【ヒルマニア】“元祖二刀流”野口二郎のとてつもない記録とは…
日本ハム・大谷翔平投手が今季、メジャーでも例のない10勝&100安打&20本塁打をマークしたが、プロ野球界には偉大な先達がいる。戦中、戦後に投打の規定超えを6シーズンも記録し、うち2度はともに10傑入りした“元祖二刀流”野口二郎である。中京商、そしてプロ野球での奮闘を、野球担当44年、ヒルマニアこと蛭間豊章記者がデータをひもといた。
野口二郎は沢村栄治、スタルヒン、若林忠志と並ぶ戦前を代表する右腕である。東京セネタースなどで通算237勝。さらに830安打を放つ好打者でもあった。大谷の2ケタ勝利&100安打は、1949年、阪急時代の野口以来、実に67年ぶりの快記録だったのだ。
野球殿堂入りは1989年、69歳の時だった。引退後はコーチ業が長く、当時の候補者資格を得るのに時間がかかったためだ。受賞の報に「現役の時で成績で選ばれたんでしょうが、もう一つピンとこないね。いつかは入ると思っていましたよ」と淡々としていた。
投手として最も有名な試合は、大洋時代の1942年の延長28回完投だ。当時は週末に集中して試合を行うことが多く、5月24日、後楽園球場で行われた名古屋(現中日)戦は、名古屋・朝日戦、大洋・巨人戦に次ぐその日3カード目の試合だった。
4―4で延長戦に突入。後に中日の主砲になる西沢道夫とともに相譲らず、野口が344球、西沢は311球。日没による試合終了は午後6時27分だったが、球審を務めた島秀之助は後年、「試合後に表彰式が予定されていた。それがなければ30回にいっていたかもしれない」と明かした。
野口は、前日の朝日戦に8回1死までノーヒットという1安打完封勝利。この日の第2試合では代打でも出場していた。実は前夜、ノーヒットを逃した腹いせに痛飲。二日酔いぎみでマウンドに上がり「回を追うごとに気合が入り、最後はいつも以上の投球だった」と述懐している。
戦前の中等野球で強豪校の名をほしいままにした中京商(現中京大中京)、2学年年上の兄・明を慕って入学。35年センバツ大会時は三塁手だったが、その年エースが故障したことで強肩を買われ投手に転向した。37年のセンバツでは投手で準優勝、夏は川上哲治の熊本工に勝って全国制覇を果たした。翌38年センバツでは、大会史上初の全4戦完封をやってのけ、夏春連覇を果たした。37年の春夏合わせ9試合で全て完投(3完封)したが、打っても5番や3番として全試合に安打を放ち、36打数16安打の打率4割4分4厘を残した(38年春は15打数1安打)。
セネタースでのプロ1年目(39年)は69試合に登板し38完投、459イニングはいずれもリーグ最多の数字。報知新聞社刊「プロ野球二十五年史」による紹介記事には「ピッチングはやや一本調子ながら、剛速球とプレート度胸でベテラン勢を抑え込んだ」とある。一方で、一塁手としても48試合に出場するなど、同年のセネタースの96試合中、欠場はわずか4試合のみだった。5月19日の欠場を最後に閉幕まで、70試合続けてスタメン出場。うち22試合は投手→一塁か、一塁→投手という超ハードスケジュールをこなした。
二刀流は戦後になっても続き、その集大成が46年にマークした31試合連続安打という当時のプロ野球新記録である。戦争で肩を痛めたこともあり制球重視の老練な投手に生まれ変わり、野手としても外野に“コンバート”されていた。が、期間中は4度の完投を含め13試合に登板しながら、4安打2度を含め131打数48安打の打率3割6分6厘。この記録は当時は発見されず、48年に25試合連続安打を放った金星・坪内道則が新記録とされた。その後1リーグ時代の記録を洗い直した際に、大記録が発見されたことでも知られる。
ちなみにこの年、右翼手として、わずか66試合ながら強肩での補殺が11という驚異の数字を残したことも忘れてはならない。
イチローがシューレス・ジョー・ジャクソン、ウィリー・キーラー、ジョージ・シスラーらのメジャーの往年の安打製造機をよみがえらせたように、大谷の投打の活躍で野口二郎も再び注目されるようになった。大谷よ、ありがとう、と言いたい。
◆日本S二刀流先発で大谷世界初快挙
大谷が日本シリーズに初出場する。野口二郎は日本シリーズ未経験のまま引退しており、投手と野手で同一年に先発出場した例はない。メジャーではただ一人、10勝&10本塁打した1918年のベーブ・ルースも、Rソックスでワールドシリーズに出場。シーズン中11試合も「4番・投手」で起用したバロー監督は投手に重きを置き、第1戦が「9番」、第4戦が「6番」で先発させ、完封&8回0/3を2失点で2勝をマーク。第4戦と第6戦の試合途中に外野を守ったが、野手としての先発出場はなかった。