人はいかにして、かつて容認できなかったものを受け入れるようになるのか。米国の社会学者フレデリック・スラッシャーは1927年、シカゴのギャング1313人の「自然史」を発表した。ギャングは自分たちには合理的だが、一般市民なら嫌悪感を抱くような不文律に従って行動していることが判明した。米共和党のドナルド・トランプ候補とその支持者も同様だ。トランプ氏はそれまでのタブーを普通のことに変え、米国の政治文化を深く傷つけた。
■踏みにじられる暗黙の秩序
大統領候補になるかなり前、トランプ氏が「女性の下半身なんかすぐ触れる」と自慢げに語ったことはそれだけでも不快極まりないが、さらに憂慮されるのは彼の行動は普通だと主張する多くの支持者の存在だ。同氏が10月9日の第2回テレビ討論会で、自分が選挙に勝ったら民主党のヒラリー・クリントン候補を(私用メールを公務に使っていた問題で)投獄すると脅したのも気がかりだ。民主主義が根付いていない国なら、選挙後に暴力沙汰になってもおかしくない。幸い、米国では11月9日に暴動は起きないだろう。しかし、それは政府に法を厳格に執行する力があるからというより、この国には民主主義を育んできた暗黙の秩序があるからだ。トランプ氏が踏みにじっているもの、そして米国人が守らなければならないのはこの秩序だ。
何を大げさなと思うなら、トランプ氏の発言を思い出してほしい。イスラム教徒の入国を禁じろ、メキシコ系判事は自分が関係する訴訟の担当にはふさわしくない、体に障害を持つ記者のことは思いっきり笑おう、クリントン氏は「いかさま」で選挙に勝つために汚い手を使うかもしれないから、しっかり見張れ――。
米国の政治家で社会学者でもあったダニエル・モイニハンは、社会規範から逸脱することが一度にいくつも起きたら、社会は逸脱の定義を見直して許容範囲を広げ、真に対処が必要なものを絞り込むと書いた。実際、子供に今回の大統領候補のテレビ討論会を見せていいかどうか思案する親には、メキシコとの国境に壁を築くというトランプ氏の公約は、もはやそれほど恐ろしくは思えないだろう。
こうした政治手法は何も新しいものではない。米国は世界で最も豊かで強い国なのに、今の暮らしはこれ以上ないというところまで悪くなっているという極端な悲観論を、トランプ氏は選挙戦で自身に有利になるよう国民に吹き込んでいる。それによると、悪いのは特定の政策ではなく国のあり方であり、社会が抱える問題を解決するには国のあり方を抜本的に変えなければならないことになる。
トランプ氏はリアリティー番組の元司会者という顔を持つため、彼の意見はそれほど不穏ではないようにみえる。同氏がどれほど本気なのか、視聴者はテレビ番組同様、真に受ける必要があるのかがわからないからだ。人々の怒りを買っても、トランプ氏は「ちょっと言い過ぎた」ともっともらしく弁解するだけだ。言動が一国のトップにふさわしくなくても、支持者の中には「彼は実業家として成功したのだから、大統領になれば有能な実務担当者を間違いなくそろえるはずだ」と信じようとする人もいる。