三十六歳女性と地下鉄に乗った。そして気づいたのは、私と三十六歳女性は一緒にいても、注目しているものがぜんぜん違うということだった。
三十六歳女性はファッションが好きなので、乗客の服装に注目している。あの着こなしはいいとか、よくないとか、考えているようだ。一方の私はオッサンのハゲ頭とか、オバサンの顔のしわを見ている。あるいは吊り広告にある女性ファッション誌の「今年はコレで決める!」みたいなコピーを面白がっている。ファッションそのものではなく。
このようにして「見る目」が養われていくのだと思った。三十六歳女性がファッションに詳しいのも、反対に私が疎いのも、このような日常的な視線の蓄積の結果なんだろう。ファッションを見る目を身に付けたいならば、オッサンのハゲ頭ではなく、そのとなりにいる若者の服装を見なければならない。
しかし私のこの日記は、日常的にオッサンのハゲ頭的無意味を見つめているからこその文章である。そういうものを見なくなると、この日記も書けなくなるだろう。まあ、そのほうがいいと言われたら返す言葉もありませんが。
たまに、発作的に髪型や服装に気をつかいはじめることがある。すると街を歩いていても、人の服装に注目している自分に気づく。ああいう格好はいいとか、あれはどうなんだとか、あの靴は俺もほしいとか思いはじめる。だが、それも習慣として根づく前に消えていき、ふたたびオッサンの額のしわや、オバサンの肌に塗りたくられた分厚い化粧や、杖をついた爺さんの震えぐあいに注目するようになる。
このあいだは、信号待ちの最中、交通整理のオッサンがホイッスルを吹いてほっぺたがプクッとふくらむのを凝視していた。子供のほっぺたがふくらむのはよく見るが、中年以降の男のほっぺたは滅多にふくらむことがない。しかし、ホイッスルをくわえた交通整理のオッサンという特殊な状況において、中年男性のほっぺたは幾度となく膨張・収縮を繰り返すのだ。
「なんでそんなどうでもいいこと……」
三十六歳女性はしごくまっとうな感想を述べ、くちびるからのぞく呆れ前歯となるわけだ。
その人のことを知りたければ、いっしょに街を歩けばいいのかもしれない。街には膨大な情報が溢れているから、どのように取捨選択するかによって、相手の関心が見えてくる。「ねえ、あれ見て!」という言葉は、街の膨大な情報から相手がそれを選び出したことを示しているのだ。もしも自然と同じものに注目するならば、その二人は関心が似ていると言えるんだろう。
もっとも、私はとなりで歩いている女が「見て! オッサンのほっぺが膨張してるよ!」と言い出した時に、「僕たちって似てるね」と思うかといえば、そうでもない。この女は頭おかしいんじゃないかと思う。似てりゃ嬉しいわけでもない。そのへんはまあ、むずかしいところである。