「母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~」
(Eテレ・2016/7/23放送)
※公式サイト:http://www4.nhk.or.jp/etv21c/
<感想>
今から60年前に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件。そういう事件があったことは知っていましたが、今回の番組であらためてその被害の大きさと加害企業の無責任さ、そして救済を求めて闘った人たちのことを知りました。
印象に残ったのは、石川宗二さんの赤ちゃんの頃の写真が破れていたものの残されていたこと、そして「お母さんが作るお寿司が好きだった」と思い出話をした彼がスーパーで懐かしそうにお寿司のパックを買っている姿。本当にお母さん思いの方だったのだなと思いました。
また、鈴本さん母娘の姿。ぽつりぽつりと本音を語る母、そして沈黙の中でも何か感じているのではないかとみえる郁己さん。最後の動物園で取材者が聞いたやりとりは心に残るシーンでした。
番組の感想としては拙いながらも以上ですが、私の言葉やテキストだけでは伝わりきれないものがあると思います。幸いなことにETV特集の再放送が(この記事を書いている時点で)予定されていますので、ぜひご覧いただくことを勧めます。決して60年前に起こった過去の出来事で片付けられない重い課題を与えていると思います。
そのうえで2つほど関連して感じていることを追記します。まずは森永ヒ素ミルク中毒事件が食品の安全という観点で企業に対して重い責任を取らせるようになった一面はありますが(現在は異物混入などがあればすぐに回収する企業が増えている)、それでも公害、薬害、食品の安全を脅かす不祥事は根絶できずにいます。先日も子宮頸がんワクチンの集団提訴のニュースが報じられました。
私もある薬害の被害者支援に関わったことがあり、被害者やその家族の苦しみを目の当たりにしたことがあります。人の命よりも企業の利益が優先された許せない事件であり、謝罪・和解という形にはなりましたが、決して被害者が原状回復されるわけでもないし、二度と繰り返さないために不可欠な真相究明は不十分なまま同様の薬害が繰り返されていることが、やるせない気持ちでいっぱいです。
そしてもう一つ言いたいのが、先日の障害者施設での殺傷事件。19名もの方の命が失われ、26名もの方が重軽傷を負うという痛ましい事件が起きてしまいました。報道によれば犯人の供述が、障害者に対する著しい蔑視と憎悪に満ちていることから、いわゆる「ヘイトクライム」であることは疑いないことです。
もちろんこの異常な犯行を行った者への処罰は当然ですが、私は事件の社会的背景には極端なほどの新自由主義的な風潮があり、この異常な「自助努力・自己責任」とそれに基づく社会的弱者に対する差別・偏見が満ち溢れるような流れに歯止めをかけなければ、こうした事件が繰り返されるのではないかと危惧しています。
「生活保護受給者はパチンコばかりする怠け者だ」
「低年金者は若い頃に一生懸命働かないから自業自得だ」
「障害者は家族が面倒をみるべきだ」
「在日外国人は日本で悪さをするから追放すべきだ」
こんな言葉がインターネットをはじめ、日常会話の中でも交わされていませんか? 私はそんなとき、マルティン・ニーメラーのある言葉を思い出します。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
(出典:Wikipedia)
「共産主義者」「社会民主主義者」「労働組合員」を「生活保護受給者」「低年金者」「障害者」「在日外国人」に置き換えて想像してみてほしいですね。
長くなりましたが、最後にもう一つお願いがあります。
この文章を読んだ方の「家族」「お友だち」「会社・学校の同僚・同級生など」を19名ほどピックアップしてみてください。そして、それらの人たちがある日突然、刃物によって命を絶たれるということを想像してみてください。当然ながら19名には全員、尊い人生があり、過ごすべきであった未来があったということを。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
※見出しは当方で付けました。
<森永ヒ素ミルク中毒事件 重い障害を負った女性>
・だらだら坂の畑道を下って娘を迎えに行く。鈴本雪枝さん(84)と次女の由美さん。長女の郁己さんが月に1~2度、障害者施設から帰ってくる。
