長谷川豊さんの炎上のおかげで「本音至上主義」の害悪については多少その有害さの認知は広がったかなと思いますが、それと似た形で問題だと思うのが「安易な逆張り」ですね。
「本音」それ自体に価値があると勘違いしている人がいるように、「ほかの人と違うことを言う・やる」というものについて、それに特別な価値があると勘違いしている人がいるように感じます。
逆張りをしてるだけで何か格好いいことを言ってるつもりになってるといつか火傷しそうなので気を付けたい。
言うまでもないけれど「本音」そのものに価値はないし、「逆張り」それ自体に価値があるわけではない。
本音だからといってつまらないことや、問題ある発言をする人は、ただのダメな人です。本音で言ってるから自分に価値があると思っているならそれは勘違いです。同様に、みんながいいと思ってるものについて自分は駄目だと思うとかみんながだめだといってるけど自分はいいと思うとか、それ自体はよいのですが、単に「ほかの人が言えないことを言っている俺すごい・格好いい」と思ってるなら勘違いです。
逆張り的な意見を思いついたなら、なおさらネットでほかの人の意見を確認してみよう
ところで、「逆張り」的な意見を言う人たちは、他人の意見をちゃんとチェックしないことが多い。「周りのみんなはみんな同じことを考えていて、これを考えているのは自分だけ」という思い込みを守りたいためかなんでしょうかね。
当たり前だけど、事実は違います。だいたいの場合、何事においても逆張の立場の人は意外と多くて、自分の思いついたことくらい、ネットでとっくに言い尽くされたりしてるわけです。にも拘わらず自分だけが特別だと思って、たいしたことない意見をどや顔で書いちゃう。 そりゃバカにされるよね、と。 バカにされるだけならまだいいけど、その時に「俺だけがわかってる。わかってないやつらはバカだ」みたいな態度をとれば、まぁ間違いなく燃えますね。
結局のところ「知ったかぶり」で「いい加減」なところが最大の問題点
逆張かどうかは関係がないのです。時代がどうとか、言葉の使い方とかも些細な問題です。
最大の問題は「知ったかぶり」「生半可」であることです。考え方が浅はかなところが問題なのです。
にも拘わらず、「本音至上主義」とか「逆張」の立場の人は、なぜか
「本音」や「逆張」の立場それ自体に価値を見出しているせいで、自分の「知ったかぶり」「生半可」をそのままにしてしまう。
だからこそ、「本音」や「逆張」の人ほど批判されやすくなる。隙だらけの意見だからです。
しかも、この人たちは、自分が批判されたときに、批判される理由を「本音」や「逆張」というところに見出します。
決して自分たちの「知ったかぶり」「生半可」については反省しません。
こうなると、もう何度も何度も何度も何度も炎上しては反省しないバカの出来上がりです。
「安易な逆張」の実例
具体例を出すと
安易な逆張というのは、例えば「シンゴジラ」と「君の名は。」などの作品に関して、ブームになった後で何が面白いのかわからないとか、こういうところが変だ、っていう指摘をしただけで、自分は何かを言ってやったぞ、という気持ちになってしまうことです。
逆張をするなとか、つまらないと思ってはいけない、ということではありません。もちろん私もそういう気持ちになることは多々あります。自分が乗り切れないものが絶賛されてると、自分の存在が無視されているようで嫌な気持ちになってしまうのです。でも、そこでしょうもない逆張をするだけでは、ただのバカになってしまいます。
そこでまず考えるべきは、「作品が良いか悪いか」ではなくて「なぜ自分に合わなかったのか」「自分はどういうものが好きか」ということでしょう。自分が気に入らない点だけを述べるだけならそれは自分か、自分と同じ価値観を持つ人にだけにしか通じない「自分語り」です。自分語りだと理解しているなら何の問題もありません。
ここを間違えて、「作品のこういうところとこういうところが駄目だ」という部分的なだめだしをして満足してしまってはいけないし、中途半端なたとえで比較するのもよくない。(例えば作品を料理に例えて、ほかの人は稗や粟しかくったことしかないの?とか言ってしまうなど。雑すぎる感覚を、雑すぎる比喩で表現しようとする人は、理解されることをあきらめたほうがいい)
