なぜ北里柴三郎氏は血清療法と抗毒素(抗体)の歴史的発見をすぐに単独で発表しなかったのでしょうか?
ノーベル賞に関するニュースを見ていたら、第1回目から北里柴三郎という日本人が医学生理学賞の最有力候補として最終選考まで残っていたことを知り、感銘を受けたので色々関連サイトや書籍を調べてみました。
北里氏は世界で初めて破傷風菌の純正培養に成功し、さらには医学に革命をもたらした免疫血清療法の発見・確立と抗体の発見という歴史的偉業を成し遂げて世界中から絶賛され、第1回ノーベル賞の医学生理学賞の最有力候補にノミネートされるも残念ながら受賞できなかった。しかし当時も今と同じ基準だったら確実に受賞していたはずだと言われている。
さらにペスト菌を発見するなど色々な功績もあげ、ドイツ政府からはドイツ人以外で初めて大博士の称号を受け、欧米からは熱烈で破格な待遇で研究所長に迎えようと引っ張りだこになり、しかしそれでも日本の科学と医学の発展のためにとそれらを断って帰国して、国内では逆に確執や嫉妬から冷遇されたにも関わらず、生涯尽力されたという事を知り感動しました。
しかし実際に第1回ノーベル賞を受賞したのは北里氏との共同研究でジフテリアへの血清療法の応用を研究していたドイツ人のベーリング氏のみで、なぜか先に血清療法を発見して研究を主導していた北里氏は受賞できず、しかも受賞理由になった血清療法の論文はほぼ北里氏の考案した研究手法ををそのまま利用したもので実験結果も北里氏のもので埋まっており、実質ほとんど北里氏の功績だったにも関わらずだそうで。
ベーリング氏も実験は北里氏のおかげで彼がいなければ受賞できなかったと言っていたらしく、二人の師であるコッホ氏ものちに日本で、血清療法は北里によって創始されベーリングには北里の実験方法に従うように命じた、と述べたそうです。
北里氏が受賞できなかった理由として有力なものは、当時ジフテリアがヨーロッパで大流行していてとても深刻だったのでジフテリア血清療法の効果がとても評価されて破傷風による基礎研究よりも注目された、ノーベル賞創設直後だったので選考で今のような共同授賞の考え方がまだなかった、アジアでしかも開国間もない日本人への人種差別があった、ベーリング氏が後から単独名でジフテリアの論文を発表していた、選考に当たったノーベル賞委員会やカロリンスカ研究所が血清療法のアイディアはベーリング氏単独で考案したものであり北里氏は実験結果を提供しただけと見なした、北里氏は国内で東大と確執があったためかなり足を引っ張られてしまった、一方のベーリング氏はドイツから国をあげて応援されていた、などがあるそうです。
特に血清療法の発見はどちらが先だったかについては、日本では北里氏であるというのが常識ですが、イギリスやドイツなどではまだベーリング氏を血清療法の発見者としている医学事典や人物事典もあるそうです。
そこで一つ疑問に思ったのですが、北里氏はなぜ血清療法を発見した時すぐに論文で発表しなかったのでしょうか?
もしも破傷風の抗毒素と血清療法を発見した時にすぐ世間に発表していれば北里氏が血清療法の第一発見者で考案者であることは疑いようが無く、第1回ノーベル賞も受賞していたかもしれないのに、なぜベーリング氏のジフテリアへの応用研究を手伝ってから初めて血清療法に関しての論文を共同で発表したのでしょうか?
その理由は調べても分からなかったので、もし知っている方がいたら教えて欲しいです。