2016年10月16日

今日も下流に向かって。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「ゆる〜く行く」 のが、今の私のあり方だ。
嫌いなこと、楽しくないことには、もう必死になることはない。
「喜びを前提」 にした行動でなければ、何も上手くはいかないからだ。
「真面目でなければ、真剣でなければ、幸せにはなれない、人生に勝利することはない」 と学んだ。
だが、それは嘘だった。
いつだって、「自分の波動」 が全てだ。


「真面目さ、真剣さ、必死さ」 は、「深刻さ」 であり、「心配、不安、自信のなさ、信頼のなさ」 でもある。
信頼していないから、必死になる。
信頼していれば、いつだってリラックスしていれる。
慌てても、焦っても、急いでも、「波動」 は結局同じことになる。
それは、現実からの 「逃避」 であり 「抵抗」 だ。


今の私は、何かを 「熱く語る人」、「急ぐ人」 には付いてはいかない。
「怖い顔」 をして何かを主張する政治家、評論家、ニュース・キャスター、タレント、音楽家 ・ 演出家 ・ 映画監督等様々なアーティスト…。
その真剣な、深刻な波動が、いつしか腹一杯になってしまった。
シリアス、センチメンタル、そんな泣き言ももういい。
社会を、世界を変えようと 「こぶしを挙げる」 人たち。
そして、反対運動で叫ぶ人たち。
怒りをぶつける人たち。
もうそんな波動は、自分には取り込みたくない。
リラックスしたい。
怖い顔をした人はもういい。
優しい人がいい。
「ゆる〜い人」 がいい。


YOKO は、いつも100%私をサポートしてくれる。
それは本当に、「無条件の愛」 と言うべきものだ。
必死で闘っていた長い時期があった。
そんな時も、彼女はいつも私の味方でいてくれた。
でも、少し 「ゆる〜くなった」 今の私を、彼女はホッとして喜んでいると思う。
自分の身が、少しだけど 「安全」 になったとも言えるからね。 (笑)
真剣さ、必死さ、というスタンスは、自分に痛みを与える。
腰が 「破裂」 する。 (笑)
破裂という言葉がピッタリだ。
自分で自分の身体を破裂させる、そんな 「破壊の痛み」 は、もう十分だ。


必死の波動では、何も成し遂げれない。
そこには 「引き寄せの法則」 (波動の法則) があるからだ。
いつだって、自分の 「あり方」 (思考 ・ 波動) が体験を引き寄せる。
追いかけると、幸せは逃げる。
求めると、それは手に入らない。
それが 「波動の法則」 だ。
「願いは必ず叶う」、そして 「望んだものは必ず手に入る」
そう信頼するしか道はない。


焦らない、急がない。
なぜなら、抵抗することは、私がカヌーを上流に向けて漕ぎ始めることだから。
それでは下流へは向かえない。
リラックスして、流れにまかせるしか方法はない。
漕ぐと必ず上流に向かう。
(波動のことを言っています。 漕ぐ (抵抗する) 波動と、流される (信頼して身をまかす) 波動がある…)
信頼し、安心し、リラックスする以外、波動を整えることはできない。
漕がないこと、急がずに信頼して流れに運ばれること。
流れを信頼できるかどうかが鍵だ。
「望みは叶うのだ」 と信頼するかどうか。
「漕ぐ」 と、上流へ向かいますよ…。 (笑)


「上流には何もない」 と知った私と YOKO は、それからずっと互いに流れに乗ることを楽しんでいます。
もう互いにそれから、どれくらいたったのだろう。
もう随分遠い昔のような気がします。
いつも 「リラックスすること」 を誓い合っている二人です。
もう決して 「抵抗はしない」、「必死で漕がない」 と決めた二人です。
「自分を信頼する旅」、続けています。
今日も、「全ての自分の望み」 に出会うために、下流へと流されて行きます。
ありがとう。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


あなたはカヌーの舳先 (へさき) を上流に向け、流れに逆らって必死に漕ぎ始める。
あらん限りの力で流れに逆らって漕いでいるあなたに、私たちが尋ねる。
「舳先を下流に向けて、流れに乗ったらどうかな?」
するとたいていはこう答える。
「下流に向かう? だって、そんなのは怠けているみたいじゃないか!」
「しかし、そんな頑張りがいつまで続くだろう?」 と、わたしたちは聞く。
「さあ、わからないが」 と、たいていは答える。
「だけど、頑張るだけ頑張るのが義務、というか責任なんだよ」


さらに見ていると、たいていの人はこう説明する。
「ここでは、みんながこうしているんだ」
「母もそうしたし、母の母もそうだった」
「それなりの人なら誰でも、一生懸命に流れに逆らって努力するものだよ」
「トロフィーや記念碑はみな、流れに逆らって頑張り続けた人たちの栄誉を称えているじゃないか」
「それに」 と人々はよく言う。
「こんなふうに頑張れば、死後にさらに素晴らしい報いがあるんだ」


見ていると、あなたがたは流れに逆らうのがだんだん上手になる。
筋肉が発達し、船の形がスマートになり、効率のいいオールが見つかる。
わたしたちは流れに逆らって漕ぐことを正当化する 「さまざまな言い訳」 に辛抱強く耳を傾けるが、しかしいつも物質世界の友人たちにとって最も大事なことを語り続ける。
それは、「上流にはあなたがたが望むものはない!」 ということだ。


上流にはあなたがたが望むものは何もないと断言するのは、わたしたちが 「川」 を理解しているからだ。
わたしたちはその水源を見ているし、水かさを増し、流れが速くなっていくのを見ている。
その 「川」 が何なのか、なぜそんなふうに流れるのかを知っているし、あなたがたがその気になれば 「川」 がどこへ連れて行ってくれるかも理解している。
それは 「生命の川」 で、あなたがたが物質世界の身体に宿る前から流れている。
あなたさえ 「許容 ・ 可能にする」 なら、この流れの速い川は、人生があなたに創造するように仕向けたすべてが実現する下流へと運んでくれる。
すべては一種の 「波動の預託口座」 として下流にあり、あなたが流れ着くのを待っている。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月15日

「幸せの川」


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KATSUNORI が書いています。

「本当の自分」 とは何だろう。
自分の 「あら探し」 ばかりして人生を歩むことがある。
勿論それは、自分の成長を願ってのことだろう。
少しでも自分の人格を磨きたいと思うし、少しでも足りないものを補い、様々な力をつけたいと思う。
だが、 「あら探し」 は癖になる。
いつしかそれが、自分の 「思考パターン」 になってしまう。
「きっと自分が悪い」、「きっと自分のせいだ」、「きっと自分には、何かが足りないのだろう」 と。


人を中心に自分を判断すると、余計な荷物まで背負うことになる。
人の言葉や行動を、自分のせいにする必要はない。
言葉や行動で私を威圧し、コントロールしようとする癖 (ズルさ) を持った人がいる。
そのために 「心理学を学ぶ」 という、悪意の、小心の、臆病の人さえいるのだ。
常に 「防御態勢」 で生きる人がいる。


だが、人の 「思考」 は、私には変えられない。
私がその人に代わって 「思考すること」 はできないからだ。
だから、人が何を思おうと、どんな行動を取ろうと、何を体験しようと、それは全く私の責任ではない。
人のことを一生懸命 「善意で背負おう」 としていた時代が、今なら笑える。
でも、結局私も人のことを、そんなふうに 「コントロールしようとしていた」 とも言える。
人の 「あるがまま」 を認めないことは、どうあれコントロールだから。


いつしか自分の感情 ・ 意志を、誰にも遠慮せず、躊躇なく、ズバリと表現するようになった。
それは私が、「自分を大切にしよう」 と決めたからだ。
境界線を超えてくる人には、決して容赦しない。
「歓迎しない人」 だということを、言葉で厳しく伝える。
でも昔は、いつも人に気を使っていた。
それは、単に私の繊細さを上回る人がいなかったから、とも言えるのだが。
いつも私が背負っていた。
みな、「ズボラ」 だし、「鈍感」 だし、「何も考えていない」。
楽しいことも大切だけど、「態度やムード」 も、私がとても大切にしているものだ。
情緒や感性、精神性、配慮、包容力、忍耐、善意等で、私は人より一歩先を行っていた。
傲慢と言われようが、本当なのだから仕方がない。
ハイパーな私の触覚に対応できる人は、なかなかいない。
だから、ある人が私に我慢をしていたというなら、多分私はその人の 「10倍」 は我慢していたはずだ。
いや、「100倍」 と言わないと気が済まない。


でも今は何も我慢しない。
自分に生きている。
過去のことも全て、何も否定していない。
自分の言ったこと、したことその全てを。
それでよかったと思っている。
人のことは知らない。
人が私のことをどう思おうと、それは私の問題ではない。
それは、その人の問題だろう。
どうあれ私は、その都度 「本当の自分」 に生きた。


転職したことも、全く間違いではなかった。
店を始めたことも。
店を閉めたことも。
親や親戚とのことも。
離婚したことも。
家族を置いて家を出たことも。
それ以外の全てのことも。
過去の全てが、今ある全てが、自分の全てが。


自分の面倒は自分が見ている。
だから、これでいい。
私は、自分の 「価値」 を考える必要などない。
私は、「絶対的な価値の上」 に生きているからだ。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


自分自身について (誰についても)、嫌なことを考えれば、あなたは自分の 「内なる存在」 と対立する。
そのことをわかってほしい。
「内なる存在」 は、あなたへの愛だけを感じている。
あなたが自分自身をくさしたり、責めたり、批判したりすれば、自分自身の 「より大きな部分」 との調和が壊れる。
自分をおとしめることほど、有害で困った思考はない。
「疑わしきは罰せず」 というが、あなたもよくわからない場合には 「自分に有利」 に考えれば、「本当の自分」 と調和できる。


「自分の短所を直視しないのは否認で、健康的ではない」 と言う人がいる。
それに対してわたしたちは、「自分のためを考えるのはよいことだ」 と答える。
自分を大事にして、より大きな自分と調和するように仕向けられれば、自分のためになる。
それは 「気持ちが明るくなる」 からわかるし、そうなれば他人のためにもなることができる。
だが、自分を責めて落ち込んでいたら、誰の役にも立てない。
誰かのために役立つもとである 「幸せの川」 から自分を引き離してしまうからだ。


KATSUNORI 晴れ

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2016年10月14日

「波動の預金口座」


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「豊かさ」 とは決してお金だけではない。
だが、お金は 「自由のシンボル」 であることは間違いない。
お金があると、人生のほとんどのことは経験できるだろう。
だから、人はお金を追いかけ、お金のために生き、お金のために苦しむことも多い。
お金は単に、「交換手段」 であり、何かを体験するための 「ツール」 にしかすぎないのに。


本当はお金よりも、「自分のしたいこと、手にしたいものごと」、にフォーカスすることが大切だ。
「したいものごと、ほしいものごと」 よりも、先にお金を求めてしまうのは、お金の便利さゆえだ。
だが、仕事を 「お金を稼ぐためにする」 と言い出すと内面的なバランスを壊してしまう。
お金のために嫌な仕事をし、嫌な会社で働く人もいるかもしれない。
だが、自尊心を傷つけるような仕事はすべきでない。
魂が泣き叫ぶような。
もし働くのなら、自分のしたいことを、誇れるような仕事を、魂を込めて精一杯したい。


私は、お金のために生まれてきたわけではない。
なぜなら、「人生の主役」 は、私だから。
お金が主役で、私が脇役なはずがない。
だから私は、自分のしたいことをするためには、必要なら 「必要なだけのお金」 をどんな時でも引き寄せられるはずだ。


お金は、あり余るほどあっても管理に困るし、面倒だ。
お金を増やすことに、一生をかけるつもりはない。
そんな趣味はない。
大金を使ってのお金遊び (マネーゲーム : 株式など各種投資や大会社の買収 ・ 所有等) も飽きるだろう。
大金を使って世界中の貧困や諸問題を解決することは、魅力だし、好ましいことだけれど、今の私がしたいことではない。
「自分が実現する世界」 にこだわりはあるけれど、私は 「行動」 でそれを成し遂げようと思ってはいない。
今の私は、「思考の持っている実現のパワー」 を学んでいる。


バシャールが教えてくれた。
「この惑星のほとんどの経済制度が、全員に行き渡るのには不十分であるというコンセプトをもとにしてつくられています。 ですから、今の制度を存続させていくためには、『全員に行き渡るには不十分である』、そして 『世の中には豊かな人と貧しい人がいる』 という考え方を常に強化し、維持していかなければなりません」 と。


「あらゆるものが、あり余るほどある」
「全ての人が、必要なもの全てを手にすることができる」
「宇宙が全員を等しく支えてくれている」
「やりたいことをするのに十分なものが全員に行き渡り、やりたいことができる」
そんなコンセプトで成り立っている世界に、少しでも早くたどり着きたい。
引き出したい、実現したい。
そんな世界では、誰もが今の世界の人たちとは違う生き方をしてるはずだ。


誰もが必要なときに、必要なだけ、必要なものを引き寄せる。
そして、誰もが自分の望むことをして、人生を満喫している。
怖れのない世界。
そんな素敵な世界は、きっと私のすぐ近くまでやって来ているのだと思います。
そのために、私も自分の思考を日々整えています。
自分の夢を実現するために。
「川下で待っていてくれる私の願望」 というもの。
「私の波動の預金口座」 というもの…。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


お金の不足について 「流れに逆らう考え方」 を展開しているとき、あなたはもっと収入を増やす道を見つけることを自分で 「邪魔」 している。
お金が足りない不満でイライラして、もっと 「明るい前向きな考え方を探す努力」 をしないでいると、あなたの欲求不満は怒りへ、さらには恐怖へと変化する。
あなたの 「思考パターン」 は流れに逆らい、さらに 「経済的な幸せの流れへの抵抗」 を強めていく。
そして、「暗い気持ち」 になればなるほど、事態は悪化する。
「暗い気持ち」 になるとあなたの 「抵抗」 はさらに強くなり、求めている解決策の発見を妨げ続ける。


「十分なお金がない」、ということに焦点を合わせているとき、あなたはもっとお金が欲しいという波動を出し、そのためにあなたの 「流れ」 は速くなる。
だが、「お金が足りないこと」 に焦点を合わせて、流れに逆らい続けているとき、あなたの 「内なる存在」 は下流においでと呼びかけている。
経済状況に対する激しい 「ネガティブな感情」 は、二つの重要なことを意味している。
1. あなたは大きな経済的援助を求め、あなたに 「内なる存在」 は、援助はこちらにあるよと呼びかけている。
2. あなたは流れに逆らい、求めるお金とは 「正反対の方向」 を向いている。


まず、自分という 「存在の波動」 のバランスを実現しなければ、「経済的バランス」 は実現しない。
オールを手放して流れに身を任せれば、あなたはすぐに 「ホッとして気持ちが楽になる」 のを実感し、間もなく経済的にも楽になるはずだ。
長い間何かを望んでおり、したがって 「波動の預金口座」 が相当に増えていれば、ほんの少し楽になるだけで大きな効果が上がる。
言い換えれば、数日間 「明るい前向きな気持ち」 でいることができれば、抵抗がなくなった証拠に何らかの形で経済状態が好転するだろう。


常に望みどおりの成果を挙げる鍵は、たとえお金が足りなくても 「明るい前向きな気持ち」 を維持することだ。
自分の気持ちをうまく管理できるようになれば、「エネルギーの調和」 がどれほど強力な 「レバレッジ」 (てこの働き) を持つかわかるし、「引き寄せの法則」 が本物の富を届けてくれる。
だが、目の前の現実に条件反射的な気持ちを抱いている限り、入ってくるお金があなたの 「行動がもたらすごくわずかな額」 にとどまるだろう。
今あなたがいるところから始めて、「明るい前向きな気持ちになる考え方」 を探そう。


あなたが 「流れのパワー」 を理解し、明るく前向きな気持ちになったことで 「抵抗が大幅に減った」 ことに気づけば、このプロセスが非常に建設的であることがよくわかるだろう。
そして、思考のパワーを疑う悲観主義者とは違い、状況がどんどん好転して望みが次々にかなうという素晴らしい経験をするはずだ。
他の人たちはあなたを 「ラッキー」 だと言うかもしれないが、あなたにはどうしてそうなったのかわかるだろう。
なぜなら、あなたが 「意図的に引き寄せた」 のだから。


KATSUNORI 晴れ

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2016年10月13日

「幸福な未完了な状態」


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

望みが実現することは、とても嬉しい。
でも、望みの実現を追いかけてしまっては何にもならない。
なぜなら、追いかけると私の波動は、 「渇望や執着の波動」 になってしまうからだ。


望みが実現することより大切なことがある。
それは、望むことを 「喜ぶ」 ということだ。
望むものが手に入るかどうかよりも、「望む気持ち ・ その感謝」 を味わいたい。
結果を追いかけるのではなく、望んでいること自体 (その状態) を楽しむ、喜ぶ、その想いにトキメクことだ。
想うこと、望むことは、とても幸せだ。
望んでいると、気持ちがよく、幸せを感じる。 
その波動にいることが、どんなに 「パワフル」 なのか、私は知っている。
その状態には、全ての常識を覆すような、「ミラクルなパワー」 が存在する。
いつもその波動にいることが、私に無限の、想像もできないような幸せを運んでくる。


私は、何かを 「終わらせるため」 に生まれてきたわけでない。 
なぜなら、私の命は 「永遠」 であり、私は何も終わらせることなどできないからだ。
私には、「終える」 ということはあり得ない。
私の 「望み」 も次々と起こり、それは永遠になくならない。
私は、永遠に 「拡大し、成長」 していく。


そういう意味では、私は常に 「これから成ろうとする者」 でしかない。
私は常に、「未完了な状態」 にとどまるということだ。
永遠に。
だがそんな私は、決して不幸ではない。
なぜなら、私には 「望む幸せ」 というものがあるからだ。
私はいつも、「幸福な未完了な状態」 にある。
でも、なぜだか私には、次々と不思議で嬉しい幸せなことが起こる。
人生には、不満を思う暇もないくらいだ。
私はいつも、望むという 「幸せな波動」 の中にいる。
「望むこと」、それが私の一番の望みです。


私はいつも必ず 「信じて望んでいる」 から、私はそのエッセンスと同じものを、きちんと受け取る。
つまり、私の望むことは実現化する。
そして私は、こう思う。
「やっぱりここにあったよね。 ここにあるとわかっていたんだ。 そう感じたもの…」
望んでいるときには、「それが叶う」 ということがわかるものだ。
望んでいる最中に、その 「おしるし」 があるからだ。
宇宙に願いが届いたとき、私にはそれがわかります。
今日もありがとう。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


「自分と調和していない」 ときには、世界が自分に協力してくれないどころか、わざと意地悪しているように感じます。
だが 「本当の自分」 と調和すれば、望みの実現を妨げるものは何もないと感じるでしょう。
反対勢力などないのです。
相反する意志などありません。
競争相手もいません。
あなたがなりたい自分になり、したいことをし、欲しいものを手に入れるのを邪魔するものは一切ありません。
「欲しいもが欠けていることに関心を向ける」 あなた自身、それ以外に願いの実現を妨げるものは何もないのです。


ただ、今いるところで、「ホッとして楽な気持ち」 になるように努力すればいいのです。
「ホッとして楽な気持ち」 になることが上手になれば、流れに乗れます。
そうすれば、下流で待っていた願いの実現が次々とあなたの前に現れてくるから、周りの人はいったいあなたには何が起こったのかとびっくりするでしょう。
そうしたら、こう説明すればいい。
「『流れ』 というものがあるんですよ…。 わたしはやっとそれに気づいて、『自分の意図という流れ』 に逆らってじたばたするのをやめたんです。 ようやく 『自分と調和』 できたんですよ」


すると人々は言うでしょう。
「それで望むことがすべてかなうんですか?」
あなたは答えます。
「とんでもない。 だって、毎日新しい夢が生まれるんですから」
人々は言います。
「それじゃ、あなたはまだ満たされず、完成していないんですね?」
あなたは答えます。
「そうですとも。 そして、いつまでもそうでしょう。 しかし、わたしは物事を終わらせるために生まれてきたのでない。 夢を持ち、その夢に向かって進むために生まれてきたんです。 何かを現実化するために来たのではのではない。 望むために来たのです。 望んでいると、それはいい気持ちです。 望んでいればとてもいい気持ちで、しかし手に入らないと信じればとても嫌な気持ちになる。 しかし望むこと、それがわたしの本当の望みです。 望むことは本当に素晴らしいんですよ」
信じて望むのは生命を与えることであり、疑って望むのは恐ろしいことです。


流れの先で皆さんを待っているものを思うと、わたしたちはワクワクして楽しくなります。
わたしたちにはそれが見える。
それはとても素晴らしいものです。
流れに乗ってそちらへ進んでいけば、皆さんはきっと、最初はびっくり仰天するでしょう。
しかし 「現実化」 が始まったら、そうなるのが当然だと感じて、きっとこう言うに違いありません。
「ああ、ここにあったのか。 ここにあるとわかっていたんだ。 そう感じたもの」
皆さんを偉大な愛が包んでいます。
そして今も、それからいつまでも。
わたしたちは、「幸福な未完了な状態」 に 「永遠」 にとどまるのです。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月12日

「川下り」 を楽しみに来た。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「願望が川の流れをつくる」
エイブラハムがそう教えてくれた。


そして、「望めば望むほど川の流れは速くなる」
「その願望は、私より先に川下へ行き、そこで私を待っている」
そして、「その望みを手にするためには、私はただ川の流れに身を任せるだけでいい」
「オールを漕いで登ろうとする川上には、私の望むものは何もない」
「オールを手放して流される川下で、望みは私を待ってくれている」 と。


私は人生で、「川上に向かって必死で漕ぐこと」 しかできなかった。
そうとしか教わらなかった。
いやきっと私は、それ以外の声には、耳を傾けてはこなかったのだろう。
私はどんなときも、手を抜くことができなかった。
まあ、くそ真面目だったということだ。
でも、いつしか私は、必死で漕いで行くその先にあるものが、「幻」 であることに気がついてしまった。
漕いでも漕いでも、いつも私の望みは、遥か遠くへと逃げていった。
つかまえてもつかまえても、私の手をすり抜けた。
いや、それらをどんなに手にしても、私は決して満たされなかった。
私は多分、望むものは全て手にしたのだと思う。


でも、「どうしても手にできないもの」 がそこにはあった。
それは、「望みを追いかけないというスタンス」 (あり方) だった。 
私は、「手放すことで手に入れる」 という 「あり方」 を手にしたことはなかった。
全てのものを手にしていたのに。
それで私は、人生を変えた。
「漕がないで望みを手にするあり方」 を望んだ。
それは、漕ぐことに疲れるタイミングと同時に、私にやって来た。
なぜなら私は、漕ぐことにもう身体がついていかなくなっていたからだ。
若い頃は、がむしゃらに漕いで、強引に目的にたどり着けた。
でも私も、いつしか若くはなくなっていた。 (笑)


漕ぐのは疲れる。
そして、それを繰り返して、私はぎっくり腰になった。 (笑)
何度も、何度も。
全く立てなくなった。
少しでも動くと激痛が走った。
また、それとは全く関係ないが、夜中に突然具合が悪くなり、一人救急車を呼んだ。
その時は、本当に 「死との境」 をさ迷った。


そんなとき、YOKO が私に寄り添ってくれた。
アパートまで、弁当を届けに来てくれた。
病院まで迎えに来てもくれた。
いつも私をサポートしてくれた。
そして私は、もう 「漕ぐこと」 をやめた。
「漕がないで実現する人生」 を選ぼうと決意した。
それはある意味、降参することであり、人生の挫折であり、敗北だとも思っていた。
でも実は私は、「どうしてもそれがしたい。 それはできるのだ」 と信じてきてもいた。
それは私が、自分の魂で感じてきていた、抱えてきていた確信でもあった。
そして私は、その世界に飛び出そうと決めた。


