先日、夫と2人で居酒屋に行った。
私はいつもより早いペースでビールを煽った。夫は驚きながらも、「今日は何だか元気で調子が良さそうだね」と笑ってくれた。
言われて、私は泣き始めた。ぎょっとする夫に、私はぽつぽつと泣いている理由を話し始めた。
電通で働いていて、過労死をされた高橋まつりさん。
私は彼女の死をニュースを知り、言いようもない悲しさと憤りを感じている。
私自身がパワハラを受けた経験もあるし、私の知人が過労で自殺した経験もあるからだ。
高橋まつりさんが亡くなったニュースを見て、私はその過労死した知人のことを思い出した。
明るく朗らかで、だけど仕事に対してはとても情熱を持っている人で、私と同じように業界に憧れて入ってきた人だった。彼とは途中で違う会社に勤めることとなり、連絡は取り合っていなかった。
彼は偶然、私の誕生日に遺体となって発見された。友人からの電話で知らされた。
私は誕生日の度に心の片隅に彼を思い出す。口には出さないけれど、毎年彼を思い出す。そんなに親しいわけでもなかったけれど、同じ志を持って真っ直ぐに生きていた彼の姿を。
「人を殺す労働環境」がこの世界にある。
私はそのことを知っている。私はそこから逃げることで助かった一人だ。
「人を殺す労働環境」があることがわかっているのに何もできない無力さや、そうした環境があることを知っているのに改善しようとしないばかりか、死んだ人間、辞めた人間に対して罵倒する人がいる。
こんなこと言ってしまう奴の方が人として情けない。彼はそれなりの処分を受けたらしいが、当然のことだと感じる。
過労死した彼女は、彼は、何かが変わることを期待して死んだのかもしれない。
けれど、死んだって何も変わらない。恐ろしいことに、何も変わらない。
変わることを拒む人間がいるから。その他大勢の「今のままでいい人間」がいるから。
人の死は何の改革にもならない。ただ人が死んだだけ、それだけで終わる。
そのことがとても悲しい。心底悲しい。そして悔しい。
私は居酒屋でビールを煽って泣きながら「どうしてなんだ」と夫に愚痴を吐き続けた。
「他人のために泣けるなんて優しいね」と夫は言ったけれど、違う。優しいから泣くんじゃない。自分が情けなくて、辛くて悲しくて泣いているんだ。
どうして、知っているのに、わかっているのに、私には何もできないのか。
どうして、死んでしまうのか。生きていれば、違う道だって選べたのに。
高橋まつりさんも「訴訟をするつもりでツイッターに証拠として書き残している」というようなことを書かれていた。
その戦う気持ちをどこで、何に、削ぎ落とされ、殺されてしまったのだろうか。
「どうして死んでしまうのか」と思うのは、私もハラスメントを受けて、一度だけ自殺未遂をしたことがあるからだ。経験したからこそ、語れること、感じられることがある。
自殺を企てたのは、ハラスメント問題が悪化の一途を辿って辞職した後だった。
減給され、部署左遷され、あらゆる人に責め立てられ、鬼のような量の業務を押し付けられ、その上で降格を仄めかされた。
降格の話をされた時点で「辞めます。明日辞めます」と気付けば口に出していた。
辞める時、あらゆる役員が「僕のせいにしないでね」と言いに来た。
私に同情してくれていた人ももちろん社内にいた。引き留めてくれた人もいたし、「今の状況じゃ仕方がない」と言う人もいた。
最後に会社を出て行く時、出口でその時好きだった人とすれ違った。彼はさよならと言わず「そのぬいぐるみ、大事にしろよ」とだけ言ってくれた。見ると、彼からもらったぬいぐるみが鞄から顔を出していた。
私はその言葉に「大事にしますよ、それじゃ」と短く答えた。涙が堪え切れなかった。
しばらく失業保険で暮らすということになり、何もせず実家にいた。
毎日思い出すのは憎い奴らの顔と声だった。
悔しくて悲しくてどうにかしてやりたくて狂いそうになっていた時、「死ねばニュースになるんじゃないか」と思い立った。
それなりに名のある会社だったから、ニュースになれば少しは会社に痛手を負わせられるのではないか。世界が少しぐらい変わるんじゃないかと思った。
