中国の首都・北京が、にわかに緊張感に包まれだした。それは、10月24日から27日まで、「6中全会」(中国共産党第18期中央委員会第6回全体会議)が開かれるからだ。
中国では5年に一度、共産党大会を開いていて、大会の時「1中全会」を開き、以後5年間の共産党の主要人事を決定する。次に翌年3月の全国人民代表大会(国会)前に「2中全会」を開いて、政府の主要人事を決定する。続いてその年の秋に「3中全会」を開いて、政権の主要方針を定める。
本当に重要なのはこの「3中全会」までで、以後は毎年秋に、「4中全会」「5中全会」「6中全会」を開く。特に最後の「6中全会」は、翌年秋の共産党大会に向けた「橋渡し」のような会議なので、党内で激しい権力闘争にならない文化面の改革などをテーマにして、お茶を濁すことが多かった。
具体的に、改革開放路線を始めて以降の「6中全会」のテーマを振り返ってみると、1981年が「建国以来の党の若干の歴史問題決議に関して」(文化大革命の総括)。1986年が「中国共産党中央委員会の社会主義精神文明の建設指導方針の決議」。1990年(前年に天安門事件が起こったため変則)が「中国共産党中央委員会の党と人民群衆の関係強化に関する決定」。1996年が「思想道徳に関する党内初の党内の雰囲気づくり建設」。
今世紀に入って、2001年が「党の雰囲気づくり建設の強化と改革進化の決定に関して」。2006年が「中国共産党中央委員会の社会主義和諧社会構築に関する若干の重大問題の決定」。2011年が、「中国共産党中央委員会の文化体制改革を深化させ、社会主義文化の大発展と大繁栄の推進に関する若干の重大問題の決定」である。
ところが今回、習近平総書記は、「新たな形勢下での党内の政治生活の若干の準則の制定と、中国共産党党内監督条例(試行)の修訂」を、「6中全会」のテーマに持ってきたのである。意訳すると、「習近平体制下で習近平総書記に従う準則を制定し、それを監督する条例を定める」ということだ。
つまり、これまでの「6中全会」で見られた文化面での改革などとはまったく異なり、来年秋の党大会へ向けて「習近平独裁体制」を認定させ、従わない党員は処罰していく決定を目論んでいるのだ。習近平総書記は、中国語で言う「先発制人」(先んずれば人を制す)を実践したわけで、共産党大会まであと一年となったところで、一気に勝負に出たのである。
そのことを傍証する一つの「事件」が、最近起こった。10月1日からの国慶節(建国記念日)7連休が明けた中国で、ネット上に1枚の写真がアップされ、中国が騒然となったのだ。
アップされたのは、B5用紙1枚のペーパーである。そこには、「劉淇同志一行の林芝視察接待の細目案」というタイトルが掲げられ、こう記されていた。
《 期間:2016年10月1日-6日
場所:(チベット自治区)巴宜区、米林県、工布江達県
首長一行名簿:劉淇党17期中央政治局委員・前北京市党委書記、汪声娟夫人、劉铮令嬢、周骋女婿、周逸安孫、周怡然孫娘、劉聴子息、李蓉子息婦人、劉竹萱孫娘、劉松萱孫、張利民北京市党委弁公庁副主任、周立農中央警護局処長、范明秘書、張天一警護、陳建立随員、秦明照北京同仁医院幹部保健科主任 》
このペーパーには、下側に「1」という数字が下に付けられているので、これが1ページ目で、後に続いていることが分かる。
そしてこれは、2012年7月に引退するまで「北京の皇帝」と畏れられた劉淇・前北京市党委書記(前北京市トップ、73歳)が、国慶節の大型連休にチベットで豪遊した日程表だった。家族一同に秘書、警備員、主治医まで引き連れて、一行16人で豪華な6日間の公費旅行接待を受けていたというのだ。
この事実を知った中国人たちは、「不況にあえぐ庶民は連休中、ろくに旅行にも行けないというのに何だ!」といった怒りの声を上げた。だがこのペーパーも、庶民の怒りの声も、ネット警察によって、瞬く間に中国のネット上から削除された。
習近平総書記は、2012年12月に「八項規定」(贅沢禁止令)を定めて以降、「三公」と呼ばれる「公費会食、公費出張、公用車使用」を厳しく戒めてきた。また昨年夏には、現役時代の権益を手放さない引退幹部たちを痛烈に批判するキャンペーンも張った。
そのため、今回の降って湧いたような「劉淇スキャンダル」は、「6中全会」を前に、習近平総書記サイドが、最大の政敵である江沢民一派を黙らせるためにブチ上げたのろしだという見方が出ている。劉淇前書記は長年、江沢民元総書記の「首都の大番頭」だったからだ。