仮 面 の 戦 後 派 |
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評論家の「K」は、「仮面の戦後派」と題して以下のように三島を評した。歯に衣を着せない辛辣な批評は匿名性を保持した結果であろう。 戦後の三島の印象は、躯は小さく、背は低く、痩せぎすで、眼が大きく、態度は神経質でぎこちなかった。また、他人には興味がなく自己の問題に頑固に執着しているようにみえた。当時、多くの作家は、自己の戦争体験か、日本の歴史と社会の再評価に関心をもっていた。しかし彼はどちらにも関心を持たなかった。他の人々が外向的だったとき、彼は内向的だった。他の人々がまず何よりも社会状況にかかわっていたとき、彼は自己中心的だった。 彼は独特で、非凡な才能に恵まれていた。「仮面の告白」には、決然たる自己探究と、鋭い感受性と、独創的な様式との結合がみられた。ついで、創作力にあふれた作家として、己の個人的体験を水際立った手腕で想像の世界に移し換えた三島が登場した。
三島はしかし、自己の観察にかけては優れていたが、他の人格を理解する能力は限られ、美に対する感受性は豊かだったが深い文化的素養はなく、怜悧な作家ではあったが抽象的な水準での知的訓練に欠けていた。彼は常に、内部の官能的、情動的自我から外部の歴史と社会へと向うことに困難を感じながら、終にそれを乗り越えることはできなかったように思える。 小説と戯曲の想像の世界で三島が創り出した人物らは、創作の最盛期においてさえ、単に作者を代弁しているに過ぎない所があり、その傾向は「鏡子の家」で最高潮に達し、それ以後、彼の創造力は下り坂に向った。 三島はしばしば自分を唯美主義者としたが、西洋美術にも日本美術にも通じておらず、それは例えば、陶磁の世界を愛し、造詣が深い川端康成とは、鋭い対照をなしている。三島の趣味は時に卑俗に堕し、その大仰な文体故に絵葉書のような印象を与えた。 京都における建築美の象徴として金閣寺を挙げたのは、パリの建築の象徴として凱旋門を持ち出すのと同様、独自性に乏しいといえるだろう。この小説で、主人公の内部における官能的な起伏は、読む人を納得させる。だが、金閣の美の描写は通俗的である。歴史についても同じことがいえるだろう。 彼が「葉隠」について論じるときも、膨大な十八世紀の武士の修養書の中から、この書だけを抜き出し、他は殆ど読む労をとらなかったようにみえるが、それでもその感想は感受性に富み、刺激的である。己の経験について彼が語る言葉は興味深いが、これが一般論になると、意味をなさない場合が多いのである。三島は基督教徒でも、仏教徒でも、無神論者でも、知的に洗練された懐疑主義者でもなかった。少なくともその点においては、彼は近代日本の市井の人々の大多数となんら異なるところはなかった。 乃木希典は最も三島に近いが、乃木には、遵守すべき武士の原理が内在していた。作家三島には、一般的な宗教的、哲学的体系が欠けていた。彼の熱情あふれた、断片的な天皇中心主義の理論では十分でなかった。しかし彼は最後の作品となった四部作の長篇「豊饒の海」を組み立てるために、それだけでも必要としたのである。過去の作品においては仏教を真ともに取り上げたことはなかったにも拘わらず、彼は四部作を方向づける指針として、仏教の輪廻の概念を採用した。 創作力の衰えを意識していたに違いない三島は、その最後の日々に、文学的名声を盛り返そうとしていた。彼は手の内にある総ての「切り札」を使った。学習院、「生き残り」のテーマ、過激な国粋主義、暴力、同性愛、異常な性愛の現われなどである。四部作は彼の過去の全作品に対する一種の総論であり三島の文学的遺書となった。 しかし仏教の枠組みは、浅薄であった。転生の話は寧ろ馬鹿げていた。学習院の同窓生二人のうち、一人が夭折する。後に残った一人は、東南アジアの王女に出会うが、彼女は死んだ友人の生まれ変わりであることが判る。