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第一章 雲底を離れて 1
風はいろいろなものを運んでくる。
雷雨、砂、渡り鳥、花の種、人の噂。
そして時には、暗殺者をも――。
どんな急峻な山峰さえ、天空を統べる風の前にはないも同じだ。
ジグリット・バルディフ 『回顧録』より
第一章 雲底を離れて
第二章 地底探索行
第三章 巻き上がる嵐の底
第四章 揺らぐ心の奥底
第五章 魔道具の脅威と底力
第六章 苔底に葬る
第七章 美酒の底流
第八章 底知れぬ闇夜
第一章 雲底を離れて
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聖階暦、二〇二三年。黄昏月。
ナフタバンナ王国西部には、激しい雨が降っていた。
頭上に重く広がった黒雲は、朝からまったく動いておらず、地面に降り注いだ雨が至る所で川を造りだしている。
ジグリットは、前方で鹿毛の牡馬を走らせていた漆黒の騎士が、一度振り返って何か言ったのを見たが、雨音でまったく聞こえなかった。
ジグリットは悪天候の中、馬でひたすら南へと向かっていた。ゾグワナ岩砦を出て、すでに三日。カウェア峠を抜けてから、平野が続く街道を朝から晩まで進んでいる。
一緒に来たのは、たった一人。冬将の騎士ことファン・ダルタだけだ。だが、ジグリットは本来ならこの務めを一人で果たすつもりだった。彼は強い。何十人分どころか、入ってきたばかりの新米兵を百人束ねたよりも強い。そして、ゾグワナ岩砦にいる兵士のほとんどが、ろくに修練を受けたこともない素人ばかりだと、誰もがわかっていた。
ザハやエジーといった山賊連中の腕が立つといっても、再びマエフ王が軍を出し、岩砦を攻めて来たら、持ちこたえられるか危ういところだ。せめて、この全身漆黒に覆われた堅固な騎士を、ジグリットは砦に置いておきたかった。だが、どう宥めすかしても、彼に言うことを聞かせることはできなかったのだ。
ジグリットは、顔中にぶつかってくる雨をなめし革の手袋で、ぐいと拭いた。同時に、ハアと大きく溜め息を漏らす。それは白い吐息となって背後に流れた。
ナフタバンナ王国の首都シルマにある黒の城砦より、カウェア峠を南に下ったゾグワナ岩砦を、ジグリットたち革命軍が手中に治めたのは、数日前のことだ。山賊、蒼蓮華の頭であるザハや、八つに分けた部隊の指揮官となったハジュやムサたちとの会合で、ジグリットは今後の戦略について提案した。それは、もっとも重要なことだった。
兵士と兵士の戦いなら、戦術を考えて実行するのは、当然自分たちだけで済む。しかし、マエフ王の許には、魔道具使いであるボクス・ウォナガンがいる。
魔道具使いは、魔道具と呼ばれる古代文明の遺産を使って、通常ではあり得ないことを成す。そんな相手に、剣や槍は無意味だ。現に魔道具使いは、魔道具使い協会の通達によると、同じ力を持つ魔道具使いにしか殺すことはできないとされている。
ジグリットの前髪から滴った雨水が、額から顎までを素早く流れ落ちた。革の頭巾を被っていても、向かい風で浴びる多量の雨が襟元から入り込み、外衣の下の上衣を濡らす。すでに服は素肌に張り付いて、全身余すところなく濡れていた。容赦ない風に躰は冷え切っていくばかりだ。
ジグリットは、雨に霞む前方のファン・ダルタを見た。彼の黒貂の外衣も、たっぷりと含んだ水のせいで、重そうに馬の背で揺れている。
二人はこの激しい雨の中、カウェア峠を抜け、雨宿りすら難しいただ広いばかりの平野を疾駆していた。このナフタバンナ王国の南には国境があり、その先にウァッリス公国がある。
魔道具使い協会に、ジグリットは魔道具使いを雇い入れたいと申し込むために、こうして全身ずぶ濡れになって進んでいるのだった。
