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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

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病んでいる人は全方面に価値を提供しようとしてしまいがち

 たとえば僕はHIPHOPが好きなんだが、それだってある方面の人から見れば、「喋ってるだけじゃん。悪口並べてなんの生産性があるの?」と低評価をつけられてしまう。
 このように、どれだけ個人が死に物狂いで価値を積んだところで、全方面に素晴らしいものだと思い知らせることは不可能である。
 自分が円の中心にいるとして、その周囲をぐるっと様々な価値観を持った人が並んでいると考えた方が良い。
 いろんな背景を持った人がいるのに、全員に自分が意味のある人間であるのだと分からせることなど不可能。
 だから人は生きる上で、どの方面に向かって物事を語りかけて行くのかってことを明確にした方が良い。
 ただ闇雲に他人に評価されたい、そんな五里霧中のことをしていると、どこかで心を痛めて倒れてしまう。
 どんなに頑張った人であれ、どこかの誰かから見ればカス以下の存在でしかないってことを忘れないようにしないと、いつか傲慢になる。
 芸人の小薮が、「カスだと思うから努力する。カスじゃないと思うから努力しない。自分のことをカスやと思って生きて欲しい」と発言していた。
 全くもってその通りで、「自分はここまでやったのだから評価してください」という態度で生きるのは、辛みの始まりだ。

世間の人って言うのは残酷的にしか優しくない

 認めてくれているような褒め言葉をくれたとしても、そんなものは挨拶と一緒なのである。
 だから僕は、自分がまともであるまともでない、努力している努力していない、面白い面白くない、善人か悪人か、などは確定しないようにしている。
「自分は頑張って来た」と認める発想は死ぬまでしないようにしたい。
 なぜならその想いを都合良く強化してしまって、「どこかの誰かよりも自分は頑張っているから、あの人よりも評価されて当然」と尊大な輩に成り下がってしまう確率が高くなるからだ。

人の努力値なんて、他人の目からは見えない

 やる気なさそうで堕落という言葉しか似合わなさそうな人が、裏でツメを研ぎ続けているなんてこともあるだろう。
 それでも生まれ持った能力値が過剰に低過ぎて成果が出ず、そんな状態で努力しているように見せるのが恥ずかしいから、人生を舐め腐ったクズ人間を努力によって演じているのかもしれない。
「ちゃんとやりなよ」「ふざけ過ぎじゃない?」
 などと冷たい言葉をもろに受けながらも、涙を堪えて道化に徹しているのかもしれない。
 そういう部分って可視化不可能な訳だ。
 であるから、「わたしは頑張ったのに……」という発想はなによりも傲慢である。
 そもそも本気で生きていない人間なんて一人もいない。
 表現に違いがあるだけだ。
 つまり価値観が別物。
 頑張っただけでなにかを得られるなんてのは、飼われた犬か、生まれたばかりの赤子が送るイージーな日常にしかない。
 だから生きる上での態度をわきまえ、常にカスから抜け出そうとする発想を持ちたいものだ。

