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フィーライン・アイズ

「好きなものは好き」と主張するハイパーな雑記ブログ

不遇な時こそわかる友情のありがたさ~加賀百万石を築いた前田利家のエピソード~

歴史人物の名言・エピソード

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落ち着いたイメージのある前田利家

 

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※画像はゲーム「太閤立志伝5」から引用しました。

 

前田利家といえば、加賀百万石の開祖で有名ですね。

 

豊臣政権では五大老を務めており、

ドラマなどでは温和な調整型の武将として描かれています。

 

でも、甥っ子の前田慶次と同じように、

若い頃は意外と奔放であったといいます。

 

そんな前田利家のとあるエピソードに感動したので、

ちょっと紹介してみます。

 

血気盛んな正義漢だから起こした事件

 

前田利家は幼名を犬千代といい、

わりと早くから織田信長に仕えていました。

 

信長とは気が合ったのか、

一緒に狩りに出かけたりしたこともあったそうです。

 

また衆道(いまでいうBLですね)の相手もしたともいわれ、

かなり目をかけられていた武将でした。

 

そんなある日のこと。

 

織田家の茶坊主で非常に口が達者な者がいました。

ただお喋りなだけならいいんですが、

その茶坊主はこともあろうに、

織田家の人事のことや機密事項にまで首を突っ込んでいたのです。

 

これを知った前田利家は、

茶坊主が織田家の政事を私物化するのではないかと思い、

信長の許可を得ないまま無礼討ちにしてしまったのです。

 

まっすぐな性格の前田利家ですから、

部外者のような者が横槍を入れるのは我慢ならなかったんでしょう。

 

事件は信長も知ることになり、

前田利家は死罪にはならなかったものの、

織田家に出入りすることは許されず、いったん浪人の身となりました。

 

正室のまつと結婚したばかりだったのですが、

こういった事情があったので、

二人の新婚生活は慎ましいものであったそうです。

 

いつの時代も世間は難しいもの

 

前田利家が信長の勘気を受けて浪人したと知った人々は、

だいたい三通りの反応を示しました。

 

①利家が信長に怒られていい気味だとあざ笑う者

②利家が信長に対して謀反を企てるのではないかと探る者

③利家のことを本当に心配する者

 

このうち、③の本当に心配した人はそう多くなく、

わずか2~3人だったと言われています。

 

しかし、その貴重な友人は、

木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)・ねね(のちの北政所)夫妻ではないかと、

私はひそかに思っています。

 

多くの人が「前田は何をやっているんだ」と言って、

白い目で見たり、心ない陰口をたたく中で、

本当に自分の身を心配してくれる友の存在はありがたかったでしょう。

 

前田利家は晩年になって、このように述懐しました。

 

【私が友情のありがたさを知ったのは、

あの事件を起こして自分が苦境に立たされたときだった。

人間というものは不遇になったときに、

何がいちばん大切なのかを知るものなのだな】

 

妙香のまとめ

 

前田家と木下家は隣同士だった時期があったそうで、

妻同士のまつとねねは姉妹のように仲が良かったといいます。

 

たぶん家族ぐるみで付き合いをしていたんでしょうね。

 

また前田家が子だくさんだったのに対し、

藤吉郎・ねね夫妻には子供が生まれなかったので、

前田利家は藤吉郎夫妻の懇願を受け入れて、

四女の豪姫を養女として出しているんですよ。

 

ちなみに豪姫はのちに宇喜多秀家の正室となっています。

秀家は前田利家と一緒に豊臣五大老の職につきました。

 

こうして見てゆくと、やはり人との縁や交流って、

本当に大事だということがわかります。

 

とくに不遇だったり苦境の時に助けてもらった相手には、

絶対的な信頼感が涌くでしょうね。

 

しかし、人に対する目利きができないと、

変な見返りを期待する輩や、恩着せがましくいろいろ言う輩に捕まるので、

その辺は注意しないといけません。

 

前田利家は人を見る目がありましたし、

秀吉も藤吉郎と名乗っていた頃は苦労人だったので、

確かな友情を育むことができたんだと思います。

 

※ご注意

 

名将言行録等の逸話に基づいた記事ですので、

内容は史実と異なる場合があります。

 

愛蔵版 戦国名将一日一言

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