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全集未収録スピーチ

 投稿者:無冠  投稿日:2016年10月11日(火)07時32分10秒
編集済
  全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2010.1.26 【「SGIの日」記念協議会】

一、本日は、各地のリーダーの皆さんが集まってくださった。
 遠方から参加した皆さん方も、大変にご苦労さま!
 きょうは、ゆっくりと懇談的に語りたい(大拍手)。

● 燃え立つ信心で
 一、戸田先生は言われた。
 「朗々と妙法を唱え抜き、感激に燃えて戦うのだ!
 『本当にありがたい! うれしい!』──この燃え立つ信心があれば、祈りは叶うのだ」
 私たちの唱える南無妙法蓮華経は、「大宇宙」と「わが生命」とを貫く、根源の音律である。
 広布に戦う喜びと感謝にあふれた、燃え立つような祈りは、己心の「仏界の力」をわき立たせるとともに、全宇宙の諸天・諸仏を揺り動かしていくのだ。
 その祈りが、叶わないわけはない。

● 全権大使たれ!
 一、戸田先生は、国家の弾圧による2年間の投獄から出獄して間もなく、こう語っておられる。
 「ぐずぐずしてはいられない。出獄後、私は、一日の休みもなく、奮闘している。
 これからの半年の間に、2年間の投獄の空白を取り返す決心で戦っている!」
 限りある時間だ。
 私たちも、ぐずぐずしてはいられない。
 決断である。行動である。
 祈るのだ。動くのだ。
 特にリーダーは、道を歩くときも、さっそうと歩き、会員・同志の皆さん、近隣の方々と、すがすがしいあいさつを交わしていくのである。
 一人一人が“学会の全権大使である”との気概で、勇んで打って出よう!(大拍手)

■ リーダーならば、先頭に立つことだ。
 先頭を行けば、当然、風圧は強い。難にあう。それに断固として打ち勝って、道を開いていく。それがリーダーである。
 戦時中、軍部と戦い、正義の信念を貫いた牧口先生、戸田先生は、自らを犠牲にして、学会を護り、同志を護っていかれた。
 私もまた、お二人の精神のままに行動してきた。
 「各国各地の大切な同志を護れるように」「皆が安心して活動できるように」と、祈って祈って祈り抜いてきた。
 そのために、あらゆる努力を惜しまず、道を開き、道を作り、時代を変え、学会への認識を新たにさせてきた。
 これが「創価の三代の心」である。
 この会員厳護の精神を離れて、創価学会はない。リーダーは忘れてはならない。
 嫉妬の邪宗門からも陰険な攻撃を受けてきたが、私は微動だにしなかった。
 私たちは、邪宗門から離れることができて本当によかった。まさに御仏意であった(大拍手)。

● 一、インドネシアの女性解放の先駆者カルティニは叫んだ。
 「まず手本を示す人があるとよい」「思いきって始める人さえあれば、きっと多くの人がこれにならうものだと確信しております」(牛江名訳『暗黒を越えて』日新書院。現代表記に改めた)
 我らは今、永遠に崩れぬ「創価城」を築いている。
 「広宣の道」「勝利の道」「歓喜の道」を、皆さんが全世界に大きく広げていくのだ。勇気の剣を高く掲げ、さっそうと前進していただきたい(大拍手)。

● 理想の建設へ大局観に立て
 一、本年は、日蓮大聖人が「立正安国論」を鎌倉幕府の最高権力者・北条時頼に提出してから満750年の佳節に当たる。〈大聖人が「立正安国論」を提出されたのは文応元年(1260年)7月16日〉
 大聖人の御一代の弘法は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われる。
 「立正安国論」には、正法によって断じて民衆の幸福と平和を実現するのだとの、御本仏の大慈悲と大情熱が脈打っている。
 私たちは、この立正安国の御精神のままに、いかなる迫害の嵐も乗り越えて、広宣流布へ進んできた。
 大聖人の御賞讃は間違いないと確信する(大拍手)。
 「立正安国論」には記されている。
 「汝須《すべから》く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を序・逎瓩・廖文羹・咳㌻)
 自らの幸福を願うならば、まず社会の安定や繁栄、世界の平和を祈っていくべきであるとの仰せである。
 国土が戦乱や災害に覆われてしまえば、個人の幸福の実現もありえない。
 自分一人の幸せではない。社会の平穏と繁栄を祈り、その実現に尽くしてこそ、真実の幸福は実現される。
 また、そうした生き方を貫いてこそ、自己の小さな殻を打ち破り、本当に価値のある、充実した人生を築いていくことができるのである。
 戸田先生は青年部に語っておられた。
 「社会をどう変革するか、理想の社会を構築するためには、どのような実践行動が必要かを考えよ!
 その大局観に立った一切の振る舞いであってほしい」
 青年こそ、理想の社会建設の先頭に立ってもらいたい。
 勇んで現実社会の真っただ中に飛び込み、泥まみれになって民衆のため、地域のために尽くし抜くことだ。
 ここに日蓮仏法の魂もある。

● 思想の乱れが社会の乱れに
 一、大聖人が「立正安国論」を御執筆された当時、大地震や飢饉、疫病などが続き、民衆は塗炭の苦しみを味わっていた。
 大聖人は、その原因について、こう喝破されている。
 「世の中は上下万民あげて正法に背き、人々は皆悪法に帰している。それゆえ、守護すべき善神はことごとく国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して他の所へ行ったまま帰ってこない。
 そのために善神、聖人に代わって、魔神、鬼神が来て、災《わざわ》いが起こり、難が起こるのである。じつにこのことは、声を大にして言わなければならないことであり、恐れなくてはならないことである」(同十七㌻、通解)
 人々は正法に背き、誤った教えを拠り所としている。こうした思想・哲学の乱れが、世の中の乱れの元凶であるとの仰せである。
 国といい、社会といっても、その根本は人間である。人間の行動を決めるのは思想であり、哲学だ。宗教である。
 民衆が、何を規範とし、何を求めて生きるのか。それによって、社会のあり方は大きく変わってくる。
 だからこそ、民衆一人一人が確固たる哲学を持つことが重要なのだ。
 私たちの広宣流布の運動は即、立正安国の戦いなのである。

 一、大聖人は御断言された。
 「結句は勝負を決せざらん外《ほか》は此の災難止み難《がた》かるべし」(同998㌻)
 仏法は「勝負」である。正義が勝ち、正法が興隆してこそ、真の平和と繁栄の実現もあるのである。
 人生も戦いだ。真剣に祈り、努力し、行動し抜いてこそ、勝利の結果が生まれる。
 私たちは信念の行動で、誠実の対話で、すべてに勝ちゆく一人一人でありたい。

● 共生と調和へ対話を推進
 一、国主諫暁を断行されたことで、大聖人は国家権力から厳しい迫害を受けた。
 大聖人は、なぜ大難を覚悟の上で、「立正安国論」を著されたのか。
 「安国論御勘由来」には、その理由について「ただひとえに国のため、法のため、人のためであって、自分の身のために言うのではない」(同35㌻、通解)と綴られている。
 仏法のため、平和のため、民衆のために正義を断じて叫びきらねばならない。これが御本仏の御覚悟であられた。
 戸田先生は訴えておられた。
 「日蓮大聖人は、首の座にのぼっても、佐渡の雪の中で凍えても、“われ日本の柱となるのだ! 眼目となるのだ! 大船となるのだ!”と仰せになられた。そして、民衆のために、あれほど戦われたではないか!
 我々も、強い自分に立ち返って、体当たりで戦うことだ!」
 学会は大聖人の仏法を根幹として、全世界に平和と教育と文化の連帯を大きく広げてきた。「人間革命」の哲学を掲げて全民衆の幸福の実現を目指すとともに、共生と調和の社会の実現を願い、「文明間対話」を地球規模で推進してきた。
 御書には「智者は、世間の法と別のところに仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心得ている人を、智者というのである」(1466㌻、通解)と仰せである。
 現実の社会の中で、仏法の智慧を発揮し、貢献していく。そうであってこそ、真に“生きた宗教”として輝いていくことができるのである。
 今、SGIの人類貢献の活動に、各国の指導者や識者からも多大な賞讃が寄せられている。
 日蓮大聖人の仰せのままに、大聖人に直結して前進する我ら創価学会は、世界の「平和の柱」である。
 青年の「教育の眼目」である。
 人類の「文化の大船」である。
 この深き誇りと確信を胸に、威風も堂々と進みたい(大拍手)。

● 皆を喜ばせるのが真のリーダー
 一、戸田先生は、こうも叫ばれた。
 「リーダーは、先頭に立て! 同志の方々の模範となるべきだ。
 皆が安心し、皆に喜んでもらえるような存在に、断じて、なっていきなさい」
 皆のおかげで、リーダーがいる。
 皆のために、リーダーはいる。
 これが戸田先生の大精神であった。
 リーダーが最前線に立つのだ。それが正しい。当然のことだ。
 同志は皆、雨の日も、雪の日も、寒い中でも、一生懸命、広宣流布のために戦ってくれている。
 リーダーは心から感謝し、誰よりも真剣に行動するのだ。
 そうすれば、皆も、うれしい。「ああ、来てくれた」と喜びが広がる。
 それとは反対に、号令だけかけて、自分は動かない。立場にあぐらをかいて、ふんぞり返る──そんな増上慢の人間が出てきたら、学会はどうなるか。
 私は、将来のために語り残しておきたい。
 誰よりもリーダー自身が、人間の中へ飛び込んでいくことだ。
 「あの人の戦う姿に勇気をもらった」「あの励ましのおかげで頑張れた」──そう思ってもらえるくらい、同志のために尽くし抜いていく。その振る舞いが、永遠に光っていくのである。
 広布の人生に引退はない。最後の一瞬まで戦い、立派に総仕上げしていくのだ。
 どんな立場になっても、同志を尊敬し、後輩をほめ讃えながら、自分は“一兵卒”の気概で、尊き和合を護り抜くのである。
 決して威張ったり、利己主義に陥ってはならない。自己には厳しく、人には温かく。皆に信頼され、頼りにされる存在であってもらいたい。

● 正義の師子の風格を持て!
 一、戸田先生は壮年リーダーの奮起を願って語られた。
 「正義の師子の風格を持て! その頼もしき姿に、皆がついてくるのだ」
 黄金柱の壮年部が、今こそ立ち上がる時である。
 たとえ年配になっても、二十五歳の青年の心意気で、この一生を生き抜いていただきたい!  〈会場から「ハイ!」と返事が〉
 断じて心まで老いてはならない。若々しい心を燃やさなければ、何事も勝てるはずがないからだ。
 また戸田先生は、婦人部と女子部の友を励まして言われた。
 「広宣流布の旗を持って、立ち上がれ! 永遠の生命から見れば、苦しい時期というのは、瞬間のようなものである。最後まで、しっかり頑張りきってごらん。必ず結果が出るよ」
 深い意味が込められた言葉だ。
 同志の皆様の中には、ご家族が病気の方もいるでしょう。この不況で経済的に大変な方がいることも、よくうかがっています。
 壁にぶつかった時こそ、信心で立つのだ。題目をあげぬき、決して負けてはいけない。
 「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。
 私は、一切が、希望の方向へ、幸福の方向へ、勝利の方向へ行くようにと、毎日、真剣に祈っている。
 どうか勇気ある信心で、苦難を乗り越えていただきたい!
 ニュージーランド出身の女性作家マンスフイールド。彼女は、ちょうど女子部の皆さんと同じ青春時代に、こう綴っている。
 「困難を征服している時以外に私が幸福になれる時があろうか? 決してない」(佐野英一訳『文学する日記(全訳)』建設社。現代表記に改めた)
 困難がないことが幸福なのではない。
 困難に打ち勝つなかに幸福があるのだ。
 女子部の皆さんは、いかなる悩みも乗り越えて、一人ももれなく、世界一の幸福王女になっていただきたいのです。
 頼むよ!〈会場から「女子部は必ず勝利してまいります!」との声が〉
 うれしいね。広宣流布に挑みゆく、その心が偉大だ。本当に尊いことです。
 男性陣も、負けずに頑張れ!〈「ハイ!」と元気いっぱいの返事〉

● 心は必ず通じる
 一、戸田先生の指導を拝したい。
 「題目は、真剣勝負で祈れば、必ず功徳となって現れる。
 真剣に祈れば、雑念は消え、広布の戦いで勝つことに集中できるようになるのだ」
 勝つための仏法だ。
 1年365日、強き祈りを根本に、すべてに勝ち抜こう!
 戸田先生は、こうも言われていた。
 「信頼や友好を結ぶのは、簡単なことではない。しかし、人間として、誠実に、人の三倍の努力をすれば、必ず心は通じる。その地道な戦いこそが、最も堅実な勝利の道なのである」
 友情こそ、人生の宝である。自分から心を開いていくのだ。
 気取らず、飾らず、どこまでも誠実に、信頼の心を通わせていくことである。
 ともあれ、日蓮大聖人に連なって、真剣に、妙法を唱えゆく我らには、「無作三身の如来」の生命が滾々とわいてくる。
 「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」(御書759㌻)──ありのままの自分を伸び伸びと輝かせていける。ここに妙法の偉大さがある。

栄光の80周年! さあ きょうも出陣!
時代を動かす対話の大潮流を

● 今いる場所が使命の晴れ舞台
 一、「誰か」ではない。「どこか」でもない。「自分が今いるその場所」が、わが人生の晴れ舞台である。
 自分にしかできない使命の劇を、思う存分、勝ち飾るのだ。
 心に大きな目標を持つ人は、それだけ大きな人生を生きられる。
 自ら決めた目標へ、祈り戦い抜く人は、最後に必ず勝利する。
 「広宣流布」即「世界平和」。
 それが我らの大目的である。
 歴史を開く80周年。
 どうせ戦うならば、日本中がびっくりするような、正義と勇気の大対話運動を巻き起こし、民衆が輝く新時代を開くのだ。
 やってみよう! 対立から調和へ、平和の連帯を大きく広げるのだ。世界を、あっと言わせよう!
 時は来た。大勢の同志もいる。ここで躊躇し、臆しては、後世の人々に笑われる。
 戸田先生は教えてくださった。
 「今は乱世である。非情な戦いが、乱世の原理というものだ。
 ゆえに、我が身を惜しまず、厳しい使命の実現に骨身を削る以外にない。そこに、勝利が開かれる」
 乱世をもチャンスに変えて、強気、強気で進むのだ。
 先生の言葉のままに、私は戦った。一念に億劫の辛労を尽くして、祈り、走った。
 行くところ行くところで、皆が驚くような結果を示し、妙法流布の活路を開いた。飛躍的な拡大は、日本はもとより、世界まで波動を広げた。
 思えば、戸田先生は、愛弟子を、あえて最激戦地に挑ませて、鍛えた。そのたびに、私は敢然と戦い、勝利を報告した。
 先生は「どこに行ったって、大作は何でもやり遂げる」と、本当にうれしそうだった。  師匠の期待に、より以上の結果をもってお応えする。
 これが、真実の弟子の道である。