「自分なんてダメだ……」というのは、自分なんてダメじゃないと思っている人の発想

 まだまだ足りない、もっとやらなきゃ、というところから努力はスタートする。
 つまり自分がダメなんてのは至極当たり前の話で、振り返るまでもないんだよね。
 カスな自分を前に進めるしかない。
 それだけを思って生きていたら、「自分なんてダメだ……」という言葉は口から零れない。
 それが零れてしまうときは、努力するのに疲れてしまっていて、まだ成果は出せていないけれども、その不完全さを誰か買い取ってください、と懇願しているということなのだ。
 冷酷だけど、そういうことなんだよね。
 マラソンの最中で疲れて座り込んだのに、「一位にしてください。こんなに頑張ったんですよ?」と抗議してるのと一緒だから。
 まだ走っている人だって、「俺も辛いよ……もう口から小腸がぐぇぐぇと、怒れる毒蛇のように這い出てきそうだよ……」ってぐらいに疲れているが、そういう人をさておいて、まず私を認めてくださいということになってしまっている。
 ここで、弱者の努力は、強者の努力より尊いのか?
 という問題が発生してしまう。
 こうして社会に収まりきらないくらいの矛盾と、終わらない哲学が生まれるんだよね。
 たとえば子供を産むということを尊いと思うのが世間の声であり、人類の宝とさえ呼ばれるくらい美しい存在と思われているが、それはなぜかっていえば彼らが社会を支え、発展させる重要な人類の一人になってくれると考えられるからだ。
 でも一方で急速に社会を発展させようとする強者には歯止めを利かせようとしたり、弱者優先で物事を考えようとする。
 発展を願いつつ止めているようにも見える。
 無論、全ての人間の命が尊いものであると思うし、弱者を守りつつ生きるのが一番大事だと思うけれど、だったら子供を育てにくい環境の現代日本では赤ちゃんを産むことに規制を掛けて、それによって浮いた富を、今存在する人たちに還元するべきじゃない? ともなってくる。
 まぁそれは極論過ぎるにしても、これに似たような矛盾の豪雨が降ってるんだよね。
 話がずれたけれど、要するに、頑張りみたいな目に見えないもので自他を判断しようとすると、次第に矛盾に脳を壊されていくってことだ。
「自分なんてダメだ……」と考えるとき人は、「自分はもっと高みの存在なのに……」と考える状態になってしまっている。
 そこからぐるぐると矛盾を探る思考の旅に出発する羽目になってしまう。

まず第一に、万人に評価されるのが当たり前という考えを捨てた方が良い

 プロスケーターみたいに華やかで才能のある者でも、「は? 芸術点? そんな曖昧なもんで決めんなよ。金持ちのお遊戯だろ? 札束がないと限界までトレーニングしにくいんだから、競争率低いじゃねぇか」という罵声を浴びせられることがある。
 それが人間社会ってものなんだよ。
 自分の価値を無条件に会う人全員に認めて貰える安全安心は、赤ちゃんの世界のものだ。
 大人になれば自分が爪を割るレベルで努力して価値を提供したと思っても、目の前の人に破り捨てられてしまうかもしれない。
 人間の共同生活には、必ず残酷さが孕んでいる。
 だから人は藻掻くわけであるし、仮に肯定100%の世界だとしたら人は努力なんてしなくなる。
 有限な資源と競争原理の中にいるからこそ、人は創意工夫して文明を発達してきたわけだ。

全方位に自分の気持ちを分からせようとするのは、徒労に終わる無意味な戦い

「なんで分かってくれないんだろう」「鈍感だなこの人」
 そんな風に考えて泣き言を書きまくって無理矢理分からせようとしたって、それは骨折り損でしかない。
 そもそも全ての人間の背景を想像してあげられる人なんていないからね。
「分かってくれない……」と泣きじゃくってる人だって、人の背景を無視して生活することが当たり前にあるはずだ。
 たとえばテレアポバイトで必死に子供の生活費を稼ごうとしているかもしれないシングルマザーに、「うぜえょ、二度と掛けてくるな」って思ったこともあるだろう。
 このように人は分かってあげられないことの連続で生きている。
 であるから、許し合って生きるしかない。
 それが出来ないなら無限に争いが続いて、本人が無駄に消耗して、心がひび割れていく。
 親が自宅で死にそうだから赤信号を渡っている人がいるかもしれない。病んでいるのに頑張ってバイトし始めてミスしながらレジをしている人がいるかもしれない。
 人は分かってあげられない生物なんだ。エネルギーが無限じゃないから。
 ただ寝てるだけでも疲れが取れない日があるのに、その上、人の背景まで想像しろなんて拷問も同じだよ。

