村上春樹がノーベル賞を受賞するべきではない理由
2016年度のノーベル文学賞受賞者が本日(日本時間10月13日20時)発表される。
日本からは村上春樹氏が例年通り海外のブックメーカーなどから受賞を期待され、今年に至っては「第一候補」扱いされていると、日本のみならず欧米メディアでも報道されている。
だが、そもそもなぜ村上春樹氏が例年有力候補として名前が上がるのだろうか。答えは単純だ。彼が、今の時点で生存中の日本人の中で、西洋人(=世界中)の間で最も良く知られているアジア系の「人気」作家だからだ。
逆に言えば、「Haruki Murakami」の他にはほとんど誰も知られていないという現実がある。尤も、無論夏目漱石は知られている。三島由紀夫も知られている。場合によっては安部公房も知られている。だが、彼らはいずれも過去の人であり、亡くなってしまっている以上ノーベル賞は受賞できない。
とはいえ、三島と安部公房はともにノーベル賞候補者であったことが判明しているので、海外で知られるほどの作家はノーベル賞に近いというのは、これらの明治から昭和初期頃に活躍した文豪に関しては概ね正しいだろう。
だが、村上春樹は戦後の作家である。しかも主な読者層は若者であり、内容も政治性は薄く、三島に見られるような旧来のインテリ風の格調も、安部公房のような実験性もなく、むしろ通俗大衆小説として第一級であると言うべき作風で知られている。
勿論、通俗性の高い村上春樹の小説は「純文学」としては例外的とも言えるほどヒットし、知名度もほとんど最高点にまで高まった今では飛ぶように売れる。だからこそ世界中でHaruki Murakamiは知られているし、読まれている。
だが、広く読まれていることは、必ずしも深く読まれていることを意味しない。
三島由紀夫や安部公房を読む読者は、ある程度落ち着ける場所で、ゆっくり時間をかけて読むだろう。真剣に集中して読まなければ、その作品を十分に味わえないと、文章そのものが示しているからだ。
だが村上春樹の読者は、電車の中や授業と授業合間など、喧騒の中でも「友達と一緒に」軽い気持ちで読めるからこそ読んでいる、という印象を受ける。それは、最近で言えば「ライトノベル」のような読みやすさであり、面白さである。村上春樹を他の純文学作家と区別する要素を、さらに極端に誇張したのがライトノベルである、と言い換えてもいい。それこそが村上春樹の良さであり、また限界だろう。
そうであるとするならば、村上春樹は確かに日本の文学界に大きな変化を齎したと言える。だが、その功績は「文化的」な功績なのだろうか。村上氏の作品を読むことは、「教養」の涵養に、”Bildung”につながるのだろうか。
無論、権威や教養が文学の全てではない。「最も売れそうな小説」を選ぶ文学賞があっても良い。商業的に成功する作品も立派な小説だし、そこには固有の価値がある。ただ、それしかなくなってしまうのはとても残念なことだと思う。
ノーベル文学賞はどちらかといえばノーベル平和賞と親和的な要素を含む、ある種の偏りを感じさせるものではあるが、それでも商業主義とは一線を画した選考基準を維持している点は評価できるというのが私の見方だ。
他方、村上春樹が象徴しているのは大衆性であり、アメリカ性であり、商業性である。彼は日本の作家であるが、彼の作品の売りは日本の伝統ではない。また西洋の伝統でもない。村上作品のモチーフは、あらゆる伝統の受動的否定である。
村上氏が古い伝統を守る守旧派でないのは勿論だが、かといって古いものを破壊し新しいものを創造するという革新派でもない。村上氏が表現するのは、伝統に対する主体(subject)の優越であり、主体にとっての伝統の無意味さであり、また主体そのもののアメリカ的な空虚さである。社会や政治に対しても、自分の実存に対しても徹底的に無関心を貫き、何にも「意味」を求めることなくただ彷徨う「主体」。この、商業主義が空洞化した現代(アメリカ)人の精神性の在り方を、日本に移植したことこそが村上春樹という作家の功績だ。
だが、ヨーロッパの主流派文化人のidentityはこのアメリカの精神性に対して全力で抵抗することのうちにこそ存する。ヨーロッパが必死に守ろうとしているリベラリズムも、ヨーロッパの文脈ではあくまでアメリカ的な商業主義(あるいはソ連的な権威主義)の暴力に虐げられた「弱者」として表象された人々に救いの手を差し伸べるプロジェクトであり、ノーベル賞が文化面で高く評価するのもこのプロジェクトへの参画度あるいは貢献度であろう。昨年ウクライナ生まれでベラルーシ出身のAlexievich氏が受賞したことなどはその意味で実に象徴的だ。
だが村上春樹氏はあらゆる意味で「弱者性」を欠いている。彼は既に有名人であり、売れっ子作家であり、世界でも最も裕福な国のひとつである日本出身であり、投獄された経験もなければ、言論弾圧を経験したこともなく、常に「強者」として、否、弱者(=プロレタリアート)でも強者(=ブルジョワジー)でもない存在(=小市民)として作品を書き、また発言してきた。尤も彼自身は「卵の側に立つ」、つまり弱者の側に立つと宣言しているが、彼自身はどう見ても社会的弱者ではない。村上氏本人の言葉を借りれば、彼は壊れやすい「卵」である弱者を、破壊するのではなく守るような「壁」になろうとしているのだ。もしそういう人物でもノーベル賞候補に上がるのであれば、ハリーポッターの作者J.K.Rowlingはじめ英米の有名作家の大部分が候補に上がらねばならない。
にも関わらずJ.K.Rowlingらではなく、商業的に成功している作家の中で村上春樹が特にノーベル賞候補として注目されるのは、他でもない、彼が「日本人」であるからであり、つまり「アジア人」であるからだ。要するにaffirmative actionの一環である。村上氏はこれまでに海外でも数々の文学賞を受賞しているが、果たして彼が「日本人」でなく、白人のアメリカ人だったらその作品はどう評価されただろうか。村上春樹と同程度に「面白い」作家はアメリカやイギリスには多数存在するが、それでも彼らは「白人」なので目立たない。だが村上春樹は目立つ。アジア人であるから。日本人であるから。日本人であるにも関わらずアメリカ人のような文章を書くから。
それでも私は村上春樹氏に日本人を、あるいは日本人作家を代表してほしいとは思わない。川端康成は日本人のノーベル賞作家として誇りに思える日本的な作家だし、思想的に共感するか否かは別として大江健三郎氏が戦後民主主義世代の作家の代表として評価されたことにも歴史的意義があると思う。だが村上春樹氏にはそういったテーマ性が感じられない。それでも彼がノーベル賞を受賞するのなら、「ノーベル文学賞」の「時代に合わせた」変化に私は驚愕するだろう。
「小説」は単なる売り物、「商品」に過ぎないのかもしれない。エンターテイメントに過ぎないのかもしれない。だが「文学」の価値は商品価値だけなのであろうか。文学の価値は商業的成功に比例するのだろうか。
もしノーベル賞委員会の答えが「No」なら、「Haruki Murakami」にノーベル文学賞を与えるべきではない。
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