「象徴」天皇を作り上げた
今上天皇の意思とは?
2016年10月16日 09時00分 Wedge
足立倫行 (ノンフィクションライター)
8月8日午後3時、天皇陛下は「象徴としての務め」に関して約11分にわたる異例のビデオメッセージを公表された。
その波紋は時と共に、社会の各方面に広がっている。
82歳の陛下は、「身体の衰えを考慮する時、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなる」と目下の懸念について述べた後、公務の縮少や皇太子による摂政などの代案に対しては「地位と活動は一体」が持論の陛下らしくこれを否定し、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことを念じる」と話された。
■国民への語りかけ
つまり、自らが元気なうちに譲位したい、「生前退位」はできないものだろうか、という国民への語りかけである。
陛下が「退位」という言葉を使わなかったのは、使えば「国政に関する機能を有しない」と規定した日本国憲法に抵触する恐れがあるせいだ。
だがメッセージには、「それでも言わねば」という切実性が込められていた。
なぜなら、現行の皇室典範では、皇位の継承が天皇崩御の際と決められているが、「生前退位」に関しては何ら規定がないからだ(天皇の退位規定は戦前の明治憲法下の旧皇室典範にもなかった)。
もう一つは、陛下自身の老いの自覚である。
実在の証明が難しい上古の天皇を除くと、80歳以上で在位していたのは、先代の昭和天皇と今上天皇の2人のみ。
陛下はまさに、超高齢化社会を体現する天皇なのだ。
そして、陛下は2011年に心臓の冠動脈に狭窄が見つかり(翌年、心臓バイパス手術)、13年には自らの葬送について、従来の土葬(=古墳)ではなく簡素な火葬形式にしたいと語るなど、健康の不安から自らの寿命について明らかに意識しておられた。
皇位継承順位第1位の皇太子殿下が現在56歳になり、陛下が即位された55歳という年齢をすでに越している、という事情もあるのかもしれない(あるいは、長い間体調不良だった雅子妃が、最近いくつかの公務に皇太子殿下ともども出席されるようになったというタイミングも?)
今上天皇は、日本国憲法により、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされた純粋に初代の象徴天皇である。
1946年に「人間宣言」した昭和天皇も戦後は象徴天皇になったが、戦前・戦中は「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」の絶対権力者であり、形の上であれ軍隊を指揮する統帥権まで担っていた。
象徴天皇になった後も、「君主」の面影はどこかに残っていた。
最初から「象徴」だった今上天皇 ところが今上天皇は、最初から「象徴」だった。
「象徴」の中身を具体化するため、お言葉通り「全身全霊」で取り組まれた。
美智子皇后と共にもっとも努力を傾注されたのが、戦没者の慰霊と被災者、障害者への慰問の旅だ。
2011年の東日本大震災の後、すぐに避難所を訪れ、両膝をついて被災者に声かけをされていた天皇・皇后両陛下の姿は、多くの国民の目に焼き付いている。
今上天皇が即位以降28年間に訪れたのは、全国47都道府県の535市町村に及ぶ由。
文芸評論家の片山杜秀氏は、陛下が「天皇の象徴的行為」として大切にしてきたこのような旅を、古代の天皇につながる「国見(くにみ)」と捉える(8月24日付、朝日新聞)。
〈天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ〉舒明天皇
山上から国を見て民の飯を炊く煙に安堵する、それが『万葉集』の中の天皇だった。
「国見の思想と戦後民主主義が切り結ぶと、象徴天皇は旅人になる」と片山氏は言う。
旅をし、国民と共感共苦する天皇。それができなくなれば退く天皇……。
やはり、摂政などの代行ではダメなのだ。
推察するに、象徴天皇の具体像を作り上げた陛下は、次代の皇位継承者にすみやかに「象徴」が移行することを見届けたい、それがご自身の最後の使命、とお考えなのだろう(むろん、皇太子殿下ご夫妻が両陛下のように「旅人」を志向されるとは限らない。
妃殿下の健康のことがあるので、「労わり合う天皇・皇后」像の可能性もある。
それはそれで、きわめて今日的な「象徴」の姿と言える)。
熟慮の結果
ところで、江戸時代まで天皇の「生前退位」は頻繁にあったのに、なぜ新(旧)皇室典範には退位規定がないのか。
1984年の国会で宮内庁次長が挙げた理由は次の3点だ。
@退位した天皇が天皇を超える上皇・法皇になって、二重権威の弊害が生じ得る。
A天皇の自由意志に基づかない退位の強制があり得る。
B天皇が恣意的に退位すると、憲法に定める象徴天皇の理念と矛盾してしまう。
しかし、どうなのだろう。@の念頭にあるのは平安・鎌倉時代の院政だが、現代で起こり得るだろうか。
むしろ、皇學館大学講師の村上政俊氏が言うように、「天皇を上皇陛下が輔導し、皇太弟殿下が支える」「明るい院政」(『新潮45』10月号)が生まれるかもしれない。
ABにしても、今の皇室典範の摂政を置く時の規定、「精神若(も)しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからできないとき」を、そのまま「摂政設置か退位」の規定として適用できそうだと思うのである(あるいは、文面の条件の中に“高齢”も加えるか)。
いずれにせよ、職業選択の自由がなく、婚姻の自由も表現の自由も大幅に制約されている、「日本国民の総意に基づく」象徴天皇が、加齢に伴う体力の限界について塾考された結果、「退位したい」と訴えておられるのだ。
報道によれば政府は、皇室典範には手をつけず、今の陛下に限って「生前退位」を認める特例法を制定する方向で検討中だという。
けれど、それではあまりにもおざなりではなかろうか。
皇族が減少一途の昨今、宿題だった女性宮家の再検討なども含め、「生前退位」についてはやはり本格的に協議して皇室典範を改正すべきだと思う。