誰もが疲れているし、誰もが病んでいるし、誰もが絶望している

 これが人間のデフォルトだ。
 その中で藻掻く。そうした過程で攻撃っぽくなってしまったりする。
 全ての人間が全く同じ方を向いて、全く同じバイオリズムで生きている訳じゃないから、たまたま噛み合わなくて決闘が始まることだってある。
 つまり、人間は正常なこともあれば異常なこともあるってだけの話だ。
 そこを理解してある程度悟らないと、「なんでこっちは精神的に普通の人よりも辛いなのに、あの人はあんなに冷たいのだろう」と思い込んでしまう。
 精神的に弱い人がそこそこ元気なときに、本来は精神的に強い人が限界まで病んでしまっているかもしれない。
 そのとき果たして弱者はどちら? ということになってしまう。

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そもそも精神力の強さって、客観的に図ることが不可能な訳だ

 病んで絶望しているときに攻撃的になっちゃう人って結構いる。これは健常者でも病んでいる人でも同じ。
 健常者が病んでいるときに攻撃的になるのはワガママということなのだろうか。
 永遠に終わらない哲学の世界になってしまうんだよね。
 だから、全員に優しくするとか、全員を肯定するとか、全員に認めて貰うなんてまず無理なんだよね。
 そんな無理なものを無意識に達成しようという感覚になっちゃってる人は、風当たりを強く感じてしまう人生を生きることになる。
 時折、メンヘラに強弱があるという話が結構出るけれど、いわゆるバンギャ的なうるさいメンヘラ、アピっちゃう感じのメンヘラは、本当に楽な人生を生きているのか?
 辛くて誰にもいえない悩みを抱えていると自負している人よりも楽なのか?

その楽の根拠は?

 メンヘラを強弱で分けるってのは差別になってしまう。
 もっといえば、健常者とメンヘラも大きな違いはない。
 病名の有無だけ。
 機械人間とメンヘラであれば、感情の動きがないからはっきり分けても良いかもしれない。
 アピっちゃうメンヘラはそうすることでぎりぎり精神を保っているのかもしれない。診断されて医者お墨付きのメンヘラになっていないだけかもしれない。
 ここに関しても哲学の領域になってしまう。

私はあなたより病んでいますなんてのは、悪魔の証明をしようとしているも同じ

 不可能なことなのに、正しさを追求しようとすると人は壊れる。
 矛盾に悩むと人は狂う。
 人間社会のおかしさを、おかしみ、つまり人生を彩る一つの要素として捉えるようにしないと、一生心は良くならない。
 自分の心と調和するってのは、ただ自分を肯定するんじゃなくて、ある程度諦めるということでもあるのではないか。
 悟りは僧侶だけの専売特許じゃない。
 僕ら一般人も、悟りを開く機会が必要である。
 そうやって諦めた先に、自分にしか出来ないことってのがあるわけだ。
 僕も含めた大半の人間に才能なんてないし、まともですらないかもしれない。
 だからこそ、諦めを超えた先で頑張ってる時点で、その人に対して誰かしらが羨望の眼差しを向ける。
 そのように必死に生きていく中でファンを増やしたりして、ぎりぎりのところで生き続ける。
 これが僕をはじめとした、ろくでもないしょうもない大したことのない人間が進むべき道だと思うんだよね。
 そしてどんなクズであれ、どんな善人であれ、誰かしらには好かれ、誰かしらには嫌われるということを忘れてはならない。