・鈴本郁己さんは今年61歳になった。知的障害のほか手足に震えが残り、時にてんかんの発作を起こす。彼女は赤ちゃんのときに飲んだ粉ミルクが原因で重い知的障害が残った。60年前、母が我が子に飲ませたミルクには猛毒のヒ素が入っていた。
・帰宅するとまず送迎をしてくれた施設の先生にコーヒーを振る舞ってねぎらう。
郁ちゃんがいい子してないと、お父ちゃんがお空から見てる(雪枝さん)
・2年前に亡くなった父親の松夫さんは、郁己さんの一番の理解者だった。
花採ってこにゃいけんわ、きれいな花(郁己さん)
・郁己さんは帰宅すると真っ先にお墓参りに出掛ける。
・重い障害の原因となった粉ミルクを買ってきたのは、父親の松夫さんだった。彼は郁己さんの行く末を最期の時まで心配していた。
・昭和30年3月、鈴本家の長女として生まれた郁己さん。親戚から健康優良児が育つと勧められ、雪枝さんは森永乳業の粉ミルクを飲ませ始めた。
・ところがその粉ミルクに猛毒ヒ素が混入していた。森永ヒ素ミルク中毒事件。
「ひろがる粉ミルク中毒事件」
ナレーション:岡山市の各病院には連日、乳飲み子を抱えた母親が詰めかけ、粉ミルク中毒の診断を待っています。粉ミルクのヒ素に侵された子どもたちはお腹が腫れ上がり、痛々しい斑点は目を背けさせるばかりです(朝日ニュース 昭和30年8月31日)
・当時、森永乳業は粉ミルクを溶けやすくする添加物を使っていた。当初は規格品だったが、価格の安い工業用に転換。その安全性は検査していなかった。
・全国で少なくとも130人の乳幼児が死亡、被害者は西日本を中心に1万3000人を超えた。
・被害者の親たちはその後、救済を求めて闘った。森永と国が恒久的な救済に合意したのは、18年後のことだった。
・雪枝さんが郁己さんを施設に預けたのは10歳のとき。洗濯物を汚したり靴を投げたりして周囲から疎まれ、苦しい毎日が続いていた。
・被害者である郁己さんが事件のことをどこまで理解しているかは分からない。郁己さんに事件のことを話したことはないと雪枝さんは言う。
・今、雪枝さんが気がかりなのは、自分が倒れた後のこと。
どっちかいったら私はあの子を見送りたい、先にね。見送って私が後を逝きたいんじゃけど、こればっかりは分からんですよね…(雪枝さん)
・広島市内から車で1時間、中国山地を望む高台に郁己さんが暮らす施設がある。彼女がこの施設に来た当初、しばらくは帰りたいと泣いていた。その日から50年の歳月をここで過ごしてきた。
・毎週土曜日の夜、郁己さんが心待ちにしていることがある。母・雪枝さんからの電話だ。郁己さんが自立できるように、雪枝さんは電話を週に1回と決めている。
面会日の時に帰れる、面会日の時に(郁己さん)
・今も母と子を苦しめているヒ素中毒の後遺症。ミルクを飲んだ後の急性症状が治まっても、子どもの体には様々な異変が続いた。
・事件直後、国が設置した「第三者委員会」は、小児科の権威などから意見を聞き見解を示した(五人委員会意見書 昭和30年12月15日)。成人のヒ素中毒の事例などを根拠にして「ほとんど後遺症は心配する必要はない」と結論づけた。後遺症だと疑われているものは、もともと罹っていた病気もしくは先天性の病気だとした。
・事件の翌年の精密検診も親たちの不安を取り除くことを目的に行われ、ほとんどの赤ちゃんが「治癒した」と診断された。
・郁己さんの知的障害やてんかんの症状も先天性の病気だとされた。しかし雪枝さんは納得できなかった。ミルクを飲む前、郁己さんは丈夫な子どもだったからだ。
(事件の前は)脇を抱えて立たせると跳ね返る。入院してからは立つことができん、ふにゃふにゃと転ぶ。立たせようと思っても立たないし、泣くばかりになった。私と主人はやっぱりヒ素だと確信した。そのときは自分を責めた。私に捨てるだけお乳が出るのに捨てていた(雪枝さん)
・「元気だった我が子がなぜ?」。被害者の親たちは、その答えを知ることさえ許されなかった。
<脳性まひに苦しめられる男性>
・被害に遭った子どもたちは、親の苦しみを実感しながら大人になった。被害者の一人である石川宗二さん(61)は、1歳になる前にヒ素の入ったミルクを飲みその後、脳性まひになった。
・施設に入って今年で39年になる。両親はここ10年で相次いで亡くなった。石川さんの母・政子さんは母乳が出にくかったことから、医師に勧められて森永の粉ミルクを飲ませていた。生まれたばかりのときは健康だったが、徐々に手足の機能が衰えていった。医師からは先天性の症状だと言われた。
