関西ソーカルの歌詞トークからやっぱり韻について考えた
kenzee「神野龍一さんとオノマトペ大臣(tofubeatsの「水星」でラップしてる人)の二人でやっている「関西ソーカル」というジンがある」
もうVol.3まででているのだが、ボクは3冊ともに寄稿させていただいている。ナゼか村上春樹の話ばかり書いていて、ミイラとりがミイラになるの要領で最近、村上春樹をよく読んでいる。そしてこの前(10月1日)に神野さんと大臣によるトークイベントがあったので観にいった。場所は梅田の隣町、中津のシカクさんというインディーマガジンなどを専門に扱う小さな書店だ。この2階のイベントスペースで行われた。イベントスペースといっても古い長屋の2階の8畳間で親戚の家にでも遊びに来たような感覚だ。中津は国内有数の大都会、梅田から歩いて10分ぐらいの隣町なのにビックリするぐらい庶民的な下町で、イケイケの梅田の中心地と対をなすように小ぢんまりした雑貨屋やカフェ、書店、レコードショップなどが点在するのだった。そんな場所で始まったイベントのテーマは「歌詞について。きっかけは大臣がツイッターで「音楽好きな人は歌詞聞いてなくて音楽たいして好きじゃない人は歌詞しか聴いてないんじゃないか」とつぶやいたところ、軽く炎上した、というもの。そこで神野さんの好きなリリックの曲をかけて解説するコーナー、(ピチカート「陽の当たる大通り」とキリンジカヴァーヴァージョンとの比較、真心ブラザーズ「エンドレスサマーヌード」、中谷美紀「MIND CICUS」、ブギーバック論など)と大臣の自身のリリック解説&レア音源公開など面白いもので文化系ダラダラトークなのにあとでイロイロ考えさせられるものがあったのだ。そして会場にはトーフビーツという人もいた」
司会者「アハハ、キミのクイックジャパン「夢の中まで」コラムをちゃんと読んで「読んだツイート」までしてくださった人だ。だが、キミは「ネット上で軽く交流した有名人」苦手人間だろう」
kenzee「まったく交流がなければ「まったくの初対面のテイで「どうもどうも」的な挨拶に終始できるが、「お互いやってること知ってる(しかもコッチは一方的にファン)」というこの関係性はベリー苦手なのよね! 一番なんの話していいかわからないですヨ! とにかくスゴイ背の高い好青年だったナ!」
司会者「観光客かよ!」
kenzee「そんな楽しいイベントだったのだがボクもこの1年ぐらい日本の流行歌の歌詞について考えていたのでとても刺激を受けたのだった。そこでイベントの最後のほうで大臣の「スピーカーノイズ」という未発表曲を聴いて本人解説を聴くというコーナーがあったわけね。「スピーカーノイズ」はトラックは2000年代以降よくある「展開のない、1つのテーマをひたすら繰り返す」系の感じだったんだけどリリックは自伝的な内容で、つまり高校時代ラジオで音楽を聴くところから始まって大人になって、今、社会人になって閉店間際の梅田のタワーの試聴機で音楽を探す、みたいな成長とか焦燥が描かれる、という内容で、泣けるラップなのだ。ラップのバックインザデイもの、ということでスリック・リックの「Teenage Love」とかキングギドラの「行方不明」とかキックザカンクルーの一連の青春モノを想起するが、大臣てあんまりそういう日本のラップのメインストリーム感のない人だけに新鮮だったんだよね。これはトーフさんにも言えることだが」
司会者「そこで大臣がポロっと気になる一言を」
kenzee「大臣てラップのリリックに「引用」をするのがイヤなんだって。いわゆる「One for tha Money,Two for Tha Show~」的な」
司会者「Yes,Yes, Yo! You Don't Stop Yo! Rockin' To Tha Beats~」のような定型文のことですかな」
kenzee「日本語でもライムスターが「B-BOYイズム」で「「自分が自分であることを誇る」by Kダブシャイン」みたいな引用をやるけど、そういうのがダメなのだそうだ。なるべく自分の言葉で構成したいっていうね。これは理解できる。あと「スピーカーノイズ」に見られるのは「マドキ風の固い押韻がないってことだね。イマドキっていうのはMCバトルに見られるような3音節以上の韻をいかに多く踏むか、みたいなことなんだけど、「大臣」「ライミン」とか。そういうのではなくてホント、語尾だけ、という。古きよき初期のスチャダラとかライムスターの1stを思わせるラップなのだ。そこで、オイラはちょいとイジワルな質問をしたワケさ」
