女性は「文系」が得意、という偏見は根強い。実際、文学部の学生は、7割近くが女性だ。しかし、教員全体では3割、教授ではたった2割にすぎない(平成27年度学校基本調査より)。女性が多いのは学生だけ。そのまま学究の道に進む女性は少なかったのだ。本書は、この数字からも見える、現代にも根強い暗黙の二重規範と、その構造に迫っている。
文学は、女性が昔から「教養」として許されていた学問領域だ。高等女学校が設置されて以後、女性にも教育の門戸は開かれていったが、彼女たちが得る「教養」は、同階級の男性たちとは異なるものだったという。男性が旧制高校から享受し帝国大学に繋がるエリート的「教養」でもなく、昭和初期にブームとなった全人的「教養」とも違った。中流以上の女性たちは自己表現として文芸に励んだが、文学が女性の領域になることはなかった。新興階級の「女性」は、巧妙に学究組織から排除されていったのだ。戦後、女性が大学で学べるようになっても、求められたのはあくまで文化の消費者としての役割だった。
本書ではその象徴的作品が取り上げられている。川端康成が、「これは太宰氏の青春の虚構であり、女性への憧憬である」と絶賛した、『女生徒』。女学生の一日を描いた短編だ。実在の女性の日記が元になっており、エピソードはほぼ同じであるが、長い日記を一日分に書き換え、作品に仕上げたのだ。細部を見ると、大人の女への嫌悪感が付け足され、社会批判は差し引かれている。『女生徒』は、少女ではあるが、〈女性ではないもの〉として描かれている、と著者は指摘する。誰も脅かさない存在だからこそ、ここまで幅広く愛されているのだろう。
「女性」を排除するロジックは、時流に合わせ様々だ。そんな中でも、自己表現を続けてきた女性たちがいたことを、本書は記すのだ。アイドル・コンテスト出身の私も、その末席を汚しているのかもしれぬ。
[レビュアー] 西田藍(アイドル/ライター)
※「週刊新潮」2016年10月13日号 掲載
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