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一、あの日を懐古する
私も随分年を取った。だが、戻らないあの少年の日に思いをはせる切掛は、あらゆる場面に散りばめられている。
例えば、マドレーヌと紅茶の味から若い頃の茶会を思い出す洒落た者もいるだろう。出さずに終わった恋文を発見して顔を赤くしながら夢中になって読み返すような者もいるだろう。
私が少年の日に最も夢中になったのは蝶の標本作りだった。それは懐かしい気持ちを呼び起こしてくれるが、同時にある苦々しい感傷をも呼び起こす。
先日、つい客人に語ってしまったように、エーミールの美しいクジャクヤママユの標本にまつわる事件があったからだ。
当時私は、エーミールの美しい標本を盗みかけ、その上壊してしまった。それを元の場所に戻したときに、何食わぬ顔をしていた。が、後に良心のうずきを感じ、エーミールに罪を告白するが、返ってきたのは冷笑と「君はそんなやつだったんだな」という一言であった。その夜、私は、今までの蝶の収集を、一つ残らず指で押しつぶしたのである・・・。
私は採集家時代を終えた後も、エーミールとのことが心の中のしこりとして残り続けていた。時々風呂なんぞで一日の生活を軽い気分で振り返っているときにもエーミールの冷笑が心の中に浮かぶと楽しかった気分が一気に台無しになってしまった。思い出すな思い出すなと考えるほど、彼の態度や表情はかえって鮮明に浮かび上がってくるのだった。あの事件は、私の人生の汚点であった。
そう、私の行動は醜く、挽回するチャンスすら与えられないままに、「そういう奴」と言うレッテルを与えられたのだ。さらに私の良心に激しい苦痛を与えたのは彼が全く私を公の前で「そういう奴」であるという批判をしなかったことだ。私がもしも彼の立場だったならばどうであろう。愛するコレクションを壊された恨みからどんな報復行為を行ってもおかしくない。
だが、彼は報復も贖いの許可もしなかったし、当然罪を赦しもしなかったのだ。
私は永遠に罪人のままでエーミールは許さないでいる権利を持っているのだ。
苦痛から、むしろ私はエーミールのことを逆恨みしたくすらなった。だがそれは完全なまでに逆恨みであってますます人の軽蔑の対象となる行為であったのだ。僕は思った。永遠に自分を責め続けなければならないのか。
そうだ。彼にした事に比べれば当然のことなのだ。僕はもう、僕はもう、僕はもう・・・
自分があの夜収集を押しつぶしたのも頷けることだ。
マドレーヌから思い出が蘇るのは、「失われた時を求めて」ですね。
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