証拠となるのは大腿部の黒子である、等々。 三島はノーベル賞を目指し、川端は賞を手にした時の演説で、三島が仏教の輪廻について書き、川端が禅の思想について語ったのが、共に西洋の読者の心に訴えようとした時期だったのは興味深い。二人とも、仏教の概念をとりあげた結果、仏教が彼らの手におえない対象であり、彼らの涸渇した霊感に活力を甦らせるには大して役には立たなかったことを示すだけに終った。 三島と川端の自殺には、共通点が一つある。二人とも、創造的な作家としての自分の将来に、絶望感を懐いていたのである。 三島は復古者である。しかし乃木と違って、彼は回復すべき過去を持たぬ復古者であった。三島の漠然とした、浪漫的な、発作的な国粋主義はそこに由来しており、それが彼を殆ど論理的な帰結―死に導いたのだと思う。 中産家庭の出身である三島は、上流階級の一員となることに憧れた。創作の主人公として、彼は自分の若き日に学習院で出会った貴族や王族を選ぶことを好んだ。しかし中産階級であれ選良支配階級であれ、いかなる具体的な社会集団に対しても自分が所属していることを確認できなかった。だから三島は、西洋、とくに米国と「真の日本」と考えたものとの、空想の絆を強調する方向に傾いたのである。しかし彼が主として文学を通じて知っていた西洋はあまりに遠かった。西洋の世界が遠ければ遠いほど、西洋に対する彼の感情は分裂した。讃美と恨み、文化的な民族中心主義と、感傷的な国粋主義である。 西洋の誘惑に対する反応としての三島の国粋主義は、元来、日本の純正な伝統的価値の主張に基づいたものではなかった。むしろ三島は、「真の日本」を模索するなかで、彼は青年時代の好戦的な国であった日本にそれを見出したのである。身近な環境においては、彼は自衛隊に自己を同定しようと努めた。自衛隊側は三島を好ましい代弁者と見なしたが、天皇の軍隊という彼の時代錯誤的な考えには怖気を振るった。文化的国粋主義者としての三島には、支柱となる歴史的な実質がなかった。政治的国粋主義者としての三島には、自分の擬似軍隊を除いては、集団との絆がなかった。彼の国粋主義は彼自身を袋小路に追い込んだのだが、三島はそれを知っていたのである。 一部の人が示唆するように、三島の政治思想も、彼の仮面だったのかもしれない。しかし誰でも、自分に合った仮面を選ぶのである。三島は自らの死にあたって、好色的な恍惚感を味ったかもしれない。しかしいずれにせよ、彼の政治思想には、死という出口しかなかったのである。三島の自殺をその好色的な死の願望によってのみ説明するのは、一方的になるだろう。人としての三島を非政治的に考えることはできても、日本社会における彼の役割を非政治化することは不可能である。 彼の死後、右翼がその命日に記念の催しを行っているからではなく、戦後日本において非政治的であることは、正に政治的な行動であった。戦争反対の声を上げないことは、戦争を黙認することになろう。政治的扇動家としての三島を支持したのは、いくつかの右翼の小さな組織だけであった。とはいえ非政治的な唯美主義者としての三島は、社会に一般的である価値観を黙って受けいれ、既存の権力構造を暗に支持するすべての作家たちにとっての素晴らしい手本であったし、今もそうなのである。彼は天皇が神聖な地位に復権すべきであると説いた。これこそ結局は、近時の日本の歴代政権が、三島よりも微妙で現実的なやり方で努力している目標に他ならない。 三島の場合とくに、死は中断ではなく帰結、衰えつつあった創造力の、実現不可能な政治参加の、涸れつきた興行師根性の帰結であったと感じられる。大向こうを狙った自殺は、おそらく彼自身にとっては恍惚感をもたらしたのだろうが、見る者にとっては、それは遠い過去からの奇異な叫びでしかなかった。 日本にとって、三島の切腹が力強い象徴となることはあるまい。その代わりに日本は、戦時中の心性の悲しい記憶をこれ限りで葬り去るだろう。(昭和五十二年) |