お母さんは、ひょっとしたら(ヒ素中毒が原因)っていうのはあったらしい。当時ですから遺伝とか言われて、お母さんはつらい目をしたと聞いています。小さいときの生まれたばかりの僕の写真とか当時の写真、探してもないんです。見たくないって破って焼いたようなんですよ(石川さん)
・石川さんには毎月、必ず訪れる思い出の場所がある。施設に入るまで長い間、両親と暮らした家。外に出る機会が少なかった石川さんには、あまり友達もいなかった。母親の手料理が何よりの楽しみだった。
・少年時代、重い障害があった石川さんは公立学校にも入学できなかった。読み書きや礼儀など教えてくれたのは全て母親だった。
厳しい親だったんで、しつけの方はだいぶきつかったですね。いずれ人のお世話になるんやから機嫌よくニコニコしとけとか、あと挨拶はちゃんとしなさいとか、お礼はちゃんと言えとか。親でも兄弟でもおしっこさせてもらったら「ありがとう」の一言ぐらい言いなさいっていうこととか。障害を持っても心まで障害を持ったらいかんということで、しつけられたんで(石川さん)
・ずっと開けていなかった倉庫に母が残したものが眠っていた。
取材者:石川さんアルバムが。
石川さん:小さいときのがあるかな…。
取材者:ちょっと出してみましょうか。
石川さん:あっ!あった!これ僕なんです。元気な赤ちゃんの時の。ミルク飲む前の写真。焼いた言うもんやけん、がっかりしとったんやけど。
取材者:石川さんね、これ、ここに破いた…。
石川さん:跡がある。僕、破ってないと思うんだけど。小さい時の覚えはないから、ひょっとしたら僕が破ったんかも分からんけど、多分触った覚えないから、お母さんが破ったんかも分からんな。見るたびにつらかったんちゃうかな。
・引き裂かれた赤ちゃんの写真。母親が抱え込んでいた苦悩の跡だ。
<踏切の前で母を引き止めた娘>
・この日、鈴本郁己さんが施設から自宅に帰っていた。郁己さんは、いつものように雪枝さんに「散歩がしたい」とせがんだ。
・郁己さんは国鉄マンだった父の影響もあって、電車を見るのが好きだ。しかし母の雪枝さんにとって、この散歩道は複雑な思い出の場所だった。
・郁己さんが6歳のとき、雪枝さんは親戚から「障害は遺伝だ」と責められた。雪枝さんは朦朧としたまま、郁己さんを踏切のある場所まで連れてきて更に先へと進もうとした。
(郁己さんが)引っ張って後ろに下がるからね。嫌言うんで、うんうん言うて下がったもんじゃからね…それで自分が気がついた(雪枝さん)
・娘を道連れにしようと思い詰めた母を6歳の郁己さんが引き止めた。
<因果関係をなかなか認めなかった森永乳業>
・事件発生から9年目、思い余った雪枝さんが森永乳業に手紙を書くと返事が届いた。費用は持つので大学病院に入院して検査しないかというのだった。
・郁己さんは1か月の間、入院。その最終日、雪枝さんが院長室に呼び出された。待っていたのは、森永乳業の社員、そして沢山の病院の医師たちだった。
鉄道病院の院長先生ね、日赤の先生も。他に先生がいっぱいおられたけど、広大の先生か診てもらった先生かよう分からんけども沢山おられる。そこで結果が「ヒ素が検出されないし、絶対に森永(が原因)じゃない」。私らは会社が大きいから丸めるんじゃ言うてね。主人も言いよりました(雪枝さん)
・この時期、森永乳業は被害を訴える人に個別の対応はするものの、事件との因果関係は認めない立場だった。
・沈黙を強いられた親たちの苦しみを郁己さんは見つめ続けてきた。
<親たちから聞き取った「14年目の訪問」、真相を究明した「疫学調査」>
・事件発生から14年、親子の苦しみがようやく世に知らされた。きっかけは養護教諭や保健師たちによる調査だった。被害者の健康実態を親たちから聞き取った「14年目の訪問」。
・当時、養護教諭をしていた大塚睦子さんは勤務先で一人の被害者と出会い、親から話を聞いてみることにした。他の被害者の親たちにも手紙を出すと、自宅の詳細な地図が描かれた返信が次々と届いた。親たちからの聞き取りは67人分に上った。
事件の後、重度の脳性まひとなり、自力で日常生活が送れない。
耳が聞こえにくく、度々、疲労を訴える。
・親たちの切実な声が詰まっていた。
自分たちだけで子どもを育ててくる中で、おかしいことがいっぱいあったと。お腹がよく痛がったり、それからどうも体が弱いような耐久力がないような気がするとか、勉強がちょっと遅れてるように思うとか、何かおかしいと。堰を切ったみたいに言われるということは…胸の中に溜まっている長年の苦しみがあったと感じましたね(大塚さん)