全方位のファンを獲得するなんて不可能

 病んでいると表明した上でブログを書くということは、「わたしはこちら方面の人間です」と立ち位置を告げたのと同じことになる。
 であるから、熱狂的に支えてくれようとしてくれる人や、単純に生き方に憧れてくれる人が作りやすくなる。
 一方で、その方面と対極にいる人は、全く別物の価値観を持っているのだから、そういう人からは否定されやすくなってしまう。
 これこそ価値観の相違という奴で、これこそが人間の共同生活である。
 そういった状況に折り合いをつけて生きていくのが、人間なんだ。
 妥協を捨てるなら、戦争をするしかない。
 嫌なことがあったら泣いてでも相手に謝らせようとする人がいるけれど、それは一種の戦争を仕掛けたようなものだ。
 化学兵器を撒くようなもので、一番ズルい手段かもしれない。
 涙を流した者が正義になりがちだからだ。
 そこで淡々と釈明しようものなら、追い打ちまで掛ける最低な人というレッテルを貼られてしまう。
 こんなことしなくたって、自分がここだと決めた方面の人と幸せを共有出来たらそれで良いんじゃないの?
 みんなに好かれようっていうのは、もっと病もうってのと同じことだ。

人の質ってのはメカニカルに判断されるものではない

 他人が、自分の生きてきた中で蓄積した経験や知識を元に、総合的かつ至極感情的に判断するものである。

 だから言っちゃえば、家から一歩も出ないで生きているような引きこもりニートなんかでも、見る人によればそれはそれで深い人生でカッコイイと思ったりもするわけだ。
 神が決めたような固定の評価システムなんて存在しないことを知った方が良い。
 人の中身の濃い浅い、レベルが低い高いは、誰かが見出すものだ。
 自分なんてどうしようもない、浅い人間だ、と思っている人だって表舞台に立てば、誰かが賞賛してくれたりする。
 深い考え持っているんですね、と。
 素人ミニマリストとかだって、ある集団には罵詈雑言投げられているけれど、またある集団には心底認められているわけだ。
 ゆえに自暴自棄ってのは、無駄な時間なんだよね。
 自分が良いか悪いか、まともかまともじゃないかは、他人が決めてくれる。
 
 わざわざ疲れることをしなくて良いのだ。

 

女王様と私 (角川文庫)

女王様と私 (角川文庫)

 

(変則的ミステリーの中で最も面白かった。現実逃避と被害妄想が行きすぎるとここまで人は壊れちゃうよってことを教えてくれる一冊。他のイヤミス作品ともまた違う、独特な感覚に落とされる)