● 不惜身命の魂を継ぎゆけ
 一、戸田先生の時代も、多くの幹部がいた。しかし、誰よりも先生をお護りし、誰よりも勝利を打ち立てたのは、私である。後世のために、ありのままに語っておきたい。
 先生は心から信頼してくださり、亡くなられる前に、「大作、お前がいたから、よくやってくれたから、俺は栄えある身になれたよ。これからの学会を頼む」と語ってくださった。
 師匠のためなら、何でもやる。すべてに勝つ。これが弟子だ。
 この心が、創価学会という民衆の大幸福城を築き上げたのだ。
 最も過酷な時代にあつて、正義を貫き、殉教された牧口先生。
 ともに投獄され、満身創痍の身で、学会を再建された戸田先生。
 その不惜身命の魂を継ぎ、私は広宣流布に立ち上がった。
 苦境の戸田先生を、多くの人が見限り、軽侮《けいぶ》し、恩を仇で返していった時、私は戸田先生!」と叫んで戦った。心黒き増上慢の人間を、清浄な広布の世界から叩き出した。
 後に「俺は、いい弟子をもって、幸せだったよ、大作」と喜んでくださった先生。
 病弱だった私の身を案じて、「大作、長生きしてくれ」と叫び、人目もはばからず慟哭された先生。
 「なんとか長生きしてもらわないといけない」と、先生は、私ために祈ってくださった。
 本当にありがたい師匠であった。
 先生亡き後も、弘教の上げ潮をつくり、あらゆる基盤を整え、五大州に道を開いた。
 世界も、心配ありません──今、私は、こう胸を張って、先生にご報告することができる(大拍手)。

● 五十年後、百年後の同志の模範に
 一、風が吹けば、波が立つ。正義を叫べば、反発も起こる。
 御書に「風大なれば波大なり」(909㌻)と仰せの通り、これからも、大仏法を弘めれば必ず難が競うだろう。
 それは、正義のゆえであり、時代が変わる兆しなのだ。
 戦おう! 断じて勝つのだ。
 頑張ろう! 今の皆さん方の真剣な行動が、後世の教科書になっていく。
 創立80周年のこの時に、皆がどう戦ったのかを、五十年後、百年後の同志が学ぶ。そういう時代が必ず来るのだ。
 脚光を浴びない舞台で、誰が見ていなくとも、黙々と、わが使命を果たしてくれている友もいる。
 しかし、全部が仏道修行である。仏法には一切無駄はない。
 かつて戸田先生は、「水滸会」の野外訓練で、キャンプファイアを囲みながら、こう語られた。
 「この炎のように、私たちの生命も、燃え上がらせていくのだ。
 学会精神とは、信心の炎を燃え上がらせることなのだ」
 強い祈りと熱い決意で、友を励まし、同志に尽くすのだ。

● 皆様の「勝利」と「健康」を祈る
 一、師とともに戦い、師とともに勝つ。ここに常勝の道がある。
 いかなる時代になろうとも、師弟の魂を叫び抜き、師弟の道に生きるのだ。それが学会の強さである。それでこそ、最高の力が出る。この一点を、永遠に、わが生命に刻みつけていただきたい。
 きょうは長時間、本当にありがとう!
 皆さん方のご家族が健康であるように。そして、一切に勝利していけるように。それを祈って、題目をあげたい。〈ここでSGI会長の導師で、全員で唱題した〉
 ご苦労さま!
 お元気で!
 私は、妻とともに、一生懸命、皆さんの「勝利」と「健康」を祈っています。それぞれの地域の広宣流布は、皆さんにお願いする以外にないからだ。
 地元に帰られましたら、同志の方々に、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。
 青年部、頑張れ! 成長がうれしい。民衆を護るために、偉くなれ! 負けるな!
 皆さん、ありがとう!(大拍手)

 

因位の釈尊!

 投稿者:螺髪  投稿日:2016年10月11日(火)06時48分46秒
   おはようございます。
>日蓮本佛論が日蓮大聖人の遺文のみによって正当化されなければならないわけではない、というのが宮田教授の主張の骨子です。後世の人間が色々考えた結果として、大聖人を本佛として拝する、ということはまったく問題ないだろうというのですね(そもそも法華経を含む大乗経典がA.D.1c 頃の創作であってインド応現の釈尊の直説ではない後世の人間が色々考えた結果だというのと同じ話です)(投稿者:己心の認定本尊   投稿日:2016年10月11日(火)00時05分15秒 )<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57916

 「己心の認定本尊」―「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」(法華初心成仏抄P557)
 の箇所ですね。

 そうですか。「後世の人間が色々考えた結果として、大聖人を本佛として拝する、ということはまったく問題ない」との立場ですか。つまり、日蓮本仏論であると。「因位の釈尊と蓮祖大聖人が法体に於いて同一」としての。

 これは、いよいよ彼の方の論考を待たねばなりません。


 

略語解説(1)

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)06時32分42秒
  『便1』とか『便3』とか『糞タレ勝負パンツ』とか、略語が多く、分かりにくいとの事で解説します。

『便』については、以下から引用しています。

宿坊の掲示板を「便所の落書き」と決めつけ、「今後とも私なりに、≪便所掃除≫
を続けていくつもりである。」(2016/9/21 柳原滋雄コラム日記より一部引用)

自称スーパージャーナリストの論から、便所の落書きを見ている男、宿坊の掲示板が便所の落書きであると認定して卑下しながら監視を続けて興奮して査問・除名を繰り返している者・または関係者を『便所男』と認定しました。

よって、
『便所男No.1』=谷川佳樹(創価村貴族代表)=便1

『便所男No.2』=佐藤ピロシ(自公毒饅頭代表)=便2

『便所男No.3』=琴の弦(多重ハンドルネーム奏者)=便3

『便所虫』=柳原滋雄(命名認定者)=便虫

です。
 

今年の11・18創立記念日には、どのような仕掛けをされマスか?

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)04時41分26秒
編集済
  昨年の11・18創立記念日は、記念行事も会合も記念顕彰もしないで、こっそり



え!! 日蓮世界宗創価学会 発表してるじゃん!?投稿者:九州人
?投稿日:2015年11月17日(火)23時09分48秒
創価学会公式サイトより
会則(1)

池田先生は、創価学会の本地と使命を「日蓮世界宗創価学会」と揮毫されて、創価学会が日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団であることを明示された。
そして、23世紀までの世界広宣流布を展望されるとともに、信濃町を「世界総本部」とする壮大な構想を示され、その実現を代々の会長を中心とする世界の弟子に託された。
http://www.sokanet.jp/info/kaisoku01.html
?


となりました。会則改定を秘かにSOKAネットにて公開して、『日蓮世界宗創価学会』の文言まで組み込む周到さ。
コンサル会社の企図通りであれば、次は本尊購入・本尊入替ですね。どうなんでしようかね。
 

レ・ミゼラブルを読み直す(1)

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)02時34分53秒
編集済
  第一部第二編の七からスタートします。

レ・ミゼラブル(一)p.175

八,海洋と闇夜
海中に一人の男!それはなんぞや!船は止まることをせぬ。風は吹き荒む。暗澹たる船は一つの進路を有し、続航を強いらるる。船は通り過ぎていく。
男の姿は消え、また、すぐに現れる。彼は波間に沈みまた水面に上り来る。
彼は助けを呼び、腕を差し出す。しかも誰もその声を聞かない。船は暴風雨の下に揺られながら自らの運転に意を注ぎ、水夫と乗客との目にはもはや溺るる男の姿は止まらない。彼のあわれなる頭は、広漠たる波間にあってただの一点に過ぎない。

彼は深海のうちに絶望の叫びを投げる。去りゆく船の帆はいかなる幻であるか!彼はそれを見つめ、狂乱したように凝視する。帆は遠ざかり、おぼろげになり、次第に小さくなる。彼は先刻までその船にいたのである。彼は船員の一員であった。他の者とともに甲板を往き来し、空気と日光との分け前を有し、生きたる一人の者であった。が今何が起こったのか。彼はただ足を滑らし、落下した。それで万事終わったのである。

(中略)

おお人類社会の厳酷なる歩み!
進行の途中における多くの人々および魂の喪失!
法律が投げ落とす全てのものの陥る大洋!救助の悲しき消滅!
おお精神上の死!

海、それは刑罰がそれを受けたる者を投ずる社会的の酷薄なる夜である。
海、それは際涯なき悲惨である。

人の魂は、この深淵のうちに流れ込むとき死屍となる。だれかそれを甦らするであろうか。


・・・・・・・・・・・・・・

船とは何の船か?
船員とは誰のことか?

この物語では、主人公のジャン・バルジャンを指していますが、我々に当てはめた場合は?
そのポジショニングによって読み方が変わります。

七,絶望のどん底   でジャン・バルジャンは、社会が作り出した飢えによって法によって裁かれ、文盲で無知であったが故に徒刑場に送られます。四十にして文字を覚え計算の仕方も理解して社会の矛盾を知り始める。そして八でその精神状態を表現しています。
 

11・18創立記念日は、新たな御本尊が認定される日!!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)01時35分45秒
  正反合の論理で導き出されるもの、それは認定本尊。

昨年11・18に教義改変・会則改定、塩漬けにしていた『日蓮世界宗創価学会』の名称をこっそり会則前文に盛り込む。

今年の11・18で、秘密裏に買い込んだ日蓮直筆の本尊に替える。

費用対効果で言えば、会員への販売価格を一万円としても、数十億円の本尊購入金額は安い買い物であり、名実ともに独立教団に成れる。

明年11・18には、便1が、幸福創価村村長となり、封建社会主義創価学会が誕生と言った志向ですかね。
なんとなく、今年も11・18創立記念日祝賀行事をやらない企図が分かりました(-_-)
 

そうなんです!

 投稿者:若く美しいソクラテス  投稿日:2016年10月11日(火)01時08分49秒
編集済
  そうなんです!世界の希望様
不二の弟子とは、師匠と同じ

プラトン=ソクラテス
あえて違いを言えば、より若く美しくなっただけ

つまり外見は違うが心は同じ
「異体同心」の弟子

同心=会員の幸福を祈り願う心
ここが、どこまで師に肉迫しているのか?
その祈りと挑戦が感じられない最高幹部達
現場でも幹部は会員の幸福責任者ということが忘れさられています

誰がやっても、池田先生みたいにはいかない
もっともです
おっしゃる通りです

しかし、会員を先生からお預かりした先生の友と思い、その幸福責任者であると自覚し、祈るならば、師と同じ力(慈悲、智慧)が湧くはずなのです

それが結局、自分の力、福運となるのです
一念に億刧の心労をしていない
だから、相が良くない

そこが問題なんだ!

保身、私利私欲で不二の弟子になれる訳がない
師匠とのあまりの境涯の違い

今日からは「若き美しい山本伸一」を目指す!

寝たきりおじさん様
素晴らしいです
皆の為に!
まさに山本伸一の心です
ありがとうございます!
 

寝たきりオジサン様

 投稿者:同志の歌(正義の師子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)00時53分8秒
  はじめまして、同志の歌といいます。

素晴らしい体験談を紹介してくださり、ありがとうございます。

自分の周りにも、病魔と必死に戦う同志の方々が居ります。

この同志の人達の全快を日々祈らせて、戴いて居ります。

必ず全快させられるように、自分も猛然と祈り切って参ります。

ありがとうございました。

 

己心の認定本尊か~、良い言い方ですね

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)00時48分36秒
編集済
  誰の認定?原田会長の認定(-_-)、便1の認定(-_-)宮田教授の認定(-_-)

各個人の学会員が、認定できる様にすれば、責任は皆さんでーす!誰も責任を負わないし、皆で決めた琴だから、良い琴だと(-_-)

後は、どんどん御本尊も教学も替えて、次いでに経本も毎年御祈念文変えて、販売!!良い感じですね(-_-)

そのうち、己心の認定本尊だから、何を拝んでも学会員であればOK~なんて言わないでしょうね(-_-)
 

この方の拝んでいる本尊は、釈迦牟尼像か?

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月11日(火)00時37分25秒
編集済
  どうも、学会員ではないのでは?


それにしても日寛教学というものは、旧来の創価学会員の思考回路にいかに深く浸透してしまっているかを改めて考えさせられます。

(-_-)(-_-)(-_-)

あのね、創価学会会員の自宅に安置している御本尊は、誰が書写したものなのですか?寛師じゃないの?これを毎日、拝んでいるんじゃないの?それとも、 自分で書いた本尊を拝んでいるのですか?わけわからない論ですよ。達師の本尊も、大誓堂の応師の本尊も同じですよ。どうするの?全部否定して東向いて勤行しているのですかね。

便1にでも本尊書いてもらいたいのか?釈迦牟尼像を拝みたいのか?どうなんでしょうかね(-_-)

それとも、寛師の本尊拝みながら、所破所用で目をつぶって、見ないようにして題目唱えているとか(-_-)(-_-)(-_-)
 

ありがとうございます

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月11日(火)00時32分48秒
  レスをくださった皆様、とても励みになります。
ありがとうございます!

おかげさまで体調はすこぶる良いです!
これは皆様と命を合わせて題目をあげてる功徳だと
確信します!

少しでも池田先生を求める方々の力になれれば
大歓喜です!今後ともよろしくお願いいたします。
 

宮田教授と日蓮本佛論

 投稿者:己心の認定本尊  投稿日:2016年10月11日(火)00時05分15秒
  教学部の中にいた須田さんがこれまでの教学との整合性・連続性を重視するのは当然だと思いますし、あくまでも教学部の外部の人間である宮田教授は随分と気楽に教学の改定を打ち上げるなあ、と思います。須田さんが宮田教授を批判するのもむべなるかな、ですね。なので、宮田教授を庇い立てする義理もないのですが、少しだけ。

> 宮田教授は御本尊様の賛文を削除すべきと主張しています。

そうなんですか? 賛文のある曼荼羅を複製する際に画像加工でもして削除するということなんでしょうか(個人的には変造みたいなものでいい気分はしませんね)。いずれにせよ、そもそも大石寺にある戒壇板本尊には「有供養者~」の賛文はもともとありません(だからそれを「書写」した曼荼羅に賛文があること自体が本来は奇妙な話でもあります)。日蓮大聖人の直筆の曼荼羅で「有供養者~」の賛文が書かれたのは弘安元年八月から弘安二年十月までです。戒壇板本尊を弘安二年十月のものだとするならば、熱原の法難をきっかけに、大聖人はこの賛文を書くことをきっぱりやめられたわけです。現罰を強調する傾向にある日興上人はこの賛文を好まれましたし、日蓮正宗の曼荼羅書写相伝にもこの賛文を書き入れるよう指示がありますが、日興上人より日蓮大聖人の意を汲むべきだ、という立場はありうると思います。

> 宮田教授は日蓮本仏論に否定的です。

日本宗教学会での報告?について言えば、宮田教授の立場はそういうものではありませんよ。宮田教授は、偽書を排除して日蓮大聖人自身の遺文に基づく限り、日蓮本佛論は成立せず、大聖人自身が自身を本佛であるとは考えていなかった、とするわけです。ただ、日蓮本佛論が日蓮大聖人の遺文のみによって正当化されなければならないわけではない、というのが宮田教授の主張の骨子です。後世の人間が色々考えた結果として、大聖人を本佛として拝する、ということはまったく問題ないだろうというのですね(そもそも法華経を含む大乗経典がA.D.1c 頃の創作であってインド応現の釈尊の直説ではない後世の人間が色々考えた結果だというのと同じ話です)。もっとも、宮田教授の言う「凡夫本佛論としての日蓮本佛論」、つまり、名字即、未断惑の凡夫である大聖人を、凡夫の代表として本佛と拝する立場が、創価学会として受け入れられる「日蓮本佛論」の形態なのかどうかはよくわかりません。

なお、日寛教学に言う「日蓮本佛論」はもともと、因位の釈尊と蓮祖大聖人が法体に於いて同一であるというもので、釈尊と大聖人は別体の佛ではありません。六巻抄の「末法相応抄」から引用すると:

***
本門の教主釈尊を本尊と為すべし、いわゆる教主釈尊の当体全く是れ十界互具、百界千如、一念三千の大曼荼羅の故なり云云。是れ豈に人法体一を顕わすに非ずや。故に知んぬ、是れ迹中化他の色相の仏身に非ず、応に是れ本地自行の自受用身なるべきなり、本地自行の自受用身とは即ち是れ本因妙の教主釈尊なり。本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり。是れ則ち行位全まったく同じき故なり。
***

普通に考えればこれは創価学会のこれまでの教学(少なくとも一般的な会員の理解)とはだいぶ違うわけです。だから、創価学会の教学が以前は日寛教学に基いていたかどうかすら疑わしいわけで、単に「これまでの教学を守れ!」と叫んで済む話だとは思えません。

思わず長文を書いてしまいましたが、またROMに戻ります。
 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2016年10月10日(月)23時51分29秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
味わいながら題目をあげれました
ありがとうございます
おやすみなさい
 

21世紀の御みやづかい~変容する日本社会と仏法者

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2016年10月10日(月)23時13分57秒
編集済
     《第2回 他人の不幸の上に築く幸福とおぼしきもの(中)》


1.
 学会総世帯数300万達成の翌・昭和38年(1963)に公開された黒澤明監督の映画『天国と地獄』。
 製靴会社の常務(演;三船敏郎)のもとへ息子を誘拐したとの電話が入り、すぐさま間違えて息子の代わりに住み込み運転手の息子が攫われたことが分かるが、犯人はそのまま常務に身代金を要求する。理由があって逡巡する常務だがあることをきっかけに身代金を支払う決意をし、警察捜査陣と連携して誘拐犯と対峙することになるが――。
 息詰まる攻防戦の末に逮捕される誘拐犯(演;山崎努)。犯行の過程で重ねた余罪により裁判で死刑が確定した彼は常務との面会を希望し、映画の最後、拘置所にて対面する。極貧家庭に生まれ育ち、長じてなお生活の困窮にあえぐ研修医だった死刑囚は、寓居するボロ・アパートの三畳間の窓から見える「丘の上に建つ豪邸」で裕福な生活を送る何の面識もない常務への嫉妬と憎悪が犯行の動機だと語り、哄笑とともに己の境遇を呪う。。

 ・・・子供のころから地上波なりCS放送なりで5,6回ほどテレビ視聴してきたが、だいぶ大人になってから観ていつも一番訝しく思ったのは、誘拐犯が嫉妬と羨望のまなざしを向けていたという丘の上に建つ常務宅。
 紙幅の関係で詳述は避けるが「へっっ? こんなんが豪邸??」と脱力してしまいそうな、外観も内装もハウスメーカーのカタログに出てくるような型通りの注文住宅にしか、平成も押し迫った現在の視点からでは感じられないのである。半世紀も昔の映画でしかも細部の雰囲気が掴みがたいモノクロ映像という前提があるにせよだ。
 だがしかし、昭和38年という時代状況を鑑みるに、その後の東京五輪(1964)、大阪万博(1970)といった国民的イベントを通過する中で振りまかれていった“一億総中流幻想”に毒される前のこの国に厳然とあった階層社会の問題点、絶対的な貧富の差が生み出す富める者への強烈なルサンチマンを、正面からなおかつ説明調にならずに描き切った本作は、巧みなストーリーテリングとともに時代の雰囲気も活写する高い史料的価値をも有するのではないかと改めて思うのである。
 すなわち世帯数300万を突破し、公明党結党を目睫にひかえて日本社会を席巻する一大勢力となった創価学会。その会員一人ひとりが置かれた学会発展期の時代様相を、みずから活動に励む日々の中でどのように見つめていたかを知る手掛かりのひとつになろうかと筆者は着目し、今後も折に触れて鑑賞の機会を持とうと思う。

2.
 ともすれば若い時の貧乏自慢に傾きがちな信仰体験談。老齢の自分の一進一退を続ける病状報告で時間を費やす“幹部指導”――。
 座談会やその他各種会合でも参加者の高齢化が進み、内向きで己の過去に重心をおく内容の話がどうしても多くなってくる。現在進行形で得ていく功徳や信心の確信を語る姿勢が大事ではあるが、普段あまり会合参加されない会員からも、また日頃熱心な下種を受けている外部の新来者などからも、「一難去って、また一難」ふうのカタルシスが覚束ない印象の体験談をよく聞かされる、との声が筆者の耳にも多々入る。
 「宿命転換、境涯革命の道のりにゴールはない。絶えざる試練に打ち勝ち、何があっても崩れざる境涯を築くための信心」・・・と、願兼於業を教科書通りの語り口でもってしても頭だけでは誰も理解かなわぬは承知で、結局は個人個人の実証を示す姿をもって回答に代えるしかない。
 ともあれ「貧乏人と病人の集まり」と蔑まれていた半世紀以上の昔から時を経て、やはり今も貧・病・争の克服が現場学会員の最大のテーマであることには変わりない・・・と、一面から見ればそう言えなくはないが、もう少し掘り下げて考えてみよう。

    ↓例えば、戸田会長逝去の前年、参謀室長時代の池田先生の以下のような指導。

  ~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~

  「広宣流布の時には参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少くとも十万や二十万
  入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おう
  じゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布出来やしませんよ。一つ天下
  取るまで諸君は大事な体だから、うんと修行して行きなさいよ」

          (聖教新聞:昭和32年9月6日/吉田司『新宗教の精神構造』p225より抜粋)

  ~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~

 上記の箇所、実は昔から主に批判的な論調で書かれた学会関連本に幾度となく引用され、著者が主張するところの池田先生の“俗物性”を示す傍証にされてきたものだが、国会議事堂はもとよりプリンスホテルも帝国ホテルも利用したことのない(中に入ったことがない)筆者にはどれほどのありがたみ、ステータス性があるかピンとこない。十万二十万も入る財布など持ち歩くに不便と思うし、正装のスーツなども(牙城会・王城会の着任用も含め)若い頃から「洋服の青山」でセール売りを狙った一括払いで購入している。内容から男子部に向けられた指導だと思われるが、約60年前の若者にどれだけ鼓舞する威力があったか、この文言だけでは想像が難しい。

 だが、この6年後に公開された映画の中で、エアコンはおろか扇風機もない蒸し暑くむさ苦しいアパート一室の窓からはるか遠くにそびえ立つ「丘の上の豪邸」に嫉妬と羨望のまなざしを向ける貧しき研修医と、当時の青年部の大半が紙一重の境遇で生活の困窮にあえいでいたこと。ひとつ間違えれば取り返しのつかない大罪を犯す危うさを心の奥に沈めて懸命に日々の学会活動に取り組んでいた歴史の事実に、共感共苦とはおこがましいまでも、新たな格差化が進む21世紀の今を生きる者の一人として思いを馳せることは出来る。

 問題は、貧病争に打ち勝つ経済革命・境涯革命に邁進する若者たちを、利用価値の有る無しで推し量る邪智の者どもが早くからいたこと。。

3.
 前回も触れたように、草創期学会員それも青年男女の大多数を占めたのが、地方の農家などから工業化の伸展に伴い都市部に流入してきた人たち。村落共同体の基礎的人間関係から切り離され、周囲の知己も限られる中で徒手空拳、都市生活に適応する努力を各々強いられている状況下に仏縁を得た若者たちである。男女の別なく入会後も殆どが長らくその日暮らしで身を持ちこたえる中、戸田先生・池田先生の薫陶を受けて一人ひとり己が使命を覚知していった。
 高級レストランで挙行された華陽会結成式(昭和27年10月21日)において戸田先生は選抜された20名の女子部員たちにナイフとフォークの使い方から教えなければならなかった。

   ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~

    戸田は洋食のマナーから教えなければならなかった。
    当時の世情は、まだ一般庶民には生活の余裕はほとんどない。筍(たけのこ)生活をやっと
   切り抜けたばかりのところだった。生活の不如意(ふにょい)は、なお続いていた。それだけに
   戸田との晴れがましい会食は、若い娘たちにとって夢みるような華やいだものと映ったにちがい
   ない。だが戸田は、愛すべき若雛の娘たちに、生活の潤いを与えたかったのである。

                             (人間革命・第7巻 『翼の下』)

   ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~

 男女の区別なく都会暮らしの流儀をまず形から、外面的なところから身につけなければならない。公共の場でのエチケットやマナーもその意味することを掘り下げる前に、とにかく見よう見まねで体裁を取り繕うところから始めていく。
 民音結成まもない頃、サンダルばきにパンと牛乳持参でクラシックの演奏会などに赴く学会員を嘲弄する向きが世間にあったが、そんなTPOを弁える余裕もなく毎日懸命に目の前の仕事をこなさないといけない現実がある。
 いきおい現場での指導内容も今日明日の暮らしのやりくりに焦点を当てたものになる。

 「政治や社会の動向を気にする前に、今は自分に与えられた仕事(課題)に全力投球しなさい」

 ・・・確かにその通りと言えるが、若いうちから自分自身の課題に専念するあまり、周囲の限られた人間関係の範囲を超えた社会全般への観察力や想像力が欠如する恐れもはらんでくるのではないか?

 さらには、繰り返すが早い段階で村落共同体の基礎的人間関係から切り離され、タコ壺のような無記名の都市生活に放り込まれた結果、自立した個人の概念を育む期間をついに持たないまま、学会組織であれ勤務先の会社であれ、単純な上下関係に身を置くしか他人との遇し方を知らない人も多くいたのではないかと考える。
 こうなると何かに所属するという行為が、従属や隷属と同義になってしまう。タテ線・ヨコ線関係なく一方的な命令系統を貫く親分子分の関係性が早くから学会にはびこっていたのは周知の事実で、多くの場合、日本特有のムラ社会の形態をそのまま無意識に都会へ持ち込み再現させた結果だとされている。
 内実はどうであれ、平等なはずの仏子の世界に支配・被支配の歪んだ関係が生じてくる。会員個人個人は所属する組織が内包する矛盾、危険性の高い問題に正面から取り組むよりも、まずは自分の目の前の仕事や課題に意識が向いているから(向かわされているから)結局は諸個人の解釈に委ねられ、民主的な議論を生み出す風土が一部の例外を除いて学会組織内に形作られてこない。

 個人がそれぞれの生活の場で「実証」を示すのが第一の眼目になると、集団全体が抱える問題にことさら口を差し挟む行為が異端視される。
 貧病争の克服が信心を深める動機ではなく、それ自体が目的のすべてになってしまう。他に目が向くのを避けてひたすら個人レベルでの課題克服の祈りと活動に専心させられるあいだは、組織の性格や指導性・方向性に自分が置かれている苦境の原因の一端があるとの主張は絶対に許されず、何かあれば「信心で受け止めよ」「信心で乗り越えろ」と体のいい決まり文句で自己責任を強いられる。

 そのようにして地域を問わず学会組織のタコ壺化が進む一方で、300万から500万、750万と急伸長する会員数に頼って現場の苦悩をも己が権勢の拡大に利用し奢侈な生活に耽る食法餓鬼の一群も形成されていった。
 五代会長も現・六代会長も、大学卒業後に一般企業の勤務経験を持たずに「職員」の身分で一宗教法人に寄生して今日に至る経歴であるのをよくよく吟味しなければならない。。

///////////
予定より投稿遅くなりました。次回は、、、なんとか今週中。





 
 

同盟題目23時開始です。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年10月10日(月)22時58分30秒
  任意参加です。よろしくお願い致します。
池田先生のご健康を祈ります。

ps
寝たきりオジサン様
素晴らしい体験談の投稿をありがとうございます。
毎日しっかりお題目をあげている方は、何かしら光るものがあります。投稿の内容から伝わってきますね。
今後ともよろしくお願いします。
 

どんどん教学変えて、どんどん御本尊も替えていけば収入増で創価村は安泰だ!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月10日(月)22時18分41秒
編集済
  コンサル会社のまわし者ですね。
書籍販売、墓石販売、本尊販売に拍車がかかる。こんな楽な商売はありません。

我々、現場組織の学会員は、日蓮正宗が全部悪だとは思っていませんよ。日本共産党もね。創価村貴族社会の面々が、内向きに彼らとの対話も交流も断絶して、学会員を手駒の様に扱い、愚かにしていく事に危惧しています。

現場で動き、対話している者は、それがホッケであろうが、坊さんであろうが、日共党員であろうが、皆、友人なのです。それが広宣流布ではないですか?何を考えてマスをかいているのか?さっぱり分かりません。

現場流に言えば、ダメな学会サイコ患部も、強欲で勤行もろくにしない坊主もいらないの。
 

宮田教授と須田論文②

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2016年10月10日(月)22時07分46秒
編集済
  信濃町のネット対策チームの対策です。

一般会員さんから見て創価大学の教授はどのような人間だと想像しますか?

①池田先生の思想を一般会員よりも熟知している
②池田先生の思想を学生に教えている。
③信心が強情である。

このように思われます。

しかし仏法の方程式通り、創価大学の宮田教授は池田先生の思想を破壊しています。

宮田教授は御本尊様の賛文を削除すべきと主張しています。
宮田教授は日蓮本仏論に否定的です。
その他、たくさんの池田先生の教学を否定する主張をしています。

以前にも書き込みさせていただきましたが、師匠が弘めなかった法門を弘めると言うことは、「師匠を越える存在」だと言うことです。
これは仏法の眼からまた歴史から見ますと、外道の所業です。

皆様は、身近な幹部や創価学会職員に質問してください。
なぜ創価大学の宮田教授が池田先生の弘めていない法門(本尊の賛文不要論・本門本尊の変更など)を主張していることについてです。

また宮田教授がこのような主張をした場に原田会長が居合わせていたことについてです。

そうそう、この掲示板について毎日のように日記で批判している「プロの執筆家」であり「信仰者」である柳原滋雄氏にも回答してもらいたいです。
まさか波田地氏や田口氏も師匠が弘めていない法門を弘めたと記事に書くのでしょうか?

 

寝たきりおじさん様

 投稿者:いいぐるメール  投稿日:2016年10月10日(月)21時49分30秒
  素晴らしい体験の投稿、大変にありがとうございました。
題目を上げる姿勢が引き締まりました。
忘れかけていた大切なものを思い出させて頂いた気分です。

地区リーダーみつる様

誰が何を考え主張しようと自由ですが…
日蓮本仏論、日寛教学を信じた三代の会長が創って来た
創価学会です。教学が間違っていたのであれば
何故これ程の大発展が成され寝たきりおじさん様が投稿なさった
ような現証が現れるのでしょうか?日蓮仏法は生活法であり
現証を持って判別するのが一番わかりやすいと考えますが
日蓮本仏論が間違いであるとの御確信を持っての投稿
と思われますので教義を変えて祈り実践した結果、現証が
上記の体験や現証より優れていたと言う体験を
御教示頂ければ幸いです。
 

宮田教授と須田論文

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2016年10月10日(月)21時44分58秒
編集済
  信濃町のネット対策チームの対策です。

池田先生の教学は日蓮本仏論であります。
また日寛教学を現代的に展開されました。

私たち池田門下は池田先生の教学を学び残す使命があります。

仏法の方程式通り、師匠の仏法を破壊する外道が現れました。

伝教大師には慈覚大師
日蓮大聖人には五老僧
池田先生には、秋谷元会長、原田会長、宮田教授

外道の行動に共通点があります。

①師匠が御健在の時には従順
具体的には高僧である。
②師匠がお元気でなくなると己義を言う。
具体的には師匠が弘めていない教学を主張する。
③慢心が強い
具体的には師匠も知らない法門があると主張する。
宮田教授の主張がその通りです。

このような外道が出現することは仏法の方程式です。
このような外道が現れた時こそ本物の弟子が立つ時です。
日興上人のようにです。

以下、以前に私が書き込みさせていただいた内容を再掲載させていただきます。

日興上人は師匠・日蓮大聖人の「在世」に日蓮大聖人以上に「宗教的独自性」を進めるような行動は取りましたか?

