原記者の「医療・福祉のツボ」
コラム
貧困と生活保護(41) 貧困者・弱者をたたく「精神の貧困」
人に厳しくしたがる「しごき思想」
第3は、他者に対して厳しくしたがる考え方。これは日本人ではかなり多いでしょう。とにかく必死に努力しろ、苦しくても我慢しろ、泣き言を言うな、限界までがんばれ……。そんなふうに考える人々が好む言葉は「甘えるな」です。甘やかしたら人間は怠ける、だから厳しくしないといけないという思想です。軍隊のような組織、過労死・過労自殺を招く企業、いわゆるスパルタ教育、運動系クラブのしごきなどにも共通するところがあります。仏教の一部にある修行主義や、戦時中に軍部が広げた精神主義などが関係しているかもしれません。
しかし、厳しくつらい状況に人を追い込むことが、よい成果をもたらすというのは、一種の思い込みです。自分に辛抱と努力を課するだけならともかく、条件の違いを無視して他人に要求するのは迷惑なことです。
貧困対策の分野では、19世紀にイギリスが「新救貧法」で採用した「劣等処遇の原則」に、これに近い部分がありました。救済を受ける貧困者は最底辺の労働者より劣る生活水準にせよ、そうでないと労働者が勤労意欲を失う、というものです。「院内救済の原則」もありました。施設に収容して厳しい労働と規律を強制し、耐え難い生活にせよ、そうでないと救済を受ける者が増える、というものです。
けれども時代が進むにつれて考え方が変わり、多くの先進国は、すべての国民への最低限度の生活保障(ナショナル・ミニマム)を定め、貧困者には支援を重視するようになりました。実際問題としても、人を非難せず、勇気づけるアプローチこそ、有効だと筆者は考えます。
個人差や社会背景を考えない「自己責任論」
第4は、自己責任論です。自分の生活を成り立たせるのは自分の責任だ、働いて稼いで自活するのが社会の基本だ、働く能力がないならともかく、働けるのに食っていけないのは自己責任であって、救済する必要はない――そういう主張です。これも昔からありますが、1990年代後半から新自由主義と呼ばれる競争至上主義の経済思想が力を持つにつれ、広がりました。そして新自由主義的な政策を推進した小泉純一郎政権時代の2004年、イラクで日本人3人が武装勢力の人質になった事件をきっかけに、「自己責任」という言葉が日本社会で多用されるようになりました。
しかし人間は、持って生まれた資質、たとえば知的能力や身体能力に明らかに差があります。どんな地域のどんな家庭に生まれ育ったか、どんな教育や訓練を受けられたかといった環境条件によっても、人の能力や性質は違ってきます。親が亡くなる、病気になる、事故や災害に遭う、勤め先が倒産するといった運のよしあしも影響します。
そういう違いを無視して、すべてを本人の努力しだいとみなし、うまくいかないのはすべて、本人の努力不足や道徳の欠落のせいのように言うのが自己責任論です。人間社会の現実とかけ離れています。貧困に陥った原因として、人によっては自己責任の部分があるかもしれませんが、それ以外の原因も合わさっているでしょう。逆に、経済的な成功者のほうは、たしかに努力した人が多いかもしれませんが、そのときどきの環境や時代情勢、たまたまの幸運もあったはずです。
そして貧困には、社会構造、産業の動向、景気、雇用情勢、制度・政策といった社会的要因があります。性別・年齢による扱いの格差もあります。たとえば、失業問題を本人のせいに帰するのは、むちゃでしょう。また、経済・社会の状況が厳しいとき、その影響はまんべんなく全員に及ぶのではなく、力の弱い人々から先に不利な状況に追い込まれます。
そういう社会的要因を含めて経済格差、貧困をどう解決していくかが、現代の大きな課題なのです。ところが、他人を責めて、切り捨てるだけの自己責任論は、人間の生きる権利を無視しているうえ、社会的な問題の改善・解決につながりません。個人の生活態度に問題のある人がいるときも、どうやって改善に結びつけるかを工夫する必要があるのに、オレたちは知らん、どうにでもなれ、というのでは、何の役にも立ちません。はなはだ非建設的な議論だと思います。
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お知らせが遅れましたが、「貧困と生活保護」のシリーズは、9月23日に発表された第9回貧困ジャーナリズム大賞(反貧困ネットワーク主催)で、大賞に次ぐ特別賞を受けました。貧困のとらえ方や生活保護の仕組みなど、社会のセーフティーネットの問題を長期にわたって詳しく発信してきたことが評価されました。ありがとうございます。