バシャールは教えてくれた。
「宇宙にある真実は一つだけだ。 それは、『与えるものが受け取るものになる』 (観念を変えると、体験する世界が変わる) ということだ」 と。
「観念 (信念 ・ 信じているもの) は真実ではなく単に選択であり、全ての観念はいつでも自由に他のものと交換ができる」
「自分が意味付けした結果を、いつも全てにおいて自分は受け取ることになる。 ネガティブな見方をしたら (意味付けをしたら) ネガティブな結果が出る。 ポジティブな見方をしたらポジティブな結果が出る」 と。


「自分のあり方を変えて世界を変えること」 を体験すると、「観念とは真実ではないのだ」 ということがわかる。
私は、行為 ・ 行動するために生まれてきたわけではない。
身体で楽しむことも勿論できるけれど、でも 「望みの実現 ・ 創造」 という面では、決して努力して苦しむ必要はないのだということを知った。
それらが必要だというのも 「観念」 なのだ。
「全ての望むものを楽に手に入れていい。 苦労は必要ない」
私は、そんな観念を自分に取り入れることができる。


願望は、「永遠」 だ。
望みを抱くことこそが 「創造の始まり」 であり、人生 (体験) のスタートだ。
私は人生を楽しむためにやって来た。
決して、苦労をするためにやって来たわけではない。
全ての望みを自由に抱き、それを無限に体験していい。
でもそれは、「追いかけるもの」 ではなく、「引き寄せるもの」 だ。
「引っ張る」 のではなく、勝手に 「引き寄せられて」 来る。
「漕ぐ」 のではなく、「漕ぐのをやめたら」 自分に近づいて来る。
この感覚を知ったら、もう漕いだり、頑張ったり、努力したり、苦労したり、疲れたりすることなんてできない。
それらはつまり、「抵抗」 だから。
望みが実現することを、私は 「拒む」 ことになる。
望みが私に近づいて来れない。
なぜなら、波動が違うから。


「磁石」は、迎えに行かなくていい。
磁石は 「磁力」 を持っているのだから、何もしなくていい。
ただリラックスしてればいいだけだ。
私は自分の磁力を信じ、決して 「漕がないぞ」 という決意をした。
そして私は、「永遠の豊かさ」 を手にしたのです。
今日もありがとう。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


向きを変えて下流に 「漕いで」 行こうとは思わないことです。
なぜなら、何かが起こってほしいと思い、でもどうすればそうなるかわからないとき、オールを握り締めて下流に向かって 「漕ごうとする」 と、必ず 「上流」 に向かってしまうからです。


人は 「癒し」 の効果を上げようとする。
そうすると必ず上流へ向かいます。
何か 「いいことが起こるように」 しようとする。
これも上流へ向かいます。
「目標を定めよう」 と言う。
これも上流へ向かってしまいます。
なぜなら、「何とかしようとする姿勢」、これは常に 「流れに逆らう」 結果になるからです。
ただ流れに任せているのとはまったく違います。


「それは降参することだ」 と言われるかもしれない。
わたしたちは、願望をあきらめることとは言いません…、そんなことは不可能だからです。
あなたがたの願望は 「永遠」 なのです。
あなたがたは、これまで拡大成長してきた自分より小さくなることはできない。
生きていて、ということは 「もっと多くを望む」 ように仕向けられて、それから 「もうどうでもいいや」 と言うことはできない。
願望を 「修正」 していくことはできますが、しかし常に拡大成長し続けるのです。
あなたがたの 「川の流れ」 はますます速くなっていきます。
そして、わたしたちはあなたがたをとても愛しているけれど、もっと明るい前向きな気持ちになりたいと思えば、あなたがたには 「流れに乗るという選択肢」 しかないのです。


ジュエリーとエスターが、川下りのガイドにこんなふうに言うところを想像できますか。
「このいかだに乗っていると、どこへ着くんでしょう?」
ガイドは言うでしょう。
「ああ、何マイルも下流のフォート ・ コリンズの近くですよ」
するとエスターが言う。
「それじゃ、いい考えがあります。 いかだをバスに戻して、バスでそこへ行きましょう。 そして目的地から数百フィート離れたところにいかだを浮かべればいい。 そうしたら、たちまち目的地に着くじゃありませんか」
ガイドは言いますね。
「何を言っているんだか。 奥さん、頭が変なんじゃありませんか。 だって、あなたがたは川下りをしに来たんでしょう?」


わたしたちも同じことを皆さんに言いたいのです。
あなたがたは川下りがしたかったんでしょう?
するとあなたがたは言う。
「川下りはしたいけど、欲しいものなしに10年、20年、30年、40年、50年と過ごすのは嫌なんです。 願いを実現するまで、どれくらい待たなくちゃいけないんですか?」
わたしたちは答えます。
「流れに乗りさせすれば、ほとんど待たなくていい。 しかし、流れに逆らっていれば、永遠に待たされます」 と。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月11日

まず、「幸せになろう」 と決める。


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KATSUNORI が書いています。

「望み」 を見つめるのはいいが、その都度今いる自分の現実に失望していては何にもならない。
「不足」 を見つめていて、明るい前向きな気分にはなれるはずがないからだ。
「望み」 まで、「まだまだ遠いなあ」 と思っていては、疲れ果ててしまう。
困難、苦労、苦しみ、嘆き、悲しみ…。


とにかくいつも 「楽しい波動」 に自分を置くことだ。
そのためには、「明るくていい気分になること」 に関心を向け、常に楽しい状態をキープしなくてはならない。
その波動をキープできれば、その波動に含まれる楽しい出来事が、次々と引き寄せられて来る。
まず、「自分の波動」 を整えることが必要だ。


納得いかないだろうが、自分の波動を整えなければ、望みは手に入らない。
波動が整わないから、望みは自分の手の届かないところにある。
「願いが叶ったら幸せになれる」
そう思っていたら、そんな観念を抱いていたら、そんな信念にこだわっていたら、執着していたら、いつまでたっても 「鏡」 は微笑まない。
「鏡に映ったしかめっ面」 を見つめながら、文句を言っても、嘆いても、怒っても、何も変わらない。
現実は、「鏡に映った自分」 (その波動の世界) なのだから。


バシャールは教えてくれた。
「変化はまず自分の内側で起こらなければならない。 現実がどのように見えたとしても。 現実が笑うのを待ち続けないで、あなたがまず笑ってください」 と。


嘆いていては、いつまでたっても幸せにたどり着くことはない。
だからまず、「幸せになろう」 と決めることだ。
瞬間瞬間、「幸せでいよう」、「喜びでいよう」、「希望でいよう」、「感謝でいよう」 と決めよう。
その先に、その毎日の積み重ねの中に、自分に 「ポジティブな姿勢 ・ 思考パターン」 が築かれていく。
愚痴を言わず、批判をせず、焦らず、自分を愛して、信じて、毎日を過ごしたいものだ。


そうやって私は、毎日おりこうさんにしているので、昨日もお出かけをした先で、思いがけない引き寄せをしましたよ。
ジャガイモ1袋、肉まん2つ、サランラップ1本〜。 (笑)
何かを買ったわけでもないのに、そんなに持たせてくれました。
逆に、「あるお断り」 をしに、そこへ行ったのに。
「ある決意」 をして…。 (笑)
人生って、本当に不思議ですね。
知らなかったけど、開店1周年記念だったらしい。 (笑)
かたじけない〜! (笑)


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以下は、エイブラハムの言葉です。


大変だ、苦しいという思いは、「今いるところ」 と 「到達しようとしている目標」 をいつも比べるから起こる。
「目標までの距離」 を測っていては、まだ遠いなあと思っていたのでは、踏破すべき距離も仕事も努力も 「増幅」 される。
だから、大変な上り坂だと感じる。
苦労だ、苦労だ、苦労だ、と感じていたのでは、決してハッピーにはたどり着かない。
それは 「法則」 に反する。
「もっと状況がよくなれば幸せになれる」 というのは、生産的な考えではない。
なぜなら、幸せでなければ、幸せな場所に到達できないのだから。
まず 「幸せになろう」 と決める、そうすれば幸せな場所に到達できるのだ。


遠く目的地を見るとき、あなたがたは今いるところと到達すべき場所の 「距離」 を思って焦燥感を拡大させる。
こういう思考習慣では、創造の速度が遅くなるばかりか、永遠に目的地に到達できないだろう。
「肯定的な側面」 を探し、「明るくていい気分になること」 を考える努力をすれば、ポジティブな引き寄せができて、望みはもっと早く実現する。
芸術作品を生み出す彫刻家は、完成した作品に最大の満足を見いだすわけではない。
彫刻家の喜びは 「創造のプロセス」 (作品を彫刻すること) にある。
物質世界におけるあなたがたの創造の経験も同じで、「次々に何かになっていくこと」 が楽しいのだ。
「明るくていい気分になること」 に関心を向け、「常に楽しい存在状態」 を実現していれば、望むことがどんどん引き寄せられてくる。


人はときどき、幸せなことが実現する前に幸せな気分にならなければならないなんて不公平じゃないか、と不満を言う。
その人たちは、「不幸なとき」 には幸せなことが起こる 「必要がある」 と考え、既に幸せなら幸せな出来事は不必要だと思う。
だが、それは 「引き寄せの法則」 に反する。
欲することが細部まで実現するより前に、まず欲することの 「エッセンス」 を感じる方法を探さなくてはいけない。
言い換えれば、「豊かさが実現する前に豊かだと感じる」 必要があるのだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月10日

宇宙のどんな粒子にも。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「私の巣を整える」 のは、私の責任だ。
他の誰の責任でもなく、誰の仕事でもない。
私はいつも、「自分の経験を創造する力」 を信頼していたい。


私が全てにお手上げし、全てを放棄するとしても、「内なる存在」 は私を愛してくれている。
私を抱きしめてくれている。
そんな 「生きながらクタバルこと」 (言葉は悪いが) を繰り返して、今の私がここにいる。
そして、もうまもなくその完結偏というところまでたどり着いた。
これまで何度も、「死刑執行の気分」 を味わってきた。
繰り返し何度も、「臨終の気分」 を味わってきた。
そういう変態な趣味が、私の中にはあるのだ。 (笑)
お客さんに繰り返し、「マスターは破滅願望がありますよね〜」 と言われてきた。 (笑)
でもそれが、蛇男 (私) の 「生〜死〜再生」 という変性サイクルだ。 
Mr. Snake ! (ミスター ・ スネイク !)
YOKO に、そう呼ばれてしまいました。 (笑)


何度も脱皮のプロセスを経験してきた。
でもそれが、私のしたいことだったのだから仕方がない。 
いや、宇宙がすること、私の 「内なる自分」 がしてきたことだ。
私は無実だ。 (笑)
でも、困難は、実はワクワクする。 
それをやり切らなくては気が済まない、自分がいるのでしょう。
自分でも自分に、つくづく困ってしまいます。 (笑)
でもそれに抵抗しないで流されるしか、私が生き残る道はないことも十分知っている。
これまでと同じだ。
この先に光がある。
サイキック (超常的)・ エネルギーの世界、そして錬金術、そして再生昇華 (または不死)。
蛇男は脱皮を完結します。 (笑)
これできっと、「変性」 を完結できると思うのです。
ありがたい。


バシャールの言っていた 「電車のレールの分離」 ということ。
目的地の違う者は、明確に分離していく。
もう、後戻りはできない。
リアルな分離は、自分が進めていることだ。
そうでないと、もう自分は生きれないところまで来てしまった。


何も怖れはない。
私の一部はもうそこにシフトしている。
そこで私を待っている。
物理的自分が、まだここにいるだけだ。
早くその時になってほしい。
待っているほうが苦痛だ。
でも何も急ぐことはない。


バシャールが教えてくれた。
「降参することが大切だ。 だが降参とは決して絶望してお手上げすることではない。 宇宙を信頼して身を委ねるということが降参するということだ」 と。

そして、エイブラハムが教えてくれた。
「必死でオールを漕いで登り上がる川上 (上流) には、あなたの望むものは何もない。 あなたの望みが叶う場所は、握りしめているオールを手放して流れに流され運ばれていく川下 (下流) にある」 と。


宇宙のどんな粒子にも、「望むことと」 と 「望むことが欠けている」 という面がある。
人生には楽しいことがあれば、もう一方に必ず楽しくないことがある。
でももう、私のそういう人生は、このタイミングで終わる。
「闇の中にある光」 を、何度も見つめてきた。
つかんできた。
手に入れてきた。
それが今の自分だ。
もう私の人生には、闇はやって来れないだろうと思う。
脱皮の完結。
そういうことにしたい。 (笑)
ありがとう。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


楽しいことを見ていれば明るくていい気分だし、楽しいことがあれば簡単に明るくていい気分になれる。
それは当たり前だ。
だが、みんなで協力して楽しいことだけを自分に見せてくれ、と周りの人たちに要求することはできない。
自分にとって完璧な環境を作ってくれと他人に求めるのは、いろいろな意味でいい考えではない。
1. 「あなたの巣を整える」 のは、周りの人たちの責任ではない。
2. あなたが自分で創っている状況を、他人はコントロールすることができない。
3. なによりも、それであなたは 「自分の経験を創造する力」 を投げ捨てることになる。


楽しいことがあれば、もう一方に必ず楽しくないことがある。
「望むことと」 いう宇宙のどんな粒子にも、「望むことが欠けている」 という面があるからだ。
望まない面を押しのけようとしてそちらに焦点を定めていると、望まない面がますます引き寄せられてくる。
なぜなら、望むものでも望まないものでも、関心を向けたものが引き寄せられてくるのだから。


どんなことに関心が向いているときでも、「明るくていい気分になる側面」 を探そうと決意すること。
あるいは、「明るくていい気分になることだけ」 に関心を向けること。
そうすれば、人生のいい面がどんどん増えていく。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月09日

感謝。


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KATSUNORI が書いています。

今年の 「歩け歩け運動」 も19回を数えました。
今年も、あちらこちらの公園に、YOKO と二人歩いて出かけました。
お弁当とビールをリュックに入れて。
顔や手に日焼け止めを塗って、そして、サングラスをかけて。


今は気温が下がり、ちょっと肌寒い感じも漂ってきていますが、でもまだ今年ももう少しくらいはお出かけができそうですね。
でも、外でお弁当を食べれるのは、今月一杯くらいがせいぜいかな…?
紅葉がいい感じに色づいたら、旭山公園に行こうかと思っています。


でも、ちょっと前に YOKO がお伝えした通り、ブログに載せている写真は携帯で撮ったものを載せていたのですが、この度ブログの管理会社の都合で、ガラケーからの写真はアップできなくなってしまいました。
(二人とも物持ちがよく、未だにガラケーを使っています。 あは)
時代ですよね〜。
取り残されている我々です…。 
ということで、これからは新しい写真をブログにアップすることができません。


年末には、YOKO の故郷 (旭川) にも、私用があり二人で行く予定をしているので、その写真をアップすることを楽しみにもしていたのですが残念です。
そのうちもしデジカメを購入したら、また写真のアップができると思います。
それまでは、写真を載せるとしても、これまでに撮ってブログの写真フォルダに入っているもの、ということになります。


YOKO が一昨年から、ずっとお出かけの写真をアップしていました。
私は私で、別の自分のブログで、お出かけの写真をアップしていました。
2年ちょっとの期間でしたが、二人であちこちへ出かけて行き、とても大切な思い出をたくさん作りました。
お弁当を食べながら、ビールを飲みながら、歩きながら、色々な話をしてきました。


それらの写真は、ブログトップ画面左の 「カテゴリ」 にH28年、H27年、H26年と3つのフォトアルバムとしてまとめています。
機会があればご覧下さい。
写真のアップが最後になるということで、前回、前々回のお出かけでは、思い切って二人一緒にガラケーで写真を撮り、それをブログに載せました。
そんな感じで、写真のアップに区切りをつけようと思ったからです。
これからも私たちは、私たちのペースで変わらずに、お出かけはしますが。


いつもブログを見て下さり、ありがとうございます。
そのうちに、本年度後期の 「歩け歩け運動の写真」 を、総集編としてアップしたいと思っています。
これまでその都度アップしてきた写真も、できれば再編集したいと思います。
また、各々のブログの写真フォルダには、それ以前のものもありますので、そちらも再編集できるかもしれません。
以前アップしていたものですが、YOKO も 私も、古い記事はある時点で全て消去してしまいましたからね。
でも、写真のデータは、フォルダにまだ消さずに残っているはずです。
(どうかな…?)


記事は、これからも変わらずマイペースですが書いていきます。
まあ、ただ自分のために書いているのですが…。
そんなことで、これからも変わらず宜しくお願い致します。
いつも、ありがとうございます!


KATSUNORI & YOKO   


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 17:15| Comment(0) | ブログ紹介 ・ プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

変性 (へんせい)。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

制限とは、自分が自分に与えているものだ。
なぜなら、全ては自分が創っているのだから。
だから、本当は自分が閉じ込められているように感じているその 「箱」 はない。
「箱はなかったのだ」 と、私は目覚めることができる。
それは、私次第だ。
私は、何を信じているのだろう、何を体験しているのだろう。


YOKO にメディスン ・ カード (インディアン ・ カード) の 「Snake」 (スネイク = へび) について教えてもらった。
そのカードの意味は、「変性」 (性質が変わること。 特に異常に変化する場合を指す) ということのようだ。
蛇が脱皮して、脱け殻を脱ぎ捨てて変性していくことが、その象徴らしい。
私は、変容という言葉は知っていたが、変性という言葉は知らなかった。
変容というと、サナギが蝶になり飛び立つイメージで美しいが、何となく今の自分のイメージではない。
でも、本当は自分が嫌いなはずのその蛇のカードのことを聞くと、「ああ、今の私は変性の時なんだ…」 と思った。
私は蛇です。 蛇男 (スネイク人間) です! (笑) 
ただ今、地べたを這いずりながら、ニョロニョロ、クネクネしながら、変性しています〜。 (笑)


そのメディスン ・ カードの解説には、こんなことが書いてあった。

「スネイクをメディスンに持つ者の数は非常に少ない。 肉体的、精神的、感情的、霊的なヘビの噛み傷を数多く受けながらも、それを生き延びることがスネイク人間の通過儀礼だ。 数々の通過儀礼を経た後に、あらゆる種類の毒を変性させる術を学ぶ。 スネイク ・ メディスンは創造のパワーだ。 ここにはセクシャリティ (性的要素)、サイキック (超常的) ・ エネルギー、錬金術、再生昇華 (または不死) が含まれる。 脱皮するヘビは 「生〜死〜再生」 という変性サイクルを示す」
「脱皮は、包括性 (wholeness)、宇宙意識 『何事にも抵抗せず意欲的に体験する』 エネルギーの象徴だ。 スネイクのパワーは、『自然界のすべては等しく価値があるのだから、毒と思っているものだって食べて、吸収して、統合して、変性できる』 と知るパワーだ」 と…。

また、こんな添え書きもありました。
「美しいものだけを見てきた人には、本当の美しさはわからない。 暗闇を知っているから、光が暖かいと思えるように…」  


私は実は自分が、「大嫌いだった蛇だったのだ」 と思うと、何だかほっとしています。
そんな蛇を、蛇男 (スネイク ・ マン) を、愛することができそうです。
感謝です。
ありがとう。


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以下は、バシャールの言葉です。
(何度か載せていますが、大切な言葉なので繰り返しています)


たとえ、どんなに暗く見える状況であったとしても、みなさんには、「光とつながる命綱」 が必ずあります。
光は闇がなければ存在できないのと同じように、闇も光がなければ存在できないからです。


皆さんは、影を怖がります。
影を見ることによって、「本当は何もなかったんだ」 ということを悟るのが怖いのです。
影を、学んだようにただ怖がることもできます。
でも、それと同時に、影を見ることによって、目を覚ますこともできるんです。
そして、その影の 「無の中」 に、実はすべてが存在しているのです。
そこに何を見るかは、あなた次第なのです。


自分の中の一番強い観念が、意識的であろうが無意識的であろうが、その観念と同じ内容の現実を引きつけます。
なぜならば、一番強い観念が、一番強い振動だからです。
ですから、その観念を変えることを許してあげてください。


あなたの外で起きている変化は、本当は 「あたなの意識の中」 で起きている変化です。
なぜならば、あなた自身があなたの現実をつくっているからです。
自分自身の変化を信じて、逆らわず、その変化の流れに乗って自分の今一番やりたいことをすることが、あなたの本当の道を歩くことにつながっていきます。


箱の中に自分がいると考えているとき、全然自由がありませんね。
でも、その箱が幻想 (イリュージョン) で、これは本物ではない、実体がないと感じたとき、わかったとき、自由になります。
体験は真実です。
でも、箱は真実ではありません。
箱はありません。
あったこともありません。
箱があるという体験はあります。
でも、箱はないのです。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月07日

フォトアルバム。 2016年(24)


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「歩け歩け運動」 (今年の19回目) に行ってきました〜!  