答えはNOです。
御書のどこを拝読しても日興上人のお手紙を拝しても、そのようなことはありません。

聖教新聞2月23日掲載の原田会長を中心とした面々の座談会で、原田会長は会則変更について「学会の宗教的独自性が一層鮮明に云々」と発言しています。

今は、師匠・池田先生の「在世」です。

皆様このこと分かりますよね?

師匠・池田先生の思想は同時中継で皆様に御指導されている時点で「宗教的独自性は鮮明になっている」のです。宗門にも勝利宣言をされ、これからの広宣流布の方法も総て御指導されています。

何度も確認ですが、今は池田先生の「在世」です。

原田会長や谷川副会長、森中教学部長、杉本婦人部長、竹岡男子部長、吉井女子部長が、鮮明にすることなど何一つないのです。

原田会長もその他の面々も師匠・池田先生の弟子ですよね?
であるならば、師匠・池田先生以上に「宗教的独自性を鮮明」にする立場ではないのです。

職員、外郭職員の皆さんどう思いますか?

もしも違うと思う文証があるなら提示して下さい。

原田会長を守る職員が、一部の信濃町のネット対策チームだけでは、やはり正しくないと言う証明になりますよ。
また、会則変更に反対の職員は声をあげないことは、宗門の坊主と一緒の生命ですよ。

続きは次回に書きます
 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 6/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時32分59秒
編集済
  「法」偏重の小乗仏教 

ー神格化される仏 非人間化する仏教ー

斉藤: (略)釈尊の滅後は、どうしても「法」が根本になります。ならざるを得ません。「法」それ自体を直接、師としていくしかない。

名誉会長:そう。だから、釈尊滅後、仏弟子たちの修行は、この「永遠の法」即「永遠の仏陀」をどう感得するか - この一点に集中していくこ

とになるのです。 釈尊亡き後、直弟子やその流れを汲む出家僧たちを中心として、いわゆる小乗仏教教団が形成されていく。おそらく当初

は、釈尊の遺した教えに基づいて、自己を厳しく律する修行が真剣に続けられていったことでしょう。 しかし、時とともにその精神は次第に

失われていった。釈尊の悟った「法」即「仏」を自己の内に見るという本義を離れて、釈尊一人を、自分たちとは違う存在と見なす傾向が生

み出されていったのではなかろうか。 人間・釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏陀」を自ら体得するという戦いが、いつしか忘れさられ

ていったのです。大ざっぱな言い方だが、本質は、そういうことになるのではないだろうか。

斉藤: 現実に「仏」と触れ合うことができないために、時を経るにつれて、“偉大な仏”という観念だけが独り歩きをしてしまった。仏の悟り

を得たのは釈尊一人であって、我々は仏にはなれっこないのだ - と。

遠藤: 目指す悟りは、声聞の最高の悟り(阿羅漢果)であり、仏の境涯には到底なれないとしたのですね。

須田: 戒律も次第に煩瑣になっていきました。教団を維持するという要請から、僧侶たちが寺院を神秘化したり、聖職者を権威づける教え

をあえて説いたという事実も指摘されています。こうしたことが相まって、ますます衆生には到達できない高みへと仏を祭り上げてしまったわ

けですね。

・・続きは明日です・・
 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 5/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時30分6秒
編集済
  釈尊在世

ー釈尊(仏)を通して、仏の師である(法)に肉薄ー

名誉会長:(略)永遠の「如来」の生命力が、瞬間瞬間、生命の深みから、わきあがってきていたのでしょう。 「人間・釈尊」からにじみ出

る、その大境涯に感動して、五人の比丘は仏道に入った。釈尊という「人」を通して、永遠の「法」に触れたのです。釈尊の在世には、こうい

う師弟の人格的交流が可能だった。

以下の弟子達と釈尊の交流を紹介:?<かつての修行仲間であった五人の比丘:“釈尊は苦行から退転した者”として軽蔑してた。しかし、実際に

会うと、釈尊の否定しようのない「人格の輝き」に打たれて、釈尊に帰依した>?<アングリマーラという極悪非道の盗賊:極悪非道の盗賊。

名前の由来は「指の首飾り」。彼は、多くの人を殺し、その指を集めて飾りにし、首からかけていた。その彼が、釈尊の「来れ」の一言で改

心し、帰依。托鉢に出かけた時、恨みを持つ人々から、土や石を投げつけられ、衣を引き裂かれ、血だらけになって、釈尊のもとに戻る。釈

尊は彼を励まして「耐えなさい。耐えて受けることです。汝が受ける幾千年の間、地獄において受ける業の果報を、今、受けているのだからと

(趣意)」>など。

名誉会長: (略) ともあれ、釈尊の教えそのものは、相手によってさまざまだったでしょう。しかし、釈尊との人格的交流によって弟子た

ちは正しい道を歩むことができた。釈尊在世に生きた人々は、現実の釈尊との触れ合いの中で「仏」を生き生きと実感しながら、仏の師であ

る「法」に迫っていったのです。
 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 4/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時27分17秒
編集済
  今までのポイント

■ 釈尊の悟りとは
仏は真理を悟った者という意味で「覚者」とも呼ばれる。?人間・釈尊は何を悟って仏となったのか? 釈尊の悟りとは、?? ◇ 永遠の法? ◇ 永遠

の仏。これら二つは別のものではなく、「釈尊が『永遠の法』を悟ったというのは、イコール『永遠の仏』を自身の内に見た」ということ。?

■ 三世諸仏の師
「釈尊が悟った『永遠の法』即『永遠の仏』は、あらゆる仏が悟った『永遠の大生命』であった」

「過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく『久遠元初の仏』を師として悟ったのです。 それが久遠元初の自受用身であ

り、南無妙法蓮華経如来」

■ 釈尊滅後の実践
「永遠の妙法」を行ずることによって、だれもが、常住此説法の「永遠の仏」を己心に見ることができる。これが釈尊の遺訓の本義釈尊がい

ない滅後には、釈尊自身の「師」を「師」としていけ、私と同じ道を行け - という遺言がそこに込められている。

生死一大事血脈抄に「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死

一大事の血脈とは云うなり」とある。ここで、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」とは、それぞれ「永遠の仏」と「永遠の法」を志

向していると拝される。生死一大事の血脈とは、「永遠の法」を求めていくとき、「凡夫の我が身」を「永遠の仏」と開いていくことができ

ると拝される。
 

地区リーダーみつるさん

 投稿者:螺髪  投稿日:2016年10月10日(月)21時27分11秒
編集済
  >そもそも日蓮本仏論は、国内でもほぼ日蓮正宗しか唱えていない、異端中の異端とも言うべき奇妙な教義です。開目抄の極めて飛躍した解釈、日蓮正宗にしか通用しない、ほぼ偽書と仮定している相伝書を根拠とするあたり、対外的な評価は全く得られていません。
ですから須田晴夫氏の論文は、創価学会内部にいかに日蓮正宗の教義が根付いてしまっているかの逆証明みたいなものなんですよね。
宮田氏への反論も学術的に内容が薄っぺらく、これを創価学会教学部の公式見解としてしまうと、信濃町も対外的な評価という意味で、まずいのではないでしょうか(投稿者:地区リーダーみつる   投稿日:2016年10月10日(月)20時34分25秒 )<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57897

 意味深な投稿ですね。単なる反板の投稿ではないのでしょう。かなり漠然とですが、それに近いものを私も感じています。
 世界に向けての仏法の世界流布。日蓮大聖人仏法を核とした池田思想の世界展開。それを考えると、どうしてもそこらあたりの深い哲理に入り込んでいかざるを得ません。世界の識者も池田思想の世界展開は待ち望んんでいるところだと思います。それには、日寛教学を一度(また別の視点で戻ってくるかもしれませんが)、乗り越えなければならないのかとも考えます。

 仏法生命論的には、永遠の生命、久遠の生命といったところが世界にも通用するところですが、そこを強調し過ぎると、それは「法」を主体とした生命論のとらえ方だけに、ともすると、誰もがそのままで「仏」という天台中古思想に堕りかねません。永遠の生命は、永遠の仏と一体となった存在(いわゆる人法一箇)とするのが「池田思想」の違わざる論調(例えば法華経の智慧)ですので、そこらあたりの説明も必要になってくるということなのではないでしょうか。


 

地区リーダーみつるさま、いい琴言いますね!

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月10日(月)21時25分31秒
  その通り、宮田先生に付き従ってどんどん教学(驚愕)改変しませう。御本尊もオカシイです。日蓮正宗法主の本尊止めて、何処からか、日蓮直筆を購入する!日寛上人の本尊もやめる!墓地公園墓石揮毫『妙法』日達上人の墓石も全て廃棄して作り変える。一大事業になります。

皮算用では、墓石作り変えで一基三十万円で墓地購入者に全額負担。御形木本尊一体一万円以上の供養、御護携帯本尊一体五千円以上で、かなり収入になりマス。これを十年計画で実施すれば、財務激減でピーピー言っている創価村は安泰ですマス(-_-)
 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 3/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時23分48秒
編集済
  寿量品の「良医病子の譬え」

~「永遠の妙法」を真剣に求める時、「永遠の仏」に会える ~

須田: (略)「良医病子の譬え」のあらすじはこうです。 良医である父(仏)が、誤って毒薬を飲んで正気を失った子どもたち(衆生)を

救うために、姿を隠し、遠国で自分が死んだと伝えさせる。子どもたちは、父が亡くなった悲しみのなかで正気を取り戻し、父が通していっ

た良薬(法)を服して病気が治る。そこへ父(仏)が帰ってきて、健康になった子どもたちと再会する - と。

遠藤: 「仏は常住不滅であるが、衆生に法を求めさせるための方便として入滅する。衆生が法を信受する時、仏は再び衆生の前に現れるで

あろう」 - これが、この譬えの意味ですね。

名誉会長: その通りです。「永遠の妙法」を行ずることによって、だれもが、常住此説法の「永遠の仏」を己心に見ることができる。これが

釈尊の遺訓の本義と言えるのではないだろうか。その心を、忠実に表現したのが寿量品の「良医病子の譬え」と言ってよい。

須田: 既に語っていただいたように、寿量品は釈尊滅後、なかんずく末法の民衆へのメッセージでした。釈尊がいない滅後には、釈尊自身

の「師」を「師」としていけ、私と同じ道を行け - という遺言がそこに込められているのですね。

遠藤: そうすれば、釈尊がいなくても何も問題はない、と。

須田: 釈尊在世の人々は、釈尊との人格的な交流を通して「永遠の法」を感じ、悟りの道を歩むことができたわけですが、滅後の衆生にと

っては、そうはいかない。ここに寿量品が「滅後のため」と言われる重大な理由があると思います。
 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 2/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時21分41秒
編集済
  ・・師とは「久遠元初の仏」・・

~「法」と「人(仏)」は本来 不可分~

名誉会長: 法と人(仏)は本来、不可分なのです。「如来」というのも「如(真如・真実の世界)からやって来たもの」ということです。

すなわち「如来」とは、真実の「法」が現実の上に表れたのです。宇宙生命に“人”の側面と“法”の側面があり、それが一体なのです。 少し難し

いかもしれないが、大事なところなので、もう少し言っておこう。 釈尊の説法に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る」という言

葉がある。法を体得すれば釈尊に会うことができ、釈尊に会えば法を悟れるという意味です。「我を見る」の「我」とは、根本的には「永遠の

法」と一体となった「永遠の仏」です。 寿量品では、永遠なる「常住此説法(常に此に住して法を説く)」(法華経 p506)の仏身を説く。文

上の法華経では、五百塵点劫以来の「久遠実成の釈尊」のことだが、その指向しているのは無始無終の「久遠元初の仏」です。 釈尊が悟った

「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じ

く「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。 それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。戸田先生は言われた。「日蓮大

聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終わりも

ないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです」と。 無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は

人間のまま仏となったのです。 そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の「永遠の仏」を師として仏になったのだとわか

ったのです。

須田: 法華経方便品にも、総諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏が説いたのは、等しく一仏乗であった、とする「五仏同道」の

思想が見られますね。

名誉会長: ですから、真剣に法を求め、法を行ずることによって、「常住此説法の仏」に必ず会えるのだ、と教えているのです。

http://

 

「法華経の智慧」から学ぶ・寿量品 1/20

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時18分50秒
編集済
  第一節

釈尊と三世十方の諸仏の師

名誉会長: 順を追って考えてみよう。まず、釈尊の教えは、自分が悟った「永遠の法(ダルマ)」を万人に悟らせることに目的があったのだ

ね。釈尊の死後も、その「法」を師とせよと教えた。

須田: はい。師である釈尊に常随給仕していた阿難(アーナンダ)は「仏が亡くなられた後、私たちは何を頼りにして修行していけばいい

のでしょうか」と、釈尊に尋ねています。釈尊は、こう答えています。“アーナンダよ、自らを島とし、自らをたよりとせよ。他人をたよりと

せず、法を島とし、法を依りどころとせよ”と。

遠藤: いわゆる「自帰依・法帰依」とか「自灯明・法灯明」と言われる言葉ですね。

名誉会長: そう。ここで大事なのは、法と仏の関係です。「法」には「教え」という意味も含めて、さまざまな意味があるが、結論を言う

と、釈尊が「法」と呼んでいるものは、実は「永遠の仏」の生命と別のものではない。 「永遠の仏」の法身(法を体とする仏身)のことと考

えられる。少し飛躍した言い方になるが、釈尊が「永遠の法」を悟ったというのは、イコール「永遠の仏」を自身の内に見た、ということと

考えられる。 法華経から見るならば、「法を依りどころとせよ」という教えは、根本的には、「永遠の仏」を師とせよ、との遺言であったの

です。何より釈尊自身が、その「永遠の仏」を師として悟りを開いたのです。(中略) 「心の師」となれということです。私どもで言えば、

信心に生き抜けということです。その自分は「依りどころ」になる。

斉藤: 確かに「法」と「人」との関係には、さまざまな局面がありますが、大聖人は「一生成仏抄」で「己心の外に法ありと思はば全く妙

法にあらず」(御書 p383)と仰せです。法といっても自分の心を離れてはありえないわけです。

続く・・

http://

 

「法華経の智慧」から学ぶ・掲載にあたって(2)

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時15分36秒
  掲載内容について・・

■如来寿量品関連の引用(第一節~第三節)

 第一節「釈尊と三世十方の諸仏の師」

最初に本章の要点を示す。釈尊の悟り(釈尊の師)とは何か?、また、滅後のために「釈尊の師を師とせよ」との遺言を示す。
それは「久遠の法」即「久遠の仏」であり、しかも三世諸仏の本尊でもあることを示す。

 第二節「釈尊滅後・何を師とすべきか」

滅後の仏教界は久遠の仏に迫ろうとしたがその試みは失敗した。大乗仏教でも阿弥陀如来や大日如来などの架空の仏をよりどころとして、神
格化された救済者としての歪んだ仏陀観となったことを示す。そこで、大聖人は仏法に迷う末法の衆生のために、全く新しい本尊(御本尊)
を図顕されたことを示す。

