女も異邦人らしい。ついでにコーヒーを淹れてくれたアルファさんも。この街は異邦人だらけだ。全部、あのラマのせいなのか? どんだけ迷惑な奴なんだよ。

 店の外観は普通。そこらの店とあまり変わらない気がした。少し周りより大きいか。看板にはボルタック商店ビスクファルス支店とあった。チェーン店なんだな。つーか、ここの文字が普通に読めている不思議。会話もできた。日本語や英語が時々入り混じっても通じている。おまけに向かいの店の看板は漢字だ。もう言語形態とか考えるだけ無駄なんだろうな。そう云うモノに関しては、いい加減な世界なのだ、このエセルナートは。まぁだいたいそんな気はしてたけど。

 冒険者ご用達の店として違和感を禁じ得ない花柄のステンドグラスの玄関ドアを開けて中に入ると、そこはちょっとしたおもちゃ売り場だった。当然、子供用ではない。いい年をした〝大人〟が好きそうな物が其処ら中に並んでいる。
 西洋風の金属鎧、丸やら四角やらホームベース型やらの盾に篭手(ガントレット)、様々なデザインの兜と云った防具に、剣や斧、槍にメイス、弓や弩……全部、本物だ。すげぇ。材木座とか狂喜しそうだな。俺ですらワクワクしてくる。金属や革の匂い、それに何かの薬品だろうか、店内は独特な匂いが充満していた。
 店の奥の棚には色取りどりの小瓶が陳列していた。ゲームでお世話になるポーションの類いだろう。この世界でもお世話になるんだろうか。
 ポーションの陳列棚の横には、古着屋で見かける様なシャツや上着が雑然とかけてあるハンガーラックがあったり、在庫処分のセールらしきワゴンには女性用の下着が山盛り積み上がっていたりと、商品のバラエティはかなり豊富なようだ。他にも何に使うのかよく解らない小物やら……細かく物色すれば一日居座っても退屈しないのではないか? 店員は迷惑がるだろうけど。
 偶々なのか時間帯なのか、店内に他の客はいなかった。最高のタイミングじゃねぇか。

 奥のカウンターには俺と同い年くらいの優男が座っていた。
 イケメンである。否、美少年って云うの? 戸塚と方向性は似ているがタイプが違う感じだな。例えるなら同じ航空巡洋艦でも最上と鈴谷みたいな……いや、どっちも最上型か。つまりどちらも天使? いやいやいや。戸塚は天使だが、こいつは初対面だ。見てくれが良いだけの劣化葉山の可能性もある。寧ろその方が自然だろう。天使がそうそう居て堪るか。
 〝E−Alc〟……悪の錬金術師(アルケミスト)ね。俺も錬金術師(アルケミスト)系の魔法なら修得できるんだよな。魔法か……ちょっとワクワクする。真剣に魔法の勉強してみたいかもしれない。

「……い、いらっしゃい…ませ?」

 やべぇ警戒されてね? て……ああ、腐った目が原因ですね、忘れてました。寧ろこっちが自然な反応だろ。酒場じゃアルファさんも、マスターもスルーだったからな。黒いのは最後まで枕詞みたいに〝変な目〟呼ばわりだったが。あいつめ絶対わざとだ。なんでわざわざ〝変な目の八幡〟なんだよ、本名より長くなってるじゃねぇか。つーか、いきなり気安く名前呼びって、勘違いしかねないから止めた方が良い。まぁ訓練されたぼっちである俺はその程度の事では動じたりしないけどな。

「…あー、すみません。飛び道具探してるんですが……」
 まぁ商売だから警戒されても商品は売ってくれるだろう。
「…飛び道具……弓とかクロスボウ……じゃなくて?」
「そう云うのじゃなくて、手裏剣とか無いですか?」
「えええっ!? 手裏剣?」
 え? そんなびっくりするようなもんなの? 忍者普通にいるし、手裏剣も普通あるんじゃねぇの──て、ああ…専門店な。一般的ではない特殊な物って専門店でしか扱わんよな。特殊そうだもんなぁ忍者って。
「…えっと…手裏剣は、置いて無い…かな。流石に」
「そうですか。何処に行けば手に入るか分かります?」
「何処って……あんな高額商品、城塞都市ならボルタック商店(ウチ)くらいしか取り扱えないと思うけど……オークションに出たって話も聞かないし」
 あれあれあれー? なんか変じゃね? オークションに並ぶのか? 手裏剣が? あれって使い捨ての消耗品じゃねぇの? なんだこの違和感。何かおかしい。
「……えっと、手裏剣、ですよ?」
「……ええ、手裏剣、ですよね?」
 なんだろうな、この会話……何かが決定的に噛み合っていないのは解る。俺か? やはり俺のコミュ力が足りないからか?
「…手裏剣って、値段、高いんですか?」
「そうですね、ボルタック商店(ウチ)の系列は買い取り価格が一応25万ゴールドになってます。実際に市場に出る時は間違い無くオークションになると思うのでもっと高くなる……と思います」
 なん……だと?
「……一応、確認なんだけど……城塞都市(ここ)じゃ、手裏剣って希少価値が高い?」
城塞都市(ここ)だけじゃなくて世界(エセルナート)全体でたぶん最高クラスですよ。伝説級の(レジェンダリー)武器(ウェポン)なので」
「あー、なんか盛大な勘違い……いや、知らなかっただけだから、勉強不足? 認識不足? が、あったみたいです……なんか、すみません」
 手裏剣が伝説の武器だった……この世界やっぱり何か間違ってる。
「あ、いえ……手裏剣は無いけど、他の物はどうですか? 投擲用のナイフやダガーもありますよ、こんなのとかはどうでしょうか?」
「あ、それ、見せて貰えますか」
 結構、軽い。扱いやすいかもしれない。が、片刃なので上手く当てないと刺さらないような……そこは練習か。寧ろ両刃のダガーの方が投げやすそうだな。
「ダガーのサイズ、これが最大?」
「投擲用はそれが一番大きいですね。普通のだと……こっちのこれが一番大きいけど、投げるのには向かないんじゃないかな」
 確かに刃渡りも厚みも十分そうだが、ゴテゴテとした飾りやらがグリップや鍔に付いていて実用的では無かった。
「もう少しシンプルで重さがある両刃のダガーが欲しいんですけどね」
「うーん、なら……これを……こうすれば。どうですか?」
 優男はパパッとグリップと鍔を取り外して、ダガーを刀身(ブレード)中子(タング)だけの状態にした。確かにシンプルだな。シンプル過ぎてちょっと持ち難そうだが……
「…悪くないな。重さもいい感じだ……投げてみたいんですが……無理っスかね?」
「アレにどうぞ」
 と、優男が指差したのは、少し離れた壁に掛けてある変な人形。巨大藁人形が革鎧を着ていた。なるほど、実験人形(ダミーオスカー)か。
「……売り物? いいんですか?」
「ええ、構いません。ただし、他の商品に当てたらそっちは弁償ですよ」
 ……解りやすいトラップだな。あの周りの物ってどうせお高いんでしょう?
 タングを持って感触を確かめる。重さ、バランス……持ち方はこんな感じがいいか。距離は……と。どう投擲す(投げ)れば、どう飛ぶか、どう撃ち抜くかイメージする。いけそうだな。俺はイメージに自分を重ねるようにしてダガーを投擲した。今日、訓練で得たスキルの復習みたいなものだった。
 スコンッ!
 壁に突き立つ乾いた音が店内に響く。思いの外、貫通力があったようだ。人形の首を殆ど貫通して壁面の木材に突き刺さっている。良い手応えだった。だが、多分俺の投げ方は一般的なスローイングダガーのそれとは違うように思う。まぁ所謂、忍者の投擲術ってやつだ。
「……いいな、これ」
「──すごい」
 やはりグリップがないと引き抜くのがちょっとアレだ。力が入り難いからコツが要るな。回収したダガーをカウンターに置いて本題に入る。
「これと同じの何本ありますか?」
「あ、はい。これの在庫は……あと四本あります」
「一本いくらですか?」
「はい、5ゴールドです。でもグリップも鍔も外すから4ゴールドと半分でいいですよ」
 4.5ゴールドか……吹っ掛けてみるか。なんか……いける気がする。
「全部買うから20ゴールドになりませんか?」
「いいですよ」
 え? そんなあっさり? もしかして、もっと値切れたのか?
「このダガー、五本全部持ち歩いても邪魔にならない鞘を付けて25ゴールドでどうですか?」
 ああ、なるほど。確かに五本全部いつでも投げられるように携帯するなら、それなりに持ち運ぶ工夫をする必要がある。考えてなかったわ。上手いな、流石は店員さんだぜ。結局、定価かよ。いや、これ結構お得なサービスじゃね?
「それでお願いします」
「はい! ありがとうございます。他には何かご入り用ですか?」
「ああ、そうだな──シャンプーとか髪を洗う洗剤ってあります? あと歯ブラシと歯磨き粉」
「全部ありますよ。シャンプーって云うか洗髪剤みたいなのですけどね。安いのから高いのまで。安いのはあんまり効果無いみたいです。お薦めは……これと、これ。どちらも1ゴールドです」
 これもポーションのようなガラスの小瓶だ。詰め替え用とかはなさそうだ。
「違いは?」
「こっちのピンク色が薔薇の香り。無色がバニラです」
「定期的に購入できますか? 品切れとかは?」
「これは城塞都市で作ってる既製品なので入荷待ちとかはないです。これなら余所でも売ってますよ。で、これが売れ筋の歯ブラシと歯磨き粉です」
 なるほど、ここでも買えるが余所にもある、と。てか、歯磨き粉、ほんとに粉なんだな。歯ブラシに至ってはありふれたデザインの歯ブラシだ。だが柄は木製だ。ブラシは何で作っているのか見当もつかん。だが必要だ。この際、なんであろうと構わない。
「歯ブラシと歯磨き粉をセットで。洗髪剤は今はいいです」
「この革の入れ物付きで3ゴールドです」
 案外、高い……だが無いと落ち着かないしな。
「じゃあそれで」

「キラ、商業ギルドの会合に行って来ます。店番はお願いします」

「あ、はい。行ってらっしゃい」
 奥から若い女性が出て来た。青いドレスの──

「──加賀…だと?」

 思わず口にしてしまった俺は悪くない。全ての"提督"は俺と同じ反応をするに違いないから。
「……貴方()ですか」
 耳聡く聞きつけた青いドレスにサイドテールの加賀(仮名)さんは露骨に溜息をついた。
「私の名前はフレイディアです。変な名前で呼ばないで下さい。ぶち殺しますよ、異邦人(アウトサイダー)
「す、すみません。つい……」
「君は悪くないよ! どう見てもフレイディアは僕の加賀さんじゃないか! 君は間違ってなんかいないよ!」
 こいつ今しれっと所有権主張しやがった。つーか、こいつも艦これユーザーなのね。しかも加賀さんラブ提督か。いいよな、加賀さん。同じ一航戦でも赤城さんより好みだ。だが飛龍には劣るがな。それと榛名にも。あ、なんか急に親近感が湧いてきたな……これが提督同士の絆なのか──
「……ああ、どこからどう見ても加賀さんだな。俺は間違っていない」
「だよね! 」
 俺と優男はカウンターを挟んでガッチリ固い握手を交わした。加賀さんはそんな俺らを横目に「勝手にやってなさい」と、さっさと店から出て行ってしまった。やはり加賀さんはクールに去るぜ。あと加賀さん、司教(ビショップ)なんだな。弓道部のイメージとかけ離れてるが、やはりアレは加賀さん以外の何者でもないだろう。再現率パネぇ。

「僕はキラ・ヤマト、これでも第三ラバウル基地でトップ十傑の提督だったんだよ。よろしくね! 君は?」

 そう名乗った優男提督はやけに眩しい笑顔を俺に向けた。なるほど、艦これが存在しない遠い異世界で同じ境遇の"提督"に出会う……きっとこいつも俺と同じ不思議なシンパシーを感じているのかもしれん。
 キラ・ヤマト──日本人らしからぬ擲果満車を彷彿とさせる美形面だ。ダークブラウンの髪をシャギーカットにして、少しラフな感じに前髪を流していた。
 もう少し後ろ髪を伸ばせば、男か女か区別がつかなくなりそうだ。優し気な眼差しの紫の瞳はどこか神秘的だが、その人柄が出ているのか柔らかで温和な雰囲気を漂わせていた。
 方向性、或いは芸風の違う戸塚、正にそんな感じだ。

「…比企谷八幡だ。俺もラバウルだが……第三? 第二とかもあんの? サーバーが分裂でもしたのか?」
「君……ひょっとして、旧世紀の第一紀公式運営時代の提督!? 何年から来たの!?」
 待て……ちょっと待って……旧世紀? 第一紀?公式運営時代? は?
「……2013年だが」
「すごいっ!!!第一紀元年! それもラバウル提督だなんて!!」
「あー、意味が解らんのだが」
「あ、ごめんなさい。ちょっと興奮しちゃった……簡単に説明するとね、旧暦……えっと、西暦だね、西暦2013年四月二十三日から公式運営が終了するまでの期間を第一紀って呼んでるんだ、僕達の時代では。C.E.62に艦これ史が編纂された時からだけど。君がいた時代──第一紀公式運営時代は最も平和な時代、最も優れた運営者と開発者に恵まれた黄金期って呼ばれているんだ。その頃の提督達はちょっとした伝説になってるよ。僅かだけど復元データが残っていたから。それから長い空白期が続いて、西暦末に第三次世界大戦が始まる数年前ぐらいに有志提督達によってアングラで復活したのが第二紀の始まり。暦がコズミック・イラに変わった年に、有志運営がゲームに新しい機能やイベントを追加しようとする改革派と、オリジナルを堅持する事に拘る保守派に分かれて派閥抗争が勃発して、内部崩壊するまでを第二紀。この頃は時代も、運営も酷い時代だったみたいだね。この第二紀から第三紀が始まるまでの期間は〝艦これ暗黒時代〟って呼ばれているよ。なにしろ中央アジアで核兵器を使用した『最後の核』事件は保守派の盟主だったゴードン・モリス提督を謀殺する為に改革派が起こした事件って言われてるしね。東アジア共和国とユーラシア連邦に占領されて日本って国が解体される原因を作ったのが、この派閥抗争が切っ掛けだったみたいだし。横須賀陥落のどさくさで艦これメインサーバーとオリジナルデータが保存された〝那由多(スーパーコンピュータ)〟の所在が長い間行方不明になってたんだけど、C.E.57にウズミ・ナラ・アスハが小笠原諸島沖の海底に沈んでいたヒリュウ型潜水艦からサルベージしたのが第三紀の始まり。彼が代表首長に選ばれたのもこの功績が大きかったそうだよ。その年からオーブ連合首長国(United Emirates of Orb)を中心に艦隊これくしょん(C.E.)の再開事業が始まるんだ。国の内外から有志が集まって翌年にはプレオープンするんだけど本格的に有志提督同盟による運営が始まるのは更に三年の準備期間が必要だったんだ。アスハ家がオーブでも有力な地位にあるのは〝那由多〟を所有しているからって説が有力だよ──、──」

 …………は!? なんか魂が抜けてた……途中から何も聞いてなかった。暗黒時代がどうのこうのとか辺りで意識が逝ってたわ。て、こいつまだ喋り続けているし。壊れたスピーカーかよ。簡単に説明するって話は何だったのか……つーか内容が意味不明過ぎてほぼ毒電波じゃねぇか……いかん、油断した。こいつ痛い奴だった。地雷踏み抜いてるわ、これ。

「お、おい……」
「──で、それが……あ」
 気が付いたようだ。なんとなく気まずい沈黙。会話が不意に途切れる事を天使が通り抜けたと言うらしいが、これは違うな。堕天使が通り抜けた? いや天使が墜落……自爆した、が適当かもしれん。
 水を得た魚と云うか、あれだけ饒舌に淀みなく、息をする間もないほど活き活きと語っていたキラだったが、我に返ると口をあわあわと震わせ、一瞬で首まで紅潮させて真っ赤になった。
「ご、ごごごめんなさい! つい……」
「あ、いや……まぁなんとなく言わんとする事は、イマイチよく解らんが──解った。お前、俺から見たら未来人なんだな」
「う、うん。そう、なるね……あの、ごめんね?」
「あー、気にしてないから。まぁ面白かったし」
 主に、何かが弾けた感じのトランス状態で、延々毒電波を淀みない活舌で正確に語り続けるこいつの痛い姿についてだが。こいつ、間違い無くスペックを無駄遣いしている。
 そんな俺の内心など、これっぽっちも察しないキラ・ヤマトは額面通り受け取ったのか忽ち顔をほころばた。
「ありがとう……僕、誰かと艦これの話とかしたことなかったから……その、はしゃいじゃって……それに城塞都市(ここ)で提督に会えたの初めてだったから……つい嬉しくって」
「……まぁアレだ。艦これの話なら(・・)別に俺も厭じゃないから。話くらい聞いてやるし。同じラバウルの誼で。て、言っても始めて三か月くらいであんまり進んでねぇから大した知識もねぇし、つまんねぇと思うけどな」
 寧ろ、さっきの実験人形(ダミーオスカー)に話しかけるのと、たいして変わらないまである。
 それに最近あまりログインできなかったしな。何のせいとも、誰のせいとも言うつもりはねぇけど、おかげで秋イベントほとんど参加できなかった。くそっ、武蔵はちょっと本気で狙ってたんだが……
「そんなことないよ、艦これを解ってくれる、僕の話を聞いてくれるだけで嬉しいな。今まで……誰もいなかったから」
 こいつもぼっちだったのか。とてもそうは見えんけどな。つーか、普通に加賀さんと話してたし。まぁぼっちになってしまいそうな(・・・・・・・・・)理由は解らんでもないが。
「……取り敢えず、買い物続けたいんだが……いいか?」
「あ、うん! 他に何が必要なの?」
「Dパックみたいなリュックだな。背負って邪魔にならないサイズで、なるべく音が出ないのが欲しい。それと──」
 心なしか打ち解けた気がするのは、きっと気のせいに違いない。艦これやってた程度で解り合えるほど人間は単純じゃない筈だ。だが──こいつとの会話は、それほど悪いものではないのも、また事実だった。


「──じゃあ、全部で75ゴールドだね」
「…おう」
 一通り必要な物を買い揃えたら所持金はほとんど無くなっていた。ぶっちゃけ、明日の朝マッカンカッコカリ飲んだらほぼ無一文だ。
 これで、どうでも明日はダンジョンに行って金を稼がなければならなくなった訳だ。最低60ゴールドが目標だな。
 買った小物とずた袋を詰めたリュックを背負い、出来上がったばかりの鞘を腰に括り付けた。ダガーを一本一本片手で収納して感触を確かめる。悪くない。最後に外套(クローク)を纏ってフードを被る。少し身体を動かしてみるが、それほど違和感はなかった。靴も服もそのままだが構わないだろう。スニーカーはホームセンターで買った鋼板入りのやつだし。
「どうかな、どこか気になる所とかある?」
「…いや、問題無い。あー、その……助かった。良い買い物できたわ」
「どういたしまして! 八幡は、明日…ダンジョンに行くの?」
「そのつもりだ。つーか、金が無くなったからな。嫌でも行かねぇと飯も食えねぇし」
 て言うか、名前呼びですか。いや、構わないとは言ったけどな? 早速過ぎて、心の準備とかそういった配慮をして欲しかったと言うか……こいつ、距離感の詰め方が容赦ねぇ。全く……俺じゃなかったら友達かと勘違いしてしまう所だ──初対面だってのに。
「気を付けてね? その……また、話とかしたいし」
「お、おう……じゃ、俺はこれで」
「うん。ありがとうございました! また来てね、絶対だよ!」
「…おう」
 キラに見送られて店を出た。明日、死ななければまたすぐ訪れる事になるだろう。その時またあいつの長い話を聞かされるのかもしれないが、それはそれで悪くないと思ってしまう俺がいた。


 冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)のフロントで俺を出迎えてくれたのは、雪ノ下ボイスの管理人さんではなく猫人族(フェルパー)のメイドさんだった。
 ほんと直立した猫だ。おまけにクラスまでメイドである。まだこのテの亜人に慣れていないからかちょっと怖い。
 彼女から預けていた部屋の鍵を受け取り、まっすぐ部屋に向かった。
 途中、二階のバーラウンジには管理人さんがいた。俺に気付くとにこやかに笑って手招きをする。なんだろう、嫌な予感しかしない。
 よし──無視だな。
 さっさと通り過ぎようとしたら後ろから襟首を掴まれ引き止められた。「ぐえっ」なんて声を迂闊に上げたもんだから比企ガエル君とか呼ばれそうな気がしたが、杞憂に終わった。寧ろもっと酷い。この人も普通に名前呼びだもん。何なの? 城塞都市(ここ)の人達、ちょっと気安くね? つーか、雪ノ下の声で名前呼びはちょっとマジで心臓に悪いと言うか、違和感しか無いんだが。
「八幡、いい度胸ね。気付かなかった、見えなかったなんて言わせないわよ?」
「あー、面倒臭そうなんで敢えて無視しました」
「……本気で傷付いたわ。お詫びに一杯飲んで行きなさい。それで許してあげる」
「無理。金が無い。マジで。じゃ、そう言う事で「待ちなさい」ぐぇっ」
「部屋に戻るなら、景気付けに一杯飲んでからにした方がいいわよ?」
「……なんでだよ。つーか俺、酒飲めねぇし」
「……そう、それは残念ね。一応、心配りはしたつもり(・・・・・・・・・)だから文句は聞かないわよ?」
 つまり、何かある訳だ。そしてそれは借りた部屋の事でしかなく、相部屋で納得している以上、大抵の事では文句を付ける気など無いのだが……

「……なるほど、こう言うことか」
 ノックをして鍵を開けて部屋に戻ると、管理人さんの言う〝景気付け〟の意味が解った。
 俺以外、残りの客は全員女だった。ドアを開けるなり、注目を集めるどころか一斉に全員の視線に曝された。正直回れ右して逃げ出したいところだが、今更どうにもならない、それ故の〝景気付け〟だったのかもしれない。つまり彼女は本当に気を使ってくれていた訳だ。なら最初から女性ばかりの部屋に放り込まないで貰いたいものだが、空いたベッドがここしかなかったのなら仕方ないか。
 それにどうせ《愚者の統制(IFF)》で管理されているのだから、男女を相部屋にしたところで、手を出すバカはいないのだから問題無いだろ?と言うスタンスなのだろう、あの管理人さんは。本当に雪ノ下とはかけ離れているな。声はそっくりのくせに。
 とは言え、女ばかりと思っていたであろう相部屋の者にしたら、例え管理人が決めた部屋割りであっても、俺が(・・)闖入する事は面白くない筈だ。
 ならどうするか?
 簡単な事だ。端っからコミュニケーションを取らない。無視してさっさと寝てしまうに限る。
 多少居心地が悪くても、寝てしまえば関係ない。この程度、慣れたものだ。それに相手はたった五人。教室には三十人はいた訳だから、それに比べれば俺に向けられる圧力(プレッシャー)もたった六分の一でしかない。訓練されたぼっちの俺にしてみれば、まるでぬるま湯に浸かるみたいなもんだ。寧ろこの程度なら、こっち見てんじゃねぇよと、川なんとかさんみたいに人を寄せ付けないオーラ全開で逆に圧倒できるまである。

 俺は無言で自分のベッドに外套(クローク)と上着を掛け、リュックとダガーはサイドテーブルに投げ出し、その横に小太刀を立て掛けた。何かの本で読んだな。旅先では靴はなるべく枕元に揃えて、いざと云う時に備える……だっけ。
 全身に無遠慮な視線を感じるが無視だ無視。どうせ《IFF》で識別してんだろ。すっトロいな、ドア開けた瞬間に確認しろよ。一瞥した限り、この部屋の人間は全員緑だった。はいはい、仲間仲間。
「──あ、あの」
 俺に話しかける奴なんていないので、これは誰か別の奴に話しかけている。これまで散々、この手の罠に引っ掛かって気恥しい思いを繰り返したからな。女の呼びかけに対して、迂闊に返事を返してはならないのは人類社会の鉄則と言っていい。
「あの! 忍者さん!」
 忍者なんて珍しくもないだろう。だから俺じゃない。今日だけで二人も会ったし。この部屋にもう一人いたとしても不思議では無いからな。
 しかし、一人は師匠で一人は軍のお偉いさん。それだけならやけに頼もしい響きだが、一人は中二病の豆腐メンタル、一人はガチホモのイイ男と言い換えたら急に悲しくなるよな。まぁ俺もそんな方々に仲間入りした訳だが。城塞都市の忍者にぼっちが一人加わりました……ダメだ、やはり城塞都市(ここ)の忍者は何か間違っている。
「ねぇ君、ちょっといいかい?」
 今度は隣のベッドのエルフ女だ。どっかで見たような…………ああ、馬車でチャラい茶髪を瞬殺したエルフだ。あいつ、ちゃんと立ち直ったんだろうか。
 …………それと一応、確認したが反対側には誰もいなかった。
「…………俺に言ってる?」
「……君しかいないのに、なぜそこで疑問形なのか──とか、なぜわざわざ後ろを確認したりするのか──とか、いろいろ問い質してみたいのだけど」
「もう! さっきからずっと呼んでるのに! 無視しないで下さい!」
 なぜか前と横から挟撃されている。解せぬ。あと前のベッドで激おこぷんぷん丸な小さいのは馬車で隣に座っていた女の子だな。ノームか?
「…すみません。他の奴に言ってると思ったので。あと疲れてるんで、相部屋に関しての苦情は管理人さんに言って下さい。全部あの人のせいです」
 八幡、何も悪くない。
「いや、そんな話じゃないよ。寝る前に少し僕達とお話でもどうかな?」
「そうです、ちゃんとお話し聞いて下さい」
 面倒臭いな。いや、絶対に面倒な話だ。少なくともこの二人、寝る前の軽い世間話をすような雰囲気ではない。それにあのエルフは迂闊に関わると危険だ。あのエルフの攻撃力は馬車で確認済みだからな。あと僕っ娘かよ。エルフの僕っ娘……アリだと思います。二次元なら。
「……あー、申し訳ないですが、訓練で疲れてるんで、明日にして貰えます? じゃ、おやすみなさい」
 完璧な返しだ。こう言って一方的に話を切り上げ、強引にシーツを被って横になってしまえば、こいつらは引き下がるしかあるまい。
 二人は盛大な溜息をついたが、どうやら諦めてくれたようだ。そして当然、明日になっても話を聞く気はないけどな。明日は朝から忙しいんだ。なにせダンジョン体験初日だから……最悪、明日死ぬのか。簡単に死ぬ気はねぇけど。
 明日はなにがなんでも60ゴールド稼ぐ。絶対にだ。そうすればこうして寝る前に誰かに話しかけられる事も無いからな。
 そういや、エルフに女騎士にオークが揃ってる件。定番の大三元が揃った訳だが、全然嬉しくないのはなんでだろう。あとオークはかなり弱いらしい。少なくとも騎士に叙任される程の女傑が、簡単に遅れを取るようなモンスターではないそうだ。やはりこの世界(エセルナート)には夢も希望もない。

 ──誰かが側に近付いた。しまった、警戒してなかった……

「……明日、ちゃんとお話しようね」

 不意に僕っ娘エルフが耳元で囁いた。悪戯っぽく。息がかかる距離で。彼女は「おやすみ」と、含み笑いを残して隣のベッドに戻って行った。
 心拍数が嫌でも跳ね上がる。ちょっとした悪戯と云うよりも、さっきの意趣返しに違いない。そして腹立たしい事に効果抜群だ。僕っ娘エルフめ、妙に艶っぽい声で囁きやがって! 歴戦のぼっちの俺がこれしきの事で勘違いなどはしないが、ちょっと意識してしまったじゃねぇか……くそっ、なるべく考えないようにしてたのに! 落ち着いて処理(・・)もできないのに!


 さっさと寝るつもりが隣のエルフを意識してなかなか寝付けなかったのは言うまでも無い。くそっ寝息も可愛いとか、これなんてエロゲだよ。あと誰だ、盛大にイビキかいてんのは。俺以外女ばかりの筈なのに、材木座が紛れ込んでるんじゃないかと本気で疑うレベルだぞ、これ。煩くて眠れねぇじゃねぇか──と、そう言う事にしておこう。
 偶々居合わせたエルフを意識して眠れないとか、そんなの俺じゃねぇからな。

 漠然と天井を見上げていると次第に闇に目が慣れ、次第に部屋の様子が視えるようになる。これも忍者の訓練の賜物だろうか。
 手を伸ばし、何もない空間を掴む。当然手応えは何も無く、ただ握り拳を作っただけだ。今はまだ何も見えていないし掴めない。でも必ず────

 既に退路は無い。頼れるモノは己のみ。俺は独り覚悟を決めた。



 こうして異世界(エセルナート)での長い一日目が終わった。

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TIPS.3 そして魔王は彼と出会う。

 ────とあるカケラ。

 奇跡の魔女は機嫌が悪かった。

 自分より下だと──それもかなり。寧ろ愛玩動物か叩いても壊れない頑丈な玩具程度に──思っているララ・ムームーの一言が原因だ。

『ボクはベルンと違うから、当たりが出ないからって、ガチャガチャの箱を開けて、気に入らないカプセルの中身を全部当りに変えてからハンドルを回すような真似はしないよ。そんなの楽しくないからね』

 845,623,477個目にして遂に思い描いた通りの、彼好みのカケラを見つけた時の事である。
 事実その通りなのだが、図星を突かれると腹が立つのは人も魔女も同じだ。

『……イラつくわ』

 その苛立ちを当のララ・ムームーに直接ぶつければ誰も理不尽な迷惑を被る事はないのだが、そうはしないのが彼女のやり方であり、悪い癖であり、魔女たる所以である。
 そして相手が最も嫌がりそうな事をして、どん底まで追い詰め、さらに尊厳まで犯し尽くさなければ溜飲が下がらない。やるからにはハラワタの全てをぶち撒いてやる、がモットーだ。
 尤も、なるべくなら自分の手は汚したくない。それは優雅ではないし、今回の様に〝知人〟に対しては迂闊に自分の仕業とバレるのは拙かった。玩具扱いとは言え、相手は自分の魔界を支配する〝魔王〟なのだ。それも宇宙一つを内包した〝カケラ〟を好き勝手に消滅させても罷り通れるほどの存在である。
 さすがの奇跡の魔女も本気で事を構えるつもりは無いし、怒らせる気もない。何だかんだ言ってもララ・ムームーは彼女にとって〝大切な玩具〟であり、得難い気の置けない相手なのだから。何よりあの柔らかな金毛は上等な毛布よりも抱き心地が良かった。
 故にこっそり嫌がらせをして、ガッカリする様を横でニヤニヤと見物するだけでいい。きっとスッキリする筈だ。
 流石にあのララ・ムームーが悲しむとは思えなかったが、彼のお気に入りが酷い目にあって、上手いこと消えてしまえば(・・・・・・・)きっとそれなりの反応はするだろう。

 泣くかもしれない──是非とも泣かしてやりたい!
 落ち込むかもしれない──心を圧し折ってやりたい!
 身も心もボロボロになればいい──そうなるべきだ!
 その時、優しく慰めればきっと効果的だろう。今よりもっと私に依存するに違いない。今よりもっと私に懐くに違いない。もうすでに半分くらいは私のモノと言ってしまっても過言ではないけれど、ダメ押しはどんな時でも必要だ。


 ……だが、彼女の思惑は見事に外れた。


 人選をあまり吟味していなかったとは云え、悪くないと思った人物だった。
 加えて、ララ・ムームーが考えなしに〝主人公(ヒーロー)〟の前に直接干渉して既に崩壊が末期に達しているカケラなので、証拠も痕跡も残らない。何より使い捨てにしても全く惜しくない。上手い人選だと思った。そして道化として、ちょっぴり期待してもいたのだが……


『…とんだ見掛け倒しもいいところだわ。何が魔王(・・)よ────死ねよゲロカス陽乃』


 堕ちた魔王を蔑む魔女の視線はどこまでも冷たかった。




 雪ノ下陽乃────奇跡の魔女が嫌がらせの為だけ(・・)に消滅寸前のカケラから回収した"駒"である。

 彼女の日常は不意に終わりを告げた。唯一の前兆のようなものは、妹と自分のお気に入りの少年が突然失踪した事であり、彼女に降りかかる悲劇は正にその彼が原因だった。

 サークルのコンパに顔を出した後、縁故を広げる程度のデートを少しばかり楽しんだ雪ノ下陽乃はそれなりに機嫌が良かった。
 機嫌が良いのは、利用しやすそうな人脈をまた新たに開拓できた事と、久し振りに妹の方から連絡があったからだ。少し疎遠な妹だが、たまにこうして頼られると嬉しくなる。
 強がってはみてもあの子はまだ子供なのだ。結局一人では何もできない。それに漸く気が付いたのだろうか。彼がいなくなって(・・・・・・・・)
 機嫌の良さが、それなりでしかないのはそれ(・・)が原因だった。彼女の心にチクリと引っかかったまま、なんら解決の兆しも進展もない比企谷八幡失踪事件のせいである。

「……やれやれ、君は一体何処に行っちゃったのかな~比企谷くん。雪乃ちゃんを泣かすなんて悪い子だな~。見つけたらきっつ~いお仕置きしないとね」

 電話先の妹は泣いていた。妹がショックを受けたのは解る。当然だ。随分気に入っていたようだから。その意味で彼女を泣かした彼の罪は重い。きっちり償ってもらう必要がある。だが幾ら探しても、見つからないどころか手がかり一つ出てこない。そもそも失踪する理由も全く不明だ。確かに最近妹と部活仲間の娘との関係が拗れてはいる様だったが、失踪までする理由にはなるまい。夜中、コンビニへ行くと言って外出してそれっきり。最後に言葉を交わした彼の妹は普段となんら変わらなかったと証言している。そしてその時間帯に、自宅付近のコンビニに立ち寄った形跡は無し。彼の姿を見たと言う目撃者もいなかった。

 一体、彼の身に何が起こったのか……彼の安否は気に掛かったが、だからと言って彼女の生活が変わるような重大な事でもなかった。
 普段通り、この日も彼女は忙しく立ち回っていた。明日もきっと変わらぬ日常が続くのだろう────このカケラの彼女でなければ。

 デートの相手はマンションまで派手な高級車で送ってくれると言ったが、それを丁寧に断り、駅前でタクシーを拾った。長距離だが構わず行き先に千葉の自宅を告げた。東京からだと時間も料金もそれなりに掛かるが、終電間際の電車に揺られたい気分ではなかった。

 結局、帰宅は午前様になってしまったが、明日──もう今日だが──の予定は特にない。あっても無視しても構わないくだらない案件ばかりだ。なので午前中は寝ていても問題ないし、妹に会いに行くのも午後からで構わないだろう。
 シャワーを浴びてから寝るか、このままベッドに倒れ込むか逡巡しながら彼女は寝室のドアを開けた。

『──ねぇ、貴方。面白い世界に行ってみない?』

 すでに異界の門は開いていた。

 きっとこれが映画やアニメの演出なら、タクシーが発車した辺りからチューブラー・ベルズや旧支配者のキャロルのような音楽が盛大に鳴り響いていたのだろう。

 奇跡の魔女は見ただけで(・・・・・)発狂されても困るので、フィルターをかけて彼女の前に現れた。ちょっとした配慮だが、ニンゲンの世界を渡り、ニンゲンと深く関わった奇跡の魔女や絶対の魔女だからこそできる芸当だ。この手加減(・・・)がヒトならざるララ・ムームーにはできない。故にカケラの中に顕現するだけで、その宇宙そのものに深刻なダメージを与えてしまう。この世界はすでに一度ララ・ムームーが顕現してしまっている。遠からず崩壊して虚無の底に消えて行くだろう。故に、時間が無い。急ぐ必要があった。もう一つ回収するモノがある。

「だ──誰っ!?」

 見知らぬ少女が忽然と目の前に現れた。
 上品なレースとフリルに飾られた青いドレスを纏った幼女とも少女とも、成人した淑女のようにも感じる不思議な姿をしていた。まるで造形美を徹底的に追求して"完成させた"人形のように、不自然なほど端麗だった。肌は雪のように白く、ストレートロングの蒼い髪、眼は赤く淀んで光が無かった。腐った目と自他共に認める彼の目よりも、よほど濁った目をしている。それは、危険な目だ。まるで底無しの深淵のように真っ暗で、何も映していない。
 雪ノ下陽乃を形成する全ての細胞が泡立ち、本能が全力で逃げろと告げている。彼女以外の誰もが迷わず逃げ出していただろう。逃げ切れないと解っていたとしても。それでも逃げ出したくなるのが本能だ。
 その本能に屈したくないと云う理由だけで、この場に踏み止まる事のできた雪ノ下陽乃の胆力はなかなかのものだった。

「……君、どっから入ったのかな? お姉さんちょ~っと気になるかな?」

 取り乱さないのも高評価だった。奇跡の魔女はコレ(・・)に決めた。何より、他を探すのが面倒だ。コレ(・・)でいい。所詮、水切りで上手く跳ねさえすればいい手頃なカタチの石を拾うだけの話なのだから。

『口を慎みなさい。下等なカラルの分際であまり私の機嫌を損ねない事ね』

「へぇ~言うじゃない。お姉さん、ちょっと感し『黙れ』」

 フィルターをほんの少しだけ緩める。それだけで彼女は息が詰まり、身体が押し潰されそうな圧力を感じて、とても立っていられなかった。床に倒れ込んだ彼女は、声にならない喘ぎ声で唸り、涎をだらだらと零した。

 彼女は生まれて初めて、本物の恐怖を知った。

 彼女の返事など最初から聞く気は無い。黙って働けばそれでいい。求める事はただ一つ。成果を、出せ。
 奇跡の魔女はララ・ムームーのように甘くない。ガチャガチャの中身にハズレは要らない(・・・・)のだ。

 魔女は雪ノ下陽乃の髪を乱暴に掴んで顔を持ち上げた。ついでに目障りな巨乳を踏みつける。

『聞きなさい、乳牛。これから貴方が虚無に打ち捨てられるその日まで、忠誠を誓い、奉仕する主人の名前をその足りない脳ミソとだらしない身体に刻みなさい。フ レ デ リ カ ・ ベ ル ン カ ス テ ル が貴方を使ってあげる。光栄に思いなさい。家畜には過ぎた幸運だと噎び泣きなさい、乳牛」

 奇跡の魔女はわざとゆっくり名乗る。
 フィルターも緩めたままだ。どうなるか解って、敢えてそう(・・)する。ペットの躾けは最初が肝心、絶対に逆らえない相手だと身体に刻む必要がある。痛くしないと憶えないし、すぐに忘れてしまうだろう。
 魔女の言葉が一言一言耳に入る度に、雪ノ下陽乃は頭の中が爆ぜる様な耐え難い頭痛に襲われた。正気を保っていられたのが不思議なほどの激痛だった。

 視界にチカチカと火花が散る。涙が溢れて止まらない。心臓の動悸は早鐘どころか太鼓を連打しているかの様だ。何より、頭の中が焼き切れそうなほど熱く痛い。

『さぁ、貴方の主の名前を言ってごらんなさい、乳牛』

 抵抗するだけの力は既に無い。非常識で圧倒的なまでの理不尽な暴力の前に、彼女の心は一瞬で制圧された。"奇跡"を具現する大魔女を相手に、只のニンゲンでしかない彼女にどうして抗えようか。

「…ベ…ベル…ン、カ…ステ…ル…さま」

『上等。気安く名前(・・)を口にしたら、もう少し教育しようかと思ったけど、それは必要なさそうね』

 雪ノ下陽乃の意識はそこで途切れた。彼女の寝室には、もう誰もいない。


 新たに手に入れた〝駒〟は、なかなか悪くなかった。俯瞰して見た限り、少々内側が弱いのが気になったが、外側に張り付けた強固な仮面がそうそう砕ける事はないだろう。それよりも他者を誘引して好き勝手に利用する魔性の〝仮面〟は面白い。
 頭の弱いカラルをコントロールする〝豚飼いの仮面〟ってとこかしら。奇跡の魔女は家畜同士お似合いだとゲラゲラ嗤った。

 だが役立たずの古戸ヱリカよりはマシな働きを期待できそうだ。ちゃんと上手く飛んで跳ねたらもう一度回収してもいい。

 彼女を推挙した魔法の茶釜はなかなか優秀だ。
 見所が良い。それに良い趣味をしている。ぶんぶく茶釜にそのうち成るのかと思って手元に置いているが、なかなかどうして使える家具だ。お湯を沸かすだけでなく、おしゃべりに付き合ってくれるのも良い。だが茶釜の癖にサブカルチャーに傾倒しているのはどうなのか。まぁ、それでも何処かの無限の魔女の家具どもに比べたら余程可愛げがある。

 後で撫で撫でして磨いてあげましょう。梅干し紅茶をいっぱいに入れて紅茶サーバーにして使ってあげてもいいわね。

 雪ノ下陽乃は知能も肉体的なスペックも十分過ぎるほど高い。それを効果的に扱う術もちゃんと心得ている。腹の内の黒く歪んだ欲望も実に自分好みだった。何より、標的が一番苦手としている人物であり、彼女を魔王と呼んで本気で忌避している。

『あっはははっ! ばッッッかじゃないの?」

 アレが魔王とは笑わせてくれる。
 奇跡の魔女はそう呼ばれた彼女と、そう呼んだ彼を嘲り笑う。そもそも彼は本物の魔王(・・)のせいでエセルナートにいるのだ。

 魔王に召喚された彼は、魔王の世界で、魔王と呼んだ女のせいで、きっとこっけいで惨めで笑える事態になるだろう。どちらも(・・・・)惨めな終わり方になって然るべきだ。彼女は私の意図を汲んで彼の人生をめちゃくちゃに引っ掻き回すだろう。ララ・ムームーのお気に入りが消滅(ロスト)してしまえば愉快痛快、きっと良い気分に違いない。

 ──そう思って、奇跡の魔女は雪ノ下陽乃をエセルナートに突き落とした。

 ララ・ムームーが選んだ者は何の説明が無くても上手くやっている。なら自分が選んだ者も、きっと同じ条件でも上手く行く。そうでなければならない。この(・・)私が選んだのだから。私の〝駒〟がはずれ(・・・)の筈がない。




 雪ノ下陽乃は最初こそ順調だった。

 見知らぬ馬車で目を覚ましても冷静に状況を分析し、信じ難い状況だったがそれでも、パニックに陥る事無く対処しようとした。
 訓練場で冒険者になるまで何も問題は無く、寧ろ順調過ぎて奇跡の魔女にしてみれば物足りない。
 彼女には戦乙女(ヴァルキリー)の適性があった。その時点で彼女が高いステータスの持ち主と判る。戦乙女(ヴァルキリー)は中位クラスであり、何の訓練も経験もない者が適性を持つ事は稀だった。

『ふん、ちゃんとやってるようね。でも思ったよりステータスが低い(・・)わ」

 パーティーのメンバーはすぐに揃った。ここでも自分のスペックをフルに生かして瞬く間に仲間の心を掴んだ。

 翌日、朝から意気揚々とダンジョンに潜った。
 ダンジョンを東方向へ回廊を少し進むと泡立つゼリーの様なバブリーズライムが床に広がっていて、天井からも落下してきた。
 初めてのモンスターとの戦闘だったが、落ち着いて対処することが出来たので、仲間の意気は上がった。陽乃も拍子抜けだった。
 だから「バブリースライムの粘膜を回収すれば小銭になる」と言って嬉々と瓶に詰め始めた盗賊に、苦笑すれど咎めることなどしなかった。それは、あまりに不用心だったのだが、そんな事さえ気が付かないほど、彼女も油断していた。

 地下一階南西部における新人冒険者の平均生存率は50%もない。それどころか五分以内に全滅する確率はそれよりも遥かに高いのだ。

 陣形が乱れたパーティーは格好の標的である。彼等、隠れ潜む伏兵(ブッシュワッカー)にしてみれば、例え奇襲ではなく強襲になったとしても同じだった。
 五人の襲撃者は一気呵成に襲い掛かって来たが、陽乃達は反応できなかった。呆れるほど簡単に行われた凄惨な殺戮劇は、まだダンジョンに入って五分経っていなかった。
 陽乃は一人(・・)逃げ延びた。

 なんとか生還した陽乃には仲間の死体の回収が突き付けられた。
 地下一階の、それもエントランスのバリケードからさほど離れていなかった事もあり、快く手伝ってくれる中堅格の冒険者がすぐに見つかった。地下一階の死体の回収だけは〝無条件で力を貸す〟が、経験を積んだ冒険者達の暗黙の取決めである。
 死体をカント寺院の死体安置所まで運んで貰ったものの、蘇生費用も死体の保存費用も有る筈が無かった。仕方なく仲間の装備を全て売り払い、共同墓地に全員埋葬した。悲しくは無かった。所詮、昨日今日出会った行き摺りの仲である。それよりも装備を売り払って得たゴールドの殆どが、埋葬費用で無くなってしまったのが痛かった。

 二度目のパーティーが組めたのは四日目だった。怪我の回復が遅れて欠員が出たパーティーの穴埋め要員だった。既に所持金が尽き始めていた陽乃は、なりふり構っていられなかった。

 最初の玄室はコボルドが三匹だけだったので難無く突破できた。初めての宝箱から得た宝物は、銀貨が一人三枚だった。これを得るまでに支払った対価と比較して、陽乃の気分は滅入るばかりだ。

 二つ目の玄室にはオークの群れがいた。数は十三匹、地下一階に出現するモンスターの最大数に近い群れだった。
 玄室に入るなり、前後左右から一斉に襲い掛かってきた。
 陽乃は最初の襲撃で頭を棍棒で強打され、昏倒した────



 肉の焦げる様な厭な臭いと、ギャアギャアと甲高い声で何かが喚き散らしていて、それが酷く癇に障り、陽乃は目を覚ました。
 石の床に寝転がっていた。目の前には石の壁がある。まだ玄室に取り残されていたようだ。
 身体は動く。殴られた頭はズキズキ痛むが、他はどこも怪我をしている様子は無い。だが手元に剣は無かった。一瞬、レイプされた可能性が脳裏に過ったが、それはないようだった。革鎧もそのままで、履いているズボンもそのままだ。ほっと胸を撫で下ろした。せっかく今日まで安売りしなかった純潔だ。それなりに納得できる相手でなければ勿体ないし、これまで気を持たせるだけで袖にして来た男達に申し訳ないだろう。

 それよりも、背後が騒々しいのが気にかかる。そして、それがあまり嬉しい状況ではない事は考えるまでもなかった。
 だが、確認しない訳にはいかない。陽乃はゆっくりと身体の向きを変えた。

 それは────魔宴。

 咄嗟に口を押さえ、声を上げなかった彼女は、まだ冷静で正気を保っていた。

 小さなキャンプファイヤーが焚かれていた。
 その周りでオーク達が踊っている。何かを食べながら、踊っていた。
 オークがその火で串刺しにした──をぐるぐると回しながら焼いていた。切断された──と──は、串に──れ焚火で炙られている。
 別の所では──を裂いて──を取り出し、鍋に乱暴に放り込んでいた。
 よく見ると陽乃の他にもう一人、魔術師(メイジ)の少女が倒れていた。彼女もまだ生きているようだ。だがオークの一匹が彼女の髪を掴み、引き摺って行く。彼女の悲鳴や叫び声が、どこか他人事の様で、遠くに聞こえた。
 初め、彼女は犯されるのかと思った。そういった成人向けの媒体の存在くらい知っている。興味は無かったが。

 だが、そうはならなかった。考えてみれば当然だ。犬が猫に欲情をするだろうか? だが時に食欲を満たしたくなるかもしれない。きっとこれはそう言うことだ。

 オークが手にしていたのは仲間の誰か、或いは自分の物だったかもしれない長剣。それで複数のオークに押さえつけられた彼女の頭を────

 まだ身体が痙攣して動いている。死んではいないが致命傷だろう。もう彼女を救えない。そもそも────ている。

 込み上げるのは怒りではなく吐き気だ。あまりにもその光景が非日常過ぎて、現実味に乏しかった。死の恐怖よりも不快感が勝り、頭の奥でチリチリと焦げる様な痛みが苛んだ。

「もう、ダメ……」

 耐えられなくなった陽乃は、身体を起こして立ち上がった。近くにいたオークがこちらに気付いたようだ。もう無理だった。この場にいたくない。

 無我夢中で雪ノ下陽乃は逃げた。彼女を知る者からしたら、それは信じられない光景だったに違いない。我を忘れ、なりふり構わず泣きながら必死で逃げた。だがオーク達は何処までも彼女を追って来る。彼等もご馳走を逃すまいと必死だ。



 彼女を追って来た最後のオークが衛兵によって殺され、バリケードの中はまた静かになった。
 衛兵の一人が自分に何かを言っているようだが聞こえなかった。
 それから暫く、階段の側で陽乃はずっと両足を抱えてしゃがみ込んだまま震えていた。俯いた彼女は泣いていた。声が出ない。怖くて震えが止まらない。ズボンの染みやら濡れた下着の不快感などまるで気にならなかった。

 誰でもいいから、迎えに来て欲しかった。両親に会いたい。家に帰りたい。

「……ゆきのちゃん……ひきがやくん……たすけて……」

 それは洗礼。エセルナート(ここ)や、城塞都市(ここ)では、よくある事。ありふれた日常。

 だから誰も、彼女を助けない──



『──もう沢山だわ』

 奇跡の魔女は元来我慢強かった。忍耐力や根気の強さは誰にも負けない。すぐに感情的になりムキにもなるし、裏技やズルができるなら躊躇わない。だからと言って決して飽きっぽい訳では無く、簡単に投げ出さない。何度も、何度でも、可能性がゼロでは無い限り、決して諦めない。だからいつか必ず〝奇跡〟を見つけ出し〝奇跡〟を具現できるのだ。故に彼女の半身はメビウスの輪を断ち切る事ができた。

 だが、流石の奇跡の魔女ですら、見るに堪えられない。

 結局、雪ノ下陽乃は冒険者を続けられなくなっていた。怖くてダンジョンに入れない。だから街で働き口を探す事にした。
 城塞都市の一般就職事情は、異邦人にはとても厳しい現実を容赦なく突き付けてくるだけだった。

 所持金が底を尽きた。
 その晩は冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)の馬小屋に潜り込んで眠った。翌朝、妹に声が似ている管理人に叩き出された。

 窮するあまり、酒場の主人と酒場付き娼婦の契約を交わした辺りが、奇跡の魔女の限界だった。これほど惨めにプライドを傷付けられたのは久し振りだ。

 私が選んだ子が、一週間持たなかったなんて!!!!

 どうしてこうなった、と真剣に雪ノ下陽乃を問い質したかったが、見ていた限り本当にどうしようもなかった。運が悪かった──本当にそれだけが理由みたいで余計に腹が立つ。腸が煮えくり返る。

 あのコは独り(・・)だったのに!!!!



 あてがわれた狭い部屋で一晩ゆっくり寝て、朝早くに湯浴みをして商品価値を高める(・・・・・・・・)。今日は娼婦として酒場に立つ初日だ。
 覚悟は決めた。だから男が喜びそうなメイクを施して自分の価値を上げる事に努力する。支給された粗末な化粧品では物足りないが、それでも無いよりましだ。
 初物(・・)の料金は高いので、最初の客は時間が掛かるかもしれないとマスターは言っていた。だがこの際、さっさと買い手が付いて欲しかった。決意が鈍りそうだし、未練が残る。それにもう諦めはついた事だ。どうせ自分を切り売りしなければもう生きる道はないのだから。だから念入りに身嗜みを整える。せめて少しでも高く売り付けないと気が済まない。堕ちたとは言え、安売りするつもりはなかった。
 胸元の大きく開いた支給品のブラウスにコルセット。短いフレアスカートに給仕用のエプロン。首には〝酒場付き娼婦〟を示す白のチョーカー。他の娼婦は黒のチョーカーをしている。白は処女の証だ。屈辱的な処女検査と性病検査の果てに得た彼女の最後の誇り(プライド)だった。
 19年間守り通した純潔の価値は一晩100ゴールド。他の娼婦が一晩およそ25ゴールドなので破格ではあるが、所詮最初だけである。75ゴールドは彼女の処女権の値段でしかない。人より特別だと信じていた彼女だったが、城塞都市(ここ)では自分の身体しか売り物がない非力な少女でしかないと思い知らされた。

 酒場はやけに賑わっていた。

「…ニーダバウに派兵した支援旅団が昼過ぎに戻ったそうだ。ふた月はかかると思ったんだが……案外、早かったな」
「魔理沙ちゃん、帰ってきますね!」
「……死んでなければな」
「死んでません! も~、縁起でもない事言わないで下さいよ、マスター」

 カウンターで緑髪のアルファとマスターが話しているのを漠然と聞いていた。兵隊が帰って来るのか。皆、戦争で稼いだ泡銭を抱えているのだろう。今夜には売れてしまうのかな────

 ぞろぞろとひっきりなしに冒険者が店に入ってくる。皆、高い酒ばかり注文して、どこの卓も祝杯ムードだ。
 陽乃も給仕に卓から卓へと目が回りそうなほど忙しかったが、客を取って身体を売るよりは気楽だった。できればこのままずっとウェイトレスの真似事をしていたい気分だが、そうもいかない事はちゃんと理解している。せめて給仕として有能な事をアピールしておけば、少しはマシな立ち位置に置いて貰えるかもしれない。儚い希望だったが、現実を忘れるには良い忙しさだ。
 おかげでチップが稼げたのだが、正直なんの慰めにもならなかった。

「……兵隊が帰って来たんですよね?」
「ああ、そっか。陽乃ちゃんが城塞都市(こっち)に来る前だったから知らないんだっけ。三週間前にね、臨時召集がかかったの。冒険者の中からも何人か召集されちゃってね……ほら、冒険者も兵隊さんだから、ね」
 そう言えばそんな事もあると訓練場で聞いた気がする。娼婦ではなく軍隊に入る道もあった。だが武器を持つのはもう厭だ。もうあんな思いはしたくない。

「いーッヤッホ──! やっと帰ってこれたぜ! マスター! アルファさーん! 魔理沙様のお帰りだぜー!」

 とんがり帽子の全体的に黒っぽい少女が勢い良く扉を開け、カウンターまで走って来た。
 彼女の連れらしき騒々しい三人も続いて奥までやって来る。

 一人は知り合いの葉山隼人を三割増しで凛々しくして、更に可愛らしく仕上げた様な、青い髪の少年だった。背も高いし割と好みのハンサムだ。何より、見かけよりもずっと逞しそうに見えた。革鎧にクロークを纏い、背中に弓と矢筒を背負っている。
 この子なら買われても良いかな、と陽乃は値踏みする目で見ていた。

「お腹空いたね、明日の事を相談するよりも、まずは晩御飯にしない?」

 もう一人は随分小柄な少女だ。長い銀髪をなびかせ、人形の様な可愛らしい整った顔立ちをしていたが、表情は凛々しいと言うよりも険しく、どこか冷たい雰囲気を漂わせていた。左目には眼帯をしている。武装こそしていなかったが、近衛兵団の青い軍服を着ていた。
 小柄な少女、青い服、白い肌、赤い目……陽乃はぎりっと歯噛みする。厭な事を思い出した。あの夜の記憶が陽乃の心を掻き乱し、恐怖と怒りがごちゃ混ぜになったような酷く不快な気分に苛まれる。握りしめた拳が我知らず震えた。

「たるんでるぞ、速水! まずは作戦会議だ。ダンジョン探索は軍事行動だと言う事を忘れるな。入念なミーティングと、完璧な準備(プロテイン)、そして毎日のトレーニングが勝利のカギだとデューク・ビルは常々仰っておられる! よく肝に銘じてその貧弱な筋肉に刻んでおけ、八幡!」

 ──え?

「いや、意味解んねぇし」
「八幡! 上官の言葉は全て〝了解しました(ヤヴォール)〟と応えろと言ったはずだ!」

 ──今、なんて……

「知らん。あー、言い忘れてたけど実は俺、難聴なんだわ。俺に都合の悪いボーデヴィッヒの話は聞こえねぇから」
「むぅ……それなら仕方ないか」
「あれ? それで納得しちゃうの?」
「おいやめろ厚志、ボーデヴィッヒ(アホ)が気付くだろ!」
「…………八幡!! 貴様、また(・・)私を騙そうとしたな!! 上官に嘘を吐くなと何度言ったら解るのだ!!!!」

 ──八…幡?