死ぬ前にお世話になった人たちに遺書のようなメールを送り、誰かが渡してくれることを願って、加害者に恨みをたっぷりと詰め込んだ遺書も残した。
葬式代として今までの貯金を全額下ろして茶封筒に入れ、私の部屋のドアを開けたら落ちてきて気付くように配置した。
すでに訴訟の準備を始めていたので、お世話になっていた弁護士にもメールをした。「もう無理です。ごめんなさい」と。
心療内科に通っていた私は、3ヶ月ほどの間、処方された薬を飲むのを我慢した。薬で死ぬためにたくさんの薬を溜めた。
かなりきつい液体の薬を処方されていたので、これで死ねると思った。
せめて最期ぐらい、苦しまずに死にたかった。薬ならきっと痛くない、苦しまずに死ねる。そう思った。
自宅の部屋のベッドの上、コップに薬を注ぎ、その他の錠剤も口に含んで、それを一気に飲んだ。すぐに頭がくらくらとしてそのまま倒れ込んだ。
「死んだらどうなるかな」なんて想像を巡らせて笑っているうちに、意識がなくなった。
しかし、私は意識を失った後も動いていたらしい。後に家族から聞いた話だ。
奇声を上げながら家族全員がいるリビングに走っていって、何か喚き散らした後で倒れたらしい。
「大量に薬を飲んでやったから私はもうすぐ死ぬ。ざまあみろ」というようなことを言ったので、状況を把握した誰かが慌てて救急に連絡を入れたようだった。
空になった薬のパッケージをベッドの上に残していたのを姉が気付き、それを救急隊員に渡したことで私は適切な処置を受けた。翌日、私は意識を取り戻した。
厳密に言うと、処置があまりに苦しかったので、その時に薄らと意識が一瞬だけ戻った。鼻や口から無理矢理チューブを突っ込んで胃を洗浄しようとしていて、それがとにかく痛くて苦しくて、暴れ回った。
目を覚ました時に私がいたのは病院のベッドの上で、白い天井が見えた時に「私、助かっちゃったのか……」と思った。
ベッドの傍らには母がいた。ずっとつきっきりで私の横にいてくれたらしく、疲弊しきって眠っていた。背もたれのない丸椅子に座ってベッドに凭れかかって眠る母を必死に起こした。
「もう生きてるから、大丈夫だからどこか横になって寝て」と。
母は黙って首を横に振って、ずっと私の隣にいてくれた。泣き腫らした目を見て、「ごめんなさい」しか言えなかった。
ほどなくして父が来た。
父は「起きたか」と言って笑い、私の上にぽんと茶封筒を投げた。
「悪いけどこれは受け取れんわ」と、お金と遺書とをひっくるめて返された。
「病院代が掛かるからお金だけは受け取って」と言ったけれど、「あほか、病院代ぐらい出したるわ」と言って、受け取ってくれなかった。
父はそれだけ言うとすぐに部屋を出て行き、続いて姉が入ってきた。
姉は「すごくびっくりした」という内容を捲し立てるように話した。私が意識のなかった時のことを知っているのは、この時に姉が全部話したからだ。
私は姉が嫌いだったし、仲が悪い自覚があった。毎日ケンカをしていたし、私なんかささと死ねと思っているんだろうなと思っていた。
だから私が助かって喜んでいる姉がとても不思議だった。私を助けるために薬のパッケージを探して持ってきたのも姉だと知って、すごく驚いた。
サイドテーブルに携帯電話が置かれていたので、見た。
遺書メールを送った会社内部の人から着信と留守電も入っていた。なので、折り返し電話をかけたが、出てもらえなかった。
メールで「助かってしまいました」とメールをしたら、「助かったなら良かったです。命を大事に」というような内容のメールが来て、それ以降連絡が取れなくなった。
ショックだったのは、当時仲良くしていたその会社に勤めている友人から、絶縁メールが来ていたことだった。
「自殺するなんて頭がおかしい。もう連絡して来ないで」といった内容だった。
私は謝罪メールを送ったが、返信はなく、そこで彼女との交流は途絶えた。
彼女が恋に破れて「死にたい、辛い」と言っていた時は、一睡もせずに彼女の話を聞いた。その時のことを思い出して、とても悲しく、そして虚しく思った。
