12年にはじめて本をつくった。Rhetorica#01というやつ。ぼくは20歳か21歳だったと思う。
そのとき自分が書いた文章は、ぼくと太田君の立場が違っていることで──その原因は単に文章のリズムが違いすぎたことだったのだが、論旨が錯綜したものになっている。
この前マルチネの大都会と砂丘というイベントで久々にこの本を売った。そしたら、さのかずやさんという方がこれを読んで感想を書いてくださった。錯綜したものを読ませて申し訳ないと思ったので──4年経ったこともあるし、改めて当時考えていたことを振り返り整理をしてみたい。
12年の文章の内容をまずは紹介する。この文章では、1. 創作活動が容易にできるようになった技術的背景を踏まえつつ、2. その裏返しとしてメランコリーが生じることをやたらと問題にしている。要するに、誰もがつくれるということは、つくれないやつはかわいそうで憂鬱ですよね、というような感じ。当時も自覚していたけれど、ウジウジした問題意識だ(笑)。
そして、このメランコリーに対して、ふたつの解決策を用意している。ひとつめが、結論的に書いている「楽しむようにつくれ」。ふたつめが、「つくる作業を分解してなんとなくできるようになれ」。このふたつの解決策が特に入り交じることなく出てくるので、結局なにをどうすればいいのかよくわからない文章になっている。そんな感じ。
本題に入りたい。16年になったいま、かつて書いた問題と解決についてどう思うか、だ。
まず、問題意識については、いまでも「わかるなあ」と思っている。問題としてうまく考えることができる話なのかはともかくとして、つくるということはひとをウジウジさせる。だって、やってみようと思ったときにはなんにもできないのだから! ぼくは当時に比べれば、いまのほうがたくさんのことを自在にコントロールできる。しかし、新しいことをやってみよう、つくってみようと思うときのドキドキと、その裏返しのストレスは変わらない。
次に、解決策について。これを書いた当時の話だけれど、ぼくは太田君が結論的に書いた「ただ楽しむ」ということにかなり違和感をもったことをおぼえている。だって、楽しんでたら自動的につくれるようになるなら、最初から憂鬱の問題なんて生まれようがないじゃないか。ウジウジしているひとに、楽しくやろうぜっていうだけでウジウジがなおるなら、最初からそうしている(笑)。そんなふうに思っていた記憶がある。
しかし、現在では、自分の推していたエフォーダンス的な話とただ楽しめという話は、ほとんど同じことだったんだろうと思っている。いまの考えを書いておく。1. なにかをつくろうとするときそう思った原因である先行した表現がある(要するに自分が大好きで、これつくってみたいと思ったきっかけの表現だ)、2. その先行する表現を楽しみ抜くと解像度が上がってくる(この表現のここが面白い!)、3. 上がった解像度をもとに自分の能力でとりあえずマネできそうなことをやってみる(その表現のごく一部なら再現できるのではないか……!)。
重要なのは2番だ。なにかを楽しみ抜くというのは、対象に対する解像度を上げることである。自分が当時つかっていた語彙で言えば、好きな表現を細かく見ていくと、そのなかに「エフォーダンス」(12年の文章のなかで、創作を促すアフォーダンス的な要素みたいな意味で使われている語)が発見できるのだ。「このドラムの音もしかしたら自分でもつくれるんじゃないか」、「この言い回しもしかしたら使えるんじゃないか」、そんなふうに。
そういえば、このように考えるきっかけになった一冊が、11年10月に発売された國分功一郎『暇と退屈の倫理学』である。ぼくらの間でこの本は大流行だった。具体的にどういうふうに影響を受けたか忘れてしまったが、この13年はじめに行われた太田くんと田中浩也先生の対談を読むと、Rhetorica#01を出した直後の気分がわかる。
4年前に考えていたことといま考えていることをざっと書いた。では、その楽しむことを通じてエフォーダンスが配置される云々という抽象的な話は、実際ぼくのなかでどのように具体的に展開しているのか。
この前出したRhetorica#03は、まさにその解答にあたる本だと思っている。次のような問いを寄稿者(いままで1,2人だったのが今回は一気に40人ほど!)に投げかけたのだ。
いま、友人や仲間に対してオヌヌメしたいコンテンツを紹介した文章を執筆してください。社会的なニーズや文脈に囚われず、自分(たち)にとって重要で、友人に勧めたいコンテンツについて書いていただきたいです(依頼メールママ)
この試みはそこそこ機能したと思う。出てくるものは、要するに読書感想文であったり紀行文であったりしたが、文章をほとんどつくったことがない寄稿者が多数含まれていたが、いずれもかなりよい文章を出してきたからだ(その通りになっているかは、読んで判断してほしい、また、よい文章になっていたとしたらその要因には編集の力ももちろん入っている、ただ、編集者がやる気になったのはいい文章の予感があったからかもしれない)。
さて、なぜこの問いと前述のRhetorica#01についての話が関わるのだろうか、また、そもそもこの問いはなにを意味するのか。問いかけには次のような意味が含まれている。まず、紹介文を書くために、その対象をよく味わい吟味しなければならない。また、その紹介先は公共的なものや社会的なものではなく、あくまでもプライベートな仲間たちであることを意識する必要がある。しかもややこしいことに、頼んだ原稿は実際には本になるわけで友人以外のひとであっても買われれば読まれることになる。つまり、寄稿者はこの問いを通じて、三つの対象に向き合っている。1. レビュー対象、2. プライベートな仲間、3. 本の読者。
とりわけ重要なのは、1の理解を前提としたうえで、2を意識しながら同時に3を意識することが求められる問いの構造にある。単に好きなものを友達にダラダラ説明するのでもなく、かしこまってきれいに紹介するのでもない。自分が大好きなものをきちんと理解し、友人に伝えるように自分のプライベートな欲望を描き出しながら、かつ、(結果的に)それを関係ないひとにも伝わるように書く。こうした三重構造をもたせることで、いままで文章をつくったことがないひとであっても、つらい改稿作業に耐えながら、本に載せる意味がある個人的な文章──一見矛盾するようだが、をつくれるはずだと考えたのである。
タイプが載ってきたので、最後に、このような要求を通じてなにがしたかったか書きたい。単純だ。ぼくは自分と自分の周りの友人達が、忙しく働きながらも辛くてめんどくさい創作活動や文化鑑賞を続けていけるようにしたかった。それがRhetorica#03のひとつの意味だ。もちろん、これからますますそれを加速させるつもりでもある。
Rhetorica#01の頃より、状況自体は厳しい。ヒマな学生時代ですらつくることは面倒で憂鬱だったのに、いまでは仕事が忙しいしライフステージも変わって結婚とかもして大変だし、とかなんとかいいつつ、そもそもつくろうというやる気すら起きないひとが増えてきた。かつてこいつイケてるなと思っていた友人でさえ、そうだ。もっと言えば、なにかの対象を決めてそれをじっくり楽しむ、そして、なんでそれが楽しいか反省的に考える。それすら大変になりつつあるのだ。
学生時代の自分が格闘していた問いに直接答えられるかはわからないが、あのとき感じていた偉大なる憂鬱に取り組む権利くらいは、自分(たち)に与えてやれるように、いろいろと作戦を立てていくつもりだ。