幼い頃から、自分が生まれてきたことに負い目を感じてきた。それを克服できたと思っていたけれど、本当は何一つ変わっていなかった。
両親は若い頃共に夢を追っていた。私が生まれたことでそれを叶えることが出来なくなった。もともと堅実な生活をする道から外れてきた人たちだから、私を養うことが難しく、常に家計は逼迫していた。両親は必死に働く中ですり減っていった。それが私のためにされていることだということは、幼い頃から言い聞かされてきたから分かっていた。私はいつもありがとうと言っていた。でも本当は、その愛情が苦しかった。
私が生まれなかった人生だったら、二人は歌と絵で成功することができたかもしれない。芸術家として生きることができたかもしれない。その可能性を潰したのは私だ。だから、私なんていなければよかったのにと、いつも思っていた。そのことを口にしたことはない。口にしてしまえば、その愛情を裏切ってしまうから。胸の奥に押さえつけた言葉が痛かった。寂しかった。
考え方が変わったのは、進学してひとり暮らしをはじめてから。誰かの子どもであるという立場から離れた生活を送って、自分自身を見つめ直す機会を得ることができた。ひとり暮らしをすると、何から何まで自分でやらなくてはいけない。はじめは大変だったけど、自分で自分のことを支えるということに、確かな手応えを感じていた。
人生の意味は誰かに与えられるわけでも、どこかに落ちているわけでもない。人生の意味は自分で作り出すものだ。自分がこの世界に生まれてよかったと思わせるのは自分しかいない。そう思えるようになった。
それからは自分の人生を肯定することに必死だった。手に職をつけて仕事に就いて、自分がいる意味を感じられる状況を作っていった。自分を肯定するには健康であることも大事だから、運動をして、睡眠をとり、酒を絶ち、瞑想の習慣を身につけるようになった。とにかく自分を後ろ向きにさせるようなものは何一つないようにしようと懸命だった。
両親は相変わらず生活に困っているようだった。だから今も、お金を送っている。そうすれば、自分が生まれてきたことの負い目をいつか帳消しにできる。これも自分の人生を肯定するために必要なことだと思っている。
冷静に考えれば、とても恵まれた人生。両親には愛されて、とにかく仕事にはありつくことができて、生きることができている。虐待されて育った人もいれば、過労で自殺した人もいることを考えれば、私が悩むことなんて、後ろ向きになる資格なんてないのだ。おこがましいのだ。恵まれた人生に、多くの犠牲の上に立つ私は、自分のことを考えるより他人のためにならねばならない。
そう考えられるようになったことで、自分は自分の人生を肯定できていたのだと思っていた。きちんと前を向いて生きているのだと思っていた。
でも今は疲れてしまった。
年齢を経るにつれて、気力は衰えていく。肯定していく力が徐々に弱まっているのを感じるようになった。
そして気がついた。自分は人生を根底のところで肯定していない。安心できていない。ただ仕事とか、義務感とか、いっときの気晴らしでごまかしていたのを、人生を肯定することとすり替えていただけだということを。
本当に自分を肯定できる人は、頑張る必要はない。なにもしなくても受け容れることができている。こうするべきだとか、こうあることが正しいとか、そんなことは何も考えていない。
ときどきそんな、自然体で自分を肯定できている人と出会うことが合って、私にはまぶしかった。そのまぶしさを感じるたびに、悔しくなった。悔しいと感じている自分に気づいて惨めな気持ちになった。
何のオチもないし、とっちらかった文章だし、具体的な話もほとんどないし、こんな話をここで書いて何の意味があるのか、自分でも分からない。
ただとにかく疲れた。それをどこかで書いてみたかった。一度も他人に伝えることができなかったことを誰かに読んでほしかった。
もう前向きに生きるのが疲れたんだ。
疲れたよ……。
ボクがあなたの人生を、あなたのすべてを肯定してあげる。 だから、今はゆっくり休んで。