ー LIVING LEGEND シリーズ ー
音楽という「ドキュメンタリー」を撮り続ける男
写真家・三浦憲治インタビュー
音楽という「ドキュメンタリー」を撮り続ける男
写真家・三浦憲治インタビュー
写真家
三浦 憲治(みうら・けんじ)
ロックカメラマンの草分けとして、洋楽黄金時代にキャリアをスタートさせた三浦憲治さんはレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド、サンタナなど来日アーティストのステージ、オフの風景などを撮り、アーティストのリアルな姿を伝えてきました。その後、ユーミンを皮切りにYMO、サディスティック・ミカ・バンド、井上陽水、ユニコーン(奥田民生)、福山雅治、そして忌野清志郎など、邦楽アーティストの写真も数多く手掛けられ、今もステージ最前列で走り回っています。「俺は報道カメラマンに近い」と自己分析するパワフルな三浦さんに話を伺いました。
三浦 憲治(みうら・けんじ)
ロックカメラマンの草分けとして、洋楽黄金時代にキャリアをスタートさせた三浦憲治さんはレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド、サンタナなど来日アーティストのステージ、オフの風景などを撮り、アーティストのリアルな姿を伝えてきました。その後、ユーミンを皮切りにYMO、サディスティック・ミカ・バンド、井上陽水、ユニコーン(奥田民生)、福山雅治、そして忌野清志郎など、邦楽アーティストの写真も数多く手掛けられ、今もステージ最前列で走り回っています。「俺は報道カメラマンに近い」と自己分析するパワフルな三浦さんに話を伺いました。
(インタビュー・山浦正彦、文・Kenji Naganawa)
2015年12月14日 掲載
三浦憲治 Facebook: https://www.facebook.com/kenji.miura.71
「ステージの一番前に行けるぞ!」レッド・ツェッペリン来日をきっかけに音楽カメラマンへ
—— 三浦さんはどちらのお生まれですか?
三浦:広島出身で、高校卒業するまでいました。卒業後はとりあえず好きなことをしたいし、広島を離れたいなと思っていて、高校では写真部だったから「写真ってどうなのかな?」と。だけど、広島じゃカメラマンになるにはどうしたらいいか全く情報がなくてね。親が「大学だったら行かせてやる」って言うから「写真の大学なんてあるのかな?」って調べたら、日本大学芸術学部と東京写真短期大学しかなくて、推薦で東京写真短期大学に入って。
—— 大学に入学された頃は学生運動真っ盛りの時期ですよね。
三浦:そう。大学が潰れるんじゃないか? とか、めちゃくちゃな時代。「俺は何しに東京へ来たんだっけ?」みたいな感じだった。周りは学生運動で盛り上がっているし、どうすればいいんだろうと思って、周りの先輩たちに相談したら「カメラマンになって意味あるのか?」なんて言われるじゃない?(笑) 俺自身も大学の授業を受けて「なんか違うな」って思っていたし、誰かの弟子になって鍛えてもらった方がいいんじゃないかなと思ってね。
それで撮影スタジオで夜、時給100円とか200円でアルバイトをし始めたんですが、そこに篠山紀信さんとか立木義浩さんのような著名なカメラマンが撮影に来ていて、彼らの周りをちょろちょろしているアシスタントを見て、「あれになればいいんじゃないかな」って思ってね(笑)。ちなみに立木さんの最初の弟子が長濱治さんなんですが、立木さんの他のアシスタントたちがみんな学校の先輩だったの。そうしたら先輩から「暇なら手伝いに来い」って言われて、アシスタントのアシスタントみたいなことをやるようになってね。
それで半年くらいそういうことをやった後に、長濱さんに「アシスタントにして下さい」って言ったら、「今、何やっているんだ」って聞かれて「学生です」って答えたら、「学校に戻れ」って(笑)。でも学校に籍あるかわからないしね(笑)。
結局21歳くらいでアシスタントにしてもらったんですが、長濱さんが『平凡パンチ』のロンドン特集とかで取材に行ったときにレコードを買ってきて、事務所で「ロンドンではこれが流行っているんだよ」ってT.REXとかを聴かせてくれて、「こういうバンドがいるんだ」って。レッド・ツェッペリンは高校時代に聴いていたけど「音楽って変わってきているんだな」ってそのとき思ったね。デヴィッド・ボウイは、鋤田正義さんが撮った渋谷公会堂のライブ写真をアシスタントのときに見ていたね。
—— カメラマンにも色々な方向性があると思うんですが、三浦さんの周りにはミュージシャンを撮影するようなカメラマンが多かったんですか?