もちろん、悪いのは彼女じゃない。命を粗末にしようとした私だ。けれど私は、彼女が「助かって良かった」とか、怒ったとしても「命を粗末にしないで」と優しく叱ってくれるような、そうした類の言葉をかけてくれることを期待していた。
当時はmixi全盛期だったので、そこにも遺書日記を投稿しようと思ったけれど、なぜかためらう気持ちが消えなくてやめた。やめておいて良かったと思った。
自殺をする人間なんて、厄介者でしかないのだと、その時に思い知った。
こうして、私は私が死んだ後の世界がどうなっているのかをこの目で見た。
何も変わってなんていなかった。
変わったのは、私がこの世からいなくなった者として扱われて人の心から消えたこと、私を想ってくれている人たちだけが傷付いたということだけだった。
私を軽んじた奴らには何の痛手を負わせることもできなかった。
せいぜい、裁判の意見陳述で自殺未遂をしたことを発言し、加害者及び会社役員たちに「それだけ傷付いたんだ」ということを伝えることができただけだった。伝わったかどうかもわからないけれど。
今の私が「自死を考えても絶対に実行に移さない」と言えるのは、この経験があるからだ。
過労で自殺した彼と彼女は、もうその後の世界を目にすることはない。
きっと今回の件も少しずつ忘れ去られていき、何も変わらないまま、今までのまま、世界は回り続けるだろう。
今回の件で、厚生労働省から「過労死等防止対策白書」が公表された。
これは進歩のようにも思えるけれど、過労死対策等防止対策推進法という法律は平成 26 年、2014年の11月1日から施行されている。
にも関わらず、人を殺す労働環境がまだまだたくさんあり、多くの人が労働によって命を落としている。
ここからどこまで変わってくれるのだろうか。私はまだ何かが欠けているような気がしてならない。
例えばそう、現場の人間の意識だとか。
私は「死んでも何も変わらない」ことを知り、「生きて世界を変えること」を望んだ。
連絡を受けてくれる遺書を送った相手に「二度と自殺しない」と謝罪をして回った。弁護士にもすぐに連絡をして会いに行き、「無理じゃないです。頑張らせてください」と伝えた。弁護士は「頑張りましょう」と言ってくれた。
それから一年以上もの年月をかけて、私はセクハラ・パワハラ共に私は裁判に挑んだ。
mixiの日記やカウンセリングのカルテなど、あらゆるものを証拠とした。
しどろもどろに話す会社役員。
「職場改善など対応に関しての会議をしました」
「いつ、どこでですか?」
「記録がないので覚えていません」
「参加者には誰がいましたか?」
「私です」
「は?」
「私一人です」
という、まるでコントのような裁判長との掛け合いが今でも忘れられない。
そして「どうせ言い返せないだろう」と私に対して強く食ってかかってきた若い弁護士もいた。
「役員に対するパワハラを挙げていますが、証拠がありません。よって、この件は却下します」
「カウンセリングカルテの資料をご覧になりませんでしたか?はっきりと日付と役員の名前付きでハラスメントに関する記述があります」
「何ページですか!そんなこと書いていませんでした!」
「カルテをword書式にまとめ直したのは私です。その時、確かに書いてあるのを確認して、この手で打ちました。あなたは弁護士のくせに資料も読まずに裁判に挑んでいるのですか!」
その弁護士は何かを言い返そうとしたが、もう一人の年配の弁護士に止められた。裁判長にも「次回までに確認しておくように」と言われ、黙って着席した。ものすごく睨まれた。
裁判ではこんな言い争いをしなければならない。
少しでも私の言い分を潰してやろうと躍起になってかかってくる役員数人と弁護士。それに対するのは私一人と弁護士。
人数で負けているのだから、強気と自信を持つことでしか勝てない。私は憎まれても蔑まれても「自分の言うことを曲げない」しか考えなかった。
ものすごく、疲れた。
こんなに疲れることを、疲れて切っている人がどうしてしなければならないのか。