当日は体調も良く、お天気にも恵まれましたぁ〜。 わーい(嬉しい顔) 晴れ 
朝早く起きて、今回はサンドイッチと焼きソバお弁当を作りました。 
出発前には、沢山歩いたご褒美用のビー〇 ビール を購入しました〜。 手(チョキ)
行き先は、今年2回目の五天山公園で〜す! ぴかぴか(新しい)
空気が澄んでいて、とても癒されました〜。

沢山の親子連れの方々が、リラックスして楽しそうでしたよ。 サッカー 野球 
また、焼肉が出来るスペースでは、小さなお子さんも安心して楽しめるように、皆さん小さなテントを張っていました。
貸し出し用のテントもあるそうです。
お肉や野菜なども、お手ごろ価格で販売しているようでした〜!
五天山、最高〜〜!! ハートたち(複数ハート)
来年は、私も絶対焼肉を楽しみたいで〜すっ! わーい(嬉しい顔)

デルモ (私) が着ているお洋服は、着物をリメイクしたものですが、目に留まったのか、行き帰りの歩いている途中、すれ違う数人の方々にじいっ〜と見つめられちゃいましたよ〜。 
デルモはちょっと、嬉しかったです〜。 (笑)  

繰り返しお出かけが出来てつくづく思うのですが、歩けることも食べられることも、本当に幸せです。
そして、お弁当やお洋服を作る楽しさ、そして、寄り添ってくれる相棒さんがいてくれる有り難さを、しみじみと感じています…。  

いつもありがとう。 
感謝しています。  
YOKO かわいい


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 16:15| Comment(0) | フォトアルバム H28年 (2016年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「本当の自分とのギャップ」 と 「抵抗をやめて流される下流」


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「本当の自分」 とは何だろう。
私は、人生に、自分自身に理想があった。
それは、私の持っている 「愛」 に生きるということだ。
恋愛のことを言っているのではないよ。
みな 「愛」 なんて言葉は誰も使わないから、会話に困る。 (笑)


私の中にある譲れないもの。
それを私は、「愛」 と呼ぶしかない。
みな 「自己愛」 のことを、「利己的な愛」 と一緒にし批判するだろうが、私は武者小路実篤やエーリッヒ・
フロム、カール・ヒルティやジェームス・アレン 等に学んだ人間だ。
そして、エイブラハムも、「内なる自分と調和するため」 に、自己中心主義を教えてくれている。
「本当の自分との調和」 なくして、人に何も与えることはできない。


私が 「本当の自分」 でいること、「自分の愛に生きること」 は、全く正しい道だ。
私はその 「自分の愛」 を中心として生きている。
そのためには、私の全ての思考も感情も、それに従わせる。
みな従わなければならない。
いや、みなそれに従うのだ。
なぜならそれが、「本当の私」 だから。


それには誰も、そして私自身でさえ、逆らうことはできない。
それは、私の絶対的な中心なのです。
今の私には、その 「本当の自分」 を邪魔するものは何もない。
そしてこれが、私の 「川の流れ」 だった。
抵抗をやめ、オールを手放して、ここまで流されてきた。
もう景色は随分変わった。
必死でオールを漕いで 「上流に向かおうとしていた時代」 は、もう遥か遠い昔のことだ。


「明るく前向きな気分」 でいることが何より大切だ。
そして私は、こんなにも 「本当の自分」 に生きることができるようになった。
感謝しています。
いつもありがとう。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


長く生きれば、たいていは心配したり騒いだりすることが増えて、「本当の自分」 と今との 「ギャップ」 がだんだん大きくなっていく。
あなたがたは成長し、人生経験をもっといいものにしたいと願う。
そこでセミナーに通い、瞑想を教わる。 
心を鎮めることを学ぶ。
心が鎮まると思考が止まります。
思考が止まれば、「抵抗」 の思考も止まる。
だから、ギャップが縮まります。
それから瞑想を終え、誰かを見つけて批判する……するとギャップが広がります。
誰か素晴らしいと思う人を見る……するとギャップが縮まります。
うまくいかないことを探す……ギャップは広がります。
順調なことを探す……ギャップは縮まります。


言い換えれば、「高く評価すること」 が重なれば、常にギャップは縮まり、「うまくいかないこと」 を探せば常にギャップは広がります。
だから日々、毎日、「どんな思考プロセスを経験しているか」 で、ギャップは広がったり縮んだりし続けているわけです。
「許容 ・ 可能にする術」 とは、自分の感じ方に関心を向けて、それによって自分と 「本当の自分」 のギャップに気づく、そして暗いネガティブな思考を手放すことで、少しでも 「抵抗の少ない考え方」 のほうへ意図的に自分を誘導することです。
別に強烈に 「前向きな思考の嵐」 を起こす必要はありません。
ただ 「嫌なことや心配なこと」 を考える、しゃべるのは 「やめる」、それでいいのです。


「自分がどこにいようとそれは関係ない」、ということです。
いつ、どこでも、向きを変えて流れに乗ることはできます。
それどころか、向きを変えて流れに乗る必要すらない。
ただ 「オールを手放せばいい」 のです。
あとは 「流れ」 がやってくれます。
もちろんわたしたちは、「どんどん気持ちが明るく前向きになる下流」 に向かってほしいと思います。
だが、「川の威力」 を知っていますから、急ぐ必要は全然ないと、わたしたちは言うのです。
ただ 「流れに逆らっている今の行動をやめる」、それだけでいい。
あとは 「流れ」 が向きを変えて、あなたがたを運んでくれます。


それにまた、わたしたちはあなたがたには選択肢がないことも知っています。
何かが起こったとき、暗いネガティブな気持ちでいたら、いきなりボートの向きを変えて全速力で明るい前向きな気持ちのところに行こうと思っても、それはできないのです。
それはできない。
それにそんな必要もありません。
あなたがしなければならないのは、「上流に向かって漕ぐのをやめること」、それだけです。
あとは 「流れ」 が運んでくれます。


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 06:10| Comment(0) | エイブラハム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月06日

「タバスコとパイ」


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

関心 (意識) を向けるものは、自分にやって来る。
私はそれを引き寄せる。
それが実現する。
自分の体験となる。
私が望んでいなくても。
それが、「引き寄せの法則」 (波動の法則) だ。
エイブラハムがそれを教えてくれた。
私の思考は波動であり、その私の思考は、それと同じ波動のものを引き寄せる。
私はそれを実現し、体験する。


私の世界には、好ましいものもあれば、好ましくないものもある。
ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。
好きなものもあれば、嫌いなものもある。
恐いもの、悲惨なもの、不快なもの、憎むべきもの、美しくないもの等も。
それがあるのが地球であり、私の生きている世界 (現実) だ。
それは、「コントラスト」 (対照、対比、明暗、差違) という世界だ。


でも私は、それを望んで生まれてきた。
なぜなら、その 「無限の範囲 ・ 領域 ・ 空間」 があるお陰で、私は色々な体験ができるからだ。
全ての物事を受け入れ包み込んでいる存在 (例えばそれを、 「宇宙」、「大いなるもの」、「大いなる全て」 等と表現しよう) があって、私は様々な体験ができる。
体験ができるのは、 「無限の範囲 ・ 領域 ・ 空間」 があるからこそだ。
上下、左右、高低、大小…。
色 ・ 形、音、匂い、味、肌触り…。
五感で感じる 「コントラスト」 という世界。


でも私は、選択することができる。
体験する物事を。
でもそれは、体験したくないことに抵抗するということではない。
私は、それに 「関心を向けない」 という選択ができる。
「関心 (意識) を向けるから体験するのだ」、「関心 (意識) を向けなければ、体験することはないのだ」 とエイブラハムは教えてくれた。


私はある意味、「世界にある全ての恐いものにどう対処すべきか」、という視点で人生を生きてきたようにも思う。
世界に存在するもの、身の周りで起こる ・ 起こっていることには、無関心ではいられない。
勤め人をしてた頃には、様々な情報を収集するために、経済新聞も購読していたし、一般紙も道新、読売、朝日、毎日、産経等、各紙の読み比べもしていた。
だが、今は新聞は全く読まない。
せいぜい、ニュースをテレビで少しだけ見る程度だ。
なぜなら、そのほとんどが、何も自分のためにならないからだ。
今は、関心がない。


テレビで、毎日たくさんのニュースを流している。
だが、楽しいことより、圧倒的に不幸な、心地よくない出来事が多い。
凶悪な事件、悲惨な事故、突然襲いかかる災害、戦争やテロ、恐ろしい病気、社会にある不正や混乱等。
「その恐ろしさ、トラブル、課題等」 にわざわざ注目させ、まるでネガティブな物事を誇張し、宣伝し、拡大しようとしているかのようだ。
人はまだまだ、楽しいこと、嬉しいことより、不幸な出来事、恐ろしい物事、憤りの世界等に関心を向けている。


当然、それらを見ると、私は心地よくない。
私は人生に、そんなことを望んではいないからだ。
でも、世の中の人々の不幸な出来事や社会の不正を、無視できないと思う自分が昔はいた。
だが、私にはそれをどうすることもできない。
でも、関心があるからそれを見続ける。
それを何とかしようとする自分がそこにいた。
人の不幸や社会にある不正を見て、心地よいはずがない。
そしてそれが、自分にも起こるのではないか、と不安にも思う。
でも、私はわざわざそれらを自分に取り込んでいた。
次々と。
まるで誰かと競うように。


でも、私はこれまでの人生で、「自分の望まないもの」 が全て明確になった。
それらが世界に、宇宙に存在することは仕方がない。
それをなくすことはできないからだ。
その全てがあって、この世界 (コントラスト) が成立しているのだから。
それが嫌なら、私は 「時間と空間のない世界」 に引き戻るしかない。
この物理的世界に焦点を結び、体験という世界を生きるのなら、その全ての存在を認めるしかない。


だが私は、エイブラハムが教えてくれた通りにすればいい。
自分が体験する物事は、ただ私がそれらに 「関心を向けるかどうか」 にかかっている。
「好ましくないもの」 について、私は関心を向けない選択ができる。
身の周りの全てについて。
「関心を向けないこと、考えないことは、自分の世界から消えていく」 とエイブラハムは教えてくれた。
つまり、「消えないもの」 は、「まだ手放していないもの」 だ。
「つかんでいる」 し、「つかんでいたい」 と思っているということだ。
そこには、それを手放せない、必要としている何らかの 「観念」 (信念 ・ 信じているもの) があるということだ。


もう私は、自分が積み上げてきた知識や情報の大半は、今の私のはそぐわないものだと思っている。
それらを抱えていても、自分の 「健康や裕福」、「安心や安全や調和」、また 「制限のない自由」 等につながるものは何もないからだ。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


わたしたちがよく話す 「タバスコとパイ」 のたとえ話があります。
「このキッチンにはタバスコがある。 わたしのパイにタバスコが混じってしまうよ」
いいえ、タバスコはあなたのパイには混じりません。

「でも、キッチンにあるじゃないか。 わたしのパイに混じるかもしれない」
いいえ、タバスコはあなたのパイには混じりません。

「でも、キッチンにあるから、わたしのパイに混じるかもしれない。 キッチンになければ、ずっと安心なんだ (おかしいでしょう)。 わたしのパイに混じらないように、キッチンからタバスコを片付けてくれよ。 ほら、わたしのパイに混じっちゃった! だから言ったじゃないか。 だから言ったじゃないか。 タバスコがキッチンにあるから、わたしのパイに混じってしまうって」

そこでわたしたちは言うのです。
キッチンにタバスコがあるからパイに混じったのではありません。
あなたがタバスコから目を離せなかったから、だから混じったのです。
あなたがタバスコのことばかり言っているから、タバスコの 「波動」 を活性化させ続けたから、だから混じったのです。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月05日

思考を向けるべきもの。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

昨日の記事は、わかりにくかったかもしれない。
エイブラハムの言葉が、とても長かったからね。
でも、客観的な 「様々に広い視点」 を持つことも大切だから、あえて範囲を狭めなかった。


私が言いたかったことは、私が彼女 (YOKO) に関心 (意識) を集中したから、「自分の調和を保てた」 ということだ。
彼女と会話をすると、私はいつも前向きな明るい気分になれた。
それは私が、「本当の自分」 と調和ができたからだ。
私は真面目な話のできる人を探していた。
空想でもなく、幻想でもなく、独りよがりでもなく。
エゴイストでもなく、センチメンタルでもなく、強引 ・ 傲慢でもなく。
落ち着きがあって、思慮深くて、そして主体的で、好意的で。
虚栄がなく、謙虚で、愛にあふれていて、勇敢で。
そんな信頼できる素敵な人を…。


私は彼女のお陰で、身の周りにあった 「私の好まない状況」 を全て一掃できた。
私が彼女に、「関心 (意識) の全て」 を注いだからだ。
私はそれまで出会った人たちには、もう全く関心がなかった。
単純に、つまらないからだ。
私たち二人には、多分共通の願望があったのだと思う。
それは、「もっともっといい気分になりたい」 ということだ。
そして私たち二人は特に、「人間関係」 (人との絆 ・ つながり) に重きを置く人間だ。
絆やつながりのない付き合い ・ 関係ほど、辛く寂しく悲しいものはない。
私は人との 「調和」 ・ 「一体感」 を強く求めていた。
そして彼女は、何より 「孤独」 が嫌いで、それをいつも怖れていた。
そんな二人が、それまでの人生の経歴とともに、「同じ場所」 (ところ ・ 魂の状況) にたどり着いていた。

彼女のそれまでの経緯はこちらで。 
「フォトアルバム (YOKO 人生)」 (トップページ左の 「カテゴリ」 より)
http://blogsara.seesaa.net/category/25943114-1.html
私のお店に来るまでのことが、幼少の頃からの写真集として語られています。 


本当は誰でもみな、人との絆やつながりを求めている。
でも、自分に関わってくれる優れた他者に対して、きちんとた 「感謝」 ができる人はなかなかいない。
愛を注がれてもわからない。
それは、自分に愛がないからだ。
少なくとも私にはそう見える。
私がお店をやって、心から共鳴できた人は、彼女ただ一人だけだ。
そしてそれは、私のそれまでの人生でもなかったことだ。
私は、「魂の居場所」 (あるべきところ) を探していた。
そして彼女も、さ迷うようにしてそれを探していた。


きちんと人に感謝の言葉を伝えることができたのは、私のお店では彼女だけだった。
私には私の求める、納得するレベルというものがある。
不誠実や虚栄 (見栄) 、ずるさ、慢心、傲慢、卑怯、小心。
私の嫌いなものが沢山ある…。
それは、私の意識 (レベル) の投影だ。
でもみな、それだけ必死に求めてはいない。
餓えてはいない。
だから、感謝なんて生まれない。


魂を癒すための苦労をしてきていない。
でも、魂に何の輝きもない。
みな虚栄でチャラチャラしている、漂っているだけだ。
本物の骨、本当の筋のある人がいない。
生意気な奴も多い。
謙虚さが足りない。


だが彼女は違った。
彼女は、自分の魂を救うために七転八倒の苦しみを味わってきていた。
それで私は、彼女には私の持っているものを全て注ごうと思った。
なぜなら、彼女の魂のいるところ (生意気にいうとレベル) は、私と違いがないと感じたからだ。
でも、決して全てがすんなりといったわけではない。
その都度彼女が 「抵抗したこと」 も沢山あった。
彼女は、沢山の 「不要な観念」 を抱えていた。
でも、それは私も同じだった。
私も彼女に抵抗したことが沢山ある。
私の抱えている他の沢山の観念を、逆に彼女が抱えていないことを私は知った。


エイブラハムは教えてくれた。
「望まないことに関心を集中しなければ、自分自身との調和も見いだしやすい」
「相手があなたを幸福にしているという考え方は間違っている。 幸福であるのが、あなたの自然な状態なのだ。 あなたを喜ばせてくれる身近な人は、前向きな関心の対象となって、あなたの調和の乱れを防いでくれる。 あなたは現在自分を喜ばせてくれる人を活用して、『本当の自分』 から関心がそれないようにしている」、と。


私は、彼女に集中して関心を向けることで、身の周りにあった 「好ましくないこと」 に関心を向けることをやめることができた。
店を畳む選択をしたことも、本当に不思議な、勇気のある決断だった。
でもそれが正解だった。
直感に従った、それを信じた、信じることができたということだ。
時がきて、全てが整い、導かれた。
私はもう、人生にある 「好ましくないこと」 に関心を向けることが、完全にできなくなっていた。
私は既に、全ての学びを終えていた。
私が求めていた、私に必要だった、全ての体験を。
そして、新たな進むべき道が、そこに見えていた。


店を始めたときから今日まで。
これまで私に起きた変化 ・ 変容といったら本当にすごい。
それは、彼女が一番よく知っていると思う。
私は全てを放棄して、今ここにいる。
私が闘っていたもの、私が見つめていたもの、私の真剣さ、私の魂の全て。


今年は、私のこれまでの人生の中で、一番の変容の年になった。
(まだ終わってはいないが)
ここ1〜2ヶ月の私の内面の変化は、とても画期的であり、私はとても驚いている。
1日の変化が、昔のペースの1年分くらいはあるような感触だ。
随分と前に進むことができた。
感謝しています。
ありがとう。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


自分には 「いい気分になる力」 があることがわかれば、とても自由な解放された気持ちになるだろう。

必要なのは、前向きなことを考えるパターンがしっかりと根づくまで、「いい気分になること」 に思考を向けるという意志だ。

自分が 「明るいこと」 に思考を向けられるようになれば、不愉快な人たち (あるいは人々の不愉快な面) はあなたの経験から消えていく。
好ましくないことに関心を向けているから、好ましくない経験をするのだよ。

「いい気分」 のする 「源」 (ソース) の思考に自分を合わすように心がけて、本当の自分と調和し、自分自身を愛することを学べば、あなたの幸せの流れを邪魔することは誰にもできない。
人は、あなたに愛を返すか、あるいはだんだんあなたの経験から消えていくだろう。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月04日

「本当の自分」 から関心がそれないように。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

今日の記事は決してネガティブな記事ではない。
決して 「今」 を否定しているものではない。
なぜなら、私は全てのプロセスを経て、終えて、今ここにいるからだ。
終わってしまった関係が、本当に無限にある。


私は、自分に疑いをかけるようなことなどしない。
そんな選択は、私にはない。
なぜなら、私は前しか向いていないからだ。
いつだって、後ろを向いたところで仕方がない。
常に 「今あるところ」 から始めるしかない。
通り過ぎたもの、終わったものを見つめたところで意味がないし、心地よくもない。
人生に後退はない。
常に前に進むしかない。
成長が全てだ。


私は、その都度きちんと自分と向き合い、自分の本音を見つめ、その上で決意と選択をしてきた。
「本当の自分」 を見つめ、「真実の自分の声」 を聞いて、今私はここにいる。
だから、自分に対する疑いは、どんな時も 「ほんの少し」 もない。


話は変わるが、YOKO のことは、ブログ上では 「 YOKO 」 と記しているが、実際に私が彼女のことをそう呼んでいるかというと、実はそんなことはない。
私より歳上の彼女です。
呼び捨てにはできない。
ていうか、私が彼女のことを大切にしているからなのだが。
私は彼女には、「貴方」 (あなた) という呼び方しかしていない。
彼女も私のことを、「貴方」 (あなた) と呼ぶ。
(互いに変な意味ではない)
彼女は、私が店をしてる間は、私のことは 「マスター」 と呼んでいた。
でも今はもう店はしていないから、「もう、マスターはおかしいよ」 と告げて、今のところは互いにそう呼んでいる。
別に取り決めをしたわけではない。
また、これから先のことは、わからない。


私は、彼女との出会い、そしてつながりに、本当に感謝している。
彼女のことを大切に思っているし、これからも変わらずに大切にしていきたいと思っている。
実は私は、私が自分のことを 「大切にした、敬った」 ごほうびとして、彼女と出会ったのだと思っている。
私は自分を愛していた。
ずっと自分を大切にしてきていた。
そして、私が踏ん張って自己肯定し、もっともっと自分を信じようとしたとき、「自分に生きよう」 と本気の決意をしたとき、彼女は私の前に現れてくれた。
私は自分のことを、本当に大切にしていた。
だから、そのタイミングで出会った彼女は、私のその時の波動の領域にいる人、その周波数で出会った人なのだと思っている。
ある意味、「崇高な、奇跡的な出会い」 を感じています。


私は自分の人生において、「真実の自分に生きよう」 と決めた瞬間がありました。
「もう、自分に嘘をつくのはやめよう」 と思った瞬間が。
そう私が本当の決意をしたとき、彼女は私のお店に登場した。
もう、6年半になりましたね。


この間、私は何も変わっていません。
そして彼女も全く変わりません。
互いに出会ったときそのままです。
これまで、互いに何も変わりませんでした。
今でも、あの出会った頃と全く同じ 「自然体」 です。
彼女もそうです。
互いに気取ったところは全くない。
そうする必要なんてないし。
また、互いにそういう人間が嫌いな性分だから、仕方がないことでもある。


初めて出会ったときに感じた 「懐かしさ」 は、不思議だが今も変わらずに、永遠のように続いている。
本当に変わらない。
それは紛れもなく、私の 「愛」 が現れたものだ。
「私自身」 が。
私が自分に向けていた 「愛」 が。
そして、私はそれを持って、いつも私の世界を見つめていた。
私は、これからも私たちの間柄は、互いに感じるものは、考えていることは、思っていることは、見つめているものは、生涯永遠に変わらないと思っています。
ありがとう。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。
(人間関係、特にパートナーとの願望の相違や関係の終わりについての質問に対する答えです)


人はたいてい望まない多くのことにひどく抵抗するので、自分と同じ考え方をする人 (望まないことや抵抗することが同じ人) を見つけて力を合わせると、それが調和だと思う。
そういう考え方がなぜ問題かといえば、望まないことに関心を集中しているので、自分自身の大きな部分 (その部分は常に願望と調和している) とも調和しないからだ。
一緒に敵に抵抗しているとき、その基本的な状態は調和とはまったく違う。
同じ考え方に抵抗している、あるいは同じ敵と対立している人と意見が一致しても、そてはとても調和といえるものではない。


まず自分と 「見えない世界の自分」 との調和を見つけること。
そのあとに初めてほかの調和が可能になる。
自分と 「見えない世界の自分 (それはいつも 「許容 ・ 可能」 にする状態にある)」 との調和が実現していれば、意見が違う相手とでも調和できる。
それどころか、「源」 (ソース) との調和は別として、考え方や願望がさまざまであることこそ拡大 ・ 成長と喜びに最適な環境なのだ。


人間関係はたいてい最初のほうがうまくいく。
どちらも見たいものを見ようとしているからだ。
だから、人間関係は初めのほうがいい経験になる。
それに、前向きな見方は自分自身の調和を見いだす、あるいは 「本当の自分」 と調和するための強力なツールでもある。
人間関係の初めには両当事者とも、気分が素晴らしくいいのは相手との調和を見いだせたからだ、と思うだろう。
だが実際には、あなたは相手をいいきっかけとして 「本当の自分」 との調和を見いだしたのだ。
あなたがたの 「源」 (ソース) は、パートナーの前向きの部分しか見ない。
だから前向きの部分を見ているとき、あなたは 「本当の自分」 と調和していることになる。


実は二人の心にある願望には、強力な共通点があるのだよ。
それは、「もっといい気分になりたい」 という願望だ。
以前、人間関係で前向きな明るい気分になったことがあると思うが、それはお互いの間に調和ができたからではなく、自分が 「本当の自分」 と調和していたからだ。
望まないことに関心を集中しなければ自分自身との調和も見いだしやすい、というのは本当だ。
だからあなたを喜ばせてくれる身近な人は、前向きな関心の対象となって、あなたの調和の乱れを防いでくれる。
だが、相手があなたを幸福に 「している」 という考え方は間違っている。
幸福であるのが、あなたの自然な状態なのだ。
あなたは現在自分を喜ばせてくれる人を活用して、「本当の自分」 から関心がそれないようにしているというほうが正しい。
一方、不幸なときには、不愉快な相手を理由にして 「本当の自分」 から関心をそらしているのかもしれない。


「自分がどんなふうに感じるかは自分の責任だ」 と気づいたとき、本当の幸福が訪れる。
自分の感じ方について他人に責任があると信じている間は、あなたはがんじがらめで身動きがとれない。
他人の行動や感じ方をコントロールすることはできないからだ。
いい気分になれないことから離れたいと思うのは当たり前だが、「加えること」 をベースにした宇宙では、それは不可能だ。
望まないことに関心を集中し、したがって、自分のなかで望まない波動を活発化させ、そこから離れようとしても、それはできない。
「引き寄せの法則」 のパワーのほうが、あなたのどんな行動よりも強力だから。
あなたが好ましくない状況から離れても、「引き寄せの法則」 によって似たような気分になる状況が、それもたいていはすぐに現れるだろう。
要するに、それはできない相談なのだ。
あなやが行きたいところに、もっといい気分になれる場所に行くには、自分と 「見えない世界の自分」 との調和を実現しなくてはならない。


いい気分になろうとして何かをしたり、どこかに出かけるのではなく、まず意識して 「いい気分」 になり、それから引き寄せられてくる物事や人や場所を迎えるのだ。
ほぼ調和した場で今の人間関係を結んでいたなら、素晴らしい気分になる場所に戻れる可能性はとても高い。
だが、何か嫌なことから逃れるために今の関係を結んだなら、望むことより望まないことに人間関係のベースがあるかもしれない。
どちらにしても、行動の前にまず 「いい気分になる」 こと、それが常に最善のプロセスだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月03日

競争、不足、創造。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

手に入れたもの、失ったもの。
手にしたいもの、できないもの。
勝ち取ったもの、負けたもの。
奪ったもの、奪われたもの。
今手元にあるもの、ないもの。
持っているもの、持っていないもの。


地位、肩書き、立場、役職、名誉、勲章、成果、成績、功績。
豪邸、別荘、最高級な品々 (自家用車、家具・家電、衣類、宝石等装飾品、美術骨董品、楽器、食事)。
昇給、昇進、昇格、出世、権威、権力、領域、範囲、侵入、支配、征服、略奪、強奪、交戦、競争、悪意、策略、罠。
成功、失敗、達成、断念、到達、降参、獲得、放棄、評価、批判、肯定、否定、歓喜、無念、絶頂、絶望…。


競争って何だろう。
奪い合いって何だろう。
闘争、喧嘩、戦争って何だろう。
資源って何だろう。
なぜ、奪い合うのだろう。
なぜ、その必要があるのだろう。
なぜ、防御 ・ 防備するのだろう。
不足って何だろう。
競争って何だろう。


