出版社に就職し、「ヴァンサンカン」という女性誌に配属されて以来、ずっと女モノの世界で生きてきた。女モノの中でも、おそらく最も女性ホルモン濃度の高いビューティページの担当を長くしたことから、独立後もなんとなく、美容の世界でのライティングを生業とするようになる。
フリーとして美容エッセイを書き始めた頃、某雑誌の編集長に、なにか肩書きがないとね、ファッションジャーナリストがたくさんいるんだから、美容ジャーナリストがいてもいいじゃない? と乗せられて、やはりなんとなく、そう名乗るようになる。
でもそれは、「何が何でも女モノしか書きません」という宣言のようなもので、ますます女度の高い業界にどっぷり浸かることになっていった。
ただここだけの話、女目線オンリーの世界にいて、いつもある違和感が燻り続けていたのは確か。女性誌は、いわば“女が女を語る女だけの世界”……男目線は、どうにも介在できない世界で、男性の執筆者にもどこかに女目線を強要するような傾向があったりする。
でも女はやっぱり男がいるから美しくなりたいはずで、その偏りにとても不健全なものを感じていたのだ。本来、女は男が、それこそ男性ホルモン丸出しで語ったほうが、遺伝的本質が描けるし、そのほうが女を磨く上でよほど効果的なのにと思ったりもした。
だからもう一つ、自分の中で燻っていたのが、“まったくの女目線で、男の生理的本質をあーでもないこーでもないと書いてみたい”ということだった。
たぶん男モノを書きたいとどこかで思うようになった背景には、女モノばかり書いているための欲求不満があったと思う。
どういうことかと言えば、女は女の悪口をなかなか書けない。少なくとも、“女性をきれいにすること”をテーマにしてきた立場として、例えば化粧品をこき下ろすと、化粧品が効かなくなるのと同様、女の悪口をいくら書いても、女はキレイにならないから。
いや、女を悪し様にできないから、男の悪口を書きたいと思った訳ではない。でも、女性誌編集者上がりの自分には、男をキレイにしようという義務感がない分だけ、ひょっとすると女モノより男モノのほうが、本音で、魂で、時に大胆に、時に謹厳に実直に書けるのではないかと思ったのだ。そして、異性であることのアドバンテージを多少はいただけるのではないかと思ったしだい。
かくして読者のほとんどが男性という「小説現代」での連載のお話をいただいて、私は飛びついた。たまった鬱憤を晴らすように、男の全方位を書き始めた。女の目に男はいつもこのように映し出されているのだという男の森羅万象を。
もちろんこれは、あくまでも男たちへのオマージュである。男のここにそそられる。こんなところを愛すべき。この男が素晴らしい。でも、でもその一方、男のここがヘン、こんな男は許せない。男たるもの、かくあるべき……って、アンタなんかに言われたくないと思われるだろう。
尊大に映るかもしれない。なんという不遜なことを吐く女、と思われるかもしれない。でも確(しか)と読んでもらえれば、そこにも不器用な愛が潜んでいることを垣間見てもらえるはず。そう。だから、『されど“男”は愛おしい』なのである。
例えば、男の嫉妬。男たちは、昔から散々「女はみんな嫉妬深い」と言ってきたが、女から見ると、むしろ「男の嫉妬のほうが厄介」だ。
例えば、男はナルシスト。ナルシストな男を女はみんな嫌いなはずなのに、でも女にとってのカリスマ男は、みんなナルシストだったりする。
あるいはまた、マザコン男とは結婚しちゃいけないという女たちの言い伝えがある一方で、男たちは自ら「男はみんなマザコン」と言って憚らない。しかも最近、男はマザコンなくらいでないと女も大事にされないと、マザコン男の評価がにわかに高まってきていたり……。
こんなふうに、男にまつわる“言い伝え”には案外噓が多かったりすることも、女の目から指摘したいのだ。
男の世界で“美しい”とされていることが、およそ美しくなく極めて野暮ったかったり、男の世界でコンプレックスの種になるようなものを、女は逆に愛おしく思っていたり……。ともかく永遠に訂正されそうにない男たちの誤解をくどくどと解きほぐしたいのだ。
いずれにせよ、女が男をいかに緻密に、無慈悲に、でも愛情をもって眺めているか、その一端を知ってもらうことができるかもしれない。女の目は、“男のカガミ”に違いないから。
読書人の雑誌「本」2016年10月号より