もし「作品そのもの」を論じたいなら、よほどきちんとやらなくてはいけません。作品の良い点悪い点両方を認めて、作品全体を理解した上で、それでもこういうところがだめだ、といえるならその批判には価値が生じるでしょう。その覚悟もなく作品そのものを批判したり、まして作品を楽しんでる人への批判をするなら、己の勘違いを戒められるのは当然の成り行きです。 それをもって「ファシズム的」とか言ってる人はさすがにバカとしか言いようがない。
今のところ、批判をしてる人たちより、きちんと賞賛の記事を書いてる人のほうが、はるかに説得力があります。
自分でこういう記事が書けないのが残念ですが、この記事を越える説得力のある批判が書ける人がいるならその批判には意味があると思いますが、そうでない人の意見はあまり価値を感じません。
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-947.html
冷静に考えれば、男女の愛が時空を超えて人々を動かし、街一つ消滅する大災害をなかったことにしてしまうというのは、ぶっちゃけリチャード・ドナー版「スーパーマン」で、「地球を逆転させたら、なぜか時間も遡った」というのと同じくらい無茶な話なのだけど、エモーションが迸る物語の推進力と緻密な世界観の説得力によって、有無を言わせず納得させられてしまうのである。
登場人物の内面の情感の深さややり取り、前に記事で書いた風景の美しさ、モノそのもののリアル感などの演出力に、凄まじい熱量を込めている人なので、逆にいうと、全体の脚本構成とかそういうのは、あまり特筆すべきものはない感じがします。なので、批評的には、特に僕的には、語るものがなくなってしまうんだろうと思います。外から語りやすいのは、脚本の構築物やオリジナリティの新規さですからね。
題材やテーマ自体は、別に目新しいものがない。というか、そこで語ってしまうと、新海さんの、凄みは全く分からないと思うんですよね。よくある恋愛もの、この場合は会えたけど、基本悲恋ものって思えば、それですべてが説明付いてしまう。脚本を見ると。でも、それでは、新海誠の凄さ、凄みは全く言えたことにはならない。
以下は投資やってない人には関係のない余談。
真に意味のある「逆張り」は、本質的なバリューを見抜く力、タイミングを見計らう力、損失に耐える精神力、そして十分なリスク管理などが必要。凡人がうかつに手を出すものではない
投資における「逆張り」は「バリュー投資」と同一視されることが多いです。真のその対象の価値を見抜ける人にしか、できないものとされています。価値を見抜く努力をせずに安易に逆張をしてきたものは、容赦なく市場から失格の烙印をおされて退場していきます。
「君の名は。」について真の意味で逆張をした人は、新海誠の真の価値を見抜き、個人で多額の借金をしてでも新海誠を支え、タイミングを待ったCWの川口社長や、東宝の川口元気P、それから昔からずっと新海誠をフォローしてきたフォロワーさんたちでしょう。「星を追うこども」の後でも見放さず応援し続けた人たち(私はその点で失格)。それ以外の人は逆張というに値しないと思います。
この話、数日前にtogetterでも話題になっていましたね。本当にすごいと思います。
新海誠さんが今過剰に評価されすぎだ、という感情を持つのは構わないと思う。実際今は持ち上げられすぎな気が私もします。だけれど、人気になった直後に精神的な反発から安易に空売りを入れるような雑魚は、みんな焼き尽くされて死にます。そういう安易な売り豚を焼き尽くした後に、ちょっとずつブームは沈静化し、ゆっくりと本来の評価がされていくことでしょう。別にそういう短期的な話なんてそんなの気にする必要はない。
でも、周りの声なんかどうでもいいので、自分なりに「君の名は。」はどうだったんだろう。新海誠ってどんな監督なんだろうって考えてみたほうがたぶん実りがあると思いますよ。