馬が跳ね上げた泥混じりの飛沫が、ジグリットの下半身を黒く覆っている。蛍藍月なら平気だっただろう雨は、黄昏月の半ばを過ぎるとすでに氷のように冷たく、ジグリットは左膝のじんじんとする傷みに身震いした。疵口はすっかり塞がっていたが、冷えたせいで左足が今朝から痺れるように痛い。
暗い空を見上げ、小声で文句の一つでも呟こうとしたが、直前で止めた。雨雲はジグリットとファン・ダルタにとっては最悪なものだが、ナフタバンナ国内の大勢の農民たちにとっては貴重なものだ。彼らは恐らく、狂喜乱舞しているに違いない。そう気づいたからだ。
ジグリットがナフタバンナに入ってから、これだけの雨に遭遇したのは初めてのことだ。中央部から東部にかけての穀倉地帯での旱魃は深刻で、農民たちは枯れるどころか成長すらしない穀物を前に苦しんでいた。この雨がもたらすものは、少数の旅人と交易商人たちには疎ましさだけだが、それ以外の民にはたとえ洪水が起ころうとも瑣末に感じるほど、喜ばしいことに違いない。
先を行っていたファン・ダルタが手綱を引き、馬の肢を緩めているのが見えた。ジグリットも同様に速度を落とす。近づくと、同じぐらい濡れそぼった騎士は、街道脇に固まって立っている楡の木々の辺りを指して言った。
「今日はこの辺りで休もう」
雨のせいで、ジグリットは時間の感覚を失っていたことに気づいた。頭上を見上げると、確かに空はほんの僅かだが、昼間より暗くなっている。後、半時もすれば、辺りは真っ暗になるだろう。
ジグリットがそう思っている間にも、ファン・ダルタは馬から降り、広がった枝葉の下へと歩いて行った。
騎乗したままジグリットが木の下へ入ると、うるさかった雨音が葉の傘で和らぎ、馬の蹄も落ち葉のおかげで、泥水を跳ね上げるのをやめた。
ファン・ダルタに手伝ってもらって馬から降りると、ジグリットの右足は力なく崩折れた。
「おい、大丈夫か?」
ファン・ダルタが気づかって抱き上げようとしたので、ジグリットはその手を払い除けた。
「大丈夫だ。一人で立てる」
馬の鞍に括り付けてある松葉杖を座ったまま手を伸ばして、引っ張り出すと、よろよろとそれに凭れて立ち上がる。雨と寒さのせいか、いつも以上に自分が酷く惨めでみっともなく思えた。
向かいに立っていたファン・ダルタを見ると、彼も同じぐらい濡れていたが、震えてなどいない。それどころか、一日中馬に乗っていたというのに、軽やかな動きでてきぱきと休む準備を始めている。
騎士は黒貂の外衣を脱ぎ、裏返して地面に広げると、ジグリットに座っているよう勧めた。そして、自分は鞍袋から包みを取り出し、それを開けている。
ジグリットは、ぼんやりとその場に突っ立っていた。雨は変わらず、ザアザアと滝のように辺り一面に降り注ぎ、まっすぐ伸びた街道に沿って流れを作り、泥水を運んでいる。まるで川の中を馬で進んでいるようなものだ。
明日のことを考えると、さすがにうんざりして、小さく息を吐くと、それに気づいたファン・ダルタが乾いた手拭を投げて寄越した。
「どうした、疲れたのか?」
受け取った手拭で顔を拭き、ジグリットが首を振る。「何でもない」
ファン・ダルタは、少し口端を上げて微笑した。
「獣脂を塗った皮で包んでおいたから、その手拭は濡れていないだろう」
確かに、その手拭は乾いて柔らかかった。ジグリットは顔と髪を素早く拭き、彼に返した。だが、ファン・ダルタは眸を眇めると大股で近づき、ジグリットの頭に再び手拭を載せてきた。
「よく拭け。風邪を引いたらどうする」
そのまま、手拭を載せた手でぐしゃぐしゃと髪を掻き回される。
「や、やめろ、ファン」ぐらぐらと頭を揺らされて、ジグリットは両手をばたつかせた。
だが、ファン・ダルタは容赦なく、がしがしと髪を拭き続ける。
「黙ってろ。おまえ、さっきから顔が真っ白だぞ」
あまりに頭を揺すぶられたので、ジグリットは眩暈を起こして、くらくらした。騎士はそんなジグリットの髪を拭き終わると、肩を小突いて強引に外衣の上に転がした。
「疲れているのなら、さっさと寝ろ」言って、今度は自分の髪を拭き始める。外衣の下に着ていた鎖帷子を外すと、その下の上衣を脱いで、ファン・ダルタは豪快に絞った。雨水がたっぷりと絞り落とされる。
