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東京大学教授 加藤陽子
 
 今年の夏は、敗戦から70年目にあたります。満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び、世界のなかで生きる日本のあるべき姿を考えることは、言うまでもなく重要です。
 しかし、主権者である国民が将来の日本のあり方を考える時、過去の歴史から何を学んだらよいのかといえば、事はそれほど簡単ではありません。
 例えば、皆さんも、次のような声を耳にしたことがあるのではないでしょうか。戦前と戦後では、日本の置かれた国際環境も、国の憲法も、国民の価値観も大きく変わった。よって、戦前の歴史を学んでも現代社会を理解するのには役に立たない、といった声です。
あるいは、今国会で審議されている安全保障関連法案でいえば、いたずらに戦前期の歴史と結びつけ、戦争に巻き込まれる危険性を訴えるのは適切ではないとの声です。
 1930年代の日本の歴史を研究してきた者としては、このような見方には問題があると考えます。そこで本日は、戦前の歴史、戦前史を学ぶことの意味について、三つの観点からお話ししたいと思います。

 第一に、過去の歴史を考える歴史学という学問には、ある学問的特性があるということです。戦前期の著名な歴史学者に羽仁五郎という人がおりました。1940年3月、その頃は日中戦争が始まってからすでに2年以上がたっていましたが、羽仁は『学生と歴史』という本のなかで、こう述べていました。「歴史とは、根本において、批判である」、と。多くの若者が出征していった戦時中にあって、徴集猶予の特典を持っていた大学生が、なぜ今学問に励まなければならないのか、との「問い」に対する答えとして書かれた言葉です。
 当時の大学生は、同年代の青年200人に1人の割合しかいない特権的な若者たちでした。
羽仁は、同胞の青年が戦場で戦っている今、学生諸君が学問の戦場において理性の戦線から退却するようなことがあってはならないと述べています。一見すると勇ましいことを言っていましたが、羽仁が述べたかったことは、次のようなことでした。これまで蓄積されてきた歴史学上の著作は、時に政治権力の意向に反し、時に宗教的権威に抗して、書かれてきたものなのだ、と。現在を生きる我々には、自らが生きるその社会を客観的に、距離をとりつつ眺める必要があります。そのための方法が、「歴史とは、根本において、批判である」とした羽仁の言葉に示されていると思います。
 第二に、地球規模の大きな経済的ストレスを経験した社会だという点で、戦前と今とでは共通点があります。1929年、アメリカの株式市場暴落に端を発し、世界大恐慌が起こりました。2008年、アメリカの住宅バブル崩壊に端を発し、リーマン・ショックが世界を襲いました。
 今から80年以上も前の世界大恐慌の時代。世界各国は、経済をいかに大不況から回復させるのか、その道を見つけようと必死になりました。その方法は、例えば、アメリカとドイツでは異なり、アメリカはルーズヴェルトを大統領に選び、ドイツはヒトラーに政権を委ねます。大不況という経済的ストレスに対する、世界各国の対応策や価値観のズレが、1939年から始まる第二次世界大戦の芽となっていきました。
 いっぽう、リーマン・ショックから7年余りたった現在の世界経済はどうなっているのでしょうか。たしかに、世界の主要株式市場は好調です。しかし、今年7月、ローマ法王が、訪問先のボリビアにおける集会で述べた批判は注目に値します。法王は、欧州連合EUや国際通貨基金IMFがギリシャへ求めた緊縮策、あるいは自由貿易協定FTAを念頭に置き、「新しい植民地主義」が世界に生み出されつつあると批判したのです。自由競争の名のもとに急拡大した経済格差が世界をおおうようになりました。巨大な経済的ストレスに見舞われた国が、その克服のためにどう動くのか。戦前期の事例は参考になるはずです。
 戦前期の日本の場合もみておきましょう。世界大恐慌から1941年の日英米開戦にいたる時期、日本の為政者は世界経済を次のように分析していました。不況克服のため、世界は自由主義経済を捨て、国家資本主義や統制経済を採用するようになった、と。こう考えた日本は、自らも統制経済に移行します。ただ、この時注目すべきは、自由主義経済に対応した政治制度が政党政治なのだから、国家資本主義経済の時代に政党は必要ない、との考え方が生まれてしまったことです。こうして、大政翼賛会への道が開かれました。現在の日本の政治状況の急激な変化を、世界経済の変容から考える姿勢は、歴史に学ぶことで初めて身につくのではないでしょうか。
 以上、戦前の歴史を学ぶことの意味を二点にわたって考えてきました。最後の三点目として指摘したいのは、今に連なる戦後というものが、戦前の反省の上に始まった、という歴史的事実の重みです。この点について、「戦争調査会」を例に説明しておきましょう。戦争調査会は、1945年10月、幣原喜重郎内閣総理大臣を総裁として、内閣に設けられた調査機関でした。

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会の目的は、敗戦の原因と実相を明らかにすることにおかれ、日本の犯した「大なる過誤を、将来において繰り返さないため」に、永続的な調査が必要だとしてスタートしたものでした。
 1946年3月に開かれた第1回の総会で幣原が述べた言葉を紹介しておきましょう。まずは、戦争放棄について、こう述べています。

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「今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして、国際政局の広漠なる野原を単独に進み行く」ものだと。

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その上で、「戦争の原因及び実相を調査致しまして、其の結果を記録に残し、以て後世国民を反省せしめ、納得せしむるに、充分力あるものに致したい」。記録を残すことの重要性を説いていました。
 また、同年4月の第2回総会における幣原の言葉も大事です。「戦勝国にせよ、戦敗国にせよ、戦争が引合うものでない、此の現実なる参考を作る。〔中略〕将来、我々の子孫が戦争を考えないとも限らない。その時の参考に今回の資料が非常に役立つ様な、調査をせねばならぬ」。このように幣原は意気込んでいました。
 ただ、不幸なことに、調査会の活動は中止を余儀なくされます。連合国軍最高司令官マッカーサーの諮問機関であった対日理事会のうち、ソ連とイギリスの代表が、1946年7月、解散勧告を行ったからです。その理由は、「戦争の原因を尋ね、これを処罰する仕事は国際軍事法廷の任務に属する」、というものでした。
 戦争調査会の挫折は、日本国民にとりましても、日本の戦争で惨禍を蒙ったアジアの人々にとりましても不幸なことでした。ただ、調査会にかけた幣原が、極めて早い段階で、戦争抛棄の精神を明らかにし、日本人の「反省」の仕方の道筋を付けていたことは注目に値します。過ちは繰り返さないと誓い、戦争は引合うものでないとの参考を作るところから、戦後は始まったのです。
 

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