 第三節「人法一箇と真の十界互具」

文上の久遠実成ではなく、文底の久遠元初の本因を明かすと共に、「真の十界互具」「因果倶時」「無始=久遠元初=永遠」「本因妙」の概
念を学ぶ。更に、大聖人が顕された御本尊は、本因である久遠元初の「法」と「仏」を凡夫の身そのままに覚知する御本尊であることを学
ぶ。

■従地涌出品・如来神力品関連の引用(第四節)

 第四節「地涌の菩薩・上行菩薩」

地涌の菩薩の本地(内証は仏)について学んだ後に、上行菩薩も菩薩仏であることを示す。但し、上行菩薩は単に菩薩仏であるというだけでな
く、「因位(仏因の位)の仏」 「因果倶時の仏」であり、「無始無終の久遠の本仏」を指し示していることを学ぶ。更に上行菩薩が所持して
いる「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことであり、「御本尊」であることを学ぶ。そして、上行菩薩こそ、本因妙の教主であり、末法の御本
仏であることを学ぶ。
 

「法華経の智慧」から学ぶ・掲載にあたって

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)21時02分6秒
編集済
  宮田教授の釈迦本仏論なども出てきている昨今、私としても改めて日蓮大聖人の仏法の本義を深く研鑽をしていかなければならないと研鑽。

ちょうど、ある方から「法華経の智慧」の中で語られている「法」と「人:仏」 釈尊滅後の生き方 ・人法一箇・ 御本尊・ 地涌の菩薩・上行菩

薩 ・日蓮大聖人部分をまとめたものを私宛にお送りいただきました。作成者の方から、読了後、よければ、是非、私から国内外の皆様にご紹

介していただければとのことでありましたので、この場所をお借りし分割してご紹介します。

寿量品は全部で(20)、従地涌出品・如来神力品は(15)回に分けて掲載予定。

掲載開始の前に作成された方の作成の意図は以下の通りです。

大聖人は「何故、御本尊を御図顕されようとなされたのか?」また、「御本尊に何を顕そうとされたのか?」。 信行学を実践する学会員にと

って「大聖人の顕された御本尊とは何か?」を考えることは重要です。その答えに迫るためには、大聖人の諸御抄や多くの碩学の著作に学ぶ必

要があります。しかし、ここでは、すこし少しアプローチを変え、90年台後半に池田先生が教学部の三名の方との対談を通し教えて下さった

ご指導(法華経の智慧)を学びつつ、先の問いに迫ってみたいと思います。 当然、「法華経」と言う題材であるため、釈尊を中心に話は展開

されていますが、「釈尊の悟ったものは何であったか」を突き詰めることで、久遠の法と人(仏)を明かし、三世諸仏の本尊、人法一箇など、御

本尊観を考える上で重要な、大聖人の仏法上の基本的な概念を学びたいと思います。自らの生命の中に概念を醸成することは、自らの生命の中

に正しき御本尊観・大聖人観を確立する直道であると信じます。

「法華経の智慧」の「如来寿量品」の中の「発迹顕本 -『人間こそ尊極』と宣言」~「本門の心 - 永遠に続く『絶対的幸福』を確立」、従地涌

出品、如来神力品を主な範囲として、ポイントを絞って資料にしましたが、どうしても断片的な説明になっていますので、どうか、是非、法華

経の智慧の該当する箇所の全文を何度も読んで先生のご指導に肉迫され、自身の中に「御本尊観」「大聖人観」を構築されることを期待して

おります。

・・貼り付け終わり・・

一昨日から掲載したものを、番号をつけ「法華経の智慧から学ぶ」として、続けて連載いたします。


生涯広布&広布一筋
 

須田氏の反論について

 投稿者:妖刀  投稿日:2016年10月10日(月)20時40分47秒
  地区リーダーみつるさん

学術的にも対外的にも通用しないという根拠を示さないと、相手にされないよ。
内容的には創価学会の内部のメンバーにしか通用しない内容とは、どういうところなの?
経文・御書を引いて見事に反論してみたら、偉そうに言う前にさ。

 

須田氏の反論について

 投稿者:地区リーダーみつる  投稿日:2016年10月10日(月)20時34分25秒
  間違いなく須田論文について、学会本部は無視すると思います。そうでなければ須田論文について揉み消しに動くでしょうね。

宮田氏も実際には須田論文については無視をすると思います。

理由は学術的にも対外的にも須田論文が全く通用しないためです。
内容的に創価学会の内部のメンバーにしか通用しない内容ですね。
恐らくは創価学会内部のメンバーの動揺を抑える意味で書かれたと考えられます。

そもそも日蓮本仏論は、国内でもほぼ日蓮正宗しか唱えていない、異端中の異端とも言うべき奇妙な教義です。開目抄の極めて飛躍した解釈、日蓮正宗にしか通用しない、ほぼ偽書と仮定している相伝書を根拠とするあたり、対外的な評価は全く得られていません。


ですから須田晴夫氏の論文は、創価学会内部にいかに日蓮正宗の教義が根付いてしまっているかの逆証明みたいなものなんですよね。
宮田氏への反論も学術的に内容が薄っぺらく、これを創価学会教学部の公式見解としてしまうと、信濃町も対外的な評価という意味で、まずいのではないでしょうか。


恥をかかないためにも、須田氏の一刻も早い論文の取り下げがよいかと思います。
間違いなく学会本部は須田論文について、無視をするか、そうでなければ削除・取り下げに動くはずです。

今後、日蓮本仏論を学会に残すことを須田氏が検討しているのならば、よく宮田氏と話して日蓮正宗の教義からの脱却ということを勘案して論を練り上げるべきでしょう。

それにしても日寛教学というものは、旧来の創価学会員の思考回路にいかに深く浸透してしまっているかを改めて考えさせられます。
 

11・18創立記念日は、どうしたの?

 投稿者:イケディアンの住人(正義の獅子同盟)  投稿日:2016年10月10日(月)19時44分40秒
  現場組織の学会員も違和感一杯の10月本幹・四国総会(-_-)

明年は、世界広布新時代  青年拡大の年~
その次の年は、世界広布新時代  ○○拡大の年、その次も   世界広布新時代  ○○拡大の年と延々と続く虚しいタイトル(-_-)

拡大ではなく、先生が種を植えて花が咲き果実が実った後を刈り取り果実の選別を行い、気に食わない実を捨て去り、後は野焼きの如く草木も生えない荒涼たる人間砂漠に変えていく営為(-_-)

もう、サイテ~ですね。今年の11・18は、コソコソとどんな秘儀をネットで展開されるのでしょうか?昨年同様に、こっそり会則改定、今年はこっそり遷座で、便1が何も予告無しで会長センセになっていたりして(-_-)
 

本部幹部会の先生のメッセージ

 投稿者:匿名希望  投稿日:2016年10月10日(月)19時23分49秒
  原田会長へ

今月の本部幹部会、先生のメッセージは、省略することなく、放映して下さい。

よろしくお願い致します。
 

世界の希望!さん

 投稿者:螺髪  投稿日:2016年10月10日(月)18時55分34秒
編集済
  >しかし、先生の心を体した弟子が先生に代わって書いたとしても、それは大した問題ではないと思った
なぜならば、「先生の心」を感じることが出来たから
先生の年齢を考えた時、また、弟子に任せておられる今、先生が直接1人で書かれているか、どうかはどうでもいい事だと思った
問題は「任された弟子」が「先生の心」を正しく伝えることが出来ているか、どうかだと思った(投稿者:世界の希望!   投稿日:2016年10月10日(月)17時51分49秒 )<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57893

 賛同いたします。潮の「王蒙さん」との対談などは、大半がご自身の手によるものと思われますが、当然、代筆もあるでしょう。「先生の心を感じる言葉かどうか」が基準です。

 いまは、その「感じる」人をどれだけ拡大できるか、そこに焦点を当てるべきだと思っています。どなたかも仰っていましたが、小さな、とるに足りない板(管理人さんに叱られるかな?)です。声高に叫んでどうなるでしょう。“味方”を増やすことだと思います。“なるほど”という賛同者を増やすことだ思います。そこが“敵”も怖い。

 そのために“事実”を糾す。そのために“悪事”を明らめる。そのために“先生の呼吸”を伝える。――ではないでしょうか。


 

先生の心

 投稿者:世界の希望!  投稿日:2016年10月10日(月)17時51分49秒
編集済
  先日、大変親しい友人が亡くなった
先生から真心溢れる弔慰を頂いた
亡くなった友人がもし、生きて先生の弔慰を聞いたならばどれほど喜ぶだろうと思う弔慰だった

故人を知る家族、友人、知人全ての参列者の心を癒し、希望へと頭を上げさせてくれる弔慰だった

最近、この板を読むようになり、ふと思った
弔慰はもしかしたら、先生が書かれていないのかもしれないと

しかし、先生の心を体した弟子が先生に代わって書いたならば、それは大した問題ではないと思った
なぜならば、「先生の心」を感じることが出来たから

先生の年齢を考えた時、また、弟子に任せておられる今、先生が直接1人で書かれているか、どうかはどうでもいい事だと思った

問題は「任された弟子」が「先生の心」を正しく伝えることが出来ているか、どうかだと思った

宿板が言わんとしていることも、そこなのではないか?

先生が弟子に任せて下さり、6年
原田執行部の言動に、運営に「先生の心」が
感じられるかどうか?
そこが問題

教義問題、安保問題、粛清、南米訪問
そういった部分に「先生の心」を感じない行動が見受けられる事を皆さんが指摘されているのだろう

今日の本幹メッセージ
新人間革命
そして、本部幹部会

「先生の心」を感じることが出来るだろうか?

池田先生が求めておられるリーダー
それは「民衆のリーダー」
民衆の中に腕まくりし入り、激励し、希望の光を指し示す人

そんな本物のリーダーが今の学会の最高幹部にいるのだろうか?

本幹に行く度に
「壇上総入れ替え!」との師の叫びがこだまするのは、私だけだろうか?
 

【定期案内】教学部レポートをお読みください!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年10月10日(月)16時53分38秒
  【教義変更の経緯・今の執行部の狂いの元を知る為に】

★☆詳しくはこちらから☆★
http://6027.teacup.com/situation/bbs/56053

【参考】「教学部レポートとは」(英訳あり)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/53571
 

パナマ文書も五輪疑惑も電通も②

 投稿者:感性  投稿日:2016年10月10日(月)16時17分39秒
  >電通事件が載っていない   投稿者:石嵜メール   投稿日:2016年10月10日(月)11時50分49秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57888

聖教や公明の社会部は多分、紙面が足りなくて掲載できなかったと言うのでありましょう。載せたくない事案の不掲載の理由の定番と思われます。よって問い合わせ等は時間の無駄と思います。
ただし、電通といえば付帯とともに党を見ざるをえない出来事もありましたね。併せて公明の
支援の他政党との違いを思えば単なる紙面不足じゃ説明できないと思います。

>党の威光と手弁当支援 ②   投稿者:感性   投稿日:2016年 4月30日(土)21時29分42秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/45488

それにしても公明には言行一致が望まれます。
>ブラック企業見逃すな
https://www.komei.or.jp/news/detail/20150708_17455
>公明推進 3月から ブラック求人お断り
https://www.komei.or.jp/news/detail/20160225_19274
むろん一般論でもありますが政党としての活動は水面上でないと意味はありません。


パワハラはパワハラする側が100%悪い   投稿者:感性   投稿日:2016年10月 9日(日)18時36分10秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57853
パナマ文書も五輪疑惑も電通も   投稿者:感性   投稿日:2016年 5月17日(火)07時35分46秒
http://6027.teacup.com/situation/bbs/46817
 

寝たきりおじさん様

 投稿者:宝冠  投稿日:2016年10月10日(月)15時16分57秒
  感動的な体験、ありがとうございます

「一生涯希望と努力の栄冠の人に」
いい言葉ですね

希望と努力を失わない人
その人の頭上に栄冠という冠が輝いています

反対に今、地位、財を得たとしても希望と努力を忘れた人に栄冠は輝き続けない
かつて頑張ったご褒美で今、輝いても明日は輝きを失っている

かつて、先生の人間革命を手書きで書写した原田会長
会長となった今も、師匠の精神を守るならば、どれほど輝く会長になれたことか!

栄冠輝く人となるか?
朽ち果てた過去の人となるか?
全ては今の「希望と努力」にあると思います

金太郎の飴の如く、いつも、今の一瞬も、希望と努力を馬鹿のように手放さない人生を送ります
人から見たら「馬鹿みたい」と思われる人生で結構、どうぞご自由に思って下さいと思っています

臨終こそ、人生の総決算
最後の栄冠は臨終にありと思っています

今世は
先生と共に、先生の精神を守り、伝え抜く人生を歩めることが出来れば、最高に幸福です
それだけを目指し、努力して行きます

大切な先生の御指導ありがとうございます
 

今週のことば 2016年10月10日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2016年10月10日(月)12時22分18秒
  心の世界に距離はない。
真心の祈りは必ず届く。
「あの友を幸福に!」と
自行化他の題目で
境涯と広布の拡大を!
 

電通事件が載っていない

 投稿者:石嵜メール  投稿日:2016年10月10日(月)11時50分49秒
  若き未来ある電通社員の自殺。残された遺族を思うと胸がはちきれそうになる。

これで2回目の事件。26年前の前回事件に比べ短期間で労災認定された。

とはいえ、これほど生命と人間の尊厳がないがしろにされた事件であるのに、

公明新聞にも聖教紙面にも一言も書かれていない。(見落としであれば失礼)

もう10月10日。充分時間はあったはず。

公明党は何をしているのか。庶民の味方ではないのか。

なぜ聖教は載せないのか。庶民の団体ではないのか。

それなりに役職はあるが、一個人として公明支援はやめようかと思う。
 

女子部 細川亜紀さんの体験談

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月10日(月)10時32分23秒
  《唱題根本で骨肉腫を克服》

私は渋谷区に住む、細川亜紀と申します。現在、大手都市銀行の外為部門に
勤めており、今年で入行12年目になります。
今、私は自分自身が、こんなに元気に過ごせていることが、不思議で
なりません。小学五年生のとき、母の勧めで創価学会に入った私は、
中学一年の冬、突然左足に激痛を感じ、広尾の日赤病院へ行きました。
診断はガンの中でも最も恐ろしいと言われる悪性骨肉腫。

病名を聞いたときはあまりのショックに、
どうしていいのかわかりませんでした。
そんな私を励ましに、同じ骨肉腫を克服した女子部の先輩・法華経の
智慧にも登場した初代スペイン女子部長の小林順子さんが五十数針も
縫った足で、階段を踏みしめながら、4階のわが家までやってきてくれました。
そして「『南無妙法蓮華経は師子孔の如し、いかなる病さはりをなすべきや』
(御書P1124)と日蓮大聖人はおっしゃっている。

どんなに大変な病気でも、この妙法という生命の法理をもって治らない
病気なんてないんだから」と言ったのです。その大確信と、実証を示した姿に
感動し、母娘でお題目に真剣に取り組み始めました。

もちろん、時にはいつまでこの状態が続くのか、と苦しくなるときも
有りましたが、その度に小林さんの言葉を思い出して頑張りました。
するとその後、ガン細胞はレントゲンの度に小さくなり、ある日、
とうとうガン細胞の固まりは消え、そのうえ、ぼろぼろだった骨も
元通りになったのです。これには医師も『信じられない』と驚嘆していました。

《突然の再発・左足切断、師匠の激励》

しかし、それから三年後、その克服した骨肉腫が再発したのです。
再発は恐ろしい痛みで始まりました。もし肺へ転移していれば、
あと半年の命。一度克服したとはいえ、深い谷底に突き落とされた
ような苦しみでした。しかし、私には何より御本尊様があり、
入れ替わり立ち替わりの激励をしてくれる学会員の方々と友人がいました。