ジグリットは自分もそうすべきだとわかっていたが、肌に張り付いた服を脱ぐのも面倒になっていた。ぼんやりした表情で、ファン・ダルタに話しかける。
「後、どれぐらいかかるだろう。時間がないのに、この雨では明日も苦労するぞ」
騎士はきつく絞った上衣をパンパンと勢いよく広げてから、再び身につけながら言った。
「心配するな。そろそろ国境だ。国境からフェアアーラはそう遠くない」
彼は鞍袋から麺麭と皮の水袋を取り、ジグリットに放った。
受け取ったジグリットが、肩を竦める。「川魚が恋しくなるときが来るとは、思わなかったな」思わずそう呟いてしまうほど、味気ない食事だ。
ドライツェーン山の蒼蓮華の根城にいる頃は、魚など二度と見たくない、うんざりだと心底思ったが、ここ数日、塩麺麭と水だけでは、あの焼き魚すら御馳走として夢に出てくるほどだった。
「そうしょげるな。すぐにフェアアーラだ」ファン・ダルタはすでに麺麭の半分を腹に収めて言う。「街に入れば嫌ってぐらい魚を食わせてやる」
ジグリットは、返事の代わりに顔をしかめながら、麺麭に齧りついた。
食事ともいえない食事をなんとか水で流し込み、ジグリットは自分の外衣と短着、鎖帷子を脱いで、濡れた上衣のまま、黒貂の外衣の上に横になった。並んでファン・ダルタも落ち葉の上に寝転がる。
ジグリットの頬に、頭上の葉の間から零れてきた雨粒がぽたんと落ちて弾けた。見上げるとその木に付いていた葉のおよそ半分が赤褐色に変わり、葉の落ちた寂しい枝が何本もあるのが見えた。
――白帝月が来る。
ジグリットは雨のせいだけではない寒気を感じて、身震いした。
「どうした、寒いのか?」隣りからファン・ダルタが声をかけてくる。
それに応えず、ジグリットは横を向き、彼に背を向けて躰を小さく丸めた。
眸を瞑って眠ろうとするが、それを邪魔するように、雨粒が髪にぱらぱらと落ちてくる。
ジグリットは、自分が何を考えているのかわかっていた。ゾグワナ岩砦を出てから、ずっと頭の中に湧き上がっては沈んでいく。それは、とても口にできないことだったが、同時に消し去ることもできないのだった。
――このまま・・・・・・。
ジグリットはここ数日、何度となく考えたように、声に出すことなく、身の内で叫んだ。
――このまま、どこかへ行ってしまえたらいいのに・・・・・・。
それはどうあがいても消えたりはしない本心だった。
ここまでなんとかうまくやりとおせたかもしれない。蒼蓮華という後ろ盾を得て、正当な理由を掲げて、ナフタバンナの国王に反旗を翻したのだ。
だが、こうして雨に打たれて、寒さに震えている自分を省みると、それはまるで鷹に立ち向かうちっぽけな小鳥のように、無謀な行為に思えた。
ウァッリス公国に行き、魔道具使いを連れて来ると言ったジグリットに、蒼蓮華の頭領であるザハは当初、反対した。はっきりとは言わなかったが、彼の眸が、ジグリットが本当に帰ってくるのか訝しんでいたのは確かだ。
そして、それは真実だった。
ジグリットは揺らいでいる自分を感じ取っていた。今頃になって、ゆらゆらと弱気が頭をもたげて、自分に現実を突きつけてくるのがわかり、ザハや蒼蓮華のみんなの側にいることが苦しくなっていた。絶対に勝てると、口にすることが難しくなっていた。
自信は風に吹かれた蝋燭の火のように揺らぎ、マエフ王と彼の連れている魔道具使いが、寝床の傍らに立っているような気さえした。
どうして、勝てるなどと思ったのか、自分でもわからなかった。寄せ集めの山賊たちと、戦ったこともない農民たちを引き連れて、反乱軍だなどと煽り立てて、その責任さえ取れるわけがないのに。
カウェア峠を南下しながら、ジグリットは何度となく、馬の首を別の方角へ向けようとした。前を行く漆黒の騎士がいなければ、そうしていただろう。だが、ファン・ダルタから逃れるほど早く馬を走らせることは、ジグリットには到底不可能だった。
