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日蓮本仏論見直しについて。

 投稿者:一会員  投稿日:2016年10月12日(水)06時22分9秒
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  須田晴夫氏の論文について。
須田氏がここで言わんとしていることは、基本従来の創価学会の教義である、日蓮本仏論への回帰、すなわち日蓮正宗の教義への回帰です。


何度読んでも、これは本来の日蓮正宗の教義への懐古でしかないと思うんですよね。


ところで、現在の創価学会に必要なことって、こういう従来の創価学会の教義への回帰なのでしょうか。


私は宮田幸一氏の論が完璧であるとは思いません。ただ宮田氏はこれからの創価学会の教義のあり方を示し、考える材料となり得ると思います。
現在の創価学会の教義はつまるところ、日蓮正宗の教義であり、つまるところ日寛の教義でしかないからです。


そもそも日蓮本仏論を主師親の三徳を論拠とし、その根拠を開目抄や撰時抄に求めても、それが果たして今後の創価学会の教義にとり、必要なことでしょうか。
須田氏の反論の内容は、宮田氏の立論を読んで動揺する学会員のために書かれたように思えても、今後の創価学会の教義を根底から考え直すという宮田氏の問題意識とは全く違うものと思われます。


主師親の三徳を持つことが本仏の証明であるようにここでは考えられていますが、そう考えているのは日本国内で日蓮正宗だけの考え方であり、なかんずく日寛の教義です。このように解釈する日蓮系教団は日蓮正宗と創価学会と顕正会だけであり、一般的に評価されてはいません。


加えて日蓮本仏論を論証する際に日寛が引用した相伝書の類いは、ほぼ日寛が引用し始めたものですが、本因妙抄等の血脈抄といい、ほぼ偽書説が確定しています。


そもそも日寛の誤りは、弘安2年の御本尊を日蓮出世の本懐とまで持ち上げてしまったことにあります。
弘安2年の御本尊を受持の対象としない、という風に曖昧な表現にして、創価学会本部は教学の転轍を図りましたが、明らかに今までの古参の学会員への配慮の上でのことであり、本来はそこを乗り越えたい。


というのも、弘安2年の御本尊は後世の作であり、日蓮在世の作でないことはほぼ確定してしまっているからですね。
例えば「二千二百三十余年」の表記と「二千二百二十余年」の表記の違いもそうですし、河辺メモで発覚した弘安3年の日禅授与本尊との文字の一致もそうです。
また弘安2年の御本尊がそもそも御本尊七箇相承の通りに書かれていないという事実。相伝書であるはずの御本尊七箇相承の記述が弘安2年の御本尊の表記と矛盾するということ。



そもそも日蓮本仏論も、弘安2年の御本尊も、三重秘伝も、人法一箇も、受持即観心も、聞法下種と発心下種も……現在創価学会で言われるほとんどの教義が日寛によって生まれたものです。



創価学会が今後、世界宗教として広がっていく時に果たして、日寛の教義を守ることが必要かと問い直す時期に来ていると私は考えています。


日蓮を本仏とする考え方とはいったい何でしょう?
それは歴史上の仏教の開祖である釈迦よりも日蓮を上の存在と立てるということでしょう。
しかしそれにどんな意味があるのかということです。


創価学会が従来からとってきた考え方は、もはや正法・像法時代の仏教では衆生を救うことができないゆえ、末法の衆生は末法の本仏である日蓮の説く法によってこそ救われるということでしょう。
つまり釈迦の心はどこにあるのか、それを鎌倉時代において問い直したのが日蓮であったと考えることができます。
そして末法における賎民、漁師の子であった日蓮が仏の命を涌現することで、末法万民の成仏が可能になったと。


だとすれば、それは無理に日蓮を「本仏」としなくても、十分に立論できることなのではないでしょうか。
釈迦が仏教の「開祖」であり、日蓮は自宗の「宗祖」であるとすれば十分かと思います。
また日蓮正宗とは違った「本仏」という考え方を探ることもできるでしょう。無理に日蓮正宗のように「釈迦より日蓮が上」という考え方や、他宗が全く相手にしない開目抄の日寛解釈を今後創価学会が採用する理由はないと思われます。



創価学会は今後、御本尊の問題、そして日寛教学の根本である日蓮本仏論の問題と向き合う必要があるでしょう。水面下ではすでに数年前から動いているようですが、恐らく公表はされません。
学会本部としても、弘安2年の御本尊受持を教義から外したのにもかかわらず、根本にする御本尊が、日蓮正宗の管長書写の御本尊では矛盾だということも気づいています。


恐らく信濃町の幹部の方の意見も二つに割れていると思われます。
であるからこそ、須田氏の論文は信濃町からは黙殺される可能性が高い。


今回の日蓮本仏論見直しの事態は、日蓮正宗の教義すなわち日寛教学を今後も続けるのか、それとも従来の日寛教学でいくのかという、創価学会の根本的な煩悶であるのでしょう。


創価学会はすでに形骸化し、官僚化してしまっています。創価学会が今後、日寛教学から離れて独自の教義を確立できるかは非常に重要な試金石なのですが、私個人はやや悲観的に考えています。
創価学会の形式的な幹部、日寛教学への固執がある限り、創価学会は独自の教義を確立できないでしょう。そもそも弘安2年の御本尊を根本的に否定できなかった理由の一つがそこにあったわけです。すなわち従来の学会員からの反発であり、それが今までやってきた教義の全否定になってしまうからです。


恐らく今後は創価学会が内部から崩壊し(すでに活動家の高齢化による減少は止めようがないと思われます)、SGIが独自路線を歩み出す、また日本の創価学会も独自の教義を持ち出す分派が現れる可能性もあります。まあ分派については信濃町が圧殺する可能性が高いですが。
そこまでの事態に立ち入らなければ、創価学会はもしかしたら日蓮本仏論の見直しということができないのかもしれません。


そのような事態になって初めて私たちは、自由な日蓮教学の議論ができるようになるのかもしれません。
須田氏の論文に共感を寄せる学会員は決して少なくないでしょう。やはりそれはそれだけの数の学会員の方が、これまでの日蓮正宗の教義、つまり日寛教学にすでに染まってしまっていて、そこから離れて今後の創価学会の未来について語ることが思考の上でできなくなっている気がします。



 
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