医学では助からないと言われても、私には不可能を可能にするこの信心が
あり、御書には、大悪おこれば大善来たるとあるじゃないか、と母と二人で
必死にお題目をあげました。
死ぬか生きるかの、当に真剣勝負の闘いであり、又、恐怖との闘いでも
ありました。

あまりの痛みに声もあげられず、畳をかきむしることもありました。
主治医は「このまま放置すれば、必ず肺へ転移し、患部もどんどん膨れて、
最後には皮膚が裂けて腐ってしまうよ。それならば今のうちに...」と
切断を勧めるのです。

しかし切断しても、殆どの人が亡くなっていきます。それに、“自分の体から
足が一本なくなる、そんなことは絶対に嫌だ”という思いで一杯でした。
しかしその頃、母が毎日十時間のお題目をあげ、喉から血が出たというのです。
私はそんな母を見て“絶対に死んじゃいけない、どんな姿になっても生き抜こう”
と腹を決め、切断を決意したのです。

そんな中、毎週のようにお見舞に来てくれていた高校の担任の先生が、
「自分にできる事は信心して一緒に祈ることしかない」と入信を決意したのです。
聞いてみると私たち親子の確信ある姿に、「この信心には何かあると感じた」
と言うのです。

それから数日後、なんと池田名誉会長から病院の看護婦さんもびっくりする
ような見事な激励の花束と、『早く元気になって下さい。待っています。』
というメッセージを頂いたのです。会った事もない私の事に心を尽くされる
池田先生の慈愛に触れ、私は涙をどう止めていいのか解りませんでした。

昭和五十九年六月一日、私はこの手術、絶対勝ち取って見せると心に決め、
手術台の上へ登りました。意識が戻ったのは夕方で、私は切断特有の痛みも
感じないまま、母の顔を見ました。
「頑張ったね、亜紀ちゃん。」その一言を聞き、私はただ感謝の思いで
一杯になりました。

高校の方は、8カ月の休学で完全に出席日数不足でしたが、先生方の
ご配慮で三年生に進級できました。

《創価大学合格、師匠池田先生のもとへ》

高校に戻ってからも、池田先生の『待っています』というご伝言が脳裏から
離れませんでした。お題目を重ねるうち、それは病気の完治ばかりでなく、
“池田先生が創価大学で私を待っていて下さる”という意味に思えてきました。
その思いを信心している身体障害者の集い《自由グループ》の皆に話したところ、

『亜紀ちゃん、創価大学に行って、私たちの希望となってね』と、私より重い
障害をもちながら生き抜いている人に励まされたのです。
『池田先生のもとへ行こう』と心が決まり、創価大学進学を決意しました。
そして必死に勉強しましたが、それでも、今の進み具合では時間が全く足りない
と気付いたのは天王山といわれる夏休みも終わりのことでした。

丁度その時、私の思いを知っておられたかのように池田先生から、
『一生涯希望と努力の栄冠の人に』という揮毫を頂いたのです。
“どうして先生は、こんなに温かいんだろう”と.....。
再び勇気を吹きこんでいただき、再度、勉強に挑戦し始めました。
我が家は母子家庭のため、金銭面が心配でしたが、『あなたは勉強する人、
私はお金を貯める人』と笑顔で言ってくれる母に支えられました。
そして使命のある所へと祈りに祈り、高校の先生方が全員「不可能だ!」
と言っていた第一志望の創価大学英文学科に合格することができたのです。

大学では美術部に入り、ロビー展示に私の拙い絵を飾って頂いたところ、
思いがけなく、池田先生にお買い上げ頂くことができました。これは先生の
激励以外の何物でもありません。感謝の思いで一杯です。
又、長年の夢も在学中に達成できました。二年生の夏休みに、私は一人で
約一カ月半、ヨーロッパ旅行をして来る事ができ、その際、知り合いの地域の
座談会等に参加し、手伝ってもらいながら、拙い英語で、自分の体験を
話してくることができたのです。又、アメリカに行った際は、ニューヨークの
座談会に参加させて頂き、片言でメンバーと体験を語り合うことができました。

最近は母と毎年1回旅行するのが恒例となり、可哀相に母は
あちこち引き回されています。

《祈りきって、就職・挑戦の日々》

そして、大学四年生となり、今度は就職問題と直面しました。唱題しつつ、
“本当に進みたい道は”と原点に立ち戻ってみました。結局、何よりも
使命のあるところへと進み、早く母に恩返しをしようと決意、決まったのが、
現在勤める銀行だったのです。その銀行は外為専門銀行で普通の銀行とは
少々違っており、実は面接のときまで、私もよく知りませんでした。

しかし内定したとき、大学の就職課に報告に行ったところ、
「えっ、凄いね!!」と驚かれ、「なかなか入れないんだよ」と言われたのです。
私はその時、“今まであげてきたお題目は本当に無駄じやなかったんだ!”
と思いました。

しかし、ここからが私の第2の挑戦の幕明けだったのです。
配属されたのは外国為替の資金取引などを円で決済するセクションです。
周りは優秀な人ばかり。互いに英語で議論しているという恐ろしい光景も
ありました。扱う額も 10億、20億円は当たり前で、自分たちの給与明細の
数字を見たとき、“桁が小さすぎて読めない”という声が上がったほどです。
書類もテレックスも英文で国際電話もかかってきます。

一瞬一瞬が勝負という仕事のスピードに障害者の私が果たしてついていける
のかと食事も喉を通らなくなったこともありました。
そんなときも池田先生のスピーチを何度も読み返し、越えられない坂はないと
自分に言い聞かせながら心を奮い立たせました。

そして上司から「モタモタしないで走れ!」と怒られても「走れません」と
言い返しながら、ひたすら頑張ってきました。
ある時、私が大変多額の支払い漏れを起こしてしてしまい、しかも金曜日の
ことだったため、取引が再開される月曜までの土日を含む3日分の膨大な金利の
損失を被るという状況になったこともありました。金利だけで軽く自分の年収を
越えてしまいます。しかし資金室の方の努力でその金利以上の利益が上がり、
諸天の加護を実感したこともありました。

そして新入社員歓迎会でのダンスや運動会のチアガールまでやらせてもらうなど、
何ら差別を受けず、最近ではすっかり逞しくなった自分を実感しております。
後輩の教育も任され、先生と呼ばれたりしながら、今は明年の欧州通貨統合へ
対応するべく、チームリーダーに任命され、信仰を根本に社会で負けない自分を
作ることができたと感謝の思いで一杯です。

《自己の使命を確信し、師匠と共に》

昨年は10月6日の聖教新間に体験を載せて頂き、又、11月3日の創友会総会に
おいて卒業生代表として、先生のいらっしゃる場で活動報告をさせて頂きました。
自分より凄い創価大学・短大の先輩を差し置いて、一体何を言えるのかと
非常に悩みましたが、結果としてこの厳しい時代において、必死に生きている
ということ、苦しくても負けないということ、ただそれだけのことがどれだけ人に
勇気を与えるのかということを身をもって感じさせて頂きました。

そう考えたとき、私たち自由グループの使命は計り知れないと思わずには
いられません。池田先生のご指導の中に、『仏法では、この世に生を享けた人は、
誰人たりとも使命があると説かれている。今日集まった諸君一人一人にも使命がある。
それは地味であり、派手なものではないかもしれない。
しかし誰人もが偉大な信仰によって、生命の充実と、人生の満足感を味わいながら、
多くの悩める人々に、勇気と希望とを与えて行く、平和の勇者の行進なのである』
とあります。

必ず私には私の使命があると信じ、全力で戦う池田先生の下、今を精一杯生き抜いて
まいります。

2000年5月3日


細川亜紀さんの信仰体験は
シナノ企画 ビデオ NO.116「幸の栄冠」にも
収録されております。

 

生涯広布様

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2016年10月10日(月)10時30分53秒
編集済
  お疲れ様です。昨日からの続きですね。全体はあとどれくらい続くのですか?また、日にちを跨いだ長文分割の投稿は、目的を示すなど、読む側への配慮があるといいですね。

これは宿坊板の課題ですが、展開が早いのと、投稿数が多いので、直ぐに忘れてしまいますから。

例えば、タイトルに【法華経の智慧(寿量品)より、人法一箇(一大秘法)について4/6】
みたいに入れるとか。せっかく良い内容なので読んでもらう為の工夫があると引き立ちます。

>>法華経の智慧(寿量品)より(1)  投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)
投稿日:2016年10月 9日(日)09時47分55秒   通報
ある方が、「法華経の智慧」寿量品(第4巻)元に人法一箇(一大秘法)に関する記述をまとめて送ってくださいましたので、ご紹介します。<<
 

法華経の智慧(寿量品)より(5)

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)10時09分33秒
編集済
  削除・・再掲します・・  

法華経の智慧より

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2016年10月10日(月)10時06分27秒
  名誉会長  スペインの初代の女子部長は、小林順子さんという女性であった。
 彼女は鮮烈な青春を生き、駆け抜けるようにして逝ってしまった。
しかし、その黄金の軌跡は、今なお燦然と輝いています。

〈小林さんは東京・渋谷区の生まれ(一九四九年)。両親が
入信した三カ月後に、順子さんも入信(一九六六年)。
日比谷高校の一年生、十六歳の時であった〉

順子さんは、高等部で「世界広布のお役に立ちたい!」という夢を抱き、
語学も頑張ったようだ。優秀だった。東大を目指していた。

〈病気の家族を介護しながらの受験勉強で、二浪した〉
二十歳の時、思わぬ試練に襲われた。お母さんがガンで亡くなり、
後を追うようにお父さんも病死してしまった。
あっという間に天涯狐独の身になってしまった。

進学どころではなくなった――
私が彼女に会ったのは、その一年後です。夏季講習会だった。
両親の死を語る彼女に、私は言いました。

「そうか。でも君たちの年齢なら、この先、必ず二回経験
しなければならないのが、親の死ということです。それを君は、
皆より少し早く一度に経験してしまっただけのことです。
御本尊様がついているから大丈夫だよ!」と。

彼女は、あるいは慰めてほしかったのかもしれない。しかし
私は率直に、人生の本当の真髄を語ってあげたつもりです。
「本有の生死」です。死は必ずやってくる。その現実から
逃げるのは、仏法ではない。

大聖人は薬王品の経文でさえも、「正確ではない」と
読みかえておられる。「一切の苦、一切の病痛を離れ、
能く一切の生死の縛を解かしめたもう」(法華経六〇二㌻)
の経文です。

斉藤  この「離れる」「解かしめる」というのは煩悩即菩提、
生死即涅槃という法華経の心に背くと言われていますね。
ゆえに大聖人は「離の字をぱ明とよむなり、本門寿量の慧眼開けて
見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたり」(七七三㌻)
と読みかえられた。

「あきらめる」とは「明らかに見る」ということです。
「本来本有の病痛苦悩」である、「本来本有の生死」である、と
明らかに見なければいけないと。

名誉会長 その通りだ。
「生死」といっても、宇宙生命の変化相です。仏の命の現れです。
だから「生死」を嫌うことは、仏の命を嫌うことに通じる。
また生死の苦しみに溺れることも、仏という大生命に遊戯する
身とはいえない。

生の苦しみも、信心を強める糧にする。死の苦しみも信心を強める
糧にする。それが生死即涅槃です。
とはいえ、順子さんは、若き身でつらかったでしょう。
「宮原グループ」という女子部の人材グループの一員になった彼女を、
私はたびたび励ました。

一緒に皆で農場に行って、スイカやトウモロコシを食べたことも
懐かしい。彼女は職場でも、女子部の活動でも、もちまえの
「明るさ」と「粘り強さ」で、目を見張るような結果を出していった。

そして入信からちょうど十年後に、高等部時代からの「夢」を
つかみとって、憧れのスペインに留学できたのです。
〈唱題が一千万遍となった時。着いて二週間で、スペインで初の
支部が結成され、支部結成式で初代の女子部長に任命された〉

彼女は駆けた。草創期のスペインの大地で「カトリックの大地に
題目をしみこませるんだ!」と言って、いつも題目をあげていた。
座談会に行くのに、車で往復十時間というのも、しばしば。
会合から戻ると、明け方まで、御書や大白蓮華を一文一文、
翻訳していった。

順子さんは言っていたという。
「苦労だなんて、とんでもありません。一人のスペイン人が立ち上がる
たびに喜びに変わります。盤石な日本の創価学会しか知らなかった私には、
大変というよりも、草創の苦労を体験できる喜びのほうが
大ぎいのです」と。

そして無我夢中で二年がたった。彼女に再び「試練の弾丸」が襲った。
左ひざに、しこりのようなものがあり、日本に帰国して検査したら、
悪性の腫湯であった。「左足のつけ根から切断しないと、
生命の保証はできない」と。

世界中の時間が止まったようなショックだった。
その時、お母さんの顔が浮かんだ。近隣の人も驚くような美しい
成仏の相で亡くなったお母さんの遺言が、耳もとに蘇った。

「順子には、御本尊様があるじゃないの。あなたのことは、全部、
御本尊様にお願いしたから、まったく心配はないよ……」と。
「そうだ、この時のために、母が命をかけて私に信心を教えて
くれたんじゃないか!」

彼女は意を決して、日本で手術を受けた。
足の切断はまぬかれたが、五十針も縫う大手術。主治医からは
「一生、歩くことは不可能」と告げられた。
しかし彼女は「スペインの同志のために、必ず、もう一度、
歩いてみせる!」と決めたのです。そして病魔と戦った。

〈石のように、まったく動かなかった左足だったが、手術から
数十日後、びくっと親指が動いた。「あっ、動いた!」。
そして何と手術で、えぐり取られたひざの肉が、少しずつ
盛り上がってきた。

リハビリにも執念で取り組み、手術から七カ月後、医師の
「君の体は医学では説明できない」という言葉に送られて、
自分の足で歩いて退院した〉

すさまじい闘争だった。経済的にも、ぎりぎりのところにいた。
それでも彼女は「広宣流布をやるんだ」と命を燃やしていた。
そして再び、自分の足で、スペインの大地に立ったのです。
時に、昭和五十四年(一九七九年)の四月。私が第三代会長の
勇退を発表した月です。彼女は、私の正義を証明するためにも、

「負けてなるものか!」と頑張ったのだという。
その心を私は忘れません。
体力的・金銭的な問題もあって、日本に帰ったが、それからも、
あちらで折伏があると聞けば、飛んで行って体験を語り、
部員さんが悩んでいると聞けば、駆けつけて激励した。
国際部の翻訳グループとしても頑張っていた。

個人折伏も十人以上。同じ、足の腫瘍を患っていた少女も激励した。
少女は感激し、やがて創価大学に進学しました。

須田 聞けば聞くほど、「なまはんかな信心ではいけない」と
粛然たる気もちになります。

◎「何と美しき顔だろう!」

名誉会長 「いつ倒れるか。いな、いつ倒れようとも、悔いのない
闘争を続けるのみだ」との決心で走り続けた。

彼女に私は神奈川文化会館で会った。〈一九八〇年十二月十四日〉
翻訳グループの一員として、皆と一緒に「お月さまの願い」を
合唱してくれた。
〈歌い終わるや、順子さんは一首の和歌を名誉会長に差し出した。