私は人から攻撃されるだろうか、攻撃しなくてはいけないだろうか。
何らかの力を身につけなくてはいけないだろうか。
何らかの武器やツールを持たなくてはいけないだろうか。
私は誰かを傷つけただろうか、誰かに傷つけられただろうか。
私は、人から何かを奪っただろうか、奪われただろうか。
人に勝っただろうか、負けただろうか。
略奪し、強奪し、支配し、征服しただろうか。
勝ち取っただろうか。
失っただろうか。


私には何か不足があるだろうか。
もし私の世界に何かそれがあるとすれば、それは私がまだきっと 「リソース」 (資源) の源泉について誤解しているからなのだろう。
私は、創造者としてこの世界にやって来た。
だから私は、誰とも何も奪い合う必要はない。
奪い合うものなど存在しない。
「競争しなければならない」 (必要がある) という観念は、幻想であり、思い込みであり、錯覚であり、誤解だ。
私は、「全ての願望を実現する力」 を持っている。
そして、他の人たちもそうだ。


私はどこから来て、どこに行こうとしているのだろうか。
私はこの世界で、人生で、何をしなくてはならないのだろうか。
身を守ること? 力?
永遠の命を手に入れること?
不老不死の薬? 方法? 術 (すべ)?
もし、私の世界に 「不足」 があるとすれば、それはただ私が自分で引き起こしているだけだ。
人と自分は全く関係ない。
社会や世界と私は全く関係ない。
それはただ私だけの問題だ。


色々なことが見えてくる。
そして、心安らかになってくる。
本当にありがたい。
私は、「自分の願望と調和しない観念」 を次々と手放して、今ここにいる。
執着していたもの、許していなかったもの、抵抗していたもの、信じていたもの。
私は、「自分の思考」 を整えて、今ここにいる。
YOKO には感謝しています。
いつもありがとう。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


多くの人が願いを実現できないのは、常に展開し、拡大し、創造され続けているリソース (資源) の源泉について誤解しているからだ。
地球という星の創造のプロセスや拡大 ・ 成長のなかであなたがかたが演じる重要な役割を理解しないと、その誤解から生じる 「意識の欠落」 を経験する大勢の人たちの仲間入りをしてしまうだろう。


「競争」 という意識の核心には、その誤解がある。
あなたがたがこの世界に来たのは、地球という星のリソースの取り合いをするためではない。
あなたがたは 「創造者」 としてやって来た。
時空の現実があなたがたのなかに願望を生じさせるなら、その時空の現実はっきりとわかる形でその 「願望を実現する力」 を持っていると、わたしたちは断言する。
この世界に来たとき、あなたがたはそれを知っていた。
それをしっかりと思い出し、意識して活用しなければ、あなたがたは最大のリソースから、その明晰さ、知識、そしてソース (源) エネルギーから、自分を締め出すことになる。
あなたがたの世界の不足とは、実はそれだけだ。
不足は例外なく常に 「自分で引き起こしている」 と気づくことは素晴らしいことだ。


だから、あなたがたは地球を分かち合う仲間と 「競争」 しているのではない。
人が何かをとったからといって、あなたが奪われることは決してない。
それどころか、ほかの人たちが存在するおかげで、あなたが受け取る能力も高まる。
人々との交流のなかで、あなたの 「願望」 が刺激されるからだ。
自分の願望と調和を自分で壊さない限り、どんな願望もすべて満たされる。
競争や不足を、あるいはリソースの限界を感じるのは、あなたが 「自分の願望と調和していない」 ことを示している。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月02日

波動の 「活性化と非活性化」。


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KATSUNORI が書いています。

日々どんな思考で時間を費やしているか、ということがとても大切だ。
「自分が望むもの」 (行きたい方) に常に目を向けるということ。
「現状への不満」 は見つめないということ。
望むことの波動を 「活性化」 することと、望まないこと (嫌な状況 ・ 経験) の波動を 「非活性化」 すること。
それが、望む人生の実現には必要なことだ。


いつも明るく前向きな気分でいられる今の私は幸せだ。
私の中には、変えることのできない、全てにわたるしっかりとした望みがあった。
自分の望んでいる、決めているあり方が、昔からあった。
こうありたい、こう感じたい、こう生きたい、こう人と関わりたい、こう人に尽くしたい…。
心地よいものごと、そのとらえ方 ・ 感じ方。
人生に対する思い。
理想の生き方。
望む世界。
夢…。
それらを誰かと共有することは、これまでずっとできなかったが、今は YOKO とその全てを共有できる。
一人でも勿論十分に幸せなのだが、二人でいると無限に幸せを創造することができる。


ポジティブな人が好きだ。
心根の美しい人が好きだ。
楽しい人、無邪気で純粋な人が好きだ。
人に優しい、善意の人が好きだ。
静けさのある人が好きだ。
沢山の苦労をしてきた人が好きだ。
辛い思い、悲しい思いを。
でも、強く明るく、自分を信じて生きてきた人が、私は好きだ。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


今どんな立場にあるか、何を経験しているかは、実はどうでもいいということだ。
どこにいようと、あなたは行きたいところに行くことができる。
ただし、今の自分の居場所で気に入らないことを注視したり、不満を言ったりして時間を費やすのはやめなくてはいけない。


もっと 「選択的」 に生きて、人生のいい面をリストアップしよう。
「自分が行きたいほう」 に目を向け、「現状への不満」 に時間を費やさないこと。
宇宙はあなたが現状について考えていることと、もっといい人生について考えていることを区別しない。
あなたは思考によって創造しているのだから、自分が望まないことをくよくよ考えたり、思い出したり、眺めたり、あるいは口にしたりしてもいいことは何一つない。
自分が望むことの波動を 「活性化」 すれば、その波動に一致した人生がたちまち実現することに気づいてほしい。


望ましくない状況から立ち去り、二度と繰り返さないことは可能だ。
だがそうすれためには、「望ましくない状況」 について語ったり、考えたり、抵抗するのをやめなくてはいけない。
困った経験の波動を、完全に 「非活性化」 する必要がある。
そして、思考あるいは波動を非活性化する唯一の方法は、ほかの波動を活性化させることだ。
望ましくない状況の再現を避けたかったら、「望ましい状況」 について語ること。
「何を望むか」 について語り、望ましくない経験や状況、結果に関する対話は打ち切りなさい。


思考を監視し続けるのは退屈だし、疲れる。
だから、思考の方向を意識して変える最善の方法は、いい気分でいたいと強く思うことだ。
いい気分でいよう、明るい気分でいようと決意すれば、ごく初期の微妙な段階で、ネガティブな引き寄せに気づくことができる。
ネガティブな思考は、勢いがついてからよりも、初めの段階で手放すほうが容易なのだよ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年10月01日

人の望むこと、自分の望むこと。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

私が人生で出会った全ての人たちは、ただ私が 「本当の自分になる」 ために存在してくれていた。
それ以外の目的はなかった。
今はそう思う。
私は誰か他の人のために生きているわけではない。
そしてそれは、その人たちも同じだ。
みな自分の望む人生を、自分の思い描く通りに実現するパワーを持っている。
誰かを傷つけることもなく、誰から何かを奪うこともなく。


私がこれまでの人生で出会った人たちは、それぞれに 「私が何を望んでいるのか」 を気づかせてくれた。
「私が何かを求め始めるため」 に、私の前に現れてくれた。
私の 「創造の一歩手前」 (第一段階) になってくれたということだ。
でも、私がいつまでもその 「私の願望のきっかけになった人たち」 だけに目を向けていても仕方がない。
なぜなら、それでは私が 「望むものへの流れ」 を進めず、そこで立ち止まっていることになるからだ。
私は、「自分が望むものとは違う方向」 を向いていることになる。
「自分が望むものとは違う思考」 を抱き続けていることになる。
それは、私が 「望むものを実現していく波動」 とは違う。
「人のことは私には全く関係ないのだ」 と決めて、私は自分が望むことに関心を集中しなくてはならない。


私が人のことばかり考えていても、私の望む人生はいつまでたっても実現しない。
お店をやって、世界には無限の人たちがいることを、私は本当に痛感した。
「自分を脇に置いて人のために生きるとどうなるか」、ということを私は経験した。
私が全ての人の願望を支えることはできない。
無限の人々には、本当に 「無限の欲求」 があるからだ。
美しいものだけでなく、中には一人よがりで不調和なもの、不誠実で強引なもの、悪意があり邪悪なものまである。


人生で出会う他の人たちが何を考えているかなんて、私には全く関係ない。
なぜなら、「私が考えていることだけ」 が、私の人生には実現するのだから。
でも私は、美しい人は愛せずにはいられないから、私のそばにはいつも 「愛すべき人たち」 が集まるだろう。
私には、美しくない人は必要ない。
私は、私の望む世界を、誰に遠慮することもなく完璧に実現していく。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


自分が何を望むかをわからせてくれた誰かに、あるいは人々に、自分が望みをかなえるために 「自分が望むものになってくれ」、と要求してはいけません。
そうではなくて、その人たちは 「創造の第一段階」 (「求める」 という部分) なのですから、それでいいのです。
自分の意志と決断で、「自分が望むもの」 に関心を集中しましょう。


間違った思い込みをして、物事を逆に行おうとする人たちがたくさんいます。
そういう人たちは言うのです。
「あなたがこんなふうに行動してくれれば、わたしはもっといい気分になれる。 その努力をしてくれないのは、わたしをあんまり愛していないってことだから、恨むよ」
もしその相手に反論できるなら、こう言うでしょうね。
「おいおい、あなたの望むすべてになるのは、わたしの仕事ではない。 あなたを刺激して何を望むかをはっきりさせるのがわたしの仕事だ。 あなたが何を望むのかがはっきりすれば、あとはわたしは関係ない、というのがわからないのかな? あなたの望むものになれと言わないでおくれ。 あなたが望むものに関心を集中し、実現させればいい。 わたしのことは放っておいてほしい!」
「いや、あなたがわたしの望むものになってほしい。 あなたはわたしの願望のきっかけになった。 あなたがわたしを成長させなければ、こんな問題はなかった。 だからあなたには、成長したわたしになる責任があるのではないか」 (おかしいでしょう)


今いるところに立って、まだ実現していない何かを望んでいることに気づいたら、それなのに自分を律して望むものに目を向ける代わりに、「願望のきっかけになったこと」 に目を向けていたら、あなたはきっと 「関心の向けどころが調和していない」 と感じる。
そのときはきっと自分でも気づかないうちに、今あるものを触媒として自分の波動の流れを決めてしまうでしょう。
だから、「自分が望むものとは違う思考」 を抱き続ける。
そこで 「信念というか慢性的な思考パターン」 が出来上がり、そのせいであなたが望むことはどうしても実現しない。


あなたが 「自分が望むこと」 に、そして 「なぜそれを望むのか」 に関心を集中すると、あなたがいる場所に宇宙が望むものを運んできてくれます。
そうなると、「今までは何かを与えてくれなかった人が与えてくれる」、というようなことがどんどん起こります。
それはあなたが波動を整えたからで、それ以外のことはナンセンスです。
だが、「相手が望むこと」、つまり 「自分が望まないこと」 に関心を集中していたら、そのつもりではなくても、あなたの波動は 「望まないほうに流れる」 から、望みはかないません。
すると、あなたは 「相手が悪いのだ」 と考え続ける。
しかし、「あなたの波動のなかで活性化されたこと」 が実現するだけなのです。


ほかの人たちはすべて関係ないと決めて、自分が望むことに関心を集中することで、「自分自身の思考パターン」 を意図的に育てるのです。
自分の望みをかなえるうえで、ほかの人に 「主役を演じてくれ」 と頼むのはやめましょう。
あなたの望むことに波動を一致させる役割を演じるのは、あなただけです。
そうすればたちまち、宇宙が望みどおりのことを実現してくれますよ。
そうなったら、あなたは自分も好きなように生きるし、人々にも 「好きなように生きればいい」 と思うことができます。
世界中がそれぞれ選んだ生き方をすればいい。
それによってあなたが邪魔されたり、望みの実現が妨げられることはないのですから。


人生で出会うほかの人たちが何を望んでいるかなんて、あなたには関係ないのです。
でも、「その人たちが何を望んでいるとあなたが考えるか」、それは関係あります。
だから、あなたがいつでも 「自分の望むことだけ」 に関心を向けて、ほかのことを無視していれば、宇宙はあなたの望みをかなえるほかないし、あなたが今思っているよりもはるかに多くの望みをかなえてくれるでしょう。
既にあなたの人生にある要素から望みが実現する場合も多いのです。
まったく新しい場所に行く必要はない。
ただ、いつもまったく 「新しい波動」 にする必要があるだけなのです。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月30日

「内なる存在」 の思考。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

私の 「内なる存在」 は、私がどんなに最低の人間だろうと、どんなにどん底の状態だろうと、決して私を非難したり、嫌ったりしない。
その証拠は、私が自分を非難し嫌うと、必ず私は心地悪くなるということだ。
だから私は、どんなときでも自分のことを、決して非難したり嫌わないと決めるしかない。
自分を非難するどんな観念も、手放さなくてはいけない。
そうでないと私は、決して 「明るく前向きな気分」 にはなれない。


私の 「内なる存在」 は、人や社会 ・ 世界が、どんなに最低だろうと、どんなにどん底の状態だろうと、決してその人や社会 ・ 世界を非難したり、嫌ったりしない。
その証拠は、私がその人や社会 ・ 世界を非難し嫌うと、必ず私は心地悪くなるということだ。
だから私は、どんなときでも人や社会 ・ 世界のことを、決して非難したり嫌わないと決めるしかない。
人や社会 ・ 世界を非難するどんな観念も、手放さなくてはいけない。
そうでないと私は、決して 「明るく前向きな気分」 にはなれない。


私がネガティブな気分でいると 「内なる存在」 は、私がポジティブな方向に向きを変えるまで、私に愛を注いでくる。
つまり私は、更にネガティブな気分になる。
私が降参し、観念するまで…。 (笑)
「内なる存在」 の愛の深さよ。
私は、私や世界や地球の価値観ではなく、「内なる存在」 の価値観、宇宙の価値観で生きたい。
私は、自分の 「内なる存在」 が何を見つめているのか、どうしても知りたい。
その 「無条件の愛」 というものを。


私がそれを問い続けると、必ず私はその答えを引き出すはずだ。
でも、それがすぐにわからなくても、私は前に進むこともできる。
わからないことは、別に私の責任ではないからだ。
私の 「内なる存在」 は、そんなときでも私を非難したり、嫌ったりしない。
つまりそれは、私の仕事ではないということでもある。
求めたければ求める。
そして、必要があればわかるだけのことだ。


すべてを私の 「内なる存在」 が、「宇宙」 が、「大いなるもの」 が背負ってくれている。
私は、自分の仕事に生きるだけだ。
私の仕事とは、全てに対する抵抗をやめて、自分が出す波動だけに関心を向けるということだ。
私の思考が、「内なる存在」 の思考と一致しているかを見つめるということだ。
いつも、「明るく前向きな気分」 でいるということだ。
そうすれば私は必ず、私の満足する 「美しく、楽しく、幸せな世界」 を、創造 (実現) できるはずだ。
「美しくない、楽しくない、幸せでない世界」 は、どこかへ消えていくはずだ。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


なぜ、多くの人々が他人の行動をコントロールしなければならないと思うのか。
それは、ほかの人には自分たちの経験に 「侵入するパワー」 があると信じているからだ。
自分が 「波動を通じて招き寄せるもの以外」 は、何も経験のなかに現れないことを思い出せば、「自分が出す波動だけに関心を向ける」 という単純な仕事をすれば済む。
そうすれば、「他人の行動をコントロールする」 という遂行不可能な難事に煩わされることはない。
他人のさまざまな行動は、たとえあなたが賛成しないものであっても、あなたがたの星である地球の 「バランス」 と 「よいあり方」 (ウェル・ビーイング) を豊かにすること、また 「自分が関心を向けない限り、望まない行動には参加せずにいられる」 ことを思い出せば、他人が好きなように生きることを 「許容 ・ 可能」 にしようと思うだろう。


真の自由とは、「抵抗がない」 ということだ。
真の自由とは、「調和がある」 ということだ。
真の自由とは、自分の 「見えない世界のより広い部分」 と完全に調和し混じり合うことへの 「抵抗をやめたとき」 に感じるものだ。
したがって、何か望まないものに抵抗し、同時に 「本当の自分」 や 「望むもの」 と混じり合うことは不可能だ。
「望まないものに抵抗している」 状態で、同時に 「望むものと調和すること」 はできない。
だから、他人をコントロールしようとしていたら、その動機は 「善」 だと信じていても、決していい気分にはなれない。


理解してほしいのは、あなたの感情はどれも、「人の欲求や行動が正しいか間違っているか」 とは関係ない、ということだ。
あなたの感情はいつも、自分自身の思考が 「内なる存在」 の思考と一致しているかどうか、それだけを示している。
「自分はダメな人間だ」 と決めると、必ず 「源」 (ソース) とずれてしまう。
「その人はダメな人間だ」 と決めると、必ず 「源」 (ソース) とずれてしまう。


「望まないことに一致している波動」 を出し続けながら、望みをかなえることはできない。
自分の感情に関心を向け、「いい気分になることを考えよう」 と心がけていれば、「見えない世界のより広い部分の自分」 が何を望んでいるかがだんだんわかってくる。
ネガティブな感情のほとんどは、あなたの思考が間違っているからではなく、「源」 (ソース) が非難していないことをあなたが非難しているから生じる。
あなたがたの 「源」 (ソース) は 「愛」 であり、決して非難はしない。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月29日

関心を向けてはならないこと。


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KATSUNORI が書いています。

私は、自分の世界から 「望まないもの」 を取り除く (排除する) 必要はない。
なぜなら、たとえ私がその 「モノ ・ こと ・ 人」 が気に入らなくても、私の創造が妨げられることはないからだ。
私はただ、「自分の望むこと」 に集中していればいい。
私はただ、自分に生きる。


自分のことだけに集中するしか、私が生きる道はない。
人のことを考えると、必ず私は無力になり、ネガティブな気分になる。
なぜなら、私は人のことは、全くコントロールできないからだ。
人のことに関心を向けると、私は自分を殺すことになる。
背負っている世界を下ろさなくては、私は生きてはいけない。
私は、私自身を生かすために生まれてきたのだから。


私はただ、自分のことだけに集中すればいい。
私には、「自分のことだけに集中するパワー」 がある。
自分の望むことを考えなくては、明るく前向きな気分にはなれない。
なぜなら、私の 「内なる存在」 (内なる自分) は、私のことを常に愛しているからだ。
私を 「愛すべき存在」 として見つめてくれている。
だから、私がその 「内なる存在」 の見方とずれると、必ず私はネガティブな気分になる。
「それは違うぞ!」、と 「内なる存在」 が慌てて伝えてくる。


私が嫌な気分になるのは、「内なる存在」 が関心を向けないことに、私が関心を向けているからだ。
私が人のことに干渉すると、必ず私は嫌な気分になる。
「内なる存在」 との波動の調和が乱れる。
「内なる存在」 がそのことに関心を向けないのには、きちんとした理由がある。
「内なる存在」 は、「私の望まないこと」 を私に創造させようとは思っていない。
つまり、私は 「望むこと」 ではなく、「望まないこと」 を見つめているということだ。
「内なる存在」 は、「引き寄せのパワー」 のことをきちんと理解している。


人のことは、その人自身がきちんと面倒を見る。
今もその人が、その人の 「内なる存在」 が、きちんと面倒を見ている。
どうあれ私は、「内なる存在」 が関心を向けないこと、つまり私がネガティブな気分になる 「モノ ・ こと ・ 人」 からは、関心を引き揚げるしか仕方がない。
私が心地悪いことに関心を注ぐことは、私にとって全く好ましいことではないからだ。
「内なる存在」 の指標は絶対だ。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


誰でもいい気分でいたいが、ほかの人たちがすることを見ているといい気分になれないことが多い。
だから、人に影響を及ぼして行動をコントロールすればいい気分になれる、と思うのも無理はない。
だが、人をコントロールしようとしても、人を押さえ込むことはできないばかりか、そういう相手に関心を向けているとますます似たような人たちが現れることに気づくはずだ。
今のあなたがたの社会は、違法なドラッグとの闘い、貧困との闘い、犯罪との闘い、10代の妊娠との闘い、ガンとの闘い、エイズとの闘い、テロとの闘いなどを繰り広げている。
だが、そのすべてがますます増えている。
要するに望まないことをコントロールしたり撲滅したりして望むところに行き着こうとしても、できるわけがないのだ。


だいたい、あなたがたの誰が 「正しい生き方」 を決めるのか?
数が最大の集団が正しい生き方を知っているのか、それとも、ほかの集団を殺す能力が一番高い集団が正しいのか?
貧しい人々が答えを持っているのか?
豊かな人々が鍵を握っているのか?
どの宗教が正しい宗教なのか?
どの生き方が正しい生き方なのか?
「わたしの集団 ・ 生き方が唯一正しいのだから、ほかはすべてやめさせるべきだ。 賛成できない生き方を見ると、わたしが嫌な気分になるからだ」 という間違った思い込みが、地球上の不幸の大半のベースにある。


圧力をかけられる人たちが苦痛を感じるだけでなく、圧力をかけるほうも苦痛を感じる。
それどころか、最も不幸で最も満たされない人とは、他人に圧力をかけている人たちだ。
なぜなら、圧力をかけることで、一番大切な関係を 「許容 ・ 可能」 にできなくなる。
つまり、自分と 「見えない世界の自分」 との関係が壊れるからだ。


何らかの物事や状況に関心を集中して嫌な気分になるとき、嫌な気分になる原因はその物事や状況ではない。
その対象について考えたとき、あなたのなかで 「波動の分離」 が起こるから嫌な気分になる。
言い換えれば、「源」 (ソース) が関心を向けないことに、あなたが関心を向けることを選んだからである。
あなたのなかの 「源」 (ソース) が嫌な気分になることに関心を向けないのには、ちゃんとした理由がある。
「源」 (ソース) は引き寄せのパワーを理解しているから、望まないことの創造を増幅させたくない。
けれどあなたはそれをしてしまい、嫌な気分になる。


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 06:10| Comment(0) | エイブラハム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

フォトアルバム。 2016年(23)


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「歩け歩け運動」 (今年の18回目) に行ってきました〜!  
今年2回目の 「百合が原公園」 でした。
片道たっぷり2時間 (往復4時間) かかるので、今回も気合を入れて出かけましたよ〜。 

相棒は途中のスーパーで、牛乳のような小さな紙パック (180ml) に入った 「日本酒」 を買って、歩きながらストローで飲んで気合を入れてましたね〜。 (笑) 
「ワンカップのビンじゃ恥ずかしい」 と言ってそれを選んだのですが、不思議ですね〜、しばらく歩いて行くと、何とワンカップのお酒を持ちながらお散歩しているおじさん (おにいさん?) に出会いました〜。 (笑)
お酒は何やら、こそこそ隠してた様子でしたけどね。 (笑)
面白いですね〜、シンクロした不思議な出来事でした〜。 

道中は、彼がお酒を飲みながら (笑)、とても大切なことを話してくれました。
私はそのお話を聞けただけでも、今回の旅 (笑) はとても満足できるものでした。 
そして余談ですが、彼はお酒が入ると、とても明るく陽気で、愉快な人です…。 (笑)  

もう一つ嬉しかったことは、彼が初めて一緒に写真を撮ってくれたことです。 
ガラケーで。 (笑)  
ブログの写真は携帯からアップしているのですが、もうすぐガラケーでのブログ作成はできなくなるみたいです。
だから、貴重な記念写真なのです。
私たちはデジカメも持っていないし、そうなったらもう新しい写真はブログには載せることができません。 
ですから、私たちの近況写真は、もうまもなく見納めになるかもです…。
誰か〜、デジカメ余ってませんか〜! (笑) 

「百合が原公園」 は、この時期でもたくさんのお花が咲いていて、とても美しかったです。
ゆったりのんびりして、静かな時間を過ごしてきました。
お弁当も食べて、ルービーも 「大サイズ」 を飲んで (笑)、とても幸せな一日でした…。 

