旅客機のエコノミークラスにも広い席が幾つかある。運良くその席に当たると脚も伸ばせて非常に楽だ。非常口のすぐ横の座席もそうだ。しかしこの席は誰でも座れるわけではない。非常口を開ける力のない高齢者や子供、非常時に守るべき家族がいる乗客はこの席に座らせてもらえない。この席に座ると、キャビンアテンダントから短いが強い口調で「この席に座る方は非常時、乗務員と協力して他の乗客の脱出を助けてもらわなければなりません」と言われる。責任感を持たせるための教育のようなものだ。
非常口のすぐ横に座れば、事故が発生すると誰よりも早く脱出できる。ただ実際にそうなったときに、逃げ出したい誘惑に打ち勝ち乗客の中で最後に脱出するのは簡単なことではないし、また本当にこの義務を果たせる乗客がどれほどいるか分からない。もちろん誰もが「自分ならできる」と言うだろうから、やはり性善説は正しいのか。ただそれ以前にこの席に座るとまずは非常時の要領について話を聞かねばならない。その内容は退屈で時には無意味にも感じる。しかしこの教育を受ければ、本当に事故が起こったときに、最初に逃げ出したい誘惑を押さえることができるという。乗客でもそうなのだから、ましてや乗務員にとって安全に関する教育がいかに重要かが分かる。
日本でタクシーに乗っていたときに、運転手も道が分からなくなったことがある。「分かる人に携帯電話で尋ねたらどうか」と言うと、運転手は「運転中に電話をすることはできません」と言って拒否し、駐停車ができる場所に行って初めて電話を手にした。日本のタクシードライバーは皆制服を着ており、中には制帽をかぶっている人も多い。これは単に外見を整えるだけでなく、責任感を持たせる一種の仕組みだ。安全に責任を持つべき客が多いほど、運転手が守るべき義務も増える。また路線バスの運転手は乗客が席に座るか、立っている場合でもつり革を握るのを確認してから「発車します」と言ってアクセルを踏み、走行中は車線を変えない。これは日本のどこでも普通に見られる光景だ。
運転手の義務は時間通り安全に目的地に到着することだが、時間と安全のどちらか一方を選ばねばならないとき、先進国では安全を選ぶ。日本では長距離路線バスにスピードの出し過ぎを抑えるリミッターがないという。これは運転手を信頼しているからだ。そのため時速140キロ以上で走ることも可能だが、そんなことをするバスはなく、一つの車線で制限速度を守りながら走行する。生活に余裕があるからではない。普段からしっかりと教育を受けているからだ。
もちろんこのような先進国でも大きな事故が発生することはある。しかし韓国のように何度も同じ理由で同じような事故が繰り返されることはない。乗客10人の命を奪った京釜高速道路での観光バス事故もそうだった。運転手は乗客を助けず自分が最初にバスから逃げ出したとして批判にさらされている。2009年に米国で旅客機が川に不時着した事実を描いた映画「ハドソン川の奇跡」に出てくる機長や、「タイタニック」に登場する船長のように、自分よりも乗客を最優先に考える偉大な人物になれと言うのではない。定められたルールについてしっかりと教育を受け、いざというときそのルール通り行動してほしいだけだ。