「──え、なんだって?」
「うわぁ……わざとらしいね、それ」
「ばっか、由緒正しい難聴のフリは昔から大体こうなんだよ。寧ろこれしかないまである」
「……うがー! もう許さん! 貴様には忍者精神注入棒で直接忍者魂と上官に対する敬愛精神を叩き込んでやる!!」
「「うわっ!ボーデヴィッヒ(アホの子)がキレた!?」」
「アホの子いうな──ッ!!!!」

 そして────彼が目に入った。あの目を、彼の腐った目を見間違える筈がない。

「……比企谷…くん?」

「────雪ノ下…さん?」

 彼女の世界の主人公(ヒーロー)主人公(ヒーロー)であるが故に、彼女の前に現れる。それは必然。主人公(ヒーロー)が本来救う筈だった存在は、もう既に彼女しか(・・)いないのだから。だから彼女はきっと救われるに違いない。






















 ────とあるカケラの海

『『ツンデレ?』』

『なんでよ!』

『いや……ねぇ?』

『だって……ねー?』

『言いたい事があるなら、はっきり言えばいいわ』

『……ベルンが何やら隠れてコソコソやってるなーとは思ってたわよ。うん。かくれんぼ下手糞なベルンだから、まる解りだったんだけどね?』

『……まさかね。隠れて──』

『『あのコにご褒美を用意していたなんて!!!!』』

『うう────ッッ!!!!』

『ちょ! ベルン! 顔を押し付けたまま、グリグリしないで! お腹の柔らかい所は柔らかいだけに防御力が低いんだよ! 痛い痛い痛いよベルン! 変な茶釜でボクを殴らないでよ!』

『…………むーむーむーむー!!!!』

『痛い痛い痛いよベルン、柔らかいお腹に噛みつかないでよ! ボクにそんな性癖はないんだから』

『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさ──い! アイツ殺す絶対殺すクソクソクソクソがゲロカスの分際で!絶ッッッッ対、許さないからッッッ』

『ねぇベルン。何をしたのよ、そのコ?』

『そうだね、何をそんなに怒ってるの?』

『雪ノ下陽乃! アイツ────なんッッにもしてないのに! なんッッッッにも酷い目にも遭ってないのに!! ちゃっかり恋人(ヒロイン)の座に納まってるからよ! せめて客の100人や1000人でも取って、ボロカスに犯されまくって──を──てから、──も──になって──が──でしょうがァァッッッッツ!!!!』

『えー? 意味解んないよ。いいじゃん、お姫様は王子様と幸せに暮らしました、で』

『……ちょっと、ベルン。アンタまさか……まさか……そのユキノシタハルノってコに嫉妬してるなんて事は──』

『ある訳ないでしょ!!』

『あー、だよねー、良かった~。流石にベルンが恋人(ヒロイン)枠を狙ってるなんて事になれば大騒ぎよ。アンチが大量に湧くわよ?』

『例えば?』

『まずは私ね、それと私が全力で阻止するわ! 他にも私ね! あと当然、私がいるわ! 他には……アンタも協力しなさい』

『つまりアンチはボクとラムダしかいないと』

『そんな事はないわ! きっとベルン×ラムダが至高と崇拝している2000億の信者が一斉に武装蜂起するわ!』

『驚きだよ、そんなに信者がいたのになんで〝散〟はア──』

『『ダメよ、それは言ってはダメ』』

 ────fade-out…

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B1:初めての地下迷宮のLv.1八幡

 自然に目が覚めた。

 慣れないベッド、慣れない枕、そして何より見ず知らずの女達との相部屋……ある意味当然の如く、遅くまで寝付けなかった訳だが──しっかり休息は取れた気がする。
 まだ夜明け前なのだろう。小さな窓から見える空はまだ薄暗くて、部屋の中はもっと暗かった。

 俺は静かに、物音を立てないように身体を起こした。相部屋の連中は皆まだ夢の中である。別に彼女達に気を遣っている訳ではない。ちょっとした訓練のつもりだ。寝てる奴に気取られていては、ダンジョンでモンスター相手に隠密行動などきっとできないだろう。ステルスヒッキーをもっともっと磨き上げる必要がある。

 装備を整えて部屋から出るまで、誰も目を覚ました様子はない。皆、静かに寝息を立てていた。
 ──よし。自信が湧いて来る。
 俺はそっと扉を閉じて施錠した。廊下もまだ暗い。常夜灯なんて良い物はないんだな。だが暗視の訓練には丁度良かった。

 フロントまで降りると、もう管理人さんが居座っていた。
「あら、早いのね。昨夜は愉しめたかしら」
 ニヤニヤと下世話な笑みを浮かべた。やはりあの部屋割りはわざとか?
「……なんもねぇし。さっさと寝たよ」
「そう。奥の水場で顔を洗って来たら? あと寝癖も酷いわよ?」
 硬い枕だったからな。いかに現代日本の枕が身体に優しいか解る。夕張ならぬ名工(マイスター)のキラなら案外、低反発枕くらい作れるんじゃね? 今度頼んでみるか。資源じゃなく資金を要求されそうだが。
「あー、そうさせて貰うわ……チップは請求しないんだな」
「して欲しいのかしら?」
「いや、遠慮しとく。つーか、今日中に稼がないと飯も食えん」
「そう。ならしっかりお金稼いで、冒険者の宿(ここ)で使ってね。馬小屋で寝てたら蹴とばすわよ?」
 言われなくても稼ぐさ。飯も食いたいし、ゆっくり独りで寝たいからな。つーか蹴とばされたくねぇし。


 ロビーから少しばかり暗い廊下を奥へと進むと、その突き当りに両開きの扉があった。扉の先は中庭の様なスペースになっていて、薪小屋やら道具小屋らしきモノが所狭しと連なっている。
 その一画に粗末な洗い場があった。汲み上げ式の井戸と、これまた粗末な流し台が二つ。その側には木桶が無造作に積み上げられている。吊るした滑車にロープで括った桶の井戸……マジか、初めて見たんだけど。ポンプ式ですらねぇのな。どうやって扱うんだよ……
 井戸の屋根には気休め程度の小さなランタンが吊るされていて、夜明け前の暗い空の下では、そんな灯りでもずいぶん明るく感じた。
 既に先客の冒険者が三人いる。いずれも俺より年上で、経験豊富な熟練冒険者のようだ。三人とも戦士(ファイター)だった。身体はでけぇし、筋肉すげぇ。見るからにタフガイだ。皆、淡々と髭を剃ったり顔を洗ったりしていた。鏡と髭剃りか、考えてなかったな。アレも売ってるかキラに聞いてみよう。

 見よう見まねで井戸から水を汲んで、手桶に移す。たったこれだけの事なのに上手くできずに、少しこぼれてしまった。顔を洗うだけで一苦労だ。やはり文明って素晴らしい。無くなってみて初めて解るその利便性とありがたさ、だな。

 井戸水を頭から被る気にもならず、寝癖は諦めてそのまま放置した。どうせフード被るし。ここには直してくれる小町はいない。今頃、小町はどうしているだろうか。心配してくれているだろうか。俺が突然いなくなって、少しは騒ぎになっているのだろうか。あいつらは、突然消えてしまった俺をどう思うだろうか。答えの出ない疑問が浮かんでは消える。考えても詮無い事だ。気持ちを切り替えろ、俺────


 三々五々冒険者が起き出し始めたロビーは少し騒ついていた。冒険者って皆、結構早起きなんだな。だが、ざっと見渡したところ相部屋だった僕っ娘エルフもノームも見当たらない。きっとまだ熟睡しているのだろう。お気楽で羨ましい限りだ。俺としても、まだゆっくり寝ていたい時間帯だ。寧ろ家に帰って自分の部屋で二度寝したい。
 フロントで管理人さんに鍵を返し、チェックアウトした。
「ふふっ、ちゃんと目が覚めたようね。良い顔になってるわよ? 行ってらっしゃい。しっかり稼いで来てね、八幡」
「…お、おう」
 フードを目深に被り、俺は宿を後にした。
 雪ノ下の声で見送られるのも奇妙な感覚だが、それ以上になぜこの管理人さんは馴れ馴れしく名前呼びなんだろうか? 以前どこかで出会……う、訳もないよな。
 気のせいか、何もしてないのに好感度やけに高くね? まぁ気のせいなんだろうけど。きっと管理人さんは誰彼相手でもああ(・・)なんだろう。ソースは俺。俺みたいな人間にも表向きは(・・・・)やたらフレンドリーに接してくる奴は稀にいる。だがそれで勘違いすると大変な事になるのは最早、自然の摂理と言ってしまっても過言ではない。


「…さとっ、砂糖と練乳多めのコーヒーをひとつ、お願いします」

 やべぇ、何度もシミュレートした筈なのにやはりどもってしまった。くっ──まだアルファさんに声をかけるのはドキドキする。なんで今朝は黒いのが居ないんだよ。あいつ、俺に代わって注文してくれる係じゃねぇの?
 この場にいない黒っぽいウェイトレスに責任転嫁して心の平穏を保ちながら、俺は所持金を全てカウンターに置いた。これで本当に無一文だ。
 因みにこれだけあれば美味い飯が食えるのだが……胃腸に物が詰まってる状態で、腹を怪我すると腹膜炎かなんかで下手すると命に関わるほどヤバイとかなんとか、そんな感じの事を何かの本で読んだ事がある。中学の頃に。現実的にはあまり参考にならない割とどうでもいい知識だが、あの頃はそう言う知識になぜか引かれるモノがあった。一種の病気だな。だがその知識が現状バカにならないのではないかと思い始めている。リスクはなるべく回避する。それにしっかり稼げたら、その時はしっかり美味い物を食えば良い。

「はい! 毎度あり~♪ ちょっと待っててね」

 緑髪のアルファさんはテキパキとコーヒーを淹れる準備を始めた。
 酒場でコーヒー豆を消費するのは異邦人ばかりらしい。まぁそうかもしれん。わざわざ大金出してまで飲みたいとは思わないだろう。元々飲む習慣が無ければ。
「…坊主、ダンジョンに入るのか?」
 漠然と豆を挽くアルファさんの手元を見ていたら、いつの間にかマスターがカウンターに立っていた。
「う、うっス…このコーヒーで金が無くなったんで…」
「……パーティーは?」
 組まないのか? 或いは探さないのか、と言っているのだろう。はい、異世界から来たぼっちには難易度が高かったので諦めました。あと見ず知らずの人に命を預けたり、預けられたりとかも無理です。皆で仲良くとか皆で協力とかもノーセンキューなんで。そんな奴等と慣れ合いたくない。俺は俺の目的の為だけに強くなる必要がある。他人の事に構っている余裕なんてない。だから最初から独りでいいし、そもそもエセルナートに来る前からぼっちなのだ。ぼっちはぼっちであるが故に、誰にも迷惑をかけないし、誰彼憚る事無く好きにやれる。それで、いい。俺は今のまま、俺のまま強くなる。それが無理なら諦めるし、その時は死んでいるだろうからその先を心配する必要もない。

「…独りっス」
「……簡単に死ぬぞ」
「……それでも、独りのが合ってるんで」
「…そうか」
 マスターはそれ以上何も言わず奥の厨房に引っ込んだ。
 アルファさんは複雑な表情で俺を見た後、静かにコーヒーのドリップを始めた。香ばしい良い香りが仄かに漂う。酒場は夜明け目前にも関わらず既に騒々しい。ホールに黒いのはいないが何人ものウェイトレスが忙しそうに料理や酒を運んでいる。
 入り口近くのテーブルには見た事のある奴が卓を囲んでいた。馬車で僕っ娘エルフを口説こうとして公開処刑された茶ラ髪だ。ちゃんと生きていたんだな。
 仲間らしき男女に囲まれ、朝から乾杯している茶ラ髪の姿はなんともリア充そのものであり、なぜあの時僕っ娘エルフは完全に仕留めなかったのかと俺は舌打ちした。
 あいつ等もこの後、ダンジョンに向かうのだろうか。あの乾杯は恐怖心を紛らわせる為の景気付けなのだろうか。
 恐怖心か。考えてみれば、俺は不思議と落ち着いていた。これから死地に向かうと言うのに、さして何も感じていない。強いて言えば、通学前にリビングで寛いでいる時の「学校、行きたくねぇな…」と思ってしまう程度の気怠さくらいしかなかった。
 はて? 俺はこうも豪胆だったろうか────

「お待たせ~♪ はい、練乳お砂糖たっぷりのハチ君スペシャル、どうぞ召し上がれ」
 甘い香りが鼻孔を擽った。目の前に置かれた白磁のコーヒーカップは、最後の晩餐にしては少々地味で寂しい気もしたが、俺にはこれくらいで丁度良いのかもしれない。
 て言うか、アルファさんに名前を憶えて貰えてるどころか、ハチ君呼ばわりですか。会ったばかりで昨日からマッカンカッコカリを三杯頼んだだけですよね? 城塞都市(ここ)の人、ほんと距離感とか初期好感度とかいろいろおかしい。
 ……美味い。なんとなくマッカンっぽい。この甘さもちょうど良い甘さだ。脳に糖分と云う燃料が行き渡る様だった。
「坊主、これも飲んどけ」
 と、マスターがマグカップを差し出した。中はポタージュの様な少しトロッとしたスープだった。
「……えっと、これは……て言うか、金無いんスけど」
「多少は底力になる。ツケにしといてやるから、戻ったらコーヒー飲みに来い」
「……うっス」
「……ただの死にたがりのバカじゃないって事を証明して見せろ。一匹狼は群れた狗より強いってな」
「うっス」
 少し塩っぽいポタージュだったが、マスターの言葉通り腹の底に力が籠る気がした。
 ……ん? ぼっちを否定しなかった大人って初めてじゃね?


 城門を抜け、そこから振り返ると豪奢な王城の背には朝焼けの茜色が広がり、暁の空と夜との境界が鮮やかなグラデーションを彩っていた。流れる雲は光彩を映して不思議な色合いを見せている。あれが彩雲ならば吉兆だろう。俺にとっての兆しかどうかは甚だ怪しいところだが。
 ワードナの地下迷宮(ダンジョン)へと続く町外れの道は、夜明けの澄んだ空気に満ちていて、時折吹き抜ける風も心地良かった。

 ダンジョンの入り口はすぐにそれと判った。
 側に兵士詰め所がある小高い小さな丘の麓に、それはぽっかりと大きな口を開けていた。明らかに異質な漆黒の空間が遠目にも垣間見える。この丘はもしかすると上古の古墳や遺跡の類なのかもしれない。周りの景観からこの丘は明らかに浮いている。ダンジョンだから、と言うにはあまりにも不自然だ。
 粗末な石畳の道はダンジョンの入り口まで続いていて、入り口にはガーゴイルの様な異形の化け物を模したレリーフが石柱を飾っていた。あまり良い趣味とは思えないデザインだ。これが魔術師ワードナの趣味なのだとしたら、この中はさぞ悪趣味なダンジョンになっているに違いない。
 入り口で立哨していた屈強な兵士はじろりと俺をひと睨みしたが特に何も言わず、もう片方の衛兵に至っては俺などには興味無いと言わんばかりに目を向ける事すらなかった。
 暗い階段を一段一段降りて行く。階段の幅は三メートルくらいはあるだろうか。階段も壁も、ここに至る先程までの石畳の道とは比べ物にならないほど精密な石造りだ。所々に火の着いた松明が壁に掛けてあった。二十段ほど降ると天井が急に高くなり、広いエントランスホールに出た。
 エントランスには幾つもの篝火が焚かれ、強固なバリケードが内側に向けられていて、槍やボウガンで完全武装した兵士達が何人も哨戒に当たっている。ざっと見たところ十人くらいはいるだろうか。薄緑色の友軍カラーがなんとも心強い。
 バリケードとダンジョンの境は大きな格子の扉で隔てられていた。その横には左右に分かれて二人の兵士が立哨している。扉の前まで来ると黙って両開きの格子扉を開けてくれた。そこから先は魔術師ワードナの支配する広大な地下迷宮だ。

 俺はその深淵に向かう始まりの第一歩を踏み出した。

 通路は北方向と東方向に伸びている。キラに勧められて買った小さなコンパスで方向を確認した。暗いダンジョンの中では、時に方向感覚もおかしくなるらしい。
 現在地であるエントランスは本来L字通路の角になっている場所だが、設置されたバリケードの構造のせいで通路がV字の二方向に伸びているように見える。右側が東方向、左は北方向へと回廊は続いている。
 ダンジョンは真っ暗闇ではなく、なぜか全体的に薄暗い。照明がある訳でもないのに、十メートル程度の視界は十分にあった。魔法的な灯り……なのか? なんにせよ、好都合である。灯りが無くても周囲の状況を判別できるほどに明るく、それなりに身を隠せる程度には暗い。隠密行動が基本形態になる俺にしてみれば実に好都合な明るさと言えた。
 ダンジョンの幅は約二十メートルくらいだろうか。端から端は暗くて見渡せないが、それくらいはありそうだ。天井高も十メートルくらいだ。結構、高い。暗くてどうなっているのかよく解らなかった。

 俺は身を寄せるように冷たい石壁に近付き、東方向への回廊を右側の壁面に沿ってゆっくり進んだ。
 足音を消し、なるべく気配を断つ。宿で買ったぼろタオルを覆面代わりにしているので、呼吸も幾らか消音できていると思いたい。
 神経を研ぎ澄ませて気配を探る。目で〝視〟なくても気配で《愚者の統制(IFF)》は発動できると聞いた。ならば一刻も早くそれ(・・)はできるようになりたい。
 俺は、と言うよりも忍者の戦闘スタイルは基本的に正面切っての白兵戦に向かない。よほど実力差があれば別だろうが、少なくとも今の俺には無理な芸当だ。俺にできる事は影に隠れて、相手の不意を衝き、相手に何もさせず急所に刃を突き立てる。その為にはまず前提として、常に相手より先にその姿を発見する必要があった。暗い地下迷宮(ダンジョン)では視認だけでは足りない。暗闇の中でも敵の気配を感じ取り、先じて索敵する知覚が必要だ。

 神経を研ぎ澄まし暗闇を警戒しながら歩く──たったそれだけの事がとんでもないストレスになる。僅か十メートルを進むのにも一体何分かかっているんだろうか。実際、正確な時間は解らない上に、暗闇の中では時間の感覚がおかしくなるような気もする。

 長い回廊を百メートルは進んだ辺りで足を止めた。何か、音がした……気がする。俺はその場で身を潜めた。何も見えないし視えなかった。だが俺は自分の目視を信用しない。《IFF(システム)》が〝何もいない〟と結論付けるまで、何者かの存在を疑う。
 暗闇の向こうに視線を向け、耳を澄まし、五感全てを持って気配を探る。集中しろ────ほんの僅かだが異臭を感じた。鼻に衝く臭いだ。あー、あれだずっと洗っていない上履きを更に発酵させた様な? それに小さな金属が擦れ合うような音がかすかにした。
 何か、いるな。確実に────不意に赤いポップが暗闇に浮かんだ。よしっ──できた。握った拳に力が入る。目視ではなく、それ以外の感覚で索敵できた。
 赤い〝(エネミー)〟の表示は並んで三つ。三体。三人。なんでもいい。やべぇ……数が多い(・・)
 一対一なら問題無かった。一方的に完封する自信がある。一対二なら奇襲の成功が大前提だが、なんとかなりそうだ。しかし一対三は無理だ。手数が足りない。すぐには負けないが、アドバンテージを失ってしまえばやがてジリ貧になって最後には俺が負ける。

 俺には回復手段がない。怪我をしたらその時点で詰む。
 宿屋の治療サービスとやらは応急処置ですら100ゴールド、ボルタック商店に並んでいた回復のポーションは一番効果が薄くて一番安いやつで250ゴールド……医者や病院なんてモノは無いそうだ。治療師と自称する僧侶(プリースト)崩れがいる程度である。どうせ相場は同じくらいだろう。
 結論として現状そんな金は無い。つまり俺は治療費が手に入るまで、常にノーダメージで敵を完封しなければならなかった。死力を尽くして相手をなんとか斃した、でも重症を負った──これでは敗北なのだ。

 さて……敵は三体、まともにやり合えば俺に勝ち目は無い。敵はほとんど動かない。あれで動き回っていれば、孤立した奴から順番に仕留めるといった戦法もあるが、それも無理そうだ。全く動かない。何やってんだろうな、あいつら。
 このままここでチャンスを待つか、諦めて引き返すか──埒は開きそうにないし諦め……その時、背後から近付いて来る気配をはっきりと感じた。
 俺は壁を背にして新たな気配に注意を向けた。が、神経質になる程でも無かった。
 あろう事か彼等はランタンを手にしていた。遠目にもはっきりとその姿を晒して存在を主張している。きっとあの三体の敵にも丸見えだろう。
 冒険者だった。戦士、戦士、盗賊、僧侶、魔術師、錬金術師の六人パーティーだ。俺はこの組み合わせを先刻酒場で見かけていた。
 茶ラ髪のパーティーか? 乾杯をしていた姿が一瞬脳裏に浮かんだ。
 ちっ……獲物を持っていかれたか。六対三、楽勝だろうな。
 呆れた事に彼等はランタンで回廊を照らしながら進んでいるくせに、俺の横を素通りしていった。誰一人気付いた様子はない。うまく背景に溶け込めていた……のか? 元から空気になるのは得意とは言え、俺の隠密スキル(ステルスヒッキー)なかなかやるじゃん。そしてやはり茶ラ髪がいた。
 六人いるからか、彼等の表情は硬くはあっても、それほど周囲を警戒しているようでも無かった。悪く言えば無神経だった。そもそもランタンを灯せば暗闇の中で自分達がどう見えてしまうか(・・・・・・・・・)など少し考えれば解りそうなものだ。あんな粗末なランタンの灯り程度では、せいぜい限られた空間を二十メートルばかり照らすだけだろう。足元を照らす分には丁度良いかもしれないが、先を見通す灯りとしては不十分なモノで無いよりマシといった程度だった。俺に言わせれば無い方がマシだ。案の定、三体の敵は少し移動した。きっと後方に下がったのだろう。発見されるのを防ぐために。案外、賢い。勝ち目は無いもんな。だが俺の索敵範囲から外れるほど離れた訳では無かった。
 後退した三体の敵を発見するか微妙な距離まで進んだところで、茶ラ髪のパーティーはなぜか行軍を止めた。奴等に気付いたのか? 様子が変だ。
 何やってんだ、あいつら……ああ、あそこに扉があるのか。ランタンの灯りに木製の扉が照らし出されているのがここからでも十分見えた。
 彼等は進行方向を変え、扉に向かって正対した。
 それは拙い──お粗末な事に彼等はあの三体の敵に気付いていないどころか、陣形(フォーメーション)の側面を向けている。その一瞬、防御力と耐久力に劣る魔術師(メイジ)錬金術師(アルケミスト)らの脆弱な後衛を無防備に戦闘正面に曝していた。
 敵が動いた。
 あの三体の敵は、きっと見計らっていた。奴等は最初からずっと待ち伏せしていたのだろう。めちゃくちゃヤバい敵じゃねぇか。迂闊に歩いていたら確実に死んでいた。
「「「ウウオオァララアアァァッッッ!!!!」」」
 雄叫びをあげて斬りかかって来るシルエットが、儚げなランタンの灯りに影絵の様に浮かんだ。
「敵!?」
「横かラぐふあ」
「キャ…イヤァァ──ッッ!?」
「くそっ!」
「がはっ……か、回復を」
「ニコル! 早く前に出ろッ!!」
 最初の奇襲で錬金術師(アルケミスト)の表示が消えた。ランタンのガラスが割れ、床に小さな炎が広がる。
 怒号と剣戟が回廊に響き、茶ラ髪達の反撃が始った。
 真っ赤な火の球が浮かび上がり、敵をほんの一瞬だけ火達磨にした。魔法か! すげぇ……でも微妙だな。派手さに比べて威力は大した事がないようだ。焼かれた敵はまだ健在だった。
「む、無理だ! 逃げよう!」
 盗賊(シーフ)がまだ戦っている仲間を見捨て、エントランスに向かって走り出した。
「ニコル、待て! くそッッ!!!!」
「だ、だめだ──ぐ…がっ──かはっ」
 前衛が崩れ僧侶(プリースト)が消えた。最早、陣形(フォーメーション)の形は成していない。あ、これもうダメじゃん。
「撤退だ! 下がれ、オーランド! 先に行けステラ!」
「お、応っ! こ…のしつッこいぞックソがァァッ!!」
「ギッ、ギヒィッ……」
 漸く敵が一つ消えた。だが残りの敵が突出した戦士(ファイター)を左右から挟み込む。
「オーランド、早く逃げろ!」
「ま…クソッ! がっ……こンのや──」
 戦士(ファイター)のシルエットが倒れるのが見えた。まだ、ほんの数分も経っていない筈だ。なのに────こうも簡単に殺されるのか。他人事だ。これはあくまでお粗末な奴等が間抜けを晒しただけの他人事の筈だ。俺には関係ない。俺が無神経に首を突っ込んでいい問題ではない…………ダガーを二本、引き抜いた。
「オーランド! くそッッ走れステラ! 走れ!!」
 逃げるのが遅いんじゃね? あの盗賊(シーフ)は最低だが正しかった。あいつは助かるだろう。その先は知った事ではないが。両手に一本ずつのダガー。感触を確かめる。
「う、うん────あっ、痛…」
 それ、どんなお約束ですか? ローブを足に絡ませ、転倒した魔術師(メイジ)と目が合った気がした。
 あー、そんな顔すんなよ、俺が最初から手を出してたらそれはそれで問題だろうが、イロイロと。
 まだ立ち上がれない彼女に、二体の敵が迫った────

「……悪いな、こっちも不意討ちさせて貰う」

 既に敵の姿を視認できる距離だ。奴等は目の前の魔術師(メイジ)に夢中で、俺に全く気付いていなかった。無防備な頸が丸見えだぜ? 三対一は無理でも、二対一なら奇襲できれば問題無い。
 左右の手に準備していた(・・・・・・)ダガーで狙い撃つ。
「ガッ」
「──グァッ!?」
 片方のダガーは狙い通り綺麗に頸を穿ち、そいつの身体は糸が切れた人形の様に崩れ落ちた。
 だがもう一方は利き手じゃなかったからか、狙い通りにはいかなかった。頸を狙った筈が鎖骨の辺りに当たったようだ。多少の打撃にはなったかもしれないが、突き刺さりもしなかった。よく見るとそいつは鎖帷子を着込んでいる。あれ、ゲームじゃ割と序盤に出てくる装備なのに防御力あるんだな。手応えがまるで感じなかった。
 だが──上出来! 二対一から、これで一対一。続けて三本目のダガーを抜刀と同時に抜き放つ。奇襲による初撃でこちらの存在がバレた以上、正面から戦わざるを得ない。ならば次の狙いは太腿だ。まずはその機動を断つ。
「アガッ」
 根元近くまで深々と突き刺さった。下半身の防具も大事だな。少なくともダンジョンは生足を晒して良い場所では無い。
 鎖帷子の敵は動きが止まった。チャンスだ。俺は素早く魔術師(メイジ)に駆け寄り、助け起こした。
「…え、エントりゃンスまで走れ」
 なんで噛むかな、ここで。正直、もう顔を合わせられん。覆面してて良かった……だが、意図は汲んでくれたようで、先行していた戦士(ファイター)の方へ走り出した。
 さて、これで心配事は無くなった。獲物を最初に発見していたのは俺だが、茶ラ髪のパーティーが最初に接敵した事に対して異論は無い。損失も出しているしな。だが完全に戦闘から離脱した。ならば俺がこいつ等を斃してしまっても、獲物の横取りだとか文句は言えない筈だ。
 と言っても残り一体である。掃討戦と言ってしまっても過言では無い。だが敵は三人も殺しているんだ、なんら遠慮は要らんよな?

 四本目のダガーを反対側の足に撃ち込む。今度は脛だ。アレだな、ブーツにも鋼板入れてないと安心できんかもしれんな。流石に、骨が固いから根元までとはいかなかった。それでも突き刺さりはしたので、こちらとしては狙い通り。もう満足に動けねぇよな?
 ゲームならダガーを投げてもヒットポイントのゲージが少し減るだけだろう。だが実際、ダガー(こんなもの)が突き刺さったら、それだけで試合終了だよ? もうまともに動けねぇから。少なくとも俺は両足に刃渡り20cmのダガーが突き刺さったら、身動きとれねぇわ。
 俺は悠々と背後に回り、奴の踝を蹴り上げた。鋼板入りスニーカーのつま先でな。
「アギャッ」
 堪らず倒れこんだが、よろよろと起き上がろうとした。見上げた心意気だ…………よし、丁度良い高さだ。
 抜刀した小太刀を奴のうなじ目掛けて振り抜いた。感覚としては添えて引く感じだろうか。エセルナートの忍者が特別な一因である頸斬り(キリジュツ)スキルの一端だ。
 ごとりと頭が落下して、回廊は再び静かになった。


 最初に弾かれたダガーをちゃんと回収できて俺は安堵した。見つかって良かった。ホント良かった。これ、もう在庫無いし。早めに同じのを作って貰えるよう、キラに頼んどいた方がいいな。もしくは在庫に取っといて貰うか。
 斃したみすぼらしい男? は二体。どちらも人間とは言い難かった。主に顔が。これが大雑把に亜人と呼ばれている連中なのだろう。はるか北方を支配しているヒトの敵対者、人であってヒトで無き存在。亜人。顔の中心を引っ張って伸ばした様に各パーツが引き攣っている。後頭部も若干尖っていて、顎とか額や腮骨がやけに角張っている。耳も少し尖っているな。エルフとは違う尖り方だが。
 日本人等の東洋人は黄色人種とか言われるが、これに比べたらよほど赤くて白い。肌の色が黄色と言うより黄土色だ。そして臭い。風呂とか入ってなさそうだな。まぁダンジョンに住み着いている訳だしな。髪の色は茶色だがボサボサして少し色がくすんでいる。
 確かに、これとは解り合えそうにない。エルフやドワーフ、ノーム、様々な亜人種が共存しているのに、敵で有り続けている理由がなぜか少し理解できた。違うのだ。人類種としての在り様から。きっとお互いそう感じているから、これまでもこれからも敵対していくのだろう。だからなのだろうか、殺しても、全く罪悪感を感じなかったのだ。

 亜人が持っていた短剣(ショートソード)と手斧、小振りの盾二枚を回収し、懐を漁って小銭袋も見つけた。悪戦苦闘したが鎖帷子も脱がす事ができた。
 いきなり結構な量の戦利品を手に入れた。もうすでに持ち運びがしんどい。鎖帷子は畳めばリュックに入ったが、他の装備はそうもいかない。運搬用のロープでそれぞれ一つに括り付けて持ち運びし易い様にはしたが、これは一旦街に戻った方が良さそうだ。

 俺は初めての戦利品を抱えてエントランスへ戻った。そこで先程の戦士(ファイター)魔術師(メイジ)を見かけたが、酷く落ち込んでいる様子だった。当然か、一瞬でパーティーは半壊、三人死んで一人は仲間を見捨てて逃げ出した。トラウマになるレベルじゃね? だが死体を回収すれば、運が良ければまたやり直す事ができる。あいつらにもまだチャンスはあるのだ。尤も、盗賊だけは新しく探した方がいいだろうけどな。


 ダンジョンを出ると、日が暮れていた……なんて事はなかった。陽の高さからして、一時間も経っていないのかもしれない。それどころかまだ早朝に含まれる時間帯のようだった。
 それ故なのか、ボルタック商店で──
「あら、おはようございます。随分早いわね。これからダンジョンかしら?」
 と、加賀さんに尋ねられたほどだ。はい、行って帰って来ました。またすぐ戻る予定です。
「…えっと、はい。あの、買い取りをお願いします」
「買い取り? ええ、構わないわ。一般的な物(コモン)なら鑑定料として一品につき10ゴールド頂くけど。珍しい物(アンコモン)希少品(レア)だと鑑定料は相応に高くなるから理解して」
 一瞬、彼女の無表情な顔が訝しげに眉根を寄せたのを見逃さなかった。そりゃ不審か。昨夜の今朝で下取りの依頼だもんな。
「了解っス…………これ、お願いします」
 カウンターに亜人から回収した戦利品を載せた。全部で五品、鑑定料は50ゴールドか。これ全部で50ゴールドなかったらヤバいな……最悪、土下座してでもツケにして貰うしかないか……
「……短剣に手斧、小型の盾が二枚に鎖帷子……どれも価値自体は一般的な物(コモン)ね。鑑定料は50ゴールド、下取り価格から引かせて貰うわ。短剣は状態が悪いから7ゴールド、手斧は悪くないわね、12ゴールドよ。盾はどちらも10ゴールド。鎖帷子(チェインホーバーク)はサイズも状態も申し分ないわ、100ゴールドよ。差し引きして89ゴールドね」
 なん…だと? マジで? 武器と盾の低評価もアレだが、鎖帷子は美味し過ぎるだろ……よし、これから鎖帷子狙いだな。アレ着てる奴を見かけたら奪う方向で。

 差し出された銀のトレーに金貨(デュカード)一枚と大銀貨(ドラクマ)が三枚、そして銀貨(デナリ)が九枚が載っていた。金貨は初めそうやって入っていたのと同じように、布でくるんで大事にしまい込み、残りは空になっていた皮袋に放り込んだ。

 思いの外、簡単にノルマが達成できてしまった。
 町外れまで戻った俺は路肩の丸石に腰掛け、亜人から回収した小銭袋を物色した。銀貨(デナリ)ばかり三十六枚ほど、全部で36ゴールドだ。これで125ゴールドになった。
 すげぇ……まだ学校なら始業時間にもなってなさげなのに、既に新兵の初任給二カ月分を稼いでしまった……あの亜人、三体いたよな?

 死体、放置してんじゃね? モンスターの死体に所有権は無いだろうから、誰かに漁られる前に回収してしまうべきだろう、これは!

 俺は再びダンジョンに潜るべく駆け出した。ヤバい、金稼ぐの割とイージーかもしれん。

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B1:隣り合わせの死と敗北のLv.1八幡

 ダンジョンよ、俺は帰って来た────死体を漁りに。


 字面だけ見たら最低である。

 おまけに他人が犠牲を払って斃した敵の死体を、と言う注釈まで付く。冗談抜きにロクデナシの所業と言えるだろう。決して小町の兄として誇れる姿ではないと自覚している。
 仮に雪ノ下がここにいれば、さぞ冷たい視線で俺の心胆を寒からしめた後、盛大にディスって心を圧し折りに来るに違いない。由比ヶ浜はどうせヒッキーキモイだろう。寧ろそれしか無いまであるので、どんなタイミングで使われようとも残念ながらノーダメージだ。悪いがそんな陳腐な言葉では俺に響かない。由比ヶ浜はもう少し手持ちの語彙を増やした方が良いな。
 とは言え、幸いな事にあいつらはエセルナート(ここ)にいない。おかげで誰の目を憚るでもなく、安心して欲に目を眩ませる事ができた。
 今日の醜態がいずれ小町の元に帰還する為の布石となるのであれば、如何なる手段も行動も全て正当化されて然るべきであり、それは何よりも優先され、実行されねばならなかった。

 要は死体の物色&遺品拾得(スカベンジャー)上等、である。

 楽して稼げるなら多少のアンモラルなど躊躇ってなどいられねぇ。今の俺には体面や外聞を気にする余裕もなければ、見栄を張るような相手もいない。そもそも俺の評判など元の世界でもゼロ以下のマイナスであり、この世界(エセルナート)に至っては気にする必要もないだろう。いつまでもこんな世界に居て堪るか──

 そんな訳で本日二度目のダンジョンである。

 初戦の感触は上々。既に二日分のノルマも稼げた。やれる。できるじゃないか、俺。
 斃すべき〝(エネミー)〟もアレなら問題無い。いくら殺してもアレなら平気だ。あんなモンスター(・・・・・)に遠慮していられるかっての。

 エントランスにはまだ(・・)さっきの二人がいた。先程生き残った二人の冒険者だ。まだショックから立ち直っていない様子だな。そりゃそうか、仲間が死んだんだ。そう簡単に割り切れるもんじゃ無いよな。でも、同情はしない。俺には関係無い話だ。

「…すみません、あの二人がここに戻ってから他のパーティーが中に入りました?」
「ああ? …………いや、まだ他のパーティーは来ていないな」
 見張りの兵士は俺の質問に答えてくれた。だがあきらかに俺を胡散臭げに視ていた。もう一人の若い兵士など露骨に顔を顰めている。問題、無い……ただの平常運転だ。寧ろキラとか酒場とか管理人さんがおかしい。
「……そうですか。どうも」
 軽く会釈して回廊に出た俺は最初に茶ラ髪達が接敵した場所に向かった。

 俺がボルタック商店に行っている間、他の冒険者がダンジョンに入っていないと確認できた。移動している時にすれ違ったパーティーもいなかったので、これで死体は先程のまま、何もかも手付かずと云う訳だ。新たなモンスターが近くを彷徨いていなければ戦利品を回収したら、即撤退で構わないだろう。

 先刻より少し歩調を速めてみる。警戒しながらどのくらいまで歩行速度を上げられるか早めに知っとかないとな。
 今度は壁沿いではなく通路の真ん中を進んでみた。暗さに目が慣れてくると左右の壁まで視界が広がり、漠然と回廊全域を見渡せる。これで十分な照明があれば、かなり遠くまで視認できそうだった。悪くはない──だが……
 確かに索敵範囲は申し分ない。だがどうしても敵から丸見えのような気がして、どうにも落ち付かなかった。やはりぼっちが道の真ん中を堂々と歩くのは似合わないし、危機管理的にもよろしくない。街中で絡まれるリスクと、ダンジョンで襲撃されるリスクでは比較にならないからな。少しでもリスクは減らすべきだろう。

 たかだか百数十メートル、走れば三十秒も掛からない距離も、見通しの悪い薄暗いダンジョンを警戒しながら進むとなると、どうしても時間が掛かる。もどかしさに堪え切れず、試しに走ってみるか、と思わなくもないが、あの待ち伏せしていた亜人の事もあるのでどうしても決断しきれなかった。
 そうこう考えながら前進していると、いつの間にか俺が斃した亜人の死体を通り過ぎ、目的の左壁面の扉まで辿り着いていた。

 そこには、それまで意識していなかった、或いは意識したくなかったモノが強烈な現実味を伴って横たわっていた。先刻、同じモノを俺の手で作り出している。だが戦利品の回収に夢中で気付かなかった、いや……気付かない振りをしていたモノだ。
 そこに漂う錆びた臭いに俺は咽た。厭な臭いだ。それが何の臭いかなど考えるまでもない。
 異臭の発生源である討ち捨てられたままの死体は四つ、全て黒い水溜りの中に在った。それが何で、どこから流れ出て、本来どんな色だとか、嫌でも解ってしまうが、ダンジョンの薄暗さはそれらを表向き隠してくれているのが救いだった。灯りの無いダンジョンではそれらは黒い液体や黒い染みでしかない。

 初めて見たヒトの死体だった。
 死体はあくまで死体でしかなく《愚者の統制(IFF)》は何も反応しない。こうなってしまえば冒険者も亜人も関係無い、か。

 茶ラ髪が死んでいた。饒舌だった口は固く閉じられたまま事切れている。彼は最後まで戦っていた。単に逃げ遅れただけか、後退する味方の殿を全うした故か、今となってはそれを確かめる術は無く、故人の名誉の為にも後者であったとしておくべきだろう。前のめりになって死んでいるのだから、彼は無謀ではあったかもしれないが臆病者でも卑怯者でも無かった。逃げ出した盗賊(シーフ)を殊更悪く言うつもりも比べるつもりもないが、彼は勇敢な戦士(ファイター)だったのではないか? 少なくともこいつが命を賭して稼いだ刹那の時間は、あの二人を生存させる貴重な時間だった筈だ。そうでなければ救われない結果である。
 茶ラ髪の骸の傍には亜人の死体が転がっていた。鎖帷子を身に着けている。戻って正解だった。
 それとは別にもう一人、鎖帷子の男が倒れている。きっと僧侶(プリースト)だ。身体は守られていたようだが、手足をザックリと斬られ、頭に酷い傷跡の致命傷を受けていた。戦利品の中に手斧があった。多分アレでやられたのだろう。薄暗くて良かった。あまり彼の頭の状態は見たくない。
 もう一人はフード付きのローブを着ているのでこっちは錬金術師(アルケミスト)だな。ローブは切り裂かれ、腹から正視したくないモノがはみ出している。ついでにそれらも裂けて内容物が零れたからか臭いが酷い。昨日の朝の月影さんと藤村先生を思い出した。そして更にアンモニア的な刺激臭が混合していた。混ぜるな不快、勘弁してくれ。

 亜人の死体はともかく、こいつらはまだチャンスがある。茶ラ髪達はまだ灰になっていなければ、消滅した訳でもない。この世界では、これでもまだ蘇生のチャンスがあるのだ。だがそれを実行すべき人間はまだエントランスで何もせず落ち込んでいた。あいつらにはまだできる事が、やらねばならない事が有る筈だ。仲間なんだろう? 生き残った奴には生き残った責任があるんじゃないのか? まだ死んだだけだ。まだあいつらは仲間の為に全力を出していない。あいつらはまだ何もやろうとしていない。

 それはあくまであいつらの問題であって俺には全くもって関係の無い事である。だが──気に入らねぇ。

 回廊はまだ東方向へ続いている。この先がどうなっているのかだけでも確認しとくか。死体を捨て置き、俺は更に前進した。


 結局、回廊は二十メートルほど先で突き当りになっていた。隅々までチェックしたが隠し扉の類もあるようには見えなかった。尤も、俺の探索能力がまだ低いだけなのかもしれないが、取り敢えず何もないと確認できた。これは収穫である。これでこの回廊はエントランスのバリケードまで、ほぼ安全になったと考えられるからだ。もし敵が現れるとしたらあの扉からだけだろう。ならばそこだけ警戒すればいい。もう遠慮なく走れる。

 扉まで戻った俺は落ちている剣や盾を拾い集め、扉の前に立てかけた。これで扉を警戒する必要もなくなった。音にだけ注意していればいい。


 エントランスまで戻っても、二人の生き残りは相変わらず呆然と座り込んでいた。まぁ、行って帰って来るのに、多分五分くらいしか経ってないから仕方ないか。だが……
 さっさと動けよ──内心、舌打ちをした。蘇生の確率は死んだ時の状態と死んでからの時間経過に左右されると師匠は言っていた。つまり一分一秒でも早くカント寺院に運べばそれだけ生還の確立が上がる。逆に放置すればそれだけ確率は下がり、それどころか死体が無事である保障も無い(・・・・・・・・・)
 だからと言って俺が何かしてやれることは何も無い。これは茶ラ髪のパーティーの問題だからだ。それに頼まれても依頼されてもいないしな。
 さっきの兵士でいいか。誰でもいい、ちゃんと答えてくれるなら(・・・・・・・・・・・・)
「……あの、ちょっと聞きたいんスけど、いいっスか?」
「ん、またお前か……なんだ?」
 人は落ち込んでいる時、自分の殻に閉じこもっているようで実は周囲に敏感である。誰かが優しい言葉をかけてくれるんじゃないか、そんな淡い期待をどこかで必ず抱いてしまうものだ。
「ダンジョンに落ちてる物なんスけどね、拾って持って帰っても犯罪にはならないんスかね?」
「おいおい、そんなんで犯罪になったら戦利品も持ち帰れないじゃないか」
 ですよねー。知ってました。
「あ、だったら……死体(・・)の持ち物はどうなんスか?」
「同じだ。死体を漁っても罪にはならん」

「それは──冒険者の死体から装備を(・・・・・・・・・・・)剥いでも同じなんですかね(・・・・・・・・・・・・)?」

「……あまり褒められたものではないが、死体は友軍扱いにならん」
 つまり剥いでも問題無いって事だ。しっかり聞いたか?

「──だそうだ。何もしないなら剥がれるぞ、あいつら」

 俺にな。そう聞えた筈だ。
「──てめェッッ!!」
 一息で距離を詰めた戦士(ファイター)に俺は締め上げられた。やっと動いたか、遅ぇよ。
「……放せ。赤ネームになりてぇのか?」
「──なッ!? ……クソがッ!」
 慌てて乱暴に手を離した。便利だな、《IFF(これ)》。ほんと、愚者の統制(・・)だ。
「……厭ならそんな所でいじけてんじゃねぇ。誰もお前らなんて助けねぇんだよ、それを解れ。解ったらさっさと回収しに行け」
「ッッ!! 言われなくても……てめェに言われなくてもッッ!! 行くぞ、ステラ!」
「……え? ま、待って──」
 二人は俺に背を向けて回廊に戻った。これでいい。茶ラ髪、あんたが斃した亜人の鎖帷子は俺が回収させて貰うが、これでチャラだ。あんた達の犠牲のおかげで俺はあの亜人を斃せた。だからこれで借りは返した。まぁ結局全部俺の自己満足なんだけどな。死体を漁るって行為に対して、俺はどこかで免罪符を求めていたのかもしれない。
 回廊の奥に二人の姿が消えたのを確認して、俺も後に続いた。東方向は問題無い。だが北方向の回廊はまだ不明だ。
「…あんた、最低だな」
 すれ違い様、それまで黙っていた若い方の兵士が吐き捨てた。ああ、知ってるさ。それがどうした? 何もしないお前よりはマシだ。


 俺は三度(みたび)ダンジョンに立った…………ダンジョン探索ってこんなに出たり入ったりするもんなのかね?
 とは言えまだ探索をするつもりはない。俺はバリケードの正面、L字通路の内角にもたれて目を閉じた。ここならどちらの回廊の動きも探る事ができる。ここで様子見、だな。
 気配を消す、気配を探る、暫く同時にこなしていれば丁度いいスキルの鍛錬になりそうだ。

 五分ほどであの二人は最初の死体を引き摺って戻ってきた。思ったより時間が掛かっている気がする。あと二往復か。

 次第にダンジョンの空気に慣れてきた。僅か十メートル先も見通せない薄暗い闇の中に在っても平常でいられる。俺は我ながら呆れるほど落ち着いていた。
 まだ何も動きは感じない。だが俺の索敵範囲はまだ狭い。安心はできなかった。
 見通しの効かないダンジョンでは視覚よりも聴覚と嗅覚が頼りになる。それと触覚。空気の流れとかそう言ったモノを皮膚で感じ取れないか? 味覚の使い方は思い付かないが、五感全ての感覚を研ぎ澄まし、精度を極限まで上げる必要がある。まだ全然足りねぇ……

 再び二人が戻って来たようだった。ペースがさっきよりも随分遅くなっている。
 …だと言うのに、状況は逼迫し始めていた。
 微かな獣の臭いが回廊の奥から流れて来る。流石に空気の流れから存在を感じる事は無理か。遠くで犬の唸りの様な不愉快な低い声が断続的に聞える。それも複数だ。それは間違いなくこちらに近付いて来ていた。面白くない状況だった。

 さて……どうしたものか。敵が三体以上いれば俺に勝ち目はない。俺を突破されたら無防備なあの二人は蹂躙されるだけだ。つーか、考えるまでもないか。あの盗賊(シーフ)を見習うだけだな。サッサと逃げ出すに限る。逃げ込む先はすぐ近くに在るしな。これを利用しない手はないだろう。

 ダガーを両手に携え、俺は少しばかり回廊を前進した。奇襲でどれだけ数を削げるか疑問だが、多少の時間を稼ぐ事くらいならできるかもしれない。それしかない……か。

 闇に浮かんだ赤い〝(エネミー)〟の文字は全部で五つ。最悪だ。

 犬の様な唸り声と足音、僅かな布擦れの音、強烈な獣臭……回廊の薄闇の向こうから人影がぞろぞろと近付いて来た。尖った耳と尻尾のシルエット、そして闇に丸く光る五対の眼がせわしく左右を窺うように動いている。案外、体格は小さい。だがそれでも百六十cm以上はありそうだ。細身でしなやかなフォルムだった。
 先頭の敵影が射程に入った。逸る気持ちを抑えて投擲のタイミングを計る。一拍……二拍…二体目の敵が射程に入った。

 ──今。左右同時に頸の位置を狙ってダガーを投擲する。射線は狙い通り真っ直ぐ敵影に向かって伸びた。

「ギャヒィンッ」
「ガヒッ」

 命中した……だが敵は二体とも倒れない。それどころか刺さりもせずダガーが床に落下した金属音がはっきりと聞えた。
 ──拙い。
 初撃で数を全く削れなかった。背筋に冷たいものが走る。
 躊躇う事無くバリケード近くまで後退した。エントランスまで距離はざっと十メートルほど。ここならいつでも逃げ込める。
 ダガーを当てた二体が突進して来る。後続もそれに倣う。
 バリケードの篝火のおかげで周囲は少し明るい。おかげで接近してきた敵の姿をはっきりと確認できた。

 敵は犬の頭をした少し猫背の獣人だった。ああ、ファンタジーRPGで定番の雑魚だ。そのものズバリだな。コボルド?
 剣や槍、手斧で武装し、中には盾を構えた奴もいる。皆、粗末な服を着ていた。
 奇襲が巧く行かなかった訳が解った。奴等、正面からだと長く突き出したデカイい口で急所の喉が隠れてしまうのだ。硬い顎骨や牙に阻まれ──それでも多少はダメージを与えたようだが──致命傷には至らなかった。シルエットが大まかにヒト型をしていても、獣人とヒトでは構造が違う……くそっ勉強不足って事か。

「モンスターだ! 支え切れねぇ! 逃げろ!!」

 俺らしからぬ声量であの二人に注意を促した。これで聞えなかったは言わせない。さっさと逃げろ。
 五対一か。完全に無理ゲーです。同時に来られたら捌き切れん。て言うか囲まれたら詰む。
 小太刀を構えた。こちらから斬り込むは論外。防御に徹する。攻め手を捌き、受け流し、躱し、牽制してなんとかこの場を凌ぐ。あの二人がバリケードの内側まで戻る時間をほんの僅かなり稼げれば上出来、後は見計らって俺もバリケードに逃げ込めばいい。それで義理は果たせる。俺の中でさっきの顛末(・・・・・・)に終わりを付けられる。

 顔を怪我した最初の二体は激昂して襲い掛かって来た。この二体は頭に血が上ってるからか、行動が単純で捌きやすい。だが槍を持った二体と手斧と盾を持った奴が厄介だった。
 力任せに振るう手斧を下手に受け流そうものなら小太刀を圧し折られかねん。剣技なんて付け焼刃もいい所だからな。
 槍はもっと面倒だ。突きはともかく、他の奴と連携して足を払われるとバランスを崩しかねない。救いなのは素人目にも判る程、槍捌きが巧みではない事くらいだ。

 威嚇する唸り声や吠え声で喧しい事この上ない。おまけに獣臭かった。犬人(コボルド)はあまり戦いたくない相手だな。とにかく聴覚と嗅覚に優しくない。そしてかなり敏捷だ。誰だよ、コボルドが定番の雑魚なんて言ったのは。さっさと逃げたい。そろそろ逃げたい。本気でこれ以上はヤバい気がする。
 頭の中が熱い。極限の集中を続けているせいでアタマがオーバーフローしてんじゃないのか?

 必死で捌いていたつもりだったが、俺の意図に反していつの間にか壁面を背に追い詰められていた。
 背後を取られる心配がない代わりに、半円状に包囲されて突破も難しい形になってしまっている。じりじりと包囲が狭まって行くのが判るが、どうする事もできない。
 まだ傷一つ負ってはいないが、ジリ貧になっているのが解った。徐々に失っているのは空間。俺が自在に行動できる空間(スペース)が次第に小さくなっている。既に限界に近い。
 コボルドの剣を払いのけ、もう一方からの斬撃を身を捩って辛うじて回避できた。だが数歩分、後退してしまった。当然、コボルドはその分前に寄せて来る。
 ヤバい。躱せなくなる────突き出された槍を払った瞬間、逆から足を薙ぎ払われた。

 俺はバランスを崩され、転倒した。転がされて打ちつけた痛みより、斬り払われた右足の裂傷が問題だった。身動きが取れないほど酷い。抉られたような感覚? こんな激痛、生まれて初めてだ。
 歯を食いしばる事しかできない。息が詰まり声も出ねぇ。槍が突き出して来るのが視界の隅に映った。身体を無理やり転がしてコボルドの追撃を辛うじて躱した。更に逆手に振り降ろされた剣を払いのける。ほとんど無意識に身体が動いていた。だが……それまでだった。壁の間際まで追い詰められ、これ以上満足に身体を動かせない。
 最初にダガーを当てたコボルドだろう、顎が抉れている。獰猛な咆哮を上げて剣を振りかざした。

 由比ヶ浜の犬を助けた時、別に何も意識していなかった。黒塗りの車体が視界に入った時に「あ、やべぇ」と思ったくらいだ。後は意識が暗転して気付いたら病院だった。
 俺はあの時、死んでいてもおかしくなかった。だがそんな事は気付きもしなかった。後になって「ああ、そう言えば…」くらいにしか意識していなかった。既に過去の事になって、どこか他人事のように感じていた。

 要するに俺は、今初めて明確な〝死〟を意識していた。真っ直ぐ俺に向かって振り降ろされる白刃を見つめながら、次の瞬間、死ぬ──と。


「──おらァッッツ!!」

 ガキンッと鈍い金属音と共に斬撃は弾かれ、俺の前に見知らぬ男が立ちはだかった。
 上半身は金属鎧、左手にホームベースの様な五角形の盾を携え、右手には幅広の段平(ブロードソード)を構えていた。その背中は広く、大きくて、もし勇者とかそういった者がいるのなら、きっとこんな奴なのだろう。
 友軍を示す薄緑の〝N−Fig〟の文字が浮かんでいた。俺は、救われたのだと知った。

 コボルドが彼に斬りかかった。彼は盾を身構えたが、斬撃を受けるでもなく、あろう事か殴り飛ばした。よろけたコボルドは次の瞬間、袈裟に斬り伏せられていた。二方向から槍を繰り出されても盾のひと薙ぎで打ち払い、手近なコボルドの頭を叩き割った。力ずくでねじ伏せる圧倒的な剣撃だった。
 俺には避けるだけで精一杯だった複数のコボルドによる連続攻撃も全て盾でいなされ、その悉くにカウンターの斬撃を叩き込んだ。
 彼の登場から瞬く間に四体のコボルドが斃された。残る一体は盾のアッパーで打ち上げられ、格闘ゲームの様に宙に浮かんだ所を、強烈な斬撃で地面に叩きつけられ絶命した。
 五体のコボルドは、彼一人によって一分も掛からず蹴散らされていた。


「おい、大丈夫か……て、足やられてるのか。神臣!」
 挙動の怪しい男が彼に呼ばれて近付いて来た。どこかで見た事がある……ああ、映画館だ。この怪しげな動き、上映前にやる映画泥棒のCMだわ。後なんで盾で顔を隠してるんだろうか。
「僕を呼びましたか~、ヒビキさ~ん?」
「おう。こいつ、見てやってくれ」
「おやおや、怪我人ですか! いけませんね~、ここは僕にお任せを! あ、ヒビキさん。あの方々がお礼を言いたいそうですよ? 行って差し上げて下さい」
「了解……たく、相手が違うだろ」
 見れば彼のパーティーらしき見知らぬ冒険者達が死体の回収を手伝っていた。大きな籠を担いだ葉山グループの戸部みたいな奴と、金髪のガラの悪そうなイケメンが二人がかりで愚痴をこぼしながら死体を運んでいた。それを外ハネセミロングの女と、赤いバンダナを被ったツインテが見守っている……と言うより見張っていた。

「どれどれ~? ああっ! これは酷い! いけません! すぐに治療しないと! あ、申し遅れました。僕、月読神臣と申します。エセルナート(こちら)に来てまだ半年ですが、これでもレベル8の司教(ビショップ)でして、回復魔法なんてものが使えてしまうんですよ! すごいと思いませんか? ですから少~し、辛抱して下さい。パパッと治して差し上げますので」
「…ど、どうも…」
「では行きますよ~? 拡大せよ(ミームアリフ)汝の生命力(ダールイ)──《快癒(マディ)》!」
 柔らかな光が一瞬、俺の全身を包み込んだ。
「これでもう大丈夫ですよ。何せ、虫の息でも生きてさえいれば無理やり健康体に戻してしまう、とても暴力的な回復魔法ですから」
 確かにもう痛みは無い。それどころかコボルドとの戦闘の疲労すら全て消し飛んでいた。なにこれすげぇ。凄過ぎてチートにしか思えんのだが。
「…あ、あの、いいんですか? そんな魔法を使って貰って…」
「お気になさらないで下さい! 本日、僕はまだ《封傷(ディオス)》が五回も使えます! これだけあれば地下四階の探索も安心なのですよ。それに、さっきのヒビキさん、ご覧なにったでしょう? 彼も僕と同じレベル8なのに、僕と違ってと~ってもお強いんです! 僕の回復魔法では足りないくらいに!! だからこうして回復の薬(ヒール ポーション)毒消し(ラツモフィス ポーション)も、しっかり買い込んであるので、ご心配には及びませんよ」
 いや、そこはさっきの魔法を使ってやれよ。
「…そ、そうですか。どうも……助かりました」
「いえいえ、どういたしまして。では僕はこれで失礼します────ヒビキさ~ん、こちらは終わりましたよ~? あ、皆さん喉は渇いていませんか? 良い梅干し紅茶を用意してあるので、これからお茶にでもしませんか?」
「マジっすか! いやー、ちょうど喉が渇いたとこだったんすよねー。流石、神臣さん気が利くなー」
「まだダンジョンに来たばっかりじゃない。お茶は地下四階に降りてからよ、陽介」
 俺を治療してくれた司教(ビショップ)は怪しげな挙動でパーティーの元に戻って行った。大きな籠を背負った戸部?はリア充らしく輪の中でヘラヘラ笑っていて、赤いバンダナのツインテがツッコみを入れていた。冒険者のパーティーって言ってもやはりあんな感じか。俺には無理だな。
 それにしても、魔法か……初めて見た。確かにあれなら医者なんて要らない。しかしなぜあの司教(ビショップ)はずっと顔を隠していたんだろうか。

 何より、五体のコボルドを瞬殺して俺を助けてくれた戦士(ファイター)──あの姿は鮮烈で、俺には魔法よりも衝撃的だった。あの司教(ビショップ)、月読神臣の言葉によれば彼はレベル8。たった7レベルしか違わないのに、あんなに強いのか。あれほど開きがあるのか──なぜだか俺は、言いし難い敗北感に打ちひしがれていた。

 茶ラ髪のパーティーの生き残り二人は、彼──ヒビキと呼ばれていた戦士(ファイター)の手を取り頭を下げていた。俺もまだ彼に礼を言ってなかった。まぁ助けてくれと頼んだ訳ではないが、結果的に命を救って貰った訳だし。立ち上がれない程の怪我も治療して貰った訳だし。ちゃんと感謝の意を一言でも告げるのが礼儀だ。だが──だが俺は──素直に礼を言える気分ではなかった。彼の強さを認めたくなかった。

「──すッッごいよ! 比企谷くん!」

「……素晴らしいです」

「──見事だ八幡ッッ!!」

 昨日の藤村先生や師匠の言葉が蘇る。俺を認めてくれた。初めて誰かに認めて貰えたと思った。

「──普通のレベル1新人さんと比べたら比企谷くんのステータスは5~9レベル分くらい高いの」

「──この数値は13レベル以上(マスタークラス)のステータスとさほど変わりません。そして──上位職業(クラス)、忍者の適性があります」

「──お前は見所が有るッ! 俺もおちおち油断できないくらいに──否ッッッ!! はっきり言って俺より何かが3ランクくらい上だ。いずれ俺など簡単に追い抜いてしまうだろう……」

 あの人達は間違った事を言っていたのか?
 違う。間違っているのはいつだって俺の方だ。だからさっきも間違えた。アレは俺の戦い方ではない。彼だからできたんじゃない、俺にだってできる筈だ。できなければ、強くなんてなれる筈がない。たった7レベル差──下位クラスの戦士(ファイター)にできて、上位クラスの忍者()にできない筈がない。俺の事は藤村先生が、師匠が、ロザリンドが認めてくれた。だからきっとやれる。まだ俺は証明していない。一匹狼は群れた狗より強いって事を──


 月読神臣とヒビキ達リア充パーティーは回廊を北へと進んで行った。すれ違い様、俺は彼等に軽く会釈をするだけに留めた。やはり何かを話す気にはなれない。
 彼は盾を軽く掲げて応え、月読神臣はやはり盾で顔を隠していた。
「すげっ、忍者じゃん! イイなー、俺も忍者になれないっすかね、ヒビキさん」
「ハッ、お前にゃムリだ。忍者ってのは腰抜けには務まらねェよ。無駄なこと考えてねェで罠だけ外してろ」
「ランディ、言い過ぎよ。陽介にも夢くらい見させてあげなさいよ」
「お前が一番酷い気がするけどな。陽介、エセルナートには盗賊の短刀(シーブズ ダガー)と云うマジックアイテムがあってだな、それ使えば盗賊はレベルそのままで忍者に転職(クラスチェンジ)できるんだ」
「マジっすか!? それ、どこで手に入るんすか!」
「ンなモン、存在し(あっ)たとしても最下層に決まってンだろ、バーカ」
「ですよねー。やっぱ地道にレベルアップするしかないかなぁ……最下層かぁ」
「ムリムリ。諦めて荷物運んでろ」
「だいじょうぶ! 何でもやれば何とかなるもんだって! イケる、イケる!」

 俺が全力で警戒しながらおっかなびっくり歩くダンジョンを、彼等は軽口を叩きながら悠々と歩いていた。これが俺と彼等の間にある経験の差なのだろう。彼等にとって地下一階(ここ)は既に脅威でも何でもないのだ──レベル8、か。

 あのヒビキという戦士(ファイター)は俺に貸しを作った等とは思っていないだろう。ただ目の前で殺されそうな奴がいたから助けた。おれが由比ヶ浜の犬を助けたのと同じように。
 なるほど、捉え方とか多少は違うかもしれないが、きっと由比ヶ浜もこんな気持ちだったのかもしれない。
 借りた気になって勝手に拘っているのは俺だけ──だったら話は簡単だ。俺が俺の納得いくカタチで終わりにすればいい。

 今日の借りは、今日返す──

 そして俺は、彼等に背を向け歩き始める。

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B1:未来への片影のLv.1八幡

 後にその時を振り返った俺は思う──正気の沙汰ではなかったと。正直、思い出すだけでもぞっとする。だがその暴挙がなければ、今に至れなかった可能性もある。寧ろ、その暴挙が俺の未来を決定付けたのかもしれない。

 そもそも、戦士(ファイター)と忍者では訓練も、武装も、戦術も、何もかもが違う。全く別の役割をそれぞれが担う事でパーティーはより高度な戦術や柔軟な行動ができるようになり、結果として戦力が増大する。特殊な役割を担えるが故の上位クラスであり、張り合う意味など端っから無いのだ。
 なのに──俺にもできる筈だと、そんなくだらない意地を張っていた。そうしなければ、これ以上一歩も先に進めないような、そんな間違った強迫観念に囚われていた。何よりも、このモヤモヤとした気分を晴らしたかった。この形容し難い敗北感をいつまでも心に引っ掛けたままにしていられない。この気持ちに決着を付ける必要があった。今日の借りは、今日返す。それが例え一方的に借りた気になっているだけだとしてもだ。

 それは俺本来の思考ではなかった。初めてモンスターを斃して、殺されそうになって、ダンジョンの空気に当てられて、気持ちが変に昂っていたのかもしれない。

 そうでなければこんな無謀な事、俺が実行する筈がない──


 その場所に再び戻ると、亜人の死体は討ち棄てられたままで、惨劇の痕も未だ生々しく残っていた。扉に立て掛けていた盾や剣はなくなっていたので、あいつらが回収したのだろう。まぁ本命の鎖帷子は手付かずだったから良いんだけどな。さっさと回収して帰る……気にはならなかった。

 目の前には扉がある。その先は全く未知の領域だ。この扉の向こうは、師匠の言っていた玄室になっている可能性が高い。
 玄室ならば守護者(ガーディアン)が待ち構えている筈だ。仮にも守護者(ガーディアン)と呼ぶ以上、それなりの戦力が籠っていると考える方が自然である。独りで侵入するのはどう考えても自殺行為だった。
 当初の自己分析では、一対一なら圧倒できて、二対一でも奇襲前提だが何とかなる。だが三体以上はムリと、結論付けていた。実際、五体を相手にしてほぼ何もできなかった。それどころかあの戦士(ファイター)がいなければ確実に死んでいた。だが……

 あの戦士(ファイター)は独りで五体のコボルドを瞬殺した。
 レベルの差はたった七、経験の差もたった半年でしかない────やれる筈だ。俺のスタイルを貫けばできない筈がない、いや──できなければ、いつまで経っても追いつける気がしない。俺は、こんな所で立ち止まりたくなかった。

 木製の扉は内開きで、それほど頑丈ではなさそうだ。手応えからして鍵も掛かっていない。耳を当て慎重に中の様子を窺う。煙の臭いがする。言語は解らないが話声が途切れ途切れ微かに聞えてくる。亜人の類がいるようだ。それも複数、少なくない数がいるような感じだな。丁度良い、ここで返せる。この蟠りを終わりにできる。

 正面からまともに戦わない。それは俺の、忍者のスタイルではない。ならば──

 鎖帷子を剥がした亜人は銀貨(デナリ)も十枚持っていた。さっきのコボルドからも七枚ほど回収している。これに今持っている四十五枚を合わせて六十二枚……結構な数だ。これだけあれば十分だろう。
 鎖帷子に銀貨(デナリ)を全て乗せ、二つ折りにして挟み込む。ダガーを全て引き抜き、一本は口に咥え、一本は右手、残りを左手でまとめて掴み、銀貨を零さないように慎重に鎖帷子を両腕に乗せて準備完了だ。

 目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ましながら、心を切り替える。余計な感情はいらない。鋭く、鋭利に、刃の様に──

 使える物はなんでも使う。手段は選ばないし、そもそも選択できるほど俺にできる事は少ない。
 俺は弱い。だから全力を──いや、死力を尽くす。
 大きく深呼吸して眼を(みひら)いた。

 ──さぁ、始めようか。

 力任せに扉を蹴り上げた。
 中は少し明るかった。正面に薪を積み上げた小さなキャンプファイヤーが焚かれ、それを輪になって亜人が囲んでいた。
 今度は直立した豚だった。小太りで背は低い。顔は豚……なのか? 強いて言えば豚だ、うん。オークか。エルフに女騎士にオーク、全部揃った。もうどうでも良いけどな。
 それがざっと八体。突然闖入した俺を一斉に注目した。いいぞ、よく見てろ。俺は鎖帷子をキャンプファイヤーの手前にぶちまけた。鎖帷子から六十二枚の銀貨が炎に照らされキラキラと光りながら音を立てて散らばった。
 オーク達の視線は俺から鎖帷子、そして散らばった銀貨に移り、目の色が変わるのが手に取るように窺えた。コボルドが銀貨を持っていたんだ、お前等も興味あるんだろ?