いつもありがとう。 
感謝しています。  
YOKO かわいい


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 12:30| Comment(0) | フォトアルバム H28年 (2016年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経験で何かが真実になる唯一の理由。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

真実って一体何だろう?
私が見ているもの、世の中にあるもの、私が真実だと思っているもの。
私は自分の波動を、様々な形で経験している。
全てを引き寄せている。
創造している。


さて、私が体験しているもの、真実だと思っているもの。
私は、私の目の前にネガティブなものがあるなら、その全てをなくしたい。
私は、私の世界にある、私が真実だと思っているネガティブなものを、はたしてなくすことができるだろうか。
そんなチャレンジはワクワクしますね。
自分の世界を整えるということ。


私は私の世界に、怖いものや醜いものなど見たくない。
私はいつも、完全な平和と安全、そして美や豊かさの中で暮らしたい。
愛ある人と、いつも一緒に過ごしたい。
優しい、温かい、美しいものに囲まれて暮らしたい。
美しい自然や植物 ・ 動物、素敵なお店、おいしい珈琲 ・ ビール、素敵な音楽 ・ 詩集・ 絵本 、そして素敵な人たち…。
そんな波動を、私は出しているだろうか…。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


その波動を出せば出すほど、「引き寄せの法則」 が似たものを引き寄せます。
「引き寄せの法則」 で似たものが引き寄せられれば引き寄せられるほど、皆さんはそれを体験し、それについて語り、さらにドラムを叩いて波動を出します。
波動を出せば出すほど、「引き寄せの法則」 で似たものが引き寄せられてきます。
似たものが引き寄せられてくればくるほど、皆さんはそれを目にします。
それを目にすればするほど、それについて語ります。
それについて語れば語るほど、また波動を出します。
波動を出せば出すほど、「引き寄せの法則」 で似たものが引き寄せられてきます。
似たものが引き寄せられてくればくるほど……、これ、いつまでも終わりませんね (おかしいでしょう)。
皆さんの人生は教えています。
皆さんが同じストーリーを語っていれば、必ず同じ状況を経験し続ける、と。


おもしろいことに、人間世界の友人たちは、何かを語り続けるのはそれが 「真実」 だからだと言います。
そこでわたしたちは言います。
それは本当にいい口実だ、なぜなら真実はたくさんあるからね、と。
真実というのは、誰かが関心を向け、波動を出し、それと似たものを 「引き寄せの法則」 が引き寄せてくる、というだけのことです。
「引き寄せの法則」 が引き寄せてくるから、皆さんはそれを目にします。
そして目にするから、波動を出し……、ああ、また同じスト−リーになりましたね (おかしいでしょう)。


ある人の経験で何かが真実になる唯一の理由は、何らかの方法でそれについての波動を出し始めたからです。
皆さんは、自分で知っていてもいなくても、自分の人生経験の創造者です。
それなら、意図的に創造したほうがよろしい。
波動を止めることはできません。
いつだって波動を出し、「引き寄せの法則」 が常に皆さんの波動に反応しているのです。
だから、目的を持って波動を出したほうがいいのではありませんか。


多くの人たちはこんなふうに言います。
「わたしはそうしている。 目的を持って波動を出している。 なぜなら、自分が望まないことはをはっきりと認識しているから、その望まないことが絶対に経験に入ってこないようにしたい。 だから、望まないことがいっさい経験のなかに入ってこないように、しっかりと望まないことのリストを作っている。 とても長いリストだ。 一生かけて望まないことを集めたんだし、それはとても得意なんだから…」 (おかしいでしょう)
そこでわたしたちは、「引き寄せの法則」 はとても公平な友人で、常にあなたの波動を複製するんですよ、と言います。
思い出してほしいのですが、みなさんの波動、波動のバランス、波動の様相、引き寄せの作用点、皆さんと一致しているものは、いつだって皆さんがどう感じるかで、一番よくわかるのです。
みなさんの感じ方は、波動のバランスの指標です。


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 06:10| Comment(0) | エイブラハム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

「ウェル・ビーイング」 (よいあり方)


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(不適切な写真があればお詫びします。 ご免なさい…。 笑)
(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

全ては自然に流れてくる。
いいものも、悪いものも。
ポジティブな思考、感情、状況 (「モノ・こと・人」) …。
ネガティブな思考、感情、状況 (「モノ・こと・人」) …。
そして、大切なのは気分であり、感情だ。
でも、それらを引き出すのは、私の 「思考」 だ。
だから、私の考えている、見つめているものが一番大切だ。


私が間違った方さえ向かなければ、私はネガティブな気分になることはない。
「内なる自分」 と違う考え方をすると、「内なる自分」 と違う見方をすると、私は暗いネガティブな気分になる。
私は、自分の中にある 「内なる存在」 を信用 ・ 信頼している。
今は誰の言うことも信用しない。
人の意見や、社会の様子は、私とは全く何も関係ない。
私のことは、ただ私だけが面倒を見る。
だから私は、自分が 「ホッとすること」、「明るくて前向きな気分になること」、「心地よい気分になること」 だけを考える。
私は、「暗いネガティブな気分になること」 は、どうあれすぐやめる。
そんな、「思考」と「言葉」と「行動」 は…。


思考とは、ある意味何かのモーター音のようだ。
意識しないと全く気に留めることもないが、でも耳を傾けると確かにそこに聞こえる。
たとえば、冷蔵庫の音、パソコンの音、換気扇の音などのように…。
電源が入っているときには、静かではあるが、それらからは確かに 「ブーン」 というモーターやファンの音がしている。
思考とは、そのようなものなのだろうと思う。
頭の中で繰り返している一定レベルのモーター音…。
そこにある、ある周波数の何か。
頭の中で、誰かが独り言を言っているとも言える。
なかなか独り言をやめない。
そのおしゃべりが、とてもうるさいときがある。 (笑)
機嫌の悪いとき、怒っているときなんかは、特にそうだね。
必死で止めても、全く私の言うことを聞いてくれない。 (笑)


その音 ・ 言葉 (周波数) は、みなそれぞれに違うのだろうと思う。
それが個性とも言えるが、被害妄想的な音や、脅迫観念的な音を聞いている人もいるのだろう。
心地よい音楽が流れているのなら素敵だ。
でも、心地悪い苦悩の音や、恐怖を感じるような恐ろしい音を聞くことは嫌だ。
自分の思考 (無意識のおしゃべりやモーター音) を、いつも意識することが大切だ。
自分の感情 ・ 気分に敏感なほど、それに対処できる。
方向転換できる。


「明るい前向きな気分」 が何より大切だ。
それは、そういう周波数とも言える。
いつもその周波数にいると、その周波数が変わったとき、下がったときには気がつく。
いつも心地よい気分を 「標準」 にすることが大切だ。
そのレベルに自分の気分 ・ 感情を保っておくことだ。


話は変わるが、そこにある 「幸せの流れ」 に抵抗している人は面倒くさい。
そう思うようになった。
それは、自分のことなのだが…。 (笑)
そこに、明確に 「幸せの流れ」 があるのに。
ずっとあったのに。
でも、なぜだか私はずっとその流れに抵抗し、それを素直に受け入れてはいなかったようだ。
今ならそれがわかる。
多分、その波動の外側に出たんだ。
周波数を変えた。
だから、自由になれた。


自分が幸せになることがなぜ許されないのだろう。
でも私は、自分の幸せを望んではいなかった。
いつも、「人が自分より大切だ」 と思っていたから。
でも、そうやってやってきたのに、結局私には誰もいなくなった。
「私が愛せる人」 が、誰もいなくなった。
私は、本当に自分が愛したいと思う人だけを、いつも見つめてきた。
それで、私はたくさんの人とのつながりを、厳しく断ち切ってきた。
これでもか、これでもかというほどに。
私が切った人がほとんどだが、中には自ら私から離れた人もいるだろう。
でも、それは 「波動の分離」 という世界だから、それは互いにいいことだ。
私は、今はもう人に合わせるようなことはしないから、人に気を使うような関係は望んではいない。


今は、全ての人と、全ての関係を終えたようなところにいる。
でも、YOKO だけは、なぜだか今も私のそばにいてくれている。 
ありがたいことだ。
YOKO がここまで私を運んできてくれた。
私はこの 「幸せの流れ」 をきちんと受け入れようと思う。


「ウェル・ビーイング」(よいあり方) に抵抗する必要はない。
自分にある 「幸せの流れ」 に、何も代償を支払う必要はない。
その流れを 「正当化」 する必要もない。
必要なのは、私がその流れと 「調和すること」 だけだ。
つまり、私がそれを受け入れるということだ。
やって来ているもの、ずっとやって来ていたものを、今さらながらだが 「あり方」 として受け入れることができそうな私が今ここにいる。
やっと自分を、「一番大切な存在」 として受け入れることができたのだろうと思う。
ありがとう。 


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


その質問はやはり自分に流れてくる 「よいあり方」 (ウェル・ビーイング) には代償を支払うべきで、その「よいあり方」 の流れを正当化するために何らかの行動が求められる、ということを前提にしているね。
だが、そうではない。
あなたがたに流れ込てくる 「よいあり方」 を正当化することは必要でもなければ、可能でもない。
ただ、その 「よいあり方」 と調和する必要はある。


多くの人たちは望まないことにピントを合わせ、自分のなかの 「感情というナビゲーションシステム」 にきちんと関心を払わず、そういう欠落の考え方を物質世界の行動で相殺しようとする。
だが、エネルギーが乱れているから行動は成果を上げず、だからますます行動しようと頑張って、それでも事態はよくならない。
呼吸する空気のように、すべての物はいくらでも手に入る。
要するに、あなたがたの人生は、あなたがたが 「許容・可能にする」 分だけよくなる。


ほとんどの人は人生の大半で何をしているかといえば、波動のアンバランスを 「行動」 で相殺しようとしている。
言い換えれば、望まないことばかり考え、そのために望むことが経験のなかに簡単に流れてくるのを妨げておいて、それから思考の乱れを行動で補おうとする。
まず、「感情の価値」 に気づいて、明るくて気分のいいことにピントを合わせ、波動を整えることを心がければ、「波動の調和」 からとても大きな利益を得られるし、はるかに少ない行動で素晴らしいことが流れてくる。


現在の行動の大半は、とてつもない 「波動の抵抗」 のなかで行われている。
だから、多くの人たちは 「人生は闘いだ」 と信じてしまう。
それに、多くの人たちがあなたのように 「成功と自由は成立しない」 と考える。
だが、実際には成功と自由は同義語だ。
方程式からお金という要素を取り除く必要はない。
だが、方程式のなかでは 「喜びの探求」 を一番大きな要素にすべきだ。
そうすれば、あらゆる豊かさがあなたのもとへ流れてくる。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月26日

波動の分離と周波数の上昇。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。
今日は、ちょっと長いです…。

二つの部屋がある。
全く違って見えることもあるだろうし、ほんのちょっとだけ違って見えることもあるだろう。
でも、いつだってその二つの部屋は、実は全く違う。
なぜなら入口のドアが全く違うからだ。
つまり、それらは全く違う部屋だ。
全く別々のところ (時間・空間・次元) にある、全く別の部屋だ。


何かを変える、何かが変わるということは、本当はあり得ない。
その部屋に例えるなら、左の部屋と右の部屋は全く別物だ。
散らかって汚い左の部屋と、きれいに片付いている美しい右の部屋。
でもそれは、左の部屋を片付けて右の部屋になったわけではない。
それらが同じ壁、床、天井でできていて、全く同じ部屋に見えたとしても。


そのように、人も状況も同じように見えて、実は同じということはない。
元々全てが、初めから全く別のものだ。
変える、変わるということではない。
だから、「排除」 ということはあり得ない。
排除というのは、左の部屋を片付けて、右の部屋のようにきれいにするということだ。
何かを変える、何かを取り除く、誰かに退去 ・ 退室してもらうということだ。


でも、変わることはないし、変えることはできないし、そして変える必要もない。
排除の必要はない。
左の部屋を何とか整えよう、変えようと努力する必要はない。
ただ、片付いている右の部屋を 「選ぶ」 と決めればいい。
常に、二つのものが同時にあるのだから。
見えなくても、必ずいつも二つある。
いや、本当は無限の部屋が、無限のバージョンが全てあるのだ。


だから、私はいちいち散らかっている左の部屋を嫌う必要はない。
そんなことをしてたら、キリがない。
汚い部屋も、無限にあるのだから。 
もっとすごい、恐ろしいほどの部屋が無限にある。
そんなことをしてると、それらを次々と引き出すことになる。 (笑)
いつも、焦点を定めたものが、自分に出現する。
抵抗していても、それは焦点を定めているということだ。
排除しようと格闘しても、焦点を定めている。
そして感情を荒げれば荒げるほど、強くガッチリと焦点が定まり、フォーカスした上にエネルギーを注ぐのだから、そのエネルギーがどんどんその存在を拡大・強化・増殖させる。


ただ、片付いている右の部屋を選べばいい。
自分の好きなものをシンプルに。
全てがいつもあるのだから。
望むものを求めるのに、欲するのに、望まないもののことを考え、語る必要はない。
全てがただ、選択であり、決定であり、自分の意志だ。
美しいものを選ぶのに、なぜ抵抗する?
美しいものを選ぶのが私だ。
他の人のことは知らない。


そのように、全てにおいて二つの部屋、いや無限の部屋、つまり 「モノ・こと・人」 がある。
その中で、自分はどのバージョンを、どんな部屋を、どんな 「モノ・こと・人」 を望むかということだ。
いつまでも、望まない 「モノ・こと・人」 を思い浮かべて、不快になる必要はない。
左の部屋を、そこにいる人を排除するのではなく、シンプルに右の部屋を選ぶ選択であり、その決定だ。


「引き寄せの法則」 をベースとしている宇宙には、排除はあり得ない。
新たなものを創り出すことが創造だから。
だから、変えるということではない。
誰も、何も変わらない。
変わったように見えるのは、そこに全く違うものが出現していることに気づけないからだ。
そう見ることを学んできていない。
だが、全ては瞬間瞬間別物だ。
自分だって。
有るもの (存在) は、永遠に存在し続ける。
有は絶対に無にはならない。
それが、「エネルギー保存の法則」 だ。
だから、有るものは、無くならず、永遠に宇宙の中に存在し続ける。
全く似ているものも、全く別のバージョンとして。
そして、美しくないものも、無意識な存在も、邪悪なものでさえきちんと…。


創造とは、実現することであり、常に何か別のものを引き寄せることだ。
繰り返すが、決して 「変えること」 ではない。
だから、誰を嫌うこともなく、排除することもなく、自分が望む右の部屋 (「モノ・こと・人」) を引き寄せればいいだけだ。
左の部屋は永遠になくならない。
たとえ私が、自分の望む右の部屋を創造したとしても。
でも私は、左の部屋のことを考えないことはできるし、語らないことはできる。
私がそうしたいなら。
でも、私が望まないものでも、そのことを考え、語るうちは、それが私から分離することはないだろう。
いや、エネルギーを蓄えて、もっと大きな存在として私に迫ってくるだろう。


私は自分の望む、きれいに片付いた美しい右の部屋のことを思い浮かべればいいだけだ。
どうしていつまでも左の部屋のことを考えている?
仮に左の部屋に誰か人がいたとしても、それを考えることもないだろう。
その部屋は、私のせいではないのだから。
人の体験していることや、創造 (実現) しているものや引き寄せを、一緒になって見つめる必要などない。
自分の望まないもの、願望と違うもののことを考えると、語ると、私は暗くネガティブな気分になる。
それは、私にとって 「よろしくないよ」 という、内なる自分からの合図だ。
前向きで明るくて、気分のよくなる 「モノ・こと・人 」のことだけを私は考えていく。


私の望まない部屋 (「モノ・こと・人」) とは、実は私の望まない 「波動の世界」 だ。
私がその波動を抱えているうちは、私は体験する世界を変えることができない。
望まない世界が存在するその波動を、順次手放していくことが、私が自分の周波数を上げるためには必要だ。
私が縛られている世界。
それを 「自縛」 といい 「地縛」 と言う。
私は、地面に縛りつけられている。
でも実はそれは、自らがつかみ、抱え続けているものだ。


私は自分の自縛 (地縛) を、はたして切り捨てることができるだろうか。
幸せになりたいのなら、私はそうするだろう。
もう私のほとんどは、「自分の望む世界」 にシフトしてしまっている。
私は今、ただその残像を見ているだけだ。
時間とともに消えていくだろう。
もう今にも。
自分の目の前から、望まない波動の世界を消滅させるということ。
それは排除ではなく、私が自分の周波数を上げていくということだ。
ボリューム (回転数、バランス、パワー) を上げ、新たな世界にシフトする、アセンションするということだ。


自縛霊に悩まされた時代はもう終わる。
私が優しかったからだ。
私にはたくさんの霊が付いていた。
ぶら下がっていた。 (例えです…。 笑)
私がそれらを抱き抱えていたからだ。
亡くなった人も生きている人も、何も変わらない。
全ての人に無限の過去世があり、無限の来世があり、無限のバージョンがある。
全ての人が魂のバランスを取るために、新たな視点を加えるために、今存在している。
私たちは 「永遠」 という存在だからだ。
永遠に 「成り行く存在」 であり、永遠に 「変わっていくプロセス」 に存在している。


変化を恐れる必要はない。
不要なものは、そおっと宇宙に返してあげればいいだけだ。
そおっと手放すだけで、宇宙が受け取ってくれる。
なぜなら、それらは元々宇宙にあったものだからだ。
宇宙は、「全てのもの」 を含んでいる。
宇宙の無条件の愛が、私たち全てが存在できる理由 (原因) だ。
自分と関係のないものは、宇宙に返してあげるといい。
それらをきちんと宇宙は受け取ってくれて、全ての存在の面倒をきちんとみてくれるだろう。


全ての望まないものを次々と 「分離」 するときがやって来た。
病気、貧困、不調和、不和、制限、不自由、痛み、困難、苦痛、苦悩…。
でももう、自動運転で運ばれているのだから何も心配はいらない。
私は川の流れに乗って川下 (望むところ・目的地) に運ばれつつ、目の前に流れていく景色をただ眺めているだけだ。
もう二度と見れない、もう二度と来れないところかもしれないので、そんな景色を眺めるのもいいかもしれない。
でも楽しい景色でなければ、そんなものは見つめずに、ビールでも片手に友と楽しい会話をするのがいいだろう。
また、好きな音楽をかけながら、いつものように好きな本を開くと、幸せな気分のまま目的地まで運ばれることだろう…。


ありがとう。
KATSUNORI 晴れ


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2016年09月25日

「何を望むか」 がはっきりしたら…。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

人生に望むもの。
幸せというもの。
幸せは、決して具体的な形がなければ実現しないというものではない。
幸せは、いつだって 「感じるもの」、「内面から湧き上がってくるもの」 だから。
形はなくても、目には見えなくても、ふと 「ああ、今幸せだな…」、「ありがたいなあ…」 としみじみ感謝の気持ちが湧いてくることが多々ある。
私は好きな音楽をかけて、寝そべって好きな本 (エイブラハムとかバシャールとか) を読みながらぼおっとしているときには、「ああ、幸せだな…」 と感じる。
そんなとき、私には何の不足もない。
全てのものが整っている。


本を読みながら、そこに書かれている言葉を、目を閉じて自分の魂に焼き付ける作業をするんだ。
まあ 「台詞を覚える」 というか、「暗記する」 というか、自分の頭に、心に、沁み込ませるという感じだ。
目を閉じながらそんなことをやっていると、自分がまた一歩成長できたことがしみじみと嬉しい。
自分一人だけの力では、なかなかそこまではいかない。
外側から 「言葉」 という情報を手に入れることで、私は大きく自分を変容させることができる。
自分の外側に出現してくれると、客観的に納得がいき、理解が進むんだ。


自分の頭の中でぐるぐる考えても、あまりろくな事にはならない。
思考はやはり周波数の世界なのです。
周波数が変わらない限り、「これだ。 これでいい」 というように納得する、腑に落ちる思考 (考え) はやって来ない。
でも、インスピレーション (直感) やイマジネーション (想像) は違うけれど。
それらには、ちょっとまた違った趣 (おもむき) がある…。
そして、自分が引き出した、引き寄せた、シンクロしたもの (言葉や本や情報、そして出会う人や経験等) は、新たな周波数の自分が引き出した 「新たな世界の扉」 なのだと私は思っています。


言葉はありがたい。
言葉に自分を合わせていく。
それはまるで、私が信仰でしていた合掌 (南無=帰命。 自分を合わせていくこと、捧げること) と同じだ。
私は、そこにある言葉に感謝をし、合掌し、南無している。
頭を下げ、お礼を伝えている。
そんなとき私は、しみじみと深い感謝を感じる。
感謝と幸せは、一体なのかもしれない。
感謝しているときの感触が、もしかしたら一番高い 「幸せの波動」 なのかもしれない。


そんなとき私は、確かに成仏している。 (笑)
「ありがとう。 臨終ただ今なり…」 という気分なのだ。 (笑)
感謝は、時 (時間) という制限 ・ 枠を超えて、「永遠という世界」 を垣間見せてくれるものです。
時 (時間) が消滅し、なくなってしまうほどの深い幸せ。
そんなとき私は、本来の自分 (内なる自分) の波動 (シグネチャーバイブレーション) と合致しているのだろうと思う…。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


ネガティブな気分になるのは、もともとあなたに届くはずの 「幸福の流れ」 を阻む抵抗の思考を放出しているぞと、「ナビゲーションシステム」 が気づかせようとしているからだ。
「ナビゲーションシステム」 が、「ほら、またやっている。 ほらほら、またやっている。 このネガティブな気分は望まないものを引き寄せているという意味だよ」 と言っているのだ。


多くの人は 「ナビゲーションシステム」 を無視して、ネガティブな気分をそのままにし、「もっと広い視点」 からの導きを活用しない。
だが、いったん人生のなかで 「何を望むか」 がはっきりしたら、それと反対のことに目を向ければ、あるいは望みが満たされていないほうへ目を向ければ、必ずネガティブな気分になる。
いったん 「願望」 が生まれたら、明るくていい気分になるためには、その願望に目を向けなければならない。
人生が仕向けてくれたあり方より 「劣るあり方」 に戻ることはできないからだ。
元気になりたいとか、具体的にこんな身体の状態になりたいという 「願望」 が明確になったら、願望が満たされていないというほうへピントを合わせると必ずネガティブな気分になる。


ネガティブな気分になったら、必ずしていることや考えていることを中断して、「わたしは何を望んでいるだろう?」 と考えなさい。
そうやって 「望むほう」 へ関心を向ければ、ネガティブな気分は消えて明るくて前向きな気分になり、ネガティブな引き寄せは止まってポジティブな引き寄せが始まる。
こうしてあなたは、正しい道に戻る。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月24日

関心を引き離すべきもの。


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KATSUNORI が書いています。

望むことと望まないこと。
ポジティブなこと、ネガティブなこと。
思考、感情、状況 (モノ ・ こと ・ 人)…。
自分のこと、人のこと、世の中のこと、世界のこと…。


創造 (実現 ・ 引き寄せ) には、アクセルとブレーキがある。
いくら望むことを考え、口にして、アクセルを踏んでいても、ブレーキを踏んでいたら前には進まない。
アクセルとブレーキ、それぞれを知ることがとても大切だ。
人のことだろうと、世の中のことだろうと、ネガティブなところにピントを合わせながら、ネガティブな感情を経験しないでいることはできない。
ポジティブなものとネガティブなものは、私の中では同居 (同室) できないのだ。
全ての困難は、私がネガティブなことを自分に「許す」 (許可する) から生まれる。


< アクセル >    < ブレーキ >
(望むこと)       (望まないこと) 
ポジティブ 5   :   ネガティブ 5
ポジティブ 0   :   ネガティブ 10
ポジティブ 10   :   ネガティブ 0 
あなたのバランスは、どうなっていますか?