「引用しない」「固い韻を踏まない」というスタイルは今のMCバトルなどに象徴される現在のシーンのトレンドから逆行しているように見えるが、現代的なラップと自身のスタイルとはどう折り合いがついているのか?」
大臣としては「まず、今、流行のラップ手法はすでに結構な歴史がある。しかしゲーム的なラップにもともと興味がない。ラップがゲームに近づくと意味の部分が薄れる。自分が表現したいのは主張とかじゃなくて風景なのだ。またキングギドラ的なラップより自分の原点はイルリメの鴨田潤さんの活動だ、」という回答で、ナルホドナーと思った次第。この答えがこの1週間、自分にとっては結構大きなテーマになっててさ。つまり、大臣の音楽って「トラックはループと引用でできててヨシ、でも歌詞はそうでないもの」という考え方なワケでこれは新しいと思ったのだ。別に矛盾してるとかじゃなくて。それは無機質な団地で育っても濃いい人間ドラマが生まれたりするのに似てるな、と。それともひとつ面白いのはイルリメの鴨田さんの言葉はわりと抽象的でアブストラクトアートみたいなところがある。それはあの人の立ち位置からして必然的にそうなるんだけど大臣の歌詞には古きよき日本の歌謡曲感があるじゃない? まだJ-POPという言葉が生まれる前、この国のポップスには「邦楽」という名称があったのだが、大臣の歌詞には「邦楽」感があるのだ。非常に感覚的な話で申し訳ない。だが、宇多田ヒカルを「邦楽」とは言わない。やはりアレはJ-POPなのだ。しかし槇原敬之の歌には強く「邦楽」の匂いがある。こういうとわかってもらえるかな?」
司会者「でも大臣みたいな「シーンの傍流」にいる人のほうが「邦楽」を掴んでいるって不思議な感じがしますね」
kenzee「そこまで考えたときにだね、またもや「韻ってなんだろう」という疑問が湧きあがってきたのだ。というのも「スピーカーノイズ」はいい曲なんだけどもメインストリームのラップに慣れた耳にはちょっと「生々しく」聴こえたんだよね。すごく具象性が高いというか。それは固い韻を踏んでいないからではないかと思ったのだ。最近のラップ・・・・・・AKLOやSALUやKOHHのラップは抽象的だ。大筋で「ア、コレは人生論だな」とか「メイクマネーものだな」とかわかるわけだけど、結構遠回りな表現なのだ。これは韻の効果ではないかと思うのだ。「韻を踏む」とはつまるところ「手近な言葉を避けて遠くにある言葉をムリヤリ使うことになる」作業である。この遠くにある言葉との距離感が結果、抽象性に繋がっているハズだ。これがなにが効果的かというと「直接的に言う(手近な言葉を使う)とハズカシイメッセージ(オマエを愛してる、とかオレは絶対夢をあきらめない、とか)を韻を踏んで抽象化するとスンナリ言えたりする、ということがある」これを便宜的に「韻のマイルド効果」と呼んでみたい」
司会者「「韻のマイルド効果」の最初の方の成果がもしかしたら三木道三「Lifetime Respect」だったのかもしれませんね!」
kenzee「J-POPのラブソングの言葉が手詰まりになった(つまりハズカシクなった)ところでいいタイミングででてきたのだ。でも、これって日本語の韻特有の現象のような気がする。だって、アメリカ人に「コテコテの愛情表現ハズイワ~」って感覚ないでしょうし」
司会者「ギャツラ道端でチューしたりダンスしたりするような連中だしね」
kenzee「前に、ライムスターのMUMMY-Dさんが「韻を踏むのはリズムを作るのに効果的だからだ。リズムが構築できるのならば韻は別に踏まなくてもよい(ラップにとって必須条件ではない)」との発言を引用したが、こういうマイルド化効果もあると思うのだ。ところが逆の効果もある。「言葉の強調効果」だ。これは韻を踏むと紙を重ねるように言葉がドンドン分厚くなっていくのね。これは数多く踏めば踏むほど厚くなっていくように思う。これはやはりバトルの場面でもっとも期待される効果だろう。つまり韻とは矢沢語でいうところの「ヨロシク」が理論化したものと考えられる。そういう効果もある。これを「韻のヨロシク効果」と呼んでみたい」
