疑似科学を否定しようとする「科学的」な目線が息苦しい

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どうも、木村(@kimu3_slime)です。

「水素水」って聞いたことありますか?(あやしいアフィリエイトの書き出しみたいだ……)

一時期話題になっていましたが、「効果が科学的ではない、疑似科学だ」ということで販売しないところが増えてきました。

参考:カルト的人気の水素水、東京工業大学の生協にまで蔓延 –  市況かぶ全力2階建

僕はこういう話題を聞くと逆に面白くなってくるので、あえて飲んでいます。水ですね。

 

 

 

で、僕が話したいのは、「水素水はいいぞ」「水素水は科学的ではない」という話ではありません。科学的に根拠が乏しいことは、以下の記事や動画を見ればなんとなく伝わってきます。

参考:活性水素水・(電解還元水)  – 疑似科学とされるものの科学性評定サイト

 

なぜ、水素水を「非科学的だ」と訴える声が多いのでしょうか?

理工系の人・科学を信じている人って、非科学的なものを非科学的であるという理由だけで淘汰しようとすることが多い。けど、なぜ「ウケるw」と笑うのではなく、否定する必要があるのだろうか。その淘汰自体からは、宗教としての科学の側面が見えてくる。

擬似科学を信じている人に、いくらそれは「科学的ではない」と論破したところで、何の意味もない。疑似科学を使った商品の販売を止めることはできても、それを買う可能性のある人を減らすことにはつながらない。

そもそも擬似科学という切り取り方自体が、圧倒的に「科学」の側からのものの見方。商品を買う人は効果を信じて買っているのだから(効果がないと思って買う人はいない)、本人は似非科学だと思っていない。けど、外から「疑似科学」であると評価している。

どうして「科学的であること」があたかも絶対であるかのように思われているのだろう? 科学的であるということに、どんな意味があるのか。科学的であれば、正しいのか。間違っているものは、売ってはいけないのか。

科学はそれだけでは「ものを考える基礎」たりえない。ものにどんな意味があるか、正しいか、信頼できるかどうかは、科学だけでは判断できない。妖怪とか、オカルトとか、ファンタジーとか、フィクションとか、情緒とか、宗教とか、そういうものが科学的な考え方に押しつぶされないでほしいなと思った。

参考:「数学する人生」数学者・岡潔が詠った日本の情緒

 

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

 

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