「Qua Dungadunga!! Qui! qui!」
「「「Dungadunga!!」」」
「「Yeru giuruqa qau! qui! qauqui!」」

 理解できない言葉を喚きながらオーク達は散った銀貨に群がった。俺の事はガン無視である。一応、目論見通りだが、ここまで巧く行くとはな……ま、所詮オークなんてこんなもんなんだろう。

 隙だらけの背中やアタマが並んでいる。的は撃ち放題、狙うは後頭部、眼、そして首の側面──今度は間違えない。確実に撃ち抜く。

 右手のダガーで一射、オークAの後頭部に突き立ち、そのまま倒れ伏した。どいつもこいつも仲間が死んだ事にも気付かない。
 咥えていたダガーを手にして二射、顔を上げたオークBの右目を深々と穿つ。ゆっくり崩れ落ちた。流石に異変に気付き始めた奴が顔を上げた。じゃ、次はお前らな。
 左手のダガーを一本ずつ続けて二連、オークCとオークDの首を抉る。鮮血を噴き上げてのたうち回る。あれだけ失血すればすぐに事切れるだろう。この時点で奇襲の効果はなくなった。残りのオーク達は銀貨から漸く俺に注視するようになった。だが俺は気にしない。俺のターンを続けるまで。
 残ったダガーをそのまま左手で投擲、オークEの頸を穿って全弾放出だ。一投一殺、先制攻撃で五体斃せた。冷静に、ただ急所だけを狙い撃てばいい。
 俺にはデカい剣を振り回す膂力もなければ、甲冑を着て歩けるほどタフじゃない。だが必殺の頸刈り(キリジュツ)がある。重い剣も鋭い槍も魔法も必要ない。たった一本、たった一投、ダガーの一撃があれば事足りる。それが忍者だ。

 残り三体。まだ三対一、だが……最初から三対一と、八対一からの三対一じゃ、意味が違うよな。動きが鈍いぜ? 怯えてんのがまる判りだ。

 俺は玄室を駆けた。動け。立ち止まるな。速さで圧倒しろ。
 のろのろと反応が鈍いオークの背後へ回り込み、その背中に小太刀を抜き打った。
「Gyahyaaaa!!」
 オークFは悲鳴を上げて大きく仰け反り、床を転げまわる。付け焼刃の剣術だとこんなもんか。皮を裂くだけ、一撃必殺には至らない。
 あの戦士(ファイター)なら今のできっと両断できていた筈だ。俺には無い力、望んでも手に入らない力……羨んでも仕方ない。妬んでも意味がない。指を咥えて見ているだけでは差は埋まらない。だから──俺の武器を磨け。俺の技能で差を埋めろ。俺にしかできない戦術で不利も不可能も劣勢も全て覆せ。

 残りのオークが左右から挟み込んで来た。よく見れば片方は走り方が少し歪だ。片足に怪我なり障害なりでもあるのだろう。それじゃ機敏に反応したくてもできんよな。
 片足の悪そうなオークGはオークHに比べてやはり一拍テンポが遅い。元々いい加減な連携がさらに綻びが露呈していた。これならいくらでも躱せる。
 見計らってオークGの脛を蹴り払ってやると、俺の目論見通りオークHを撒き込んで派手に転倒してくれた。ナイスアシスト。
 オークHは転倒こそしなかったが、前のめりによたよたとよろけて、無防備なうなじを丁度良い高さと位置で俺の前に曝してくれた。すれ違い様に一閃。当り所とタイミングが良かったのか、オークHの首を綺麗に刎ねていた。起き上がろうとしていたオークGの目の前に、そのアタマが転がって行った。

 それが決定的だったようだ。戦意を失ったのか、オークGは転がるように残ったオークFの元に駆け寄った。そこで何事か囁き合った二体は、思いも寄らない行動をした。
 二体のオークは武器を捨てると、俺に向かって額を付けて平伏したのだ。降伏すると言う意味だろうか。それとも命乞いか? どちらにしてもそんな知能がある事に驚きだった。何より我が身を顧みる事無く、ただ命惜しさに相手の慈悲に縋ろうとする無神経な態度に唖然とした。

 意味の解らない言葉を繰り返しながら、二体のオークはガタガタと震えていた。
 小太刀を鞘に納め、俺は落ちていた手斧を二本、両手に持った。俺が近付いても二体のオークはただ震えるだけで動かない。その様は呆れるほど浅ましかった。
 お前ら、仮に俺がそうやって頭を下げた時、許してくれるのか? 命乞いをするニンゲンを見逃すのか? 見逃さないよな?
 そもそも生かす理由がねぇよ。お前ら、今殺さないと、また誰かを襲うだろ? 弱い誰かを寄って集って犯すし、殺すよな? エルフや女騎士がお前らに犯されるジャンルは嫌いじゃないけど、別にお前らが好きって訳じゃねぇんだよ。寧ろ、叶う事なら容赦無く殺してやりてぇぐらいに思ってた。こんな風にな。
 ガンッ、ゴンッ。
 オークの頭に手斧を叩き込み、玄室で動く者は俺だけになった。最後がこれか、締まらねぇな。だが────

 できた。ちゃんとやれば、できるって事を実証できた。これでいい。あのモヤモヤはもう感じない。さっきまでの事は全部終わりにできる。これで全部返せた筈だ。

 さて……やるべき事は成し遂げた。ならばちょっとしたご褒美があって然るべきではないか?
 オークの死体が散らばった血生臭い玄室ではあったが、俺にはここが宝物庫にも思えた。奥の壁面には巨大な宝箱がその存在感を誇示していたからだ。
 ダンジョンの宝箱とかって、ゲームでもすっげぇワクワクするんだよな。メインストーリーを進めている時であろうと、見知らぬダンジョンが目についたら取り敢えず乗り込んでしまうのは、宝箱を開けて回るのが楽しいからに他ならない。


 宝箱も気になるが、まずは散らばった銀貨(デナリ)を最優先で回収した。どこかに紛れてしまったのか、少しばかり見つからなかった。だが僅か7ゴールドでオークの不意を突けたのだから、投資としては十分過ぎる見返りがあった訳だ。
 五十五枚の銀貨(デナリ)を詰めた袋はずしりと重い。鎖帷子と一緒にリュックにしまい込んだ。満足できる収入である。ニヤけてしまうのが自分でも分かった。こんな時誰かが側にいたら盛大にキモイだの何だのと言われて、メンタルに要らないダメージを被ってしまうのがこの世の摂理、予定調和というものだ。まぁ、ぼっちには意味のない節理であり、関係のない調和なんだがな。仲良しごっこに夢中なリア充パーティーはせいぜいこの不条理に振り回されるがいい。
 ははっ、やはりぼっちは最強だ。

 オークが残した武器はどれも持ち帰るメリットはなさそうに思えた。わざわざ持ち帰っても10ゴールド以下の査定が出たら赤字なのだ。どれも先刻持ち帰った短剣や手斧とさほど変わらないように見えるし、きっと回収するだけ無駄だろう。
 因みにコボルドの持ってた武器も同じ理由で回収しなかった。懐に小銭袋を入れてる奴がいたのでちょっとした収入にはなったが、オークは俺がばら撒いた銀貨以外、何も持っていなかった。
 よく見れば玄室の隅に大きめの薪がうず高く積んであったが、こんな物を持って帰ってもなぁ。つーかこれ、さっきのオークが持ち込んだのか? なんとなく気にはなるのだが……そんな事より宝箱だ。

 初めて見る本物の宝箱だった。
 訓練場でピッキングとトラップのレクチャーを受けた時に扱った宝箱よりも大きい。中身も期待で……て、オークが守ってた宝箱だしな。あまり期待しない方が無難か。
 だがデカいな。業務用の冷凍庫くらいありそうだ。

 宝箱の周囲を油断なく調べた。トラップワイヤーは……と。あった。オークの癖に手の込んだカモフラージュをしてるじゃねぇか。だが俺の目はごまかせねぇ…………ここか。
 ワイヤーを辿って行くと三メートルほど離れた壁面に少し窪んだ場所があった。高さは二メートル弱と言ったところか。これも石や木片でカモフラージュしてあったが、どうやらクロスボウが仕込んであるようだった。迂闊に宝箱を開けるとトラップワイヤーが切れて、クロスボウが発射される仕組みである。
 単純な罠だな。ぶっちゃけ、わざわざトラップを解除するまでもない。矢の射線から外れた位置で箱を開ければ良いだけだ。寧ろ錠前の方が問題である。オーク共は鍵を持っていなかった。開ける為にはピッキングをしなければならない。
 リュックから新品のピッキングツールを取り出して、宝箱の前に陣取った。オーク達のキャンプファイヤーのお陰で多少は明るい。師匠は鍵開けくらい真っ暗な場所でも手探りだけでやってのけろと言ったが、いくらなんでもまだ無理だ。
 鍵穴にピックを突っ込み、針り金やらマイナスドライバーのような工具で錠をこじ開ける──このスキル、かなりヤバいよな。まぁ街中で使ったら一発で犯罪者(赤ネーム)なんだろうけど。
 暫くカチャカチャと捻ったり捩じったり(つつ)いたりをして、掌の汗が気になり始めた頃──

 ガチャッ。と、錠が開く小さな金属音が静かな玄室に響いた。

 初めての宝箱だ。早く開けてみたいと逸る気持ちを抑え、クロスボウの射線を慎重に測って立ち位置を決める。ここなら問題無いだろう。一応、周囲に複数仕掛けてられていないか確かめた。俺なら三方向くらいからの十字砲火にして、それぞれ微妙に射線をずらして仕掛ける。できれば設置する高さもそれぞれ別にするのが望ましいだろう。まぁよほど上手く仕掛けないとトラップワイヤーでバレバレになりそうだが。
 箱を開けると同時に、切れたトラップワイヤーと連動してクロスボウが発射された。
 カンッ。クロスボウから放たれた矢が床に弾かれる。飛来した矢は一本だけ。それほど大したトラップではなかった訳だ。所詮オークだしな。
 宝箱の開封である。やべぇ、ちょっとワクワクしてきた。開けた瞬間、中から光りが溢れ金銀財宝がどっさりとか妄想してしまう。だって宝箱だもん、仕方ないよね。だが現実はいつだって非常だ。知ってた。だってこれ守ってたのオークだし。

 中には小銭袋らしき革袋が二つ、チーズの欠片が三切れ、萎びたリンゴ、芽が伸び始めたジャガイモが5個入っているだけだった。

 ははっ。まぁ……こんなもんだよな。
 急に疲れた。俺は開けっ放しの宝箱にもたれ掛かり、その場にへたり込んだ。
 少なからず期待していた。死地を、不可能を、ほんの僅かでも前途を切り開いたつもりだった。
 だから、ちょっとくらいご褒美があってもいいんじゃないか? あるんじゃないか? 淡い期待は容赦無い現実に吹き飛ばされた。やはりダンジョンは甘くない。

 片方の革袋には銀貨(デナリ)が三枚、銅貨が十二枚入っていた。オーク八体分の資産にしては細やかだな。だがまぁ、チップを払う分には重宝するか、銅貨がこんだけあれば。
 もう片方には青い宝石が一つ。結構大きい。カットされている訳でもないし、五百円硬貨くらいのサイズがあるので、サファイアとかではないわな。滑らかな楕円で涙滴型に近い。透明感のある澄んだ青色は一点の曇りも無いように見えた。この宝石はせめてもの慰みだった。どれだけ価値があるのか、定かでは無かったが。

 オーク八体を斃して、罠まで付いた宝箱の中身が宝石一個と4.2ゴールドか……六人パーティーだったらこれを六等分なんだよな。一人銅貨七枚、1ゴールドにもならないのか。
 奇襲もかけずに、正面からまともに六対八で戦えば、よほど実力差が無い限り怪我人の一人や二人くらい出るんじゃないか? 下手すると死人も出るかもしれない。その結果がこれ(・・)だったら目も当てられねぇな────ん?
  ふと、壁面に仕掛けてあったクロスボウに目が止まった。

 あのクロスボウ……外して持って帰れねぇかな?

 大きな薪を足場にして設置してあるクロスボウを調べてみた。
 本体は金具で土台にしっかりと固定されている。木製の土台は壁面にボルトで固定してあったが、土台自体はそれほど頑丈な板ではなさそうだ。手斧で壊せそうだな。丁度、売り物にならない手斧ならオークが持っていた。強引に破壊しても本体が無事なら問題ないだろう。これ(・・)も少しは金になるんじゃないか?


 少しばかり重労働だったが、なんとかクロスボウを回収できた。
 余計なパーツがくっ付いてはいるが、工具があれば綺麗に外せる筈だ。この程度なら査定に響かないと思いたい。ついでに手斧もあると便利だ。取っとこう。
 朝まともに食事をしてないからか、少し腹が減ってきた。換金したら飯にしよう。ツケも返さないといけないしな。さっさと戻ろう。
 宝箱の中身がアレで、張り詰めていた緊張の糸はぷっつり切れてしまったようだ。よくないな、とは思うのだが、ここからバリケードまでの僅かな距離を、わざわざ警戒しながら隠密行動する気にはもうなれない。まぁ、きっと回廊はまだ安全だろうさ。そうに違いない。随分いい加減だと思うが、いるかどうかも分からないモンスターにびくびく怯えるの止めにしよう。
 玄室を後にした俺は、何かが吹っ切れたような気がしていた。


 エントランスにはあの二人の姿も、茶ラ髪達の死体も既に無かった。今頃はもうカント寺院で蘇生を行っているのかもしれない。死者が生き返る、エセルナート(ここ)では奇跡が大安売りだな。

 ダンジョンの外はまだ(・・)さほど日は高くなかった。随分長い時間ダンジョンに籠っていた気がするが、実際にはそれほど長時間いた訳ではなかった。しかし時間が分からないってのも不便……でもないか。どこも二十四時間営業で時間を気にするような事が何も無いしな。
 なんとなくだが、少し得した気分だ。午後は丸々時間が空くんじゃないか?
 流石に今日はもうダンジョンに潜る気にはなれないので、どこかまだ行ってない施設を覗いてみるのも悪くないかもしれない。図書館があるらしいので、ダンジョンのモンスターについて調べてみるのもいいな。本来ならダンジョンに入る前に予めリサーチしておくべきだった。今回は切羽詰まっていたから仕方ないとしても、これからはできるだけ情報を集めてから探索を始めるべきだな。

 ま、取り敢えず腹ごしらえか。飯食ってマッカンカッコカリを飲んで、マスターにツケを返してから午後の事を考えよう。
 所持金と今後の収入にある程度目途が付いたので、俺は少しばかり心に余裕を持てるようになっていた。


 先刻訪れてからまださほど時間が経ってないからか、店内にキラの姿はやはり見当たらない。
 知らずあいつの姿を探していた自分に気付き、若干の戸惑いを感じていた。アレだよ、いろいろしんどい目に遭ったからな、戸塚とはタイプ違いではあっても限りなく天使のキラに癒されたいとか本能的に思ってしまったとかそんな感じだ。同じラバウル提督だし。榛名や飛龍の改二とかについてまだ何も聞いてないし。あと加賀さんよりキラの方が買い物しやすいから。
 だってこの人、さっきもだけどすっげぇ睨んでる気がするんだよなぁ……俺なんかした? 思い当たる節は、腐った目くらいなんだが……ああ、キラと二人で加賀さん呼ばわりしたから機嫌を損ねたままなんだな。くそっ、失敗した。戦利品の下取りを独占してる商人の機嫌を損ねた状態で、今後もずっと取引きし続けるしか選択肢が無いなんて……
「また貴方なの? 今度は何の用かしら?」
「あ、いや……あの、キラはいないんスか?」
「あの子なら真夜中を過ぎた頃からずっと鍛冶場に籠りっきりよ。変な夢を見てインスピレーションを得たとかなんとか。あの子の悪い癖ね。のめり込むと自分も周りも何も見えなくなるの。ああなったら、何を言っても聞いてくれないから。その内、お腹が空いたら自分から出て来るわ」
 名匠(マイスター)だけに、そう云う所はやはり芸術家肌なんだな。
「…それだけかしら?」
「あ、その…買い取りお願いします……これと、これ」
 カウンターに鎖帷子とクロスボウを置いた。
「……また妙なモノを。設置式のクロスボウですか。それと鎖帷子(チェインメイル)ね……鑑定料は20ゴールド。チェインメイルは状態が悪いわ、25ゴールド。設置式クロスボウは……悪くはないけど需要もあまり無いから75ゴールドよ。差し引いて80ゴールドね」
 な…鎖帷子が25ゴールド…だと?
「あの、鎖帷子の値段、さっきと随分違うのは…」
「最初に貴方が持ち込んだのはチェインホーバーク。これはチェインメイル。どちらも同じような物だけど、分けて区別しているの。違いは主に構造と材質ね。軽くて柔らかい素材を使っていて、丈が腰の辺りまでの物をチェインメイル。材質がより硬質で、丈が膝くらいまであってスリットが付いてる物をチェインホーバーク。どちらもそのまま服の上に着てもいいし、胴当て(ボディアーマー)胸当て(ブレストプレート)の下に重ねて着るのも良いわね。ホーバークは材質的に少し高価だけど、どちらも金属鎧としては軽いし、防刃性にも優れているわ」
 解りやすい解説をどうも。つまり最初のがアタリ、これはハズレ。そう云う事か。まぁハズレで状態が悪くても25ゴールドの査定が付くのなら、おいしい戦利品には違いない。鑑定料引いても15ゴールドだしな。
「それと……この宝石なんですが」
 一応、これが今回の戦利品の目玉だよな。革袋から青い宝石を取り出した。
「これは……珍しいですね。若返りの石ね。良い物を見つけたわね」
 わ…若返りの…石、だと? オークが持ってっていいのか、そんな凄そうな物……
「え…と、これで、若返るんですか?」
「魔力解放すれば使用者の年齢が一歳若返るわ。一度使ってしまえば無くなってしまうけれど」
 なにそれすげぇ。ちょっとオークを見直した。
「それで、下取りは幾らなんですか?」
「買い取れないわ」
「は?」
「これは、買い取れないの。価値はゼロよ。鑑定料も必要ないわ。どうしても現金に変えたいのなら、再来週のバザールでオークションに出品しなさい。物好きが高値を付けてくれるかもしれないわね」
「そ、そうですか…」
 まさかのゼロ査定……やはり所詮オークの戦利品か。しかし、再来週のオークションか。まだチャンスがあるかもしれない。要チェックだな。


 本日二枚目の金貨(デュカード)大銀貨(ドラクマ)三枚を受け取り、所持金は219.2ゴールドになった。鎖帷子と若返りの石は当てが外れた形だが、一日の稼ぎとしては悪くないのではなかろうか。少なくとも小銭に困る事はなさそうだし。
 金貨(デュカード)大銀貨(ドラクマ)だけ詰めた革袋をリュックの底にしまい込み、銀貨(デナリ)も二袋に分けて片方を懐に入れた。小さな銀貨とは言え、30枚も入ってると結構重く感じる。
 これだけあればロイヤルスイートに泊まって風呂入るってのもアリだな。いや、今晩はスイートで我慢して、明日また稼いで金銭的にもう少し余裕ができてからロイヤルスイートで風呂の方が堅実だな。
 教室や部室では不特定多数の潜在的脅威から身を潜める為にも、最低限のTPOを弁えて身嗜みを気にする必要があったが、ここではそれを気にする必要が無い。ぼっちだしな。小町と戸塚もいないし。自分がどれだけ不快さを我慢できるかを基準に風呂と洗髪の回数を決めればいい。安くない経費が必要になる以上、毎日風呂に入る必要はない……嘘です。毎日風呂に入りたいです。くそっ、やはり今晩からロイヤルスイートだ。風呂に入ってさっぱりして、明日また宿代を稼げばいい。決定。


「ロイヤルスイート、一泊。風呂付で頼む」

 青い瞳の瞳孔を真ん丸に広げて目を瞠く管理人さんの顔はなかなかの見モノだった。
「……呆れたわ。本当に、そんな大金を稼いできたの? しかも午前中だけで」
 確かに75ゴールドは大金だな。稼いで来ると言ったつもりだがね。ホントに稼いで来るとは思わなかった? 残念、ロイヤルスイートでした。
 冗談抜きに、今朝の手応えからしてこれくらいなら毎日稼げない金額ではないと思う。つーか、個室と風呂の為だ。全力で稼ぐだろ、常識的に考えて。
「おう。死にそうになったけどな……ほら、宿代と風呂代。これチップな」
「確かに75ゴールドね……大銀貨(ドラクマ)二枚と銀貨(デナリ)五十五枚とか、嫌がらせとしか思えないけど。でもロイヤルスイートに泊まるお客さんにしては、チップが少なくないかしら。銅貨一枚だけ?」
 正直、ちょっと重かったので、懐がすっきりして助かった。わざわざ両替とかする必要はない。こうやって適切に使えばそれで済む。
「…明日も泊まりたいから、あんまり余裕が無い……つーか、チップ増やしたら何かサービス付けてくれんのか?」
「そうね、あと銅貨九枚で背中を流してあげましょうか?」
 冗談ですねそれくらいぼっちにも分かります。つーか今時そんなの本気にするような奴はいねぇよ。まぁ冗談なら乗ってやるけどな。無視(スルー)したらそれはそれで機嫌が悪くなりそうだし。
「安いな。払うわ」
「あら素直ね。なら1ゴールドよ」
 え? 冗談ですよね? 戻って来た銅貨をポケットにしまう俺の困惑を他所に、当の管理人さんは涼しい顔で掌を突き出している。早く出せ、と。
「あの……マジで?」
「さぁ? どうかしらね。1ゴールド、早く出しなさい」
 あれ? 結局、1ゴールド取られただけじゃね? しかも追加のチップを早く出せと催促するとかどうなのさ。まぁいいか、どうせ昨日から散々ぼったくられてるし。それに1ゴールドで機嫌良く風呂の準備をしてくれるのならそれでいい。風呂代が5ゴールドでも6ゴールドでも、さして変わらないからな。
「ほらよ。あー、これからまだ出歩くから、風呂は夜に戻ってからでいいか?」
「ええ、構わないわ。あんまり遅くなったら割増金を請求するけど」
「早めに戻るよ。じゃ、また後で」
「ええ。いってらっしゃい、八幡」
 もう慣れ……ねぇよ、ほんと雪ノ下に名前呼ばれてるみたいで違和感しかねぇよ。姿形は全く似てないのにな。主に胸部装甲とか──て…なんか一瞬背筋に悪寒が走ったのは気のせいだよな?


 無駄に増えた小銭を管理人さんに押し付け、最良の個室と風呂を確保してのけた華麗な費用対効果を自画自賛せずにはいられなかった。今後も入手するであろう大量の銀貨(デナリ)の使い道が大筋で決まった瞬間である。
 小銭を上手く捌けて懐具合はすっきりしたが、腹の中身が空っぽ過ぎて情けない鳴き声を上げる始末だ。いい加減何か詰めたい。朝、マスターが淹れてくれたスープのおかげでダンジョンにいる間は何ともなかったのだが、その効果時間は切れてしまったようで、俺は耐え難い空腹感に苛まれていた。
 どこかのしがない個人営業の輸入雑貨商ではないが……腹が、減った。

 その時、極度の空腹が原因なのか、俺の嗅覚はダンジョンの中で感覚を研ぎ澄ました時と同じように鋭敏になっていた。だから、嗅ぎ付けてしまったのだ。


 ……カレー、だと?

 雑然とした裏通りの奥から、あの香ばしいスパイスの匂いが微かにではあるが確かに漂っていた。

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霧雨魔理沙とLv.3八幡

 賑やかな表通りから一歩狭い路地に入ると、そこはまるで別世界のようだった。

 うら寂れたその路地を行く者は俺だけだ。だが無人と云う訳ではない。人通りこそ皆無だが、建物の壁や軒下には座り込んで蹲ったままピクリとも動かない者や、だらしなく身を投げ出して寝そべっている流民や浮浪者らしき人々の姿が点々としている。彼等は皆、黄色表示(アンノウン)だ。
 この路地には、あれほど溢れていた友軍色の緑が一人として存在していない。裏路地に入っただけで、ほぼ敵地かよ……まぁ、日本も似たようなもんだったか。少なくとも俺の周囲には、味方らしい味方は小町だけだった。
 そうそう無いとは思うが、それでも無防備に迷い込んだ人間を見かけ、良からぬ事を考えてしまう愚か者がいないとも限らない。その不埒者が赤ネームになってすぐさま討伐されたとしても、実際に被害を受けた者にしてみればなんの慰みにもならないだろう。それに直接襲われなくても、流民同士の諍いに巻き込まれる事もあるかもしれない。こう云った場所は、不用意に立ち入るべきではないのは城塞都市も日本も同じだろう。
 煤けて薄汚れたモルタルの壁が狭い路地に隙間無く犇めき合い、乱雑で無計画な建て増しを繰り返したであろうその建造物群は、どれも大きさも幅も高さも全てまばらで纏まりが無かった。
 奇妙な高層建築物を呈した過密集合バラック群の所為か、ここは昼間なのに日の光がほとんど遮られていてどこも薄暗い。風通しも悪いようで、停滞した空気が酷く澱んでいる。バケツの底で生乾きになったボロ雑巾にも似た饐えた臭いが、路地裏特有の黴た様な厭な臭いと混じって実に不快だ。だがそれ故に、すれ違い様のシャンプーの残り香みたいにほんの微かであるにも関わらず、あの馨しい芳香を目敏く、そして印象深く感知する事ができたのかもしれない。最も、どれほど集中して嗅覚を研ぎ澄まそうとも、時折ほんの少しだけ流れる生暖かい風に乗ってくる仄かな匂いを、勘を頼りになんとか追いかけるのが精々だった。匂いの元は移動しているような気がする。誰かが運んでいると考えるのが自然だろう。丁度良い。追跡の鍛錬にもなりそうだ。
 雑然としたバラックの二階や三階の窓には、狭い路地を挟んで向かい側の窓へと幾筋ものロープが渡っている。そのロープには粗末な衣服やシーツ等の洗濯物がぶら下がっていて、それと似た様な外国の景色をテレビか映画で見たことがあった。尤も、その時の記憶ではこれほどやさぐれた感じではなかったし、もっと清潔感があったような気もする。思い出補正って言うのかね? 小町と一緒に観ていたなら、多少美化されてしまっても仕方ないよな。

 路地を抜けて広々とした通りに出ても、そこはやはり表側(・・)ではないと容易に知れた。
 目に付く建物は先程の路地とさほど変わらないが、陽当りがマシな分だけ外壁のモルタルは多少なりとも綺麗に見える。一応、白壁の街並みだ。しかしその形は歪な蟻塚のように奇妙で煩雑だ。表通りの建物も随分増改築を繰り返していた風ではあったが、ここらの景観に比べるとよほど整然として統一感があった。
 青い空に白壁の街並み……パッと見は地中海沿岸のリゾートを彷彿とさせるが、実態はそんな穏やかではあるまい。北アフリカのパリなんてキャッチコピーのアルジェなんて、古くは海賊の根城、割と最近までテロリストの温床みたいな側面を持っていた訳だしな。

 粗末なテントの露店が通りのあちこちに雑然と並んでいて、その様はまるでやる気のない運営が催したフリーマーケットだ。人通りはそれなりだが、やはり緑よりも黄色が多い。サイファー通りと同様に、兵士達が所々で立哨している姿がなんとも心強かった。尤も、先程の路地裏にしろ、このバラック通りにしてもさほど怖いとは思わない。能天気に《愚者の統制(IFF)》や衛兵に守られているとかではなく、単にワードナの地下迷宮(ダンジョン)に比べたら多少剣呑な街の区画など、どうと云う事もないだけだ。
 今の俺なら何かあっても、身を守るだけなら余程の事がない限り容易い。街のごろつきに後れを取るかよ。そう思える程度の自信と余裕が、昨日の訓練と今朝の実戦を経て、俺の中で生まれていた。問題なのは正当防衛が成立するかどうかだが、それも相手が緑以外なら考える必要も無い。
 なるほど、強者は何があっても対処できる自信があるから、どんな時でも堂々としていられるのか。雪ノ下陽乃は常にこんな感覚だったのではないか? そう思うと少しだけ彼女が身近に感じたような気がした。まぁ、俺の勘違いである可能性も多分にある訳だが。それに妙なシンパシーはあっても、実際の彼女との距離は以前も決して近くはなかったが、今やそれと比較にならない程に果てしなく離れてしまっている。

「よう! こんなとこで会うなんて奇遇だぜ! お前も買い物か?」
 往来の真ん中で大声で世間話かよ、はた迷惑な奴だ。まぁガラの悪そうなのが其処彼処に溢れてるしな、お育ちもよろしく無いようで。つーか、そんな事はどうでもいい。とにかくカレーだ。カレーの匂いの発生源を探さねぇと……なんでアクセサリーの露店の隣がモツ煮込みやってんだよ、匂いがさっぱり判んなくなったじゃねぇか。
「おい、聞いてんのか──て、無視か!?」
 あー、モツ煮込みも美味そうだなぁ。これで妥協しとくか? いやいや……まだ諦めるには早いな。あの路地からこう来て……風上はあっちで……こっち方向に流れて来てたとして……向こう、か?
「……変な目のクセに、わたしを無視するとはいい度胸だぜ……て──おい、待てコラ!」
 おい。誰だ今、俺の目をディスった奴。ああ、すれ違った人全員ですね知ってま「ぐえっ」襟を不意に引っ張られ、俺は喉を詰まらせた。なんか昨夜もこんな事があったな。流行ってんのか? やめてくれ。雪ノ下はともかく、不特定多数の人間にまで比企ガエル君とか呼ばれるようになったら……なってもさほど困らないか。寧ろ、未だに後ろ襟を掴んだまま離そうとしない襲撃者が問題である。
 文句の一つでも言ってやろうと振り返った俺の腐った目は、平常の二割増しくらいに暗く澱んでいたと思う。ダンジョンで全力警戒する感覚で嗅覚を集中していたので、多分眼付きも相当鋭かったんじゃないか? 由比ヶ浜とか半泣きするレベルで。だが真っ直ぐに俺を射貫く澄んだ金色の瞳は全く動じていなかった。逆に俺の方が圧倒されて、堪らず視線を逸らしていた。
「あ…あの、おれ、俺に何かご、御用でしょうか?」
「さっきからこの魔理沙様が呼んでんのに、ガン無視するとはいい度胸だなぁ、変な目の八幡?」
 とんがり帽子の黒くて白いのがいた。全体的に黒っぽい。白いブラウスとエプロンは丁寧にアイロンがけしてあるのか、シワのひとつも変な折り目も全くなかった。昨夜も思ったんだが、なんで三つ編みが片方だけなんだよ。毎朝片方編んだら力尽きてんの? つーか犯人はお前かよ。あとその背中のリュックサックは何だ、まるで蝸牛じゃねぇか。どこの迷子の幽霊だよ?
「…あー、ひょっとして俺に言ってた?」
「この期に及んで、まだ疑問形か!? ずっと面と向かって呼んでたろ!? おまえ……難聴のフリして、わざとそれ言ってんなら、パワーレベル3の全力《火球(ハリト)》で燃やすからな」
「あ…いや、ほら、俺ってぼっちだから。街で誰かに声掛けられるとか基本ねぇから。そもそも知り合いもいないし。俺じゃない誰かに話しかけてると思うだろ、普通」
 あとその脅迫は無駄だ。それやったらお前が詰むだけ……自爆テロ? 止めて、マジで止めて。まだ怪我した時の治療費を稼げてないから。くそっ、微妙に脅しが成立していやがる。
「おまえの記憶力はニワトリ並みか? 昨日、ちゃんと自己紹介しただろ。おまえはわたしの知り合いだし、顧客リストにもしっかり書き込んでるんだ。誰がぼっちだ、適当な言い訳はやめろよな」
 おい、やめろ。ほんと勘違いするし、うっかり本気にしちゃったらどうするんだ。そんなに真っ直ぐ見るな心拍数上がって過呼吸にでもなって新しいトラウマ生産しちゃったらどうしてくれんだよ。
「……え、あの……そうなの?」
「そうだよ。今度私を無視したり、聞いてないフリとかしたらファイナルマスタースパーク撃ち込むからな」
 何それどんな必殺技だよ。つーかそれ、中二病臭くね? てか、この世界の魔術師(メイジ)って、ほんとにそんな魔法使えんの? え? マジで?
「お、おう。以後気を付けるわ」
「そうしろ…………まぁ、スペルカードもミニ八卦炉も無いから、今は使えないんだけど」
 おい、使えないのかよ。つーか邪気眼の一種? エターナルフォースブリザードかよ。びっくりさせやがって。そういや、その格好とか如何にも魔法使いって感じだよな。そのファイナルマスタースパークとやらの効果はアレだろ──相手は死ぬ。おっかねぇな。
 だがその痛さ(・・)が、胸の奥に封印した筈の見たくも触りたくもない"モノ"を否応無く意識させ、俺の心を苛立たせる。アレはいつか辿った己の姿だ。全部捨てたつもりの過去は、いつまで経っても足元に絡み付いたまま離れてくれない。ずっと心を苛み続けるのだ。それ故の病である。だから同類など見たくもないし関わりたくもない。だが俺の気持ちなどお構いなしに、こうして向こうから次々に這い寄って来る。現実は優しくない。俺に優しかった事など一度もない。
「おまえ……今、とんでもなく失礼な事を考えてるだろ?」
 ……なんで解った? 見かけによらず結構鋭いのな。
「…べ、別にこれと言って特に考えてねーし? 強いて上げれば西之島の海底火山噴火? あとはアレだ、アルペジオコラボな」
「思いっきりきょどってるじゃねーか。てゆーか、おまえは顔にすぐ出るんだよ。下等妖怪が逃げ出す程度の胡散臭い目付きになってるぜ」
 オークとかコボルドが逃げ出すのか、俺の目ヂカラすげぇ。それなんて邪眼だよ、いつの間に腐った目から超進化したんだ。つーかそれ、超便利そう。マジでそんな効果付かねぇかなぁ。
「全く……失礼な奴だぜ。けどわたしは寛大だからな、昼飯奢ってくれたら許してやるぜ」
「…まぁ、それくらいなら構わねぇか」
「ほんとか!? ほんとに奢ってくれんのか?」
 やけに食い付きがいいな。どんだけ飢えてんだよ。まぁ懐に余裕があるから、昼飯奢るくらい問題ないか。こいつは今後も、俺に代わってマスターとアルファさんに注文を伝えると言う大事な役目があるからな。
 こちらの依存性が強くて、主義主張とは無関係に"関係を切る訳にはいかない"コミュニティとの繋がりは、なるべく慎重に、なるべく丁寧に、そしてデリケートに扱うべきだ。多少、遜ってみせるくらいが丁度良い。特に俺みたいな社会的弱者(ぼっち)は、要らぬトラブルを回避する意味でも、人畜無害を必要以上に装う事が最も簡単で効果的な生存戦略である。
 例えこの黒っぽい末端構成員(バイトのウェイトレス)であろうとも、最低限のご機嫌取りをおろそかにしてはいけない……て、面倒臭ぇぇぇ! そう云うのが厭だから、ぼっちやってるのにな。エセルナート(ここ)は、ほんとぼっちに優しくない。あのラマ絶対に許さん。絶対にだ。
「…ああ。ダンジョンでそれなりに稼げたし。昼飯くらい奢ってやってもいい。つっても店は俺が選ぶけど。それについて文句は無しな」
「へへっ、奢りなら文句言ったりしねーよ。けどお前、エセルナート(こっち)来たばっかりだろ、店知ってんのか?」
「酒場しか知らねぇよ。だからこうして探してんだろ……こっちか」
 吹き抜けた風のおかげで再捕捉できた。ほんの一瞬、鼻孔を擽って通り過ぎたその香りは、先程までとは比較にならないほどハッキリ感知できた。これなら元を辿る事ができる。近いな。
「……なぁ、おまえ何やってんだ?」
「カレーの匂いを辿ってんだよ」
 集中してんのが分かんねぇかな。ちょっとばかり空気読んで、静かにしていて貰えませんかね?
「カレーだぁ? おまえ、何言ってんだよ。てゆーか、おまえは犬か? 目が変なだけじゃなくて、鼻も変なのか?」
「……んな訳ねぇだろ。こうやって五感を鍛えてんだよ。あと追跡の練習な。これでも忍者なんでな」
「いや、それは知ってるけど、変な修行やってんだな。忍者ってみんなそうなのか? あ、おい。こっちは居住区だぜ?」
 そう言えば街の雰囲気が少し変わったな。露店が無くなって、建物のクオリティが更に劣化している。まるで手抜き工事……いや、素人の日曜大工みたいだ。
 路地も石畳ではなく地肌を平らに固めているだけである。おまけにあちこち窪んでいたり、轍の跡でガタガタになっていた。
 黒っぽいのが言う通り居住区なのだろう。子供達が遊んでたり、主婦らしき女達が井戸の周りで洗濯してたり、文字通り井戸端会議やってたりと、なんかここは他と空気が違う。表通りは小奇麗ではあってもどこか殺伐としていたが、ここは生活感が濃いと言うか、どこかのんびりとした雰囲気だ。とは言え、ここが恐らく最低辺の貧困層が暮らしているエリアだと、見るまでも、考えるまでもなく、この世界に疎い俺ですら容易に察する事ができた。けど、ここの人達はなんで頭に変なアンテナ?を立ててるんだろうな?
「……こっちだ。まぁ確かに店とかあるような雰囲気ではな──」
「うげ。マジか──」
 二人して絶句した。

 角を曲がると、それは在った。あまりにも唐突で、心の準備とかそういった覚悟をする前に、俺達の前にそれは現れた。
 あまりに周囲から浮き過ぎて、その周辺だけ異次元が広がっているかのようなその建物は、デザインからして何かが根源的に間違っている。この美的センスは日本人……否、地球人のそれではないと断固否定したい。地球人代表として、どうしても譲れない一線だった。例え看板が漢字で(・・・)書いてあったとしてもだ。
 前衛的と言えなくもないような、そんな形容し難い形状のドーム状構造物は全体的に紫色で、謎のタコ足や謎のメーターに謎の刺やらジェットノズルの様なモノが彼方此方に生えていた。どこかエスニックな風情がしないでもないが、極めつけとも言える巨大な眼のレリーフのまつ毛辺りに、金縁に朱色の奇妙な書体の漢字で──アレを漢字の範疇に入れる事に些か抵抗はあるが──デカデカと〝宇宙大王〟とあった。下品な電飾らしきモノで文字はピカピカ光っていた。電気ではない……よな? なぜか〝大〟の字が逆さまになっている。最早、悪趣味とかそういったレベルではなかった。

 正直、狂気すら感じる外観によって見る者の精神を秒単位でゴリゴリ削るような〝宇宙大王〟ではあったが、その得体の知れない店舗からは香ばしくも馨しいスパイスの効いた、実に食欲をそそる芳香が立ち込めている。それ(・・)こそが俺をここまで導いたモノであり、ここが探し求めた約束の地である事は容易に伺い知れた。結局、運んでいたと思われる人物には追いつけなかったが、まぁ結果オーライと言う事にしとこうか。ついでに想像していたモノとは幾分…かなり…相当かけ離れてはいたが、この際これも目を瞑っとこう。なにせここは異世界、剣と魔法のファンタジーな世界だ。エセルナート(ここ)で生活する以上、多少のカルチャーショックは甘んじて受け入れる必要がある。郷に入れば郷に従うべきだ。

 だがそんな俺の心境を嘲笑うかのように、店の前に翻る極彩色の幟は、挑発的なコピーをデカデカと謳っていた。

 〝本場インド直輸入。激ウマ! ビスクファルス風宇宙インドカレー〟

 〝辛さ爆発! ポカラン名物の絶品! ビスクファルス風宇宙カレー鍋〟

 〝OH! モーレツ! 究極の選択。カレーソフトクリーム粒コーン入り〟

 なんだろう……ツッコミ所満載なんだけど、なんかもうどうでもいい。この遣る瀬無さは一体何処にぶつければいいんだろうな? 取り敢えずこの店の主人か? こんな幟を立ててる時点で文化テロの確信犯だろ。つーか、最後のすっげぇ気になる。
「……なぁ。お前、カレーソフト食ってみねぇ? 粒コーン入りだってよ」
「だったらおまえはカレー鍋だ。爆発するらしいぜ?」
「ばっか、ポカランなんてシャレにならん地名付けといて、更に爆発とか悪趣味過ぎるわ」
「なぁ! ここか? ここを探してたのか?」
 うわぁ、黒っぽいのがやけに楽しそうなんだけど。そんなにキラキラ瞳を輝かすなよ。お前アレか? 見るからに怪しげな店とかでも敬遠しないで、面白がっちゃうタイプなの? お気楽だな、少しは怪しもうぜ? だがその無神経さも今はありがたい。ここで現在求められているのは、ダンジョンを探索するのとは別の種類の勇気に違いないからだ。コレ(・・)に、独りで踏み込むのは流石に躊躇する。
「そのつもり……だったんだが……」
「だったら早く入ろうぜ!」
「あ、おい──」
「もたもたしてんじゃねーよ。ほら、行くぞ」
 黒っぽいのに手を引っ張られ、俺はその怪しげな店内に踏み込んだ。ちょ、なんで手なんか握ってくれてんの──て、待ってほんと待って! 握る前に確認させろ下さい、掌に汗かいてないよな? 変に湿ってないよな? つーか、柔らけぇな……いや、そうじゃなくて、少しばかり馴れ馴れしくありませんかね? 手を繋ぐとか、また新しいトラウマを生産させる気か、この女は。だが残念、訓練されたぼっちである俺はこれしきの事で動揺などしないし、勘違いもしない。剰え、うっかり選択肢を間違えて、告って振られてバッドエンドなんてヘマも回避余裕である。

「イラッシャいマセー」
 顔、デカッ!
 出迎えた怪しげなインド人……のコスプレ? をした男に、俺は早くも回れ右して帰りたい気分だった。
「な……ナマステ?」
「オー、ナマステ。ソチラノお嬢サンもナマステ。ゴ新規サマデスネ。ワタシが店長のチャダデス。毎度御贔屓に、エエヤナイカ減ルモンジャナシ」
 怪しい。店長と名乗ったそのなんちゃってインド人のチャダはとにかく怪しかった。緑表示の一般市民じゃなかったら本気で警戒するレベルだ。
 ピンクのターバンにピンクの上下、緑のエプロンには表のレリーフと同じ金の目と奇妙な書体の〝宇宙大王〟の文字……何よりアタマと身体の比率がなんかおかしい。て言うか、顔がデカい。浅黒い褐色肌で、顔の彫りは深く骨太だが、目鼻立ちは整っていると言えなくも無い。だが白いカイゼル髭と頭のターバンの所為なのか、とにかくカレー臭いし、胡散臭くて嘘臭かった。亜人か? ドワーフ……じゃないよな。特徴的な大きな耳は細長いエルフとは違って正三角形に近い。少なくとも同族(ヒューマン)ではないと断言できる。
「お二人サマ、コチラの席にドウゾ。オアツいコッテ、ユウベはオタノシみデシタネ」
 褐色肌のデカい顔したなんちゃってインド人の言動は呆れるほどわざとらしい片言で、おまけに喧嘩を売ってるとしか思えない。ま、スルーだスルー。こんなの一々相手にしていられるか。
 外観がぶっ飛んでいただけに、中もそれなりのモノを覚悟していた訳だが、案内された席も、内装も、至って普通だ。それは肩透かしと言うよりも、騙された気分にすらなる程に地味だった。ギルガメッシュの酒場の方がよほどやさぐれていて、如何にもな雰囲気がある。
 宇宙大王の大衆食堂を思わせる面白味の無い内装と雰囲気に、黒っぽいのも露骨に顔を顰めていた。だよな、俺もほんのちょっとばかり期待外れではある。だが、落ち着いて飯が食えると言う意味において、これはこれでアリじゃないか?
「コチラがメニューデス。オ決マリに、ナリまシタラ声カケテ下サいネ」
 席に着くなり、お冷とお絞りを運んで来る日本式の接客に違和感を禁じ得ない。ここ異世界だよな? つーか、このなんちゃってインド人、異邦人なのか?
「…あ、はい。どうも」
「なぁ、これ(・・)飲んで大丈夫なのか?」
 黒っぽいのがお冷?のコップを胡乱な目で見つめていた。視線の先の液体は、確かに水と言うよりも生水だ。無数の粉みたいなモノが、ふわふわと浮かんでいる。それが水流ではなく自律して動いているようにも見えるのは、きっと気のせいではない。
「オー、勿論デス。コレゾ本場インド直輸入、ミネラルたップリのガンジスウォーターなノデス! 成分無調整、生キて腸マデ届キマース!」
「……おい、ちょっと待て。どうやってインドから輸入してんだ、そこ詳しく」
「いや、ツッコむとこは、多分それじゃない」
「チッチッチッ……ソレは企業秘密ナのデスネ。ソレでハ、後は若イお二人にオ任セシマスのデ、ごユックリシてイッテ下サイネ」
 果たして意味を解っているのかそう言い残したなんちゃってインド人店長は店の奥に消えた。広い店内には俺と黒っぽいのが二人だけだ。
 テーブルの下で黒っぽいのが、げしげしと俺の脛に蹴りを入れていた。一体、なんだよ?
「……お、おい。あれ、絶対誤解してるぜ。カ…カップルとか思われて──」
「それはない。アレは意味も解らずに適当な事を言っているって感じだな。解ってあの言動ならかなり悪質だとは思うが……そんな感じには見えなかった」
「それこそ、適当に言ってるんじゃないのか?」
 これまでのぼっち生活で磨き上げた人間観察の賜物……て、言うのかね。直感に頼る部分もあるので、誰かにそれを論理的に説明するとか面倒臭い。
「……そうかもな。ともかく、さっさと注文しようぜ。俺はその宇宙インドカレーにしとくわ」
 メニューに並ぶ怪しげな品目の羅列に眩暈がして、思わずこめかみを押さえていた。こんなモノ、一瞥するだけで十分だ。なんて言うかこれ以上、変な冒険はしたくない。
「……わたしも同じのでいいか。おーい! 宇宙インドカレーふたつだぜ!!」
「ハ~イ、少々オ待チ下サーイ」
 やはり黒っぽいのは注文係である。
 ガチャガチャと調理をする音がBGM代わりの静かな店内に、食欲をそそるカレーの芳香がゆっくり漂い始めた。それにしても……昼時だってのに、他に客来ねぇのな。まぁ、あの外観からしてお察しなんだろうけど。

 テーブルに存在するだけで食欲が激減しかねないガンジスウォーターの処分について考えていると、黒っぽいのが苛立たしげに俺の脛を再び蹴った。
「なぁ、黙ってないでなんか喋れよ。こーゆー時って男の方が気を遣って話題を振るもんじゃないのか?」
「……まず、こーゆー時とやらがどんな時なのか知らんが……注文した料理が来るまで、スマホで時間を潰すのがデフォルトだった俺に何かを期待するだけ無駄だ」
 ああ、小町と戸塚は例外だ。天使を観ているだけで、待ち時間など一瞬で過ぎ去るからな。
「い・い・か・ら・何か、話せ」
「……あー、そのリュック、夜逃げかなんか?」
 黒っぽいのが背負っていた巨大なリュックに目を向けた。小柄なこいつが背負って歩く姿は、ほんと蝸牛だった。
「なんでだよ、これは今日の戦果だ。掘り出し物が沢山あったからな、また荷物が増えちまったぜ。けど、これなんかすげーんだぜ? 回復のスクロールだ」
 巻物だな。それが魔法のアイテムである事は《IFF》が教えてくれた。使い方の説明まで視界に表示されてるんだが。まるでゲームだ。どっかにログアウトのボタンねぇのか
「それの何が凄いのか、まるで判らんのだが」
「回復系のマジックアイテムは基本ポーションなんだ。逆に簡易呪文の巻物(マジック スクロール)は基本、攻撃用の火力呪文だ。これ(・・)回復(・・)の、簡易呪文の巻物(マジック スクロール)。珍しいだろ?」
「なぁ……お前それ、絶対騙されてるぞ」
「ばーか、これが偽物だったら詐欺行為で即、赤ネームだ。わたしが見逃すかよ。これは間違いなく本物(・・)だぜ」
 自信たっぷりに黒っぽいのは巻物を開いて見せ…………ああ、なるほど。確かに回復の(・・・)スクロールだ。確かに騙されていないな。その巻物についての表現と解釈の仕方が、黒っぽいのがイメージしていたモノとは少しばかり乖離していたようだが。
「エロ本かよッ!!」
 憤慨して巻物を丸めて床に叩きつける姿は、哀れと言うより滑稽で、その様は見ていて失笑を禁じ得なかった。まぁ同情くらいならしてやってもいい。騙されてはいないにしても、黒っぽいのにとってはある意味それよりも酷い顛末だろうからな。
 猥褻物を放ったらかしと云う訳にもいかないので、俺が拾ってテーブルに戻すしかなかった。こんなモノを持ち込んでおいて、店員に処分させる訳にもいかねぇしな……だから、そんなに睨むなよ、お前の後始末だろ?
「……確かにすげぇな、魔法のエロ本かよ」
 スクロールには様々な種族の裸婦像が描かれていた。写実的なタッチの裸婦像はまるで出来の悪いGIF画像のように加工されていて、数パターンのポーズを繰り返し再生し続けている。その魔法的な技術は興味を引くが、肝心の画像は人間(ヒューマン)とエルフがなんとか鑑賞に耐えるレベルだが、他がとにかく酷い。少なくとも食事の前に見るべきではなかった。ドワーフとかリザードマンのそれ(・・)はトラウマになりそうだ。
「……そーゆーのに興味あるのか?」
「ははっ、冗談だろ? こんなモンでそそる(・・・)かよ」
 見当違いな黒っぽいのを一笑に伏して、元通り巻き戻したスクロールは近くの棚に放り込んだ。世界に冠たる二十一世紀のHENTAI国家日本に溢れ返ったエロコンテンツを、ほんのさわり(・・・)とは言え間近に見て育った十七歳を舐めんなよ。こんな子供騙しで喜ぶのは、ませた小学生くらいだ。
「──で、こんなモンに何ゴールド支払ったんだ?」
「……言いたくない」
 苦虫を噛み潰した──て、言うのかね。短く吐き捨てた黒っぽいのは、苦々しげに頬杖をついて外方を向いた。

「オ待タセシマシタ。コチラが当店自慢のビスクファルス風宇宙インドカレーデス。オ熱イウチにオ召シ上ガリ下サイ。ヤケド火遊ビゴ用心ネ」
 ビスクファルス風で、宇宙で、インドカレー。どんなモノが出て来るのか、ちょっとばかり期待していたんだが……やはりなんとも普通だった。いや、普通ではないか。仮にもカレーの専門店らしき外食レストランで、如何にも素人が作った家庭料理のカレーが出てきたら、きっと違和感しかないだろう。ましてや店の名前が宇宙大王で、外観がアレで、品名がビスクファルス風宇宙インドカレーである。正直、ガッカリだ。
 いや、奇を衒えとは言わねぇよ? だけどもう少し、何かあるんじゃないのか? 例えば具材をちょっと工夫してみるとか……これジャガイモと人参だよな……つーか、これ何の肉だ──なんか対面の皿、盛ってあるご飯が、もこもこ動いてんだけど。
「……なぁ、八幡」
「なんだ?」
「──今、おまえの皿のルウで、何か跳ねた。魚でも泳いでんのか?」
「奇遇だな。そっちのご飯の中、今動いてたぞ。ディアブロスでも潜ってんじゃね?」
 俺はルウをかき回し、黒っぽいのはご飯の山を掘り返した。どちらも、何もいなかった。
「……食わねぇのか?」
「おまえが先に食ったら、わたしも食べる」
 念入りにルウとご飯を確認してスプーンを口に運んだ。うん……カレーだ。味はカレーだな。それも素人が適当に作った感じのやつ。ちょっとぬめっとした独特の舌触りと、具材の歯応えがゴリゴリしてなんかカレーっぽくない。ご飯に違和感が無いのが救いだった。
「……なぁ、食えそうか?」
「食ってるだろ? 味も普通だな。不味くはないが、美味くもない。だが……これはカレーなのか?」
 黒っぽいのが意を決してスプーンを口に放り込み、ゆっくり咀嚼した。味わっているのではなく、おっかなびっくりと言ったところか。気持ちは解るが、まぁそんなに怯えるほどでもないんだよな、食ってみると。
「……うん。カレー、だな……変な食感だけど」
「なんかヌルっとしねぇ?」
「する。ゴリゴリする固いのが混ざってないか?」
「混ざってるな。寧ろ全部固い」
「うん、全部固い。でも……不味くないぜ?」
「……だな」

 その後は特に異常は無かった。時々、ザラッとした舌触りが気になった程度だ。二人して黙々と全部食べ終えたのだが……後口の悪さと一抹の不安がいつまでも残るような気がして、ほんの少し不快だった。口直しにマッカン飲みてぇな。

「オ会計はオ二人デ14ゴールドデスネ。不当なチップハ要求イタシマセン」
 高ッ! エコノミーの代金と同額かよ。ぼったくられてる気もするが……赤になってないので、これが適正価格なのだろう。納得はできないが、納得するしかなかった。支払いを拒否したらこっちが赤ネームだ。こんなカレーで人生を棒に振りたくない。
「おう。ご馳走様……なぁ、ひとつ聞いていいか?」
「ナンデゴザいまショウカ?」
「ずっと気になってたんだが……あんたの種族、ドワーフ……ではないよな?」
「イイエ、違いマス。ドワーフデは、アリマセン。宇宙人デス」
「「は?」」
「ホラ、コノ通リ」
 店長が軽くお辞儀すると、ターバンの中から電飾した変な看板がせり上がり、ショッキングピンクのライトを光らせながら回転し始めた。
「明朗会計、安心安全、本格インドカレー専門店、地球人デもエセルナート人でモ宇宙人デモ満足シテ頂ケマース。アナタの宇宙大王をシクヨロデース」
 黒っぽいのは店長の頭上で回転する看板を唖然として見上げるばかりだ。アレの電飾、どうなってんだろうな? まぁチャンスではあるか。

 それがチャダとの出会いだった。その後も腐れ縁が続く訳だが、この時はもう二度と訪れないと心に誓っていた。結果的に、その誓いは三日と続かなかった訳だが、それはまた別の話である。


「アリガトウごザイマシター。毎度オオキニネー」
 自称宇宙人であるところの店長に見送られ、俺達は宇宙大王を後にした。
「……あいつの言ってた事、ほんとだと思うか?」
「宇宙人っての?」
 コクリと黒っぽいのは頷いた。まぁ俄かに信じられん話ではあるが──北東の空にそれ(・・)が見えていなければ、俺も容易に信じる事などできはしなかった筈だ。
 バラックの街並みの遥か遠く空の果てに、ナルトの様な渦巻アンテナの巨大なアダムスキー型の霞んだ姿が大地に突き刺さっていた。この二日で俺のファンタジー観は散々破壊され尽くしたからな、今更これに宇宙人が加わったところでもう驚いたりしねぇよ。
「……どうでもいい。取り敢えず、口直しがしたいな」
「ははっ、同感だ」
「なぁ、図書館の場所、知ってるか?」
「図書館? 知ってるけど、何か用があるのか?」
「地下一階と、モンスターの事を調べとこうと思ってな。ほんとはダンジョンに潜る前にやっときたかったんだが……朝は切羽詰まってたから。後ついでに錬金術の予習もやっとこうかと」
 そうだ、俺は宇宙人なんぞに係ってなどいられない。錬金術(アルケミスト)系の呪文が俺もいずれ使えるようになる以上、今から勉強しておいて損は無いだろう。まぁ……レベル7になるまで、呪文は教授して貰えないんだけどな。
「へー、おまえ見かけによらず、ちゃんと考えてるんだな」
「まぁ、な……俺は弱いから。どんな小さな事でも、やれる事から全部やって積み重ねて行かねぇとな」
 きっと強くなれない。強くならなければ、マスターの言葉ではないが簡単に死んでしまいそうだ。実際、死にかけたし。
「へへっ、そうだよな。うん、その通りだぜ」
 なぜか機嫌が良くなった黒っぽいのがニヤニヤと笑っていた。なんだよ、気持ち悪いな──て、俺の方がよっぽど気持ち悪いですかそうですね知ってた目が腐ってるしぼっちだし……おい、なぜそこでまた手を握る必要がある?
「よし! ダンジョンの事なら私が教えてやるよ。錬金術の本も持ってるしな、図書館に行く必要はないぜ。酒場ならカレーの口直しもできて一石二鳥じゃないか?」
「いや……ちょ、待て。なんで……」
「なんで? そんなの決まってるぜ。わたしがおまえより先輩で、レベルも上だからだ。ダメな後輩の面倒を見てやるのは先輩の務めだろ、違うか?」
 意義あり。ダメな後輩ってのは誰の事だ。いや……確かにレベルはまだ1だけど一応、忍者だぜ? 結構、凄いんじゃなかったの?
「文句があるなら、わたしと同じレベル3になったら聞いてやってもいいぜ? じゃ、さっさと行こうぜ!」
 声高に俺を誘ってはいるが、実際のところ端から返事など聞くつもりはないらしい。黒っぽいのは俺が口を開くよりも前に駆け出していた。当然、否応無くそれに同伴させられる訳であり、半ば諦めにも似た境地で拒否権すら認めらていないと知った。まぁ、元々酒場にツケを返しに行く予定だったからいいんだけどな。
 強引に引っ張られて露店の間を駆け抜けている間に、俺はいつしか黒っぽいのと手を繋いでいる事も忘れていた。無論、我に返った時、盛大にきょどって墓穴を掘りまくった挙句、新たなトラウマになりかけた事は語るまでもない。


 ギルガメッシュの酒場に河岸を移し、俺は黒っぽいのによる個人授業を受ける事になった。魅惑的な言葉の響きの割に、あまり嬉しくも楽しくもないのはなぜだろう。そう言えば昨日も似たような体験をしたな。助かる、ありがたい、そう言った感謝の気持ちは抱くのだが、それ以上にまた一つ俺の幻想が跡形もなく砕けてしまったような気がして、少しばかり遣る瀬無かった。マッカンカッコカリの甘さがせめてもの慰みである。

 だが授業そのものは実に有益だった。ウェイトレスの傍ら冒険者達の噂話や、自慢話、或いは与太話のようなモノも含めて様々な情報をかき集め、それらを独自に分析、調査していただけあって、その量も質も目を瞠るばかりだ。正直、黒っぽいのを見縊っていたと認めざるを得ない。
「へへっ、実際に潜って確かめた訳じゃないけど、地下三階までの情報はどれも確かな筈だぜ」
 言葉通り、彼女が見せてくれたダンジョンのマップはフロアの殆どが埋められていた。モンスターの情報も実に緻密だった。そしてこの情報がどれだけ価値を持っているかなど考えるまでもなかった。これは間違いなく彼女の財産だ。簡単に開示して良い物ではない筈である。だがそれを惜しげもなく俺に与えてくれた。なぜここまでしてくれるのか理解できない。この情報に見合うだけの対価を、今の俺に支払えるとは到底思えなかった。
「授業料? まぁくれるって言うなら貰っとくけど、別に気にしなくてもいいんだぜ?」
 どこかの管理人さんに聞かせてやりたい台詞だな。まぁ管理人さんに払うチップは、別に気にしてないんだけどな。雪ノ下の声で俺に小銭を強請る様はなんとも嗜虐的で、ある種の愉悦を感じずにはいられないのも事実だ。雪ノ下雪乃がそんな言葉を俺に投げかける筈がない──その大前提があるからこその愉悦である。実際、雪ノ下があんな台詞を吐いたら、興醒めなどでは済まないかもしれない。まぁ、ある筈のない杞憂だな。

 結局、晩飯も奢る事で授業料の話はついた。ほんと安い奴だ。そう思わせてしまう辺り、俺は既に彼女の術中に嵌まっているのかもしれないが。
 ともかく、彼女と過ごした時間は悪くなかった。誰かと会話が弾むなんて事、ここ最近無かったような気がする。小町とも暫く微妙だったしな。

「──それ、おまえに貸してやるよ。わたしはもう読んだし、別に死ぬまで貸しといてやってもいいぜ」
 錬金術の手引書みたいな本だった。所々黒っぽいのが入れた注釈や考察やら、専門でもないのに実に熱心な事である。つーか、魔術師(メイジ)が錬金術を勉強する意味あんの?
「魔術だけだと、なんか構築できそうにないんだよな、スペルカードは。でも、なんとなくだけど、もう少しで構築できそうなんだぜ?」
 なんだよ、スペルカードって。
「弾幕だよ。魔法で弾幕を張るんだ。幻想郷(むこう)じゃごっこ(・・・)だったけど、わたしが今作ってるのはガチのやつだぜ」
 言ってる意味が解んねぇし。一撃必殺、一発で仕留めればいいじゃねぇか。弾幕にする必要あんのか? 無駄弾を撃つ意味が解んねぇわ。
「派手にばら撒いてパワーと火力で圧殺するのが魔法だぜ」
 おまえ、結構おっかねぇな。
「今度、わたしの魔法を見せてやるよ。おまえがパーティー組む時は、真っ先に声をかけろよな」
 そんな予定はねぇよ。俺はぼっちだからな、パーティーなんて組めるかよ。でもまぁ、その時はよろしく頼むわ、霧雨。
「……魔理沙でいいぜ?」
 いや、それなんか恥ずかしい。
「魔理沙な」
 ……善処するわ。
「そうしろ」


 いつの間にか時間は過ぎて、酒場を出る頃にはすっかり夜も更けていた。遅くなると風呂代に追加料金請求されるんだっけ、忘れてたな。
「取り敢えず、風呂頼むわ」
「こんなに遅くまで何処をほっつき歩いていたのかしら、この忍者は。遅くなったら追加料金貰うって言ってなかったかしら?」
「ほらよ」
 先手を打ってカウンターに銀貨(デナリ)を置いた。
「部屋は?」
「三階の一番奥よ。はい、鍵。お風呂はすぐに用意するけど、少し時間が掛かるわよ?」
「構わねぇよ──じゃ、よろしく頼むわ」
 受け取った鍵を手に、さっさと階段に向かおうとしたのだがまたしても後ろ襟を掴まれた。おい、何度目だ? 上着がダメになったら訴訟だからな。
「……何?」
「昨日、同室だった娘を憶えてる? エルフとノームの」
 ……あいつらか。そういや、なんか話があるって言ってたな。
「貴方を探していたわよ? 何かやらかしたの?」
「…あー、別に何も」
 俺の方は別に用もないしな、無視無視。

 ロイヤルスイート。一泊70ゴールドする冒険者の宿の最高ランクの部屋……なんだが、思っていたより地味だった。もう少し豪奢なバロック様式みたいなのを想像していたんだが……まぁ冒険者相手の宿泊施設だしな。こんなもんか。
 それでもリビングにはゆったりした革張りのソファーが一式備えてあり、寝室には天蓋付きのキングサイズベッドが鎮座していた。すげぇな、こんなの初めて見た。
 リビングの奥にタイル張りの浴室があり、足を延ばしてゆったりできそうな白い陶器のバスタブが一つ、真ん中に置かれていた。当然ながらシャワーとかは無い。蛇口すら無かった。一応、湿気取りの小さな窓が付いていた。

 暫くベッドで横になっていると、メイドが三人がかりでお湯を運び入れ、管理人さんの言葉通りバスタブ一杯にお湯を満たしてくれていた。
 二日振りの暖かい風呂だ、冷める前にさっさと入ってしまおう。少し熱いが、まぁ許容範囲だ。
 上着を脱いだところで、ドアをノックする音がした。面倒臭いので無視してしまおうかとも思ったが、そうすると大抵後になってロクな結果にならないので、ため息交じりで俺はドアを開けた。

 満面の笑顔の管理人さんがいた。エロい下着姿で。

「八幡、背中を流──」
 最後まで言い終わる前に俺はドアを閉めた。冗談じゃなかったのか、余計性質が悪いわ。
「ちょっと! 折角、サービスしてあげるつもりだったのに」
 どんなサービスだよ。
「あー、間に合ってますんで。後、冗談だと思ってたので、お気持ちだけで結構です。じゃ、おやすみなさい」
 何処かのデータベースが言っていた通りだな、ジョークは即興に限ると。全く……管理人さんの言葉を本気にして、招き入れでもしたら、どんな目に遭わせられるか知れたもんじゃない。あんなあからさまな地雷、踏んで堪るかよ。ぼっち舐めんな。
 まだ廊下で何か言っていたようだが、施錠の音でもって彼女への返答とした。付き合いきれん。

 独りゆっくり湯船に浸かり、心行くまで汗を流した。惜しむらくは温度が下がってしまう時間が結構早い事か。だが十二分に堪能できたので満足だった。
 こうなってくると最早、桶に汲んだお湯で身体を拭くだけの生活など耐えられないな。週に最低三回はロイヤルスイートに泊まりたい所だ。一日の目標金額が更に加算されてしまうが、まぁこの際仕方ないだろう。日本人だからな、風呂の無い生活など考えられん。

 流石、ロイヤルスイート。天蓋付きキングサイズベッドの寝心地は最高だった。




『ぱんぱかぱーんっ! 比企谷八幡はレベルが上がった!』

 え? 愛宕?
 夢を見ているのか、青い軍服がはち切れそうな豊満ボディの、ぽよよんな金髪美人がそこにいた。

『初めまして。私は貴方の専属レベル神、チョーカミの愛宕です。覚えてくださいね』

 専属レベル神?

