第 二 章 白 魔
砕氷船も近つけず
3月3日、遭難から4日目の朝を迎えた。きょうは朝から快晴で、風もまったくなく穏
やかである。国後島が白と黒の猛々しい姿を見せていた。近くに高さ200メ−トルも三百
メ−トルもある氷山が浮かんでいて、青白く光って見えた。
「ひな祭りか」
幅崎が、アザラシの肉を焼く煙に目をしばたかせながら、河野に話しかけた。幅崎には
6歳になる長男がいる。河野にも同じく六歳になる長男がいる。女の子の祭りだから、この
日はとくに何をするわけでもないが、幅崎の瞼には幼子を抱いた妻の不安そうな顔が
浮かんで、不覚にも涙がこぼれた。
子出藤にも長男六男ともう一人、高3になる長女の智子(18)がいる。姪だったのを
養女にしたのである。
「おっかあのこと、頼むぞ」
子出藤は思わず知らず声に出して言ってから、本当に帰れるかと自問自答し、妻の顔を
思い浮かべて胸が痛むのを覚えた。
三人はライタ−のガスや油を節約するため、デッキブラシの竹の柄で火吹き竹を作り、
その余った竹で肉が食べやすいように箸を作った。少しごつごつしていたが、箸の感触が
甦り、それだけで落ち込んだ気分がちょっぴりだけよくなった。
この日は日曜日で、漁船が朝早くからいっせいに出港し、捜索を続けた。漁師たちの心
配は漁期を迎えてスケソウタラが魚場から去らないかということだった。一日の水揚げが
軽く二千万円、それをみすみす見逃さなければならないのは何としても辛い。今日で三
日間操業を休んでいるのだから膨大な損失になる。しかしトド撃ちの猟師たちは漁業者の
仲間である。“海の男”として同士を見捨てるわけにはいかなかった。その半面で、批判
も出てきた。子出藤は昨年も遭難騒ぎを起こしているだけに、人騒がせもほどがある、
というのだ。
船影がまったく見えないので、すでに沈没したのではないか、という声が高まりだして
いた。もし沈没してしまったのなら、空からのほうが発見する確立が高いというので、航空
燃料がすべて羅臼に集められ、海保のヘリコプタ−が知床岬沖合いを何度も飛んだ。
午前7時ごろ、羅臼町松法沖合いで操業中の漁船から、
「標津南西沖に白い煙のようなものが見える」
と漁業無線局に情報が入った。ヘリコプタ−が急遽、現場へ飛んだが、何も見つける
ことはできなかった。流氷に付着した雪が風で竜巻状になって舞い上がったのを錯覚した
らしい。
反対に「第三かず丸」のほうが午前十時ごろ、爆音を響かせて飛来してきたヘリコプタ
−を見つけた。しかも今回は今までと違って低空飛行なのだ。ヘリは氷山をかすめるよ
うにして船の右舷500メ−トルのあたりまで接近してきた。操縦士の姿まではっきり見え
た。
「お-っ、ここだ-っ」
「助けてくれ−っ」
三人は踊りあがって手を振り、声を限りに叫んだ。だがヘリは気がつかないのか、大
きく旋回して羅臼方向に飛び去っていった。
「ああ、また見逃しやがって」
悔しがる言葉を遮るように子出藤が、
「おい、あのヘリ、本当に海保のヘリか、方が違うんでないか」
と不満を露にして言った。
河野が言った。
ソ連のヘリと聞いて他の二人はぞっとした顔つきになった。河野だって青ざめている。
こんなところでソ連に出てこられたら、どうにもならない。領海侵犯とか何とか理屈をつ
けられて、ものも言わずに
連行されてしまうだろう。そうなったら何もかもおしまいだ。
「おっかねぇ」
声が震えた。
「んだ。捕まったら大変だぞ。カメラや銃を持っている者は、スパイとして扱うってぇか
ら、そうなったら軽く20年は帰られない。かといって銃を捨てるわけにゃあ、いかねぇ
しな」
子出藤の声も震えている。
「もしかしてテレビ局か新聞社のヘリでないか?」
「そうだ、新聞社だ、奴ら、写真撮ることしか考えてねぇんだ。こんちくしょう、
こっちがこんなに苦労しているってぇのによ」
「んだ、んだ。馬鹿にしてるんだ」
三人は話の矛先が少し変わったところで、口々に罵りながら知床岬を見つめた。白い雪を
かぶった知床連山がくっきりとそびえ、それに這いつくばるように町並みが見える。
本当に不思議な気持ちになってしまう。
こんなに晴れていて見通しがいいのに、なぜ見つけてくれないんだろう。
「こんちくしょう!」
怒りと悔しさで三人ともひどく苛立った。
この時刻に飛んだヘリコプタ−の操縦士、十川五助機長(44歳)の談話が
新聞記事に掲載さえている。これによると
ヘリコプタ−は1.5キロの間隔で高度120メ−トルの
低空飛行で、知床半島突端から植別間をなめるように捜索したという。
「こんな綿密な捜索は、私の体験では初めて」
とも述べている。にもかかわらず船を発見できなかったのは、
位置が国後島にかなり近寄っていたためだ。
ヘリコプタ−にしろセスナ機にしろ、国後島に近ずけば領海侵犯でソ連側から射撃される
危険性を孕んでいて、深追いできなかったのである。
漁協は海保、町とも話し合い、遭難した家族代表にも集まつてもらい、
この日午前11時から漁協内で事後の対策について協議した。
このなかでヘリコプタ−による捜索は燃料が枯渇したので、本日で打ち切る、当分の間は
漁船が操業を兼ねながら捜索を続ける、の二点が確認された。
これ以上漁船に迷惑はかけれないという判断があったからにほかならない。
このころ砕氷船「宗谷」は根室の北方15キロ付近まで近ずいていたが、
野付水道から珸瑶瑁水道にかけて流氷群が密集していて、前進を阻まれた。宗谷の乗組
員は想像を絶する氷盤の厚さに、「南氷洋の流氷より質が悪い」と言って嘆いた。
冬の太陽が知床の山脈に落ちると、夜の気配が近ずき、やがて急速に闇が襲ってきた。
夜空に星がまたたいている。天上を見上げるとちりばめられた銀河に吸い込まれる錯覚に
とらわれて、一瞬、遭難していることさえ忘れてしまう。
「それにしても、静かだな」
子出藤はぼそりとつぶやいてから、家庭で帰宅を待ち焦がれている妻や子のことを思い浮かべた。
翌4日の北海道新聞は、次のような見出しで報じた。
海空必死の捜索もむなし
頼みは“奇跡の生還”すでに5日 絶望的な3人
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