”死ぬために生きる”....特に”死”について考えたことのなかった私には衝撃的な死生観でした。
この死生観を持つトラジャ村に行ったのは3年前ほどになりますが、まだ頭の中で整理しきれていないので、文章に起こしたいと思います。
*少しだけグロテスクな表現が含まえているので、駄目な人を見ないで下さい。
トラジャについて
まず始めにトラジャについて簡単に紹介したいと思います。
トラジャ村はインドネシア、スラウェシ島中央部および南部の山岳地帯に位置しており、スラウェシ島の玄関口であるマカッサルからバスで約8時間ほど移動する必要があります。かなりの長旅でした。
トラジャ村へ向かう途中に撮った写真です。なかなか壮大で見応えのある景色です。長時間のバス移動で気持ち悪くなった私にはいい薬でした。
トラジャで有名なもの
葬式
独特の死生観を持ったトラジャ族の葬式はもはや観光化されています。タイミングがあえば、観光客でも参加することができます。この時点で、私の知っている葬式とはかけ離れています。後で詳しく紹介します。
伝統家屋のトンコナン
左:外装、右:内装。
舟型の木造家屋になります。トラジャ族は中国の南部あたりから舟に乗ってきた子孫と言われているため、その名残だと言われているそうです。実際に泊まらせてもらったんですけど、中に入るとトタンが一面に貼られていて少し残念な気持ちになったのを覚えています。笑
「タウタウ」と呼ばれる死人人形
壁の中に置かれている人形は、亡くなられた人の生前の姿を模したものらしいです。平民はこのタウタウは作ることはできず、あくまで王族のみだそうで、高い位置にあるほど偉い方みたいです。村を見守っているのでしょうか。
葬式に参加させていただきました
トラジャ族にとって葬式とは?
葬式はトラジャ族にとって人生最大のイベントであり、長期間の準備を経て数日間かけて行います。葬式にお金をかければかけるほど、死後も幸せになれると信じられ、莫大な費用をかけるそうです。生贄にする鶏、豚、水牛にお金がかかるそうで、特に水牛は高いものだと車が買えるほどの値段になるみたいです。その水牛を何頭も用意するほどなので、いかに葬式に捧げているかが分かります。ちなみに、水牛は死者の魂を天国に連れていく乗り物とされ、生贄が多いほど、速やかにたどり着けると信じられているみたいです。
実際の葬式の様子
トップにも載せましたが、葬式の様子はこんな感じになります。葬式だというのに、今から祭りは始めるかのような空気に恐ろしさを感じました。参列者は悲しんでいる様子はなく、普通に笑顔なんですよね。これほどの文化の違いを経験したのは、初めてでした。
生贄が捧げられる(ここが少しグロテスクです。)
写真に写っている水牛や豚は生贄に捧げられます。恐ろしいのが、何の突拍子もなくナイフで豚の心臓を突き刺し始めます。刺したところからは血が吹き出し続け、断末魔の叫びをあげながら、しばらくもがき苦しみ、死んでしまいました。隣りで手足を縛られた豚は、死んでいく仲間から死期が迫っていることを悟り、怯えている様子が分かりました。身体をじたばたさせながら必死にナイフを持った男から逃げますが、結局は殺されてしまいます。この光景は私にとってあまりに衝撃的で、声が出せず、ただただ見ていました。今思えば、あれが初めてはっきりと”死”を目の当たりにした瞬間でした。
一緒に行った仲間の一人はこの光景を後々に「美しいと思った」と言っていましたが、私はそんな感情はどこからも沸き起こりませんでした。私は、「悲しい」「怖い」「残酷」と言った負の感情が入り混じっていました。
葬式はまるでお祭り騒ぎ
傍らで淡々と生贄が捧げられながら、葬式は始まります。(始めると言ってもどこから始まっているのか分からない状態でしたが。)ざわざわと男たちが集まってくると、棺桶が入った神輿を担ぎ始め、村中を回り始めました。その様子はまさに祭り騒ぎで、亡くなったことをみんなに知らせているような感じでした。でも、それを見て悲しむ人はおらず、それどころか楽しんでいる人の方が多かったように思います。
「死ぬために生きる」「死は最大の喜び」?
実際に葬式に参加させていただいて、日本人とは全然違う考えであることを実感しました。死者を担ぎ、祭り騒ぎで村中を駆け回る様子から、トラジャ族にとって”死”は”最大の喜び”と言われるように良いイメージを持っていることは分かります。ただ、理解ができません。頑張って理解してみようとするのですが。。今からトラジャ村で生き続ければ、ひょっとしたら分かる日が来るかもしれませんが、日本にいて日本の文化に浸かっている限り完全に理解できないのは仕方ないです。でも、少しでも理解したい。
自分であれこれ考えてみたのですが、しっくりくる考えに至らなかったので、「死」について色々調べてみました。そして、まだしっくりきたのが、
「死」を意識すると、「生」を考えることになること。
「死」があるから「生」がある...「死」は「生が有限であること」、「今生きていること」を考えさせてくれる。そう考えると、「死は最大の喜び」っていうのは「”死”によって意識させられる”生”が何より最大の喜び」と変換できるのかな。「死ぬために生きる」っていうのも、「死ぬこと」を意識することで、「生きていること」を強く実感しながら、生きていくってことなのかな。
でも、そもそも「死ぬために生きる」「死は最大の喜び」と日本語になってる時点で、この言葉で表した日本人の価値観を通ってしまってるからトラジャ族の考えそのものではないし...って考え出すともう訳が分からなくなってきました。笑(これはあまり考えない方がいいですね。笑)
まとめ
書き出すことで、少し頭の整理をすることができ、旅した当時には巡らなかった考えに至ることができました。改めてトラジャ族の「死」を尊ぶ考え方が素敵だと思えました。まだまだ理解できていないところは多いと思いますが、焦らずゆっくり考えていこうと思います。