毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
今回のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。