稲岡大志「堀江由衣をめぐる試論」(『フィルカル』Vol.1, No.2、2016年9月所収)短評

『フィルカル』Vol.1, No.2に掲載された、稲岡大志さんという方の書かれた「堀江由衣をめぐる試論」を読みましたが、「声優の音声は、作品世界のキャラクターの音声を音声によって描写する媒体であり、かつ、作品世界のキャラクターによって発せられた音声でもあるという特徴を持ち、声優とは前者の特徴をアニメーションの鑑賞者に意識させないことを可能にする専門的技能を持つ者」(112頁)という氏の主張に、声優認識としての違和感を覚えます。

声優の声を、「作品世界のキャラクターの音声を音声によって描写する媒体」と「作品世界のキャラクターによって発せられた音声」という二層に分解して理解しようとする方法は、声優が声優として声を発すること、すなわち声優が作品世界という不可触の何かを芝居で表現しているという認識を欠落させているように思います。

「言語はあくまでも世界を描写する手段」(114頁)とか、「音声言語としてのフランス語は、フランス人の会話を吹き替えたものとしての日本語と、描写という点では同一の役割を持つ」(115頁)といった言語についての理解も、「世界」とは別個に切り離された「言語」のフィールドが実存し、それはあたかも同一人物が服を着替えるように、「フランス語」や「日本語」といった記号体系として簡単に取っ替え引っ替えできるような言語観を示していると思います。

そこでの声優についての把握困難性は、「画面記号としてのキャラクターと音声記号としての声を分離し、後者に特有な特徴を取り出す」(118頁)ことの困難さに求められているわけですが、これは以上のような言語表現、あるいは声による演技についての二分法的理解がもたらす困難でしかないのであって、分析者が人為的に創造/想像した困難です。声優の声は難しい概念であることに全く異論はありませんが、問題はそうして定立されるべきではない。

この人工的な困難は自己発展を遂げることになっています。「声優の音声は声優の音声であることを隠すことによって声優の音声でありうる」(119頁)という、やや奇をてらった言い回しは、ただちに我々に次のような疑問を抱かせます。”オタクがCV:堀江由衣のキャラクターをCV:堀江由衣だと識別することは、声優・堀江由衣の芝居の失敗を意味するのか?”

それについて稲岡氏は、近年の声優業界が声による芝居以外の様々な活動に従事し、受け手もそうした活動を見聞きしながら声優の芝居を鑑賞するという環境を踏まえれば、「「声優の声であることを隠すこと」とは、「声優の声であることを隠すことなく声優の声であることを隠すこと」として理解されなくてはならない。すなわち、ある声優の演技について、それがアニメーション内のキャラクターの声に合わせる技巧が凝らされているという側面を気にせずとも気にしないまま鑑賞ができる場合、「声優の声であることを隠すことなく声優の声であることを隠すこと」に成功していると言える」(122頁)と述べています。この主張は、かなり理解するのが難しい。堀江由衣さんのことを、作品だけでなく、ラジオ・イベント・ブログ等で見知っている受け手が、どういう視聴態度をとれば「キャラクターの声に合わせる技巧が凝らされているという側面を気にせずとも気にしないまま」アニメを見たことになるのでしょうか。

この極めて難しい主張の直後に、これがいわゆる「ヘタウマ」の芝居とは違うことが述べられます。「ヘタウマ」は「隠蔽の隠蔽自体を放棄し、音声による音声の描写という側面に特化して、自分の音声がキャラクターの音声に聴覚印象の水準で違和感を生じさせない可能性に委ねるというある種の賭け事」(122,123頁)だという。ここには「ヘタウマ」と評される芝居が、役者自身の声ではなくあくまで芝居であること、つまりそこに表現者当人である声優や、その芝居をディレクションし、表現として成り立たせる音響監督をはじめとするスタッフが、そこで表現されるべき何かをその表現内に認めて世に送り出したという一連のプロセスを捉えようとする姿勢が感じられません。「ヘタウマ」は受け手の鑑賞能力の欠如かもしれないことを常に銘記すべきであって、そのためにはまずはその芝居が何をどう表現しようとしているのか、受け止め考える用意が必要です。我々は真摯な受け手として、特に声ヲタとしては、「ヘタウマ」のカテゴリ自体を棄却すべきであって、そういう芝居と違って”ほっちゃんはすごい”という水準に止まっていてはいけないと思います。

以前どこかで、悠木碧さんが「演技の巧さとは、たくさんの種類の声が出せることではない」と述べていたと記憶にあります。稲岡氏のこの論考では、戸松遥さんが様々な声色を使い分けながらも、オタクから戸松遥という役者としては一貫して認識され、高く評価されるのであり、「「声優であることを隠すことで声優である」技術に戸松遥は熟達している。すなわち、戸松遥は堀江由衣の一歩手前にいる」(136頁)と絶賛されています。しかし私は、別に悠木碧さんのファンではないし、戸松遥さんは素晴らしい声優だと思っているけれども、こういう評価方法は声優の芝居を鑑賞したことにならないと思っています。声優の芝居は、その作品世界において表現されるべきものを、どう魅力的に表現しているかで捉えられるべきです。極端に言えば、いつも同じ声色でも、そのキャラクターと作品世界が、その役者の表現によって受け手の目の前に立ち上がってくればよい。役者が、自分の声色に、キャラクターと作品を吸収してしまうほどのパワーを持つことさえある。そして私は、堀江由衣さんは作品世界そのものを自身の芝居によって成り立たせるような声優である気がします。『ゴールデンタイム』などは典型でしょう。あれはその意味では、『ミス・モノクローム』よりもずっと「堀江由衣の、堀江由衣による、堀江由衣のための」アニメになっているのです。


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