広葉樹の森が少しずつ色づいて、月明かりにざわめく季節になりました。大きな森の小さな命の循環を、“永さん”も、こよなく愛していたそうです。
木工工芸集団「オークヴィレッジ」会長の稲本正さん(71)は、原稿用紙に万年筆でしたためられた手書きの歌詞を、あれから何回読み返してみたことでしょう。
「どんぐりのうた」という題名のその歌詞は、七月に亡くなった永六輔さんの作品です。
<どんどんどんどんドングリ拾った/どんどんどんどんドングリ植えた…>
右下がりの少し丸い文字。旋律が漂ってくるような、リズム感のある筆跡です。
署名の横には「八大さんにたのんでみます」と書いてある。
永さんの依頼に応じて、「上を向いて歩こう」などの名コンビ、中村八大さんが曲をつけました。
<どんぐりみどり/地球もみどり/どんぐりいのち/地球もいのち/みどりのいのち/みんなのいのち…>
一九九〇年夏の作。当時の永さんはほとんど作詞をやめており、八大さんは闘病中。二年後には亡くなっている。“六八コンビ”としては、恐らく最晩年の歌でしょう。
ところがこの作品、オークヴィレッジと永さんが毎年八月、岐阜県の旧清見村(高山市)で開催していた「夏祭り」などで披露されただけ。音源も確認されていない、つまり幻の楽曲です。
かつて稲本さんは、母校の立教大学理学部で、核分裂の研究に取り組む実験助手でした。
二十八歳のころ、実験の手順をうっかり間違えて、「池袋をぶっ飛ばすつもりか」と、助教授にひどく怒鳴られました。
◆持続可能性を求めて
原子力は人の手に余る、つまり持続可能じゃない−。そう悟った稲本さんが、対極の居場所を求めて飛び込んだのが木工の世界です。
「百年かかって育てた木は百年使えるものに」「おわんから建物まで」「子ども一人ドングリ一粒」−。この三つをモットーに、木を植え、育て、什器(じゅうき)や家具、家すらも手づくりし、販売までを手掛ける場所を清見村に設立したのは、七六年のことでした。
続いて「ドングリの会」という植樹の会を立ち上げました。
永さんは稲本さんの掲げた理念に共感し、その活動に早くから注目していたようだった。
オークヴィレッジ設立三年目、永さんが稲本さんのもとを訪ねて意気投合。「高山は春と秋の祭りはあるが、夏にはない」という永さんの提案で、八二年、夏祭りを始めることになりました。
多彩なミュージシャンが競演する“夏フェス”のはしり。仕切りはもちろん永さんでした。
回を数えて八回目、永さんは盟友の八大さんをゲストに引っ張り出しました。
日も暮れた野外ステージで、八大さんの流麗なピアノ演奏が続く中、満月に少し足りない月を頭上に認めた永さんが、突然「照明を落とせ」と指示を出しました。
会場は闇に浸された。だがさすがは長年の名コンビ、八大さんは平然と、ベートーベンの「月光」からドビュッシーの「月の光」へと、即興でアレンジしながら演奏を切り替えていったのです。
いつ、誰が用意したのか、約三百人の聴衆が手の中でともしたキャンドルの炎を揺らし、世にも美しい旋律が、月明かりに浮かぶ世にも美しいシルエットの森の奥深く、吸い込まれていきました。
あの森をずっと残したい−。稲本さんが永さんに「ドングリの会」の応援歌を依頼しようと決めたのは、この夜のことでした。
永さんは「無理をせず、ぼくのできることで協力したい」と、引き受けてくれました。
◆残したいものがあるから
そう、誰もがすぐに「木を植える人」にはなれません。しかし、ずっと残しておきたいもの、持続可能であってほしいと感じるものは、きっと誰にもあるはずです。
やがて広葉樹が色づく季節、時間を見つけて森を歩いて、残したい何かを探してみたい。そのために何ができるのか、歌でも歌って考えたい。
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