『はい、古くは鬼畜王と呼ばれた方にも憑いていた、由緒正しい神様なんですよ? これから貴方が経験を積んでレベルアップする度に、こうして夢の中でお知らせするのが私のお仕事なの』

 俺、レベル上がったんスか?

『はい♪ 頑張りましたね、強くなってますよ! うふふっ♪』

 あ、えーと……どうも?

『ぱんぱかぱーんっ! 比企谷八幡はレベルが上がった!』

 え? え?

『一気にレベル3ですよ! 凄いですね、おn…じゃなくて八幡♪ でも、ちょっとやりすぎじゃないかしら? あまり無理はしないでくださいね? では、またお会いしましょうね、ヨ~ソロ~♪』


 目が覚めるとすでに朝日は昇っていた。窓から差し込む光が眩しい。
「……レベル、上がったの? あれで? マジで?」

 強くなった実感など、まるで無かった。
 自称レベル神でなぜか愛宕という訳の解らない存在に対して、夢オチを疑ってしまった俺は間違っていないと思う。

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レベル神とLv.3八幡

 レベル神を名乗る謎の愛宕との邂逅で明けた三日目の朝、ベランダ付きの大きな窓から差し込む柔らかな朝日をシルクの天蓋越しに感じながら、暫しキングサイズベッドの真ん中で呆然としていた。

 ──なぜ、愛宕?

 トップヘビーは悪くないと思うし、嫌いじゃないが、俺みたいな模範的千葉県民の夢に現れるのであれば、そこは「吾輩が利根である!」とか言って、のじゃロリツインテが現れるのが正解ではないのか? そもそも本当にレベルが上がったのか? 俺の願望があんな変な夢となって現れただけで……なら愛宕じゃなくて、そこは榛名か飛龍であるべきだ。
 それとも自覚がないだけで、実は深層心理の奥底で密かにぽよよんで包容力の塊みたいなタイプに惹かれていて、認めたくもない願望や欲望やらが蠢いていたのかもしれない。それが何かの拍子に表面化した……にしても、専属レベル神? まぁ……なんでもアリなファンタジーっぽいし? 宇宙人がカレー売ってる世界だしな。愛宕が夢でレベルアップのアナウンスしてくれる事だってあるんじゃないのか……て、もういいや。なんか考えるのも面倒臭いから、愛宕が俺の専属レベル神でもいいよ、好きにしてくれ。

 まぁアレだな、こう言った訳の解らない事態は独りであれこれ考えているより、解っていそうな人間から情報収集した方が早いだろう。師匠かキラに聞けばいい。何か知ってんじゃね? あと、魔り──霧雨は……昨日の今日でなんかアレだからパスだな。どうせ酒場で顔合わせるだろうけど。
 飯食って、師匠に会って……それからダンジョンに潜るか。玄室を一つ攻略するだけなら、そんなに時間は掛からないだろうし、昨日の出費分だけでも取り返しとかねぇと──まぁ、午後からでいいか。
 まったりゆっくり英気を養って、次のダンジョンアタックに備えるのも戦略だ。どうせ、洗濯したTシャツとパンツはまだ乾いてないだろうしな──寝るか。

 折角の一晩70ゴールドの高級ベッドだ。この羽毛の心地をチェックアウトぎりぎりまで貪っていたい。どうせ時間になったら誰かが起こしに来るだろうしな。二度寝だ、二度寝。ああ、なんと解放的な心地か。ポケットには今夜の宿代も飯代も残っている。今日、慌てて何かしなければならない事など何もない。俺は今、時計の呪縛から解放されている──


 ──いつも通りの部室だ。

 窓際の定位置に雪ノ下がいて、その隣に由比ヶ浜、反対側の端に俺がいる。何も変わらない放課後のひと時だった。
 思い思いに読書をしたりスマホを弄ったり、雪ノ下が紅茶を淹れてくれたり……だが何かが違う。なんだ、この違和感? ああ、夢を見ているからか……て、夢にしては雪ノ下の言葉責めはキレッキレに鋭いし、視線も二割り増しくらいで冷たい気がするんだが……おい、二日振りに会ってそれは酷過ぎねぇか?
 由比ヶ浜はそんな俺達の間に入って必死にフォローしようとするが、やがて取り乱し始めて、最後はなぜか俺に向かって「ヒッキー、キモイ」である。それ、台詞を締め括る定型文みたいに使ってないか? もう慣れたからノーダメージで済んでるが、俺じゃなかったら心を抉る類のかなり攻撃的な単語だからな。場合によっては即死効果もあるから相手選んで使えよ? たまには諫言のひとつでも言ってやろうかとも思ったが、結局雪ノ下の淹れてくれた紅茶と一緒に飲み込んだ。

 ああ、そうだ。最近はもっとギスギスしていたな。こんなに穏やかな空気じゃなかった。少なくとも呑気に微睡んでいられるような雰囲気ではなかったな。はて? 夢の中で微睡むなんてあるんだろうか。俺はロイヤルスイートに泊まって……おいおい、ホテルのロイヤルスイート? いくらスカラシップ錬金術を駆使しても、そんな贅沢できるほど捻り出せねぇよ。夢だな。
 夢に違いない。俺が忍者とか、死にそうになったり、魔法使いと宇宙人のカレー食ったりだの、間違いなく変なラノベの読み過ぎだな。材木座の小説を添削してやるのも暫く止めた方がいいかもしれない。よし、そうしよう。師匠だけでお腹一杯だからな。それにラノベとか読んでる暇ねぇし。
 ふとテーブルに目を向けると俺のスマホがあった。なんだ、無くしたと思ってたけど、ちゃんとあるじゃないか……ん? 小町からメールか──て、なんで別のアプリが起動してんだよ。メール、メールっと……
「比企谷君」
 なんだ、雪ノ下。今、取り込み中だ。後にしてくれ──くそっ、もどかしいな。なんで上手くメールが開けねぇんだよ。スマホのタッチパネル、こんなに感度悪かったか?
「……なさい。八……」
 らしくねぇな、雪ノ下。もっとハッキリ喋れよ。お、やっと開いた──

 from 愛宕:次のレベルに上がるためには、あと303ポイントの経験値が必要よ? もう少しだから頑張ってね♪

 なん……だと?

「──起きなさい、八幡」
 は? 寝てねぇだろ。後、うっかり勘違いして大惨事になるから名前呼びは止めろ──

「……雪ノ下」
「寝惚けてないで、さっさと起きなさい。チェックアウトの時間よ」
 管理人さんがいた。普通のメイド服だな、黄色はちと派手だと思うが、エロ下着よりは余程安心できる。
 それほど機嫌が悪いようにも感じない。夕べの悪戯の事はさほど気にしていないのだろうか。て云うか、アレで根に持たれても困る。俺は全面的に悪くない。

「おう……もう昼か?」
「まだ朝よ。お昼まで寝ていたかったら、ちゃんと料金を二日分払うこと……何?」
「あ、いや──やっぱメイド服(そっち)の方が良いな」
「……貴方、変わってるのね。ニンゲンの雄は皆、夕べみたいなの(・・・・・・・)が好みだと思っていたんだけど」
「いや、時と場合によるからな? ロクに知り合ってもねぇのに、いきなりあんな真似されたら誰だって警戒するだろ」
 ドアを開けたら、いきなりエロ下着とかドン引きだっての。
「……ねぇ八幡、異邦人は皆そう(・・)なの?」
「何が?」
「前にもね、気に入った異邦人に夕べみたいなサービスをしてあげようとしたんだけど……裸で逃げ出されたのよね」
 このビッチ、前科があんのか。誰かは知らんが、同情するぜ。つーか、ほんとにナニかする気だったのか? 冗談とか悪戯とかじゃなくて? なにそれこわい。肉食過ぎんだろ。おい、こんなの公共宿泊設備に野放しでいいのか? 風紀とか公序良俗を乱しまくってるじゃねぇか。憲兵さん、仕事しろ。
「あの子、見かけの割に反応が一々初心で可愛らしかったから、少し調子に乗ってたかもしれないけど……だからって、誘ってあげてるのに裸で逃げ出すかしら? まずは試して(・・・)つがい(・・・)になれそうか確かめないと、愛を育む事も夫婦になる事もできないと思うけど……貴方達は最初から奥手過ぎるって言うのか、とにかく身持ちが堅過ぎるわ」
「おま、アレ……ガチで誘ってたのか。奥手とかそんな話じゃないから。俺が言うのもアレかもしれんが……お前、恋愛経験どころかまともな知識もねぇだろ?」
「……失礼ね。卵の産み方くらい知ってるわ」
 頬を赤らめて視線を逸らし、恥ずかしげに紡いだ台詞がそれですか。人が産卵するかよ。この人、根本的に認識が間違ってるわ。まぁ、俺なんか()言われたくもないだろうけど、俺なんかでも(・・)解るほどポンコツなんだから仕方ないよな。
「……あんたは実戦に出撃する前に、まず基礎知識を全面的に見直した上で、戦術を再構築して机上演習からやり直した方がいい。とにかく、順番がおかしいからな? いきなりあれじゃドン引きされるだけだっての。少なくとも、会った次の日にアレはない(・・)
「出会ってからの時間って、重要かしら?」
 管理人さんは不思議そうに小首を傾げた。
「異邦人の貞操観念ってよく解らないわ。明日また逢えるか(・・・・・・・・)分からないのよ(・・・・・・・)? 今日の気持ちを大事にしないと、後悔が残るだけだわ」
 何も言い返せなかった。
 確かに、エセルナート(ここ)は明確な明日の保証が無い世界だ。冒険者をやって、ダンジョンに潜るとなると尚更である。昨日、俺の目の前で何人死んだ? 何体、殺した?
 この世界では死が日常的だ。俺や霧雨、師匠のような異邦人には異常であっても、ここのヒト達にとってはそれが当たり前の事であり、自然なのだろう。
 人の波に溢れた歓楽街のような夜の通りを思い出した。誰もが明日をも知れぬ身であるが故に、刹那の享楽に耽るのであれば、それは管理人さんとて同じなのかもしれない。
 ここは異世界──社会も、法律も、常識も何もかも、自然の摂理すら異なっている。物事の認識や感覚、受け止め方も違って当然だ。ここでは俺の常識の方が、時に非常識になり得るのかもしれなかった。
「──でも、八幡が厭なら、もうあんな事はしないわ」
 彼女の言葉は真摯に思えた。少なくともこの場を取り繕うようないい加減さは感じない。きっともうあんな悪ふざけを──彼女なりに本気だったのかもしれないが──その言葉通り、しでかす事はないだろう。
 彼女を見据える俺の目付きは、あまり愉快ではない話の内容と、顔も洗っていない寝起きである事を考えれば、我ながら見るに耐えないレベルで腐っていると思うのだが、当の彼女はまるで気にする素振りも見せない。優しげな瞳で俺の視線を真っ直ぐ受け止める彼女の言葉は、信じるに値すると思えた。
 だが俺としてはそれがどうにも居心地悪くて、視線を逸らさずにはいられなかった。結局、こんな時は野生動物と同じく、先に目を逸らした方が負けなのだろう。
「──それに、折角の上客に嫌われたくないし──貴方はちゃんと帰って来てくれそうだから」
 彼女のはにかんだ微笑みは、一瞬にしていつもの悪戯っぽい笑顔に変わっていた。その管理人さんらしい笑顔に、スマイルの代金(チップ)を要求されるんじゃないかと疑ってしまった俺は悪くない。全部、この人の普段の行いの所為である。だが──

 俺が帰りたい場所は、冒険者の宿(ここ)じゃないんだけどな。言える筈のない本音だった。

 冷めて水になった残り湯で顔を洗い、着替えて荷造りをするまでの時間、追い出さずに待ってくれた管理人さんにちょっとばかり感謝しながら宿を出た。
 名前呼びで見送ってくれるのも多少は慣れたが、今度は別の意味で落ち着かない気分にさせられていた。解せぬ。どうしてこうなった。


 管理人さんの事は確かに新たな懸念事項だが、それよりも今朝方見た夢の方が俺にとってはより深刻だった。はっきりと憶えているあの内容に、俺は少なからず恐怖している。
 夢の中で、元の世界とエセルナートでの出来事や人物が曖昧になっていた。そこに例え愛宕が意味深に出張って来ていたとしても、それだけなら割とどうでもいい。
 問題なのは雪ノ下と由比ヶ浜がいるあの部室を、懐かしいと感じていた事だ。たった三日前、俺は確かにあそこにいた。あいつらと交わしたあの思い出すだけで、身悶えしてしまうような会話の内容も憶えている。懐かしむ程、時間はまだ経っていない筈だ。
 しかし俺は夢から覚めて、宿を出た今も、奉仕部の事を、あいつらの事を、何年も前に経験した出来事のように遥か遠くに感じている。既に俺の中で、元の世界は遠い記憶の中の思い出(・・・)になってしまっているのだ。それを実感してしまった時、俺は愕然とした。そして、いつしか奉仕部の事も、あいつらの事も、小町の事すら忘れてしまうのではないか──それはない。と、断言できない俺の不甲斐なさが悲しく、そして怖かった。同じように、俺も忘れられてしまうのではないか?

 いつか帰還し、再会できたとして、小町やあいつらの記憶の中の俺と、今の俺との乖離を受け入れて貰えるのか……俺を比企谷八幡と認めてくれるのか?

 既に俺は、小町の、あいつらの知る俺ではない。俺が忍者になったとか、この時点で理解して貰えんだろ。寧ろ俺の正気を疑われかねない。
 考えるほどに気が滅入る。解消できない懸念、答えの出ない疑問、俺には何も変えられない現実、流されるしかない現状、厭な事ばかりが頭を過った。拭いきれない不安と焦燥が俺を苛立たせる。
 厭な気分だった。早急に気持ちを切り替えるべきだ。一刻も早く強くなる──今はそれだけ考えていれば良い。余計な事は考えるな。
 甘いものが飲みたかった。マッカンの代わりがある事はこの世界で唯一の救いである。きっとあの甘い香りと蕩けるような口当たりと仄かなコーヒーの苦みが、俺の心を沈めてくれるに違いない。朝は糖分をしっかり取って、脳を活性化させないとな。ついでに霧雨の能天気な笑顔でも見れば、少しは楽観的な気分になれるかもしれない。



 食事を終えた冒険者達が連れ立ってギルガメッシュの酒場を後にする。彼等は皆、鼻息も荒く意気軒昂で少しばかり騒々しかった。まだ食事中の者には少しばかりはた迷惑だ。これからあのパーティーはダンジョンに向かうのだろう。あんたらに幸運を。これから死地に赴く彼等を尻目に、俺はコーヒーカップを片手にまったり寛いでいた。
 マホガニーを彷彿とさせる暗褐色のカウンターは、長年に渡って酒と油で磨き抜かれた為か、触り心地は実に滑らかで艶やかな光沢を放っている。その一番端の席は、城塞都市生活三日目にして既に俺の定位置になりつつあった。朝から賑やかな冒険者達を背に、俺は独りのんびり遅めの朝食である。
 今日の〝高くて美味い〟飯は、ジャガイモや肉の塊がゴロゴロ入ったデミグラスソースのシチューだった。昨日の宇宙カレーと違って普通に美味い。いや、かなり美味い。アレはアレで決して不味くはなかったし、比べるつもりもないが、どうしても引き立ってしまうのだ。おまけにサラダと大きなクロワッサンが付いてるのもポイント高いしな。これ、グレードを1ランク下げて〝普通の〟にすると、具がそら豆だけになり、水で増量して煮込み直した薄いシチューと、硬い黒パンが二切れになってしまう。当然、サラダは無しだ。例え四倍くらい価格差があったとしても払うしかないだろ、常識的に考えて。
 だが霧雨に聞いたところ、大抵の新人冒険者は食事のグレードを下げてでも、酒のグレードあげるらしい。まぁその辺は好き好きだよな。彼等からしてみれば、食事の度に一杯3ゴールドのマッカンカッコカリを食前と食後に飲む俺の姿は、さぞ奇異に映っているのではなかろうか……て、誰も俺なんか気にしてないか。ステルスヒッキーは健在どころか、忍者になって超強化されてるだろうしな。

 霧雨の講釈によれば、酒にしろ食事にしろ、普通に美味い方を飲み食いできるほど稼げるようになれば、一端の冒険者を自負してもいいそうだ。
 なら俺は既に一端の冒険者と呼べるのではないか? 酒こそ飲めないが、代わりにマッカンカッコカリと美味い飯を昨日の朝食以外、常に注文している訳だし──と、尋ねてみたところ、霧雨は「何言ってんだ、こいつ」とばかりに顔を顰め、割って入ったマスターに容赦なく断じられた。
「酒も飲めねぇガキが一端の口を叩くんじゃねぇ」
 御尤もで。
 あー、マッカンカッコカリ美味ぇ。アルファさん、今日も良い仕事してるぜ……どうやら俺は暫く一端の冒険者にはなれそうもなかった。

 それまでオーダーを聞いたり配膳したりと、忙しくホールを駆け回っていた霧雨だったが、漸く客足が落ち着いたのか「休憩入るぜ」と厨房に向かって声高に告げるなり、荒々しく俺の隣に腰かけた。
「はぁ~、朝っぱらから疲れたぜ。アルファさん、水をくれ。マスター、美味い方の飯な! 八幡が奢ってくれるってさ」
 おい。いつそんな話になった?
 霧雨は両手で頬杖を付くと、小憎らしい上目遣いで俺を見上げた。
「ダメか?」
 こいつめ……こっちに目を向けているマスターに、俺は黙って頷いた。払います、と。それで意を酌んでくれたのか、マスターは「おう」とだけ応えて厨房の中に戻った。去り際に一瞬、マスターは肩を竦めていた。呆れられてるのかもしれない。まぁ確かに昨日から霧雨に奢り続けてはいるな。それも餌付けを疑われかねない金額である。我ながら霧雨に甘い──とは思う。だが俺としては、霧雨に食事を奢ってやるくらい全く持って吝かではないのだ。
 霧雨が惜しげもなく俺にくれた情報は、そう思わせるだけの価値があった。対価に支払った金額を考えれば、暫くの間こいつの我儘に応じてやってもまだ十分釣りが来る。
 黙って懐から大銀貨(ドラグマ)を一枚取り出し、霧雨の前に置いてやった。あれだけ堂々と集ろうとしておきながら、本当に金を出すとは思っていなかったようで、霧雨は呆けたように俺をまじまじと凝視した。その表情は少し間抜けに見えたが、うっかり可愛いとか思ってしまったのは、きっと何かの気の迷いに違いなかった。訓練されたぼっちはこの程度で一々萌えだの蕩れだの感じたり、ましてや動じたりなどする筈がない。
「……飯代だけだからな?」
 瞬く間に顔を綻ばせた霧雨は、満面の笑顔でポケットの銀貨(デナリ)を数え始め、きっかり七枚俺に差し出した。
「へへっ、言ってみるもんだぜ。悪いな、八幡」
 無邪気に笑いかける霧雨は、その言葉ほどに悪びれているようには見えなかった。まんまと集られてしまったと云うのに、俺もまるで悪い気がしない。それどころか機嫌良さげにニヤニヤ笑う霧雨を見ていると、思わずこっちまでにやけてしまいそうになる。
「おまえ、その気持ち悪い含み笑いやめろよな、変な妖怪かと思われるぜ」
「……うるせぇ、放っとけよ」
 しまった、うっかりにやけていたらしい。ギルガメッシュの酒場で良かった。部室でこんな失態やらかしたら、通報されかねんからな。しかし、殺し屋(ヒットマン)から始まって遂に妖怪かよ。まぁ変質者扱いされないだけマシ……待て、妖怪って事はモンスター扱いじゃねぇか。ちょっと笑っただけで討伐対象とか、エセルナートの笑ってはいけない冒険者はハード過ぎね?
「なぁ、昨日貸した錬金術の本、もう読んだか?」
「いや、夕べは風呂入って洗濯したら力尽きた」
「あの後、風呂屋に行ったのか……ほんとに風呂屋だろうな? 公衆浴場とか裏通りの怪しげな泡風呂屋だったら、おまえの評価、六段階下げて紅魔館のチュパカブラと同じにするからな」
 おい待て、聞き捨てならない新たな情報をサラッと流すな。風呂屋? 公衆浴場? そんな素敵な施設があるなんて一言も聞いてないんだが。あと、六段階下がっても、まだUMAと同格な事に驚きだわ。おまえ、俺の評価どんだけ高いんだよ。
「すまん、風呂屋と公衆浴場について詳しく」
「知らないのか? なら、どこで風呂入ったんだ?」
「冒険者の宿のロイヤルスイート」
「……おまえ、ふざけんなよ……なんで昨日今日登録したばかりの新米冒険者がロイヤルスイートに泊まってんだ。駆け出し冒険者は馬小屋で寝て、色ボケ管理人に蹴りを入れられるのが通過儀礼じゃないのか? そもそも、なんでおまえ、そんな大金持ってんだ。このわたしが汗水流して働いても一日10ゴールド稼げないのに!」
 いや……お前、冒険者だろ? ダンジョン潜れよ。戦利品で普通に稼げるだろ。寧ろなんでウェイトレスやってるのか疑問だっての。
 つーか、霧雨の認識だと管理人さんは色ボケか。あのビッチ、ひょっとして有名なの? どんだけやらかして……る、ようにも思えんのだが……ああ、あのエロ下着で宿を歩き回ってるの見られたら、そりゃ色ボケ扱いもされるか。寧ろそれで済んでる方が不思議だけどな。あの艶姿、痴女認定されてもおかしくなかったぜ?
 この後暫く、料理が運ばれて来るまで霧雨の追及は続いたが、ダンジョンで稼いだといくら言っても、霧雨は納得してくれなかった。


「……なぁ。お前、レベル神って知ってる?」
 結局、霧雨に聞いていた。会話の流れとかそんなやつなので仕方ないよね。それに情報は多いに越した事はないし、確度も高まるってもんだろ。
「レベル神か? ああ、当たり前だろ──て、おまえレベル上がったのか!?」
「あー、まだよく解らんのだが……夢に専属レベル神を名乗る愛宕が現れて、レベルが上がったとかなんとか」
「上がってるじゃないか! 忍者はレベル上がるのが遅いって話はガセか? ちっ──わたしもうかうかしてられないか……ヤバいぜ……追いつかれちまうかも……でも……」
 スプーンを握りしめ、シチューの煮込み肉を睨みつけながら、何やらブツブツと呟き始めた。あれ? 霧雨のやつ、何か変なスイッチ入ってないか?
「……おい、霧雨?」
「……魔理沙だ」
「あ、いや、その……それはほらアレだよ、あんまり慣れ慣れしくすんのもアレじゃね? あとほらアレだ──」
 ビシッと目の前に突き付けられたスプーンに俺の言い訳は遮られた。
「昨日、魔理沙って呼ぶって言ったよな、おまえ」
 言ったか? 善処するとか努力目標にするとか、前向きに検討するとかそんな感じで誤魔化したような気はするが……やべぇ、目が据わってやがる。なにこの黒っぽいの、超おっかないんだが。
「……あー、ま…魔理…沙」
 ちょ……アルファさん、なに笑ってんスか。マスターまでいやらしく口元を歪ませてるし……なにこの羞恥プレイ、今すぐ死にたいんだが。
「はっあぁー? 全っ然、聞こえないぜ。もっとはっきり言えよ、男だろ」
 おまっ──ふざけんなよ? なにニヤニヤ笑ってやがる。ヤバい、顔が熱い。頭が茹だりそうだ。クールだ、クールになれ。大丈夫だ、問題ない。この程度の窮地、何度もトラウマにしてきた。対策も耐性もできている。まずはクールダウンして冷静に──
「ははっ。なんだ、喉でも乾いたか? ほらよ」
「……おう、すまん」
 ぬるいな。でも少しは落ち着いて──
「それな、さっきわたしが飲んでたやつ。これって間接キスか?」

 盛大に吹いた。

 魔理沙とマスターは憚る事なくゲラゲラと声を上げて笑い、アルファさんはしゃがみ込んで必死に笑うのを堪えているのか、ぷるぷると打ち震えている。ホールにいた冒険者やウェイトレス達の耳目が、一斉に集まるのを背中でひしひしと感じた。おい、これ一歩間違えばトラウマどころの騒ぎじゃないからな?
 バシバシと俺の背中を叩きながら笑い続ける魔理沙を恨みがましく睨みつけてやったが、まるで効果無しである。俺の腐った目では、ファイヤーの【にらみつける】には程遠いようだ。

 不思議な感覚だった。揶揄われていたと解っているし、公共の場で恥ずかしい目にも遭わされた。不特定多数の注目を集めるなど不快極まりない。頭にも来るし、腹も立つ。だが、なぜかそれ以上に楽しかった。なぜだかよく解らないが、こう云うのも悪くないと思えてしまう俺がいた。
「おまえ、いつもそうやって笑ってろよ」
 魔理沙に指摘されて初めて気が付いた。俺も、いつの間にか笑っていたらしい。そしてふと思い至る。あのネガティブな気分も、きれいさっぱり解消してるじゃねぇか。どうやら気持ちを切り替えると云う目的も、ちゃんと達成できていたようだった。


 落ち着きを取り戻し、酒場の空気がいつものそれと同じに感じられるようになった頃、具沢山シチューの皿を空にして、満足した様子の魔理沙が不意に講釈を始めた。実は聞いた俺の方がすっかり忘れていたとか、絶対に知られてはならない秘密である。
「レベル神ってのは、エセルナートに住んでる皆それぞれに憑いてる神様らしい。守護神みたいなもんだろうな。夢に現れてレベルが上がった事を教えてくれる存在だ。それと後どれだけ頑張ったらレベルが上がるか、その目安みたいなのも教えてくれたりするな。ま、そんなとこだ。基本的に声だけ聞こえるらしいが、異邦人は専属レベル神ってのが憑いてる事が多くて、専属だと声だけじゃなくて、親しかった人や身近な人の姿で現れるぜ」
 親しかった人……身近な人の姿……愛宕が? 謎が謎を呼ぶと言うか、またぞろ意味が解んなくなって来たな。
「なぁ、もしかしてお前、知り合いが憑いてんの?」
「あー? 一応、な。わたしの専属レベル神は、なぜかアリス・マーガトロイドだ。香霖でも霊夢でもなくて、なぜかアリスが出て来るんだよな。意味が解らん。だから此間出てきた時に言ってやったんだ。霊夢と交代しろって」
 どんだけ図々しいんだよ、お前は。あとアリス・マーガトロイドさん、あんたは怒っていいと思う。
「……大丈夫なのか、それ? 守護神? じゃねぇのかよ」
「平気平気、あいつはあれで多少、話の解る妖怪だから。多分、次に出て来る時は霊夢だな。今から楽しみだぜ」
 妖怪が守護神ってのもなんか変な話……でもないか。そもそも妖怪と神様の線引きなんて、割と適当だろうし。
 しかし……妖怪と艦娘だと、やはり艦娘のが変だよな、絶対。なんで愛宕……待て。ボルタック商店に俺よりツワモノのキラ提督がいるじゃねぇか。案外、あいつも艦娘が憑いてんじゃね? 今度、聞いてみるか。



 酒場で長居してしまった所為で、訓練場の忍術忍法指南部道場を訪れるのがちょっとばかり遅くなってしまった。まぁ、どうせ師匠は基本的にいつも暇らしいので、午前も午後も同じだろう。問題があるとすれば、一昨日の別れ際に、あの豆腐メンタルは少しばかり落ち込んでいた事くらいだ。復活してればいいんだが。
 だが暇な筈の師匠の姿はどこにも見当たらず、道場はもぬけの殻だった。おかしいな。また藤村先生のとこに控えてるのか──と言えば聞こえは良いが、要はストーキングと覗きと盗み聞きである。憲兵さん、仕事しろ──と、思ってタイガー道場の方に顔を出してみれば、やはりこっちに居やがった。
「あ、(はっ)ちゃんだー。いらっしゃーい♪ どしたのー?」
「あらあら、ちょっと見かけないと思ったら、随分男前を上げてるじゃない。男子別れて三日、刮目して相待すべし、ね」
 出迎えてくれた道場主と酔っ払いは今日もご機嫌である。どうやら酒宴の真っ最中と言ったところか。相変わらずダメな大人っぷり全開だ。いっそ清々しいまであるんじゃね? だが藤村先生、あんた一応ここの責任者だろ。それでいいのか? て云うか、一等書記官仕事しろよ。この人達、どれもあんたの管轄じゃねぇか。
「うわっはははははッッ!! 八幡よッ! 如何したッ! 貴様を送り出して、まだ二日と経っていないぞッ! まさか逃げ帰って来た訳でもあるまいッッ!」
 当たり前のように天井から降ってくるニンジャマンだった。着地と同時に腕組み仁王立ちで高笑いする姿に、ちょっとほっこりしてしまった俺は、この忍者マスターに結構感化されているのかもしれない。独身女性の職場の天井裏に隠れ潜んでる異常性も、なんだか大目に見てやってもいいかと思ってしまった。ま、相手は藤村先生と月影さんだしな。なんかあれば斬り捨て御免か、一等書記官殿の言葉責めで即死だろうから俺が心配するような問題ではあるまい。


「レベル神? え? ウソ、八ちゃん、もうレベル上がったの!? しかもレベル3!? 意味が解んない! 一昨日、冒険者登録したばっかじゃん、いくらなんでも速過ぎだよー!」
 あれ? いつの間にか呼び方が八ちゃんになってるんだが、それは一体……何もしてないのに好感度が勝手に上がった? なにそれこわい。
「ふ、ふ…ふははははッ! さ、流石だな、八幡ッ! それでこそ俺が見込んだ漢だッッ!!」
 ニンジャマン、汗拭けよ。虚勢、空元気、ほんとメンタル弱いな。つーか、弟子の成長を聞いてきょどるとかどうなの? もっと喜べよ、あんたの教え子の結果だろ、あんたの指導が良かったって事じゃねぇの?
「うんうん。突っ走ってるねー、若い子はそうでなきゃ。折角だから八ちゃんの成果を讃えて乾杯しよっか。ほらほら、八ちゃんもこっち来て一杯やんなさい」
「ちょっと蘭ちゃん! 抜け駆けはずるいわよ! 八ちゃんはここに座って、お姉ちゃんにお酌しなさい。できればホストっぽく」
 ダメだ、この大人達……誰か早く貰ってやるなりして、何とかしてくれ。あと藤村先生、あんたを姉に持った憶えはない。俺には小町しかいないから。

 レベル神の事を聞いたところ、その反応は三者三様だった。魔理沙もそうだったが、なぜか皆、俺のレベルが上がった事に食い付いてくる。事前に、受付でレベルの確認をしたのは失敗だったか? 因みに、ちゃんとレベル3になっていた。愛宕の言葉は信用できるようだ。

 肝心のレベル神については魔理沙が語ってくれた内容と殆ど同じだった。つまり、また何か知りたい事があれば、まず魔理沙に聞けばそれで大体事足りてしまうと云う事が判明した訳だ。
 どうやらタイガー道場を本格的に卒業する時が訪れたようである。藤村先生、お世話になりました。これからは魔理ペディアを頼る事にします。

 しかし専属レベル神は親しい人や身近な人の姿で現れる、か……艦娘はどれに該当するんだろうな。ちょっと思いつかねぇわ。
「親しい人とか身近な人の姿をしてるって言うけど、一概にそうとばかりは言えないんだよ? わたしも、よく解んない娘が憑いてるから」
「あ、そんな事もやっぱあるんスか」
 交互に差し出される酔っ払い二人のお猪口に、休む事無く酌をしつつ藤村先生の話に耳を傾ける。飲みながらなので、先を促してもなかなか切り出さねぇから困りものだった。
 師匠、あんたも一緒になって飲んでないで、有益な情報のひとつでも開示するか、せめて給仕係を手伝うなりして下さい。
「うん。わたしとしては切嗣さんとか士郎だったら嬉しかったんだけど……銀髪ロリブルマなのよね、なぜか。わたしと、どんな関係があるのか聞いても教えてくれないし……」
 つまり、俺だけではないと云う事か。意味不明なのが出て来るのは。あまり深く考えても仕方ないのかもしれないな。
 因みに師匠は天狗のコスプレした養父で、月影さんはお兄さんらしい。身近で親しい人と云う事なら、確かに肉親が一番該当しやすいだろうな。俺の身内に艦娘がいたなんて事は流石にないと断言できるので、結局なぜ愛宕? と云う疑問の答えは暫く見つかりそうになかった。


 酒盛りを続ける三十代独身女性二人に暇乞いをして、俺と師匠は忍術忍法指南部道場に戻った。
 どうでもいいが道場の名前、ちょっと長いよな。元は忍者養成道場だったらしい。師匠が忍者マスターになってから今の名前に改名したとか……正直、師匠の人物について文句など無いのだが、やや一般的ではない特殊なセンスについては……ちょっと相容れない。
「──では八幡よ、これより貴様にはレベル2忍者とレベル3忍者に必要な全ての技能を修得して貰う。1レベル分の追加訓練と言っても、本来まともにやれば一年以上掛かってもおかしくない修行を、魔法によってたった一日で無理やり詰め込んでしまう荒業だ。それだけでも相当な負担が掛かるモノを、一気に2レベル分……生半端な覚悟では耐えきれんだろう……本当に、二日間に分けて修行しなくてもいいんだな?」
「……うっス、それでお願いします」
 戦闘の感覚的にも、手持ちの資金的にも、あまりダンジョンから遠ざかりたくない。上手く行けば明日の夜には訓練も終わって、少しくらいダンジョンに潜る時間が取れるだろう。本当に強くなっているのか、すぐに確かめたいだろうからな。
「ふっ──ふはは…うわーっはっはっはっはっ!! よくぞ申した八幡ッッ! 忍者なら……(おとこ)ならそう(・・)でなければならんッ! 忍者たるもの主命が第一、否ッッ! 主命が全てだッ! 何時如何なる時でも任務に備え、ひとたび主命が下れば即座に行動できねばならん。のんびり修行にかまけている時間など──ないッッッ!!!! 解るぞ、八幡よ……こうして話している時間すら惜しくて堪らんのだろう。ならばすぐに特訓を……猛特訓開始だッッッ!!!!」
「うーっス」


 こうして三日目の午後は足早に過ぎ去り、全てのカリキュラムを消化し終わった俺は名実共にレベル3忍者になっていた。そして五日目の朝を迎える。


 特訓の最後ら辺は、師匠も俺もテンションがかなり変な感じになっていた。劇薬とか毒物の調合やら運用と云った、かなり危険なレクチャーもあったのだが、何事もなく無事に修了する事ができたのはある意味奇跡なのかもしれない。
 しかし……俺は一体、何時間特訓を受けていたんだ? 一昨日の午後から始めたから……四十時間くらいか? 寝不足ってだけで案外大した事無いように感じるとか、俺も既にこっちの世界に感化されまくってるな。
 結構ハードな修行だったが、初歩錬金術の講義や、毒物や薬品の抽出や調合とか、かなり面白かったのであまり苦にはならなかった。寧ろ楽しかったと思えるほどだ。これほど充実した時間を、俺はこれまでの学校生活で経験した事があったろうか?
 ……いかんな、徹夜明けで絶対疲れてる筈なのに、なんか妙に気分が昂揚して身体が軽い。これが俗に言うアレか。気分は最高にハイってのか?
 ここはひとつダンジョンで試してみるのもイイかもしれない。サンプルで貰った致死毒とか麻痺毒とかも試してみたいしな。やべぇな、もうオークやコボルドの五体や十体なんぞに負ける気がしねぇぜ。


 訓練場の外には十人前後の人だかりができていた。傍には見覚えのある馬車が一台と、これまた見覚えのあるウニ頭のマッチョと不良シスターが御者席に座っていた。すぐに馬車は城門の方へと走り去り、十人ほどの志願者達がぞろぞろと受付に向かって歩いて行く。後には二人の女性が残っていた。
 一人は見知った一等書記官の貴腐人だ。もう片方は知らないが、ここにロザリンドがいると云う事は、あの女は今日来た異邦人なのだろう。
 さっさとスルーしても良かったのだが、なぜか二人──ではなく、その異邦人の女がやけに騒々しかったので、なんとなくその場に留まり、二人を注視してしまった。

 後に思う────この時、俺は既に地雷を踏み抜いていたのだ。その地雷は盛大に炸裂し、俺の冒険者生活はこの日を境に一変する事になる。

「──ちょっと! なんでお城に行っちゃダメなのよ!? こう云うのって、まずは王様()挨拶するもんじゃないの?」
「……あの…ですから、ご説明するので、こちらに……」
「あれは何かしら!? 怪しいわね、ちょっと見て来たいんだけど!」
「ついて来て──」
「ねぇ! あんたは異世界人でしょ? だったらここにアレはいないの、アレは!?」
「下さ──何がですか?」
「宇宙人よ、宇宙人! 解らないの!? あと未来人と超能力者なんかもいたら嬉しいんだけど!」
 今のやり取りで一体何を解れと言ってんだろうな、この女は。でもすげぇ、あのロザリンドがたじたじじゃねぇか。ククッ、いい様だぜ。これだけでも見物した価値はあったかもしれん。
「いえ、私には見当もつきません。ですから、そう言った事も含めて御説明させて頂きますので──」
「あ」
 ──あ。
 やべぇ、目が合った。
 瞬間、背筋に悪寒が走る。それはきっと虫の知らせとかそう云った類のモノであり、俺の第六感が警告していたのだ。全力で逃げろ、と。
「何よ、あいつ! メチャメチャ怪しいわね! ちょっとそこのアンタ! こっちに来なさい!!!!」
 来なさいと命令した筈なのに、なぜかそいつは俺に向かって突進して来た。なるほど、俺に言った訳じゃ──て、速ぇえええ!? 身を躱そうと反応する前に腕を捕まれてしまった。レベル3忍者と言っても、実はあまり大した事ないのかもしれない。俺は人知れずショックを受けていた。
「アンタよアンタ!! うっわー、なんて胡散臭い目をしてるのかしら……アンタ、何者よ? あたしの見立てでは超能力者なんだけど!」

 俺は、えらい美人に捕まってしまった。

 雪ノ下といい勝負に思える長く艶やかな黒髪は白い肌に映えていて、黄色いリボンの飾りを付けたカチューシャがやけに目を引いた。整った目鼻立ちは凛としていて、意志の強さは半端じゃないと容易に窺い知れる。大きくて黒い目は真っ直ぐに俺を捉えて離さず、好奇心に満ちた瞳がキラキラと輝いていた。瞬きの度にバッサバッサと風を切りそうな長いまつ毛は、エクステだのマスカラだので盛る必要は一生無さそうだ。淡い桃色の形の良い唇はふっくらとして柔らかそうだが、そこから紡がれる言葉はほんの少し耳に入った程度であるにも拘らず、少々……いや、かなり……痛かった。
 リボンタイの半袖シャツに黒ベスト黒スカート……着ている物の配色は魔理沙とほぼ同じである。だがデザインが根本的に違うな。魔理沙がゴスロリ風ならこいつのは学校指定の制服だ。つーか、こいつ学生かよ。それも夏時期から来たのか。良かったな、エセルナートはこれから春らしいぜ。とは言えまだこの時期、見てるこっちが寒くなりそうな夏服姿だったが、身体のラインがやけにはっきり強調されていて他人事として見てる分には眼福である。
 外見はパーフェクト、中身は……多分、地雷だな。近付くべきでは──おい、いつまで掴んでんだよ。そろそろ放して貰えませんかね?
「あー、その……腕、放して欲しいんだが」
「ダメよ」
 即答かよ。
「さぁ言いなさい! アンタ、何者なの!?」
「──その方は忍者です。おはようございます、比企谷さん。昨日はお楽しみでしたね。忍火さんとお二人で一体ナニをしていたのやら」
 おい、なんだその誤解を招くような言い掛かりは。謎のメイド押しの次は、謂れのないカップリング認定か? その澄ました顔、ぶん殴りてぇ。
「忍者!! 意外だわ。でも……そうね、確かにそう言われてみれば、忍者に見えなくもないわね。それにその目! 何なの? 写輪眼とか白眼とかの偽物かしら!?」
「何の事か解りかねますが……比企谷さんの名状し難い目の事を仰っているのであれば、あれは戦争狂(ウォーモンガー)の方々と同じであるとしか」
 この書記官、息を吐くように俺をディスりやがる。つーか、その戦争狂(ウォーモンガー)って何なの? あんた初対面の時もそれ言ってたよね?
「なんだかよく解らないけど──気に入ったわ! アンタ、名前は?」
「……比企谷八幡」
「ふーん、比企谷…八幡……ハチね! アンタの事、ハチって呼ぶ事にするわ。うん、なかなか良い名前よ。忠犬っぽくてイイじゃない! よし、それじゃ行くわよ、ハチ! 付いて来なさい」
 いや、待て。もういろいろツッコミ所が満載過ぎてもう何がなんやら……取り敢えず、掴んでる俺の腕をまず放そうか。
「待て待て、お前が行くのは藤村先生のとこだろ。つーか、どこに行く気だ」
「決まってるでしょ?」
 そいつは、やたらと強気な目で俺を見据えると、誇らしげにデカい胸を張って宣言しやがった。

「宇宙人と未来人と超能力者を探しに行くのよ! 異世界トリップに忍者ときたなら、宇宙人がいてもおかしくないわ!」

 おかしいのはお前だ……あれ? こいつが言ってるのって、城塞都市(ここ)に全部いるんじゃね?
「……まぁ、その戯言は置いとくとして……人を変な渾名で呼ぶ前に、まず自分も名乗るのが礼儀ってもんじゃねぇの?」
「それもそうね。ハチにしてはまともな事言うじゃない」
 おい待てこら、一体何のソースで"ハチにしては"が繋がるんだ? お前、初対面だよね?
 そんな俺の内心のツッコミなどまるで意に介さず、その女は再びぐいっとデカい胸を張って堂々と名乗りを上げた。

「光陽園学園一年、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ないわ」

 こうして俺達は出会ってしまった。後に思う──ある意味、運命的だったのかもしれない、と。だがこの時は、まさかこいつとの付き合いがこれほど長くなるとは夢にも思っていなかった。正直な話、どうすればこの場から逃げられるか、俺はそればかり必死で考えていた。

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邂逅編 B1:涼宮ハルヒとLV.3八幡

 女の子と手を繋ぐ──俺とて、そんなシチュエーションに淡い憧れと羨望を持っていた時期もあった。
 そう云った諸々に見切りを付け、切り捨て、背を向けてぼっちとなった今となっても、不意にそんな状況にでもなれば、不覚を取って動揺してしまう事もある。例えば此間の魔理沙との一件とかな。
 無論、その行為自体が厭な訳ではない。ただ苦手としているだけだ。そこから派生する事態を容易に想像ができてしまう上に、それは往々にして俺の心に深刻なダメージを残す結果で終わるからである。とは言え、そう云った事を十分理解し、対処しているつもりであっても、忌々しい事にその時(・・・)はちょっとばかり嬉しかったり、うっかりときめいたりもしてしまうのが常だった。悲しいかな、こう云った感情はきっと本能的なモノに直結しているのだろう。いくら俺とて本能に抗い切れるほど大人ではない。それもグラビアの表紙を飾っていたなら、思わず手に取ってしまうどころかそのままレジに直行して翌月までの財布の残高を顧みる事なく会計を済ませ急ぎ足で帰宅するなり家族の所在と行動を確認して部屋の鍵を確実に施錠するまでがひとつの行動になってしまうような、そんな飛び切り自分好みの女性であるなら、最早語るまでもあるまい。

 だが現実にその状況に直面した時──ときめくどころか、さほど嬉しくもないのはなぜなのか。

 まぁ〝女の子と手を繋いでいる〟ではなく〝変な女に捕獲されている〟のだから、それも致し方ないところであり、ましてやその言動がこの調子ではな。
「ねぇ! ハチ、あれ! あれ見なさいよ! 宇宙人よ、宇宙人!」
 おい、失礼だから指差すのは止めろ。それとあの人は宇宙人じゃない、ムークだ。まぁ確かにハン・ソロ船長の相方にしか見えんけどな。元々山岳地帯の奥地にひっそりと暮らしている種族らしく城塞都市で見かけるのは珍しいとか。見た目は毛むくじゃらの歩く毛玉だな。姿形は涼宮の言う通り宇宙人としか思えないが、亜人の中でも特に知的で温厚な友好種族らしいぜ。ダンジョンで不意に出くわしたら本気でモンスターと勘違いしかねないので、その為の《愚者の統制(IFF)》なのかもしれないな。
「涼宮さん、あの方はムークです。宇宙人とやらではありません」
 ため息交じりであっても、忍耐強くこの女のおかしな言動を訂正し続ける一等書記官はほんと有能だ。おかげで俺は全く必要無い。寧ろなぜ今だに同伴させられているのか意味不明である。なぁ帰っていい? て言うか、まず手を離せ。うっかり勘違いしちゃったらどうするん……いや、流石にそれはなかった。
「どう見ても宇宙人にしか思えないけど……まぁいいわ。後であたし達で確かめるわよ、ハチ」
 断る。見ず知らずの人に「貴方は宇宙人ですか?」なんて聞く気か? 一人でやってくれ、俺を巻き込むな。あと宇宙人はバラック通りの難民居留区でアンテナを頭に生やした奴らだ。
「なにあれ! コッロセオ? 大きいわね、初めて見たわ……地下の壁に石の仮面とか古代人とか埋まってないかしら」
「……あれは国営闘技場です」
「ちょっと見に行きたいんだけど!?」
 地下にか? ねぇよ、柱の男なんて埋まってねぇから! いくらなんでもそこまでフリーダムじゃない……よな、この世界……
「後にして下さい」
「……」
 一等書記官、容赦ねぇな。じと目で睨まれてもどこ吹く風である。つーか美人の変顔とか初めてだわ。ロシア語のД(デー)みたいな変な口になってんぞ。だがまぁ……確かに気持ちは解らんでもない。日本とエセルナートじゃまるで景色が違うからな。俺も最初は目を見張ったもんだしな……て、おかしいな。まだ一週間も経ってないのに、もうずっと前からここで暮らしてるみたいな気分になっていた。やはり訓練場の中で長時間過ごすと時間の感覚が変になるのか。エセルナート(こっち)に来てからまだ五日ってのが正直、信じられん。

 練兵場及び訓練場の施設では、およそ24時間で約一年分の訓練が可能──偉大な大魔法と云うより、ご都合主義ここに極まれりのチートっぷりである。
 ぶっちゃけ、殆どこの中で暮らしていると言っても過言ではない師匠や藤村先生に月影さん達は、一体どんな感覚になっているのか少し興味深いところだ。

「……あの塔みたいな建物、他と様式が違うわね。どうして壁が黒いのかしら……それに窓が無いのも不自然だわ。怪しいわね。悪の秘密結社の秘密基地かしら──ハチ、アンタもそう思うでしょ?」
 なぜ俺の同意を求める? つーか、秘密基地をあんな大っぴらに、それも国営施設のド真ん中に建てるかっての。どんだけ間抜けな秘密結社だ。
「人体実験とかしてそうだと思わない? 面白そうね……ハチ、調べに行くわよ」
 だからなぜ俺を同伴しようとするんですかね、意味が解らないんですが。行くならお前一人で行ってくれ。あといい加減手を離せ。何? お前、俺の事好きなの? いや、それはないか、初対面だしな。ほんと解放して下さい。四十時間の特訓して来た後だってのに、これなんて罰ゲームだよ。
「行かないでくださいね? 説明その他諸々が終わってからにして下さい。それと比企谷さん、あまり彼女に突飛な行動をさせずに、ちゃんと連れて来て下さい」
 最早、苛立ちを隠す素振りもない一等書記官は忌々し気に俺を睨む。貴方の管轄でしょう? とかなんとかそんな感じの視線だな。いや、ちょっと待とうか。気持ちは解らんでもないが、今はそんな些細な事はどうでもいい。いつの間に俺はこの女のお目付け役にでもなった? 見て解らんのか、俺はこいつに連行されているだけだ。断じて望んで付いて来ている訳ではないからな?

 この一等書記官に何か言い返しても無駄な事はここ数日の経験から心得てはいるのだが、言われっ放しも癪に障るので小言のひとつでも言ってやろうとしたその時、俺の胸倉を強引に掴んで引き寄せる奴がいた。無論、そんな狼藉を働く奴は涼宮ハルヒを於いて他にない。
 危うく頬と頬が触れてしまうんじゃないかと期た──不安になる至近距離に、横目で一等書記官を見据える黒い瞳の、艶やかな黒髪が映える人形のように整った顔が迫っていた。顔、小さいな。瞬時に心拍数が跳ね上がるのを感じた。

 鼻孔を擽る甘い香りは日本で普通に市販されているであろう制汗スプレーや香水の類であって、決して涼宮ハルヒ本来の匂いではないし、そもそもこの女の中身はアレだ──と、理性ではときめく理由がまるでない事を理解しているつもりであっても、悲しいかな……俺の若さ故の抑制の効かない衝動的なモノがそれ(・・)を否応なく意識させてしまうのだ。この文明がお世辞にも発展しているとは言い難いファンタジーな世界では、最先端テクノロジーに溢れる現代日本から持ち込まれた香料はあまりに刺激が強過ぎる。つまり何が言いたいかと言うとだ──この状況、心臓に悪い。ちょっと好みの美人に接近されたくらいで平常心を保つのも困難とか、レベル3忍者の精神力なんて所詮この程度である。まぁ精神力云々については豆腐メンタルの師匠を鑑みれば、多少訓練したところでどうこうなるモノでもないのかもしれないが。
「……なにあれ、ちょっと感じ悪くない? ハチ、アンタあの女に何やったの?」
「……あの人は初対面から大体あんな感じだ」
 待て。なぜ、俺が何かしでかしたみたいになる? 一等書記官の機嫌の悪さは疑うまでもなく、お前の落ち着きの無さが原因だ。あと近いから。本気で勘違いしかねないから離れてくれ。
「アレもダメ、これもダメ……ムカつくわ。ちょっと見に行ってみるくらい、いいじゃない。大体、あたしを何処に連れて行こうってのよ? 図々しいわね。何をするつもりか知らないけど」
 図々しいのはお前だ。あとレクチャーするから付いて来いって最初に言ったと思うけどな、あの一等書記官。ちゃんと人の話は聞いとけ。
「……お前、エセルナート(ここ)に来たばっかだろ? お前みたいな異邦人……あー、お前の言うところの異世界トリップした奴は、まず訓練場(ここ)の藤村先生にこの世界の事をレクチャーして貰うのが決まりなんだと。悪い事は言わねぇから、大人しくレクチャー受けとけ」
 割とガチでヤバい世界だからな。こいつにしても、物見遊山気分でいられるは今だけだろう。
「ふーん。仕方ないわね。まぁいいわ、後からゆっくり見て回ればいいし」
「理解したなら、こっから先はお前一人で行ってくれ。俺には関係ねぇし」
「……ダメよ。アンタも来なさい」
 それは気の所為だったのかもしれない。俺の腐った目を物ともせずに力強く見据える黒い瞳に、一瞬…ほんの一瞬だが──何か愁いたような陰りが差すのを見逃さなかった。こんな調子でも、言い様の無い不安や孤独を、表に出さないだけで少なからず感じているのかもしれないな。そう思うと、ジャケットの襟を握りしめる彼女の両手も少しか弱く見えた。ま、少しくらいエスコートしてやっても構わんか。
「……タイガー道場までなら」
「なによ、それ。めちゃめちゃ怪しいんだけど!」
「知るかよ、藤村先生に直接言え」
「つまりそのタイガー道場で、藤村って人の話を聞けばいいのね。ふぅん……」
 役には立っても、あまり面白い話でもないけどな。気が滅入ること請け合いだ。
「……ねぇ、その説明って、アンタがしてくれたんじゃダメなの?」
 ダメに決まってんだろ。何言ってんの、こいつ。バカなの?
「…悪いな、俺()エセルナート(こっち)に来てまだ五日目なんでな。寧ろ俺の方が教えて貰いたい事ばかりだ」
「名前からしてアンタも日本人だとは思ってたけど、アンタもこっちの世界に来たばっかりなんだ。ふぅん……で、ハチはどこから来たの? やっぱり伊賀とか甲賀? それとも風魔の隠れ里とか!?」
 何処にあるんだよ、そんなもん……つーか、エセルナートに来るまで忍者に縁もゆかりもなかったわ。まぁ俺の鍛え抜かれたぼっちスキルがそれっぽいと言えばそれっぽいかもしれんが……流石に関係無いと思うがね。
「……千葉」
「なによ、普通じゃない。ガッカリだわ」
 お前は俺に何を期待してるんだ……つーか、千葉をディスったら戦争だからな。俺の千葉愛が火を吹くぜ?