Two-O-One-O新たな感動 奇跡の誕生 HIPHOPは万能 次々賛同 また化学反応が 反響し進化する産業と環境
Yeah こいつは生きた文化 瞬く瞬間に全て循環 まるで活火山 今にも噴火 はじめようぜカウントダウン3-2-1(Zeebra「One Hip Hop」2010年)
この歌詞は「ヒップホップは凄い」ぐらいのことしか言っていないのだが、なにか本当にスゴイ気がしてくるのは見事に「ヨロシク効果」が効いているためだろう。このヨロシク効果はバカにできないもので、どうしてケンカ上等な荒くれ連中がラップのような地味なレジャーに夢中になるのかといえば、このヨロシク効果抜きには考えられないのだ」
司会者「韻にはいろんな効果があって、日本語表現を豊かにしているのはわかった。ではなんで、90年代に入るまで歌の表現にこのような韻が存在しなかったのだろう。別に「One Hip Hop」だって特に新しい言葉を使用しているわけではない。ビックリするぐらい普通の言葉ばかりだ」
kenzee「たとえばこういう答えが返ってきそうだ。「日本語ラップの韻はUSのラップを輸入してできたものだから、昔の歌謡曲とかになくて当たり前」。そうだろうか。たとえば70年代初頭に勃興した日本のフォークムーブメントがあった。岡林信康や友部正人や遠藤賢司といった人々によって盛り上がったブームである。彼らの多くはボブディランやピートシーガーといったアメリカのフォークシンガー、プロテストシンガーの影響を受けていたハズで、特にボブディランの韻フェチは有名なのだが、それを当時の日本のフォークは誰も取り入れようとしなかったのか。ジョンレノンの韻フェチぶりも有名だが、「日本のビートルズ」たとえばチューリップやゴダイゴは日本語の韻に取り組もうとしなかったのか。洋楽を輸入する際に英語のライミングの楽しさに多くのミュージシャンは気付いていたハズなのに。今さら「日本語ロック論争」とか持ちだすのもアレだが、そういう実験はあったのだろう。(はっぴいえんどの大滝曲「台風」「いらいら」などに数少ない実験の形跡が見られる)だが、ある時点から日本のポップは韻を捨てて、独自の進化を遂げていったのである。たぶん大臣のリリックは「韻を捨てて、独自進化した」日本のポップスの系譜に属している。どこか私小説風なのはその末裔であることを示している」
司会者「モノスゴイ素朴な疑問なんですけど・・・。90年代後半に日本語ラップ盛り上がったじゃないですか。そこに隣接するジャンルでメロコア勢がいたじゃないですか。奇しくも先週、16年ぶりに新曲だしたハイスタを代表とする「英語でパンクを演奏する」バンド群。彼らは英語だったんですよね。ラップ勢が必死で日本語と戦ってるヨコで涼しい顔で英語。これはなんでですか」
kenzee「いい質問かもしれない! でもボク、あの時代にCD屋で働いてたのに、「Angry Fist」とか「Making The Road」とかサンザン自分で売っといてちゃんと聴いたことないんだよね! ハイスタなんて「Stay Gold」ぐらいしか知らないヨ~ン。スネイルランプとかポットショットとか結構売ったのに全然知らないや。アハハ~。でもコレ結構重大なテーマかもしれない。「日本語ラップは日本語なのにメロコアはどうして英語?」問題。コレ、当時の音楽ライターで疑問に思ったヤツいないのか? だってドラゴンアッシュの「Vi Va La Revolution」なんてかなり売れた(ていうか自分でも結構売った)ハズなのにアレ、「日本語ラップと英語メロコア、英語スカコアが混在する奇妙なアルバム」なんだよ? 世界的に見ても奇妙なレコードだよ。マア当時、オイラもソレを不思議に思わなかったけどネ!」
司会者「時間が経たないと疑問もでてこない」
kenzee「でもコレ、「日本の流行歌における歌詞表現」というボクの今のテーマから鑑みても重要だ。でも今さらツタヤで「Making The Road」とか「Vi Va La Revolution」とか借りるのは40ヅラ下げてとてもハズイのであった。ア、でもついでにハイスタ新曲買ってみるかナー」
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