日記 僕は後ろから追随してくる都合の良い卑怯者が嫌い

 たとえば問題を起こしがちなブロガーがいたとして、それを誰かが叩いたときに、「そんな言い方ないんじゃないですかぇえっぇ?」ってブスな顔で横槍入れるタイプの奴。
 ろくでもない奴でも先頭を歩いている人間は好きなんだけど、勝手にそいつの金魚の糞みたいになってるウザイ奴。
 共同敵を勝手に設定して、「一緒に戦いましょうょグェグェゲボゲボ!!」って舌巻いてゲロブスった顔で手を振り上げる奴。
 そういう卑怯者が嫌い。
 公園デビューしたばかりの主婦をイジめる、陰湿な年長主婦みたいな感じがあって嫌なんだよね。
 小説家の真梨幸子さんが書くような世界に出て来るタイプのくそウザイ奴。
 イヤミス系キャラ。
 小学生の時にそういう奴っていたじゃん。
 先頭を走る女の後ろについて、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ楽な位置で我欲まみれのコメントしてる奴。
 正義感に浸って気持ち良くなっちゃってる奴。
 女が腐ってゾンビになったような奴。
 はてなでは問題記事を書いたり、なんらかの非常識な行動に出てしまうブロガーがちょこちょこいる。
 でも僕はそういう人そのものは嫌いじゃないんだよ。
 だけど、その周囲にいる人の中にうわって思う奴が結構いる。
 おまえ関係ないだろ、って言ってやりたくなる奴が嫌い。
「わたしがあの人のこと守ってあげますよ、ぐふぇふぇふぇふぇ」みたいな奴。
 こういう人が厄介事を作ってる場合が多いんだよね。
 安い正義感振り回すのって気持ち良いんだよ。
 自分は正しいことしてますって感覚は、傲慢であると同時に激しい快楽を引き起こすんだよね。
 だから、必要以上に良い悪いで物事を語ってる奴はろくでもないよ。
 正しい正しくないを明確に決めてしまおうとする態度を取る人は、矛盾だったりグレーな状況に耐えられないってことだから、許容力がないってことだ。
 許容力がないってことは、人を許せないことが多いってことだ。
 人を許せないってことは、自分の中にある正しさが絶対的なものだと過信しているということだ。
 そうなってしまうと起こるのが、自分すら信じられなくなるという絶望。
 なぜなら世の中は矛盾がいくらでも存在するカオスな世界だからだ。
 価値観は人の数だけある。
 そんな世界で、自分の中の絶対を信じて生きていると、耐えられないと思うよ。
 耐えられなくなったらどうなるか。
 悲劇のヒロイン気取りになる。
 最高な自分が最低な世界にイジめられていると考えるようになってしまう。
 うぇ~んうぇ~ん。クソブスが泣く。廃墟の屋根から滴る泥水のような涙を流して。
 被害妄想が強まる。
 このネット社会では、その被害妄想をあたかも本当かのようにネットに書き込む。
 そしてもの凄い速さで、被害妄想仲間を得ていく。
 自分の中の危ういはずの正しさを、ますます絶対的なものと信じるようになる。
 こうやって狂っていくんだよね感覚が。
 そういう人たちっていうのは、ネットこそ活躍の場と思っている可能性が高いから、無駄にしつこい絡み方してくる。
 面倒だから謝罪したとしても、「あれは酷いと思います。うん、酷い酷いですよ」とドブスなコメントしてくる。
 相手を断罪してコミュニケーションを終了したいという、性根の腐った動きを見せつけてくる。
 本来は、「ごめんなさい」「いえいえ、こちらこそ言い過ぎました」で清々しく終われば良い話なのに、呪い人形の髪の毛みたいに話が長ったらしいんだよね。こっちからするとそういうブスブスしい言葉を脳髄に刺し込んで詰め込んで綴じ込むような時間ってきっついんだよね。
 くすぶったブスの鬱々しい激詰めストーリーを口移しされているようで、憂鬱に襲撃されて見てるだけで昇天しそうになる。ブスられて命の終止符打たれるなんて一番辛いからね。
 めでたしめでたしのないシンデレラ気取りちゃん。自分だけが苦しんでいると錯覚しちゃうなんて、ある意味おめでたい。
 と思いつつも、そういう勘違い系傲慢キャラもありだと思うよ。
 ただそれって本人は喜んでやってるの?
 誰も幸せにしないし、本人すら不幸になるキャラだなっていつも感じるんだよね。
 遺伝と幼少期の環境で性格はほとんど決定づけられて変わらないものだから、それが自然な自分のキャラなら文句はない。
 それだって一つの生き方だから、過剰に人に迷惑を掛けない限りは許されるよ。
 ただ、強がって無理にやってるのであれば辞めた方が本人の為だよね。

 

Z

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(KNZZは漢のこめかみ辺りをマイクロフォンで全力フルスイングして、穴が空いたような出血をさせたラッパーなのだが、まぁその暴力行為は良くないにしても、こうした尖った人間ってのはすこぶる格好良いと思う。たとえ過剰に攻撃的であろうと、誰かの後ろからなにかをするんじゃなくて、自分で突っ込んでいってトラブルを作ってしまうような、清々しくて豪快な人間がかなり好き。このCDに含まれてる曲も全て、そういうラッパーだからこそ作れるリアルなもので良かった。良い人気取りの卑怯な奴なんかよりも、KNZZみたいに尖りまくるってのが人間として一番良い。漢も最高だがKNZZは、危険な橋を渡り続けてる感がひしひし伝わってきて、これぞHIPHOPみたいな臨場感を運んでくれる良質で貴重なラッパーだ)

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