 ここは流れ的に「お前は何処から?」等と返すなりして会話を続けるべきなんだろうが……端から会話を拒絶しているぼっちは、平然と流れをぶった切る事に躊躇は無いのである。このまま下手にこいつと会話を続けると、何かしらやらかしてしまいそうだからな。それにそろそろタイガー道場だ。短い間ではあったが、これにて俺のエスコートもお終い、お役御免、だな。さぁ掴んでる腕を離せ。それも速やかに。
「──な……ハチ、アレ!」
「……なんだ?」
 今度は何を見つけたんだよ、いい加減にしてくれ。つーか、襟を引っ張るんじゃねぇ。全く……ロザリンドの奴、この女を俺に押し付けて自分は知らんぷりか。もうこっちを見向きもしねぇ。
「なんで日本家屋があるのよ! めちゃめちゃ周りから浮いてるんだけど!」
 だってタイガー道場だしなぁ。侍も忍者もいるんだし、武家造りとか日本家屋だとか古民家風とかあってもいいんじゃね? エセルナートに文化的な統合性とか求めるだけ無駄だろ。俺は此間の宇宙カレーでそれを思い知った。お前も早めにこのノリに慣れた方がいい。一々考えてたら身が持たんからな。
「アレがタイガー道場だ。詳しい事は中にいる藤村先生に聞けよ。お前にいろいろ教えるのが仕事らしいから。じゃ、俺はこれで──」
 おい、なぜ離さない。ここまでエスコートするって事で話は付いていた筈だが。
「アンタもここの事、詳しくないんでしょ? 一緒に来なさい」
「は? 何言ってんの、お前。ここの授業ならもう必要ねぇし。て言うか、そろそろ解放してくれ」
 俺には魔理ペディアがあるからな。ついでに酒場でオーダーも取ってくれるし、あいつ有能過ぎじゃね?
「イヤよ……アンタ忍者でしょ、手を離したらそのままいなくなるんじゃないの?」
 よく解ってるじゃねぇか──て、ずっと俺を捕まえとく気だったの? お前ちょっと……いや、かなり怖いんだけど。
「……レクチャー終わってからが、多分時間掛かるだろうし、それ(・・)に俺は絶対(・・)同伴できないから。あと……別にいなくならねぇよ。冒険者の居場所なんて宿と酒場、あとボルタック商店くらいしかねぇし」
「時間掛かるの?」
「多分、な。因みに全く参考にはならんかもしれんが、俺は(・・)夕方まで掛かった」
「そう……なら夕方までここで待ってればいいじゃない」
「アホか。俺もそんなに暇じゃねぇんだよ。一昨日からずっと訓練に使っちまったからな……ちょっとでも稼いどきたいんだ」
 そのじと目で睨むの止めてくれませんかね、如何にも俺が悪いみたいじゃねぇか。それとまた口がД(デー)になってるし。ペリカンみたいだな、まるで。しかし、そんな表情も結構可愛いとか美人は得だな。俺じゃなかったら危なかったろう。だが残念ながら歴戦のぼっちは例えどれほどの美人であろうと、会ったばかりの奴にどう思われようと別に気にしないので、その程度で絆されたりなどしないのである。
 だが涼宮ハルヒは、まるで不退転の決意を秘めているかの如き黒い瞳は俺を見据えたまま揺るぎもせず、その両手で掴んだ俺の左腕を決して離そうとはしなかった。道場の入り口で待っている一等書記官をチラリと窺えば案の定、早く話を付けろと言わんばかりにこちら──主に俺を睨んでいた。俺の視線に目敏く気付いた彼女は、突き立てた親指で首の辺りをスッと横切らせた。さっさとしろ、殺すぞ──ですか解りたくもありません。理不尽過ぎるだろ、いくらなんでも。
「……夕方、ギルガメッシュの酒場で合流……これでいいか?」
「絶対、逃げない? ちゃんと来るんでしょうね?」
「逃げないし、晩飯食いに必ず行く」
「……わかった、それでいいわ。夕方、ギルガメッシュの酒場ね……あたし、場所、知らないんだけど」
「藤村先生が教えてくれるし、通りを真っ直ぐ歩くだけだ。脇道に自分から入らない限り迷わねぇよ」
 こいつの場合、ふらふら路地裏に迷い込んでしまいそうだが、そこまで俺が心配してやる必要はないだろう。
 今一つ納得していないようだったが、涼宮ハルヒは漸く俺の腕から手を離した。結局俺が妥協する形ではあるが、この際致し方あるまい。あのまま俺が引かなかったら、意地の張り合いの果てに、俺がロザリンドにキレられて何をされるかわかったもんじゃないからな。あの一等書記官に酷い目に遭わされるのは師匠だけで十分だ。
「絶対来なさいよ!」
 まだ不満げな涼宮ハルヒだったが、それだけ言い捨てると足早にタイガー道場に入って行った。別に見送ってやる必要はねぇだろ──と、踵を返そうとした俺に向かって、涼宮ハルヒが声高に宣告した。
「絶対よ、来なかったら死刑よ!」
 思わず苦笑してしまうような、なんとも傲慢な物言いである。
「……へぇ、どうやって?」本気でそう揶揄ってみたいと思った。きっと面白い反応が帰って来るような気がしたが、それは多分地雷だ。折角解放されたのにまた同じ事を繰り返すハメになりそうだし、何よりこれ以上ロザリンドをイラつかせるのは拙い。少しばかり残念ではあるが黙って見送るのが正解だな。

 涼宮ハルヒ──どこか憎めない素っ頓狂な奴ではあるが、あの高圧的な態度と言動は頂けない。あまりお近付きになりたくないタイプだな。傍で見ている分には身目麗しく、眼福ではあるが積極的に関わるとなると全力で遠慮したい……等と思ってしまったろうな、以前の俺なら。
 エセルナート(ここ)に来てからの数日、実戦を経てレベル3の訓練を修了し、少なからず〝敵を効率よく殺す技術〟に自信が持てるようになり、それなりに強くなった実感があるからなのか、俺はさほど涼宮ハルヒを不快に感じていなかった。
 彼女の無神経で偉そうな言動も、正直なところ雪ノ下のそれに比べたら可愛いものだしな。直接心を抉りに来るような切れ味がないだけ無害とすら言える。まぁ、あの程度なら大目に見てやってもいいか。そう思える程度の余裕が俺にはあった。この余裕は間違いなくエセルナートで手に入れたモノだ。忍者である事が、少なからず俺の内面も強くしているのを実感する。避けて逃げてばかりいる必要はない。所詮、涼宮ハルヒなど、ちょっとばかり馴れ馴れしくて態度がアレな変な後輩でしかないのだ。
 取り扱いの面倒臭さで、飛び切り美人である事を相殺してしまった残念な奴──それが俺の涼宮ハルヒに対する第一印象だった。まぁ、あまり関わり合いにはなりたくないのは、動かし難い事実ではある。

 怒り肩でずかずかと歩く涼宮ハルヒの背を苦笑交じりに見送る俺は、ある重大な事に気が付いた。それは些細な事ではあるが、絶対に看過し難い問題だった。
 あいつ、何でリュック背負ってんの?
 涼宮ハルヒは黒いリュックサックを背負っていた。日本から持ち込んだ物ではない事は、その素材とデザインからして何となく解る。あの色とデザインは多分、彼女の趣味ではない。馬車の座席の下にあった支給品と考える方が自然だ。
 異邦人の支給品は〝ずた袋〟じゃねぇの? 何この格差、意味解んないんだけど。おい、ララなんとか、納得のいく説明をしろ。


 こうして俺は涼宮ハルヒとの邂逅を果たした訳だが、この時のリュックと同じような釈然としない不公平さを、この後度々感じる事になる。そしてその不公平さを俺自身、知らぬ間に享受していた事に気付くのは更にずっと先の事だった。



 タイガー道場の近くにほど良い砂地があったので、それを〝ずた袋〟に適量詰めて〝砂袋〟の出来上がりである。出来上がった砂袋を肩に担いで、俺は三日振りのダンジョンへ赴いた。
 サンプルで貰った毒薬も試してみたいし、何より特訓の成果を直に感じてみたかった。とは言え、過度の睡眠不足により意識は限界に近かった。ダンジョンの中で意識を失うのは洒落にもならないので、エントランスで少しばかり仮眠を取る事にした。兵士達からは奇異に見られ、訝しがられるだろうが構うものか。ついでに隠密の鍛錬がてら気配を消して息を潜める。篝火の影、バリケードの隅にこっそり蹲った俺は目を閉じた。

 意識を漠然と覚醒させたまま眠ると云う器用な睡眠法を実践しながら、俺は寝ているのか起きているのかはっきりしない微睡の中、エントランスの気配をずっと探っていた。歩哨や立哨をしている兵士達、ダンジョンへ入って行く冒険者達、目を閉じて意識がこうも虚ろなのに、それでもまだ《IFF》は発動している。奇妙な感覚だった。夢の中まで《IFF》が表示されているような、不思議な感覚である。なんとなくではあったが、少しずつ《IFF》が俺の新たな感覚になりつつあるのを感じていた。
 熟睡には程遠いがそれなりの休憩にはなった頃、俺はゆっくり目を(みひら)いた。
 一時間か、二時間か、それほど寝た気分にはならなかったが、それでも意識は涼宮ハルヒと対峙していた時よりもマシな気がする。少なくとも突然意識を失うような事態にはならないだろう。軽く屈伸をして身体を解し、再び砂袋を抱えてエントランスを抜けてダンジョンに入った。

 前回と同じく東側に向かうが、もう必要以上に警戒する必要はない。今の感覚なら出会い頭に遭遇するなんて事態は起こらない筈だ。モンスターより先に察知できる自信があった。
 早足で壁沿いを進み、何事もなく玄室の扉まで辿り着いた。前はこの先にブッシュワッカーが待ち伏せていたが、今日は何もいないようだった。少なくとも近くには何の気配もない。これなら安心して玄室の様子を探れそうだ。
 木製の扉に耳を当て、中の様子を窺う。煙の臭いは無いな。いつもいつもキャンプファイヤーを囲っている訳でもないのか。だが話声は聞こえるな。声の数からして、それほど多くはなさそうだ。まぁヤバそうなら全力で逃げればいい。
 地下一階に出現するモンスターは、魔理沙の情報で全て把握している。危険なのはブッシュワッカーとアンデッドコボルド、現在確認されている群れの最大数はどちらも十体だ。流石にブッシュワッカー十体に奇襲されたらヤバいが、話声が漏れ聞こえるあたり中で待ち伏せしているとは考え難い。
 アンデッドコボルドならそもそも喋らない。まだ遭遇してないが、魔理沙によれば動く骨格標本らしいので、骨しかないなら喋る事などできんだろ。しかし、ちょっとしたホラーだな。あまり遭遇したくないモンスターである。
 玄室で待ち構えている敵はそれほど脅威にはならないと見た。こっちには毒もあるしな。早速、ダガーに即効性の麻痺毒と、致死性の強い劇薬をそれぞれ一本ずつ塗りたくった。所詮サンプルであり、貰った量は知れている。一回のみの使い捨てなら、遠慮なく使い切ればいい。
 毒を塗布してないダガーを砂袋に何度も突き立てて、ぱっくりと綺麗に割れるように切れ込みを入れる。多少の目潰しにはなると思うが、ぶっつけ本番なだけに目論見通り行くか心配ではあった。前回オーク相手に銀貨(デナリ)をぶち撒けて上手く行ったとは言え、果たして二匹目の泥鰌を狙うのは吉と出るか凶と出るか。
 切り札の毒塗りダガーは左手でまとめて掴み、口に一本ダガーを咥えて準備完了。後は切れ込みを入れた砂袋をうっかり本番の前に零さないように抱え直せばそれで良し。砂を如何に広範囲且つ的確にぶち撒けるかがポイントだな。何度も頭の中でシミュレートして散布の手順を確認する。まぁ、なんとかいける……か?

 扉を蹴り開け俺は玄室に突入した。このやり方は忍者として間違っていると思う。いずれ中の守護者(ガーディアン)に気付かれる事なく侵入できるようになりたいもんだ。だがまぁ、今はこのやり方が一番効率が良い。例え奇襲の優位性を最初から放棄したとしても──

 玄室にはフードを被り、毛皮の鎧らしき物を身に着けたみすぼらしい一団がいた。ローグか。数は七体だな。七人のならず者(ローグ)ね──ハッ、上等だ。
 突然開け放たれた扉に驚きもせず、ローグ達は一斉にこちらを向いた。そして侵入者を待ち構えていたのか、間髪入れずに襲い掛かって来る。

 ──こんな風に、敵の方からわざわざ有効範囲の内側に来てくれるのだ。思わず口元が緩む。お前ら、俺の事舐めてるだろ?

 まぁ、一対七だもんな。それも解らんでもないし──実際、俺も此間まで一対三が限界だと思っていたさ。
 ……3……2……1、今! 砂袋を一気に横薙ぎに振り抜いた。半月の弧を描いて拡散した砂の帯がローグ達の前面に広がり、無防備に俺を凝視していた間抜けなローグの視界を奪った。
「ガァァァッッ」
「ハヒッ、ヒギィィ」
「アガッアガァァッッ」
 いい感じに目の中に直撃したのは三体か。蹲ったりゴロゴロ転がったりと狙い通り過ぎて笑ってしまいそうだ。
 残りの四体も行動不能とまではいかないにしても、怯ませるには十分だった。つまり、俺を前にして立ち止まってしまった訳だ。立ち直りの早そうな奴と、手近な奴にめがけて毒塗りダガーを二連続けて撃ち込む。狙いは露出している太腿……こいつら大丈夫か? ズボンすら穿いてない気がするんだが。
 毒塗りダガーを撃ち込んだローグは無視して、残りの二体を新たな標的に転じる。咥えていたダガーを左手で投擲し、右手でスロットから抜き放った。こちらも狙いは無防備な太腿だ。これで七体全てバッドステータスだな。後は目潰しで悶えている奴から順に斬り伏せていけばいい。
 最後の一本を目を擦りながら立ち上がろうとしたローグの眉間に撃ち込み、俺はローグ達の周囲を駆け抜け様に小太刀を抜刀した。やはり砂の目眩まし程度じゃ効果が薄いか。それでも態勢を崩した上に目の中に砂が入ってしまえば、そこから立て直す時間は戦闘中にあっては致命的だな。
 ローグの首筋を斬り払う。返す刀でもう一体の喉を横薙ぎに切り裂いた。これで残り四体、まともに動ける奴はもういない。
 ダガーで太腿を抉られたローグ二体は既に戦意を喪失したのか、俺に背を見せ逃げ始めていた。
 尤も、走る事も儘ならない彼等に追撃を仕掛けるのは容易い。つーか、そのダガー、持ち逃げされると非常に困るんでな、悪いが見逃せねぇ。俺は一足飛びに追い縋り、無防備に晒したローグ達の背中を袈裟に斬り伏せた。これで後は毒を撃ち込んだローグだけだ。
 最初に毒塗りダガーを撃ち込んだ二体のローグに目を向けると、致死毒に侵されたローグは口から泡を吹いて絶命していた。もう一体は身体を引き攣らせて小刻みに震えながら横たわっている。
 効果抜群ではあるのだが、想像以上の毒性に正直なところドン引きだった。このサンプルで貰った毒薬、かなりヤバイやつだったのか? つーか、これと同じような毒、モンスターも使うらしいんだけど……アレだ、毒消しは必須だ。無いとこれ(・・)かよ、洒落にならん。
 麻痺したローグの頸を刎ねて、玄室の中に敵はいなくなった。此間と同じ場所に宝箱もある。ただオークの群れがいた時は山積みになっていた薪はなくなっていた。守護者(ガーディアン)に依って玄室の中身も変わる? まさかな。

 ローグの死体からダガーを回収するついでに、懐を調べてみたが、小銭袋以外に戦利品らしい物は所持していなかった。毛皮の鎧に短剣や小型の盾は持ち帰っても赤字になりかねんから放置でいいだろう。

 宝箱の罠も変わっていた。前は設置式のクロスボウだったが、今回は爆弾が天井から吊るされていた。
トラップワイヤーが切れるとソフトボールほどの陶器の瓶が落下してくる単純な仕組みだ。だがあの瓶が割れると中の薬品が酸素に反応して、広範囲に炸裂する凶悪な罠である。
 ……あの瓶、要は割れなければ問題ないんだよな。落ちて来るのキャッチすれば良くね? 外套で包み込むようにして空中で受け止めれば、なんとかなりそうな気がする。
 俺は外套を脱いで両手に構えた。爆弾の位置を確認して落下してくるタイミングを予測する。いけそうだ。
 宝箱を蹴り開け、罠を発動させた。トラップワイヤーが切れた瞬間、暗い玄室の天井から爆弾が落下する。ともすれば見失いそうになる小さな爆弾の瓶だった。失敗すれば死ぬ──そんな緊張感故に極限まで高まった集中力と動体視力は正確に爆弾の瓶を捕捉し続け、目測通りの位置で受け止める事ができた。一瞬、外套から滑り落ちそうになって冷やりとしたが、ともかくミッション成功である。売って良し、使って良し、悪くない拾い物だった。

 そして宝箱の中身は、なぜかまた生野菜が入っていた。割れたカボチャ。芽が伸びたジャガイモが三個。それと……萎びた玉ネギか? これで小銭袋が二つほど入っていなかったら、救いがなさ過ぎて人知れずこっそりガチ泣きしてしまうところだった。折角の毒薬を二つ使って成果がこれか……大赤字じゃねぇか。

 爆弾の瓶がリュックの中でうっかり割れてしまわないように慎重に収納して、回収した九つの小銭袋もまとめて放り込んだ。中身は後で確認すればいい。

 ローグとの戦闘は想像以上に身体が動いてくれた。レベルが上がったと云う実感は今一つはっきりしないが、それでも満足のできる結果だった。これなら案外いけるんじゃね?
 俺は魔理沙から聞いていた必ず一体で出現する、とあるモンスターの事を思い出していた。特定の場所に必ず出現するその幽霊は極めて高い耐久力だが、攻撃能力が殆ど無い為に中堅格の冒険者達には格好の練習相手になっているらしい。この幽霊を倒せるようになれば、地下二階でも通用するとかしないとか。まぁ地下一階の修了試験みたいなモンスターなんだろうな。
 場所も魔理沙からしっかり確認済みだ。目的地まで一本道で迷う心配はない。途中、モンスターの群れに出くわしても回収した爆弾を使えば一掃できる気もする。帰り道には地上まで魔法で転移させてくれる部屋があるらしいので、リアルテレポートを体験してみたいってのもあった。夕方、涼宮ハルヒに会ったら自慢できるかもしれんな。よし、腕試しがてら行ってみるか。


 エントランスから回廊を北に行き止まりまで進むと、そこから東に向かって延びていた。途中、二か所南側に道が分かれていたが、その先は玄室になっていると魔理沙から聞いている。寄り道して行く必要はないだろう。真っ直ぐ回廊を東に進むと木製の大きな扉に突き当たった。
 慎重に扉を開けると、そこは広大なホールのようだった。ホールの中ほど、視界が届くギリギリのところにブッシュワッカーかローグらしき死体が転がっていた。俺が仮眠している時に先発して入った冒険者達が蹴散らしたのだろう。死体の周りに影のように広がる黒い水たまりは、あの錆びた厭な臭いを連想させた。幸いな事に死体の方へ進む必要が無いので、実際に厭な臭気の中を歩かずに済むのが救いである。それに丁度いい露払いだった。

 このホールの先には地下二階に降りる階段に続く回廊と、一切の光を閉ざすとか言う暗黒地帯(ダークゾーン)の先に地下四階まで通じるエレベーターがあるらしい。まだ暫く俺には用がないだろう。
 ここも右手の壁に沿って東へ東へと進む。するといつの間にか長い回廊に入っていた。回廊の左手には途中、四か所ほど扉があったが、ここも無視して先を急いだ。
 地下一階のかなり奥まで進んだ気もするが、回廊にモンスターが徘徊している気配はなかった。静寂に包まれた暗いダンジョンを俺は足早に進んで行く。石の床を蹴る微かな靴音と、吐息の音がやけに響くような気がして不安になる。靴はスニーカーじゃダメだ、もう少し音の出ない工夫が必要だな。

 長い回廊だった。実際は三百メートルもない筈だが、薄暗いダンジョンの中では距離感が今一つ掴めないので、延々と続くかのように感じていしまう。いい加減、嫌気が差し始めた頃、ほんの一瞬ではあるが変な浮遊感を感じた。それから十メートルほど進むと広い空間に出た。やっと回廊を抜けたようだ。ここもホールのようになっていた。
 目的の玄室は回廊から入って正面右の扉の先、正面左の扉の向こうには【銅の鍵】と云う地下二階で必要になるアイテムが手に入るらしい。ついでに貰っとくか。
 ホールの真ん中を突っ切り、向かいの壁面まで進むと扉があった。この両脇の扉が本命だ。まずは鍵を回収だな。正面の扉から二十メートルほど離れたところに目的の〝左の扉〟があった。

 一応、慎重に聞き耳をして中の様子を探ってみたが、何も聞こえないし守護者(ガーディアン)らしき気配は感じなかった。気配がない事に俺は逆に警戒を強める。息を殺してじっと潜伏している奴かもしれない。まずブッシュワッカー、次にアンデッドコボルドの可能性がある。
 ここは回収した爆弾の出番か。使い方はとても簡単、距離を取って投げつけるだけ。だが近過ぎると俺まで被害に遭ってしまうので目測を誤らないようにしないとな。
 ゆっくり扉を身体一つ分ほど開けて、その隙間から中に滑り込んだ。素早く玄室全体を見渡し、爆弾の投擲位置を探した。だがそこに守護者(ガーディアン)の姿はなく、ただ奇妙な彫像があるだけだった。待ち伏せを想定したけど、杞憂だったか。まぁ爆弾を温存できたので結果オーライとしよう。

 玄室の中央には大きなブロンズ像が置かれていた。その姿は頭は猫、身体は鶏で、見る者の精神を蝕むような異様な獣の彫像だった。台座は白と黒の鮮やかな縞模様の縞瑪瑙(オニキス)で造られていた。飾り台の上には不自然な傷痕がある。それは刻み込まれた魔術的な文字のようにも見えた。
 そして彫像の足元に、十五センチほどの大きな鍵が無造作に放置してあった。これが【銅の鍵】か? 思っていたよりデカい。だが他にそれらしき物は何も無かったので、それをリュックに放り込んだ俺はさっさとこの玄室を後にした。なぜだか、ここは長居したくなかった。


 次は〝右の扉〟だ。ここは戦闘になると分かっているので、最初からそのつもりで突入すればいい。
 相手は必ず一体で出現すると冒険者に評判のマーフィーの幽霊(マーフィースゴースト)である。マーフィーさんとやらが何者かは知らないが、倒しても倒しても成仏も消滅もせず、またすぐ出現するのだとか。しかもおかしな事に、実体が無い筈の幽霊なのに、物理攻撃で斃せるらしいのだ。どうやらエセルナートは〝レベルを上げて物理で殴る〟が罷り通ってしまう世界のようである。いいのかそれで?

 確定一対一なら毒も爆弾も不要だ。相手の動きをよく見て全て躱す事に専念する。後はチャンスを見つけて少しずつ確実に削って行けばいい。

 俺は扉を蹴り開け、抜刀しながら乱入した──が、玄室の中にそれらしき姿は無かった。
 またしても拍子抜けな展開に、ひょっとして警戒し過ぎなのではなかろうかと一抹の虚しさと己の探索スタイルに微かな疑問を感じつつ、俺は玄室を見渡した。

 玄室の奥にはフードを被ったヒト型の大きな彫像があった。
 フードからは柔らかな金色の光が漏れている。彫像には様々な形や色の宝石が鏤められていた。
 彫像の前には簡素な祭壇があり、お香が焚かれている。その傍には小さなブロンズ製の呼び鈴が置かれていた。まさかと思いながら試しに鳴らしてみると、澄んだベルの音と共に、何処からともなく悲し気な呻き声が聞こえてきた。当たりかよ。
 一応、万が一があるとヤバいので祭壇の前にリュックを下ろして、小太刀を構えた。

 玄室の中央に朧な影が浮かび上がり、それはやがてヒトの形となった。赤い衣服に金髪や、青白い骸骨のような顔もはっきりと判別できるようになっても、マーフィーズゴーストは動き出そうともせず、ただ呻き声を上げるだけだった。なんで動かないんだ、こいつ?
 警戒しながらゆっくり奴の背後に回ろうとしてみたが、どうやらこちらに気付いてはいるようで、俺の動きに合わせて奴もゆっくり旋回して陰気な顔で俺を睨み続ける。だが積極的に動こうとはしない。なんとも不自然な奴だった。
 これは俺が一撃入れるまで襲ってこない的な思考ルーチンかなんかなの? 動かない標的に、いきなり致命傷ぶち込めるって事か? え? 楽勝じゃね?
 とは言え、向こうは俺に注目しているので下手な攻撃を仕掛けても効果が薄そうだ。俺の未熟な剣技では正面から斬りつけても躱されかねんしな。やるなら一撃必殺が理想だが……つーか、こいつ、消えたり現れたり、半透明だったり、捉えどころなさ過ぎだろ。何処を斬りつければ致命傷になるのやら……まぁ斃せると解っているのが救いだな。

 取り敢えず態勢を崩して、急所っぽいところを斬るしかねぇか。ダガー撃ち込むにしても、五本しか無い以上、無駄弾はなるべく撃ちたくない。まずは様子見、だったら試してみてもいいかもしれない。

 マーフィーズゴーストは俺を見据えるばかりで、まだ動こうともしない。まぁ白兵戦をする距離じゃないからな。だがそこは既に制空圏だ。

 小太刀を上段に大きく振りかぶり、一拍溜めた。これが師匠直伝の──

 ──忍火忍法、真空かまい太刀ッ!

 裂帛の気合で一気に振り下ろし、空気を斬った。瞬間、真空の刃がマーフィーズゴーストを袈裟に斬り裂き、幽体のくせに大きく仰け反った。
 おおっ、ほんとに物理効くんだな。
 間髪入れずに接敵して、隙だらけの下腹部を横薙ぎに斬り払う──が、手応えが全く無かった。て云うか、こいつに刃が当たる瞬間、姿が消えていた。アレか、タイミング計って攻撃当てないと全部無効とかそう云う事か。なんか魔法的な自動回避スキルかよ、その消えたり現れたりは……ズルくね?

 訓練中に修得してみせ、師匠から小太刀を巻き上げてやった忍法真空かまい太刀、まぁ要するに三日月状に空気を斬って真空波を発生させるトンデモ技である。修得できてしまった俺自身にもかなり驚きなのだが、恐ろしい事に師匠はこの忍法をエセルナートに来る以前、日本で高校に通っていた頃に自力で編み出したらしい。そのネーミングセンスは受け入れがたいモノがあるが、やはりあの人は並の人間ではない。つーか、現代日本の片隅で真空波を撃てる高校生が存在していた事に驚愕だ。
 師匠の言によれば殺傷力は極めて高い……との事だが、実際に使ってみた感じ、とてもそうは思えんのだが。マーフィーズゴーストはまともに食らった筈なのに、全く堪えてるようには見えなかった。
 まぁいいさ。一筋縄では行かない事くらい、こっちも織り込み済みだ。

 ゆらゆらと近付いて来るマーフィーズゴーストに、再び真空かまい太刀で薙ぎ払う。現れているタイミングで攻撃を当てればいい。ただそれだけ。
 ざっくりと腹を抉った気もするが、相手は幽体なので効果があるのか疑わしい。戦い難いモンスターだった。


 結局、十二発目の真空かまい太刀からの斬撃でマーフィーズゴーストの頸を刎ねる事ができた。

 強敵だった。タフ過ぎて危うくこっちのスタミナが先に尽きるかと思った。マーフィーズゴーストが消えたのを確認するなり、俺は床に大の字になって寝転んだ。やはり十二発も連続で使うとキツイな。肩で息をするどころか、呼吸するのもしんどいくらいだ。喉が渇いた。水が飲みたい。
 しかし、幽霊の頸を刎ねるってのも変な話だよな。実際、俺も目の前で幽霊の頭が落下する奇妙な光景を俄かに信じられなかった。
 マーフィーズゴーストが消えていなくなってしまったその後には、青白い液体の小さな水溜まりができていた。瓶でもあれば回収できるかもしれないが、あいにく手元に丁度良い物は無かった。暫くするとその青い液体は乾いて染みのようになり、やがて消えてしまった。
 他に戦利品になりそうなものは何も無い。彫像の宝石を剥ぎ取るのは流石に気が引けるしな。

 しかし、疲れた……動きが遅いので戦闘そのものは問題無かったが、とにかくタフだった。
 隙が大きくて実戦にはまだ不向きな真空かまい太刀の練習には丁度良かったが、お陰で体力的にも精神的にもそろそろ限界である。なるほど、これは確かに訓練になるな。練習相手には最適だ。時々ここで実戦経験を積むのもいいかもしれない。だが今日はこれで十分だ。街に戻ろう。戻って何か美味い物でも食べて、マッカンカッコカリをアルファさんに淹れて貰って、風呂入って今日は早めに寝ようロイヤルスイートのあのベッドで──

 ──そう言えば、夕方……酒場で涼宮ハルヒと待ち合わせだったな。早めに戻って、ちょっとくらい休憩しとかないと身が持たんな。

 俺は溜息交じりで疲れた身体に鞭打って、これから幾度となく訪れるマーフィーズゴーストの部屋を後にした。

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涼宮ハルヒの邂逅とLv.5八幡

「去れ、異邦人よ! マピロ・マハマ・ディロマト!!」

 その部屋は妖しげな明かりが何処からともなく発せられていた。部屋の中央には長い法衣を着た小柄な老人が一人佇んでいたが、俺に気付くなり両手を振り上げ、しわがれた声で叫んだ。
 それが何かしらの呪文の詠唱と気付いた時には、俺の周囲は青白い光の渦に包まれていた。視界の全てが光に呑まれた次の瞬間、身体がふわりと浮いたような錯覚にとらわれる。
 眩い光でホワイトアウトした視界が元に戻った時、俺はダンジョンの一画ではなく、城門の前に立っていた。
 道行く人々は怪訝な目で俺を見ながら通り過ぎて行くが、立哨する兵士達には珍しくもない光景なのか、まるで無関心の様だった。

 ──すげぇ。

 初めて経験した瞬間移動(テレポート)に俺は興奮を隠せなかった。エセルナートがファンタジーな世界だと云う事を強烈に実感した。
 なんて便利な魔法だ。魔理沙も使え……るようにはとても思えんな。いずれは使えるようになるのかもしれないが。ともかくこれは良い話のネタにはなりそうだ。
 本音を言えば、この感動を小町や戸塚に心ゆくまで語りたいところではあるが、それが叶わない以上、他に聞いてくれそうなのは涼宮しか思いつかなかった。魔理沙もキラも俺よりここの暮らしが長い冒険者である以上、既知で体験済みだろうしな。そんな事を態々熱く語られたところで、聞かされる側のあいつらも反応に困るだろうし、あからさまに気を遣われでもしたら俺としても折角の気分が台無しである。


 まだ午前中なのか既に午後なのか、空が曇っていて今一つ時刻が判断できなかった。まぁ、ボルタック商店で訊けばいいか。時計が無いとやはり不便だな。

 結局、二度ほど戦っただけでダンジョンから撤退したので、戦利品は爆弾と小銭袋だけである。やや少ないような気もするが、小銭袋が九つもあればチップを払う分には困らない程度は期待できるだろう。小銭を切らしていたので丁度良い。魔理沙に金貨を渡してチップの釣銭を貰うのは、流石に格好つかないしな──と、思って開けてみたら本当にチップにしかならんような小銭しか入っていなかった。
 泣けてきそうな戦果だったが、小さな紫の宝石が二粒混じっていたのだがせめてもの救いである。尤も、それは素人目にもさほど価値があるようには思えなかったが、まぁ無いよりはずっとマシだ。
 ばら撒けるほどにあった銀貨(デナリ)が懐かしい。



 時間帯が悪かったのかボルタック商店は少々混み合っていた。一瞥した限りキラもいない様だし出直そうかと思いもしたが、危険物を背中に担いだまま呑気に街を徘徊できるほど俺は図太くなかった。
 見知らぬ店員が忙しく接客する様を横目に俺は真っ直ぐカウンターに向かい、会計待ちの列の最後尾に並んだ。棚に陳列してある用途不明の道具やショーケースに展示してあるマジックアイテムを眺めていると、程なくして俺の順番が回って来た。サイドテールの加賀さんは今日もクールで青系統のドレス姿である。
「あら、いらっしゃい。今日も下取りかしら。たまには何か買っていったら?」
 あまり必要なモノがない。あったとしても高そうな物ばかりなんだが。まぁリサーチくらいしておいてもいいか。
「あー、解毒の薬は幾らぐらいっスかね? それと今、朝? 昼?」
「……おかしな事を訊くのね。まだ正午には早いわ。毒消しは一瓶150ゴールド、効果の高い解毒薬(ラツモフィス ポーション)は300ゴールドよ」
 まだ午前中か、夕方まで宿で休憩できるな。つーか、解毒薬、高い。安い方ですら150ゴールドかよ。
「そ、そうですか……取り敢えず買取りお願いします」
 リュックから爆弾と紫の宝石を二粒、カウンターに置いた。
「貴方、よくこんな物を持って来たわね。この密封瓶はとても割れやすいのよ?」
「あー、知ってます、一応。まぁ巧くやれたと言うか」
「正気を疑う怖い物知らずね、早死にするわよ……薬品の量は申し分無いようだし、この爆弾(エクスプロージョン ボム)は300ゴールド。それとこの宝石は……アメジストね。残念だけど大した価値はないわ。どちらも30ゴールド。鑑定料を差し引いて全部で330ゴールドよ」
 爆弾美味ぇ。つーか、宝箱開けるより、周りの罠を解体して持って帰った方が金になるっておかしくね?



 宿に戻った俺は、管理人さんとの挨拶もそこそこに、簡易寝台に寝転んだ。
 抜かり無く管理人さんにチップをはずんで、夕方に起こしてくれるように頼んでおいた。これで寝過ごすことはないだろう。

 一番安い部屋だけあって、三十人一纏めの大部屋には気持ち程度のパーテーションで区切った粗末なベッド──と、呼ぶより台だな、台。申し訳程度のマットレスの中身は藁かなんかだろう。畳に近い寝心地だ──に、シーツと毛布が一枚ずつと硬い枕があるだけだった。サイドテーブルや収納の類すらねぇし。荷物は抱いて寝ろって事か、割と酷ぇ扱いじゃね? これで一晩1.4ゴールドは良心的なのかぼったくってるのかイマイチ判断に困るところだった。
 まだ午前中だからか、大部屋で寝ている冒険者は少なく無かった。冒険者って割と自堕落な生活になってしまいがちなのかもな。
 硬いし狭いしで寝心地はお世辞にも良いとは言えないが、それでもダンジョンのエントランスで仮眠を取るより余程リラックスできた。すぐに微睡み始めやがて意識は──


 ──なぜか海の上に立っていた。

『ぱんぱかぱーんっ♪ 比企谷八幡はレベルが上がった!』
 青い制服に青い丸帽子、意味を為しているようにはとても思えない大きく開けたスリットのけしからんロングスカートは、悩ましげな黒ストッキングとスカートを飾る黒レースでかろうじて大事な部分を隠していた。大艦巨乳主義、歩く18禁のアタゴンこと、ぽよよんとした金髪碧眼のゆるふわ美人の愛宕が現れた。なんだ、夢か……て、左右に展開した20.3cm連装砲三基と12.7cm高角砲その他、どれも俺に向いているのは気のせいか?
『気のせいじゃないわよ? 射出機よおーい! 零式水偵、発艦せよ~!』
 軽快なエンジン音を響かせミニチュアサイズの零式水上偵察機が飛び立ち、俺の頭上で旋回を始めた。やはり妖精さんが乗ってるのか……て、着弾観測のつもりか!?
『制空権確保──T字戦、我が艦有利!』
 俺を無視して、何やらノリノリで決めポーズっぽく胸を張り、愛宕は右手を振り下ろした。なんだこれ、なんの茶番?
『弾着観測射撃!』
 おい、なぜ連装砲のカットインが入る!?
『目標──八幡! 主砲、撃てぇーいっ♪』
 ちょ! 待っ!! ふざけ──連装砲が繰り返し唸り、雷鳴の様に鳴り響く轟音が耳を劈いた。だが激しいのは音だけで、砲煙と砲弾の代わりに、色取り取りの紙吹雪とテープが其処ら中に舞い散るだけだった。
『ぱんぱかぱーんっ♪ 比企谷八幡はレベルが上がった!』
 ……祝砲ですか。どんな演出だよ。つーか、夜戦でもないのに何でカットインが入るんだよ、演出の都合か知らんが適当過ぎね?
『おめでとう♪ レベル5だよっ! でも、ちょっと無茶し過ぎなのは愛宕的にポイント低いわよ?』
 ローグと幽霊でレベル上がるのか。しかも4をすっ飛ばしてレベル5かよ。あれ? この調子ならレベル8くらい、すぐに追いつけるんじゃね? 五日でレベル5なら、明々後日くらいにはレベル8──て、まさかな。流石にそれはないか。
 つーか、ポイントってなんだ、ポイントって。小町ポイントの次は愛宕ポイントかよ……それ、流行ってんの? 貯まったら何か貰えんのかよ。
『うふふっ♪ 頑張ってポイントとレベルをたくさん上げたら愛宕がいろんなサービスしちゃうかもよ? どんなサービスかは──うふっ♪ ひ・み・つ! 今日は頑張ったご褒美に祝砲を連撃でプレゼントしちゃいま~す』
 いや、いらねーから、そう云うのは。気持ちだけで十分だから……て、おい、やめろ。砲塔をこっち向けるな。そこの零式水偵、もういいから帰艦しろ。いい加減、頭の上を飛び回られると不愉か……妖精さんが手を振ってる!? チカチカと何か光っているような……・-・・・ -・-・ ・- ・・-・ …………-・・・ ・-- ・・・- -・-・・ ・--・ ・・ ・- ・-・-- ……あー、着弾観測してんのな。て、おい止め──
『主砲、撃てぇーいっ♪』
 閃光と共にまたしても激しい砲音が轟き、派手に紙吹雪とテープが飛び交う中、俺の身体は吹っ飛ばされ、巨大な水柱と共に宙を舞っていた。おい、これ実弾だよな? 暗転する視界の片隅に『あはっ、ごめんね……』と、まるで反省していない様子で笑う愛宕がいた。珍しく口を開けて笑っていた……愛宕って八重歯があるんだな。


 目が覚めても、あれは夢の中の出来事なのに、まだ耳鳴りがしているような錯覚が消えなかった。最後の砲撃、あれ絶対わざとだろ。次、会ったら問い詰めてやる。そう言えば、なんで俺の専属レベル神なのか訊こうと思ってたのに忘れていたな。
「……なによ、起きてるじゃない。折角ちゃんと起こしに来てあげたのに」
 あー、目覚ましをセットしてたんだっけ。悪いな、管理人さん、愛宕砲が目覚ましの代わりになったみたいだ。
 適当に言い訳と感謝の言葉を探しながら、装備を身に着ける。だが冷静に考えると、言い訳も何も管理人さんは元々保険であって、自力で定刻に起きられたならそれに越した事は無いのだから、別に取り繕う必要もましてや文句を言われる筋合いもない筈なのだが……思い付いた適当な言い訳と謝罪を釈然としないまま並べ立てていた。
「休憩だけって事だったけど、明日までこのベッドを使う?」
「……いや、また夜通し訓練になりそうなんで、これでチェックアウトするわ」
「あらそう」
 素早く身支度を整えて立ち上が……なぜ蹴る?
「ロイヤルスイート、折角準備しているのにまた無駄になったわ」
 いや、俺以外にもいるだろ、ロイヤルスイートの宿泊客くらい。なぜか機嫌が悪くなった管理人さんはそのまま何処かに引っ込み、結局チェックアウトの時も出て来なかった。
 フロントに立っていたエルフのメイドさんは終始無表情のままで、淡々とチェックアウトの手続きを済ませた。無言のまま申し訳程度の会釈をして俺を見送る彼女は心底どうでもよさげ、或いは言葉を交わす事すら拒絶しているように窺える。まぁ……これが普通だよな。マスターや管理人さん、加賀さん達の方が本来おかしいのだ。
 宿を発つ時、毎回雪ノ下に見送られているようでどこかむず痒かったのだが、いざそれが無くなってみると少しばかり寂しかった。



 曇り空の所為なのか街は既に夜の姿を見せ始めていた。夕方、だよな?
 宿を出ると、なぜか涼宮ハルヒが通りの少し離れた先にいた。
「──あ、ハチ!!」
 すぐに俺と気付いた涼宮は、酒場のある狂える恩寵品(ルナティック パンドラ)広場の方から、こちらに向かって駆け寄って来た。酒場で待ち合わせの筈だ、なぜそちらから(・・・・・)戻って来るんだ(・・・・・・・)
「……おい、夕方、酒場で待ち合わせだったよな」
「そうよ、だからギルガメッシュの酒場に行くついでに、何か不思議な物がないか探していたの」
 まぁいい。夕方ってだけで、はっきりした時間は決まってないしな。それに待ち合わせ場所に行くつもりはあったみたいだし。逆方向だけど。
「……なんか面白いモノでも見つかったか?」
「珍しい物はそこそこあるけど、あたしが求めてるような、もっとこう凄い感じの不思議な物はないわね。異世界なのに……遺憾だわ」
 不機嫌そうに腕を組んだ涼宮は、出会った時は寒々しい半袖のカッターシャツだったのが、今は長袖の白ブラウスになっていた。その上に暖かそうな黄色のハーフコートを重ねている。目敏くボルタック商店を覗いて来たのだろうか。
「冬服になってるが、新調したのか?」
「まさか。寒いから藤村に貰ったの」
 藤村先生のかよ。あの人も洋服着るんだな。いつも胴着に袴だし、あとは演歌歌手紛いの艶姿しか見てないから、てっきり和服しか着ない人かと思ってたわ。
「それで、ここがギルガメッシュの酒場なの? 想像してたよりかなり地味ね、酒場ってもっとやさぐれた雰囲気かと思ってたんだけど」
「ここは冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)だよ。酒場はこの通りを抜けた先、お前が今来た逆方向だ……訓練、して来たみたいだな」
 朝は所属不明(アンノウン)だったが、今は緑で〝N-Sam〟に変わっていた。侍……マジかよ。俺の知っている侍はこれで三人……藤村先生、月影さん、そしてこいつ……エセルナートは絶対、侍の定義からしておかしい。まぁ俺が忍者ってだけで大概なんだが。
「ええ、そうよ! あ、《IFF(これ)》でアンタも判るのよね。ふふんっ、どう? これでも月影先生から見所があるって褒められたんだから!」
 あれ? あの人は酔っ払いであって、ここの侍マスターは藤村先生じゃねぇの?
「藤村? 何を教わるってのよ。そんなことより聞きなさい、すっっっごいんだから、月影先生は!」
 おい、月影さんは先生で、藤村先生は呼び捨てかよ。あの後、タイガー道場で何があったのか……いや、別に知らんでもいいわ。どうせロクなエピソードではない筈だ。どうせ藤村先生は自滅しただけだろうし、月影さんは普通に同性からモテてるだけだろう。
 酒が入ってなければ、いかにも宝塚的な男役(イケメン)だもんな、月影さんは。俺の場合は第一印象がアレなので、美人なのは認めるにしても人物評価は永遠に酔っ払いから変わる事はないが、涼宮があのテの人種に憧れを抱いたとしても別に不思議ではない。とは言え、一等書記官ほど心酔するのはどうかと思うけどな。しかし、あの酔っ払いが真面目に指導する姿は容易に想像できなかった。
「──て、ちょっと、ハチ! ちゃんと聞いてる?」
 すまん。何一つ聞いてなかった。理由は割と本気で興味が無いからだ。月影様の賛美なんぞを喜ぶのは一等書記官くらいだろ、俺じゃなくてあの貴腐人と語り合ってろよ。
「……お、おう。聞いてた、超聞いてたし」
「ならいいわ。じゃあ行くわよ、ハチ!」
「おい、待て。酒場に行くなら逆方向だ。どこに行く気だ?」
 何気に裏路地に行こうとするな。昼間でもアンノウンだらけの危険地帯に、のこのことレベル1の、それも年頃の女が迂闊に入るんじゃねぇ。トラブルを自分から起こしに行くようなものだっての。それくらい経験的に解らん訳でもねぇだろ、そんだけ外見が良いんだから。
「はぁ!? アンタ、何も聞いてないじゃない! 今、宇宙人と未来人と超能力者を捜しに行くって言ったでしょ?」
「いや、待とうか。いつそんな流れになった? 月影さんの話じゃなかったか?」
「その後に言ったじゃない。いいこと? 次からちゃんと聞いてなさいよね」
「お、おう……善処するわ」
「ふん、まぁいいわ。あたしの勘だと、この先に宇宙人がいそうなのよね。行くわよ、ハチ!」
 恐れを知らぬ涼宮ハルヒは何の躊躇も無く、夕闇に閉ざされた暗い路地をびしっと指差した。此間、カレーの匂いに釣られて探索した裏通りだ。昼間でも不穏だったが、今や正常な危機管理ができる人間なら絶対に近付こうともしないような雰囲気である。好んで突撃しようとするこの女は、やはりどこか……いや、全部おかしい。
「待て、お前の勘もあながち間違っちゃいないけど、とにかく待て。つーか裏路地(そっち)はヤバい、せめて表通りからにしろ」
「……なんでよ?」
「まず、この路地がどう見てもヤバいって事くらい解るよな? こんな危険地帯を突っ切らなくても、難民居留区には表通りに沿って行けるし、宇宙大王に行くなら案内もしてやる。だから裏通りには、絶対に近付くな」
 そもそも街の中では黄色(アンノウン)の時点で(エネミー)とさほど扱いは変わらない。その程度の事、城門の内側に住む以上知らない筈が無いのだ。どうせ一方的に殺されるリスクが付き纏うならば黄色も赤も同じ。ならば、間抜けな鴨が葱を背負ってのこのこ歩いていれば、刹那の快楽の誘惑に突き動かされ、冗談抜きに何をするか判らない不逞な流民がいても全く不思議ではなかった。寧ろ、そんな奴等はどこにでもいると考えた方が自然だ。
「……うん。わかった。そんなに危ないの?」
 俺の言葉に涼宮は意外なほど素直に応じた。
「さぁな、俺が必要以上に警戒してるだけかもしれん。けど……ここが異世界である以上、日本と同じ感覚でいるのは危険だ。モザンビークとかヨハネスブルグくらいに考えた方がいい」
「……そうかもしれないけど……異世界なのよ? もっと楽しい世界で在るべきだわ」
 アホか。世界がお前の都合に合わせてくれるかよ。この世界(エセルナート)は俺やお前に容赦なく殺意を向けて来るだけだ。
「涼宮、この世界は優しくないし、楽しくもない。それどころか、殺意と悪意がそこら中に溢れている」
「なによそれ。そんなのつまんない」
 ……お前、バカなの? 現実が面白い訳ねぇだろ。何処に行っても何も変わらねぇよ。ぼっちはぼっちのままだし、リア充は何処に行ってもリア充に違いない。つまらない世界なんだよ、人間がそこに三人以上存在する時点でな。
「──だったら……だったら、あたし達でこの世界を楽しくすればいいのよ!」
 こんな異世界に放り込まれて絶望もしないで、能天気で独善的な大言壮語を臆面もなく口に出せてしまう涼宮の姿は、俺にはちと眩し過ぎる。本気で言ってんだろうな、こいつは。そのポジティブで前向きなところは評価するし、涼宮が個人的に何を目的に何処へ向かって突っ走ろうと、その結果派手に転倒しようとも一向に構わないのだが……〝達〟ってなんだ、達って。
「……なぁ、それ、俺も数に入ってんの?」
「当然でしょ?」
 おい、何言ってんのこいつ、みたいな目で見るな。多分、お前の方がおかしいからな?
 しかし、自動的にハブにされるのと、自動的に人員に数えられてしまうのとでは、どっちがマシなんだろうか。
「それで?」
「……何だよ」
「宇宙人よ、宇宙人!さっきなにか知ってるみたいな事言ってたでしょ? 宇宙大王とかなんとか。大王って何? どうして難民居留区なの? そこに密かに宇宙人を捕まえて研究してる秘密基地でもあるのかしら?」
 ライトパターソン基地かよ。あと、エリア51でもねぇから。つーか、宇宙人が絡むとぐいぐい来るな、こいつ。
「普通に暮らしてんだよ、宇宙人が。案内してもいいけど、せめて明日にしないか?カレーって気分じゃないんだが」
「……なんでカレーが出てくるのよ、意味解んないわ」
「いや、そこに自称宇宙人の似非インド人みたいな奴がやってる宇宙大王ってカレーの専門店があってだな」
「なによ、それ!めちゃめちゃ怪しいじゃない!」
「アレは怪しいなんて生易しいもんじゃないけどな」
 宇宙的恐怖の深淵が垣間見え……たりは、しないから問題無いか。所詮、チャダだしな。宇宙カレーもディアブロスが潜行してるかもしれない程度の疑惑しかねぇしな。
「ハチ、そこに行くわよ!」
「明日か明後日にしねぇか? 精神的な余裕が無いと、大事な数値がゴリゴリ減りそうな不安があるんだが」
「来なさい!」
 俺はまたしても腕を掴まれ、涼宮に引っ張られた。いや、お前、道知らねぇだろ。つーか、そっちじゃねぇし。逆だ、逆!


 乱雑なフリーマーケットのように屋台や露天商が所狭しと並んでいたバラック通りだったが、既に薄暗くなった曇天の夕暮れ時故か、商人達は一斉に店を片付け始めていた。
 じきに陽は暮れ、城塞都市は夕闇に包まれる。目抜き(サイファー)通りは魔法の明かりを灯した街灯が立ち並び、辻辻には篝火が焚かれ、煌々とした明かりは真夜中でも絶える事がない。ある意味、昼間よりも賑わっている。だがバラック通りには街灯も無く、大きめの辻に篝火があるだけだ。月や星の明かりもない夜ともなれば、ダンジョンよりも暗くなりそうだった。

 宇宙大王までの道すがら、ずっとはしゃいでいた涼宮だったが、バラック通りを抜けて難民居留区に入った辺りから次第に口数は減り始め、いつの間にか押し黙ってしまった。まぁ解らんでもない。強気で傍若無人に見えるが、こいつも昨日までは平和な日本で呑気に暮らしていた女子高生だしな。俺のジャケットの袖を握ったまま放さないあたり、案外可愛げがあるってものだ。
 実際、人通りと明かりが途絶えた難民居留区の暗い夜道は、普通におっかない。ほんの一週間前の俺なら絶対に近寄りもしなかったろう。
 だがダンジョン探索をこなし、一度は死ぬ瀬戸際まで追い詰められた経験と、レベルが上がった自信からか、この程度の不穏な雰囲気に呑まれるような事はなかった。たった五日ほどで我ながら随分豪胆になったものである。

 真っ暗な街角に青やピンクの妖しげなネオンにライトアップされた宇宙大王は、昼間の1.5倍ほど怪しげだった。あのネオン、やはり魔法の類なんだろうか。
 その怪しいげな佇まいを目の当たりにした涼宮ハルヒが、暫し言葉を失ったとしてそれは無理からぬ事だろう。初見ではない俺ですら呆然とこの異様な光景を見上げるしかなかった。この一画だけ、明らかに世界観が違っている。


「イラッシャイマセー、お二人様コチラの席へドウぞ。今夜はオ楽シみデスネ」
 見た目のインパクトに圧倒されたのか、涼宮は店長(チャダ)を前にして絶句していた。相変わらず顔、デカいな。
「……な、ナマステ?」
「オーゥ、ナマステ。そチラのお兄サンも、ナマステ。今日ノお相手ハ此ノ前と違う方デスネ。印度ノ諺ニ〝不倫ハ文化。誠ノ愛デ、ナイスボート〟とアリマス。死亡フラグは一本10ゴールドデース」
 変なもん売りつけるな。つーか、客の人間関係を勝手に愛憎塗れにするんじゃねぇ。あと、なんだその諺、インド文化と全てのインド人に謝れ。そして、顔を憶えられていた事にちょっと驚きである。
「コチラ、メニューデスネ。お決マリにナッタラ呼ンデ下サーイ」
 チャダが奥に引っ込むなり、それまでしおらしくしていた涼宮が吠えた。
「なによ、今の! 謎のインド人!? めちゃめちゃ怪しいわ!」
「今のは店長のチャダ。喜べ、お前が捜している宇宙人だそうだ、本人が言うには」
「アレが宇宙人!? 胡散臭いインド人のコスプレにしか見えなかったけど」
 だよな。俺もそう思うぞ。
「疑問があるなら本人に訊けよ。取り敢えず、注文しようぜ。ほれ、メニュー」
 アタマが変になりそうな単語が羅列する宇宙大王のメニューをテーブルの真ん中で開示して見せた。
「……ここのセンスはどうかしてるわ。でも逆にそれが宇宙人らしいと言えなくもないわね」
「センスについては同意するが、宇宙人云々はどうだろうな。悪ノリでやってるだけじゃね? 俺、本格インド風宇宙キーマカレーにするわ」
「……ビスクファルス風宇宙インドカレーでいいわ。けど結局、何風なのよ、このカレー」
「悪ノリと勢いだけで命名しただけで、何も考えてないに一票──店長!」
 ファミレスのワイヤレスチャイムって人類史上屈指の発明品だと思う。そして、いなくなって分かる魔理沙の有能さ。

 オーダーを取りに来たチャダに、宇宙人なのか確かめようと問い詰めたりするのかと思っていたが、予想に反して涼宮は大人しかった。一言自身の注文を告げるだけで、チャダに詰め寄るどころか碌に会話すらしない。
 しかしそれは借りて来た猫と云うよりも、嵐の前の静けさであり、店の外観、内装、メニュー内容にチャダに至る諸々全て、そのツッコミ所の多さにフラストレーションが溜まりに溜まっていたのだと俺はすぐに知る事になる。

 チャダが厨房に消えるなり、対面の涼宮がテーブルに身を乗り出してきた。それも咄嗟に身構えてしまうほどの勢いだ。パーソナルスペースを一瞬にして領域侵犯され、眼前に迫った彼女の人形の様な整った顔に俺の心拍数が跳ね上がってしまったとしても、それは致し方あるまい。そんな俺の動揺など一顧だにしない涼宮ハルヒは機嫌の悪さを誇示するかのように眉根を釣り上げ、不快感を露わにしていた。
 あと顔が近い。それと少し汗臭いと思ってしまった事は、彼女の名誉の為にも絶対に気取られてはならない。顔に出なかったよな?
 侍の初期訓練もやはりハードだったのだろう。朝、仄かに匂ったあの甘い香りはもうほんの僅かにすら感じない。しかし涼宮よりも、寧ろ俺の方が体臭を気にするべきだった。丸二日着の身着のまま、ハードな特訓の後にダンジョンにも潜ったし、髪も暫く洗っていなかった。こんな事ならロイヤルスイートにして風呂に入っておけば良かった。
「ちょっと、ハチ!」
「……なんだ?」
「今のが宇宙人なの?」
「おう」
「思っていたのと違う」
「だろうな。アンテナを頭に付けただけだもんな。あ、あと耳も少し大きいか」
 だからってグレイみたいなのやミ=ゴみたいなのも全力で遠慮したいし、そもそも宇宙人と第三種接近遭遇など本気でお断りである。
「あたしが思うに──」
 捲し立てた独特の宇宙人論を皮切りに、宇宙大王の外観と内装についての見解、メニューに対する考察など涼宮は呆れるほど饒舌だった。

 涼宮の言い分によると、チャダや店のデザインと云った間違ったギャップ萌えは許されないらしい。正直なところ、何を言っているのかまるで理解できなかったが、要は外がアレなら中も徹底しろとでも言いたいのかもしれない。意外な事に涼宮はあの奇抜な外観をとてもお気に召していたようで、内装もその延長線上にあって更に過激、或いは突拍子もないデザインを期待していたようだ。まぁその期待は見事に裏切られた訳であり、おまけに出て来た宇宙人は似非インド人である。あれほど宇宙人宇宙人と騒いでいた涼宮だからこそ、去来するモノや思う事や度し難い事が多々あるのだろう。彼女の弁に熱が入ってしまうのも致し方の無い事だ。だが本音を言えば、心底どうでもいい内容ばかりなので全て右から左へと聞き流してしまいたかったのだが、後で聞いていなかったとバレるとあまり楽しくない事態に陥りそうなので、俺は大人しく涼宮の独演に付き合ってやる事にした。忍耐力や平常心を鍛える訓練に丁度いい。

 このテの面倒臭い話し手は、ただ頷いて相槌を入れてやればいいと云う訳にもいかないから面倒臭いのである。聞き手の態度に対して変に敏感だったりするからな。どうでもよさげな事や、例え知っていたとしても、話し手が訊いて欲しそうな事をタイミングよく挿むなどして、ある程度気を遣ってやらないと「もう、ヒッキー! ちゃんと話、聞いてよ」と急に機嫌を損ねて、なぜか最終的に貴重な休日に態々遠出を強要された挙句に奢らされる、などと云った理不尽な事態に発展しかねない。ソースは俺。黙ってスマホ弄ってるか、雪ノ下と百合百合やってれば平和なのに、たまに由比ヶ浜は空気を読む事を放棄して、俺に会話の矛先を向けて来るから厄介である。
 興味の無い話題で、しかも身の無い会話に延々と付き合っているだけでも、ちょっとしたボランティア活動なのだから、労いの言葉の一つでも欲しいところではあるが、そうは思ってもくれない故の面倒臭い話し手だ。

 だが涼宮との益体もない会話は、料理が運ばれて来るまでの持て余し気味になる微妙な時間の手持ち無沙汰の消化に思いの外役に立ってくれた。
 初めこそチャダや店の装飾についてアレコレとダメ出しや難癖を付けて俺をうんざりさせるばかりだったが、それは涼宮の熱弁のほんの触りでしかなかった。
 本題はメニューについての考察であり、彼女の論説の大半をそれが占める事になるとは俺としても予想外だ。要するに羅列された名状し難い品目を、一品一品どんな料理なのかと想像して回るだけの話でしかないのだが、〝スパイシーコンストリクターとストラングラーヴァインの海戦サラダ東インド洋風〟と云った訳の解らない品目について、はたしてどんな料理なのかと思考を巡らせる涼宮は実に楽しげに見えた。
 知らぬ間に上機嫌になっていた彼女が、ノリノリで蘊蓄を披露する様は見ているだけでもそれなりに楽しめたが、俺もいつの間にやら聞き役に徹するだけでは飽き足らなくなり、ちょっとしたディスカッションになってしまうまで、さほど時間は掛からなかった。