「ポジティブな気分 ・ 感情」 は、「望むもの、欲するもの、好きなもの、心地よいもの」 のことを考え、口にするときに感じる。
そして、ポジティブな気分 ・ 感情のときは、「ポジティブな (望ましい) 引き寄せ」 をしている。
ポジティブな思考 (肯定的なもの、前向き、希望的、許容的なもの等) やポジティブな感情 (喜び、満足、愛、感謝等) やポジティブな状況を引き寄せている。
ポジティブな状況には、たとえば健康や裕福、人間関係の調和、安心、安全、平和、自由等がある…。


「ネガティブな気分 ・ 感情」 は、「望むもの、欲するもの、好きなもの、心地よいものの不足や欠如」 つまり、「望まないもの、欲しないもの、嫌悪するもの、心地悪いもの」 のことを考え、口にするときに感じる。
そして、ネガティブな気分 ・ 感情のときは、「ネガティブな (望ましくない) 引き寄せ」 をしている。
ネガティブな思考 (否定的なもの、後ろ向き、批判的、拒否 ・ 拒絶的なもの等) やネガティブな感情 (不満、怒り、嫌悪、憎悪、不安、怖れ等) やネガティブな状況を引き寄せている。
ネガティブな状況には、たとえば病気や貧困、人間関係の不調和、苦悩、困難、危険な状況、悲しみ、絶望等がある…。


自分が望まないことを見つめながら、望むことを口にしても、前には進めない。
いや、後退してしまう。
望まないことに関心を向ければ、そのエッセンスが自分のもとへ引き寄せられてくるからだ。
私がそれを望まなくても、望んでいなくても。
だから、「引き寄せたくないと思うこと」 から、私は関心を引き離して、代わりに引き寄せたいと思うことに関心を向けなければならない。
つまり、完璧に望むことだけを考え、口にする自分であるということだ。
望まないことには、「ノーサンキュー」 な自分でいたい。


「ビーカーに入った水」 が自分だ。
水を濁らせるようなことは、一切、絶対にしたくない。
繰り返しいつもそれを、決意していきたい。
そして、年内にはその 「自動運転」 を定着し、完成させたい。
「ネガティブな引き寄せ」 (思考、感情、状況) は、一切しない自分にしたい。
もう私の頭の中では、随分ポジティブな世界とネガティブな世界が、明らかに分離してきているのだが、本年はそれを完結する年にしたいと思う。
本年の残された期間、その分離に努めたいと思っている。
バシャールが言っていたように、もう 「ネガティブなことは全く思い出すこともできなくなる」 のだろう。
「それでいい」、「もう完璧に準備はできている」 と言っている自分がここにいる。
望むポジティブなパラレルワールドへの移行ということ…。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


「望まないこと」 に関心を向ければ、やがてそのエッセンスがあなたのところへ引き寄せられてくる。
自分が望まないことを見つめながら、望むことを口にしても、「望むことと」 と調和することにはならない。
引き寄せたくないと思うことから関心を引き離して、代わりに引き寄せたいと思うことに関心を向けなさい。


どんなに衰えた状態でも、完璧な健康を回復できない身体はない。
だが、「何を信じるか」 が、あなたの 「経験」 を決める。
何かが不治だと、致命的だと思っていたら、そしてあなたがその病にかかったと宣告されたら、普通は自分はもう生き延びれないと信じるし、生き延びれないだろう。
だが、生き延びるかどうかは病気とは関係なく、「思考」 によって決まる。
だから、「ほかの人はそうかもしれないけれが自分は違う、わたしの経験の創造者はわたしで、わたしは死ではなく回復を選ぶ」 と自分に言えば、回復できる。


ほかの人のネガティブなところにピントを合わせながら、自分のなかで 「ネガティブな感情」 を経験しないでいるのは容易なことではない。
そして、病気はネガティブなことを 「許容 ・ 可能にする」 から生まれる。
ネガティブなことをいっさい経験しない人は、病気にはならないだろう。


(※ 病気のことを言っていますが、「今の自分が抱えている問題、悩み、トラブル等」 に置き換えて考えてみるといいと思います。 健康を回復することは、問題を解消し、安心、安全、喜び、調和、裕福、自由等を実現することに置き換えることができます…)


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 06:10| Comment(0) | エイブラハム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

意志と決意。


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KATSUNORI が書いています。

人生には疲れることがあるかもしれない。
投げやりになることがあるかもしれない。
ふてくされたり、怒りがおさまらないことも。
へとへとになり、寝込んでしまうことも。
でも、疲れたら休むことだ。
何も考えないで、全てを放棄するほどの感覚が必要なときだってある。
何もしたくないとき。
ただ眠ることしかできないとき。


でも、身体を休めたら、少しずつ心も元気になっていく。
身体の声を聞かなくてはいけない。
身体は言葉を話せないけれど、体調の良し悪しはきちんと気分となって現れている。
気がのらないとき、重たい気分のとき、何もやる気の出ないとき。
身体と心は一体だ。
心のケアも大切だけど、疲れたらきちんと身体を休めることだ。
自分には自分だけのタイミングがある。
自分の心と身体のタイミングを信頼し、いつも大切にしてあげたい。
そうすると、不思議だがなぜだか全てが好転し始める。


そして、元気になったらまた前進しよう。
「望むこと」 を考えよう。
「明るくていい気分になること」 を考えよう。
そうすると、もっともっと元気になれる。
思考が変わっていく。
どんどんポジティブな思考がやって来る。
喜びの感情もやって来る。
気分が変わると、波動が変わり、周波数が変わるからだ。
そうすると体験する世界が変わる。
明るくて素敵な体験を、引き寄せ始めるだろう。
全ての体験は、波動と周波数の世界だ。
「元気になりたい」、「明るくなりたい」 という意志を持ち、繰り返しその決意をしていきたいと思う。


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以下は、エイブラハムの言葉です。


逃げ道のない状況は絶対にない。
それどころか途中には何百、何千もの実際的な選択肢があるものだ。
だが、多くの人は習慣から 「ない」 という視点を選択し続け、結局もはや選択肢がないという望まない状況に落ち込んでしまう。
「申し分のない状態」 や 「繁栄や成功や幸福の証拠」 を見つけようという意志を持ち続けていれば、その波動に自分を同調させることになる。
だから、人生は明るい気分のいい経験だらけになる。


自分は世界をただ観察しているのではなく、「意図的にポジティブに世界に貢献しているのだ」 と肝に銘じれば、世界で起こっていることに関与できることがとても楽しくなるだろう。
世界や国や近隣地域、家族、自分自身の身体に起こってほしくないことが起こっているのを見たら、そして自分には 「違うストーリー (望むこと) を語る力があるのだ」 と思い出したら、そして、「違うストーリー (望むこと) を語ることには大きなパワーがある」 とわかっていれば、あなたはこの地上の人生に参加しようと決意したときに持っていた素晴らしい知識を取り戻すことになる。


「明るくていい気分になりたい」 と決意し、毎日起こる出来事について意識的に 「肯定的な側面」 を探せば、そして意図的に「自分が欲すること」 を明確にしてそこに焦点を定めれば、いつも満足と喜びがあふれる道に踏み出すことができる。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月22日

「生き方の修正」


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KATSUNORI が書いています。

これは、日蓮が富木常忍(ときじょうにん)に与えられた御書(ごしょ=お手紙)です。
「一生成仏抄」 (いっしょうじょうぶつしょう) 建長7年(1255年) 日蓮 34歳御作 

富木常忍の本名はつねのぶ。 
下総国(しもうさのくに)葛飾郡(千葉県市川市)に住し、千葉氏に仕えていた武士。 日蓮が立宗宣言された翌年に入信したとされている。 入道(=出家)して富木常忍(ときじょうにん)と名乗り、後に日蓮より日常との法諱(ほうい=僧侶が受戒するときに受ける法名)を受けている。 重書である「観心本尊抄」(かんじんのほんぞんしょう)を与えられた富木常忍と、「開目抄」(かいもくしょう)を与えられた四条金吾(しじょうきんご)の2人は、日蓮の外護(げご)の双璧であったことがわかる。


「衆生(しゅじょう)と云(い)うも仏と云(い)うも亦(また)此(か)くの如し。 迷う時は衆生と名(なづ)け悟る時をば仏と名(なづ)けたり。 譬えば闇鏡(あんきょう)も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。 只今(ただいま)も一念無明(いちねんむみょう)の迷心(めいしん)は磨かざる鏡なり。 是を磨かば必ず法性真如の明鏡(ほっしょうしんにょのみょうきょう)と成るべし。 深く信心(しんじん)を発して日夜朝暮(にちやちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし。 何様(いかよう)にしてか磨くべき。 只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云(い)うなり」

( 訳 )
衆生というも仏というも、またそのとおりだ。 迷うときは衆生と呼び、悟るときは仏と呼ぶ。 たとえば、闇鏡も磨けば珠と見えるようなものだ。 一念無明の迷心は磨かざる鏡だ。 これを磨けば、必ず法性真如の明鏡と成る。 深く信心を起こして、朝晩怠らずに磨きなさい。 どのようにして磨くかと言えば、ただ南無妙法蓮華経と唱えることがこれを磨くということだ。

(※ 「一念無明」や「法性真如」の意味は専門的なので省略します)


この御書に仰せの通りに、私も必死で自分の魂を磨いてきた。
19歳で入信し、27年間全てをかけた。
でも、磨いても磨いても、私の魂は珠となり明鏡として完成することはなかった。
私は、「それは永遠に続くのだ」 と悟った。
求道は永遠に続き、「苦しみ」は永遠になくならない。
私が求め続けるうちは。
目の前の現実を見つめ、望みの実現していないこと (世界中の不足や欠乏・不幸) を見つめているうちは。
私が苦しんでいるうちは…。


本尊も、数珠も、法華経の題目 (南無妙法蓮華経) も、保てば保つほど、私はそれを手放せなくなった。
唱題 (題目を唱えること) の時間も、どんどん増えていった。
一日中、仏間で正座して本尊に向かい、合掌し唱題を続けていた。
365日、何年も何十年も。
そして、そんな激闘の末に、やっと私は人生を折り返すことができた。
私はしっかりと自分の信仰に、決着をつけることができた。


ある意味、私は全てを失った。
何も残っていないほどに 「底まで落ちた」 とも言える。
全てをかけ、全てを捧げたものの喪失は、私にとっては死同然だった。
私は、脱け殻 (ぬけがら) になっていた。
でも、そうして私は 「新たな自分の命」 を授かることができた。
それは、やっと私が、「上を見始める」 ことだった。
私は、生き方を修正した。
本当に壮絶な人生だったと、自分でも思う。
でも、それが私だった。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


幸福を達成するという目的で行動するのは、実は逆効果だ。
そうではなくて、明るくていい気分になるほうへ「思考と言葉」を向けなさい。
そうやって意図的に「幸福な状態」を作り出せば、素晴らしい行動のインスピレーションがわくだけでなく、素晴らしい結果がついてくる。
大変だ、苦しいという思いは、今いるところと到達しようとしている目標をいつも比べるから起こる。
目標までの距離を測って、まだ遠いなあと思っていたのでは、踏破すべき距離も仕事も努力も増幅される。
だから、大変な上り坂だと感じる。
苦労だ、苦労だ、と感じていたのでは、決してハッピーエンドにはたどり着かない。
それは 「法則」 に反する。
「もっと状況がよくなれば幸せになれる」 というのは、生産的な考えではない。
なぜなら、幸せでなければ幸せな場所に到達できないのだから。
まず幸せになろうと決める、そうすれば幸せな場所に到達できるのだ。


下降スパイラルが起こる理由は、「欠乏」 に関心を向けているからだ。
何かを失うと恐れていると、あるいは失いつつあるものに関心を向けていると、「望むものがない」 ということに焦点を定めることになる。
欠乏に関心を向けていれば、さらに失うだけだ。
自己防衛や自己弁護、あるいは自己正当化や合理化をしたり、他人を非難している間は、方程式の欠乏の側にいるから、さらに欠乏を経験し続ける。
だがいったん底まで落ちて、もう失うものは残っていないから自己防衛も必要がないとなると、関心が変化する。
そこで波動も変化し、したがって引き寄せの作用点も変化する。
「もう底まで落ちた」 と思うと、人は上を見始める。
無理やりに違うストーリーを語り始めるしかなくなる、と言ってもいい。


自分の人生を創造するのは自分だと気づき、思考を方向づけることによって意図的に経験を創造できることを学ぶこと、それはほとんどの人にとっては 「生き方の修正」 を意味する。
ほとんどの人は、「行動を通じて物事を実現するのだ」 と長い間信じてきたからだ。
物事を実現するのは行動だと間違って信じてきただけでなく、「望まないことに圧力を加えれば望まないことは消えるだろう」 と考えてきた。
だから、「貧困との戦い」 や 「麻薬との闘い」 「エイズとの闘い」 「テロとの闘い」 があるわけだ。
望まないことに圧力をかけて押しのけようとすれば、人生経験から消えてなくなるだろうとあなたがたは信じているかもしれないが、「宇宙の法則」 の働きはそうはなっていない。


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 06:15| Comment(0) | 宗教 ・ 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月21日

フォトアルバム。 2016年(22)


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勝手にアップしてしまいました…。
先日の、あるお祝いの 「晩餐会」 の写真です〜。 

でも、OK してくれると思います。
大丈夫でしょう。
もう、ここまできましたからね…。

いつもいつもありがとう! 
本当に感謝しています…。 
YOKO かわいい


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 17:30| Comment(0) | フォトアルバム H28年 (2016年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フォトアルバム。 2016年(21)


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「歩け歩け運動」 (今年の17回目) に行ってきました〜!  

でも、雨がザンザン降ってきてしまい、すぐ戻ってきました〜。 (笑)    
半日観光でしたね〜。 
残念です〜。  
帰宅して、自宅でお弁当を食べましたよ〜。 (笑) 

大通公園のオータムフェストを覗いて、それから円山公園に向かう予定で出発したのですが、大通公園に着いたあたりで結構強い雨が降ってきてしまったのです〜。
全然雨の予報ではなかったのですけどね…。
お弁当をお外で食べられそうにないので、仕方なく帰宅しました…。   

前回もお弁当を作って、結局お家 (うち) で食べたのですが、2回連続です〜。 (笑)
でも、お家で食べるお弁当も楽しくて好きです…。
教えてもらった 「オカズのせ丼」 (男子ご飯弁当) すっかりマスターしましたよ〜。 (笑)  
(見えずらいですが、ご飯の上にオカズをのせています…)
手間がかからず簡単に作れて、とても美味しいし、後片付けも楽だし、とってもで気に入ってます〜。 

競馬場前の写真もありますが、2枚とも通りがかりで撮ったものです。
札幌競馬のシーズンには、是非一度見に行きたいと思っています〜!
(今年はもう終わったようです…)  

ありがとう。  
YOKO かわいい


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 14:40| Comment(0) | フォトアルバム H28年 (2016年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分が、「最高だ」と信じる人生。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

全ての人の悩み苦しみを知らなくてはいけないと思っていた。
全ての世界の闇を知らなくてはいけないと思っていた。
地球を救うために。 (笑)
そんなに大袈裟なものでもないが、まあそんなふうに自分の成長を目指してきていたのは事実だ。
「尊敬する師匠」に連なろうと思っていたから。
「一番弟子」になろうと思っていたから。
「最高の道」を歩むことを望んでいたから。


だが、そこにあった私のシナリオには、必ず「努力と苦労」がセットになっていた。
血みどろの、必死の努力と苦労がなければ、「望む自分にはなれない」、「本物の弟子にはなれない」と思っていた。
それが当たり前だと。
つまり私は、常に困難に立ち向かい、とことん苦労することを望んでいた。
ある意味、ゴールよりもプロセスを大切にしていた。
とにかく、あらゆる力をつけようと思っていた。
夢が叶う、実現することよりも、私はまず苦労することを選んでいた。
私は努力をして、苦労をして、何かの「勲章」をもらおうと思っていたのだろう。
誰に…? 


それは多分、私が自分の「無条件の価値」というものを、認めていなかったからなのだと思う。
だから、私はいつもゴールに向かって走っていた。
でも、ゴールはとても曖昧だった。
なぜなら、ゴールは遥か彼方にあって、姿さえ見えないくらい大きなものであるほど素敵なのだ。
「自分には見えない」ということが素晴らしい。
ワクワクする。 (笑)
だから私は、とにかくいつも走っていた。
走りながら考えていた。
そうやって、自分が走っていることを確認していた。
そうすれば、いつかは必ず「報償」が与えられるだろうと思っていたのだろうと思う。
誰から? 人生から? 神から…? 
そんなシナリオが、当時は楽しかったんだね〜。 (笑)


ゴールにたどり着けなくても、走っていると安心できる。
走っていないと、怠けているみたいで不安だ。
怖れがやってくる。
だから私は、ひたすら走ることを止めなかった。
それは、必死で自分の価値を証明しようと闘っていたとも言える。
自己否定を前提にして闘っていたんだね。
自分の無価値を見つめていた、信じていたということだ。
だから立ち止まれなかった。


でも、走り続けて、走り疲れて、「自分は一体何をしているんだろう?」と思うようになった。
7〜8年くらい前のことかな…。
「自分は何を求めていたんだろう?」
そんなふうに、自分のしてることが全くわからなくなってしまった。
人生に、もうあまり「夢」が見れなくなってしまっていたんだね。
「それなりのところにはたどり着いていた」…、とも言えたから。
でも私の前には、絶対にぶち破れない「高くて大きな壁」が立ちはだかっていた。
どんなに一生懸命やっても、どんなに苦労をしても、それは決してぶち破れない、ということを私は悟った。
なぜなら、「それを動かないようにしているのは自分だ」ということに、気づいてしまったからだ…。


何十年も、自分を磨くために、どんなときも魂を込めて生きてきた。
私の人生に「遊び」なんてあったのだろうか?
遊びは、修行の合間のつかの間の「息抜き」にすぎなかった。
あとは、決して一人だけで生きてきていたわけではないので、人に合わせて、本当は自分がしたいわけでもなかったのだが、そんな「遊び」を取り入れていたこともあったということだ。
「必死でいたい」、「いつも必死の自分でありたい」、そんな望みや欲求が、私には明確に存在していた。
今もそうだ。
でも、それはそれでいいんだ、それが本当の自分なら。
それをしないと、自分が満足できないのなら。
心地よくないのなら。


今も私は何も変わってはいない。
でもそれを否定することはない。
でも今は、誰かに、何かに気兼ねする必要もなく、私はとことん「本当の自分」に生きれている。
このブログを書くことも、そんな私の喜びのひとつだ。
だがもう、苦労や苦しみを求めているわけではない。
ただ自分に生きているだけだ。
喜びを求めているだけだ。
誰に遠慮することもなく、自分の望む人生を生きることが、ここ数年完璧にできている。
それが今と昔の違いだ。
内面的にも外面的にも、それが許される状況になった。
それができる状況が、今はもう完全に整っている。
そしてそれは、更に毎日向上し続けている。
私の成長と、自由と、喜びが、日々向上し、拡大している…。
「全てが無限に向上していくのだ」、ということを日々実感する毎日です。
本当にありがたいことだ。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


多くの人は、成功するには一生懸命努力して苦労することが必要だというだけでなく、一生懸命努力して長く苦労するのが誇らしい生き方だと信じている。
確かにそうやって苦労している間に、自分が何を望んでいるかが明らかになるだろが、「苦労しているという感情」を解き放たないかぎり、欲しいものを経験に引き寄せることはできない。


人はよく、自分の価値を証明しなければならないと感じる。
そうすれば、いや、そのとき初めて「報償」が与えられるだろうと思う。
だがわかってほしいのだが、あなたがたは既に「価値」がある。
価値があると証明するのは不可能なばかりか、不必要だ。
求める報償や恵みを得るために必要なのは、その恵みのエッセンスと同調することだけだ。
まず経験したいと思っていることと「波動」を合わせなければいけない。
自分の価値を信じられない、いちばん大きな理由は、「欲しいものを手に入れる方法が見つからない」ことで、そのために、「誰かが自分を評価せず報償を与えてくれないのだ」、と間違って信じ込んでしまう。
あなたの経験の創造者は「あなた」なのに。


こんなふうに宣言しなさい。
「わたしはでき得る限りの最高を望む。 これが最高だと考えることに調和するように行動し、所有し、生きたいと思う。 わたしは物質世界のこの身で生きることと、最高だと信じること、あるいは素晴らしい生き方と信じることを調和させたい」
こう宣言し、明るくていい気分を感じるときにだけ行動すれば、常に最高だと考えるものと調和した道を進むことができるだろう。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月20日

日蓮宗?

 
image/2016-09-19T033A593A05-4.jpg image/2016-09-19T033A593A05-3.jpg image/2016-09-19T033A593A05-2.jpg   
(何度か本山にはお目通り(参詣)をさせていただきました。 「大講堂」(中)と「正本堂(しょうほんどう)」(右)前での写真です。 87年10月25日と記録されており、29年も前の写真ですね。 もう、そうとう昔の話です…)


KATSUNORI が書いています。

前回の記事について補足する。
日蓮というと、単純に日蓮宗と理解されると思うが、実はそんなに簡単な話ではない。
日本には、日蓮系の宗派は、ある意味無限にあるからだ。
日蓮には「六老僧」といい、少なくとも6人の愛弟子がいた。
日蓮が亡くなったあとに、その弟子たちが全て師匠の言いつけを守り、協力し合い正しい布教をしたか、道をそれなかったかと言えば、決してそうではない。
「釈迦が本仏か、日蓮が本仏か」という解釈の違い(本仏論)に始まり、法華経の解釈等、それぞれの宗派には明確な相違がある。
本尊の違いもそうだ。
日蓮の本意とは明らかに違う龍神(りゅうじん)や稲荷(いなり)、馬頭観音(ばとうかんのん)や鬼子母神(きしもじん)まで祀っていたりする。
また、火の上を歩いたり、水を浴びる等の荒修行をし、「祈祷」や「おはらい」等をしている宗派 ・ お寺も多い。


私が入会していたのは、「日蓮正宗」 ( にちれんしょうしゅう = 日興(にっこう : 弟子の名前)門流 = 冨士門流。 本山は静岡県富士宮市の冨士大石寺(ふじたいせきじ) )の在家信徒団体である「創価学会」だった。
しかし、学会は結局その宗門(本山)より破門され、現在は独自の活動 ・ 運動を展開している。
日蓮正宗のことは、私は学会にいた立場の人間なので、良くは思ってはいない。
学会員が宗門を外護するために、どれだけのご供養をしてきたか、どれだけの布教活動をしてきたか、どれだけ広宣流布(こうせんるふ : 分かり易く言うと世界平和)を進めたのかという現実があるからだ。
供養を受けるだけ受けて、宗門は全てを切り捨てた。
学会の尽力がなければ、宗門の発展は明らかになかった。
宗門は戦時中も、国からの弾圧を避けて、神社の神札等を受け入れた経緯がある。
それは、全く日蓮の本意 ・ 精神ではなかったはずだ。


初代会長 : 牧口常三郎(つねさぶろう)先生、第2代会長 : 戸田城聖(じょうせい)先生の二人が日蓮正宗に入信して、創価学会が世に出現した。
確かに僧侶が伝統を守ってきていた経緯があったのだが、伝統だけでは広宣流布は進まない。
それを実現可能にしたのは、進めたのは、広めたのは、間違いなく在家信者の組織であった創価学会だった。
今も私は、学会のことは愛していますよ。
愛すべき純真な会員さんたちが、本当に沢山(無限)にいるからです。
純真な人に罪はない…。