――マエフ王に負けたら、みんな殺されてしまう。
――一体、ぼくは何人の命を背負っているんだ・・・・・・。
そんなことは、望んでいなかった。考えていなかった。
静かに覆い被さってきた恐怖に、ジグリットはさらに、ぐっと躰を縮ませた。すると、下に敷いている湿った黒貂の外衣から、隣りで寝ている騎士の汗の臭いがした。
ファン・ダルタが一緒に来ると頑なに主張したのがなぜなのか、ジグリットはわかっていた。彼にも、伝わっているに違いなかったからだ。子供の頃から側にいた騎士が、気づかないわけがない。
――ぼくが逃げるかもしれないからだ。
ふふっとジグリットは、自嘲の笑みを洩らした。
――すべて放り出して、無責任に逃げてしまうかもしれないからだ。
ジグリットが小さく肩を揺らして笑うのを、ファン・ダルタは、じっと見ていた。そして、そっとその背中に手のひらを押しつけた。
ジグリットの濡れて冷たくなった背中は、大きな熱い手でいっぱいになった。ファン・ダルタは、そのことに驚いた。あまりにその背中が細く小さかったことに、今さらながらに彼は驚き、疵ついた。何度か手を動かして、背中を摩ると、ジグリットは声を洩らして笑った。
「やめろ、ファン」
「………………」
それでも騎士は、ジグリットの背中を摩り続けた。
背中を向けていたジグリットの眸から、涙が零れ落ちた。葉の間から、また雨粒がぱらぱらと幾つも落ちてくる。それが頬を濡らして、ジグリットに涙を拭く機会を与えてくれた。ぐいと手の甲で頬を拭き、ジグリットは言った。
「なんだよ、眠ってたのに」そして躰を反転させ、騎士に向き直った。「明日も早いんだから、もう休もう」仰向けになって、さっさと眸を閉じてしまう。
ファン・ダルタはただ一言、「ああ、そうだな」とだけ答えた。
重苦しい気持ちが晴れることはなかったが、ジグリットは背中にまだ騎士の熱い手が残っているのを感じていた。
この人間の命をも背負っているのだろうか、と考えたとき、ジグリットはそれは違うような気がした。ファン・ダルタは違う。他の人とは違う。
少しほっとして、ジグリットは葉を叩く雨音を耳にしながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
眠ってしまったジグリットの横で、騎士は起き上がると小さく溜め息をついた。
ひたすら走ってきたジグリットが、今になって怯えているのを、彼は当然知っていた。だからといって、手を引くことなど、すでに無理なことも承知している。それに、ジグリット自身がそれを赦さないだろうこともだ。
逃げる素振りを見せたとしても、本当にジグリットが彼らを置いてどこかへ消えてしまうことなどないと、ファン・ダルタは思っていた。そんなことができる人間なら、ずっと昔にそうしていただろう。
ゲルシュタイン帝国の血の城から抜け出した後、エレモス島で幸せに人生を送ることだってできたのだ。
――余程の覚悟がなければ、ナフタバンナまで来たりはしない。おれに会いに来たというのは、確かに本当だろう。だが、それはナフタバンナのマエフを斃すと決めたのと、どちらが先だったのか。
――おれのことと、同時に考えたんじゃないのか。
ファン・ダルタの闇のように濃い双眸に晒されながら眠っているジグリットは、子供というには勇敢で、大人というには華奢だった。
「弱音を吐いてもいいんだ」騎士は、ジグリットの青白く疲れ切った寝顔を見つめ言った。「おまえが口で何を言っても、どれだけ涙を流しても、決して諦めないことをおれは知っているからな」
横殴りになった雨が木の下にも吹き込み、激しく二人を打とうとした。とっさにファン・ダルタは身体を起こし、ジグリットを覆った。
そのとき、暗い眠りの中で、ジグリットは誰かが優しく呟くのを聞いた。
「もう二度と一人にはしないからな」
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