「お待たセ致しまシタ。コチラ、当店自慢のビスクファルス風宇宙インドカレー、デース。コチラは店長お薦め、本格インド風宇宙キーマカレー、デース。本日ハ隠し味にフォーミングモールドを当社比1.5倍に増量、多分無害デス」
 しれっと不穏な台詞が混ざっていたような気もするが、テーブルに並んだカレー皿から匂い立つ芳醇な香辛料の香りは大いに食欲をそそった。得体の知れないカレーであると解っていても、何十時間ぶりにまともな食事に在り付ける事で、何もかもがどうでも良くなって来る。
「……普通ね」
「まぁな。だがそれがいい」
 涼宮は見るからに怪しげな物が好みの様だが、俺としては見た目くらい普通であって欲しいと思う。品名はともかく、原材料からして不明で、何が入っているのかすら定かではないカレーなのだ。せめて目で見て楽しむくらいの細やかな平穏は在っても許されるのではなかろうか。フォーミングモールドなる正体不明の食材と思しき奇妙な舌触りを口の中で感じる度、俺はその事を切に思った。

 宇宙カレーはキーマカレーになっても、やはり得体の知れない限りなくカレーっぽいナニかであり、宇宙カレーはやはり得体の知れない限りなくカレーっぽいナニかであった。
 涼宮はキーマカレーの具と目が合ったと言い張り、俺は宇宙カレーのルーに人体の下顎らしき骨が浮かんでいるのを目撃した。無論、互いに確認し合ったが、皿の中に特別怪しい物を発見する事はなかった。
 そして味はやはり微妙だ。美味くもなし、不味くもない。強いて言えば普通である。それは涼宮ハルヒにとって最も嫌うカテゴリーであるらしく、繰り返し「遺憾だわ」とぼやいていた。まぁそれも、今朝体験した瞬間移動(テレポート)の話をしてやるとすぐに忘れてしまう程度の遺憾でしかなかった。
 瞬間移動(テレポート)の単語は効果覿面であり、涼宮は即座に食い付いた。明日そこに連れて行けと鼻息が荒くなるほどに興奮させてしまい、俺としては苦笑を禁じ得なかった。ついでに機嫌も直った涼宮は「絶対、あたしも連れて行きなさい」と、何度も何度も念を押している間に、いつの間にか宇宙カレーを完食していて、俺としては狙い通りである。まさに一石にして二鳥を落とすだな──と、密かに自画自賛しながら残りのカレーを平らげた。

 それなりに満足感はあったが、やはりどこか物足りない。そしてこの微妙な後味の悪さは河岸を変えての口直しで解消するしかないだろう。無論、それはギルガメッシュの酒場以外に有り得なかった。

 食後、胃袋を満たされて余裕が出たのか、既に馴染みになったつもりなのか、涼宮はすっかりチャダと打ち解けていた。これがリア充のコミュ力か。
 割とくだらない事を尋問し、頭の電飾看板(アンテナ)を披露させ、なぜか俺まで名前バレした挙句、怪しげな顧客名簿に記載されてしまった。油断した。不覚である。
「毎度オオキニー。八幡サン、ハルヒサン、マタいらシて下サーイ」
 見送られて店を後にする俺はやや複雑だったが、涼宮はそれなりに満足している様だった。連れて来た甲斐はあったようだ。


 曇った夜空には星も月も無い。ついでに街灯も篝火も無い難民居留区の暗い夜道を、遠くに浮かび上がる不夜城の煌きを頼りに賑やかな大通り(メインストリート)に向かって並んで歩いた。足元が特に暗いので歩き難い事この上ないが、意図して夜目を鍛えているつもりなので全く見えないと云う事はなかった。涼宮はそうもいかないようで、ジャケットの袖を両手で握りしめ、半ば俺に寄り添うようにおっかなびっくり付いて歩いた。まぁ足元も見えないのだから仕方ないか。
 また押し黙ってしまった涼宮は、少しばかり緊張しているようだった。彼女も視えているのかもしれない。俺の《IFF》はチャダの店を出てから、其処ら中に所属不明(アンノウン)がいると告げている。人通りのない暗い夜道を歩いているのは俺達二人だけだが、周辺は無人ではなかった。それどころか正体不明の人影が夜の闇に紛れてこちらを窺っているようにも思えた。それは俺の被害妄想かもしれない。だがそれでも警戒せずにはいられなかった。
 初日に一等書記官が言っていた言葉が思い浮かぶ。赤と黄色は敵だから殺せ、と。敵と味方、間の無い厭な色分けだが、実際に敵ともそうでないのかも解らない以上、敵とみなして自身の安全を優先させるのは当然だ。味方ではない事だけはっきりしているのだから。こちらがなにかしらの被害を受けてからでは遅い。密かにダガーを抜いているのも、決して行き過ぎた用心などではない筈である。やはりこの辺りを夜、近付くべきではないな。

 結局、俺の警戒は杞憂に終わり、やがて街灯や篝火、通り沿いの店や家屋から漏れ出た灯りに照らされた通りまで出ると、それまで押し黙って大人しくしていた涼宮だったが、次第にきょろきょろと周囲を窺い始めた。辺りには黄色(アンノウン)がいなくなり(友軍)ばかりだ。俺も安堵の吐息と共にダガーを収めた。
「──さっきのカレー、専門店のくせに味がほんと微妙だったわ。アレならあたしが作ったカレーの方が絶対美味しいんだから」
「大した自信だな。言っとくが城塞都市に日本製のカレールウなんて売ってないぜ」
「失礼ね。ちゃんとスパイスから作れるわよ」
「付け加えるならガスも電気も電子レンジも炊飯器すら無いのに、ここで簡単に料理が出来るとは思えんのだが。お前、かまどで飯を炊いた事あんのかよ」
 飯盒炊爨くらいなら林間学校やらキャンプやらで経験が有るかもしれないが、薪を焚くかまどやオーブンともなると普通に現代日本で暮らしていて、それに触れる機会などほぼ皆無だろう。そもそもライターやマッチがなければ満足に火を点ける事も出来ない筈だ。
「うっ、それはないけど……なんとかなるわよ、それくらい!」
「言うだけなら簡単だな。実際、料理をする場所の確保すら困難だと思うけど」
「場所なら道場の奥の調理場を使えばいいわ。後は材料ね。スパイスとかはチャダから貰えばいいか。後は適当に探せばその辺に売ってるでしょ。ふふん、全然問題無いじゃない。見てなさい、ハチ! 宇宙カレーなんて目じゃない、すっごいの作ってやろうじゃない!」
 こいつは一体、何と戦っているんだろうな。つーか、仮にも商売人のチャダから貰うとか、どんだけ図々しいんだ、お前。ちゃんと金払え。
「まぁ、精々頑張ってくれ。それより、いい加減、手を放せよ」
 いつまで袖を握っているつもりだ。もういらねぇだろ。
「……こうしとかないとアンタ、いなくなるかもしれないでしょ」
「別に逃げたりしねぇし」
「……うるさいわね、いいでしょ、別に。ほら! いいから、さっさと行くわよ」
 おい、引っ張るな。袖が伸びたらどうしてくれる。これ、安物だけど今となっては俺の一張羅なんだからな。
「ねぇ! 次はどこに行く? あたしは未来人がいそうな所がいいんだけど」
 だったらボルタック商店か? 明日でいいだろ……いや、待て。明日も(・・・)こいつに付き合うのか? そんな義理はない筈だ。そもそもこいつとは朝たまたま出会っただけの関係である。同じ境遇の異邦人を無下に放って置くには忍びないし、気が引けるから少しばかり付き合ってやったに過ぎない。最低限知るべき事と心得て置く事さえ理解したなら、後は自分の面倒くらい自分で見るべきだ。少なくとも俺が関わる事ではない筈である。
 それにこいつもパーティーを組んでダンジョンに潜るのなら、俺のような腐った目のぼっちを必要としないだろう。寧ろ俺の存在が涼宮の仲間集めの足を引っ張りかねない。こいつだけならパーティーメンバーを集める事くらい容易いだろう。リア充はリア充同士で群れていればいい──

 ──だが、俺はどうしたいんだ(・・・・・・・・・)

「取り敢えず、口直しに酒場行かねぇか?」
 暫くアルファさんにマッカンカッコカリ淹れて貰ってないし、魔理沙から風呂屋の情報を聞き出したいからな。まぁ別にロイヤルスイートで風呂を付けてもいいのだが、ちゃんとした風呂屋があるならやはり知って置くべきだろう。
「ギルガメッシュの酒場? お酒飲むの?」
「いや、飲めねぇし。コーヒー飲むだけ」
「コーヒーがあるんだ! いいわね、ついでにケーキでもあれば申し分ないんだけど」
「……さぁ、どうだろうな。コーヒーと料理しか頼んでないから、他にどんなメニューがあるのか知らねぇんだわ」
 まぁコーヒーが飲めるだけで十分だしな。いや、そもそもあの酒場にメニューなんて気の利いた物が存在するのかすら怪しいところだ。酒場だから酒飲んでろ、みたいなスタンスが無きにしも有らずだと思う。だがコンデンスミルクも砂糖も完備している辺り、案外ケーキくらい作ってそうだな。アルファさんが。
「はぁ……ダメね、全っ然ダメ。いい事? まず初めに、どんな物を出す店なのか一通りチェックするのは基本よ、基本」
「いや、別に必要のない物なら知らなくてもいいだろ」
「甘いわよ、ハチ。甘すぎてアンタがこれからの情報化社会を生き抜けるのか、あたしまで不安になってくれるレベルだわ」
 俺はお前が、剣と魔法の世界で明日から生きて行けるのか、割とガチで不安なんだが。それと情報化社会とやらは問題無い。IT関連技能はぼっちの嗜みだ。休み時間は寝たふりか、戸塚を見て和むか、戸塚に話しかけられるか、スマホでまとめブログの巡回か、アンサイクロペディアを読み耽るか、音楽聴くしかする事がないから自然に身に付くスキルだ。あれ? 結構、休み時間はする事が多かったんだな。
「全く、頼りになるのかならないのかハッキリしないわね、ハチは。まぁいいわ、さっさと行ってどんな料理があるのか調べましょ。ほら、行くわよ」
 だから袖を引っ張るな。お前、わざとやってないか? ともすれば人通りの多い夜の大通りを駆け出しかねない傍迷惑な涼宮を抑えながら、俺達はギルガメッシュの酒場に向かった。

 ──少しくらい、望んでも、いいのだろうか。



 ギルガメッシュの酒場に来るのも随分と久し振りのような気がする。
 四十時間耐久訓練からまだなんとなく時間の感覚が変だった。その内、気にならなくなるんだろうか。

 酒場は相変わらず冒険者達で賑わっていて、何人ものウェイトレスが広いホールの中を忙しく動き回っていた。魔理沙の姿を探しながらカウンターのいつもの席へと向かう途中、何人前の食事を一度に運んでいるのか良く判らないほどの食器を抱えて配膳している尋ね人と目が合った。
 片手を少しだけ挙げて来た事を知らせると、カウンターへ行ってろとばかりに魔理沙は顎を刳り、いそいそと配膳を再開し始めた。

 カウンターの一番端に腰かけると、涼宮は当たり前のように俺の隣に座った。座りはしたものの、涼宮は物珍しさからか、しきりに周囲を見回している。
「いらっしゃい。昨日はどうしたのー? ハチ君が来なかったから魔理沙ちゃん心配してたよ?」
 いつも穏やかに微笑むアルファさんにしては珍しく、少し下世話な笑顔でニヤニヤしていた。
「ずっと訓練場に詰めてましたよ。レベル上がったから。コーヒー、二つ。俺のは練乳と砂糖アリアリで」
「は~い、コーヒー二つ、ね」
 ちらりと涼宮を一瞥してコーヒーを淹れ始めたアルファさんだったが、時折こちらに視線を向けてはニヤニヤしながら「うはー」とか「ふひひ」などとあまり彼女には似合わない含み笑いを零していた。解せぬ。
「ねぇ、ハチ……あのヒト、人間?」
 いつの間にか触れてしまうほどすぐ側まで近付いていた涼宮は、俺の耳元に小さく囁いた。それは当然、カウンターのアルファさんに聞こえないようにする為の配慮だろう。しかし失礼を通り越して、呆れてしまう疑問だな。何考えてんだ、こいつ。
「……まぁ確かに人間離れした不思議な美人ではあるな。特に髪の色とか。けど異世界だしな、アリなんじゃね?」
「何か、変なのよ。よく解らないけど。あー、なんだろ、すっごい気になるわ」
 俺にはお前の方がよっぽど変に見えるんだが。今まさにその変顔とか。鏡で見せてやれないのが残念だ。
「老婆心から忠告しとくが……あのアルファさんにおかしな事や失礼な言動はやめとけ。多分、洒落にならん事になる、冗談抜きに」
「……なんでよ」
 ちょっとばかり想像力を働かせれば辿り着くような結論だと思うがな。
「この店の従業員らしき人を《IFF》で視てみろ、みんな(・・・)冒険者だ。なのにアルファさんだけ(・・)市民。着てる制服も一人だけ違う。見るからにアルファさんよりも年上の従業員も、彼女の事をアルファさん(・・)と呼んでいる。一見、遠慮が無いフランクな間柄の様にも見受けられるが、マスター以外は皆、アルファさんを一目上に置いてる感じだ。それが何かは解らないけど、確かに彼女には何かあるな。それが何であれ、関わりの無い他人が迂闊に触れていい筈がない。そもそもここが冒険者の溜まり場になっているのは、そう決められた国の直営店だからだ。国営企業の見るからに怪しい謎の従業員──見え見えの地雷だな。踏み抜いた時、怪我で済むのか怪しいもんだろ」
「益々気になるじゃない、そんな話聞くと」
「──それと、あの人の淹れてくれるコーヒーは俺の心の拠り所だ。あの人に失礼な言動や心証を悪くするような行為は、俺も許さねぇから」
 これはかなり本気だ。彼女のコーヒーに俺は救われている。涼宮の好奇心とアルファさん、どちらを優先するかなど考えるまでもない事である。まぁ涼宮には悪いけどな。
「……ふん。解ったわよ、もう気にしない。それでいいでしょ」
「おう。素直でよろしい」
 わざわざ何が出て来るか判らない藪を突くより、そこに存在が確定している未来人や超能力者を追っかけていればいい。不貞腐れた涼宮の機嫌も未来人を紹介してやれば多少マシになるだろう。
「なぁ、未来人なんだが──」
 キラの事を話そうとした時、不意に足を蹴られ俺の言葉は遮られた。

「暫く見ないと思ったら、女連れか? まぁそれはいい。けど人が働いてる側でいちゃつく気か? 八幡のくせに良い度胸だぜ」

 おい待とうか。とんでもない誤解が存在してるから。

「ハチ、なによ、この子。知り合いなの?」
「八幡、誰だこいつ。どこで拾って来た?」

 魔理沙と涼宮に同時に責っ付かれた。どちらから紹介したものかと考えあぐねていると、どちらも似たような短気だったらしく、まるで二人して俺を畳みかけるかのように追撃を入れて来る。

「さっさと答えなさい!」
「黙ってないでなんとか言え!」

 だからなんで同時なんだよ。お前ら、息ピッタリだな。
 あれ? けどおかしいな、別に後ろめたい事とか何も無い筈なのにこの状況──

「ハチ君、これってやっぱり修羅場なのかな?」

 アルファさん、余計な事は言わないでくれ。つーか、面白がってるだけだろ、あんた。修羅場になるほど親密じゃないし。魔理沙はともかく、涼宮は今日会ったばっかりで……どっちも〝知り合い〟……だな。

「「そんな訳あるか!」」

 魔理沙と涼宮も同意見のようだ。まぁ、そうなんだけどさ、今度は完全に一致かよ。お前ら結構仲良しなんじゃね?


 こうして俺達三人は出会った訳だが、返す返すも締まらない邂逅だよな。まぁ俺等らしいと云えば、そうなのかもしれない。二人のこの時の心境は知らないが、少なくとも俺はこの状況をさほど悪いようには思っていなかった。寧ろ楽しんですらいた。

 ──望んだモノは、すぐ手の届くところに在った訳だ。

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ハルヒと魔理沙とLv.5八幡

 俺を挟んで美少女が二人、睨み合っていた。涼宮ハルヒと霧雨魔理沙である。

 居心地が悪いなんてもんじゃない。
 アルファさんが淹れてくれた二日振りのマッカンカッコカリを気分良く堪能できないので、割と本気で迷惑だったりする。これ、俺の所為じゃないよな? つーか、なんなの、この状況?

 修羅場──などと云う表現が値するほど親密でもなんでもない俺達の関係からして、涼宮と魔理沙の不機嫌さは結局のところ、自身の縄張り(テリトリー)に見知らぬよそ者が侵入したから警戒し、威嚇している……みたいな感じではなかろうか、多分……
 どちらも嫉妬されるほど深い仲になった覚えはないし、俺を取り合っているなどと云った思い上がった勘違いをしてしまうほど能天気でも図々しくもない。そもそも目の腐ったぼっちを美少女二人が取り合うなど、妄想するにしても状況設定からして著しく統合性を欠いて、リアリティが無いどころか最早ご都合主義でしかなく、考えるだけ空しくなるばかりである。

 魔理沙については、涼宮に敵愾心を抱いてしまう理由が何となくだが、察してしまった。
 雪ノ下と由比ヶ浜ほどではないにしろ、涼宮と魔理沙は別に比べるつもりはなくても、どうしてもその〝差〟がはっきりと目に映ってしまうのだ。
 涼宮もそれほど身長が高い方ではないのだが、魔理沙はさらに低くて、保有するモノに山と平地ほどの標高差がある。自己主張の激しい涼宮のそれと比べて、魔理沙はなんとも控え目だった。
 身体的なコンプレックスなんてモノは根深いからな。持たない者の「気にしていない」や「気にならない」等の言葉は、往々にして「めちゃめちゃ気にしているので、その件に触れたら殺す」と言っているようなものだ。ソースは雪ノし──なんだ? 今一瞬、途轍もない寒気が……
 個人的には魔理沙もそう悪くはないと思うのだが、それはこの場で言って良い言葉ではない。慰めにならないどころか、寧ろ敗北宣言、或いは死刑宣告にも等しい意味合いになってしまいかねない。デリケートな問題なので、迂闊な言葉で口を滑らせようものならデッドエンド待った無しである。
 大丈夫だ、魔理沙。胸部装甲は戦力の決定的な差には多分ならない。だからあまり威嚇してやるなよ。そして俺の足をさりげなく何度も蹴るのはやめてくれ……て、この程度だとやはり犯罪にはならんのだな。

 涼宮の方は単に知らない奴を警戒してるだけだろう。
 訓練場では一等書記官殿に一歩引いていたし、チャダに対しても最初はまるで木石を相手にするが如くと云った感じだった。案外、人見知りする奴なのかもしれない。とは言え、それでもこいつのコミュ力は、俺からすれば圧倒的であり、よくもまぁ初対面でここまで馴れ馴れしくできるものだと感心してしまうレベルである。
 一般的な良識さえ心得てさえいれば、カースト上位のリア充グループの中心たり得るだろう。こいつの唯一にして致命的な欠点であるエキセントリクな言動と行動も、時と場所と相手を弁えて、海老名さんのようにある程度の擬態を心掛けてさえいれば、孤立したりハブにされたりなんて事も、俺のように望んで孤高(ぼっち)の道を選ぶ必要もない筈だ。それくらいの生存本能と知恵くらいは回るだろうし、自重もできると信じたい。

 つまり両者共、冷静になって歩み寄れば、或いはこの場を立ち去れば解決する事態なのだ。俺如きが介入する必要など端からないのである。ここは静観に徹して、嵐が通り過ぎるのを待っていればいい──

「八君、君がちゃんと紹介してあげないとダメだよ?」

 ──筈だったのだが、アルファさんの鶴の一声で、俺がこいつらの事をそれぞれ紹介する事で、事態の決着を図る羽目になってしまった。これは必然なのか、何者かの陰謀か……あのラマの所為だな、絶対許さん。
 つーか、自己紹介くらいしろよ、俺と違ってコミュ障のぼっちでもなんでもねぇだろ、お前らは。
「こいつは涼宮ハルヒ。朝、訓練場でたまたま出会った異邦人だ」
「ふん……よろしく」
 偉そうに腕組みしてそっぽを向く涼宮の態度は、まるで宜しくしているようには思えない。

 ロザリンドにアルファさん、それに魔理沙と、涼宮はどこか同性に対して刺々しかった。
 涼宮は異性を惹き付けはしても、同性からはあまり良く思われない質なのかもしれない。
 これだけ目を惹く容姿に恵まれている以上、過去に妬まれたり、やっかまれたりと云ったトラブルは少なからずあった筈だ。雪ノ下を例に出すまでもなく、こういった揉め事はどこにでもある話である。魔理沙などその解り易い例だろう。それを涼宮が引きずっていたとしてもなんら不思議ではない。

「なんだ、新入りか」
「まぁそんなところだ。で、こっちは霧雨魔理沙。ウェイトレスは日銭を稼ぐ為の仮の姿で、その実態はあまりダンジョンに潜らない魔術師(メイジ)だ……お前、冒険者なんだからダンジョンに潜れよ」
「うるせーな、仕方ないだろ。さっさとおまえが後四人ほどパーティーメンバー揃えればいいんだ」
「俺の所為かよ。それおかしくね?」
 酒場で不特定多数の冒険者と日常的に接している魔理沙と、来訪五日目でぼっちの俺とでは〝知らない人をパーティーに誘う〟等と云った超難関ミッションの難易度は十倍くらい違う筈だ。
 つーか、俺が知らない人に話しかけたら、まず腐った目を嫌悪されるか不審者扱いで警戒されるかして、次に俺が緊張のあまりどもったりきょどったりすればドン引きされてしまって、結果的にまともな会話が成立しないとか普通にあり得るんだからな。
 誰だって、魔理沙みたいな可愛らしい奴に話しかけられた方が良いに決まっている。話もすんなり決まるだろうし、無駄にややこしくなる事もないだろう。尤も、後から俺の存在を知れば、そこからトラブルに発展しかねないので、やはり俺はソロに徹する方が魔理沙の為になるのかもしれない。俺が諦めれば、それで済む話なのはいつもの事だ。

「ちょっとアンタ! 魔法使いなの!?」
 避けるなり、椅子から立ち上がるなりすればいいものを、態々俺を押しのけ、涼宮は勢いよく身を乗り出した。
 呆れるほどの変わり身で魔理沙に食い付いた涼宮は、好奇心に満ちた目をキラキラと輝かせていた。
 どうやら魔術師(メイジ)の部分が琴線に触れたらしい。あまりの豹変ぶりに後退りした魔理沙は狼狽を隠せないようだった……て、涼宮の奴《IFF》で視て確認してねぇのかよ。まずは《IFF》で安全確認は基本だろ。
「お、おう。そうだぜ。まぁエセルナート(こっち)じゃ魔術師(メイジ)だけどな」
「じゃ、魔法が使えるのね!?」
 ぐいぐい魔理沙に迫るが、間に俺がいる事をどうやら忘れてしまっているらしい。
 涼宮のつむじを見下ろす形で迂闊に動く事も儘ならず、俺の膝に手を付いて計らずも密着しているこの態勢は何とも居心地が悪かった。ヤバいな、汗の匂いとかめちゃめちゃ気になるんだが。
 忌々しい事に当の涼宮は魔理沙に夢中のあまり、俺の複雑な心境など全く意に介さないどころか、眼中にすら無いようである。

「……魔術(メイジ)呪文(スペル)だけならな。スペルカードもないし、幻想郷で使えた魔法はここじゃ何も再現できないから〝魔法使い〟なんて恥ずかしくて名乗れねーよ。全く……情けねー話だぜ」
「すごいわ! でかしたわよ、ハチ! 魔法が存在する異世界なんだから絶対、魔法使いは欲しいと思ってたのよね。探す手間が省けたわ。魔理沙って言ったわね、採用よ! 採用っ!! あたしは涼宮ハルヒ、侍よ。よろしくね、魔理沙!」
 すげぇ……あんだけ警戒してたくせに、一瞬でパーティーメンバーに組み込みやがった。しかも魔理沙の意志を一切考慮に入れない有無を言わさぬ強引さである。いや、ダメだろ、それ。
「おい、ちゃんと相手の都合も訊け。フリーじゃないかもしれないだろ?」
「それもそうね。魔理沙、アンタ、どっかのパーティーに入ってんの?」
 こいつ、普通に呼び捨ててやがる。そこに至るまで紆余曲折あった俺とはえらい差だ。
「別に決まったパーティーとかはないぜ。強いて言えば……」
 と、俺を見た。別に忘れてねぇよ。ちゃんと俺の(・・)パーティー組む時は真っ先に誘うさ。
「なら決まりね!」
 いや、だからお前が決めるな。決定権は魔理沙にあるって事をいい加減解ろうぜ。
「……おい、八幡」
「なんだ?」
「わたしがこいつとパーティー組むみたいな話になってるのは気のせいか?」
 多分、気のせいではない。つーか、こいつにロックオンされたらしつこいからな。ソースは俺。一度掴んだら食らい付いて離さないスッポンみたいな涼宮ハンドによって、俺のジャケットの袖は通常の三倍で伸びて、寿命が三倍縮んだと思う。一張羅なんだぞ、どうしてくれんだよ。

「…………良かったじゃねぇか。明日からダンジョンに行けるな、頑張れよ」
「はぁ? 何、他人事みたいに言ってんだ。おまえも参加するんじゃないのか?」
 俺の気が確かならカレー食ってる時はそんな話をしていなかった。酒場に来る道すがらもだ。あくまで涼宮のパーティーメンバーの話であり、俺は関係ないと考えた方が無難である。初めから何も期待しなければ平静でいられるし傷つく事もない。
「…………いや、俺は数に入ってないんじゃ──」
「これで()人ね! 六人でパーティー組むのがセオリーらしいから、残り三人か──ねぇハチ、アンタは他にどんな職業(クラス)を入れたら良いと思う? あたしとしては、超能力者は絶対外せないと思うのよね」
 否定の言葉は、ひどく興奮気味に頬を紅潮させて捲し立てる涼宮によって遮られた。
 俯いた俺を下から見上げる上機嫌な黒い瞳は、正視するには眩し過ぎる。慌てて目を逸らしたが、密着しているので余計にいろいろと意識してしまう。この態勢でコレはヤバい。クールだ、クールになれ。ここは冷静になって仕切り直「ぐえっ」思い切り後ろ襟を引っ張られた。
「会話の途中でわたしを放置して、そのわたしの前でいちゃつくとはいい度胸だぜ。嫌がらせか? 見せつけてんのか? ああ、死にたいのか」
 待とうか。とんでもない誤解だ。つーか、俺と涼宮、そんな風に見えるの? いやいやいや、ねぇだろ、それは流石に。お前の目は節穴かよ。それか何でもかんでも色恋沙汰に絡めてしまう恋愛脳?
「誰もいちゃついてねぇだろ。そもそもこいつとはそんな関係では断じてない」
「そうよ、全くもって遺憾だわ。ハチはあたしのパ──子分であって、そんな浮ついた関係よりずっと固い絆で結ばれてるんだから!」
 おい、待て。誰が子分だ、誰が。いつそんな妙な関係になった? 誤解を招くような変な捏造は止めて貰えませんかね。と、普通ならここで風評被害を危惧するところだが、俺はぼっちなのでその点は心配なかった。強いて挙げれば魔理沙の心象になんらかの影響が出ないか多少気になるところではあるが、その魔理沙は現在進行形で露骨に軽蔑するような──ある意味見慣れた感じの──じと目を俺に向けていた。
 待て、ほんと誤解だから。つーか、涼宮が勝手に言ってるだけだから。
 なんてこった、いつの間にか俺の人間強度はだだ下がりである。

「……涼宮。子分はやめろ。大事な事だから二度言うが、それは、やめろ」
「何よ、気に入らないの? だったら舎弟でもいいわ」
 同じじゃねぇか。どんだけ上から目線だ、この女! もっとマシなのは無いのかよ。あー、ほら、アレなんかどうよ。俗に言うところの──友人……とか。
「……せめて知り合いにしてくれ」
「……それは(いや)。そうね、百……千歩譲って相棒でいいわ。うん、これで決まりよ、感謝しなさい!」
 急にえらいランクが上がったような気がするんだが。いいのか、それで。まぁ業務命令で特命係に配属される訳だし、別に深い意味は無い……か?
 つーか、相棒(バディ)って、ある意味友達よりも重く──げ。
 一連の涼宮とのやり取りでそうなってしまったのか、益々胡乱な感じに超絶進化を遂げた魔理沙の冷たい視線が俺にぶっ刺さっていた。

「……なぁ、おまえら付き合ってんのか?」
 いや、待とうか。なぜそうなる? なぜその結論に至った? ははん、さてはお前、どうやらほんとに恋愛脳かよ。勘弁してくれ。そう言った無神経な質問は、結果的に俺が理不尽なダメージを被る事になるのが常なんだからな。
「そんな訳あるか。今朝会ったばかりだってのに、どんな超展開すればそうなるんだよ」
 涼宮、お前も言ってやれ……て、また変な顔芸やってるし。言い掛かりも甚だしいカップリング認定に気を悪くするのも解るが、そのД(デー)みたいな口と、じと目を向ける相手は俺じゃなくて、魔理沙だろ。
「……ええ、そうよ、全くもって遺憾だわ。なんであたしがハチと付き合わなきゃいけないのよ」
「──だ、そうだ」
「とてもそうは見えなかったぜ?」
 だがそれは紛う事無き事実である。だが疑惑の当事者二人の弁明など、その信憑性は疑われて当然であり、抗弁としては弱かった。故に魔理沙はかけらも納得できないと云った顔で、たまに俺の足に蹴りを入れるばかりだ。なぁ、主人公に暴力を振るうヒロインは嫌われるご時世なんだからそう云うのは止めようぜ……て、しれっと自分を主人公にして魔理沙をヒロインに据えてしまうあたり、俺も大概だな。まぁ妄想するだけなら自由だし、それくらいの夢を見たって構わねぇだろ。頭の中まで検閲される事はないし、肖像権や人権の侵害を訴えられる心配も無いのだ。

 どうでもいいし、本筋とはまるで関係のない話なのだが……暫く後、俺は知る事になる──エセルナートでは、頭の中も検閲されてしまうと云う恐るべき現実を。

「……ふん。だいたい、恋愛なんて一過性の精神病みたいなもんよ。そんないい加減なモノに現を抜かしてるような無駄な時間はあたしには無いの」
 フォローになってない気もするが、涼宮の奴、良いこと言うじゃねぇか。それ、世のリア充共に聞かせてやれ。
 だが続く彼女の言葉に俺は頭を抱えた。
「あたしには宇宙人、未来人、異世界人、超能力者を探し出して一緒に遊ぶと言う野望があるの! その為に一分一秒でも無駄にする時間はないのよ!」
 ダメだこいつ、早く何とかしないと──て、俺には無理だわ。残念ながら手の施しようがない。ブラック・ジャック先生でも匙を投げるレベル。
「なぁ、八幡」
「なんだ」
「こいつ、少し痛い奴なのか?」
「違うな。涼宮は少し痛い奴ではない。かなり痛い奴だ」
「ちょっと、アンタ達、本人の前で堂々とよく言ってくれるわね、いい度胸じゃない。でもまぁ痛い人と思われるのは慣れてるから、そのくらい別にどうでもいいわ。寛大なあたしに感謝することね」
 慣れるほど痛い人呼ばわりされて、それがどうでもよくなるとか、かなり重症なんじゃね? 大丈夫なのか、こいつ。てか、ひょっとして同類なの、お前?

「おまえらほんとに付き合ってないんだな?」
「当たり前だ」
 魔理沙は「そっか」とだけ呟くと、それ以上の追及は無かった。幾分、機嫌が戻ったようにも見えるので、俺としては一安心である。
「なぁ、宇宙人とかはどうでもいいんだが、メンバーに八幡も入ってるのか?」
「当たり前でしょ? あたしとハチのパーティーなんだから」
「──だ、そうだぜ?」
 涼宮の言葉に満足したのか、魔理沙は「よろしくな」と俺の肩を強く叩いて仕事に戻って行った。パーティーに参加する事は承諾したようだ。涼宮に直接言ってやらないあたり、あいつもなかなかに捻くれている。おかげで今度はこっち(・・・)の機嫌を取らなければならない。まぁ些細な事だ。すぐに収まるだろう。


 魔理沙が引き出した言質に寄れば、俺はいつの間にか涼宮とパーティーを組む事になっていたらしい。
 よくよく思い返してみれば、確かにそれと思い当たる節があった。あの時か──

 あたし()でこの世界を楽しくすればいい──

 涼宮がそう言ったあの時から、既に俺はメンバーに組み込まれていたのだろう。俺の意思などお構いなし、同意しているのか確認すらしない。なのに涼宮は、とっくに俺が仲間になったと思っていたのだ。

 なるほど、それで納得がいった。こうも馴れ馴れしいのも、こうも親しげなのも、何も言わずあの危険地帯を俺に付いて来たのも…………気に入らねぇ。
 その日会ったばかりとか関係ない、仲間と決めたら信じて疑わないとでも云う訳か。
 俺の事を何も知らないくせに、俺の何をもって信頼に値すると思った?
 涼宮は間違っている。こうも簡単に他人を信じて良い筈がない。こちらが信じても相手が裏切らない保証は無いのだ。それも、こんなモラルや秩序が有るのか無いのか曖昧な異世界では猶更である。
 頼りになる《愚者の統制(IFF)》と云えども、あくまで抑止力でしかない。抑止できない、救いようの無い痴れ者がいたとしても不思議ではないのだ。なぜ簡単に他者を信じられる? 慣れるほど周りから痛い人と思われて来たんだろ?
 お前は信じて裏切られて傷付くのが怖くないのか? ここで傷付くのは繊細な心や、誇りとか尊厳だけではない。命そのものまで脅かされかねないんだぞ。それを解っているのか、涼宮──

 こいつの肩を掴んで激しく問い質してみたい衝動にかられたが、結局のところ俺自身が認めているように、俺と涼宮はそこまで突っ込んだ話ができるほどに親密ではない。俺の憶測でしかない仮定と心配など口に出せる筈がないではないか。ともすれば溢れ出してしまいそうになる言葉の奔流を、心の奥底へと押し込めるように、俺は甘いコーヒーを一気に飲み干した。

「なぁ涼宮」
「なに?」
「超能力者も結構だが、僧侶(プリースト)は外せないだろ、ファンタジーRPGの王道的に考えて。それにヒーラー不在は先々不安だ」
 回復魔法は偉大だ。立ち上がれないほどの傷が一瞬で全快したもんな。アレの恩恵に与れるなら知らん奴とパーティーを組む事も吝かではない。
「解ってるじゃない! 全く持ってその通りよ。魔法使いがいるなら僧侶も当然欠かせないわ。うーん、でもあんまり王道過ぎるのも考え物よね。個性とかオリジナリティってのも必要じゃないかしら」
 要らねぇよ、そんなもん。
 こいつは冒険者のパーティーに何を求めているんだ? とにかく1パーセントでも生存率を上げる為に、隙の無いバランスの取れた編成一択だろ。尖がったパーティー編成は本編クリア後の二週目からにしてくれ。
「……あー、(お前)忍者()、超能力者がいる時点で、割と個性的なパーティーなんじゃね?」
「割となんて厭よ。誰が見ても一発であたし達だと判るくらいのインパクトが欲しいわ。あたしとしては戦乙女(ヴァルキリー)とか使用人(メイド)とか(カンナギ)なんか面白いと思うんだけど!」
 いや、インパクトなんていらないから。つーか、面白いが選考基準かよ。そんなもん捨ててしまえ。
「やっぱり萌え要素って重要だと思うのよね。巫女さんにメイドさんよ、アンタも良いと思うでしょ? それに戦乙女(ヴァルキリー)なんて飛んだり変形とかしそうでカッコ良いじゃない!」
 待て。変形なんぞして堪るか。超時空な可変戦闘機と一緒にするな。戦乙女(ヴァルキリー)ってのは、冒険したり伝説になったり、ロマンツェだったりするような見目麗しい感じの職業(クラス)じゃないのか?
 いや……俺の知ってる唯一の戦乙女(ヴァルキリー)は、それとほど遠い貴腐人だった。ダメだ……やはりエセルナートには夢も希望もない。
 つーか、萌え要素なんてダンジョンに必要ないから。そもそもあんな危険地帯で下心とか死亡フラグ以外の何ものでもない。ホラー映画の法則を知らんのか……いかん、こいつと会話してるとツッコミどころが絞れねぇ。もう全ツッコミだよ。
 これ以上涼宮と話を続けてもグダグダになるだけのような気がして、俺は早々に話を打ち切ることにした。ついでにこの二次会も。
「……普通に前衛職の奴を頼むわ。できれば甲冑着て盾になってくれそうなタフガイで。まぁ人選はお前に任せるけど」
 仲間集めの全権を涼宮に託し──まぁ、押し付けるで概ね合ってるな、この場合──俺は返事も待たずに席を立った。

 涼宮と魔理沙、この二人とパーティーを組むと決めた以上、俺も万全を期してパーティーの一員としての責務を果すつもりだ。
 城塞都市(ここ)での生活が俺よりも長く、ダンジョン探索の経験もある魔理沙はともかく、涼宮は来訪したばかりであらゆる経験に乏しい。加えて後衛職ならまだしも、あいつは前衛職の侍である。ダンジョンではモンスターの矢面に立つポジションだ。暫く何かとフォローが欠かせないだろう。
 上位職業(クラス)と云えどもレベル1では一瞬の油断、一度のダメージが命取りになる事は経験済み。例え六人いても、瞬く間に壊滅してしまう様を一度目の前で見ている。俺達も簡単に崩される可能性が常にあると想定した方がいい。
 それを防ぐ為、今の俺にできる最も堅実な手は、訓練によって自身の伸びしろを確実に戦力へと昇華させる事だけだ。ならば涼宮の言葉ではないが一分一秒を惜しみ、さっさとレベル4と5の追加訓練に取り掛かるべきである。

「あ! 待ちなさいよ!」
 なんだ? 支払いなら、お前の分も済ませてあるぞ。もう用はないだろ。こっから先は俺がいてもお前の邪魔になるだけだ。それぐらい解れ。俺の仲間になるんならな。
「アンタも一緒に──」
 言わせねぇよ? それは無しだ。
「涼宮、お互い今やれるベストの事をやろうぜ。お前は、お前の納得できる仲間を探せ。俺はその間、訓練して戦力を底上げする。お前の仲間探しに俺が力になれるとしたら、パーティーにレベル5の忍者がいると言う〝事実〟だけだ。ま、ハッタリくらいにはなるんじゃね?」
 どこまで効果のある看板か判ったもんじゃねぇけどな。それでも腐った俺が同伴しているよりはずっとマシだ。適材適所、俺はこいつの足を引っ張るような真似はしたくない。
 だからそんな不安そうな顔するなよ、らしくねぇぜ? 魔理沙を捕まえた手際の良さがあれば、すぐに残りも集められるさ。
 酒場(ここ)には魔理沙が常駐している。いざとなればあいつがフォローしてくれるだろう。すぐには打ち解けられないし、気に入らないところもあるかもしれないが、パーティーに参加すると決めた以上〝仲間〟を見捨てたりはしない筈だ。そう信じられる程度に俺はあいつの事を買っている。だから何も問題ねぇよ。
「ま、なんかあったら訓練場の道場まで来い。少なくとも明日の昼ぐらいまではずっとそこにいるだろうし」
「でも──」
 だから言わせねぇし、反論は聞かねぇよ。
「お前がこれで良いと思った人選なら、俺もそれが最良だと思う。だからお前に任せる。俺がびっくりする(・・・・・・・・)ようなメンツを期待してるぜ、相棒」
 多分お前、サプライズとかそう云うの大好きだろ。だったらこれ(・・)はお前に対する殺し文句だよな?
 案の定、涼宮の顔から見る間に陰りが消え、自信に満ちた不敵な笑みが戻った。良い顔だ。見蕩れはしねぇけど。
「いいわ! 見てなさい、ハチ! すっごいの集めてアンタを驚かせてやるんだから!」
 胸を張り高らかに宣言した涼宮はびしっと俺を指差した。その姿がやけに芝居がかっているように見えて可笑しかった。くそっ、可愛いじゃねぇか。小町には遠く及ばず、戸塚とキラは別格としても、なかなか悪くない。
 つーかアレだな、涼宮ってなんか榛名か金剛のコスプレしたら似合いそうだ──て、いやいやいや。何を考えているんだか…………まぁ、こっそり夢見るくらいなら許される、かな。

 きっと涼宮は自分好みの仲間など、すぐに集めてしまうだろう。
 いいぜ、そいつらもまとめて守ってやる。俺はいつか元の世界に帰る為に強くなると決めた。だったら涼宮も魔理沙も、それと仲間の三人くらい守れなくてどうする? その程度できなくて世界を越えられるかよ。

 ……けど、俺に仲間、か──

「──おう。明日の昼には酒場に顔を出すわ」
 俺は涼宮に背を向け、一度も振り返る事なく店を出た。今、あいつに顔を見られる訳にはいかなかった。我ながらどうしようもなくにやけてしまっているのが解る。ここでどん引きされでもしたら折角の気分が台無しだった。


 見送ってくれた魔理沙が俺を見るなり変な顔になったのは気の所為だ。きっと気の所為に違いない…………ダメだ、にやけた顔が元に戻る気がしねぇ。

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最初の五人とLv.5八幡

「おはようございます、師匠。楽しい訓練の時間がはっじまっるよー」

 レベル4と5の追加訓練は、道場の天井裏で寝ていた師匠を叩き起こす事から始まった。この人、まさかあれからずっと寝ていたなんて事はないよな?

「……ちょっと待ってくれ八幡、意味が解らない。お前の訓練課程は今朝全て終わったじゃないか」
 寝起きの師匠は素が出てしまっているのか、普段の覇気をまるで感じない。いつもの高笑いとござる調は忍者っぽいキャラを作っているだけのようだ。
 俺としては普段のアレな感じのニンジャマンの方がいい。この人、普通に喋ってると只のイケメンじゃねーか。やはり師匠はニンジャマンに限る。
「あの後、ダンジョン行ったらレベル上がりました。明日の昼までにレベル5までの訓練課程、全部終わらせたいんで」
「…………八幡」
「うっス」
「ちょっと、ほんとに意味が解らんのだが。貴様、朝、レベル3だったではないか! なんで、夜、レベル5になっているッ!? レベルアップが早いと言われた俺ですら一カ月は掛かったのに! まだ半日しか経っとらんぞ!?」
 え? 説明いるの? どうでもよくね? と、思うのだが、師匠は「説明しろ」と引かないので、仕方なく俺は今朝のダンジョンでの事を掻い摘んで語った。
 ローグを七人とマーフィーズゴーストを斃した。帰って仮眠してたらレベルが上がった──以上。
「……マ、マーフィー先生か。それならば解らんでもないが……普通、レベル3程度の冒険者が一人で行って良い場所じゃないんだが……」
 弟子にあっさり抜かれて行く師匠と云った構図を思い浮かべてしまったのか、狼狽した師匠はそのまま頭を抱えて蹲ってしまった。つーか、ショックのあまり、そのまま寝込むとかは却下だからね?

 それから一頻(ひとしき)り豆腐メンタルを発揮した師匠だったが、持ち前の立ち直りの速さを発揮して、いつもの高笑いで復活した。しかし、まだ心の折り合いが付いていないのか、半ばヤケクソ気味にも見受けられたが、これくらいなら訓練の指導に支障が出る程の事は無いだろう。師匠の心に去来した葛藤や焦燥については彼自身の問題であり、俺が心配するような案件ではないので、ここはガン無視でいい。とにかく訓練だ。


 既にレベル3忍者の身体になっているからか、昨日一昨日の特訓と比べてよりハードであるにも拘わらず、自分でも驚くほど短時間で訓練課程を熟していく事ができた。集中が切れない。休憩を取る時間も明らかに減っている。必要が無いのだ。レベルが上がる度に少しずつ上位の技能を訓練するシステムの意味がなんとなく理解できた。これなら四十時間掛かった前回に比べて、大幅に時間の短縮もできそうだった。
 何より、新たな技能の修得は面白いし、楽しい。単純な反復練習にしても時間の経過を忘れてしまうほどに打ち込めた。
 中でも登攀技能と軽業を駆使した立体戦術は、最近ハマっていたアニメを彷彿とさせて興奮を禁じ得なかった。

「──ロープとフックを利用した機動と戦術についての講義は以上だ。そしてこれから実地訓練に移る訳だが……本来なら普通のロープを使って行うところではあるが、今回は特別にこれを使う」
 渡されたのは不思議な光沢を放つ金属製のワイヤーロープだった。太さは二ミリほどで縄跳びのように束にしてあり、両方の先端には小さな分銅のような物が付いていた。
 視界の端に魔法効果の使用補助を示すヘルプ機能がポップした事から、それが魔法道具(マジックアイテム)の類だとすぐに解る。
「これは自在の腕当て(アームガード オブ エラスティック)、旧帝国時代に造られた魔法遺物(アーティファクト)だ。ワイヤーはミスリル製金属糸を編んだ物で、魔法が付与された+2以上の魔剣でもなければ切断できない。一メートルから二十メートルまで伸縮が自在で、荷重はおよそ二百キログラムまで耐えられる。両端の二つの接着アンカーは磁石のように何にでも(・・・・)引っ付ける事ができる。着脱も当然自在だ。形状はワイヤーロープだが歴とした腕防具だ。こう……腕に巻いて使う。ミスリル製なので余程の斬撃でもない限り、これでいなす事が可能だ」
 な、なんて云うか……チートアイテムってもんじゃねぇ。動力ウインチ付きワイヤーで、盾の効果まである防具、接着アンカーなんて魔法の濫用と言うよりも最早ご都合主義だ。なんでもありとかそんなレベルじゃねぇだろ、これ。至れり尽くせりにも程がある。
「これを貴様に支給するので、早急に使いこなせるようになれ」
「あの、貰っちゃっていいんスか?」
「バカ者、こんな高価な物をホイホイくれてやれるか! あくまで貸与だ。これは近衛兵団の備品で、団長閣下の許可は既に貰ってある。城塞都市で冒険者をやってる間は好きに使っていい。だが持ったまま死んで回収不能なんて事態は極力避けろ。ああ、それと市場価格の相場は五十万ゴールド以上らしいが、変な考えは起こすなよ? まぁ貴様なら心配無いだろうがな」
 ごっ、五十万て……マジか。つーか、そんなレアアイテム、簡単に新参冒険者に貸し出していいのかよ。しかも返却期日なしって……
「いや、貸してくれるだけでもありがたい話だと思うんスけど……これ貴重品っスよね?」
「ああ、現存が確認されている数は判っているだけで七つ。その内、四つをビスクファルス方面(トレボー)軍が保有している。これはその一つだ。貴様は意外に思うかもしれないが、忍者にとって正に神器と断言できるこの自在の腕当て(アームガード オブ エラスティック)だが、実は俺以外に好んで扱う者はおらんのだ。阿部殿に、ボ帝閣下、小龍殿、アーミテージ卿……トレボー軍には幾人ものマスター忍者と呼ばれる猛者達がいるのだが──皆、こういった道具や装備に頼るスタイルではないのだ……残念ながら。泣けてくる話だが、俺の忍火流のような日本古来の伝統的な流儀は、エセルナート(ここ)では異端扱いなのだ……」
 確かにエセルナート(ここ)は異世界なので、侍や忍者が存在したとしても、俺の知るかつての日本に存在したそれらとは微妙に違う事くらいは解る。だがそれにしても師匠が異端って……エセルナートの忍者っていったいどんな連中(・・・・・・・・・)なんだ?
「そんな訳で折角の宝を埃を被らせて置くのは惜しい。有効に使える者がいるのなら、出し惜しみせず貸し与えるべきだろう。貴様のように、俺の流派を学び、実践してくれる前途有望な者なら猶更である」
 本当に意味が解らなかった。忍者の専用装備で他のクラスには扱えないとは云え、なぜこうも便利な──否、反則みたいなチート装備を使わないのか……アレか? ゲームを割ったり、改造したりする奴を忌避するみたいなもんか? いや、違うな。卑怯とか美学に反するとかそんなレベルの話ではないな。この(・・)師匠が異端扱いとか、絶対に他がおかしいに決まっている。なぜだろう、急に他の忍者とは会いたく無くなった。虫の報せってやつか?


 自在の腕当て(アームガード オブ エラスティック)を使用した立体戦術──この一点だけでも、俺は忍者になって良かったと思える。
 これほど学習や訓練と云ったものが楽しいと思えた事は無い。ワイヤーとアンカーを駆使して、イメージ通りに壁を疾走し、跳躍し、壁から壁へと跳べるようになるまで、さほど時間は掛からなかった。

 夜空を見上げ、風に身を任せ、重力に引かれるまま俺は落下していた。アンカーを放ち、伸ばしたワイヤーを手繰って振り子のように旋回する。そして遠心力を使ってもう一度、高く宙に舞い上がる。
 吹き抜ける風に流されたのか、空を覆っていた暗雲はいつの間にか消え去っていた。澄んだ星空に巨大な黒い月と、それよりも遠くに小さな白い月が浮かんでいる。微かな月光と星明りに照らされた訓練用のフィールドを、俺は縦横無尽に駆け回った。スピード、加速、跳躍、自由落下すらコントロールできる。それはまるで空を飛んでいるかのようだ。とにかく楽しい。楽しくて堪らなかった。世界が広がったような気がして、俺は知らず声を上げて笑っていた。

 こうして五日目の夜を駆け抜け、六日目の朝を迎えた。


 朝日が道場の格子窓から差し込み始めた早朝、徹夜などものともせず、俺と師匠は真剣を用いて実戦形式のチャンバラを繰り広げていた。
 お互い小太刀を振るい、自在の腕当て(アームガード オブ エラスティック)を攻防に駆使しての、かなりガチの訓練である。
 斬撃は全て避けるか受け流さなければ大惨事、一瞬でも気を抜けば冗談抜きに死ぬか大怪我だ。おまけに有効打を撃ち込んで一本取った取られたみたいな平和的な決着の仕方では無い。俺が体力の限界を越えて、更にそこから死力を尽くして、ぶっ倒れて動けなくなるまで、延々と乱取り稽古を続けるのだ。
 常軌を逸してるどころか、正気を疑うレベルの無茶な訓練なのだが、案外やれてしまう自分に驚きである。尤もそれは、俺の実力に合わせて絶妙な手加減をしてくれている師匠の技量に寄るところが大きいだろう。流石、ニンジャマン。忍者マスターの名は伊達ではなかった。


 いい加減、小太刀を振り回すのも苦痛になり、足が重く感じるようになった頃、忍術忍法指南部道場に来訪者する者達がいた。
 ここに来るのは藤村先生か一等書記官くらいしか覚えが無かったが、今日は別に心当たりがある。とは言え、何かあったら来いと言ったが、本当に来るとは想定していなかった。
「おっはよーっ! 来たわよー!」
 場違いなほど能天気な甲高い声によって、道場に響いていた鋼鉄を打ち合う金属音が止まった。
「知り合いか、彼奴等」
「はい。昨日、パーティーを組む事になりまして」
「訪ねて来るくらいだ、何か用があるのだろう。休憩にしよう、行ってやれ」
 壁に張り付いていたニンジャマンは小太刀を納刀するや、そのまま天井裏へと姿を消した。日頃、タイガー道場で鍛えている所為か、天井裏への移動は正に早業だった。ストーキングも訓練になるんだな。見習おうとはとても思えんが。


 師匠が天井裏に消えるのを見届け、俺は壁を走り出した。助走をつけながらアンカーを天井に撃ち込み、壁を蹴って涼宮達がいる入口の方へと跳躍する。ハリウッドでスタントマンのバイトくらいやれるんじゃないかと思わず自画自賛してしまった会心のワイヤーアクションで、俺は一瞬にして距離を詰めて、涼宮の前に着地して見せる事ができた。
 無論、ただカッコつけただけである。普通に歩いて出迎えるより、こんな感じで忍者っぽくやって見せた方が受けが良い筈だ。ついでに知らない奴に対するハッタリでもある。只物では無いと思わせとけば、要らんトラブルはある程度未然に防げるだろう。
「やるじゃない、ハチ! 今のなんだか忍者みたいだったわよ!」
 みたいじゃねぇ。忍者だっつーの。読み通りではあるが、今一つ釈然としない感想である。宙返りを入れた方が良かったか?
「……で、何かあったのか?」
 まぁ、涼宮の後からぞろぞろと入って来た連中を見れば、だいたい何の用か察する事はできるんだが。魔理沙と「よう」「おう」と軽く挨拶を交わし、残りの三人を一瞥した。見覚えのある顔が二人、全く知らないのが一人。そして皆、女性だ。マジかよ。涼宮に任せると言った手前、文句を付けるのは筋違いだが、まさか三人とも女で揃えて来るとは思わなかった。前衛にはタフガイをリクエストしたつもりだが、あっさり却下されてしまったようである。
 エルフの〝E-Psi(サイオニック)〟に、ノームらしき小人の〝E-Pri(プリースト)〟、それと人間の〝N-Fig(ファイター)〟か。
 どうやら戦乙女(ヴァルキリー)は諦めたようだが、ちゃんと超能力者を捕まえてるあたりは流石だ。しかもエルフ。グッジョブ、涼宮。お前に任せて正解だった。

「メンバーが揃ったから、みんなで買い物に行くことにしたの! アンタも来なさい!」
「……いや、一応、パーティーに参加する訳だから、まずは紹介なりして貰えないと困るんだが」
「あ、そうよね。忘れてたわ。みんな! これがハチよ!」
 …………以上かよ! しかもあだ名じゃねぇか。いや、こいつに自己紹介まで丸投げしようとした俺が悪いんだけどな……て、なんで皆、俺に傾注てんだよ。 あれ? 俺、なんかやらかした? つーか、皆さんの自己紹介に移るんじゃないの? いかん、第一印象はカッコ良く決まったと思ったのに、早くもきょどってしまった。台無しである。今すぐ家に帰って、そのまま二、三日引き籠もりたい。
 魔理沙に目を向けると、あからさまに溜息をつかれてしまった。おい、なんだよ。どうすればいい? 教えて、魔理ペディア!
「……八幡、シャキッとしろよな。自己紹介も満足にできないのか?」
 え? それなら、さっき終わったろ。アレじゃダメなの? どうやら自分でちゃんとやれって事らしい。なんて厳しい世界だ。
「……あー、ひ…比企谷八幡で、す」
 やべぇ、噛みかけた。だが何とかセーフだろ。よし、任務完了だな。これで一応、成し遂げられる人物である事は証明できた。エイドリアン・アヴェニッチならきっとそう言ってくれるに違いない。涼宮と魔理沙が盛大な溜息をついてるけどきっと気の所為だろう。
「……全く、もうちょっとマシな自己紹介くらいしなさいよ。だらしないわね。まぁいいわ。自己紹介なんてちゃっちゃと済ませましょう」
 いかにも不機嫌な顔で俺にダメ出しをした涼宮だったが、エルフの傍に駆け寄った時には既に満面の笑みを浮かべていた。
「この子は超能力者のネル! 超能力者ってだけでも貴重なのにエルフなのよ、エルフ! アンタも萌えるでしょ!」
「……ハルヒ、超能力者じゃなくて霊能者だってば。あ、久し振りだね、忍者さん。約束を反故にしてくれた事は追々埋め合わせして貰うとして、取り敢えず、よろしくね。僕はコーネリア、霊能者(サイオニック)だよ。ネルでいいから、ハチ君」
 しっかり相部屋で泊まった時の事覚えてやがる。探してたって管理人さんも言ってたしな。根に持たれてそうで怖い。
 肩のあたりで切り揃えた金髪に、雪のように白い肌。深緑の大きな瞳と淡いピンクの唇がやけに際立って見える。嫌味なほど整った容姿なのは、彼女が特別美形だからなのか、種族として大体こんな感じなのか、今一つ判断付きかねた。そして、どうしてもあの長くて大きな尖った耳を意識してしまう。エルフだからな、仕方ないよね。
 馬車で茶ラ髪を瞬殺した僕っ娘エルフと感動の再開である。いや、感動はない。寧ろあのにこやかな笑顔がちょっと怖い。

「アンタ達知り合いなの?」
「ここに来る時、一緒の馬車に乗り合わせたんだよ。マリエルもね。一度、パーティーに誘おうとしたんだけど、逃げられちゃってね」
「ふぅん。そうなんだ。じゃ、ハチはこの子も知ってるの?」
 おい、抱え上げるな。ノームは亜人だけど俺らと同じ人類種だ。愛玩動物扱いするんじゃねぇ。めちゃめちゃ困ってるじゃねぇか。
「あわわわ、ちょっとハルヒさん、止めて下さい! 降ろして下さい!」
「ダメよ! もっとマスコットキャラとしての自覚を持ちなさい。でもその狼狽え方はいいわね! 可愛いわ! アンタもそう思うでしょ?」
 残念、俺はロリ属性なんてモノは持ち合わせていないので、どうも思わねぇよ。いいから下ろしてやれ。つーか、なんだよ、マスコットキャラって。
「馬車で隣に座ってただけだ。名前も知らねぇよ」
「この子は僧侶のマリエル。アンタの要望を踏まえて僧侶を探してたら、偶然見かけて即ゲットよ、ゲット! あとちょっと遅かったら誰かに先を越されてたかもしれないんだから! 我ながらファインプレーだったと思うわ。ちょっとくらい褒めてくれてもいいんじゃない? ほら!パーティーのマスコットキャラにぴったりでしょ? しかも、可愛いだけじゃないのよ、回復魔法も使えるんだから!」
 ポケモンかよ。つーか、こいつ朝から酒でも飲んで酔っ払ってるのか? やけに上機嫌と言うか、ウザいほどテンション高いんだけど。

 コーネリアとマリエル──あの夜、馬車に乗り合わせていたエルフとノームだ。これって偶然だよな? しかも都合良く僧侶と超能力者(・・・・)……作為的な何かを感じずにはいられないんだが……これもあのラマの陰謀? まさかな。
 涼宮から解放され、居住まいを正すノームだったが、やはり扱いに不満があるのか、恨めし気に諸悪の根源を見上げて唇を尖らせていた。
「まったくもう……子供扱いしないで下さい。これでもハルヒさんよりお姉さんなんですからね」
「全っ然、そうは見えないわ! これって合法ロリってやつよね、ハチ。対策もバッチリじゃない!」
 なんの対策だよ、何の。つーか、頼むから俺に同意を求めないでくれ。合法ロリでもロリBBAでもいいけど、どっちも興味ねぇから。
「時々、ハルヒさんは何を言ってるのか解りません……コホン、では改めまして。私はマリエル、僧侶(プリースト)です。お久し振りですね、忍者さん。今度は逃げないで下さいね」
「いや、別にあの時は逃げた訳じゃねぇし。たまたま早く起きたから、起こしちゃ悪いと思ってこっそり抜け出しただけだし」
「もう気にしてませんよ。それにこうしてまた会えた訳ですし。きっとこれもカドルト神のお導きなのです。よろしくお願いしますね、ハチさん」
 ……ハチ君にハチさん、か。これが自己紹介をサボろうとした者の末路なのか……まぁ別になんて呼ばれようと構わないんだけどね。比企ガエル君とかエロガ谷君呼ばわりに比べたら、悪意の欠片もないから。だが、もし次があるなら、ちゃんと自己紹介くらいする事にしよう。
 俺の新たな決意はともかく、ちょっと縮尺がおかしい小学生くらいのサイズしかないノームのマリエルは、待望のヒーラーである。これで万が一、怪我を負っても安心だ。いや、怪我なんてしないに越した事は無いんだが、保険的な意味であると無いでは安心感が全く違うから。