私はこうした問題に直面した人が、死に焦がれる気持ちがよくわかる。
「もうこれ以上、疲れたくない。辛い思いをしたくない」
最後の裁判では今の夫が隣にいてくれた。ずっと手を握ってくれていた。だから、心を強く持てたし、泣かずにいられた。
「月並みな言葉だけど、全世界を敵に回しても僕はあなたの味方だから」と言われたのは、本当に本当に嬉しかった。
こうして支えてくれた人がいたから、私は最後まで立てていた。
私は勝訴した。
全ての主張が認められたわけではなかったが、控訴もしなかった。控訴する価値は充分にあると弁護士に言われたが、私はとっくに疲れてしまっていた。
「1円でいいから慰謝料を払わせる=ハラスメントがあったことを認めさせる」ということを目標としていたので、私の目標は達成されたと、裁判に幕を引いた。
だからと言って世界は何も変わらなかった。
どんな判例があろうと、劣悪な環境の職場が根絶されるわけではない。ただ誰かが同じようなハラスメントで訴えた時にのみ、その判例が役に立つというだけだ。
訴訟というところまで来なければ、何の役にも立たない。私は世界を変えられなかった。
ただ、私の世界は変わった。
それからも紆余曲折はあったにせよ、あの時死ななくて良かったと思えている。
ハラスメント問題があった会社は、私がいた頃はオリジナル商品の開発をするだけのパワーがあった。今では完全に下請け・孫請け会社と化し、規模は随分と縮小したようだ。
こうして、人を追いやった会社の衰退をこの目で見れていることも、生きている価値の一つだと感じている。性格が悪いだろうか。
今の私は、私を思いやってくれる人に恵まれて、囲まれて、思いやられて、食事をするだけで幸福感に満たされる。
この世界を手に入れるためにあの時の戦いが必要だったのなら、私は戦って良かったと思う。あの時、自殺しようとした自分を殴りに行きたいとも。
そして、今こうして世界が美しいと思う分、彼や彼女が最後の見た景色がどんなものだったのかを想像すると、悲しくて悔しくて仕方ない。
気持ちがわかる分、余計に悔しく思うのだ。
死のための行動を起こす直前、脳が震えるような、硬直するような、全身を恨みや悲しみに支配されるような、名状し難い感覚に陥った。
私はそれまで何があろうと自殺だけはしまいと、リストカットやオーバードーズなどを一切してこなかった。
だからこそ「死のための行動」はそれそのものが恐ろしかった。反面、興奮や恍惚感のようなものもあり、それらが恨みや悲しみを増幅させる麻薬のようだった。
「死ぬ」と同時に「死ね」と思いながら、最後の行動を取る。
薬を飲みこんだ瞬間、後悔はなく、解放されたような気持ちの方が大きかった。
だから、死を選ぶ人の気持ちがすごくわかる。四六時中自分を襲い続ける苦痛から解放されるのだから。最善策だと思ってしまう、その気持ちを否定できない。
けれど、それは最善策ではない。ここまでに書いた通り、何も悪くない、自分を想ってくれる人ばかりを傷付ける結果しか生まないのだから。本当に憎くて許せない奴らは平然と生きていくのだから。
死ぬ人が持っている苦痛が消えてなくなるのではなく、近くにいるその人を大事に想っている誰かに寄生して生きていく。
人が健やかに生きるために構築されてきたはずの社会でどうして人が健やかに生きられないのだろうと、ずっと考えている。
ずっと疑問に感じながらも、私はこの社会でしか生きることができない。何をすればいいのかもわからない。私が足掻いたところで、こうしてブログを書き殴ったところで、何も変わらないのだ。
ある種の諦念を抱きながら、目の前の生活の幸福を享受して今日も生きている。
居酒屋で夫に「どうしたら何か変えられるのかな?」と聞いた。
「組織のトップの人で改革が起こらない限り、どうしようもないかもしれないね」と答えた。何も言えなくなった私の頭を撫でた。
私のような下流の人間が何をどう足掻こうとて何も変えられない。それをまた思い出す、思い知らされるニュースだった。
私はまた誕生日に思い出すだろう。今年からは、彼だけでなく、彼女のことも。