今朝、朝の情報番組を見ていたら、
「作詞家の及川眠子、トルコ人夫に三億円を貢いで離婚」
というニュースが流れた。
及川眠子といえば、エヴァンゲリオンの主題歌「残酷な天使のテーゼ」や「魂のルフラン」で有名な作詞家である。
何でも、トルコに一人旅に行ったときに出会った現地の男性と、四十一歳のときに結婚。男性は二十四歳だったそうだ。
付き合い当初から、来日費用として六十万円を要求され、その後も事あるごとにお金を出し、その総額が三億円にものぼったという話だった。
事ここに及んでも、「詐欺師的な男性には、どこか魅力がある」「恋愛というよりは、保護者的な気持ちに近いから、どうしても突き放せない」と語る言葉に、コメンテーターも苦笑していた。
これを見ていた視聴者の九割くらいが、同じように苦笑しているだろう。
知人からこんな話を聞かされたら、「六十万円要求された時点で、目を覚ませよ」と思う。「こんな見え透いた話に引っかかるなんて馬鹿だな」と鼻で笑うだけだ。
でもこの話を聞いたうえで、「残酷な天使のテーゼ」や「魂のルフラン」を聞いても、評価は一ミリも変わらない。素晴らしい歌詞であり、自分のような非才な人間が逆立ちをしたってこんな歌詞は書けない。
「才能と人格の乖離」
こういう例を聞くたびに、才能とは何なのだろうと考える。
愚かであること、卑劣であること、残酷であること、多くの人間が鼻で笑ったり、眉をひそめたり、唾を吐きかけるような性質を持つ人間に、しばしばすさまじい才能が宿っている。
というより、才能が巨大であればあるほど、人格は常人からかけ離れている例のほうが多い。(もちろん例外もある。あとは才能がある人間が人格が破たんしている例は多いが、人格が破たんしているからといって才能があるとは限らない。)
自分が考えたのは、余りに巨大な才能というのは人格と才能の主従が転倒してしまっているのではないか、ということだ。
普通の人間には、人格があり、それに基づいて行動している。
しかし、才能がある人間というのは、「その才能を世に送り出すこと」を目的として生きることを、才能によって強制された存在なのではないか。
人格が才能の奴隷なのである。
才能に鞭をふるわれて疾走し続ける馬のようなもので、その激しい酷使に耐えきれず、自死したり、狂死したり、早逝する人が多いのではないだろうか。
その狂乱状態の中で、人を傷つけたり、ろくでもないことをやらかしたりする。
サリンジャーは高い壁を張り巡らせた家の中に引きこもり、妊娠した娘に心無い態度をとった。三島由紀夫は自衛隊の駐屯地に立てこもって、割腹自殺した。ドストエフスキーは借金まみれだったし、夏目漱石は現代で言うところのDV夫だった。エミリ・ブロンテは人間嫌いのサディストだったし、太宰治は自殺未遂と心中を繰り返した。
最近では、ゲスの極みの乙女の川谷絵音が不倫で世の中をにぎわせた。川谷絵音の不倫に興味はないが、発覚後の対応を見ると、ろくでもない男だろうなということは想像がつく。
しかし、彼らがどれほど人格が破綻しており、何をやらかそうと、それをもってして彼らの作品の価値が左右されてはならないと思っている。
彼らの人格から被害を被るのがイヤであれば、近づかなければいい。(子供や兄弟姉妹などは自分でその立場を選んだわけではないので、気の毒だとは思う。)
二十歳を越えるくらいまでは、才能が欲しかった。「自分にだって才能がある」そう信じたかった。
今は自分は人より抜きん出た才能がないことはよく分かったし、才能が欲しいとは思わない。
才能とは、自分の身体の中に巣食い、隙あらば外に出たがる怪物だ。それは表現されなければ、宿主である自分を食い破ってでも外に出ようとする。
才能の宿主として生まれたら、一生、そいつが暴れださないように餌をやり、宥め、その狂乱に神経をすり減らしながら生きなければならない。
才能がある、ということは地獄にいることに等しいのではないかと最近よく思う。
その地獄をのたうち回りながら生み出されたものだから、何百年たっても色褪せず、多くの人間の心を揺り動かし続けるのだと思う。
非才な人間は、自らの血肉を削らずその作品を享受できる、とても幸運なポジションにいる。
三億円を稼いで、年下のトルコ人に貢ぐこともない。
才能に宿主として選ばれた人間を遠巻きに崇めつつ、その狂乱の嵐に巻き込まれたくなければ近づかないことだ。
そして、彼らの人格とはまったく別種の才能から生み出されたものとして、作品を評価し堪能すべきだと思う。
と、魂のルフランを口ずさみながら思った。
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余談
「人格や行動を理由として、その才能や作品の価値を判断してはならない」
と思っているが、逆もまたしかりで、
「才能や生み出した作品を理由にして、犯罪などの重大な結果を引き起こす行動を免罪してはならない」
と思っている。
獄中で数々の作品を生み出し、文学賞も受賞した永山則夫は死刑を宣告され、刑が執行された。彼が起こした犯罪の重大性や、犠牲者の無念や遺族の苦しみを思えば、妥当な量刑だと思う。
永山則夫の書いた「無知の涙」は、自分の境遇に対する怒りや犯した罪への罪悪感などの煩悶が、地獄をのたうちまわる咆哮のようにほとばしったすごい作品だと思う。
彼が犯した罪とはまったく関係なく、同じように地獄で悶える人々に読まれ続けると思う。