 マリエルの赤茶色の髪は少しくせ毛のようだ。ショートヘアの所々がくるりと跳ねている。俺や小町のような立派なアホ毛はそうそうお目に掛からんにしても、彼女のくせ毛もなかなかの跳ね具合だ。だがまだ甘い。六十五点。
 しかし涼宮がマスコットキャラと言い張るだけあって、確かに人形が動いているみたいだ。ゆるふわなんて言葉が一見似合いそうだが、腰にスパイク付きの金属球を鎖で振り回す物騒な武器を下げているあたり、やる時はヤるタイプだと認識した。
 しかし、合法ロリって……俺より年上だったりするのか、これ(・・)で? 駆逐艦、それも第六の連中くらいにしか見えんのだが。

「で、最後になったけど、この人は(シー)(シー)。アンタの希望通り、タフで頼り甲斐のありそうな、重装甲の鎧が似合う女戦士よ!」
 待とうか。俺のリクエストはタフガイだ。捏造するんじゃねぇこのスットコドッコイ。
「よろしくね、忍者君。へぇ……なかなか良い身体してるわね」
「ど、どうも……」
 切れ長の目の黒い瞳が妖しく光ったような気がする。彼女は俺を上から下まで嘗め回すように視線を這わせた。アレだな、いつぞや阿部さんと会った時みたいだ。あの人の視線は熱っぽかったが、この人は……なんて言うか、エロい。俺を見てる間、ずっとニヤニヤと下世話な笑みを浮かべてるし。視姦される気分ってこんな感じなのだろうか。なんにせよそのおかげで、黙っていれば凛とした活動的な体育会系美人に見えるせっかくの容姿も、印象も、全て台無しである。
 雪ノ下さんよりも年上で、平塚先生よりはずっと若そうだ。だがこの人からも藤村先生や月影さんと同じような、残念な大人の匂いがぷんぷんするぜ。
 黒髪ロングのストレートは涼宮と同じだが、ちょっとばかりこの人のは手入れが悪そうだ。いや、ここではこれくらいが普通であり、涼宮のように現代日本の美容院やヘアケア商品を使って手入れをしていた髪と一緒にするのは間違ってるな。
 黒髪黒い瞳に東洋人ぽい肌の色をしてはいるが、顔の造形や体格は西洋人の特色が濃いような気がする。少なくとも日本人顔ではない。
 鎖帷子(チェイン ホーバーグ)に鋼鉄の胸当て(ブレスト プレート)を重ね、その下も長袖長ズボンに革製の手袋とロングブーツをしっかり着込んでいた。赤い裏打ちのマントが様になっていて、なんともカッコ良い。体型こそ不明だが、装備品の質量と職業(クラス)から想像するなら、しなやかな筋肉質できっと腹筋は割れている。
 大人の女性としてはやや不安が残るが、戦士(ファイター)としてなら頼りになりそうだ。いつぞやの彼の姿と比べるとどうしても線が細いが、それは女性である以上仕方あるまい。
「ふふっ、目付きが尋常じゃないわね、君。噂に聞く戦争狂(ウォーモンガー)ってこんな感じなのかしら。悪くないわよ?」
 褒められてるのか? つーか、たまに聞くけどその戦争狂(ウォーモンガー)ってなんなの? 後で魔理ペディアに聞いてみるか。
 彼女はにこやかに、そして自然な動作で右手を俺に差し出した。これ、握手しろって事だよな。態々革手袋外してるし……
「私はクレイン・クレイン。長いから(シー)(シー)で良いわ。戦士(ファイター)よ」
「あー、比企谷八幡。忍者です」
 握った彼女の掌は柔らかいと言えば柔らかいのだが、あきらかに一般的な女性の掌とは皮の質からして違う気がする。親指と人差し指の付け根のあたりはゴツゴツとして特に硬かった。剣ダコってやつ? かなりの時間を掛けて使い込んだ手だと解る。
「よろしくね、ハチマン。あ、呼び捨てで良かった?」
「問題無いです。こちらこそ、よろしくお願いします」
 タフガイではないが、タフなお姉さんである事は間違いないだろう。つーか、やけにデカい剣を背負ってるんだが。それ振り回すの? やべぇ。この人、絶対俺より筋力高いわ。


 一通り挨拶を済ませると、涼宮は腰に手を当て自慢げに胸を張った。所謂、ドヤ顔ってやつだな。
「ふふん、どう? ハチ。なかなか良い人材が揃ったと思わない?」
「そうだな、悪くないんじゃね? バランス良さげだと思うし」
 ソロしか経験が無いので実際のところは良く判らんが、戦士、魔法使い、僧侶と云ったファンタジーRPGの王道基本ジョブが揃っているし、俺もレベル5になって立体戦術をモノにした。涼宮と超能力者の戦力こそ不明だが、いざとなれば俺がフォローすれば問題無い。クレイン・クレインと魔理沙は頼りになりそうだし、これなら茶ラ髪のパーティーのように、ダンジョンに入って五分で壊滅なんて事態にはならないだろう。それでも油断は禁物だが、俺がしっかり索敵をすればいいだけの話である。
 しかし、涼宮の手際の良さには感心する。あの短時間でよく自分好みで必要な人材を揃えられたものだ。酒場に入った瞬間にパーティーを諦めた奴だっているのにな。
「いい事? 明日からダンジョンをガンガン攻略するんだから、アンタもしっかり活躍するのよ? サボってたり、ヘマなんかしたら許さないんだから!」
「あー、はいはい。俺の事はいいから。お前は自分の事だけ心配してろ、レベル1のヒヨコ侍ちゃん」
「なによ、ちょっとくらいレベルが上がってるからって、いい気になるんじゃないわよ? すぐに追い抜いてやるんだから!」
 はいはい、元気があってよろしい。まぁ五日も掛からずに上がる程度のレベルだしな、お前もすぐにこれくらいになれるさ。死にさえしなければ、な。

 パーティーを組んでダンジョンに同行する以上、仲間の実力は全員が共有して知って置くべきだろう。
 魔理沙についてはそれなりに経験がある事は知っているが、具体的にどの程度やれるのかまでは聞いていない。あの時は本当にあいつとダンジョンに潜る事になるとか思ってもみなかったからな。
「──なぁ、お前等は皆、ダンジョンに入った事あるのか? あ、昨日、冒険者になったばかりの涼宮には聞いてないから。お前は黙って皆の話を聞いてような」
「……う~、なにさ、調子に乗るんじゃないわよ。あたしだって……」
 横でぶつぶつ愚痴ってる涼宮は取り敢えず無視でいい。呼び水になってくれる事を期待して魔理沙に返答を促した。
「わたしは時々、欠員のヘルプでダンジョンに行ってるぜ」
「週に何回くらいだよ、バイトウェイトレス。それでレベル上がんのかよ」
「うるせーな、八幡は黙ってろ。月に一回か二回は潜ってるから、計算では来年あたりレベル4になってる予定なんだよ」
 魔理沙はレベル3、と。こいつ、エセルナートに来たの一年くらい前だとか言ってたような気がするんだが……レベル上がるの遅過ぎだ。バイト戦士め、ウェイトレスが本業になってないか?
「まぁ根拠の無いエアレベルアップは置いとくとして──レベル3だと、どんな魔法が使えるんだ?」
「あ、それ、あたしも気になってたのよね! やっぱりギラとかヒャドみたいな魔法を使えるの?」
 涼宮、食いつき過ぎ。こいつのファンタジーRPGの知識はドラクエか? 王道過ぎて参考にならんだろ。
「2レベルまでの魔術(メイジ)呪文(スペル)は全部修得済みだ。範囲攻撃できる火力呪文も使えるぜ。それと、八幡は後で話がある」
「やっぱりレベルが上がるとすごいね。僕もマリエルもまだレベル1だから、習得してる呪文なんて二つずつだよ。一日に二回しか使えないし」
「わ、私は主に回復呪文と灯りの呪文しか使えないけど、ネルさんは回復と攻撃の呪文が使えるんですよ」
 魔理沙の火力は期待できそうだ。コーネリアとマリエルはレベル1か。それでも回復魔法の使い手が二人いるってのは地味にありがたい。いざと云う時も安心だな。
「ねぇ、魔理沙とネルはどんな魔法が使えるのよ? 隕石を落としたり、吹雪や地震を起こしたりとかできるのかしら!?」
 できる訳ねぇだろ。ダンジョンの中で天変地異を起こされて堪るか。だが頭の痛い事に涼宮のやつ、ギャグやネタとしてではなく、割と本気で言ってるんだよなぁ。魔法使いに夢を見過ぎだろ。
「おまえ、バカなのか? できる訳ないだろ。火の玉を飛ばしたり、火炎を撒き散らす程度だ。後は眠らせたりとかだな」
「ははっ、いくらなんでもそれはちょっと無理だね。僕は相手の精神に直接負荷をかけて発狂させる呪文だよ」
「むう……なによ、ちょっとくらい派手なの期待したっていいでしょ! まぁいいわ、取り敢えず、魔理沙はメラとギラとラリホーで、ネルは毒電波ね。覚えたわ!」
 どんな覚え方だよ。魔理沙とネルが固まってるじゃねぇか。つーか、やっぱりこいつドラクエ基準かよ。
 ともかく魔理沙達スペルユーザーが使える魔法は、これだけ把握できれば十分か。後は追々、補足して貰えばいいだろう。

「クレイン・クレイン……さんは、もう何度もダンジョンに行ってる感じですっスね」
「んー、まぁね。三カ月前から冒険者をやってるから。一度だけ地下二階まで行った事あるし、銅の鍵と銀の鍵のある場所も知ってるわよ。そうね、後は地下一階の敵は一通り戦った事があるから、見れば識別できるかな」
 結構、ダンジョンで戦ってるんだな、まぁ装備を見れば一目瞭然ではある。
「ま、これでもレベル4だから多少はね。あ、それとハチマン、敬語もさん付けも要らないから」
「ぜ、善処します」
 クレイン・クレインについては何も心配は要らないだろう。寧ろ俺が頼りたいくらいだ。問題は涼宮である。
 前衛職である以上、侍の涼宮は実戦経験がなくても一対一ならオークやコボルドに後れを取るとは思えない。単純に戦力としてだけなら問題は無いと思う。だが実際に敵を前にして、相手を殺せるかと問えば疑問が残る。自分が生きる為に他者を殺す。頭で理解し納得したとしても、簡単に割り切れる事ではない。敵がニンゲンではないと解っていても、それでも命を奪う行為自体に躊躇してしまうのは人として当然だ。
 寧ろ、簡単にできて何も(・・・・・・・・)感じない奴は(・・・・・・)何か大事な部分(・・・・・・・)が壊れている(・・・・・・)
 涼宮はどう思っているのか、どんな覚悟をもっているのかなど俺には判らない。こればかりは彼女自身で折り合いをつけて貰うしかなかった。
「C・Cはでっかい剣を背負ってるけど、あたしもあれくらい振り回さないとダンジョンで戦えないのかしら」
「まさか。彼女のはここの冒険者がよく腰に下げてる一般的な長剣(ロングソード)ではないと思うよ」
「そうなの?」
「ネルの言う通りよ。私の得物は両手剣(トゥーハンドソード)だから。ハルヒが使うのはハチマンが持ってるのくらいになるんじゃないの?」
「ハチの刀はちょっと短いのよね。丁度良いのが買えると良いんだけど」
 まぁ小太刀だからな。そういや買い物行くって言ってたな。つっても、用があるのは涼宮だけのような気もするが。
 ここにいる六人で装備を用意していないのは涼宮だけである。コーネリアはゆったりした緑と白のローブを着て、木製の杖を持ってるし、マリエルも紺色の修道服の上に革鎧(レザーアーマー)をしっかり着込んでいる。腰に物騒な得物下げてるし、見た目は一番幼げだが、実は白兵戦になったら結構戦力になるかもしれない。ほんと駆逐艦みたいだ。第六駆逐隊に混じっててもきっと違和感ないぞ。
 魔理沙はいつもの黒いつなぎみたいなスカートに白ブラウスと白エプロンなので良く判らないが、こいつはダンジョンに行ってるので、探索に行くときはちゃんとした装備に着替えるだろう。
 それよりも駆逐艦プリーステスの実戦経験の有無が気になった。
「なぁ、それで殴った事あんのか?」
 無論、刺々鉄球の付いたメイス(モーニングスター)を指している。
「ありませんよ。ちゃんと練習はしてますけど」
「ダンジョンには?」
「一昨日、一度だけ……ネルさんも一緒でした」
 どうも上手く行かなかったようだ。まぁ一昨日、別のパーティーにいた奴が、今日、自分のパーティーに参加している事を考えれば、およそ何があったかは想像が付く。冒険者のパーティーが壊滅ないし解散する原因は敵に殺されるか、内輪で揉めるかしかない。マリエルの様子からして前者だろう。あまり触れないようにしてやらないとな。

 これでおよそ知りたい情報は得たと思う。足りない分は追々個別に聞いてもいいし、実際にお目に掛かる機会はすぐに訪れる筈だ。
 地下一階で戦うだけなら俺と魔理沙、クレイン・クレインがいれば問題無さそうである。まぁ俺一人でもある程度何とかなってしまうのだから、六人、それも半数がレベルの上がった冒険者なら簡単に不覚を取る事は無いだろう。だがレベル1の三人は暫く補助戦力くらいに考えて、無理はさせないようにしないとな。特に回復魔法の使い手の二人は最優先で守る必要がある。ある意味、俺達の切り札だ。絶対に死なせる訳にはいかない。


 師匠に訓練の中断を願い出て、道場の外で待っていた五人と合流した。
 訓練中に着ていた支給品の上下から、いつものジャケットとGパンに着替えて、柿色の外套を纏い、フードを目深に被った。手にはレンタルの自在の腕当て(アームガード オブ エラスティック)、やべぇな……安心感がまるで違う。これが価格(戦闘力)五十万の力か……
「おう、お待たせ」
「それじゃ、買い物に行くわよ!」
 まぁボルタック商店に行くだけだろ、どうせ。キラが店番してれば別だが、特に用は無いんだが……着替えとシャンプーでも買っとくか。
 しかし、六人で団体行動とか、やはり落ち着かねぇ。男女比一対五の時点で自動的にぼっちだしな。いや、元からぼっちなのでダメージは無いけどさ。
 まぁ中心にいる涼宮は楽しそうだから別に良いか。

 どうせ最後尾を独り付いて行くだけなのはいつもの事だ。こうして三歩離れて交わらない世界を睥睨しているくらいが俺には丁度良い──

 ──のだが、いつの間にか魔理沙が隣に並んで歩いていたとしても、きっと俺の在り様は変わらない。変わらない筈だ。変えてはならない。


 いつかエセルナート(ここ)を去り、元の世界に帰る日が来る事を、俺は信じているのだから。

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仲マと匠とLv.5八幡①

 幾筋もの巻雲が遥か遠くへ霞む様に流れ、空は青く澄み渡っていた。時折吹き抜ける風はまだ冷たいし、吐く息も白くなる。だが穏やかな朝の陽射しはどこか暖かくて、耐えられないような冬の寒さではなかった。
 道端には名も知らぬ草があちこちで芽吹き、大地の色が薄っすらと柔らかな緑に覆われ始めていた。所々小さな白い花も咲いている。季節は冬から春に変わろうとしてた。

 俺はこの五日ほどで今年の冬をすっ飛ばしてしまったらしい。

 今年の冬休みはアルペジオコラボの冬イベントに没頭しつつ、小町とまったり過ごす予定だったのにな。クリスマスや正月といった年末年始のイベントは儚く消え去ってしまった訳だ。せめてもの慰みは二月の鬱イベントでリア充どもが一喜一憂する様を見せつけられずに済んだ事くらいか。いや、小町からチョコが貰えないので、寧ろ絶望しかなかった。

 それは考えても詮無き事であり、そしていくら考えてもどうしようもなく、それどころか下手に思い巡らせてしまうと鬱になりかねないので、なるべく考えないようにしているつもりだが、それでも不意に思ってしまうのだ。

 小町は、元の世界は、どうなっているのだろうか──と。

 学校は別にどうでもいい。元々ぼっちだからリセットされたとしても何の問題もない。多少後ろ髪引かれる事案も無きにしも非ずではあるが……戸塚とか戸塚とか戸塚とか。それと奉仕部についてもあのまま終わりたくないのが本音ではある。なんて事だ。ぼっちの筈が、思いの外しがらみが多い事に今更気付かされても困るのだが。
 そしてそれ以上に家族の事、何よりも小町の事が気掛かりでならない。受験が差し迫った大事な時期に家族の失踪とか洒落にならんだろ……

 また俺の所為で小町を傷付けてしまったのではないか?

 俺の所為で小町の人生が狂ってしまったのでは──やべぇ、ダメだ、吐きそう。考えちゃダメだ。思考を切り替えろ。

 心の中に澱み続けるどうしようもない不安や心配は決して霧散する事は無い。それを消し去る手段はたった一つ、元の世界に帰る事だけだ。なんとしても帰る、そして例え許されなくとも小町に詫びて償えばいい。しかし、今のところ帰還の手立ては全く見通しが立たない以上、再び心の奥底へと無理やり押し込めるより他なかった。
 目を背け、忘れたつもりになっても、もやもやと心に絡み付いたモノは、暫くすればまた不意に湧き立ち、いつまでも俺を苛み続ける。

 これも俺の罪なのか? この痛みは罰なのか?

 いつしか俯いて地面ばかり見ていた。俺は厭な気分を振り払うように、胸の内とは対照的な晴れ渡った蒼穹を見上げた。空の色は地球と変わらない。きっと衛星軌道上から見下ろせばエセルナートも青い星なのだろう。月は白と黒の二つ回っているようだが。
 城壁の外側、街外れであるにしても一応ここも城塞都市の一部だ。なのに、まるで都会から遠く離れた田舎や、山の奥みたいに空気が澄んでいる。文明が二、三百年分くらい遅れているとやはり空気からして違う。工場の排煙や車の排気ガスにPM2.5、そんな有害なものが全くないのだからこれも当然か。
 深く深く一杯に息を吸い込むと、冷たい新鮮な空気が夜通しの訓練で酷使した身体の隅々まで行き渡るようで心地良かった。徹夜明けの気怠さも多少和らいだ気がする。鬱々とした心の澱みも、少しはこれで清められたらいいのにな。

 折角の清々しい朝だと云うのに、気分は滅入るし、朝イチで買い物の付き添いときた。それも女子五人と団体行動──俺にしてみれば、全力で逃げ出したい鬱イベントなのだが、企画し強制参加を促した張本人は至って機嫌が良さそうなので、文句や小言を口にするのは憚られた。
 こんな時は我慢が肝心、下手に空気を読まない行動をやらかせば、もっと厄介な事態になりかねない。空気を読むのは何も由比ヶ浜の専売特許ではないのだ。これもぼっちの生存戦略である。
 グループ行動中は絶対に水を差すような真似をしてはいけない。
 付かず離れず空気に徹する。
 どんなに苦痛でも顔に出してはならない。
 会話は参加せずともなるべく耳を傾けて置く。たまに空気を読まずにこちらに会話を振って奇襲をかけてくる奴がいるからな。備え有れば憂い無しである。
 これだけ心得とけば上手く切り抜けられる筈──なのだが、一人でダンジョンに潜ってる方がよほど気楽な気がするのは、きっと俺が訓練された歴戦のぼっちだからに違いない。

 しかし、こんな朝早くから買い物かよ。他にもっと有意義な過ごし方があるんじゃないか?

 例えば、ロイヤルスイートのあの柔らかな極上ベッドで、時間やしがらみ、あらゆる厄介事の全てを忘れて惰眠を貪る──とか。
 つーか、それが最も相応しく、充実した過ごし方だろ、常識的に考えて。いや、それこそがヒトとして正しい在り様ではなかろうか。
 ああ……今すぐ管理人さんに七十ゴールドを差し出して、ロイヤルスイートの豪奢な天蓋付きベッドにダイブしたい。
 だが俺達一行は冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)に立ち寄るどころか、宿の前に立ち止まる事すらなく素通りだった。この世界はいつだって非情だ。

 太陽の角度や空の色、体感の気温からして、およそ朝の七時から八時、始業時間には少し早いと言ったところか。何気なく時間を計りながら歩いていると、遠くの鐘楼から鐘の音が聞こえ始めた。少しの間、街に鳴り響いた鐘の音の数からして、どうやら朝の八時を告げているようだった。
 どうやって正確な時間を計っているのか、気になるところではある。まぁ原始的な日時計とか水時計みたいなのはあるだろうけど、もっとこう魔法的な時計の存在をちょっとばかり期待してしまう。魔法の懐中時計とかあったら便利だろうな。
 鐘の音に合わせて目抜き(サイファー)通りに軒を連ねた商店や露店が一斉に店を開け始めた。
 通りを行き交う人や馬車の流れはまだ少ないが、すぐにいつもの賑わいを見せ始めるだろう。


 結成したばかりの俺達のパーティーは、涼宮の一存でボルタック商店に向かっている。あいつの装備を揃えるらしい。てゆーか、そんな重要な事は初日にやっとくべきじゃね? そもそも訓練を抜け出してまで俺が付いて行く意味あんのか?

 左右に小人(マリエル)エルフ(コーネリア)、いかにもな幻想世界の住人二人を侍らせてご満悦の涼宮を先頭に、そのすぐ後ろをクレイン・クレインが続き、俺と魔理沙は涼宮達四人から少し離れて後を追っていた。
 初めは数歩分、だが城門を抜けた頃には10メートルほど遅れている。無論、わざとだ。
 これだけ離れていれば、うっかりはぐれた事にして、雑踏に紛れて姿を晦ますなんて芸当も可能である。尤も、そんな事を意図して行わずとも俺の場合、班員全てから存在を完全に忘れ去られ、捨て置かれた結果として完全にはぐれてしまうのが常だった。ステルスヒッキーまじパネェ。
 それにどうせ、行先はボルタック商店だ。多少遅れても問題無い。つーか、雑踏の中であろうとも、騒がしくも喧しい涼宮を俺が見失う事などあり得なかった。
 しかし、本来なら俺とそれ以外というグループ分けになって然るべきなのだが、なぜか魔理沙はずっと俺にくっ付いている。解せぬ。てっきり男女で別行動だと思ってた。まぁ男しかいなくてもソロ行動に落ち着くのが俺のデフォルトなんだけどな。
「……なぁ、あっちに行かなくていいのか?」
「いいんだよ。賑やかなのは嫌いじゃないけど、あのノリは遠慮するぜ」
 全くだ。俺も正直、あのテの〝みんなで楽しく〟みたいな空気は遠慮したい。それも女子グループの会話となると、いろいろ面倒臭そうだからな。ソースは由比ヶ浜。葉山グループだけでなくクラスの女子共とも絶妙なバランス感覚で交友しているあいつを見るに、どんだけ気を使って会話してんだよ、と思う事もしばしばあった。
 ぼっちの俺と違って、クラス内のトップカーストを保持する由比ヶ浜は、会話一つ疎かにできないある種の緊張感を時に強いられていた。それを目にする度、俺は思ったものだ。ああ、ぼっちで良かった、と。
 ぼっちであれば何気ない日常会話に気を使う必要もないし、言葉尻一つに神経を尖らせ、揚げ足を取られたり誤解されないように、ハリネズミの様な全方位警戒を強られる事もない。そもそも実りのない無駄な会話をする必要すらないのだ。
 故に魔理沙があの騒々しい女子トークの一団から距離を置きたいと思うのも理解できる話である。
 ギルガメッシュの酒場でウェイトレスを普通にやれているので、さほど深刻ではないにしても、何かしらあって冒険者からハブにされている節のある魔理沙は、自力でパーティーを組めない程度にぼっちだ。
 俺みたいな自ら望んでぼっちになっている訳ではないと思うが、その経緯はともかく、ぼっち同士何か通じるモノがあるのは確かであり、今の魔理沙はきっと俺と似たような心境なのだろう。

 そんな俺ら二人の一歩引いた空気など気付きもしない涼宮は実に能天気で、そして度が過ぎるほどに上機嫌だった。
 次から次へと周囲の店や住人に興味を示して回る涼宮は、明らかに昨日よりもテンションが高い。それも多量のアルコール摂取して酔っ払ってハイになっているかのように陽気で饒舌である。軽度の興奮状態なのであろうか頬がほんのり紅潮してるし、壊れたラジオのように喋り続ける甲高い声音は途切れる事が無かった。

 呆れるほど上機嫌な涼宮だったが、なぜだろう、あいつを見ていると胸が痛む。トラウマとなった過去の自分の姿と涼宮が重なって見えてとても痛々しかった。

 今のこいつと似たような感じに、俺もかつて陥った経験がある。要するに浮かれて調子に乗っているのだ。

 ずっと誰かと語り合いたいと思っていた。話を聞いてくれる人が欲しかった。そんな友達が、できたと思った。まぁ結局は俺の勘違いだった訳であり、その一件で俺は多くを学んだ。その対価として、思い出したくもないトラウマが心に刻まれてしまったのだが、それも教訓と云う得難い財産だと考えれば、さほど損な取引ではなかったのかもしれない。
 きっとこの涼宮は、あの時の俺だ。だったら、はしゃいでしまうのも仕方ない、か。
 楽しいよな、自分の話を聞いてくれる人がいるってのは。それが例え勘違いであったとしても。

 痛い人と言われるのに慣れてしまったと開き直れる涼宮の事だ、きっと自分からどうでもいい他者を拒絶したに違いない。だがあいつはぼっちになる事を望んでいた訳ではないと思う。それは涼宮自身の言葉から推察できた。
 曰く「あたしの野望は、宇宙人、未来人、超能力者を集めて一緒に遊ぶことよ!」
 これを額面通り受け取るなら、救いようの無いエキセントリックさに躊躇なく回れ右したいところである。
 だが裏を読めば、宇宙人と、未来人、超能力者の三つは、涼宮の趣味嗜好であり、それらと一緒に遊びたいという事なので、趣味が合う、或は話が合って一緒に遊び回ったりできる友達が欲しいと言う事ではないか。
 別に価値感を共有できるなら本当に宇宙人である必要はない。だが一緒に遊ぶ相手を宇宙人や超能力者そのものに限定している事からして、一般人はお断り、涼宮が満足するレベルの、涼宮みたいな奇特な奴を求めているのだと窺える。ハードルが高いなんてもんじゃない、そうそう涼宮みたいな奴がいて堪るかよ。

 オカルト好きの女子は別に中二病患者でなくとも、どこの中学や高校でも普通にいるだろう。だがそんなマニアックな趣味を大っぴらにするアホは少ない筈だ。自分から弱点を公言するようなものだからな。涼宮みたいに堂々と晒け出すのは、学校と云う閉鎖社会においてはある意味自殺行為である。それが解らない涼宮ではあるまい。
 なのにあいつは解った上で開き直ったのだ。俺が自ら望んでぼっちになったように、あいつは自らを否定する者を拒絶し、自らを偽る事を拒否して孤高を選んだ。結果、涼宮は自他共に認める痛い人になり、ぼっちになった。
 だがあいつは自分を否定する者を拒絶しただけで、ぼっちである事を良しとしていない。
 欲しくて堪らなかった。ずっと求めていた。だから今、あんなにはしゃげるのだ。だからあんなに無邪気に笑えるのだろう。
 涼宮は、ぼっちだ。
 だから解ってしまう。あいつが今、どれだけ楽しいか。嬉しくて堪らないかを。そして舞い上がって調子に乗ってしまうのは、それまで孤独だった者の悲しい性である。自滅して後悔するまでが予定調和なのかもしれない。きっと俺もあんな感じだったと思う。ヒトは過ちを繰り返す、だな。

 同じような道を通って来た先人の助言として、取り敢えず「話したい事があるなら、まず相手の話を聞いてから。一方的にこちらが話したいなら、ぬいぐるみにでも聞かせてろ」ぐらいは言ってやらないとな。親しい仲でも心得ていなければならない最低限のマナーやルールは存在する。ずっと俺のターンなんてやってればカードゲームじゃなくても嫌われるものだ。まぁ俺もあんまり偉そうに言える立場ではないんだけどな。そもそもこれ、小町に説教された時の受け売りだし。

 問題は、調子に乗ったあいつがやらかして最悪の事態に陥った時、瓦解するのは涼宮個人の交友関係ではなく、俺と魔理沙を含んだパーティーだと云う事である。

 俺の杞憂が杞憂のまま終わればそれでいい。今のところ表面上は波風が立ちそうな雰囲気は感じられないし、涼宮を取り巻く三人の様子にしてもさして気分を害している様子もなかった。
 好奇心と興味に基づく涼宮の捲し立てるような言葉の本流を──それも割とくだらなかったり、意味不明なものだったりするのだが──マリエルは特に厭な顔もせず、ただ苦笑交じりにあいつの疑問に解り易く応えていた。あの忍耐と寛容さがどこまで持つのか心配だ。
 正気を疑われても文句を言えないであろう涼宮のおかしな言動に呆れるでもなく、コーネリアは普通に談笑しているように見えた。涼宮も心なしかコーネリアを相手にしている時は態度が柔らかい。デレと云うより照れ? 金髪碧眼の妖精(エルフ)、それも僕っ娘属性までついた目を瞠るような美少女と並んで歩けば、誰だってやに下がるよな。まぁ俺のように訓練されたぼっちなら、別に羨ましいとも思わないし、凛として涼やかな声音の割に笑い声はなんとも可愛らしいからもう少し側で聞いてみたいとか別に思ったりもしない…………嘘です超羨ましいので涼宮ちょっとそこ変わってくれ──て、いや、はやりエルフ(コーネリア)と会話とかまだ無理。まだ心の準備もできていない。つーか、難易度高過ぎて新たなトラウマを生産するのがオチだ。それにほら、あの僕っ娘エルフ相手にやらかしたり、失敗とかできないし。俺はまだ死にたくない。茶ラ髪、あんたの犠牲は無駄にしねぇから。

 そんなコーネリアだが、油断すると唐突に興味対象に向かって走り出しかねない涼宮をやんわりと押し留めているようにも窺えるのは、きっと俺の気のせいではあるまい。
 そう考えると、時折口を挟む程度のクレイン・クレインは涼宮の後方をブロックしている様にも見えてくる。
 あいつら三人、涼宮を囲んで目的地まで真っ直ぐ誘導してるんじゃね?
 これは推測だが、昨夜酒場で何かあったのではないだろうか。詳しく知りたいとは思わないが、ひと悶着あったのは確かだろう。それも涼宮が暴走する感じで。故にこいつらの間で既にある程度の涼宮対策が話し合われているのかもしれない。

 そして俺の横で他人事のような顔をしている奴は、それらと全く関わっていないと容易に知れた。
 あいつらが魔理沙をハブにしている様子は特に見受けられないので、単に魔理沙の方から距離を置いているのだろう。どうやらこいつに、進んであいつらと打ち解けようとか、交流を深めようとか云った殊勝な心掛けは無いらしい。俺と気が合う訳である。道中、俺に話しかけたりとかもしないしな。流石、魔理沙。よく解っている。

 しかしこのパーティー(こんなん)でダンジョン潜って大丈夫なのだろうか?



 二十四時間営業のボルタック商店は朝来ようが真夜中に訪れようが、いつも普段通りの平常運転である。だがここ暫くキラが店番している時に当たらなかったので少し寂しい。
 そんな俺の想いが天に通じたのか、はたまた気まぐれな神の悪戯か、店の前にキラ・ヤマトがいた。
 よし、来た甲斐があった。
 そこに待望の未来人がいるなど知る由もない涼宮は、コーネリアの手を引っ張り脇目も振らずに店内へ駆け込んで行く。子供かよ。
「ハルヒさん、お店の中で走っちゃいけませんよ」と、マリエルが慌てて涼宮の後を追った。お母さんかよ。
 中で加賀さんが店番をしているなら、きっと顔をしかめて悪態をついているに違いない。
 クレイン・クレインが店内に入って行く姿を視界の端に捉えながらも、俺の視線はキラに釘付けである。真面目な顔して労働に勤しむキラ……アリだと思います。

 店舗に隣接した倉庫らしき建物の前には四頭立ての馬車が横付けされていて、いつもは閉じたままになっている大きな鉄扉が開け放たれている。四、五人の屈強な男達が何度も搬入口から出入りして、重そうな細長い木箱や樽を次々と馬車に積み込んでいた。キラはクリップボードを片手に、その積み込み作業を監督しているようだった。
 忙しそうなので今は声をかけるべきではないだろう。仕事の邪魔しちゃ悪いしな。
「八幡、往来の真ん中で立ち止まってどうしたんだ? 寝惚けてんのか? わたし達も店に入ろうぜ」
「あ、ああ……すまん」
 いかん、側に魔理沙がいたのも忘れてキラに見惚れ──いや、見つめ……でもないな。見入っていた? いや、魅入るだ。あの笑顔は眩し過ぎる。信じられるか? アレ、俺に向けられてるんだぜ?
「八幡!」
 後光が差すかの如く眩い天使がそこにいた。名前の通り煌めいている。キラの造形は戸塚とはやや方向性が違う。戸塚は性別が戸塚だが、キラは女顔に近いベビーフェイスであっても美〝少年〟である。だがそんな陳腐な単語でキラを括りたくない。これはある意味奇跡であり、天然の芸術であり、端的に言ってしまえば、この夢も希望も無い異世界(エセルナート)に舞い降りた天使である。異論は聞きたくないし、聞かない。小町にも戸塚にも逢えない現状、キラに幻想の一つでも抱いてないと正直やってられない。
 魔理沙が俺を呼んだからか、俺に気付いてくれたキラは小走りでこちらに駆け寄って来た。魔理沙、グッジョブ。後でコーヒー奢るわ。
「悪ぃ、野暮用ができた。先に行っててくれ」
「ん、わかった。ごゆっくり」
「おう」
 魔理沙はキラを一瞥だけして店に入った。ほんと人見知りする奴だな。
 キラはキラで魔理沙にちらりと目を向けただけで、さして気にするでもなかった。こいつはガチで艦娘とそれに似た女性にしか興味が無いのだろう。提督の鏡だな。
「買い物?」
「ああ、付き添いだけどな。あ……お、おはよう、キラ。なんか忙しそうだな」
「うん、おはよう、八幡。僕は全然忙しくないよ、積み込むのを見てるだけだから。でもここ暫くモンティナさんの依頼に掛かりっきりだったから、その間は忙しかったかな。あ、何度か店に来たんだってね。フレイディアに聞いたよ。ごめんね、せっかく来てくれたのに、気付かなくて」
「いや、別に気にしてねぇし。つーか、謝られても困るわ。仕事だったんだろ?」
「うん。軍関係の──ごめん、八幡。ジルバさーん! そこのカービンはスペンサーと一緒くたにしないで、別々に分けて積み込む様にして下さーい!」
 搬入口にいた白鬚のドワーフが黙って頷き、作業員達にキラの指示を伝えていた。そのドワーフの周りではボブカットの中学生くらいの女の子が、ちょこまかと忙しく動き回っている。人間の盗賊(シーフ)だな……しかし、どっかで見た事ある気が──
「──雪風、か」
「あ、やっぱり八幡もそう思う? そっくりだよね、あの子。僕も初めて会った時はびっくりしたよ。ウチの鍛冶場で見習いをやってる子なんだ。名前はカナン。でも雪風って呼んでも怒らないよ」
 フレイディアと違ってね、とキラは悪戯っぽく笑った。なるほど、仕込んだな。やるじゃないか、同志提督。それでセーラー服みたいなワンピースを着てんのか──て、コスプレかよ! よくよく見れば、背負ってるランドセルみたいなのは四連装酸素魚雷である。つーか、なんで鍛冶場の見習いが双眼鏡を首から下げてるんだよ。完全に雪風のコスプレじゃねぇか!!
「キラ……お前の仕業か、アレ?」
「僕の自信作だよ」
「……見事だ。アレは、良い雪風だ」
「ありがとう。八幡ならそう言ってくれると思ってたよ」
 俺達は力強い握手を交わしていた。やはり提督は解り合えるのだ。そして改めてキラの卓越した技術に瞠目した。榛名のコスプレ衣装も作ってくれねぇかな。
「あれか? やはりお前を呼ぶ時は──「しれぇー! カービンの弾丸が一箱足りませぇーん!」……司令(しれぇ)?」
「やっぱり言葉使いも拘らないとね。リアル雪風を目指して、ちょっと頑張ったんだ。カナン! ちゃんと昨日確認したからある筈だよ。荷台に積んだ分も数え直してみて」
 雪風の口調、アレもお前がやらせてんの? 何を、どう頑張ったら、一人の人間の口調まで変えてしまえるんだ? キラ……恐ろしい子ッ!
 しかし、さっきからファンタジーらしくない不穏な単語が飛び交っているんだが。騎兵用小銃(カービン)? マジで? ここの騎兵は槍を抱えて突撃する中世風の騎士じゃなくて、騎馬鉄砲隊、それも西部劇に出てくるような騎兵隊かよ。おい、ファンタジーはどこに行った?
「なぁ、キラ。カービンって……」
「銃身が少し短い騎兵用のレバーアクションのライフルの事だよ。図面も見本も何も無かったから試作品を完成させるまで随分苦労したけどね。でもやっと生産に目途が立って──あ! ごめん、八幡。一応、アレ、軍事機密で部外秘なんだ。今の、何も聞かなかった事にしてね?」
「オーケー、把握」
 マジかよ、こいつらテッポー作ってやがる。スペンサーはスペンサー連発銃(リピーティングライフル)か? だったらカービンはスペンサー騎兵銃(カービン)だな。ここだけ技術レベルが産業革命越えてる件。
 なんてこった、材木座が書いたラノベのフリをした設定の羅列を添削した時に得た無駄な知識が役立つ日が来ようとは……

 僅かばかりの間、キラと談笑を交わしていると、作業員達が荷台にシートを張ったり、車輪のストッパーを片付けるなどし始めた。どうやら積み込み作業は終わりのようだ。
「キラ坊よ、積み込みは終わったぞ」
「──あ、はい! 了解です」
 ジルバと呼ばれた白髭のドワーフに応えたキラは「ごめんね」と申し訳なさそうに頭を掻いた。いや、申し訳ないのはこっちだっての。これ以上、キラの仕事を邪魔しちゃ悪いな。俺もぼちぼちあいつらと合流するか。
「悪いな、仕事の邪魔して。頑張れよ、司令(しれぇ)
「あははっ、やめてよね。それ、八幡が言うと変だよ。もうすぐ終わるから店で待ってて。君に見せたい物があるんだ」
「おう、いつまでも待ってる」
 見せたい物? こいつが態々俺に見せたいようなモノなんて、やはり艦これ関連だろうか。まぁ何でもいい。鬱イベントだった筈が、思わぬサプライズ付きで少しは楽しめそうだ。
 これはあの幸運艦に肖った、ちょっとしたご利益なのかもしれないな。


 いつ見ても場違いな違和感しかないボルタック商店の鮮やかなステンドグラスの玄関扉を開けると、腕を組んで仁王立ちした涼宮が待ち構えていた。眉根を釣り上げ大変ご立腹の様子である。先刻まで上機嫌だった涼宮はどこに消え失せた?
「遅い! 罰金!」
 なんでだよ。
「いったい今まで、どこで油売ってたのよ。リーダーであるあたしに黙って勝手にいなくなるなんて遺憾だわ。死刑よ、死刑!」
 異議あり。罰金刑から一瞬で極刑まで跳ね上げるな。つーか、ちょっと外で世間話してたくらいで目くじら立てんじゃねぇよ。そもそもリーダーってなんだ、パーティーのリーダーか? んなモンいつ決めた。初耳だっての。いや、寧ろ平常運転か。往々にして物事は俺の与り知らぬ所で決定されるのが常である。
 しかし、絡んで来たと思ったらいきなり全ツッコミだよ。安定の涼宮にちょっと安心した。
「外でちょっと立ち話してただけだ。それよか、買い物は……もう終わったのかよ、早いな」
 涼宮は黄色のコートの下に真新しい茶色の革鎧(レザーアーマー)の上下を着込んでいた。先ほどまで惜しげもなく披露していた、スカートからすらり伸びたしなやかなおみ足は無粋な革のゲートルに隠されてしまっている。ちっ、目の保養がまた一つ失われてしまった。世知辛い世の中である。
 腰には朱色の柄巻きで飾った黒い鞘をベルトに吊るしていた。鞘の長さからして刃渡りは90㎝くらいありそうだ。涼宮の奴、デカイのを選んだな。それに結構重いだろ。
 つーか、装備の他に当座必要な物も揃えれば、財布は空になってんじゃね? なるほど、それで罰金か。所持金が尽きたので、俺からせしめようとはいい度胸だ。
 手持ちがゼロって事は無いにしても、宿代に事欠く程度には陥っていそうである。つーか、素直に言えよ。少しくらいなら貸してやるっての。年頃の女の子が馬小屋に潜り込んで一夜を明かすのは流石に忍びない。管理人さんに蹴り起こされるらしいし。
 尤も、当の涼宮はその名の通り涼しい顔である。まさかリュックだけではなく、所持金まで差がついてるなんて事はない……よな?

「必要な物はハッキリしてるし予算も決まってるんだから時間なんて掛かんないわよ。アンタがもたもたしてる間に全部済ませちゃったわ。で、どうかしら? ちょっと地味だけど悪くないでしょ」
「ああ、そうだな……似合ってんじゃね? その革鎧、コートの下に着て動き難くならないか?」
「別に何ともないわ。この鎧、袖が付いてないから安かったの。ほんとは鎖帷子が欲しかったんだけど、値段が倍以上するのよね、あれ。さすがに諦めたわ。でもお金を稼いでから、少しずつ装備を強化するのもセオリーだと思うのよね。だから別に気にしてないわ」
 鎖帷子ならダンジョンですぐに拾えんじゃね? 態々金出してまで買うのは損だろ。ブッシュワッカー斃して手に入れたのを流用すればいい。
 つーか、涼宮の装備を揃えるのが当初の目的だった筈だ。それはもう済んだと本人の言質も取れた訳だし、イベント終了、解散の流れって事で問題無いんじゃね? よし、こっからはキラのコミュイベントだな。急に目が覚めたわ。今から本気出す。
「買い物、終わったんだな? じゃ、これで解散って事で──」
「なんで来た早々に解散なのよ、メインイベントはこれからでしょ!」
 ちっ、やはりこれからダンジョンか。まぁそれも吝かではないが、せめてキラの用が終わってからにしてくれ。
「なぁ、ダンジョン行くなら午後からでもよくね? ほら、俺まだ訓練の途中だし」
「ダンジョン? それは明日って言ってなかったかしら?」
 一言も聞いてねぇし。初耳だっての。
「そっか、言い忘れてたわ。ダンジョンには明日行く事になったから。みんなと決めた事なんだから、アンタもそれでいいわよね。朝一で行くわよ。あたし達が一番乗りするんだから。寝坊とかして遅刻したら殺すわよ」
「お、おう」
 全て決定済みの事後報告、その報告すら忘れ去られてしまう安定のぼっちクオリティである。つーか、こんな事で日常が戻ったような気がしてしまった自分がちょっと切なかった。結局どこへ行こうとも何も変わらないのだ。

「C・Cが新しい武器や防具を手に入れたら実戦の前にしっかり慣らした方が良いって言ってるし、あたしも同感なのよね。この後、訓練場で試してみるつもりよ。アンタもさっきの道場に戻るんでしょ?」
「ああ、そのつもりだ」
 朝飯食いに酒場に寄ってもいいんだけどな。マッカンカッコカリも飲みたいし。だがもう少しで訓練は終わりそうなので、そちらを優先するべきだろう。終わってからゆっくり食事と食前食後のコーヒーを楽しめばいい。
 しかし、まだるっこしいな。装備の慣熟訓練なんてダンジョンでやれば済むっての。実地訓練にもなって丁度良いだろうに。
 ……あれ? じゃあ、メインイベントってなんだ?
「決まってるでしょ、アンタの服を買うのよ!」
 異議ありだ、異議あり! なぜそんな事が決まっているのか、納得の行く説明を求めます。
「いいから来なさい! 取り敢えず、その変な色の外套(クローク)からよ。だいたい、なんでそんな色を選ぶのよ、意味が解らないわ。向こうにもっとアンタに似合いそうなのが沢山あったわ。ほら、早くしなさい!」
「待て、余計なお世話だ。このクロークは暗がりだと迷彩になるんだ。俺はこれで満足している」
「却下よ却下! パーティーのリーダーとして、メンバーがみっともない恰好してるなんて見過ごせる訳ないでしょ? アンタはもっとちゃんとした似合う服を着なさい」

 涼宮は俺の異議など全く聞き耳持たずに、強引に手を掴んで店の奥へと引っ張り込んだ。おい、店内で走るな。加賀さん睨まれてるだろ、おっかねぇ。あと、気安く手を握るんじゃねぇうっかり勘違いしちゃったらどうすんだよ。

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仲マと匠とLv.5八幡②

 取り急ぎ必要な物がある訳でもないので、俺は付き添いのつもりだったのだが、普段着の替えが欲しいと思っていたのもまた事実である。Gパンも片方の脛のあたりが破れてしまっているし、丁度良い機会ではあったのかもしれない。

 だがこの状況はダメだ。

 涼宮達五人に囲まれ、俺はまるで着せ替え人形だった。
 紳士服売り場まで連行されている時は、我関せずと魔法書や巻物を物色していた魔理沙だったが、いつの間にか合流してやがる。ブルータス、お前もか。

「ハチ君、これ着てみなよ」
「あ、これなんかハチさんに似合うと思いますよ」
「ちょっと派手すぎない? ハチマンって黒系の色が好きそうだし」
「そうだな。八幡、この黒いのにしろよ。上下がセットになってるし、こっちの白いシャツを下に着たら似合うんじゃないか?」
 そんなもん着たら黒執事みたいな黒っぽい奴になっちまうだろ。俺みたいなのが黒っぽい服装すると、間違いなく中二病かオタク認定されるのがオチだからお断りだ。だいたい白黒になったらお前と被るじゃねぇか。ペアルックと誤解されたら、理不尽に腹を立てるのがお前で、被害を受けるのが俺って構図が確定するだろ、却下だ却下。厳正な審査により、残念ながら今回は採用は見送られる事になりました──て、事でそれは戻して来い。そして言ってる側から新しいの持って来なくていいからな、涼宮。
「ハチ! このコートがいいわ。色も落ち着いてるし、これにしなさい」
 確かに色彩は多少落ち着いてるかもしれんが黄色は却下だ。せめてもっと夜間迷彩効いてそうなやつにしてくれ。つーか、今のクローク、変えるつもりないからな?
「ハチさん、そのズボン、足元が破れてますよ。修繕して貰ったらどうですか?」
「あ、それ僕も気になってた。それくらいならすぐ直して貰えると思うよ」
「それって多分わざとよ、わざと。クラッシュジーンズとかダメージジーンズとか言ってわざわざ新品を破ったりするんだから。ハチのは全然似合ってないけど、本人はアレでカッコ良いと思ってんの。だからそっとしといてあげるのが世の情けってもんよ」
「おい、新品をわざと破ったのか? 正気か?」
「わざわざ自分で破らなくても、ダンジョンで戦ってたら勝手に破れそうなもんだけどね」
 おいこら涼宮、適当な事言ってんじゃねぇ。魔理沙の奴が本気で俺を残念な人みたいに見てるだろ。それとクレイン・クレインが言ってるのが真実だ。コボルドに足ごと裂かれた結果であって断じてわざとではない。つーか、ジーンズの修繕も頼めるの? マリエル、その話、詳しく。


 普段使いの安物の紳士服、それもこんな文明がお世辞にも発達しているとは思えないファンタジー世界なら、あれこれと迷うほど品揃えがあるとは思えなかったが、ボルタック商店の紳士服売り場は思いの外種類も在庫も豊富である。少なくとも、好みの柄やサイズを探せる程度には充実していた。専門の服飾店に比べると微々たるものなのだろうが、それでも併設する婦人服コーナーに比べると売り場面積は倍以上あった。こう云った点からボルタック商店の客層がおよそ垣間見えるだけでなく、冒険者と云う職種が男社会である事が容易に察せられた。
 そう考えると、このパーティーは間違いなく異端である。
 結局、涼宮が望んだ通りの普通ではない変わったパーティーになってしまった訳だ。それが吉と出るのか、凶と出るかは判らない。だが謂れのない妬み嫉みの類は間違いなくあるだろう、主に俺に対して……とかく世界は理不尽にできている。全く、俺が選んだ訳でもないのにな。
 だがまぁ、この程度の事でつまらない悪意を向けて来るような輩に後れを取るようでは、小町の待っている世界に帰還するなど夢のまた夢だろう。
 意に添わぬ状況なら全て覆す。悪意も殺意も全て躱し、全て斃す。仲間は全て守る。その程度できなくて、どうして世界を越えられる?
 俺は弱い。涼宮よりも、魔理沙よりも、きっとパーティーの中で一番弱いニンゲンだ。強くならなければ。一分一秒が惜しい。誰よりも早く、誰よりも強くなりたい。まずは、こいつらくらい守り抜ける力を身に付ける。それも早急に。俺に立ち止まっている時間は無い筈だ。


 コーネリアが見繕ってくれた当たり障りのないベージュの上下と、クレイン・クレインがワゴンセールの古着の山から見つけ出した藍染めに似た青いシャツ、それと新品の下着を二枚を買うことにした。
 涼宮は不満げである。こいつが選ぶ服はどれも隠密性に欠けるので受け入れられなかった。だからそんなに睨むなよ。
 自室どころか衣装ケースひとつ持てないでいる現状、全て手荷物なのだ。ダンジョン探索に不要な荷物は増やせない。不便と云えば実に不便だ。早急に〝家〟を探した方が良いかもしれないな。
 そんなことを並べながら言い訳がましく涼宮に言って聞かせていると、コーネリアが横から口を挟んだ。
「それなら月単位で冒険者の宿(アドベンチャラーズ イン)の一室を間借りしたらいいよ。エコノミーならそれほど高くないから、早めにみんなでお金を出し合って一室借りたらどうかな。荷物の保管ができないと不便なのは僕も同感だしね」
「いいわね、それ! 家賃はどれくらいかかるのかしら」
「エコノミーなら前払いで一人200ゴールドだね。四人以上ならパーティーで一室貸してくれるそうだよ」
 最低800ゴールドも取るのか。家賃にしてはちと高過ぎね? つーか、普通に四週間分の宿代だよね、それ。涼宮も「高い」と一言で断じた。
「ちょっと費用が掛かる分、宿泊と同じ扱いでサービスを受けられますよ。シーツの洗濯や部屋の掃除を毎日自分達でするのは大変ですから」
「確かにそれは助かるけど、部屋に従業員が勝手に出入りするって事でしょ? それって大問題じゃない」
「問題ないわよ、ハルヒ。タンスや収納箱(チェスト)にちゃんとしまっとけば、誰もそれに触れられない。おまけに宿泊できるのは冒険者だけ」
 下手に物色でもすればその場で犯罪者(赤ネーム)か。赤ネームは殺していいって管理人さんも言ってたしな、宿泊客も従業員も変な考えを起こす奴はいないって訳だ。
 クレイン・クレインに指摘されて「あ、そうか」と涼宮はすぐに納得した様子だった。こいつ、また《愚者の統制(IFF)》の存在を忘れていたな。
「とは言っても、ある程度まとまったお金が必要な訳だし、今すぐって訳にはいかないだろうけどね」
 溜息まじりでぼやいたコーネリアは肩を竦めて「まずはお金を稼がないとね」と、付け加えた。
 加えて俺は割り勘する相手がいないから、一人で(・・・)そのまとまったお金を稼がなきゃいかん訳だ。あ、でも800ゴールド出せば、スイートを独占できる訳だよな。アレって個室の筈だし。800ゴールドか、なんとかなりそうだな……
「まぁそんな訳で、取り敢えず今は買えねぇけど、私物の保管ができるようになったら、ちゃんとした服とかも揃えたいからさ、その時また見繕ってくれよ」
「ふん、仕方ないわね」
 その時はボルタック商店の紳士服売り場ではなく、専門の服飾店を回ってみるのもいいかもしれない。東区の方にはちょっとしたブティックみたいなのもあるらしいしな。


 代金を清算するついでに破れたGパンの修繕を加賀さんに頼もうとしたら、涼宮が横から口を挟んだ。
「貸しなさい。これくらいなら、あたしがやってあげる」
「は? お前、Gパン繕えんの?」
「ふふん、前にやった事あるから任せなさい。すぐに済むわ」
 マジかよ。とは言え店員の、それもその道の専門家であろう加賀さんの前で、素人の涼宮に「はい、お願いします」とはなかなか言い難いものがあった。
 少しばかり躊躇していると、業を煮やした涼宮は「さっさと脱ぎなさい!」とベルトに手をかけようとした。おい、短気すぎるだろ。て言うか、お前は持ち合わせていないのかよ、恥じらいとか、そう云った感じのやつ。おい、待て。止めろほんとマジでズボンを下げるな。おい、笑って見てないで誰か助けて下さい。
「ちょ……待とうか。あの、こいつ、こんな事言ってるけどいいの? つーか、このバカなんとかして下さい」
「裁縫道具の貸し出しならやっています。使った糸や布の代金は別に貰いますが。それと、さっさと観念されてはどうですか、減るものでもないでしょう?」
 ダメだ、店員がまるで役に立たない。あんたじゃ話にならねぇ、キラを呼んでくれ。割と早急に。
「ハルヒ、僕も手伝うよ」
「なら私も。観念しようか、ハチマン」
 おい、待てこら! これ絶対セクハラだからな!? 魔理沙、ゲラゲラ笑ってんじゃねぇよ、この馬鹿共をなんとかしてくれ。ここにいる女ども、加賀さん含めて誰も役に立たねぇし! 憲兵さーん、こいつらです!