「病魔破し 広布に走らん 師のもとに 今日の集いを 胸にきざみて」。

名誉会長は彼女の目を見つめて「健康になるんだよ!」
「長生きするんだよ!」と激励した〉

パリの会館にも、彼女は来ていた。皆で記念撮影も行った。
〈一九八一年六月十四日〉
彼女が亡くなったのは、その一年後だった。〈一九八二年六月二十六日〉
ガンは肺に転移していた。薬の副作用で、体はみるみる衰弱していった。
それでも順子さんは題目をあげ続けた。日本とスペインの同志のことを
祈り続けた。

〈末期状態になっても、深呼吸しては「ナン―」、また深呼吸しては
「ミョウー」……と唱題した。初めてスペインに渡ってから二回目の
「一千万遍」に挑戦し、五年間で達成した。逝去のときは、三回目の
「一千万遍」に挑戦していた〉

「生きよう!」という壮絶なまでの彼女の執念に、看護婦さんたちも
感動したという。お見舞いに来た人が、反対に激励されて帰った。
われとわが身に炎を点じて、人々に光を送ったのです。
八カ月の入院闘争の末、彼女は三十二歳で、次の生へと旅立っていった。

亡くなったその顔を見て、皆があっと驚いた。
「ものすごい美しさでした。こんなにきれいな順子ちゃんは、
生きている時も見たことがありません」
「お化粧も必要ないくらいで、うらやましかった」
「手もやわらかく、温かく、顔もふっくらしていた」と。

〈もともと色黒だったが、死の前は、やせ細って、顔色もひどく
悪かった。「しかし、まっ白に変わっていました。この落差。
本当に成仏の相とはこれかと思いました」と証言されている。
火葬場の人に「こんなきれいな人は見たことないよ」
「焼くのは、もったいない」と言われた〉

少し笑みをたたえて、半眼半ロ。御書に仰せの通りの成仏の姿だった。
葬儀には全国から数百人もの人が訪れ、近所の人から「どういう人が
亡くなったんですか」と聞かれた。大聖人は、成仏した人の死を
「千仏が迎えに来て手を取る」と仰せになっておられる。
〈生死一大事血脈抄、一三三七㌻、趣意〉

そのひとつの現れが、これだけ大勢の人が彼女の死を悼んで、題目を
あげてくれたということです。大勢の人を真心から面倒みた分だけ、
自分が三世永遠に守られるのです。

しかも彼女の友人は「順ちゃんは本当に幸せだったと思う」
と言っている。「天涯孤独、そして病死――でも、順ちゃんを知る人は、
だれも『かわいそう』とは思わないんです。『立派だった』
『すべて、やりきった』。そう心から思います。だから私たちは
少しも悲しくないんです。

順ちゃんは、もう、スペインにいるでしょう。スペインに生まれて、
広宣流布に戦っているだろうと思います」と。

斉藤 薬王品ですね。不老不死と言っても、人生の「長さ」だけでは
ありませんね。

◎不老不死――生死を超えて使命のために

名誉会長 彼女の「身」は病んでいたが、「心」は太陽のごとく輝いていた。
「生命」は「健康」そのものであった。
私は翌年(八三年)、スペインを訪問した時、彼女をたたえて、初の
「名誉ヨーロッパ女子部長」の称号を贈りました。

 「健康」とは何か。  その結論は「菩薩の生命」です。
人のために戦い続ける一念――それが真の「健康」だと私は思う。
ただ “健康食品”を食べ、自分のことだけ考えて、安楽な暮らしを願う
――それが健康だとは思わない。

「健康」を象徴する薬王は、信念に「殉教」した菩薩であった。
「戦う生命」それが「健康な生命」です。
 私もお会いしたが、ルネ・デュボス博士(世界的医学者)は
言っておられた。 「心配のない世界でストレスもひずみもない生活を
想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢に
すぎない」と。

〈更に「地球は憩いの場所ではない。人間は、必ずしも自分のためではなく、
永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれて
いるのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、
それが人類の宿命なのである」と
(『健康という幻想』田多井吉之介訳、紀伊國屋書店)〉

ストレスや悩みをも、生命力に転じていく。それが「毒を薬に変える(変毒為薬)」
妙法です。 「大いに楽しく生きよう」という仏法の境涯の実現です。
そのためには、戦いです。
「生死を超えて、汝の為すべぎことを為せ!」です。

 この使命感の前には、生も死もない。
 この献身の前には、死苦さえが前進の力に変わる。
 大聖人は、本門の流通分は、寿量品・方便品の “修行の仕方”
を説いていると仰せだ。(一四九九㌻)
薬王品も、まさに「末法広宣流布の戦士よ! 薬王菩薩のごとく、
命を燃やせ!」と教えているのではないだろうか。

そういう青年が陸続と現れたとき、創価学会全体が永遠化される。
「不老不死の教団」 になっていくのです。
 そうなって初めて、永遠の未来にわたって、全人類に「癒しの光明」を
燦然と送り続けることができるのです。

大白蓮華 1998年11月号 法華経の智慧
21世紀の宗教を語る46から 抜粋
 

法華経の智慧(寿量品)より(4)

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)10時06分7秒
編集済
  削除・・再掲載します  

新しいステージに・・ (2/2)

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)09時56分58秒
編集済
  ・・記事抜粋・・

ロシアはオバマ政権がテロ組織アル=ヌスラ戦線を強化し保護した政権として歴史に名を残すことを望まない。

モスクワはワシントンがその戦闘員らを売り買いしていることを奇妙に感じている。ラヴロフ外相が述べた。

「この話の当初我々は西側の同僚たちがアル=ヌスラ戦線には手を振れないと言っていた。我々は国連決議に記され

た通りのことをしている。和平は和平であるが、それはアル=ヌスラ戦線および和平の対象にならない者およびそれ

と団結する者には及ばない。米国は非常に奇妙なふるまいをしている」第1チャンネルのインタビューで述べた。

外相は、「ロナルド・レーガン政権がアルカイダを創り出したのに続きジョージ・ブッシュがダーイシュ(IS)を創

り出した。オバマ政権がアル=ヌスラ戦線という名のテロ組織を強化し保護した政権として歴史に名を残さないよう

願う」と述べた。

続きを読む: https://jp.sputniknews.com/business/20161009/2876728.html


ロシアのラヴロフ外相は、ロシアは非常に長い間米国の行動に対して「戦略的忍耐力」を発揮してきたが、今ロシア

と米国の関係に抜本的な変化が生じたと述べた。

オバマ政権がアル=ヌスラ戦線の庇護者として歴史に名を残さないよう望む―ラヴロフ外相 ラヴロフ外相は、第1チ

ャンネルのインタビューで、露米関係で抜本的な変化があったという発言に対するコメントを求められ、「私が思う

にこれは事実だ」と述べ、「正直に言うが、我々は非常に長い間、米国人が『戦略的忍耐力』と呼ぶものを発揮して

きた。なぜなら米国側からの一方的な関係悪化は、ウクライナでの出来事が起こるずいぶん前から始まっていたから

だ。我々はこのことについて話をした」と付け加えた。 またラヴロフ外相は、米国はロシアと「大人の」関係を築く

ことができず、米国の利益だけが考慮された2国間関係のオプションは機能していないと述べた。

続きを読む: https://jp.sputniknews.com/politics/20161009/2877029.html


シリア・ロシア・イランを悪魔として喧伝するため、何千億円もの資金が欧米主流のマスコミに流れています。

また、ウクライナでも、次の戦争のための準備がNATOを後ろ盾てに始まっています。

両戦線・・迎え撃つ側も準備を・・第3次大戦へまっしぐらとなるか・・

世界中で正義とサタンとの戦い・・


生涯広布 ペンギン
 

新しいステージに(1/2)

 投稿者:生涯広布 & 広布一筋(正義の師子同盟)メール  投稿日:2016年10月10日(月)09時45分32秒
  現在の宿坊の展開と異なり、申し訳ありません・・

世界平和に大きな関心がある我々として、大変気になる出来事が・・

風雲急を告げる事がないように、祈りたい・・


・・記事貼り付け・・

今週、フランス外務省は、ロイターに、フランスは、それを阻止するためには、

ロシアは拒否権を行使せざるを得ないような形になる国連安全保障理事会への提案決議を準備していると述べた。

このようにして、フランスの狙いは、ロシアを、安全保障理事会の理不尽なメンバーで、シリア“政権”の堅固な

支援者として描き出すことだ。これはロシアとシリアを、継続中の紛争の実行犯として中傷しようとする欧米

による実に身勝手な企みだ。 決議は、信じられないほど一方的で、シリアとロシアを弱体化させるという政治目的

を隠しているので、ロシアが、フランスが提案する決議を支持する可能性はない。フランスの要求は、この都市を

周辺の戦闘停止を含め、アレッポでの戦闘の即時停戦、そして、二つ目は、東アレッポの、完全な人道支援アクセス

だ。 必要に迫られた人道主義を装った、このフランスによる提案は、事実上の“飛行禁止空域”で、先に書いた通り、

アルカイダ系列のテロ集団が支配している反政府武装反抗勢力の戦闘能力を強化することになる。

ロシアとシリアの軍隊が、9月12日早朝宣言された停戦に合意した際、両者は、テロリスト旅団と関係のない戦士

は、今後、物理的に別れるというのを条件にしていた。ところが、欧米政府の“穏健反政府派”は、“過激派”にまじり

こんでいるという主張は、 身勝手な見え透いたウソに過ぎないので、多くの専門家が予想していたとおり、そのよう

な分離は起きていない。こうした戦士は全て、ロシアとイランの長年の盟友、バッシャール・アル・アサド大統領の

政権を転覆するための秘密戦争で、欧米政府が武器を供与している、まさに同じテロ組織に所属しているのだ。

先月、ケリーとラブロフが呼びかけた停戦を尊重した当事者は、シリア軍と、その同盟のイランとヒズボラ民兵と、

ロシア空軍だけだった。外国が支援する戦士連中は何百もの停戦違反を継続し、シリアとロシア軍による作戦が当初

減少したのを、体制を立て直し、再武装する好機として利用した。

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-f3c7.html


あいも変わらず欺瞞に満ちた、フランス+アメリカの国連安全保障理事会への提案決議でした。


生涯広布 ペンギン
 

(無題)

 投稿者:海外在住  投稿日:2016年10月10日(月)09時17分26秒
  組織の幹部の悪を責めないのは因果応報、原因結果、自業自得だから
私が悪を追及したり攻めなくたって、自然に滅びていくから....
下手に正義感を出して、組織から睨まれ村八分されたくないということでしょうか?
黙っていることが悪に加担、与同罪、総罰、まで想像は働かないのでしょうか?。
今、騒ぐことで師匠に迷惑をかけたくないという強い思いもあることでしょう。
組織から追い出された正義の人たちは個々にどの様な活動をしているのでしょう?
同志たちを集めて、ミニ座談会をしているのでしょうか?
今は社会で実証を示す時と決め仕事に没入しているのでしょうか?
 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、ホントに先生の了解をとって歌詞を変えたんですか~?

 投稿者:カンピース  投稿日:2016年10月10日(月)07時39分15秒
  おはようございます。原田怪鳥様、世界広布新時代第20回本部幹部会の開催、誠に、誠にご苦労様でした~。

でもね~、少し違和感があるので教えてください。「紅の歌」の2番の歌詞を「父の滸」を「師の滸」へ変えて、先生が了解されたとの事ですが

なぜか、3面の先生のメッセージにはそのことが一言も触れられていません。どうしてでしょう?

小生が思うに、「紅の歌」の歌詞が変えられたのはこれで3度目です。最初は3番の歌詞が「老いたる母」が「老いたる父母」への変更と思います。

いつ変えられたかは失念しましたので、これは論じませんが、本当に師匠の了解を得たならば、師匠のメッセージにこの事がないのは不思議です。

変えたのであれば、なぜ変えたのか、その意義は何か、と説明するのが当然ではないでしょうか?

世法においても、某歌手が、勝手に歌詞を加えて歌い、「もう歌わせない」と作詞家が抗議し、大問題になった事例があります。

学会員にとって「学会歌」は単なる「歌」ではありません。人生とともにある、ある意味「指標」です。

それだけ大事な「歌」なのですから、変えるのならば、その経緯をつまびらかにするべきです。

つまり「いつ」「だれが」「どうして」「どうのように」を明快にしなくてはなりません。

単に「青年たちの志をくみ、了解した」の一言ではすまないと思うのですが・・・・

もしかして原田怪鳥様、師匠への嫉妬から師匠の業績を壊そうとした、いやいや、「直弟子」の原田怪鳥様、そんなことはないでしょう(笑)

原田怪鳥様、教えてくださ~い(笑)
 

全集未収録スピーチ

 投稿者:無冠  投稿日:2016年10月10日(月)06時02分43秒
  全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2010-1-19 【全国各部協議会】

■ 一、きょうは、広宣流布の指導者が集まってくださった。遠方からも、本当にご苦労さま!
 皆様方が、どれほど大切な方々か。
 御聖訓に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(御書856ページ)と仰せの通りである。
 リーダーが、自らの「使命」と「責任」を、どこまで自覚できるのか。
 広布に戦うことを、喜びとし、誇りとし、福徳と感じて、本気になって勇猛精進していけるのかどうか。
 この一点が大事だ。この一点を訴えたい。
 全人類の幸福を目指しゆく、広宣流布の人生こそ、最高峰の人生である。
 信心のリーダーには、苦労も多い。その分、喜びも成長も大きい。
 その境涯は、どんな富豪や帝王も、かなわない。何百倍、何千倍も上である。
 皆様こそ、心の王者なのである。
 アメリカ公民権運動の英雄キング博士は語っている。
「 (われわれの運動の内部に、かもし出されていた雰囲気は)前進への誇りであり、われわれは勝つぞという確信であった」(クレイボーン・カーソン編・梶原寿訳『マーテイン・ルーサー・キング自伝一日本基督教団出版局)
 キング博士は、いつも行進の先頭に立った。
 あらゆる攻撃の矢面に立った。
 リーダーの一人立つ姿に、皆が奮い立ち、前へ前へ進んだ。
 わが身も顧みず、喜び勇んで、自由のための闘争に飛び込んでいった。
 その率先の行動によって、時代は、音を立てて変わっていったのである。
 まず自分が戦う。まず自分が見本を示すー私も青年部時代から、その決心でやってきた。
 当時は、学会員も少なかった。自分がやるしかなかった。
 その中で歴史をつくってきた。
 今は人数もたくさんいる。だが、「一人立つ精神」は断じて変わってはならない。
 それが勝利を開くリーダーの鉄則だからである。

● 苦労は自分が 友には感謝を
 一、ゲーテは、ある時、友への手紙にこう綴った。
 「君がとかく苦労しまいとする事は、悪いことである」(木村譲二訳『ゲーテ全集第29巻』改造社)
 苦労は、自分が背負う。後輩は、ほめて伸ばしていく。
 それが、妙法のリーダーだ。
 誠実にやるのだ。
 自らが打って出て、人と会い、人と語り、熱い握手を交わし、心を通わせていく。
 陰で苦労を惜しまぬ友、最前線で真剣に戦う友に、最敬礼して心から感謝していくのだ。
 ゲーテは「苦きウエルテルの悩み』の中で、こう綴っている。
 「人間がお互いに苦しめあうほど、いやなことはない」
 「自分をも身近の者をも傷つけるようなことは、当然悪徳と呼ばれるべきですよ」 (竹山道雄訳、岩波文庫)