でも、結局宗門(本山)は、学会を否定し嫉妬して、世界中の人達が集い広宣流布(世界平和)を祈念するために建立した正本堂や大客殿さえも、狂ったように破壊してしまった。
僧侶が上で、在家は下…。
「法衣(袈裟)を着たものが上位で信徒は下位」、「葬儀は信徒がするものではなく僧侶がするものだ」、「信仰は僧侶にまかせて在家は檀家になれ」、「寺にはきちんとお布施を払え」、「僧侶の力なくして本当の成仏も広宣流布もない」、というようでなスタンスは全く日蓮の本意ではないはずだ。
宗門(本山)との問題にかかわらず、ネット上では昔から変らず学会に対するネガティブキャンペーンが盛んに繰り広げられているが、それは全く心地よくない世界(波動)だ。
でも、私はもう学会も退会した立場なので、今日はこれくらいにしようと思う。 (笑)


私はどこまで行っても、信仰は「信仰心 ・ 信心」が全てであり、形式的な相違(本尊も含む)は全て、枝葉に過ぎないと思っています。
「与えるものが受け取るもの」(波動の世界の話です…)であり、全ては自身の投影であり、引き寄せし実現している世界 ・ 自分独自の体験です。
日蓮の心も、歴代会長の心も、本尊の功力も全て、今も私の心の中には美しく存在していますよ。
全ては、真実は、いつもただ「私の胸の中だけ」にあるのです。


以下は、日蓮が晩年を過ごされた身延(みのぶ=山梨県)で著され、日女御前に送られたお手紙の一部です。
日女御前についての詳細は明らかではないが、仏法に深い教養があり、信心強盛な女性であったと考えられています。

   
「日女御前御返事」(にちにょごぜごへんじ)= 本尊相貌抄(ほんぞんそうみょうしょう)。 建治3年(1277年)8月 日蓮 56歳御作)

「此の御本尊(ごほんぞん)全く余所(よそ)に求る事なかれ。 只(ただ)我れ等(ら)衆生(しゅじょう)の法華経を持ち(たもち)て南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり。 是を九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都とは申すなり。 十界具足(じゅっかいぐそく)とは十界一界もかけず一界にあるなり。 之に依つて曼陀羅(まんだら)とは申すなり。 曼陀羅と云うは天竺(てんじく)の名なり。 此には輪円具足(りんえんぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも名(なず)くるなり。 此の御本尊も只信心(しんじん)の二字にをさまれり。 以心得入(いしんとくにゅう)とは是なり」

( 訳 )
この御本尊は、全く他のところに求めてはならない。 ただ、我等衆生が法華経を信受して、南無妙法蓮華経と唱える胸中にあるのだ。 これを「九識心王真如の都」というのである。 十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということである。 そのため、御本尊を曼陀羅というのである。 曼陀羅というはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも、功徳聚ともいうのである。 この御本尊も只信心の二字に納まっている。 信によって入ることができる(以心得入)とはこのことである。

(※ 「九識論」の九識心王真如の都や、天台大師の「一念三千」の十界論 ・ 十界互具(ごぐ)などについても述べられていますが、専門的になるのでここでは触れません)

 
ちなみに、日蓮正宗や創価学会では、日蓮のことを末法の御本仏という意味で「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」と呼ぶが、私は今はもう客観的 ・ ごく普通ににただ日蓮と呼びます。 
でもそれは、決して呼び捨てにし、侮辱しているわけではありません。
あしからず。
以下に、少しだけ参考サイトを添付しておきました。
関心のある方のみどうぞ。
では。


「日蓮宗 Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97
(日蓮正宗 : 冨士大石寺は、日興(にっこう)門流 = 冨士門流です)

「日蓮正宗公式サイト」
http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/taisekiji/jpn/taisekiji_1_j.html
(地図中の建物をクリックすると写真が見れます。 なお本画面はサイトのトップ画面ではありません。 トップ画面は画面左上の「ホーム」をクリックして下さい)

「創価学会 Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A


KATSUNORI 晴れ


posted by  KATSUNORI & YOKO  at 05:50| Comment(0) | 宗教 ・ 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

本尊 (ほんぞん)。


image/2016-07-17T023A353A05-1.jpg image/2016-07-05T053A283A04-4.jpg image/2016-07-25T123A253A08-1.jpg  
(入信直前 : 18歳のころ。 いつも肌身離さず持っていた数珠と経本)


KATSUNORI が書いています。
今日はちょっと専門的です。
興味のある方のみ、ゆっくりゆっくりどうぞ…。


私がしてきた信仰。
私の誇り。
今も、その道には感謝が尽きない。
今はもう、私のいるところは違うが、どうあれその世界は私を導き、鍛えてくれた。
その恩には、感謝してもしきれない。


私が合掌してきた対象。
私は何に手を合わせてきたか、何に向かって祈ってきていたか。
宗教とは、宗(むね=根本)の教えという意味だ。
そして、仏教には、南無(なむ)する対象がある。
南無とはサンスクリット(インド)語であり、漢語では帰命(きみょう)と言う。 
日本語では、自分を合わせていく、合掌し祈る、命を捧げる等という意味だ。
宗派によって仏像など様々に異なるが、信仰の対象のことを「本尊」と呼ぶ。
(インドの釈尊(しゃくそん=釈迦)により始まった仏教は、やがて中国等を経て日本に入ってきた。 仏とは悟った者・覚者のことを言うが、無死無終の永遠の生命(生命の真実)のことを示してもいる。 つまり、悟った者でありその本質・当体・持っている力(法)のことを言う…)


本尊とは、「根本として尊敬するもの」という意味だ。
私のしていた信仰では、開祖(日蓮)が書き現した「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の文字曼荼羅(もじまんだら)」(紙に文字が書かれたもの)を本尊としていた。
「曼荼羅」とは、サンスクリット語の「マンダラ」の音写で、仏(釈尊)が覚った世界・その法を説く集いを表したものだ。
その本尊は、法華経(仏典の一つ。 正式には妙法蓮華経。 経とは釈尊の話された説法の記録のこと)に説かれる「虚空会(こくうえ)の儀式」の姿を現していた。
虚空会の儀式とは、巨大な塔(宝塔)が大地から出現し、全宇宙から諸仏が集まって、虚空(こくう=空中)で釈尊の説法が行われる儀式のことだ。
曼荼羅の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と書かれていて、その周囲には仏や菩薩、種々の境涯を示す衆生(しゅじょう=人々・存在)たちが連なっている。 


このことは、すべての衆生が仏の智慧と慈悲の光に照らされて、生命本来のありのままの尊い姿になるとの意味だ。
また、仏や菩薩をはじめとして、あらゆる衆生が集い、末法(まっぽう=仏滅後(釈迦が死んでから)2千年以降を指し、その時代は釈迦の功力が効かなくなるほど、衆生の心と社会が乱れると言われた…)の人々と社会の幸福・平和を願うという法華経の世界観を表している。
法華経の虚空会の儀式には、末法という争いと苦悩の社会にあって、万人の幸福を実現し平和社会を築く誓いを立てた「地涌(じゆ)の菩薩」が登場する。
日蓮が現した本尊に祈ることは、その地涌の菩薩の使命を呼び覚ます意義も含まれている。
末法の時代にあって、地涌の菩薩の誓いに生きることが、日蓮仏法の実践の根幹となっていた。
 

日蓮は、当時(末法に突入した鎌倉時代)の各種の大災害に対し、当時の実質的な最高権力者であった北条時頼(ときより)に「国主諌暁(かんぎょう)の書」である「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)を提出した。
仏法者の立場から国家の前途を憂え、迷妄を開き正しい道に導こうとする日蓮の、慈愛あふれるストレートで真っ正直な本当に厳しい論文だ。
(文応元年(1260年)7月 日蓮 39歳御作)


その「立正安国論」には、「当時の世相(飢饉・疫病・天変地異等)が、正法を捨てて邪法を立てていることが根本原因である」とし、「誤った思想を全て断ち切り、正法を打ち立てる以外に救われる道がない」ことが主張されていた。
その内容が、法華経以外の教えは釈尊の真の教えではなく方便(衆生の機根を整えるための仮り)の教えにすぎず、末法の時代にあっては邪法であると結論していたために、その後日蓮は幕府のみならず各宗派からも迫害・弾圧を受け、身を追われ、自身だけでなく弟子や信徒たちまでもが命を奪われるような数々の大難を受けることになった。


その「立正安国論」の結論には、このように書かれている。
「汝(なんじ)須(すべから)く一身の安堵を思わば、先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祷らん者か」
(四表とは東西南北。 静謐とは世の中が穏やかに収まっているさま)
日蓮は、「自らの安泰を願うならば、すみやかに真実の教えを実践し、国の平穏を祈るべきだ」と国主を諌められた。


また、次は日蓮が流罪の地・佐渡から鎌倉の門下に送られたお手紙である。 
「経王殿御返事」 文永10年(1273年)8月 日蓮 52歳御作 (抜粋)


四条金吾(ししょうきんご)夫妻が用人をつかわして、幼い子供(経王殿)の病気の平癒の祈念をお願いしたことへの御返事である。
(四条金吾=四条頼基(しじょうよりもと)。 日蓮に仕えていた武士。 官位が左衛門尉(さえもんのじょう)であったので左衛門尉の唐名である金吾と称され四条金吾と言われた。 経王殿は文面から女児であったと思われる)
冒頭で日蓮は、経王殿の回復を、昼夜にわたって祈念していると、真心の励ましを送られている。
そして、御本尊は御自身が全生命を注いで書き表したものであることを述べられ、今こそ強情な信心に励むよう激励されている。


「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し。 いかなる病さはりをなすべきや。 鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。 但し御信心によるべし。 つるぎなんども、すすまざる人のためには用る事なし。 法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ。 鬼にかなぼうたるべし」
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ。 仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」


( 訳 )
この曼荼羅をよくよく信じなさい。 南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。 どのような病が、障りをなすことができようか。 鬼女母神や十羅刹女が、法華経の題目を持つ者を守護すると経文には見えている。 ただし御信心によるのである。 剣であっても、勇気のない人には何の役にも立たない。 法華経という利剣は、信心の真面目な人が用いる時にこそ役にたつのであり、これこそ鬼に金棒なのである。
この御本尊は、日蓮が魂を墨に染め流してしたためたものである。 信じていきなさい。 釈迦仏の御意は法華経である。 日蓮が魂は、南無妙法蓮華経そのものなのである。


私は、今はもうその信仰はしていないし本尊も会に返却したが、日蓮の人々や国を思う気持ち、それら全てを抱えながら信念に殉じていく不屈の精神・慈愛は、本当に偉大だと今も変わらずに思う。
私もほんの少しではあったが日蓮に連なり、魂を込める人生を生きることができたことを、今でも本当に幸せに感じている。
また、本当に長い間お世話になった会や、師匠(歴代会長)や諸先輩・同志たちには、心から感謝をしています。
ありがとう。


…………………………………………………………………………………………………………………………


追記。
(こちらも興味のある方のみどうぞ)

 
【 教相判釈 と 五時八教 】

インドに起こった仏教は、経典の内容や教義などが整理・体系化されないまま中国に伝えられた。
そのため中国では、どの経典がもっとも優れた教えなのかを判断する教相判釈が行われ、南北朝の時代(五〜六世紀)には、揚子江の南に三家、北に七家の「南三北七」の十師が現れた。

それらは、釈尊の教えはすべて同じ内容であるとする「一音教」や、あるいは内容に高低があるとする「三時教」「四時教」等の説を主張し、その判断基準に従ってそれぞれの学派を立た。
これらの教判に対して、隋の時代(六世紀後半)に出た天台大師は、釈尊一代五十年における説法の次第・教法の内容・教化の方法などを総合的に判釈した「五時八教」を立てて、一代諸経の勝劣浅深を明確にした。

「五時」とは、釈尊一代の化導を説法の順序に従って、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期に分類したものをいう。
また「八教」は「化法の四教」と「化儀の四教」とに分けられる。
このうち「化法の四教」とは、釈尊の教えの内容を分類したもので、蔵教・通教・別教・円教の四つをいい、「化儀の四教」とは、衆生を化導する方法を分類したもので、頓教・漸教・秘密教・不定教の四つをいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88
 

KATSUNORI 晴れ


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2016年09月17日

人間関係 ・ 別れ。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

様々な人間関係がある。
そしてそこにある、様々な別れ。
親子、夫婦、家族、親戚、恋人、友人、知人…。
自分の意志で別れを選ぶときがある。
それも人生であり、そこにはとても貴重な、大切な経験がある。


人が嫌な気分になるのは、私の責任ではない。
人の感情を私が行動で支え、幸せにすることはできない。
私がその人に代わって思考し、波動を出すことはできないからだ。
つまり私は、人が人生でする経験について、責任を取る必要は一切ない。


「人がどう感じるか」に関心を向けて自分の行動を決めようとすると、私はいつも無力になる。
私が人のために生きると、私はその人の奴隷になる。
人に振り回されていては、私は「自分の波動」を整えることはできない。
つまり私は、自分に生きない限り、幸せにはなれない。
私は、「明るくていい気分になるほう」へ思考を向けて、自分自身の苦痛をコントロールする。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


あなたは、つらい状況にある「相手の苦痛」を感じているのではなく、「自分自身の思考が引き寄せた自分の苦痛」を感じているのだ。
そこに気づけば、真に自由になれる。
思考は自分でコントロールできるから、感じ方もコントロールできるとわかれば、あなたは自由に生きて楽しむことができるが、「自分の感じ方は他人の行動や状況に左右される」と信じていたら、自由だとは感じない。
実はそれが、あなたが言う「苦痛」なのだ。
「相手がどう感じるか」に関心を向けて自分の行動を決めようとすると、あなたは「無力」になる。
相手の見方をコントロールすることはできないから、相手の見方に振り回されていたのでは、「自分自身の波動や引き寄せの作用点、自分の感じ方」を改善することはできない。


選択肢の一つは、「心配しなくていい。不幸にならなくていいよ。わたしは気が変わった。別れない」と言って、今の関係を続けることだ。
だが、結局は二人とも不幸だと感じるだけだろう。
基本的には、あなたはその関係には満足していないし、不幸なままだ。
もう一つの選択肢は、そのまま別れることだ。
あなたは人間関係の嫌な面のすべてに焦点を定め、別れを正当化しようとする。
そうやってネガティブな面に焦点を定めていれば、やっぱり別れるべきだったと納得できるだろうが、本当に明るくていい気分になることはない。
人間関係が終わって不幸から解放されて少しホッとするだろうが、それでも自分の気持ちを正当化しなくてはいけないという気持ちは消えないだろうし、そのためにあまり楽しくない状態が続くだろう。


実は、あなたはどんなことをしてもほかの人が嫌な気分になるのを防げはしない。
なぜなら、相手が嫌な気分になるのは、あなたの行動のせいではないからだ。
人間関係や人生では、相手の感情を観察し、それを自分の行動で変化させて相手を幸せにしようと試みること以上に大きな罠はない。
あなたが幸せになる唯一の方法は、「幸せでいよう」と自分で決意することだ。
あなたが自分の「行動」をどう変えても、「相手が感じる苦痛」をコントロールすることはできない。
ただ、自分の苦痛が消えて明るくていい気分になるほうへ「思考」の方向を変えて、「あなた自身の苦痛」をコントロールすることはできる。
あなたが望むことに関心を向ければ、いつでもあなたは明るくていい気分になる。
あなたが人の問題に焦点を定め続けていると、そのうちあなたにも問題が起こるだろう。


他人が人生経験で何をするかに「責任」をとろうとしてはいけない。
願望が満たされていない場所にいる相手も立ち直ると考え、このあとはきっとよくなると思いなさい。
人のことを考えるときには、幸せな姿を思い浮かべなさい。
以前交わした、あるいは別れ際に交わした悲しいやり取りを思い返すのはやめなさい。
あなたが未来へ進んでいくように、その人たちも未来に向かって進んでいくのだと思いなさい。
その人たちにも「ナビゲーションシステム」があって、ちゃんと道を見つけると信じなさい。


パートナーにはこんなふうに言うといい。
「わたしたちは思ったほど多くのレベルでつながってはいなかったけれど、きみにとって完璧なパートナーがどこかにいると思うし、そのチャンスに向かってきみを解放してあげたい。きみをここに閉じ込めておきたくないし、どっちも望んでいないところに縛り付けておきたくない。どちらも自由になって自分の望みを実現すべきだと思う」
それから、こう言ってあげなさい。
「きみのことを考えるときには、今は悲しがっているけれど、そのうちきっと幸福になるだろうと思うことにする。幸せなきみを思い浮かべるつもりだ。それがわたしの願いだし、きみもそうだと思う」
この言い方は、きついとか冷たいと聞こえるかもしれない。
だが、これ以上にいい方法はあり得ない。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月16日

思考を選び、感じ方をコントロールする。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

今私が抱えている問題や心配ごとなど、ほとんどない。
仮に、そこにあったとしても、私はそれを直視はしない。
望まないことよりも、望むことにエネルギーを注ぐことに忙しいからだ。
ネガティブなものの見方は絶対にしない。
意地でもポジティブな意味付けに食い下がり、必ずポジティブな結果を引き出す。


だが、みなそれぞれ人生には、抱えている様々な問題・トラブル・心配ごともあるだろう。
将来に対する不安も…。
健康のこと、経済的なこと、人間関係も含め、生活の隅々にわたる諸問題。
この状況も、その状態も、このことも、あのことも…。
ここのところ、全ての問題や心配ごと・不安等について対処できるような「アファメーションの言葉」はないだろうかと考えていた。
私が望む、「全てのことにあてはまるキーワード」。
そして見つけた言葉がこれだった。


「悩みごと・心配・不安がなくなって、ホッとしたい」
「問題が解決して、ホッとしたい」


解決すること、なくなること、解消されること、終わること。
スッキリすること。
晴れやかになること。
ホッとして明るい気分になること。
どんな問題や心配ごとでも、私は全ての悩みがなくなって「ホッとすること」を望んでいるのだということがわかった。
悩みのない、心配ごとや不安のない人生。
つまり、「完全に安心・安全な人生」とも言える。
そして更には、自分だけでなく、そこに関係している全ての人たちが、みなホッとして明るくなるような結果・結末。
そんな、「本当によっかった」、「安心した」、「ホッとした」という気持ちを、私は感じたいのだということがわかった。


心配ごとのない安心・安全な、絶対的に崩れない人生を、私は完璧に確立したいと思っている。
そしてそれは、「私が自分の思考さえきちんとコントロールすれば、簡単に手に入れられる」、と私は信じている。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


「今、飛行機から飛び降りたところで、パラシュートはない。どうすればいいだろう?」
どんな行動も思考も今すぐに迫ってくる結果を変えることはできない、という状況がある。
どんな行動も解決策にならないし、どんな思考も即座に状況を変えることはできない。
だが、一貫して気分のいいことを考えているとき、その思考には信じられないほどのパワーと「てこ」の作用があることを理解し、気分や感情が示してくれるナビゲーションを活用して「明るくて気分のいいこと」に焦点を定めて意図的に思考を選んでいくと、いい経験でいっぱいの人生が簡単に実現する。
意図的に思考を選ぶことで、ほんの少しでも「ホッとして気分が明るく」なれば、解決への穏やかな道が開けるのだ。


ある状況で、「何をすればいいか」はわかりにくいかもしれない。
ときには「自分が何を望んでいるのか」さえ、はっきりわからないかもしれない。
だが、「どう感じたいのか」を、ある程度まで知ることができないような状況はあり得ない。
言い換えれば、幸せを感じたいか悲しみを感じたいか、さわやかな気分でいたいか疲れた気分でいたいか、意欲満々でいたいか無気力でいたいかは、いつでもよくわかる。
生産的な気分でいたいか非生産的な気分でいたいか、自由な気分でいたいか鬱屈した気分でいたいか、成長していると感じたいか停滞していると感じたいかもよくわかるはずだ。


いくら「行動」しても、間違った思考の埋め合わせはできない。
だが、「思考の方向を意図的に選ぶ」ことで、「自分の感じ方をコントロールする」ようになれば、思考がどんなに強力な「てこ」の作用をするかがわかるだろう。
自分の思考を意図的にコントロールすれば、人生経験も意図的にコントロールできるようになる。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月15日

「転換のプロセス」


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

毎瞬毎瞬自分が望んでいるもの、欲しているものを宣言することがとても大事だ。
心の中で、自分に宣言するということ。
ただ宣言する。
確認する。
それだけで、道ができる。
自分がそこに向かって進み始める。
望むものを引き寄せる。
本当に不思議だけど…。


「私は、〇〇が欲しい」、「私は、〇〇を望んでいる」…。
健康、お金、人間関係、仕事のこと等、生活の中で望んでいるものが無限にあるはずだ。
でもみな、その望むもののことを、あまり真剣には考えない。
常に、今ある現実をみつめて、「無理だな…」とか、「時間がかかるな…」とか諦めてしまう。
そして、現実と格闘しなければ、道は開けないと思っている。
奇跡なんて起こりっこないと信じている。
だから、とにかく必死に、がむしゃらに行動中心の闘いをする。


心の中で宣言することが、大きなパワーを持っていることをみな知らない。
自分が決めたこと、望んだことが、その通りになるということを。
信じ続けること、思い続けること。
それはとても楽しいことで、それをしてるとどんどんその思考は活性化してくる。
どんどんパワーを拡大していく。
望むこと、思うことは簡単だ。
私は、いつもいつもただ望むもののことを考えている。


嫌いなもの、不快なもの、怖いものがそこにあるなら更にチャンスだ。
その反対のものを、私は望んでいるのだから。
ちょっとだけ苦労するのは、その反対の状態を表現する言葉(キーワード)を見つけることくらいだ。
それが腑に落ちるまで、少しだけ時間がかかることがある。
私は基本的には、「嫌だ!、嫌いだ!」という言葉は、長くは使っていたくない。
その言葉は、地面を踏ん付けて、踏ん張ってジャンプする瞬間にだけ使う。
立ち上がるときにだけ使う。
見つめているものが、ネガティブなものだからだ。
それを長く見つめ続けると、そのネガティブな波動を強化して取り込むことになる。


だから私はすぐに、「では、私は何を望んでいるのか?」と、自分の欲しているもの、望んでいる状況・状態を探す。
たとえ、荒れ狂う怒りの中でも、私はそれができるんだ。
私は心の中で自分に宣言している。
その状況に頭にきながらだけど…。 (笑)
1. 「馬鹿野郎!」
2. ≪私はこんな状態は望んではいない!≫
3. ≪私はこんなのは大嫌いだ!≫
4. ≪私はこの反対を望んでいるんだー!≫
というような感じだ。
そして私は、「私は、心地よいもの、明るくて前向きな気分、調和、平和、安全、安心、健康、裕福、自由等を、欲している!」と心の中で叫ぶんだ。
繰り返し繰り返し、何度も何度も。
強く、強く。


そんな嵐の中でも、そんな荒海の中でも、そんなことができるようになる。
でも、ただ心の中で叫ぶだけで、道は敷かれていくんだ。
今の私は、一日中そんなことをしてる。
勿論、いつも嵐の中にいるわけではない。 (笑)
静かな時の中で、リラックスしてするのが楽しい。
でも、静かなひとときの中でも、私の心の中では沢山の情熱が渦巻いている。
「欲しい」、「望む」、「欲している」、「なりたい」、「引き寄せたい」、「それ以外引き寄せない」、「絶対に手にする」…。
表現は無限です。
自分にあった心地よい言葉を捜してみて下さい…。
では。


……………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


誰でも明るくていい気分でいたいと思うが、ほとんどの人は周りのすべてが楽しくなければ明るくていい気分にはなれないと信じている。
事実、たいていの人の気分は、そのときに目に見えるもので決まっている。
楽しいことを見ていればいい気分だが、目の前にあることが楽しくなければ気分が悪い。
ほとんどの人がいつもいつもいい気分でいられないのは、周りの条件が変化しなければ明るくていい気分になれないと信じ、でも自分には条件を変化させる力がないと思っているからだ。