 そんな混沌としたボルタック商店に、天使が舞い降りた。
 天の助けとはこのことか……冗談抜きに後光がさしているかのようにも思えた。
「お待たせ、八幡────えっと……今、お邪魔、だったかな?」
 いやマジで助けて。かなり本気で俺の貞操がピンチだから。

 結論から言えばキラは何の役にも立たなかった。
「キラ、見てはいけません。貴方の澄んだ瞳が腐ります」
 加賀さんに後ろから目隠しされたキラはそのまま拘束され、無常にも騎兵隊は到着しなかった。つーか、俺の腐った目を何気にディスられた気がしたのは被害妄想だろうか。
「さぁ観念しなさい!」
 抵抗も虚しく、涼宮にGパンを引っ剥がされはしたが、トランクスまで下げられはしなかったので辛うじて貞操は守られた……て、ここまでやられても犯罪にならないんだが! これ男女逆だったら絶対犯罪になってんじゃねぇの? クレイン・クレインには羽交い絞めにされたってのに、理不尽過ぎるだろ。《愚者の統制(IFF)》仕事しろ。


 混沌とした異空間は戦利品(Gパン)を得た事で魔女共が満足したからか、漸くにして元の平穏なボルタック商店に戻った。
 カウンターの横に陣取った涼宮は俺のGパンの修繕に夢中で、その作業を加賀さんとマリエルが興味深そうに見守っていた。エセルナートではデニムの生地が珍しいそうだ。そういやジーンズってアメリカのゴールドラッシュの頃に出回り始めたんだっけ。産業革命してんのは武器だけかよ。
 コーネリアとクレイン・クレインは婦人服売り場でセール品を物色していた。クレイン・クレインが言うには掘り出し物を見つけるのは得意なんだとか。そのスキルは是非ともダンジョンで発揮して貰いたいものである。二つ開けた宝箱が二回とも中身が萎びた野菜ってどう云う事だよ。

 落ち着きを取り戻した店内は明らかに先ほどまでとは違っていた。天使が降臨したからに他ならない。
 ちょっとしたトラブルもあったが、今となっては何もかもがどうでも良かった。俺の前にはキラがいる。それだけで満たされた気分になれるとか、俺ってなんてエコノミック。エセルナートに優し過ぎるだろ。
 しかし、なぜに魔理沙は俺の側に居付いているのか。ちょっとばかり気を利かせてくれても良くね? これから俺とキラの親密度上昇系のコミュイベントだと思うんだけど。
「えっと、なんだかよく解らないけど、災難だったみたいだね」
「……全くだ。あー、外でやってたアレ、もういいのか?」
「うん、搬送はジルバさんとカナンに任せてるし、搬入先も街外れの練兵場だからね。今のところ頼まれてる仕事もないし、暫くはゆっくりできるかな」
 訓練場ではなくて練兵場って事はやはり軍関係か。ここの軍隊、ファンタジー世界なのにレバーアクションのライフルで武装してんのかよ、超おっかねぇんだけど。
「そっか、お疲れさん」
「ありがとう。ふふっ、でも八幡も隅に置けないね」
 なんだよ、ニヤニヤしやがって。
「あの人達と、この子が八幡のパーティーだよね?」
「まぁ、な」
「みんな、綺麗な女の子だね」
 待とうか。俺が選んだ訳じゃないからな? 人選したのは涼宮であって、どちらかと言えば俺も涼宮に選ばれたクチだからな?
「いや、いいんじゃない? 八幡もジュウコンカッコカリ主義なんでしょ? オーブのカガリ・ユラ・アスハみたいにケッコンカッコカリしていい艦娘は生涯一人だけとか言い張る勘違いした原理主義者じゃなくて良かった」
 いや、なんだそのジュウコンカッコカリってのは。ケッコンカッコカリすらまだ実装されてねぇよ。鎮守府生活のすゝめで読んだだけだっての。つーか、こいつ今しれっと純愛系全否定しなかったか? いや、ハーレムものも別に嫌いじゃないけどな、現実に持ち込んじゃダメだろ。
「……なぁ、一応、参考までに確認したいんだが……お前、雪風とケッコンカッコカリしたの? あ、艦これの話な」
当然だよ(・・・・)雪風に()ちゃんと指輪を送ったよ。雪風は僕にとって特別な艦娘だからね。初めて建造した艦娘が雪風なんだ。でもレベリングが後回しになってたから結局300まで上げられなかったのが、ちょっとだけ心残りかな。それでも駆逐艦の中では一番のお気に入りだよ」
 おい、ふざけんな。最初の建造で那珂ちゃんが来てぬか喜びした俺に謝れ。あいつ、どんだけ来るんだよ。お前は一隻でいいんだ一隻で。くそっ、理不尽なリアルラック格差に傷付いたから、那珂ちゃんのファン辞めます。
 いや、それはともかく、キラの言うところの特別な艦娘とそっくりな、リアル雪風が実在してたんだが…………こいつ、手を出していないよな? ガチで中学生くらいだったぞ、あの子。まぁ、エセルナートでは同意があれば犯罪にならんのかもしれんが……
 しかし、リアル加賀さんに加えてリアル雪風まで近くにいるとか……くっ、こうなったら涼宮に頼み込んで榛名のコスプレをして貰って対抗するしかないか。あいつ、案外コスプレとか、ちょっと変わった事なら普通にやってくれそうなんだよな。
「……それで、さっきのリアル雪風かよ。あの子が背負ってた四連酸素魚雷、アレどうなってんだ? 発射できんの?」
「いくらなんでもそこまではできないよ。形だけで、ただのランドセルだよ。あ、でも双眼鏡は本物なんだ。丁度良いレンズを手に入れるのは流石に苦労したよ」
 苦労した程度で作れてしまうお前にビックリだ。
「すげぇな、今度榛名の衣装も作ってくれ」
「榛名? 金剛型か──在庫に千早があるからそれを改造すれば案外簡単そうだね。艤装は張りぼてにしないと保持できそうにないかな……あ、でも──、なら──うん。ちょっと経費がかかりそうだけど、それで構わないなら作るよ? でも……八幡が着るの?」
 アホか、そんな趣味ねぇよ……いや、艦娘のコスプレは無理だが、海軍の制服ならちょっと着てみたいかもしれん……将校用の白いやつ。アレ、カッコ良いよなぁ……まぁ俺が着ても似合わないのは解ってるけどね。
「いや、俺じゃなくて──ほら、あの黄色のカチューシャの奴、あいつなら似合いそうじゃね?」
「あー、確かに。おっとりした感じがやや足りないけど、似合いそうだね。でも寧ろ金剛っぽくなりそうだけどね。金剛じゃダメなの?」
「ダメだな。俺の嗜好は榛名であって、金剛ではない」
 これ、かなり重要。姉妹艦であっても金剛ではダメなのだ。比叡や霧島でもなく、榛名でなければならない。榛名だから良いのであって、榛名でなければ意味がない。
「そう言うのってあるよね。僕も大和は好みだけど武蔵は趣味じゃないし、長門は良いけど陸奥は興味無いな……あ、僕としては、向こうの大剣背負ってる人に是非長門のコスを着て欲しいな。ついでに言えばノームのあの子は雷か電が似合いそう」
「クレイン・クレインが長門か……背が高いからイメージ的にはピッタリかもしれんが、もう少し釣り目の方が良くね?」
「完全再現目指す訳じゃないし別にいんじゃない? 寧ろ、身長とスタイル、足の長さと腹筋が重要だからね、長門だと。身体のラインが綺麗じゃないとあの衣装は似合わないよ」
「そうかもしれんが、あの人完全武装してるからスタイルとか判んねぇだろ」
「仕事がら装備のフィッティングは日常的にやってるからね、服や装備の上からでも、目測だけで身体のラインやサイズなんかをかなり正確に測れるよ。もちろん、形も、ね。実際にフィッティングすればほぼ完璧かな。少なくともフレイディアは完璧に一致してたよ。あとは好みのポーズやシチュエーションで想像するだけ。艦娘に似たお客さんだと、どうしてもテンションはあがっちゃうね。エセルナート(ここ)ってロクなコンテンツが無いから便利なスキルだよ」
 自分でする時に、とキラは付け加えなくてもいい言葉を屈託のない笑顔で朗らかに言い足してくれた。おい、何を言ってんだ、この天使は。会話を重ねる度に暗黒面が露わになってくるのは仕様ですか? つーか、なにそのふざけた変態スキル。こいつ天使なのは見た目だけかよ。くっ……なんて事だ、天使だと思ってたら堕天使だった。
 しれっと客相手に視姦してるとかカミングアウトされても反応に困るわ。まぁ、妄想するだけなら自由なので、キラが女性客相手に何を考えて仕事をしていようとも無罪である。それにどうせ、キラに装備を仕立てて貰ってる女性客の方も、キラをどんな目で見てるか分ったもんじゃないしな。
 だが加賀さんのそれをどうやって確認したのか追求してみたいところではあった。真相はともかく取り敢えず、爆発しとけ。

「……長門の衣装、似合うのか? クレイン・クレイン(あのひと)
「身体のラインはきっと完璧だよ。露出が多い大事な部分は、戦士(ファイター)だから筋肉質で余計な肉が付いていないだろうから理想的だと思う。なにより──」

「「腹筋が割れている」」

 完璧なユニゾンだった。時代は違えども、ラバウルの同志提督である。語らずとも通じてしまうのだった。
「……判るのか?」
鎖帷子(チェイン ホーバーグ)の上に、肩当まで付いた鋼鉄製の胸当て(ブレスト プレート)を重ねて、バスタードソードまで背負っているんだよ。あの重装備で大剣を振り回して戦えるんだから、生半可な筋肉じゃないね。腹筋もイイ感じ」
「バキバキなのか」
「そこまでじゃないかな。でもイイ感じ。八幡より全体的にマッチョ」
「……マジ?」
 ここ数日でかなり鍛えたと自負してるんだが……勝てませんか。流石、職業戦士(ファイター)ってところだな。しかし、腹筋はイイ感じ、か……アリだな。巨人を駆逐するアニメのヒロインの例もある。あの艦娘みたいな名前をした腹筋の割れたヒロインは実に良かった。俺もマフラーしようかな。立体機動装置モドキもある事だし。
「うん。それに上も下もビッグ7の名に恥じない大艦巨乳主義だね。腰のくびれもこう……理想的だよ。長門のへそ出しミニスカコスがバッチリ似合う」
「…………エロいな」
「エロいね」

「「だがそれが良い」」

 いかん、クレイン・クレインの長門コスを想像してしまった。いつの間にかキラに毒されてしまった俺がいる。流石、堕天使。こうも簡単にヒトを堕落させるのか……

「おい、いい加減にしろよ、お前ら。朝っぱらから何いかがわしい話を堂々としてんだ。それも花も恥じらう乙女の前で」
 横に魔理沙がいるのを忘れていた。いや寧ろ、キラと二人っきりだと思い込もうとしていた。くっ、俺らの艦これ談議に呆れるなりドン引きするなりして、さっさとどっか行ってれば良いものを……つーか、花に恥じらってもらいたいなら、まずそのぞんざいな言葉使いをどうにかした方がいい。
「……魔理沙、確かに一瞬キラから誤解を招くどころか、犯罪の自白みたいな発言が飛び出したのも事実だ。だが俺達の語らいは断じて恥じるような内容でも、いかがわしい話題ですらない」
「ちょっと引っ掛かるけど概ねその通りだね」
「そう……俺達が語っていたのは────」

「「艦これ(ロマン)だ」」

 打ち合わせなどしなくても、以心伝心、見事にハモった俺とキラは固い握手を交わしていた。なんだろう、この連帯感。横で魔理沙が胡乱な顔で見ているが、気にしたら負けだ。
 しかし便利な単語だな、ロマンって。いかがわしかろうが、ヤバかろうが、たいていの事はこれでうやむやにできる。訳の解らない物を芸術と言い張ればそれで通ってしまうのと同じだ。
「──言いたい事はそれだけですか? 店の中で、それも私がいる側でいい度胸ですね。キラ、そこに正座。貴方もです」

 だが加賀さんには通用しないようである。この後、滅茶苦茶説教された。

 そしてなぜか涼宮にも怒られた。クレイン・クレインならともかくお前は関係ないだろ、意味解んねぇよ。


 男の浪漫や表現の自由と云った俺達の楽園は、心無い非難と耐え難い屈辱と共に全否定され、土下座からの無条件降伏(すんません かんにんしてつかぁさい)と言う度し難い結末に終わった。だが一時的な戦略的撤退に過ぎない(今日はこれくらいで勘弁してやる)。俺とキラは茨の園に雌伏したデラーズ閣下とアナベル・ガトーの如く臥薪嘗胆の運命を甘んじて受け入れた。いずれ来たる回天の日の勇躍を信じて、ただ深く静かに潜航するのみである。俺達はこれしきの試練では挫けない。不屈のラバウル魂だ。軽蔑の眼差しを向けるパーティーメンバー全員に囲まれ、加賀さんに説教されたとしても、俺達の心の中まで検閲も修正もできないのである。涼宮? はっ、あいつならずっと榛名のコスプレをしていたぜ。俺の中ではな……多分、キラも同じような事を妄想していた筈だ。俺と違ってポーカーフェイスの下手なキラは、時折ニヤついているのを鉄拳制裁で窘められていたから間違いないだろう。加賀さん、超おっかない。

 パーティーの全員から、何かいろいろ大切なモノや、芽生えかけていた何かを得るチャンスを永遠に失ってしまったのかもしれないが、当初の目的通りキラとの絆は深まったと確信を持って断言できる。それを等価交換の対価と考えるなら、俺にとって破格と言えるほど有利な取引だった。初めからぼっちの俺は、あいつらからどう思われようと、例えパーティーから追放されようとも別に問題は無いのだ。元のソロ活動に戻るだけである。つまり俺は事実上、対価を払ってすらいないのだった……これが人間強度と云うモノか。

 唯一の弊害らしい弊害は、正座して痺れた足を定期的にげしげしと蹴りを入れてくる魔理沙が多少鬱陶しいくらいである。ダメージにもならない打撃とは言え、痺れた足を蹴られる度に俺は何度も悶絶させられた。ねぇ、だから《愚者の統制(IFF)》仕事してよ。特に理由も無い理不尽な暴力じゃねぇの、これ?

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仲マと匠とLV.5八幡③

 思いがけずボルタック商店に長居をしてしまっている訳だが、涼宮の修繕作業が終わるまで出るに出られなかった。

 やってくれているのが俺のGパンの修繕なので、作業が終わるまで俺が待つのは当然としても、他の連中まで俺と涼宮に付き合う必要は全くないと思う。なのに皆、相変わらずのんびり商品を物色したり、名も知らぬ店員Aと談笑したりしている。魔理沙なんて何が楽しいのか、俺の横に張り付いたままだ。ウェイトレスやらなくていいのか、バイト戦士。
 さっさと帰ってもいい筈なのに、誰も帰ろうとしない。解せぬ。この後、まだなんか用があんの? 何も聞いてないから、俺は解散でいいんだよな?


 女の子が破れた服を縫い繕ってくれる、などと云った特殊過ぎて、少女マンガでもなかなかお目に掛かれないシチュエーションを現在進行形で俺は体験している。
 その上さらに、堕天使と過ごせる至福の時間は合法的に延長され、おまけに延長料金も発生しないときた。
 こんな夢も希望も無い異世界(エセルナート)にあっては、冗談抜きに夢みたいな状況だった。あまりに望外過ぎて、寧ろ夢だと断じてしまった方が説得力があると言うものだ。実はまだ道場の天井裏にいて、全ては微睡みの中で見ている都合の良い夢なのではないかと、俺は疑わずにはいられなかった。


「──それでね、さっきも言ったけど、八幡に見てもらいたい物があるんだ」
 そう言えば、それが本題だったな。なんてこった、先ほどまでのやり取りもトラブルも、全てここに至る為のプロローグに過ぎなかったのか。
「何だよ、見せたい物って」
「うん、これなんだけど……」と、言葉を濁らせたキラは、なぜか恥ずかし気な素振りで麻布の包みをカウンターに取り出した。
 麻布に包まれていたのは、いずれも刃渡りが20㎝前後の、それぞれ異なった形状をした三種類のダガーだった。だがそれらを一纏めにダガーと括ってしまうには少しが抵抗がある。

 一本は今使っているスローイングダガーと形状は似ていた。艶のある滑らかな黒い刀身は分厚く幅広で、グリップと一体型の構造だ。グリップには重量(ウェイト)調整でもしたのか、丸い穴が三つ開けらていていた。少し丸みを帯びたグリップのデザインは握り心地も良さそうで、あれならダガー本来の用途にもしっかり使えそうである。注意深く刀身を見ると絡み合った波の様な複雑な模様が薄っすらと浮かんでいた。ダマスカスブレード?

 二本目のダガーは緩やかな〝く〟の字に歪曲した片刃の刀身で、ダガーと云うよりも小型のブーメランにも思えた。全体的に銀色で、刃には日本刀のような刃紋がある。その模様は素人目にも美しく思えた。

 残りの一本は、それをダガーと呼ぶには抵抗があった。
 形状は黒光りする金属製の鋭い杭。それも注射針のように先端のあたりに穴が開いていて、グリップの先まで貫通していた。鋭い円錐の刀身には螺旋状に細い溝の様な切れ込みが入っていてさながらネジかドリルである。これも刀身とグリップが一体形成だ。
 どれも一般的な品ではない事は一目瞭然である。

「……これは?」
「この前、八幡はここでダガーを試し投げしたよね。あの時、思ったんだ。本来、投げる為に作っていないダガーをあれほど鮮やかに投げられるんだから、最初から八幡が投げる為に(・・・・・・・・)作った(・・・)ダガーなら、どうなるのかな──って」
 一瞬、キラの言葉の意味が解らなかった。俺が投げる為に作った?
「これ、八幡の為にお前が作ったってことか?」
 呆けてしまった俺に代わって口を挟んだ魔理沙の疑問は、正しく俺の疑問だった。
「うん、そうだよ。八幡の投げるフォームに合わせていろいろ試してみたのが、この三種類のスローイングダガーなんだ。八幡の為に鍛造し(うっ)た僕の銘入りの作品……て、言ったら、ちょっと恥ずかしいんだけどね」
 言いながら照れ臭そうに頭を掻いていたキラは、俺に視線を向けてはにかんだように笑った。ヤバい、惚れそう。て言うか「八幡の為に」の部分が脳内リピートして思考が上手く纏まらない。だが今すぐに言葉を紡いで口に出せと、どこかで小町が背中を押してくれているような気がした俺は必死で相応しい言葉を探した。尤も、やっと発する事ができた台詞は我ながら救いようが無いほど稚拙だった。呆れた小町がため息をついている姿がまざまざと浮かんだ。
「……いや、その──嬉しいな。て言うか、あの時一回投げただけだよな、俺。それで、できるのか?」
「一回見れば十分だよ。とても綺麗なフォームだったから、それで目に焼き付いたんだ」
 いや、待とうか。それでできちゃうの? マジで言ってる? どんだけチートスペックなんだよ。お前、ほんとにさっきまで艦これのバカ話をしていた堕天使のキラ提督なのか?

「なぁ、八幡はこないだ城塞都市(ここ)に来たばかりだから、お前ら会ったばかりなんだろ?」
 何が気に入らないのか、眉根を寄せて釈然としない顔の魔理沙は俺とキラを交互にねめつけた。
「まぁ確かに会うのは二度目だな」
「それも五日振りだね」
 俺とキラは顔を見合わせ、指折り数える。初日に会ってから、結構経つよな。まぁキラはテッポー作るのに忙しかったみたいだし、俺もあまり戦利品持ち込んでないから仕方ないか。つーか、もう一週間経つのか……バザールだとかのお祭りみたいなのがあるの再来週だっけ? ずっと先みたいに思ってたが、なんかすぐに当日になりそうだな。
「おかしくないか? 会ったばかりの奴の為にわざわざ武器を造るのか? 別に八幡が頼んだ訳じゃないんだろ?」
 一応、頼みはしたけどな。今使ってるダガーの在庫(ストック)を用意しといて欲しいとは言ったさ。けど、まさか手製のハンドメイドが出て来るとは誰も思わないし、ぶっちゃけ来月くらいまで替えや補充は無いと覚悟していた。
「……そうだね、八幡が店に来た時、初めはちょっと感じの悪い、怖い人に──ごめんね? 見えたけど、艦これを知ってる人、それも伝説の第一紀の提督で同じラバウルだとわかって、僕の話をちゃんと聞いてくれて、解ってくれて、それで嬉しくて、とも──じゃなくて、ええと……その、八幡がダガーを投げるとこがカッコ良かったからとかそんな感じで、ほら、凄い人に自分の作品を使って貰えたら嬉しいから……かな」
 途中からぐだぐだになっていたみたいだが、魔理沙はその回答に納得したようで「お前はどうなんだよ?」と、俺を小突いた。
 照れて俯きながらもキラはじっと見てるし──待とうか。その上目遣いは俺の挙動を不審にさせる効果があるのでやめてくれ。よくよく周囲を見渡せば、店内にいる全員──まだ朝早いからか店内には俺のパーティーとキラ、加賀さんと店員Aしかいない──が、俺に傾注しているような気がした。涼宮は露骨に身を乗り出してるし。なんだこれ、どう云う状況? これ、俺も答えなきゃいけない流れなのか? 羞恥プレイどころか公開処刑みたいな展開に俺は頭を抱えた。
「……ああ、その、アレだ。俺らみたいな提督ってのはな、出会ってからの時間とかは関係ないんだ。出会う前から既に同じ世界を共有した同志で……せ…せ、せん……ゅぅ──だからな」
「そうだよ! そうだよね、僕達は最初から同志だったんだ!」
 態々、他の誰にも理解させないように答えた甲斐あって、俺の思惑通り店内は微妙な空気に包まれた。不満げな魔理沙や涼宮達、それと加賀さんらの容赦ない視線が俺を刺し貫く中、唯一人キラにだけは俺の言葉が届いていた。これでいい。あいつが納得してくれたならそれで良し。後はとっとと話題を変えて、今の発言を追及させないようにすれば万事解決、これで世は事も無しである。


 露骨な話題転換だったが、俺が名状し難き奇妙なダガーらしき物についての詳しい説明を求めると、キラは得たりとばかりに目を輝かせ、まるで水を得た魚の如く生き生きと語り始めた。よし、狙い通り。
「じゃあ、これから説明するね」
 黒い刀身のグリップに丸い穴が開いているダガーをキラは手に取った。
「このダガーは投擲用にバランス調整してあるけど、手に持って使う事もあり得るとして、しっかりしたグリップの付いたデザインにしたんだ。素材はミスリルを混合させた疑似ウーツ鋼。ブレードの模様が凄く綺麗でしょ? 切れ味は普通の鋼材で作ったダガーとは比べ物にならないよ。薄い鋼板なら簡単に穿つ事ができるんじゃないかな。銘はアーマーシュナイダー。対装甲用ダガーだよ。持ってみて」
 いきなりえらいもんが出て来たな。ミスリル? ファンタジーでお馴染みの単語にちょっとドキドキなんだが。
 渡された黒いダガーは見た目よりもずっと軽かった。よく見ると刀身全体に不思議な木目のような模様が広がっていて、刃紋は特に鮮明に浮き出ている。鉈みたいな分厚い刀身だが、鋭く研ぎ澄まされた刃はまるでカミソリの様だ。
 手に馴染む。グリップを握って振るっても、そのまま逆手に持ち構えても、しっかりと保持できて扱いも容易かった。
「試していいか?」
「もちろん。ちゃんとダミー人形を用意してるよ」
 キラが指差した先には、以前ダガーを撃ち込んだ藁人形とは別の実験人形(ダミーオスカー)がいた。大きさは同じくらいだが、あろうことか革鎧と鎖帷子を重ねて着込んでいる。藁人形のくせに涼宮より重装備だ。アレに、撃てってか。
鎖帷子(チェインメイル)は防刃性に優れているけど、刺突による打撃には弱いんだ。でもああやって重ねて、要所要所に薄い板金を挟んで補強すれば弱点をカバーできて、簡単に防御効果を向上させる事が可能なんだよ。重くなっちゃうけどプレートアーマーに比べたら全然大した事ないしね。なによりコストパフォーマンスが良いからお勧めなんだ。でもね、この程度の装甲も突破できないなら、ドラゴンの鱗なんて到底貫けない」
 革と鎖と板金の複合装甲をダガーで貫けとか、ちょっとムチャ振りが過ぎやしませんか。まぁ要するに……
「……先を目指すなら、あれくらい撃ち抜けって事か」
「うん、そういう事。大丈夫、きっとできるよ。やって見せて欲しいな」
 ドラゴン、か……ダンジョンの深層にはきっといるんだろうな。リオレウスとかリオレイアみたいなのが徘徊してんのか、なにそれ超おっかねぇ。助けて小町、キラの奴、俺にモンスターハンターになれってムチャ振りするんだ。イビルジョーとかラージャンみたいなのがいたらどうするんだよ。くそっ、黒いダガー(こいつ)はいつかそんな化け物を討ち斃す為の準備って訳か。いいぜ、その挑発に乗ってやるよ。G級制覇したソロハンター舐めんな。

 実戦なら一番装甲の薄そうな弱点に撃ち込むところだが、今回は敢えて一番装甲の分厚そうな人形の胸の辺りを目標に定めた。
 ドラゴンか。太刀もヘビィボウガンも無いが────刈ってやるさ。
 はっと短く息を吐き、裂帛の気合いを込めて投じた黒いダガーは、まるで吸い込まれるように藁人形の左胸に深々と突き刺さった。
 だが手応えをあまり感じない。まるで豆腐かバターにでも突き立てたかのように易々と穿ち、ダガーのグリップが藁人形の中に隠れるほど深く貫いていた。
「……すげーぜ」
 横で魔理沙が吐息を零していたが、俺としては狐につままれたようなおかしな気分だった。手応えが無さ過ぎる。なんだこれ、どうなってんの?
「……アレ、ほんとに板金まで入ってたのか?」
「もちろん」
「全く手応えが無かったんだが……」
 正直、段ボールで工作した張りぼてかと思った。
「そこは対装甲ダガーたる所以だよ。八幡の技量あってこそなんだけどね。どう? これなら大抵の装甲を切り裂けると思うよ」
「あ……ああ、そうみたいだな」
 ダガーを回収するついでにダミーオスカーの装甲を確認してみると、厚での革と鎖帷子の間には確かに0.3mmくらいの板金が挟まっていた。試しに突き立ててみると驚くほど簡単に貫通して、動かせば装甲を切り裂けた。缶切りで缶詰を開けるのが苦手な小町でも、このダガーを使えば容易く蓋を開ける事ができそうだった。
 すげぇな、これ。黒い刀身にはキラの付けたアーマーシュナイダーの銘が刻んである。装甲を切り裂く者(アーマーシュナイダー)の名は伊達ではないようだ。


 ダガーを投擲して見せ、興味を引かれたからか、クレイン・クレインとコーネリアが俺達の側に寄って来た。
 カウンターを挟んでキラと対面する俺の左右に魔理沙とコーネリアが、そして背後から覗き込むようにクレイン・クレインが身を寄せる。おい待て、お前ら近過ぎるから。もっとパーソナルスペースってやつを尊重するべきだろ、常識的に考えて。特にクレイン・クレイン、肩に手を置くな。あんた、絶対わざとやってるだろ。 
「……あの、皆さん近いんですが……」
「八幡、これチクワみたいだぜ。こんなんで武器になるのか?」
「こっちのはまるでブーメランみたいだね。やっぱり投げたら手元に戻って来るのかな?」
「実際にやってみれば判るわよ。ハチマン、ちょっとこれ投げてみなよ」
 無視ですか。そうですか。
 クレイン・クレインは俺の肩越しにくの字に歪曲したダガーを摘まみ上げると「はい、どうぞ」と、俺の手に握らせる。なぜだろう……年上の、それも国籍不明の美女が背中にしなだれかかってるのに、どうしてこうも嬉しくないのだろう。鋼鉄の胸当て(ブレストプレート)を押し付けられても痛いだけである。
「……キラ、これは?」
「それは斬撃と殺傷範囲に特化させてみたダガーだよ。投擲武器ってどうしても攻撃面が〝点〟になっちゃうよね。だからブーメランみたいな起動で飛翔して攻撃面が〝線〟にならないか試してみたんだ」
 もう既にダガーである必要性を感じていないのは俺だけだろうか。ここまで再現できるならいっそ〝刃のブーメラン〟を作って欲しかった……キラ、ダガーに拘り過ぎてるぞ。
 だが殺傷範囲を線で想定できるのは面白いな。複数の標的を掠らせて負傷させる事が都合良くできるのなら、案外面白い使い方ができそうだ。ネガティブなバフを敵にばら撒けるって事だもんな。
「銘はマイダスメッサー。一応、投げても構わないけど……広い所で投げた方が良いと思うな、流石に。フレイディアがそこにいるからね、何かあった時、誤魔化せないよ」
「……そうだな、どんな感じで飛ぶのか想像できんし、止めとくわ。この竹輪……ではなく、杭みたいなのは?」

 最後に残ったパイプみたいな穴の開いた杭……みたなダガー、なのか? ともかく、これが一番奇妙な形状である。だが……想像力をちょっとばかり働かせてみた時、実はこの杭みたいなダガーモドキが、この三本の中で最も危険なようにも思えて来るのも事実だ。このパイプみたいな構造は人体に対してかなりヤバい。
「これはこの三本の中では一番の自信作なんだ。銘をクスィフィアス。刀身を円錐状にして刺突のみに絞って特化させてある。でも最も特徴的なのは、このグリップの先からブレードの先端まで貫通した筒状の構造……これはね、コレを装填する為のものなんだ」
 新たにカウンターに置かれた、その小さな容器を俺は知っている。錬金術で精錬した薬品を入れる容器(アンプル)だ。

 日本でも目にするような医療品や薬品のアンプルとは異なり、エセルナートでアンプルと呼ばれている物は、化学の実験でお目にかかるような試験管に近い形状をしている。細い円筒形で長さは10㎝ほど。底は平らで、ガラスの蓋で密封するようにできている。材質はガラスだがかなり頑丈だ。少しくらい落としても平気だし、沸騰したお湯を淹れてもびくともしない。故に使用済みのアンプルは再利用が前提である。

 キラが用意したアンプルには澄んだ青い液体が容器の底の方に少しだけ入っていた。青は安全の青。エセルナートの薬品は信号と同じだ。あれは多分、解毒系の薬品だな。流石にデモンストレーションにガチの劇物を持ち出したりはしないわな。
「使い方は簡単。アンプルを開封して、グリップからセットするだけ。これで投擲しても遠心力が掛かるから薬品が零れる心配は無いよ。でも目標に突き刺さると……衝撃で中の薬品は先端に向かって叩き付けられる。標的の体内でね」
 要するに注射器みたいなもんだな。刀身に毒を塗布するよりも、よっぽど確実って訳だ。しかも薬品の無駄が全く無い。だが人間相手なら、こんな杭みたいな形にする必要は全く無い。それこそ注射針で十分だからだ。人間一人に対する毒の致死量なんてほんの微量で済む。アンプル一本分なんてオーバーキルもいいとこだ。
 これは人間を仮想敵にしていない。アンプル一本分の毒物を全て注入しなければならないような強大な敵……つまり、ドラゴンのような大型のモンスターを想定しているのだ。
 ははっ、キラの奴、本気で俺をモンスターハンターに仕立てる気かよ。
「もちろん、薬品をセットしないでも十分に殺傷力はあるよ。どこかの大動脈の近くに刺さってしまえば、失血死はほぼ確定じゃないかな」
 別に失血を誘引しなくても人間サイズの敵なら、一撃で屠れそうな質量と貫通力は有りそうだけどな。
「……もたもたしていれば失血死。慌てて抜いても大量出血を強いて行動不能に。穴を塞ごうとしようものなら、戦闘中に行動が止まって隙だらけ……第二撃は撃ち放題お気に召すまま……どう足掻いても絶望です本当にありがとうございました」
 こいつ……とんでもないもん作りやがった。いいのか? こんなおっかない物を市販して。一応、今のところ俺専用らしいが──

 ──俺専用!

 なんて甘美な響きだ。まさか俺にも専用装備が用意される時代が来るとはな……まぁどう言い繕っても『いとも容易く行われるえげつない行為』にしかならない暗殺用の武器みたいなのが、いかにも俺らしいのだが。しかし、俺もこの国の兵士となっている以上、この危険極まりないダガーがハーグ陸戦条約に違反していないかちょっと心配である。おっと、そんな国際条約、エセルナートには無かった。なら遠慮無くオークかコボルド相手にでも試してみるか。


 キラの解説が終わり、残りの時間はキラとの談笑タイムだと思っていた時期が俺にもありました。

 対面には堕天使のキラ提督、左には魔理沙、右に金髪碧眼の僕っ娘エルフ、背後から「当ててるのよ」状態(重装備)のアスリート系お姉さん……その字面だけ見れば、ボーナスステージみたいな状況なのだが、実際はあまり楽しいものではなかった。女三人寄れば姦しいとは良く言ったものであり、先人の言葉は実に的を得ている。
「……なぁ、これ、お前らが言ってる様に上手く行くのか?」
「君達には悪いけど、僕もちょっと疑問だね」
「同感ね。このクスィ?」
「クスィフィアスな、クスィフィアス」
 意味はラテン語でメカジキだそうだ。堕天使が何を思ってこのネーミングとなったのか、少しばかり追求してみたいところではある。やや中二病が入っているような気もするが、それでも〝真空かまい太刀〟よりはよっぽどまともな銘に思えてしまうのは、俺も乙女フィルターに近いモノが発動しているからかもしれない。
「なんでもいいわよ。このパイプダガー、そんなに効果あるとは思えないんだけど」
 魔理沙やクレイン・クレイン達は、俺とキラが最も危険視するクスィフィアスの実用性に懐疑的だった。こいつら、ここの錬金術師が精錬する劇薬の恐ろしさを知らねぇのかよ。いや、毒もおっかないが、寧ろ失血を強いる機能がどんだけ恐ろしいか解ってないのか?
 そもそも、お前ら関係無いのにケチ付けてんじゃねぇよ。このダガーを否定していいのは製作者のキラだけだ。意見を言っても許されるのは実際に使ってみた後の俺だけの筈である。これはあくまで俺とキラの問題であって、余人が口を挟んでいい事ではない。正直なところ、この三人を不快に感じ始めていた。
「──なのかな」
「それとか、投げてちゃんと当たるのか? 明後日の方に飛んで行きそうだぜ」
「この黒いのは重いから使い難そうだね」
「名前が言い難いし、憶えられないわ」
「もっと解りやすい名前に変えればいいんじゃないか?」
「特別な魔法が掛かっている訳でもないし、あんまり立派な銘を入れるのもどうかと思うよ」
「高品質なのかもしれないけど、需要なさそうなデザインだしねぇ。こんなのでも銘入りってだけで価格が跳ね上がるのよね」
「だいたい──」
 俺もキラも黙っているのをいい事に、口々にあれやこれやと言いたい放題だ。こいつらの心無いダメ出しに、キラの柔らかな表情が少しだけ陰ったような気がした。
 限界だった。それまでの高揚や幸せな気分も楽しかった夢のようなひと時の、なにもかもが一瞬にして、冷めた。そしてそれは俺にある決意を促す契機になった。

 ──こいつらに否定された全てをひっくり返してやる。キラも、俺も、間違ってなどいないと証明してみせる。

 だが今は何より、キラの名誉や尊厳を傷付けるような言動が許せなかった。俺なら何を言われようとも別に構わない。元々歴戦のぼっちだったが、今や訓練されたぼっち古参兵とも言える俺なら、くだらない悪意や侮蔑など幾らでもスルーできるし、露骨に避けられるのも嫌われるのも日常茶飯事であって最早慣れたものである。だが俺の所為でキラが傷付くのは我慢ならない。少なくとも、見て見ぬ振りや泣き寝入りをする気にはなれなかった。
 今すぐ黙らせる──そう思える程度に、それを為し得る程度に、日本にいた頃よりも、ほんの一週間前の自分よりも、俺は強くなっている。

 この不愉快な奴らを黙らせるのは容易い。結局、この世界では力が全てなのだ。それが間違った解決の方法であったとしても、覆す為にはその理不尽よりも強くなるしかない。弱者は、弱者のままでは決して強者と対等にはなれないのである。故に、強者が我を通すのは実に簡単だ。自身の力を誇示するだけでいい。それで黙らせる事は(・・・・・・)できる。
 だがそれだけだ。リスクに合わない結果と方法である。まぁ、元々ぼっちの俺なら気にする必要も無いリスクであり、結果だ。いや、この場合俺の(・・)目的は遂げられるのでノーリスクハイリターンと言える。
 そして俺の手には手頃な方法と、目的を兼ねた物が握られていた。

 ごく自然な動作で半身をずらして身体の向きを変える。俺のステルスヒッキーは如何無く発揮され、この三人だけでなく、正面にいるキラも、店にいた誰もが気にもとめていなかった。奇襲をかけるには理想的なタイミングだ。
 半歩ばかり魔理沙の方に身体を寄せて必要な空間を確保する。右手を振り抜けるだけの空間が一瞬、俺とコーネリア、クレイン・クレインの間に生まれた。
 瞬間、何の前触れも無く俺は行動を起こした。

 ──ブンッ。

 銀の刃が空を斬った。
 振り抜いた右手から放たれたマイダスメッサーは、僕っ娘エルフと女戦士(ファイター)の顔の間を抜け、ゆるやかな弧を描いて店内を飛翔した。理想的な軌道を描いた銀の刀身は実験人形(ダミーオスカー)の脇腹に回転しながら深くめり込んだ。
 我ながら初めてにしては上出来である。だが展示棚を掠めそうになった時、冷たい厭な汗が背中を伝った。全身から一気に血の気が引き、とんでもないリスクを無視していた事を思い出した。上手く行ったから良かったものの、どうやら憤慨した俺は自分で思うほど冷静ではなかったらしい。だがそのお蔭か、あれほどザワついていた胸の内もすっかり収まり落ち着いていた。
「……いい加減、黙れ」
 それだけ吐き捨てた俺は、呆けた顔を並べた二人の間をわざと強引に抜けてダガーの回収に向かった。黙らせると云う目的は達成できたようだ。

 期待した以上の鋭い切れ味を以って、革と鎖と板金の複合装甲を見事に切り裂いたマイダスメッサーは、藁の本体を深々と抉っていた。威力は上々、これで一応は当初の目的は全て達成できたと言える。
 しかし、たまたま(・・・・)刺さって良かった。ゲームのブーメランみたいに、装甲を切り裂くだけ切り裂いて、別の目標にまで貫通しないで本当に良かった。実験人形(ダミーオスカー)の周囲には当然、店の商品が陳列されているのだ。
 結果オーライではあったが、これでまずマイダスメッサーの有用性は確かめる事ができた。後は実戦で証明してみせればいい。キラが俺の為に造ってくれた武器がどれだけ優れているか、知らしめてやるだけだ。

 この日の決意は後にキラの七剣(セブンスソード)となって結実し、マイダスメッサーを始めとしたそれらキラメイドの武器で培った技能は手裏剣(セブンスター)へと昇華する。これが伝説へと至る第一歩になっていたとは、この時の俺は当然知る由も無かった。


 店内は気まずい微妙な空気に包まれていた。誰の所為でそうなったかなど言うまでもあるまい。全部俺の所為である。
 マイダスメッサーによる示威行為は姦しい三人を黙らせればそれで良かったのだが、腐った目と変な化学反応でも起こしてしまったのか、なぜか効果範囲が店内全てに拡大していた。沈黙した店内に、投擲した感想を淡々と語る俺の声が、我ながら落ち着かないほど大きく聞こえる。
 効果は覿面表れていた。コーネリアは露骨に俺から離れ、あれほど密着して来たクレイン・クレインも俺に近付こうともしない。俯いて黙り込んだ魔理沙も心なしか俺から離れている。
 やり過ぎた、と思わないでもないが……これでいい。寧ろ先ほどまでの距離感の方が異常だった。結局、俺本来の在り様に戻っただけに過ぎない。
 そんなネガティブな雰囲気ではあったが、それも長くは続かなかった。場違いなほど能天気な声を上げて、気まずい沈黙を破壊する者が現れたからだ。
「ハチー! できたわよー!!」

 涼宮ハルヒである。

 こいつ、空気を読むどころか、そもそも読もうとすらしていない節がある。だが今はそれすら美点に思えた。

 それまで黙々と修繕作業に勤しんでいた涼宮は、誇らしげに俺のGパンを頭上に掲げてみせた。
「……おう、悪いな、やって貰って」
「どう? ちゃんと良い感じに直ってるでしょ」
 確かにそのドヤ顔も納得できるほどのデキである。傷口が大きかったので繕った後ははっきりと判るものの、それが悪目立ちするような事は無かった。涼宮の自信とその言葉を裏付ける鮮やかな裁縫の腕前である。普段の言動からは似つかわしくないと言うか、意外な特技だ。
「すげぇな。正直、お前の事見縊ってたわ」
「本当にお上手ですね、ハルヒさん。私もびっくりしました」
 ずっと側で見物していたマリエルに賞賛され、気を良くした涼宮は更に踏ん反り返った。
「ふふん! 当然よ、あたしは凄いんだから!」
「ああ、凄い凄い。あー、その……ありがとな。また破れたら頼むわ」
「仕方ないわね、でもいいわ。やっとハチもあたしの偉大さが理解できたようだし、リーダーとしてメンバーの面倒を見てあげるのも吝かではないわ」
 裁縫ひとつで偉大ときたか、この女。尊大過ぎて寧ろ滑稽だと、ちゃんと指摘してやった方が優しさだろうか。
 とは言え、場の雰囲気を一変させた事は確かであり、そう云った意味では偉大ではないにしても、間違いなく有能だ。それを意図してやったとは到底思えないが、少なくとも、コーネリア、クレイン・クレイン、魔理沙の三人には救いだったのではないか。
 涼宮の周りに集まり、裁縫の話から新たな会話の輪を構築した彼女達の表情には安堵の色が窺えた。

 冗談抜きに涼宮がいなければ、パーティーはダンジョンに入る前に崩壊していたかもしれない。
 いや、きっと俺はこの場でソロに戻っていたと思う。

 正直、俺も救われた気がしていた。

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仲マと匠とLv.5八幡④

 カウンターに並べられたキラメイドの名状し難きダガーらしき物を前にして、涼宮は俺の側で目を輝かせていた。

「これ、アンタが使う忍者用の武器? 太秦で見たのと全然違うわ。本物は時代劇とか漫画に出て来るのとは違うって事かしら。ねぇ、手裏剣は無いの?」
 残念、手裏剣は伝説の武器(レジェンダリー ウェポン)だ。
「君も八幡と同じことを聞くんだね。エセルナートでは手裏剣は伝説の武器なんだよ」
「はぁ!? なんでお土産に売ってるような物が伝説の武器になるのよ。意味解んないわ」
 ぶっちゃけ、俺もそれについては同感だ。意味が解らん。
「さぁ、なんでだろうね。理由は実物を見てみれば解るのかもしれないけど、そうそうお目に掛かれるような物でもないしね」
 キラはいつもの柔らかな笑顔だ。あの時一瞬見えた陰りはもう感じない。良かった。これで元通り(・・・)だ。
「これ、アンタが作ったの?」
「うん、そうだよ。八幡に使って貰いたくてね」
 俺の為に──、俺の為に──、俺の為に……何度反芻しても良い言葉だ。これだけで今日と云う日に価値はあった。今日はきっと良い日になる。例えこの後、酷い目にあったとしても、己の不運を決して嘆いたりしないだろう。そして柔らかなベッドの中で良い一日だったと、もう一度反芻して眠りにつくのである。よし、今夜はロイヤルスイート。決まりだな。今日と云う一日の始まりと終わりが既に最高を約束されているとか、なんて素晴らしいんだ。
「へぇ~、あんたも見掛けによらず凄いのね」
 なにせ、堕天使で提督で名工(マイスター)でコス職人で……こいつ肩書多くね? そして、何より未来人だからな。ぶっちゃけ、その事実を知った時の涼宮が見ものである。
 まさか涼宮も、待望の未来人が目の前にいるとは思うまい。問題はどのタイミングで開示するかだ。だが事実はもう少し伏せて置いた方が、面白……いや、愉快? それとも愉悦? まぁアレだな、きっと涼宮も未来人を探し回る楽しみを、あっさり俺に奪われるのは本意ではないだろうからな。宇宙人はあっさり開示してしまったから、その反省を踏まえて未来人については少しくらい焦らした方が面白いだろう。クックック……さぁ涼宮、未来人を求めて城塞都市を這いずり回るがいい。スタート地点はここ。ゴールもボルタック商店。一周回ってここに帰って来るがいい。フハハハハ! と、軽く悪役のノリで孤独な愉悦に浸っている訳は、単に涼宮とキラが談笑してるからであって、断じて放置されて拗ねている訳ではない。
 ……おい、涼宮、そろそろ交代してくれ。多分まだ俺とキラのコミュイベント終わってないから!


「──えっと、それで八幡、これ……使ってくれる……かな?」
 後はダガーの具体的な価格を提示してくれさえすれば、今すぐ支払って持ち帰れるのか、金を貯めて出直して来るのか判断できるのだが、なぜかキラは肝心な話をなかなか切り出さずに言い淀んだ。俺に購入しないと云う選択肢が存在していないのに、こいつは何を戸惑っているんだろうな。
「無論だ。いや寧ろ、俺から頼みたい。是非、俺に使わせてくれ」
「ありがとう……そう言ってくれるだけで、嬉しいな……でも……その……フレイディアがね、君にプレゼントしちゃダメって言うんだ……」
「当然です。貴方の作である以上、価値に見合った正当な代金を支払ってもらうわ。それがプロの仕事と言うものよ」
 同感である。初めから買う気だったし、寧ろ、こう云った物をプレゼントされても困る。キラの仕事や作品を評価している以上、敬意を表す意味で俺はちゃんと見合った対価を支払いたい。全く、堕天使のくせにつまらない事を気にする奴である。お前の仕事に俺が金を出し惜しむとでも? 俺が金額を聞いたくらいで怖気付くとでも? 寧ろお前になら管理人さんと違って、言われなくてもスマイルにチップを払うまであるってのに。
「キラ、買わせてくれ。お前が俺の為に(・・・・)鍛造し(つくっ)てくれた物なら、尚更きちんとお前に支払いたい」
 俺の為に! 大事な事なのでもう何度か強調したい。最悪、今後二度と言われない言葉かもしれないからな。
「……ありがとう。あ、でもちょっと高いよ?」
「幾らだ」
「一本100ゴール「全部買う」…ド──い、いいの?」
 即答だった。普通に売ってるダガーが5ゴールドだから二十倍か。だが、それだけの価値があるって事だよな。それにキラのハンドメイドがたった(・・・)100ゴールドなら、俺に躊躇する理由はなかった。
 リュックの奥から虎の子の金貨(デュカード)を全て取り出し、それをカウンターのトレイに並べた。金貨が六枚、きっちり300ゴールドだ。
「三つで300ゴールド。これでいいか?」
「あ、うん」
 高いとは思えなかった。だが世論はそうでもないようである。
「おい、ちょっとは考えるなり、交渉するなりしないのか!?」
「ちょ──ハチ、待ちなさいよ!」
「……うわ……もうそんなに稼いでたんだ。やっぱり、すごいね……ハチ君」
「とても同じ日に冒険者になったとは思えません」
「豪気なのは好感持てるけど、もう少し考えなよ」
 いつの間にか周りに集結していた皆が口々に捲し立てた。おい、パーティーで行動するってのは、買い物ひとつ静かにできんのか?
「……あー、鞘は別売りか?」
「もちろんセットだよ。今使ってるのと合わせても良いし、別のを用意しても良いよ。どんなのがいい?」
 どうしたもんだろうな。これで八本に増えた訳だが……やはり腰の両脇に四本ずつ並べた方が取り出しやすいか。そうなると小太刀が邪魔だな……いっそ背中に回しとくのもアリだが……
 俺の背後を囲んで好き勝手言っている五人を無視して、武器の携帯方法について思考を巡らせる。
 装備をあれこれ考えるのは嫌いではない。RPGなどやっていると編成画面で、あれこれと時間を忘れて試行錯誤したものだ。それに今は装備一つで命が関わって来る。どうしても真剣にならざるを得なかった。


 俺の要望に合わせて、キラはその場で必要な物を瞬く間に仕立ててくれた。
 腰に吊るす物をこれ以上増やすのはバランスが悪いので、太腿にベルトを巻いて張り付ける事にした。左右の両足に持っていたダガー四本を移し、腰の左右に新たな三本と残りのダガーを二本ずつ分けて、小太刀はリュックと背中で挟む様にして背負った。
 仕事のスピードもさる事ながら、文句の付けようの無い完璧な仕上がりである。ダガーの抜刀や収納も以前とさほど変わらない。小太刀の抜刀は問題無いが、収納については多少慣れが必要だった。三本買い足しただけだが、左手のワイヤーアンカーもあってか、まるで全て一新したような感覚だ。ヤバい、胸が高鳴る。一刻も早く試してみたかった。
「どうかな?」
「……おう、至って良好。多少動いた程度なら負担にも邪魔にもならねぇわ。良い仕事だぜ、(マイスター)
「やめてよね、そんなんじゃないってば……でも、ありがとう。そう言ってくれると嬉しいな」
 ばっか。俺の方が嬉しくて堪らないっての。俺は何度も新しいダガーを抜刀と収納を繰り返して感覚を確かめる。キラが用意してくれた新たなダガーはずっと前から使っているみたいに馴染んだ。当然か、キラが俺の為に(・・・・)鍛造し(つくっ)た、俺専用の(・・・・)ダガーだもんな。俺専用! 大事な事なので二度言った。くっ……頬が緩む。どうしてもニヤけてしまう。
「……ふん、だらしない顔……ばっかみたい」
 Gパンの修繕が終わった時は確かに機嫌が良かった筈だが、俺がダガーの購入を即決した辺りから、涼宮はずっと不機嫌だった。機嫌が良くなったり悪くなったり、コロコロ変わって全くもって忙しい奴である。
「……あー、涼宮」
「なによ」
「言いたい事があるならはっきり言え」
「……別に。何もないわよ……ふんだ」
 しかめっ面の涼宮は腕組みをしたまま、わざとらしく顔を背けた。本当に怒っていたり機嫌が悪いのなら、先ほどのコーネリアや魔理沙達のように俺から離れようとするものだ。小町なんか食事のタイミングまでずらして俺を露骨に避けようとするしな。流石、小町。俺が一番ダメージを受けるやり方を心得ている。涼宮に話を戻せば、機嫌が悪い癖に俺の側から離れる訳でもなく、ただ不機嫌オーラを全開にして、たまに俺を睨むだけである。要するにムカついてはいるが、さほどではない。寧ろ、俺に察してくれ、何とかしろと暗に求めていると見た方が自然である。実に面倒臭い構ってちゃんだ。
「いや、明らかに機嫌悪いだろ。理由を言わなきゃその原因は解決しねぇぜ?」
「別にアンタには関係無いわ」
 はい、ダウトー。お前は俺の知ってる誰よりも顔と態度に感情が出るから解りやすいんだよ。俺に原因がある、腹が立っている、拗ねている、でも素直に言えない──って、事は自分に理が無いと理解している訳だな。ふむ……機嫌が悪くなったタイミング的に、アレが原因だな。
「なら、当ててやろうか──鎖帷子、だろ?」
「…………そうよ。お金持ってるんなら、ちょっとくらいこっちに回してくれても良いじゃない。装備はあたしだけの問題じゃないわ。パーティー全体の──」
「涼宮」
「……なによ」
「お前は買う必要ねぇんだよ、そんな物(・・・・)
「なんでよ! ダンジョンは危ないとこで死ぬかもしれないんでしょ!? だったら──」
「傷一つ付かねぇよ────俺が守るから」
 取り敢えず、お前が俺と同じレベルになるまではな。その頃には自力でなんでも買えるようになってるさ。つーか、鎖帷子くらいすぐに拾えるだろ。
「何言って──る……の…………ょ……」
 大きな目をさらに(みひら)いた涼宮は、暫く必死で何か言おうとしていたようだが、口を開けたり閉じたりするだけで、結局そのまま俯いて黙り込んでしまった。
 お前が強いって事は知っている。すぐに俺なんかよりもっと強くなれるさ。だから納得できなくても、今だけ俺に頼ってろ。
 尤も、それで涼宮が納得したのか解らない。だが態々確かめる必要は無いだろう。沈黙は肯定である。

 取り敢えず、涼宮に守ると言った手前、俺もやれる事はやっとかないとな。


「八幡、ちょっと待って」
 店を出ようとするとキラにこっそり呼び止められた。
「どうした?」
「来週の話なんだけどね、錬金術に使う素材の採集に行こうと思ってるんだ。良かったら八幡も来ない? きっと錬金術の勉強になると思うし……それに錬金術も僕が教えてあげられるかもしれないし……どうかな?」
「行く」
 お出かけイベントに派生キタ! どうやら選択肢は概ね正答だったようである。これは一気に親密度を上昇させるチャンスだ。やべぇぜ、小町……お兄ちゃん、遂に友達ができちゃうかも。まさかこんな異世界でカースト最底辺から抜け出す事になろうとは……ふっ、すまんな雪ノ下。お前に矯正されるまでもなく、自力でぼっち卒業しちゃうわ、これ。やばいわー、超やばい。これで俺もリア充か──
「良かった……あ、八幡の他に護衛の冒険者があと二人と、正規軍からも一人護衛の人が加わるから、よろしくね」
 ……なん、だと……知らない人とパーティー組むの? キラ以外の人と? なにその無理ゲー。
「じゃあ、五日後の夜明け前に、店の前で集合だよ。二泊三日くらいになるかな。あ、それと……」
 声を潜めたキラは真剣な顔で周囲を見渡し、俺にそっと耳打ちした。

「榛名の件は任せて。さっき彼女(・・)のデータは収集したから」

 キラ……お前、最高だ。


 ボルタック商店を出ると、街は喧騒に包まれ普段の賑わいを見せていた。何台もの馬車が行き交い、様々な人種が入り混じった人通りは絶え間なく続いている。
 遠くの屋台からは香ばしく美味そうな匂いがほんのり漂って来る。何を焼いているのか気になるところだ。一度、屋台巡りなんかもやってみるか。
 かなり長居していたつもりだが、入店した時間が早かったからか、まだ昼飯には早い過ぎる時間である。今更朝食を取る気にもなれないが、10時のおやつがてら酒場でコーヒーを飲むのも悪くない……等と解散後の予定を一人熟考していると、不意にジャケットの袖を引かれた。おい止めろ。昨日涼宮に散々寿命すり減らされたのに、更に追撃する気かよ。
「……なんだよ」
「あ、あのな……八幡……さっきは、その……悪かったな」
 俯いたまま、途切れ途切れに口にした言葉は謝罪のようだった。魔理沙はにしてはやけに歯切れが悪い。そう言えば、あれからずっと大人しかったな
 さっきの事、まだ気にしてたのか……まぁ俺としても最悪、縁切りは覚悟していた訳だが。
「……あー、もう気にしてねぇから。お前も気にしなくていい」
「本当か?」
 覗き込むなよ。その上目遣いは反則だろ。あと、いい加減ジャケットが心配だから袖を引っ張るのは止めようか。
「ああ、本当だ。つーか、俺に謝るよりあいつに──キラに謝ってくれ。多分、俺よりもあいつの方が傷付いてたと思うし。俺は……ぼっちだから慣れてるけど、あいつは違うから」
「……うん。後で謝っとく」
 ……やけに素直だな。つーか、俺としてはあれしきの事で、落ち込まれても困るんだが……フォローしといた方が良さそうだな。
「あのさ、さっきは……俺もやり過ぎたわ。その……悪かった、すまん。ちょっと大人げなかったな」
「……八幡」
「おう」
「お前、八幡だよな?」
 は? 何言ってんのこいつ、見りゃ解んだろ。俺以外のこんな腐った目をした奴が……いるらしいな。だがまぁ、そうそう間違えられないだろ。て、朝からずっと一緒だったんですが? え、何? 俺、存在を疑われるほどステルスしてんの?
 俺の当惑を余所に、魔理沙はじっと俺を見つめていた。その眼差しは真剣そのもので、寧ろ俺の方が気まずくなって視線を逸らさずにはいられなくなった。
「……当たり前だろ。俺を何だと思ってんだよ」
「さっきのお前、まるで別人に見えた……八幡、お前がお前じゃないみたいで……ほんとに怖かったんだ」
 魔理沙が何を言っているのか解らなかった。あの時俺は多少凄みはしたが、黙れと一言しか言ってないし、そもそもマイダスメッサーを投げただけである。まぁ確かに? かなり腹が立っていたから腐った目が酷い有り様だったかもしれない。わざとコーネリアとクレイン・クレインの顔の間を通した飛ばしたしな。それでも、そこまで怯えられるような────不意に、時々耳にするあの言葉を思い出した。

 ──戦争狂(ウォーモンガー)

 あの日の朝、俺なんかよりよっぽど強そうなウニ男は俺の目を一目見るなり、怯えていた。
 キラも初見で俺を怖そうな人だと思ったと言っていた。
 何か、関連があるのか?

 いや……止めよう。俺は強く頭を振った。考える必要は無い。考えても結論は出ないし気が滅入るだけだ。

「……その、ごめん。怖がらせて……あー、ほら、俺って目が腐ってるし、それでじゃね? 機嫌が悪い時とか、すれ違っただけでドン引きされてたし」
「そんなんじゃねーよ……良く解らないけど」
「今も……俺が怖いか?」
 躊躇なく頭を振って魔理沙は否定した。だが何かが俺の心の奥底にちくりと棘を刺したように、漠然とした不安が暫く俺の心に付きまとった。

「それとな、八幡。さっき、ハルヒに言ってたろ、俺が守るって」
「……あ、ああ」
 あの場は勢いで言ったが、改めて、それも第三者に聞かされると恥ずかしいなんてもんじゃないな。
「それ、あいつだけか? あいつだけしか──」
「んな訳ねぇだろ、お前も守るよ。涼宮も、お前も、あいつらも、みんな守る。お前を殺させないし、誰も死なせない」
 そっか。と、だけ呟いた魔理沙は、漸くはにかんだように笑った。


 酒場に戻る魔理沙や、教会に用があると言うマリエルと別れたが、結局集団行動のまま道場に引き返した。
 クレイン・クレインとコーネリアは涼宮の慣熟訓練に付き合うらしい。その後、昼食を食べに酒場に戻るそうだ。「アンタも来なさい」と、命令形で誘われたが流石にそれは丁重に断った。訓練の続きがいつまでかかるか不明だし、せっかくのランチタイムを俺の所為で気まずくする訳にはいかないしな。
 尚も食い下がる涼宮だったが、折衷案として夜、酒場で合流する事を約束すると、一応は納得して引き下がってくれた。

 キラのダガーで300ゴールドも使ってしまったので、そろそろ真面目にダンジョンで稼がなければならない。午後は俺も涼宮を見習って装備の慣熟訓練と行きたいところだった。折角、師匠とキラが俺の為に用意してくれた装備だ。一刻も早く試してみたかった。




 地下一階のエントランスを抜けた俺は、すぐさまワイヤーアンカーを駆使してダンジョンの壁に張り付いた。そのまま天井部までクライミングしてみる。
 天井は床や壁と同じような切り出した滑らかな断面の石材のようだった。遠目には平らだがよく見れば所々ぼこぼことして真っ平らと言う訳ではない。それは壁面も同じで、垂直な壁であっても随所に手掛かりや足掛かりとなる窪みやへこみが点在している。
 天井付近の壁には通気口のような穴が幾つも並んでいた。大きさはどれもまちまちで、これと云った統一性は無い。穴の中に何が潜んでいるのか知れたものではないので、あまり近付かない方が無難だろうな。
 しかし、床から天井まで結構な高さがある。10メートルはあるだろうか。だがそれほど恐怖は感じない。いや寧ろ楽しかった。アンカーとワイヤーを駆使して壁面を走る様に移動し、天井からワイヤーを吊るし振り子のようにして向かいの壁面まで跳躍する。ダンジョンの中なのに、俺は確かに風を感じていた。ここにも自由な空気があった。
 地下一階に飛行するモンスターは存在しない。つまりこの空間は、今まさに俺の独壇場だった。何者にも邪魔されない。ダンジョンにあって、ここは俺だけの安全地帯だ。

 北へ向かう回廊の壁面を飛んだり跳ねたり登ったりと、傍目には遊んでいるとしか思えないであろう機動を繰り返していると、冒険者の一団が近付いて来るのが見えた。

 眼下を《愚者の統制(IFF)》で表示された文字列が通り過ぎて行く。
 中立の戦士(ファイター)が二人、悪の盗賊(シーフ)、善の僧侶(プリースト)、中立の魔術師(メイジ)、中立の|吟遊詩人(バード)戒律(アライメント)が善悪混合のパーティーだった。パーティーの殆どが中立(Neutral)なので盗賊(シーフ)僧侶(プリースト)が折り合いを付ければ済むだけなので、案外善と悪が混じっていても上手く行くのかもしれない。
 彼等を見ているとちょっとした悪戯心が疼いた。少しの間、彼等をこっそり追跡してみよう。壁面移動と隠密の丁度良い鍛錬になりそうだ。まさか彼等も壁面を伝って尾行する者がいるとは思うまい。
 あまり天井に近い所では鍛錬になりそうもないので、壁の真ん中ほど、床から五、六メートルの辺りをボルダリングで追跡してみる事にした。流石に壁面を走ったり跳躍したりすればあっさり気付かれてしまうだろう。それでは意味がない。あくまでバレないようにである。

 彼等の行軍速度は結構速かった。それだけで〝慣れた〟冒険者と判る。無駄話も無い。黙々と回廊を進んでいる。流石にボルダリングだと付いて行だけで一苦労だ。吸着アンカーが無かったらとてもではないが、こんなスピードで壁を這い回る事はできないだろう。

 もう少しで大きなホールに出る扉に辿り着くと云うところで、不意に魔術師(メイジ)|が足を止めた。何かトラブルか? 俺もその場に留まって様子を窺う。
「コジロー、待って」
 澄んだ少女の声音はハッキリと俺にも届いた。取り敢えず魔術師(メイジ)|の性別は女、小町よりも若干幼いようにも聞こえたが、俺よりもずっと年長のようにも感じた。不思議な声音だった。
「ん? ああ、了解した」
「どうかしましたか、キョウコ」
「なんだよ、こんな所に立ち止まって。ションベ──痛ッ。ピック! なにしやがる!」
「ノブ、下品! あんた、レディに向かって何言ってんのよ」
「生理現象に下品もねぇだろ、気取ってんじゃねぇよ、ピック。レディでも出すもんは出すだろうが。これでも気を遣って言ってんだぜ」
「それがデリカシーないってゆーの! だからノブはモテないんだよ、バーカバーカ!」
「てめッ! ピック! 待ちやがれ!」
 コジローに、キョウコ、ノブ……日本人なのか?
「二人とも、うるさいわ。少し黙ってて」
「ノブ、いい加減にしろよ。お前もだマベル、一々ノブを煽るなよ──で、キョウコ、どうした?」
「コジロー、誰かいるわ」
「え?」
 やべぇ……気付かれてた。あー、でも誤魔化せるか。訓練してるって言えば。
「あぁん? 誰もいねぇぜ?」
「周囲に敵の気配はありませんぞ、お嬢」
「キョウコ、どこにいるんですか?」
「あそこ」
「壁……の上?」
 はい、ごめんなさい。あたりです。つーか、なんでバレたし……
「壁の上に誰かいるのですか?」
「いや、何言ってんのお前。流石に無理だろ?」
「……そこの貴方、降りてきなさい。撃ち落とすわよ(・・・・・・・)?」
 ちょ……何なの、あの人。いきなり脅して来やがったんですが……魔術師(メイジ)|さん、それ犯罪です!
 とは言え、ほんとに撃ち落とされても困るしな。ここは素直に従っとくか。素直に謝れば許してくれるだろう。修行の一環と言えば納得してくれるだろう。取り敢えず《愚者の統制(IFF)》があるから襲われたりはしないだろうし。
 観念した俺はワイヤーを伸ばして床に音も無く降り立った。着地するなりアンカーとワイヤーを回収する。
「……あ、あの、申し訳ありません……」
「ほんとにいたー!?」
「うおォッ!? マジかよ! 忍者じゃねぇか」
 騒々しかった二人はやはり騒々しかった。ノブと呼ばれていた男は盗賊(シーフ)で、ピック? マベル? と思しきフェアリーの吟遊詩人(バード)がノブの周囲を飛び回っている。
「あんな所に潜んでいるとは……モンスターの忍者とは流石に違いますな」
「全くです。キョウコ以外に誰も気付けませんでした。もし敵だったとしたら……ゾッとしますね」
「同意」
 戦士の一人は直立した犬のような亜人種、ラウルフだった。全身甲冑(フル プレート)に身を包み、兜からは白毛の精悍な狼の顔が覗いていた。名前はまだ不明。彼と話していたのは純白の法衣を纏った身形の良い僧侶(プリースト)だ。東洋人らしいと言うか……日本人だろ、この人。
 そして、こっちのもう一人の戦士(ファイター)も間違いなく日本人だ。俺より三、四歳は上だろうな。スラリとした長身で甲冑(プレートメイル)に白いサーコート、幅広の盾と剣を背負っている。
「えっと……初めまして、だね。俺はコジロウ。君は?」
「……あ、ど、どうも……比企谷八幡、です」
「ヒキガヤ……ハチマン……君、日本人なのか?」
「あ……はい、一応……」
「コジロー」
 俺に気付いた魔術師(メイジ)|だ。背が低いので中学生くらいに見えたが、整った顔立ちの凛とした表情は大人びていて、実はあれで俺よりも年上かもしれなかった。
 だが着ている服はゴシックロリータだ。魔理沙がいつも着ている黒白のエプロンドレスが普通に感じるほど、派手なフリルやレースで華やかに飾られている。魔理沙は黒っぽいが、この人は全体的に赤い。きっと魔理沙より三倍速い。そしてなぜか手には大きな熊のぬいぐるみを抱いていた。

「コジロー、この子、とても強いわ。仲魔にしましょう」

 ──は?

 彼等との出会いが、波乱の一日の本当の始まりだった。

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