三浦:いや、そんなことはないです。長濱さんは平凡出版(現マガジンハウス)とかでファッション写真を撮っていて、音楽は二の次だったかな。だけど、音楽カメラマンがいない時代だから、シカゴの来日のときとかは「横で撮れ」って言われてね。レコードとか雑誌じゃなくて実際に現場に行けたのは大きかったですよ。ちょうどその頃にツェッペリンが初来日して、「どうしても行きたい」と相談したら、「『平凡出版』って腕章していれば入れる」と言われて「やったー!」と(笑)。
—— (笑)。
三浦:そうしたら「カメラ持って行け」って言われて。もう聴くことしか考えてなかったから「やった!一番前に行けるぞ!」とカメラをかついでいって、レンズ2本で撮ったんですよ。それを平凡パンチ編集部の吉田弘さんが見て「三浦、こういうの好きなのか?」って聞くから、「好きなんですよ」って言ったら、平凡パンチのモノクロページの小さいスペースのために、グランド・ファンク・レイルロードとか来日アーティストの写真とかを撮るようになったの。アシスタントをやりながらね。
—— 平凡出版に出入りしていたんですね。
三浦:そう、長濱さんの周辺でけっこうやっていたから、石川次郎さんとか吉田弘さんとかにあごで使われてね。それであっちこっちで写真撮って。
—— 当時から自然体で仕事をしていましたよね。
三浦:好きなことしかしてないからね。そのあとヤマハで出していたPR誌の音楽ページをやるようになってね。最初は長濱さんに来た話だと思うんだけどね。それで『箱根アフロディーテ』にピンク・フロイドが来るから行って、そのへんからどっぷり音楽の仕事に入って行ったね。井出情児とかカメラマン仲間も活躍し始めた頃だったんだけど、俺はグループとかあんまり好きじゃなかったから単独で動いていた。『箱根アフロディーテ』以降も外タレのラッシュがあって、いいアーティストがいっぱい来日するから、そういうときによく呼ばれて撮っていたね。
三浦:広島出身で、高校卒業するまでいました。卒業後はとりあえず好きなことをしたいし、広島を離れたいなと思っていて、高校では写真部だったから「写真ってどうなのかな?」と。だけど、広島じゃカメラマンになるにはどうしたらいいか全く情報がなくてね。親が「大学だったら行かせてやる」って言うから「写真の大学なんてあるのかな?」って調べたら、日本大学芸術学部と東京写真短期大学しかなくて、推薦で東京写真短期大学に入って。
—— 大学に入学された頃は学生運動真っ盛りの時期ですよね。
三浦:そう。大学が潰れるんじゃないか? とか、めちゃくちゃな時代。「俺は何しに東京へ来たんだっけ?」みたいな感じだった。周りは学生運動で盛り上がっているし、どうすればいいんだろうと思って、周りの先輩たちに相談したら「カメラマンになって意味あるのか?」なんて言われるじゃない?(笑) 俺自身も大学の授業を受けて「なんか違うな」って思っていたし、誰かの弟子になって鍛えてもらった方がいいんじゃないかなと思ってね。
それで撮影スタジオで夜、時給100円とか200円でアルバイトをし始めたんですが、そこに篠山紀信さんとか立木義浩さんのような著名なカメラマンが撮影に来ていて、彼らの周りをちょろちょろしているアシスタントを見て、「あれになればいいんじゃないかな」って思ってね(笑)。ちなみに立木さんの最初の弟子が長濱治さんなんですが、立木さんの他のアシスタントたちがみんな学校の先輩だったの。そうしたら先輩から「暇なら手伝いに来い」って言われて、アシスタントのアシスタントみたいなことをやるようになってね。
それで半年くらいそういうことをやった後に、長濱さんに「アシスタントにして下さい」って言ったら、「今、何やっているんだ」って聞かれて「学生です」って答えたら、「学校に戻れ」って(笑)。でも学校に籍あるかわからないしね(笑)。
結局21歳くらいでアシスタントにしてもらったんですが、長濱さんが『平凡パンチ』のロンドン特集とかで取材に行ったときにレコードを買ってきて、事務所で「ロンドンではこれが流行っているんだよ」ってT.REXとかを聴かせてくれて、「こういうバンドがいるんだ」って。レッド・ツェッペリンは高校時代に聴いていたけど「音楽って変わってきているんだな」ってそのとき思ったね。デヴィッド・ボウイは、鋤田正義さんが撮った渋谷公会堂のライブ写真をアシスタントのときに見ていたね。
—— カメラマンにも色々な方向性があると思うんですが、三浦さんの周りにはミュージシャンを撮影するようなカメラマンが多かったんですか?
三浦:いや、そんなことはないです。長濱さんは平凡出版(現マガジンハウス)とかでファッション写真を撮っていて、音楽は二の次だったかな。だけど、音楽カメラマンがいない時代だから、シカゴの来日のときとかは「横で撮れ」って言われてね。レコードとか雑誌じゃなくて実際に現場に行けたのは大きかったですよ。ちょうどその頃にツェッペリンが初来日して、「どうしても行きたい」と相談したら、「『平凡出版』って腕章していれば入れる」と言われて「やったー!」と(笑)。
—— (笑)。
三浦:そうしたら「カメラ持って行け」って言われて。もう聴くことしか考えてなかったから「やった!一番前に行けるぞ!」とカメラをかついでいって、レンズ2本で撮ったんですよ。それを平凡パンチ編集部の吉田弘さんが見て「三浦、こういうの好きなのか?」って聞くから、「好きなんですよ」って言ったら、平凡パンチのモノクロページの小さいスペースのために、グランド・ファンク・レイルロードとか来日アーティストの写真とかを撮るようになったの。アシスタントをやりながらね。
—— 平凡出版に出入りしていたんですね。
三浦:そう、長濱さんの周辺でけっこうやっていたから、石川次郎さんとか吉田弘さんとかにあごで使われてね。それであっちこっちで写真撮って。
—— 当時から自然体で仕事をしていましたよね。
三浦:好きなことしかしてないからね。そのあとヤマハで出していたPR誌の音楽ページをやるようになってね。最初は長濱さんに来た話だと思うんだけどね。それで『箱根アフロディーテ』にピンク・フロイドが来るから行って、そのへんからどっぷり音楽の仕事に入って行ったね。井出情児とかカメラマン仲間も活躍し始めた頃だったんだけど、俺はグループとかあんまり好きじゃなかったから単独で動いていた。『箱根アフロディーテ』以降も外タレのラッシュがあって、いいアーティストがいっぱい来日するから、そういうときによく呼ばれて撮っていたね。