だが、どんな物事も実は、望むことと、望みが満たされていないということの二つの事柄だと理解できれば、そのときに関心があるどんなことについても、肯定的な側面を見られるようになる。
実は「転換のプロセス」とはそれだけのことだ。
関心を向けているものが何であっても、意図的に肯定的な側面を、もっと明るくていい気分になれる見方を探すことである。


望まない状況に直面して嫌な気分になっているとき、意識して「自分が何を望まないかはよくわかる。それでは望んでいることは何だろう?」と問いかけてみる。
あなたという「存在」の波動は、何に焦点を定めているかで影響されるから、これで波動が少し変わり、それによって引き寄せの作用点も変化する。
すると、あなたが自分の人生について語るストーリーが変化し始める。
「いつもお金が足りない」と言う代わりに、「もっとお金があったら楽しいだろうな」と思う。
これは全然違ったストーリー、全然違った波動であり、全然違った感情で、それがやがては全然違った結果をもたらす。


変化のなかで全体を見通せる地点に立ち、「わたしが望んでいるのは何だろう?」と問い続けていると、やがてはとても楽しい場所にいることに気づくだろう。
自分が望んでいるのは何かと問い続けているのに、引き寄せの作用点が変化しないわけがないからだ。
このプロセスを続けていけば、ほんの数日で素晴らしい結果が生まれる。


「転換のプロセス」は単純だ。
ネガティブな気分でいると気づいたら (その感情は自分が望んでいる何かと調和していないから起こる)、立ち止まって自分に問いかければいい。
「今、ネガティブな気分でいるのは、自分が望むことと調和していないからだ。それでは自分は何を望んでいるのだろう?」
ネガティブな気分は、そのとき自分が何を望んでいるかをはっきりさせるとてもいいチャンスだ。
自分が望んでいないことを経験しているときほど、望むことが明確になることはないからだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月14日

空虚感。


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KATSUNORI が書いています。

長いこと信仰人生に生きてきたが、自分のことであれ、人のことであれ、社会や世界のことであれ、私がそこに「欠けているもの」(足りないもの・不足)を見つめている限り、私が世界を変えることはなかった。
できなかった。
私がものの見方を変えない限り、それは永遠に続くのだ。
不足探しには疲れ果てた。
キリがないからだ。


その思考は、エネルギーを持ち、どんどんその思考を拡大し、その思考に当てはまる状況・人々・社会・世界を引き寄せる。
私はその信仰では、自分の抱えていた「空虚感」を超えることはできなかった。
思考が思考だから。
現実を見つめて、現実と格闘する。
それは当たり前の世界だったが、でも今の私は全く違う世界にいる。


欲してはいたが、実は叶えたくはなかったのだと思う。
直感的には、自分のしてること、見つめている世界が、自分の真実とは違うとわかっていたからだ。
でも、ある意味私は、それに抵抗し続けた。
とことん極限までやって、魂で納得したかったからだ。
そして、私はその闘いを完璧に終えた。
今の私は、「本当の自分の願望は何か」ということだけを、真剣に見つめている。


……………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


ほとんどの人は、「欠けている」という立場から何かを望む。
たいていは自分が持っていないから欲しがる。
だから、何かを手に入れても本当には満足できず、深いところで不満が残る。
なぜなら、いつだって持っていないものは必ずあるから。
そのために次はあれが欲しいと思い続け(それが手に入ってもやっぱり満足できない)、人生は終わりのない闘いになる。
自分が持っていないから欲しい。
それを手に入れられれば隙間を埋められるだろうと思う。
だがそれは「法則」に反している。


欠けているという立場からする行動は常に非生産的だ。
そして、常にまだ欠けているという気分につながる。
人々が感じている空虚感は物では埋められないし、行動で満たすこともできない。
人々が、欠けている、空虚だと感じるのは、自分の願望の波動と習慣的な思考の波動がずれているためだ。
いい気分になる思考を選択すること、違うストーリーを語ること、肯定的な側面を探すこと、本当の願望に「転換」すること、ポジティブな「もしも」を探すこと、これが隙間を満たす方法だ。
すると実に興味深いことが起こる。
欲しいものがどんどん経験に流れ込んでくる。
だが、欲しいものが流れ込んでくるのは隙間を満たすためでははない。
なぜなら、空虚なんかもうないのだから。
空虚感がないからこそ、物はどんどん流れ込んでくる。


望むこと、所有すること、行動することをやめなさいというのは、わたしたちのメッセージではない。
あなたが気分よく感じるところから望み、集め、行動しなさい。
それがわたしたちのメッセージだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月13日

現実を変えるために必要なこと。


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KATSUNORI が書いています。

現状・現実それが一体何だと言うのだろう。
それは単に、過去の私が信じていた世界であり、お付き合いしていた世界にすぎない。
私は優しいから、「自分の本当に望む世界」には生きてこなかった。
私の中には、まず必ず「人」があった。
いつも人が優先されていた。
いつも、「自分はどうなってもいい」というくらいのところにいた。
人のことを祈っていた。
社会のことを祈っていた。


まず、人や社会の問題(苦しみ悲しみ、悪、愛のなさ)が無くならない限り、私は自分の人生を楽しめないところにいた。
私は、世界の苦悩を見つめていた。
27年間、人のこと、色々な会社のこと、社会のこと、世の中のことを祈ってきた。
私には、「私の望む世界」があったからだ。
憧れがあったからだ。
私には愛があった。
私の中には、社会の、人々の、苦しみ悲しみが映っていた。
私はいつも、愛のない社会・世の中に涙を流していた。
世の中の全ての人々が愛にあふれ、幸せに暮らせるように、「祈る」ということに私は命を捧げた。
多分、私のその祈りは、世界の中心にたどり着くほどになった。


私は、自分には欲求というものがないと思っていたが、実は大きな欲求があった。
人のこと、社会のこと、世の中のことを祈るのも、私に欲求があるからこそだ。
でも、私は常に現実を見つめていた。
現実を見つめるということは、望む世界にエネルギーを注いでいないのと同じだ。
私は前に進めなかった。
自分でブレーキをかけながら、アクセルを踏んでいたのと同じだ。
私は必ず、ネガティブなものに注目していた。


今も私には、その変わらない「理想の人生や社会・世界」がある。
でも全ては、私の中から現れる。
私がその波動になったときに、それは現れる。
私がその周波数にならない限り、それは決して現れない。
そのためには、私は望まない現実と格闘していては、前に進めない。
現実は、格闘するためにあるのではない。
望まないのなら、エネルギーを注がず、無視し、関わらない。
エネルギーを注ぐもの(その存在)は、強化されるからだ。


望まないのものは、見つめない、語らない、対応しない。
私はもうそう決めた。
対応すると、それを現実だと認めることになる。
そこからまた、私がその「ストーリー」を展開して(動かして)しまうことになる。
私にとって大切なことは、行動ではない。
今の私は、全てを思考で実現する。
今は、ひたすら本当に望む世界を欲求するだけだ。
「望む、求める」、そして、「信じて、期待する」。
ただそれだけだ。


毎日、そうとうの時間をかけて望んでいる。
そのために、思考が、感情が、入ってくるポジティブで肯定的な情報が、どんどんパワーアップしている。
私の望むものの引き寄せをサポートするように、強力に引き寄せられている。
必ず満足する人生を引き寄せる。
もう時間は、ほとんど要らないはずだ。
それだけのことをやっているから。


……………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


「欲求を持たないでいたい。立派な人間であるために」というのも、やはり欲求ではないのか?
欲することは「意図的な創造」の始まりだ。
だから、自分が欲求をもつことを許さなければ、人生経験の意図的なコントロールを拒否することになる。
あなたがたは確かに物質世界の存在だが、生命力を持っている。
エネルギーの力、神の力、創造するエネルギーが、「内なる次元」からあなたがたのなかへ流れ込んでいる。
「創造する生命力」は、あなたが関心を向けた方向に伸ばした延長部分から流れ込んでくる。
言い換えれば、あなたがたが明確にした欲求の対象を、あなたがたの思考が呼び寄せる、そのプロセスのことだ。
自分の欲求に思考を向ければ向けるほど、「引き寄せの法則」が強く作用して思考の勢いが強まることがわかるだろう。
欲求について考えなければ、あるいは考えても実現していないからとすぐに欠落のほうを考えれば、思考の自然な勢いは阻まれる。


「意志を鍛える」というよりも、「引き寄せの法則」が思考を引き寄せて追加するということだ。
意志を鍛えるというのは、「決意」といっていい。
決意とは、「意図的な思考」のことだろう。
だが、そういうふうに表現すると、実際よりも大変なことのように聞こえる。
自分が好むほうへ思考を向け、一日中それを続けていれば、あとは「引き寄せの法則」の作用で自然に進行する。


自分にとって重要なことにだけ思考を向けようと決めていれば、人の影響は受けないで済む。
あなたの「現実」はこうだと他人が主張するとき、その人たちはあなたが樹木のように現時点に根を張るように仕向ける。
あなたが「現状」だけを見ている限り、そこから抜け出すことはできない。
見たいものを見ることが「可能」にならなければ、欲しいものを引き寄せることはできない。
「現状」への関心は、同じような「現状」を生み出すだけだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月12日

磁石、そして完了のない自分。


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KATSUNORI が書いています。

人生とは、自分のエネルギー(周波数・波動)を確認することであり、体験することだ。
つまり、「人生はエネルギー遊びだ」と私は思っている…。
「そのエネルギー(周波数・波動)には、こんな世界が含まれていますよ…」ということを、内なる自分に、宇宙に、教えてもらいながら、それを学びながら、確認しながら、私は遊んでいる。


体験する世界には、悲しい世界もあれば、苦しい世界もある。
真面目な世界もあれば、窮屈な堅苦しい世界もある。
美しい世界も、清らかで崇高な世界もある。
怖い世界もあれば、楽しい世界もある。
その世界は無限だ。
そこには、まだまだ私が体験したことのない世界が無限にあるだろう…。


全ての人の痛み(苦しみ悲しみ)に同苦できるようにと、私は人生(世界)に存在する様々な痛みに飛び込んでいた。
他人の人生に、首を突っ込んでいた。
その痛みを自分に取り込もうとしていた。
そんな修行をしていた。
どこまでその激痛に耐えられるか、という人生を私は生きていた。


でも、「人の創造していること」は、私には変えられないことがわかった。
つまり、私のしてきたことは、全てが無駄なものだった。 (笑)
私が人を変えることはできない。
私がその人の痛みを背負ったところで。
痛みが好きな人、必要だと思っている人がいるのだから。
まさしく私自身のことだ…。 (爆)


変わらない人は変わらない。
私がどんなに愛を注いでも。
(誰が私にどんなに愛を注いでも) (笑)
スイッチは、その人本人が持っているからだ。
私はその人の代わりに思考することも、波動を出すこともできない。
私はそんなことを、自分の店で経験(実験)させてもらった。
それは、私の人生の大きな宝物になった。
そして私は自分の人生の向きを変えた。


人生とは、何を選択するか、何を体験したいか、体験するかということだ。
私には、その完全な自由が与えられている。
宇宙はそれを、100%サポートしてくれる。
私が「苦労」を求めたら、宇宙はそれを次々と与えてくれる。
でも、私が「喜びと満足だけ」を求めたら、きちんとそれも宇宙は与えてくれる。
私が求めないものを、宇宙が押し付けてくることはない。
だから私は、完璧な喜びと満足の人生を創り、体験することができる。
そして、私には「完了」はない。
私は常に「永遠の成長のプロセス」にいる。
それが、私であり今(「私=今」)だ…。


………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


あなたがたに理解してもらいたいのは、あなたがその意図したことを完了することは決してない、ということだ。
あなたがたは設計され、創られて完了するテーブルとは違う。
あなたがたは常に「成り行く状態」にある。
あなたがたは「永遠に成長のプロセス」にある。
だが、あなたがたは常に、今この瞬間のあなたがたである。


自分の思考を磁石だと考えなさい。
だから、あなたがほんの小さなネガティブな思考をもてあそび、そこに焦点を定めれば、必ず「引き寄せの法則」によってその思考は大きくなる。
特別に失望していたり悲しんでいたりすれば、同じような思いの人が引き寄せられてくるだろう。
あなたの「感じ方」が「引き寄せの作用点」になるからだ。
だから、不幸な気持ちでいると、もっとたくさんの不幸が引き寄せられてくる。
心地よい気分でいれば、ますます心地よいことが引き寄せられてくる。


あなたがたは、つきあう他人を自分の経験のなかに引き寄せ、招き寄せている。
同じ交通機関に乗り合わせる人たち、買い物をしているときにかかわる人たち、散歩しているときに出会う人たち、その人たちとの議論のテーマ、レストランでテーブルに着くウェイター、ウェイターの態度、あなたの経験のなかに流れ込んでくるお金、あなたの身体がどんなふうに見え、どんなふうに感じられるか、デートの相手、挙げればきりがないが、要するに人生経験のすべてはみな、今この瞬間のあなたの力を理解する貴重な手がかりになる。
自分にとって最も重要なことは何かを明らかにして、経験したいと思うことに意識的に思考を向けることだ。


わたしたちが、「あなたは自分の経験の創造者だ、あなたがた自身が招き寄せたものでない経験は何一つない」と言うと、反論する人たちがいる。
なぜ反論するかといえば、人生で好ましくない経験をしている人が大勢いるからだ。
だから、あなたがたは言う。
「エイブラハム、わたしは自分から好ましくないことを創造したりはしません」。
そのとおり、意図してそんな創造はしないだろう。
その点には賛成するが、しかし、自分が創造したのではないというのには賛成できない。
あなたがたの身に起こることはすべて、あなたがたの思考を通じて、また思考によってのみ起こっている。
しかし、自分の経験の創造者は自分だということを受け入れない限り、ここで話されることには何の価値も見いだせないだろう。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月11日

引き寄せてしまったもの。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

大切なのは今だ。
すべてのパワーは今にある。
今にしかない。
今望むものを見つめれば、望むものが実現するだろう。
過去の自分が引き寄せたものが、今そこにあるかもしれない。
でも、「今」には、過去に創り出したものと、今創り出そうとしているものが、同時に存在する。
過去の流れを繰り返し創造することもあるだろうが、流れを変えることはできる。
今だけにパワーはあるのだから。
過去にパワーがあるわけではないから。
過去のものをそんなに恐れるなんて、君は今のパワーを知らないのかい?
常に今しかないんだぜ…。


私の本質には時間はない。
時間も自分が創り出している(出す)ものだ。
だから、物事が起こるのに、起こすのに、時間は要らない。
いつでも、「時間のない自分の本質」と、私はつながることができる。
だから、そこから、「すべてを創り出すパワーの源」から、今望む創造を始めればいい。
すべての過去は、霧のように消えていくだろう。
私がもうそれに、エネルギーを注がなければ。
そういう意味で、現実は「幻想」だと言うのだ。
すべては、私が引き出し、見ているものだ。
今ある望まないもの(過去の引き寄せ)、今出現させているものは、なくせばいい。


決めると変わる。
自分が創造者だから。
決定者だから。
私の人生を邪魔するものは何もない。
邪魔しているのは、抵抗しているのは、まだ信じているのは、ただ自分だ。
それは、単に一つの観念であって、世界の、宇宙の真実ではない。
私はただ、自分の信じる世界を体験しているだけだ。
私個人の世界だ。
望むものを妨げるものが、今ここにあるなら、それを再定義すればいい。
私は、どんな観念を抱えているのだろう。
恐れも、不足も、自己否定も、闇も、苦悩も、絶望も、死さえも、すべてがみな観念だ。
真実ではない。
私の信じている、見ている夢だ。


それは何だ?
なぜそこにある?
ネガティブな観念は、「それは現実であって、簡単には変えられない」と言うだろう。
だが、私のポジティブな観念は、「それは幻想であって、簡単に変えること、なくすことができる」と私に伝えてくる。
「幻想に怯えることはないのだ」と。
人生に登場するものは、すべて自分が創り出したものだ。
創り出したということは、なくすことができる。
私の信じてきたもの、関心を注ぎ、波動を取り込んだもの、恐れたもの、抵抗したもの。
だが、恐れることも、抵抗する必要もない。


今からは、「望むものだけ」を見つめることだ。
強く、強く。
望まないものは、「無視」することだ。
あなたは、望まないもの、今あるその望まない現実を無視できますか?
誰かに迷惑がかかりますか?
不誠実ですか?
卑怯ですか?
現実逃避ですか?
でも、現実って一体何だろう…?
すべて、自分が創ってるものです。
「すべて」を、自分が創ってるのです…。

今日も、私 (KATSUNORI) のスピリチュアルな世界へようこそ…。


…………………………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


他人があなたの経験に介入するとか、振り回した腕があなたの鼻にぶつかるのではないか、と心配しているうちは、あなたはまだ自分の経験が自分に起こるのはどうしてか、ということを理解していない。
今日からでも自分が欲することだけを考え始めれば、自分が欲することだけが引き寄せられてくる。
あなたがそういう質問をするのは、昨日あるいは過去のいつのときか、そのことを理解していなかったから、あなた自身の思考を通じて、腕を振り回してあなたの顔にぶつけるような人物を招き入れたためだ。
だから、今この瞬間、「これについてどうすればいいんだ?」と尋ねている。


あなたの経験のなかに不愉快なやり方で腕を振り回す人物がいたら、関心を向けなければその相手は消え去り、代わりにあなたにとって心地よい人、あなたと調和する人が現れるだろう。
だが普通は、彼らが腕を振り回し、あなたの気に入らないことをすると、あなたはそれに関心を向ける。
怒ったり、動揺したりする。
それで「引き寄せの法則」によって、その事柄のエッセンスがますます引き寄せられてきて、あなたは間もなく同じような体験をもっとすることになる。
二度、三度、あるいはもっと多いかもしれない。


これから毎朝、こう考えてごらん。
「今日、誰と仕事をしようと、誰と話そうと、どこにいようと、何をしようと…自分が欲することだけを見たい。 欲することだけを見よう。 欲することだけが見えると期待しよう」
そうすれば、人生経験の力の方向、勢いが変化するだろう。
そして、今心地よくないと感じているすべては消えて、心地よい体験と入れ替わるだろう。
これは絶対だ。 「法則」なのだ。


KATSUNORI 晴れ


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2016年09月10日

自分の創造と他人の創造。


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(写真と文章は関係ありません)


KATSUNORI が書いています。

「モノ・こと・人」…。
それらに私が関わる自由。
関わらない自由。
常に私には、選択の自由がある。
同じく私には、創造のパワーがある。
関わりたい全ての「モノ・こと・人」を創造するパワー。
そして、誤って創造してしまった関わりたくない全ての「モノ・こと・人」を、退場させるパワー。


拒否や抵抗、否定や嫌悪を否定すること(そんな教え)もあるが、でも私は、それらも OK だと思っている。
私の場合は、ネガティブな裏には、必ずポジティブな世界がある。
ネガティブな感情だけということはない。
ポジティブな世界を強く求めるからこそ、ネガティブな感情が強く現れる。
でもそれは、私自身は OK だと思っている。
明確に望むその逆の状態があるのなら、私はそれを否定しない。
自分の体験からそう言える。
私が心底「嫌いだ」と心から叫んだ「モノ・こと・人」とは、別れることができたからだ。
本当の決意・決心は、必ず実現する。
だから、「嫌いなものは嫌いだ」、「要らないものは要らない」と、遠慮なく叫んでいいのだと私は思っている。
いや、私の場合は、はっきり明確に感情を表さないと、感じないと、なかなか自分の世界が変わらない…。


拒否や抵抗、否定や嫌悪と見るのではなく、決意・決心と見ればいい。
本当の、本物の。
そう決めればいい。
嫌いな状態がないということは、そこには「好きな状態がある」ということだ。
仮に、まだ完璧には整っていない状態だとしても、まだ何かが出現していないとしても、どうあれそれは一歩前進したその状態を創造したということだ。
私は欲がないから、嫌いなものがないだけで、ある意味全ての願いが叶ったのと同じだ…。
何もない部屋で、満足できる。 
シンプルに、何もなく、こぎれいな部屋…。
素敵じゃないか。 (笑)


私が、自分の部屋を片付けることが、不要なものを処分することが、はたして抵抗だろうか?
私は、そうは思わない。
私は、自分の部屋をただ自分の望むものにしたいだけだ。
心地よいものに。
私は、当たり前に自由な望みを持っていいし、それを実現していい。
私がそれをしても、誰かに迷惑をかけることにはならない。
なぜなら、人はみな、それぞれに自分の世界を創造するのだから。
「創造できる人と、できない人」、ただその違いがあるだけだ。
私が人に迷惑をかけることなどあり得ない。
私は私のパワーで私の世界を創造するのだし、他の誰かも、その人のパワーでその人の世界を創造するのだ。
互いに、自分のパワーで、各々自分の世界を創造する。
ただ、それだけのことだ。


私には、拒否や抵抗、否定や嫌悪など存在しない。
必ず、決意と決心がセットでやって来るから。
私が見ているのは、決意と決心の方だ。
そちらのウェイトの方が大きい。
拒否や抵抗、否定や嫌悪をとことんしたら、すぐに望みにエネルギーを注ぐ。
強力に望む。
これまでも、こらからも。
仮にまだ実現してないものがあるのなら、それは私が、まだ本物の決意・決心をしていないということだ。
私は、関わりたくない「モノ・こと・人」を、私の部屋から全て退室してもらう。
一掃していく。
そのことを、ひとつひとつ明確に決めていく。
簡単なことだ。
心から「嫌えばいい」だけだから。
心から「美しい部屋」を望めばいいだけだから。


関わるか、関わらないかという選択の自由。
そして、望むものを誰に遠慮することもなく創造するパワー。
この二つを、私は持っている。
あとは、私が本当の、本物の決意・決心をするかどうかだけだ。


……………………………………………………………………………………………………………


以下は、エイブラハムの言葉です。


あなたの行動があなたの意図と調和していれば楽しいと感じる。
だが、他人の行動があなたの意図と調和していないと、あなたは喜びを感じない。
だから、他人に関しては違う意図を持つ必要がある。
「彼らは彼らであり、彼ら自身の経験の創造者で、自分で自分の経験を引き寄せているが、わたしはわたしの経験の創造者で、わたしの経験を引き寄せている…」
今の言葉を何度も繰り返して自分に言い聞かせているうちに、心配したように他人があなたの世界をめちゃくちゃにすることは本当はあり得ないとわかってくる。
難しいのは、世界を豊かなところではないと思っているときだ。
そのとき、あなたはどれくらいの数の魚がいるのか、あるいは世界にはどれほどの富と豊かさがあるのかという考え方をする。
そして、誰かが無駄や浪費をすると、残りの者や自分が乏しくなると心配し始める。
この宇宙は、あなたがたが参加した物質世界における経験は、とても豊かで、その豊かさに終わりはないから、心配する必要はない。
彼らは彼らなりに創造し引き寄せればいいし、あなたはあなたで創造し引き寄せればいい。



どうして自分がそうなるのか、ということを理解しない限り「許容し可能にする」という考え方を受け入れるのは非常に困難だろう。
なぜなら、この世界にはあなたが好まないことがたくさんあり、「どうしてこの不正を許容できるだろう?」と思うはずだからだ。
そこでわたしたちは言う。
「あなたがたはそれが自分の経験の一部ではないと認識することによって『許容し可能にする』ことができるのだ」。
それに、そのようなことは、実はあなたとは関係がない場合が多い。
それはあなたの仕事ではない。
あなたの創造ではない。
誰かほかの人が引き寄せたことであり、ほかの人の経験だ。
ほかのすべての人たちの経験をコントロールしようなどと思わず(どんなに努力しても、それは不可能だ)、自分自身が他人の経験に参加するかどうかをコントロールしようと努めることだ。
そして自分が送りたいと思う人生のイメージをはっきり描くことで、自分の人生に心地よく滑らかな道を敷くことができる。


KATSUNORI 晴れ


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