  ◆我らは心の王者なり
  ◆戸田先生「男らしくやろうじゃないか!」
  ◆君よ一人立て!千波万波を起こせ

 その通りである。
 ましてや、信心の世界は、全員が尊敬し合い、幸福になるためにある。
 幹部の傲慢さや無責任によって、大切な同志が苦しむようなことは、絶対にあってはならない。
 それは信心の世界ではないからだ。
 仏法の因果は厳格である。
 同志をいじめた人間は、必ず諸天善神に叱られる。
 同志を大事にした分だけ、必ず諸天善神から護られる。
 先輩幹部は、たとえ自分が犠牲になってでも、後輩が楽しく、伸び伸びと広布に戦える舞台をつくってあげることだ。それが先輩の役目である。

● 前進する人は すがすがしい
 一、さらにゲーテは「苦きウェルテルの悩み』の中で記している。
 「不機嫌は怠惰と似たものです」(同)
 確かに、怠け者の人間にかぎって、何かあるとすぐに不機嫌になるものだ。
 反対に、常に前進している人は、すがすがしい。
 快活である。弾むような勢いがある。
 ゲーテは、こうも言う。
 「いったん自分の気持をひきたてて奮起する力をもちさえすれば、仕事もさっさとはかどるし、活動がほんとうの喜びにもなります」(同)
 私たちは、自分の気持ちを奮起させる「力」を持っている。絶対勝利の題目がある。
 ゆえに、何があっても生き生きと、仲良く、賢く、迅速に、団結第一で進もう!
 「活動」の中にこそ、「喜び」がある。
 学会活動には、最高の充実があり、無量の福徳が輝くのである。

 一、ここで戸田先生の指導を紹介したい。
 私の心には、いつも先生がいる。
 弱い立場の人、正直な人、苦しんでいる人には、優しく温かく、大慈悲をもって励ましてくださった。慈父のような先生であった。
 強い立場の者、傲慢な者、闘魂を忘れた者、庶民を見下すような者には、師子が吼えるがごとく叱咤の声を発せられた。周りも震え上がるほどであった。
 戦時中、師匠の牧口先生にお供して牢獄に捕らわれた戸田先生は、出獄後、獄死された牧口先生を偲ばれ、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と感謝を捧げられた。
 どれほど「崇高な師弟」であったか。
 その方に、早朝から夜中まで365日、お仕えしたことは、私の誉れである。

● 勝つために祈れ
 一、戸田先生は、婦人部の友に指導された。
 「あなたが信心に立ち上がれば、必ず、すべてが軌道に乗ります。信心が強ければ、周囲が、あなたの幸福の力となる。本当に不思議なものだ。
 法華経には『魔及び魔民有りと雖も、皆な仏法を護らん』とさえある。
 周りの人が信心をしていなくとも(広宣流布のために驚くほど働いてくれるのである。
 ゆえに自分自身の信心を強くしなさい」
 要するに、「自分」である。わが一念で決まる。
 状況を嘆いたり、人のせいにしても、何も変わらない。
 自分が変わることだ。自分自身の信心を強くすることだ。

  ◆戸田先生 「下種」にこそ「大功徳」が。
      ありのままに真実を語れ

 その人を、諸天・諸仏も護り支えるのである。
 仏典に「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」(御書1186ページ)と記されている通りだ。
 さらに戸田先生は語っている。
 「魔が強いからこそ、勝てるのだ。信心が毅然として、そのうえで、魔が強いということは、必ず勝てるという証拠なのである。要は自分自身の信心の決心にかかっている」
 魔が競い起こったときこそ、もう一歩も二歩も、大きく成長していくチャンスなのである。
 大聖人は、大事な破邪顕正の戦いに挑む弟子に言われた。
 「但偏に思い切るべし(同1451ページ)と。
 そして、「『釈迦・多宝・十方の仏よ!来り集まって、わが身に入りかわり、我を助け給え!』と祈念しなさい」(同ページ、通解)と。
 大事なのは「勝つための祈り」だ。真剣勝負の強盛なる祈りだ。
 今こそ一人一人が、わが生命に、仏菩薩も、梵天・帝釈も、「入其身(其の身に入る)」させるのだ。そして仏の力、仏の智慧を思う存分に発揮していくのだ。

● 「私は絶対にひるまない!」
 一、戸田先生は言われた。
 「相手が聞いても聞かなくても、ともに仏縁を結んでいることは、絶対に間違いない。この『下種』にこそ大功徳があるというのが、大聖人の絶対の保証なのである。我々は、最も正しい実践をしている。
 ありのままに、真実を語っていけばよいのだ」

 一人のために祈り、一人のために語る。
 この「一人」から始まり、やがては千波、万波の幸福と共感の波動を広げていく。
 それが広言流布の方程式である。
やろう! 頭を使い、口を使い、手を使い、足を使い、すべてをフル回転させよう。
 皆、戦い勝つ指導者たれ!
 ひとたび戦いを起こしたならば、断じて勝たねばならない。
 真剣に活動してくれた同志が勝って喜び、「どうだ!」と胸を張れるようにしてあげるのが、幹部の責務である。
 自分が戦って勝つ。
 自分が動かずして、「人を使おう」「人を動かそう」という考えは卑怯だ。
 自分が動いてこそ、周りも動いてくれる。
 自分が動けば、周りは10倍、20倍の力を発揮してくれるものだ。
 19・20世紀のポーランド出島の女性革命家ローザ・ルクセンブルクの言葉を贈りたい。
 「なすべき闘い、なすべき仕事が、たくさんたくさんあることでしょう。けれども私は絶対にひるみません」(伊藤成彦訳『友への手紙』諭剣社)
 我らにも、「なすべき闘い」がたくさん語る。
 何があっても恐れなく、「師子王の心」を取り出して、勇気、勇気で前進しよう!(大拍手)
● 宇宙も己の中に
 一、この「猫」(夏目漱石の長編小説『吾輩は猫である』の猫)が住む家の主人は、東京の中学校で英語教師をする珍野《ちんの》苦沙弥《くしゃみ》先生。家族からは勉強家と見られているが、自分の部屋では、居眠りばかりしている。
 苦沙弥先生や周囲を取り巻く人間たちは、負けず劣らずの変わり者ぞろい。次々と苦沙弥の家を訪れては、滑稽な話を取り交わす。
 たたみかけるようなやりとりのなかで、世情を風刺し、権威を笑い飛ばし、文明のあり方まで自在に論じる。
 猫は言う。
 「元来人間というものは自己の力量に慢じて皆んな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘《いじ》めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない」
 人間の本質の一端を鋭くえぐった言葉といえよう。
 人間は、誰からも厳しく言われなくなると、増上慢になって、駄目になる。堕落してしまう。だからこそ、謙虚に自分を律していかねばならない。
 また猫は、主人の様子を観察しながら、こう語る。
 「熱心は成効の度に応じて鼓舞せられるものである」
 一つの真理である。
 何かを成し遂げ、人々から賞讃されれば、喜びは何倍にもなる。
 「よかったな」「もっと頑張ろう」と思う。
 私たちも学会活動において、同志の健闘に対しては最大の賞讃を送りたい。「すごいですね!」「頑張りましたね!」と声も惜しまずに、ほめ、讃えていくことだ。
 そういう温かな心が脈打っている組織は、生き生きと前進できる。どんどん発展していける。

 一、漱石は猫に次のように語らせている。
 「凡《すべ》て人間の研究というものは自己を研究するのである。天地といい山川《さんせん》といい日月《じつげつ》といい星辰というも皆自己の異名に過ぎぬ」
 自分自身を知ることから、すべては始まる。また、さまざまな研究も、結局は人間自身の探究へと帰着していくといえる。
 御書には「日月《にちがつ》・衆星《しゅうせい》も己心にあり」(御書1473㌻)と仰せである。
 わが生命に全宇宙が収まっている。この自己の生命を、あますところなく説き明かしているのが妙法である。
 妙法を持った人こそ、最高の大哲学者なのである。

● 信心で決まる
 一、世をごまかし、うまく立ち回る者について、「人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る」と、猫が言う。
 皆さんも、ありのままの実像で、偉い人物となるのだ。
 仏法の眼から見れば、どんな立派な大学を出た人よりも、広布のため、妙法のために行動しゆく人のほうが、何千倍も尊い。
 学会においては、学歴があるからといって特別扱いしたり、威張らせるようなことがあってはならない。
 大学で学ぶのは、社会に尽くし、人々に尽くすためである。
 庶民を護り、正しい人を護っていく。そのための学問である。それができる人が、本当に偉い人だ。
 学歴や地位ではない。その人の本当の偉さを決めるのは、信心だ。行動だ。人格だ。
 学会は、不屈の信心をもった庶民の力で、ここまで発展してきた。このことを決して忘れてはならない。

 一、小説の最後のほうで、猫は言う。
 「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする」
 他人には分からない悲しみもある。気楽な暮らしも、いつまでも続かない。
 人生は変化の連続だ。人間は、やがて年を取る。病気にもなる。そして最後は死んでいく──。
 それが人生の実相である。だからこそ確固たる哲学を持ち、真に価値ある日々を築いていかねばならない。

● 後輩に励ましを
 一、夏目漱石は、文筆家を志す青年に宛てた手紙で綴っている。
 「自分で自分の価値は容易に分るものではない」
 「君抔《など》も死ぬ迄進歩する積りでやればいいではないか。作《さく》に対したら一生懸命に自分の有らん限りの力をつくしてやればいいではないか」(『漱石人生論集』講談社)
 私だって、君くらいの年齢の時は、たいした作品は書けなかったよ。自分を信じて頑張り抜くのだ──。
 手紙には、漱石の後輩に対する温かな励ましの心が光っている。
 別の青年には、こう綴っている。
 「余は君にもっと大胆なれと勧む。世の中を恐るるなとすすむ」(同)
 「大《おおい》に勇猛心を起して進まなければならない」「世の中は苦にすると何でも苦になる苦にせぬと大概な事は平気で居られる」(同)
 また、別の手紙では、こう励ました。
 「男子堂々たり」「君が生涯は是《これ》からである。功業は百歳の後に価値が定まる」(同)
 今の苦悩は、小さなことにすぎない。大業をなした後には、かえって君に光彩をもたらすだろう──。
 漱石自身の経験に基づいた言葉であろう。
 青年には無限の力がある。可能性がある。
 青年よ大胆に進め!
 何ものも恐れるな!
 そして、わが勝利の歴史を綴りゆけ!──私は、そう申し上げたい。
 また漱石が、俳人で小説家の高浜虚子に宛てた手紙には、こう綴られている。
 「機会は何でも避けないで、其儘《そのまま》に自分の力量を試験するのが一番かと存候《ぞんじそうろう》」(同)
 大事なのは挑戦だ。行動だ。私たちは、この気概で壁を破りたい(大拍手)。

 一、私は青年時代、苦境にあった戸田先生を護り抜いた。先生や学会を中傷する人間がいれば、断固として抗議した。誠意を尽くして対話し、認識を改めさせた。
 最後には「学会には、こんな立派な青年がいるのか」と感心してくれる相手もいた。
 私は、嘘や不正義は許さなかった。師匠に仇をなす人間とは戦い抜いた。
 悪い人間と戦えない。悪を見て見ぬふりをする。そんな意気地なしの弟子であってはならない。私は、この信念で戦ってきた。そして勝ってきた。
 これが私の最大の誇りである。

■ 今、この時に戦わずして、いつ戦うのか。
 栄光のゴールを目指して走ろう!
 飛び出そう! きょうも最前線へ! きょうも友のもとへ!
 「昔の先輩たちは、このように歴史を綴ってきたのか」と、後世の人々から仰がれゆく、模範の金字塔を打ち立ててもらいたい。
 信心の世界は「真実の心の世界」である。嘘偽りは最後に敗北する。どこまでも誠実に戦い抜くのだ。
 皆さんには、広宣流布の血脈を流れ通わせ、師弟の大精神を脈々と伝えていく使命がある。
 頼むよ!〈「ハイ!」と力強い返事が〉

●師弟に生き抜け
 一、日蓮大聖人は厳然と仰せである.
 「日蓮が末法の初めの五百年に生を日本に受け、如来の予言の通り、三類の強敵による迫害を受け、種々の災難にあって、身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師であるか邪師であるか、よくよくお考えいただきたい」(御書1341㌻、通解)
 法のために大難を受けているのは誰か。
 三類の強敵と戦っている人は誰なのか。
 その人こそを、正しき師と仰げ!──
 これが仏法の教えである。
 どんなに偉ぶって見せても、難を避け、虚栄を貪る人間は、真実の仏法者ではない。
 正しい法を広め、難と戦う人こそが、偉大なのである。
 正義に生きる我らには、難こそ誉れだ。最高の勲章である。
 思えば、恩師・戸田先生と私は、28歳の開きがあった。
 大難と戦う師匠を護る。それが大仏法をお護りすることに通じていく──そう決心し、私は恩師・戸田先生に仕え抜いた。
 広布の大将軍は、戸田先生しかいない。断じて指揮を執っていただきたい──そう確信し、逆境の中、第2代会長就任への道を、命がけで開いた。
 「先生! 時が来ました。舞台は整いました!」。そう申し上げた時の、恩師のうれしそうな笑顔。私は忘れることができない。
 信心とは、役職や立場ではない。師弟に生き抜く人に、無量の功徳と栄光が輝くのだ。
 そのことを知り、学会を護り、同志を護り抜く人間が、本当の指導者なのである。

 一、御聖訓には、こうも仰せである。
 「世の中には、四つの恩がある。これを知る者を人倫(人の道に適った人間)と名づけ、知らない者を畜生というのである」(同491㌻、通解)
 人の心は恐ろしい。
 いざとなると、臆病になり、保身に走る。手のひらを返して、傲慢になる。卑劣にも、裏切る。そうした者たちが、どれほど多くの民衆を苦しめたか。ここに、重大なる歴史の教訓がある。
 恩を知る。恩に報いる。これが人間の道である。
 いかなる時代になろうとも、たとえ誰一人、立ち上がらなくとも、自分は戦う。師匠が見ていないところでこそ、命がけで歴史を開く。正義を叫び抜く。
 それが真正の弟子だ。
 皆さんは、そうした一人一人であっていただきたいのだ。

● 楽しく前進!
 一、信心で乗り越えられない山はない。
 「絶対に勝てない」と言われた、あの大阪の戦いで、私は「まさか」を実現した。
 戸田先生に勝利をご報告し、「先生のおかげです。学会員の力です」と申し上げると、先生は、にっこりと微笑まれた。忘れ得ぬ思い出だ。
 「大切なのは始めることであり、目を開くことなのだ」とは、ドイツの文豪ヘッセの言葉である(高橋修訳「小さな喜び」、『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集第4巻』所収、臨川書店)。
 まず祈る。そして、勇敢なる一歩を踏み出すことだ。
必ずや、勝利の未来は開かれる。
 我らの信心は「不可能を可能にする」原動力である。
 皆が勇気凛々と前へ進めるよう、リーダーは賢明な指揮をお願いしたい。
 きょうは、全国の青年部の代表も参加している。
 私たちの友人であった、アメリカの人権の母、ローザ・パークスさんは「若者たちが、自分の持っている最高の可能性に目覚められるように」手助けしたい。そう願って、青年の育成に力を注がれた(高橋朋子訳『ローザ・パークス自伝』潮出版社)。
 私と妻もまた、同じ思いである。
 青年の時代だ。青年部、頑張れ!
 最後に、皆さんと一緒に「広宣流布の大勝利、万歳!」と声を大にして叫びたい。
 長時間ありがとう!
 またお会いしよう!
 楽しく前進しよう!
 遠くから来られた皆さんも、本当にありがとう!
 お帰りになりましたら、大切な同志に、くれぐれもよろしくお伝えください。
 皆、お元気で!(大拍手)
 

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