・報告書は大きく報道され、事件への注目を再び集めるきっかけになった。その一方で、この報告書は激しい論争を引き起こした。かつて後遺症の有無を検討した医師や森永は、科学的な裏付けがないと反論した。
・しかし被害者の親たちは、心の奥に封印していた疑念が真実だと確信した。石川さんの親も、地元の保健師から訪問を受けた。その夜、母・政子さんは、我が子に初めて事件について語ったという。
お母さんは、泣きながらだったと思うんですけど、こういうことで森永(粉ミルクのせい)やったんやって教えてくれたんですけど(石川さん)
・自らの障害がヒ素によるものだと知った石川さん。その後、しばらくすると森永乳業の社員も事情を聞きにやって来た。
森永の会社の人が来ますよね。来て話しますね、いろいろ。横で聞いてて、だんだん腹が立ってきて。逃げ口上ばっかり言うから(同上)
・この論争に終止符を打つ学術調査が専門家たちによって行われた。調査の中心となった元岡山大学医学部衛生学教授の青山英康さん。彼は「疫学調査」が必要だと考えていた。森永のミルクを飲んだ集団と飲まなかった集団とを比較し、統計的に原因を明らかにする方法だ。
「14年目の訪問」っていうのは、これは被害者を調べたら、森永のミルクを飲んでる子が多かったというだけのことだから、それでもって森永ミルクの飲用者に被害があるとは言えないわけで、きちっと疫学的に調べなきゃいけない(青山さん)
・青山さんたちは2つの集団を適切に比較できる地域を探し始めた。辿り着いたのは、広島市郊外の瀬野川地区。一定数の被害者が地域で暮らし続けていたうえ、母乳か粉ミルクかの育児記録が地域の保育所に残されていた。この記録をもとに健康状態について詳細な調査を行った。
・その結果、森永の粉ミルクを飲んだ集団では発育・発達の遅延、病気になりやすい。さらに歯や骨格の異常など10項目で明らかな差が出た。
・被害者の家族たちは、国や森永乳業に後遺症の存在を認めるよう強く訴えた。その活動は世論も動かし、森永製品の不買運動も広がった。
・昭和48年12月、森永乳業は「恒久救済」を受け入れ、国、被害者団体との合意書に調印した。後遺症に対する因果関係を全面的に認め、さらに当時ヒ素ミルクを飲んだ全員を救済する画期的なものだった。
・恒久救済では生活の援助に加えて、教育や就労の支援、さらにヒ素中毒の後遺症について生涯にわたって調査を続けていくことなどが約束された。
<救済が始まったが自責の念に苦しみ続けた母親>
・石川宗二さんにも救済が始まった。生活のための手当が支給され、教育の支援も受けられるようになった。しかし母親の表情が晴れることはなかった。ミルクを飲ませた自責の念に苦しみ続けていた。
おふくろの責任やないやんか。全然知らずにお医者さんの勧めるまま、栄養のあるミルクを飲ませたんがこうなっただけなんやからとは言ったことあるんですけど。それでもやっぱり、母親として自分を許せなかったんじゃないか(石川さん)
・体調を崩し、石川さんを施設に預けた母。その直後は精神的に不安定な時期が続いた。
粉ミルクの中にヒ素が入っている。ヒ素が入っている粉ミルクを飲まされたというのが被害だろうね。もう一つ、僕この森永事件で大きな被害は、毒ミルクを自分の子どもに飲ませたという母親の心の中はもっと大きな被害だと思うな。やはり公害の被害というのは、ただヒ素が体の中に入ったというだけじゃないということだと思うね。ヒ素が入っているミルクを飲まされたこと、飲ませたということが被害だろうね(青山さん)
<発がん性への不安、親世代の高齢化>
・60年経った今も、被害者と家族の不安は消えていない。ヒ素には強い発がん性があるからだ。これまで後遺症がなかった被害者の中にも、健康への不安を抱える人がいる。
大病が分かりまして、生まれて初めて手術という形になりまして、腸の方の腫瘍のがんみたいなあれがあるということで。それも早期じゃなかったんで、ある程度進んでおったんですけど、おかげで命拾いしまして(女性)
子宮がんもやってます。大腸がんの…今日お話もあったんですけど、大腸ポリープも取りました。これが移行したらがんになりますよって言われて、3つありましたけど全部それも取りました(別の女性)
・こうした病気とヒ素を飲んだこととの関連性は、はっきりしていない。救済事業では、がんの発症率などの疫学調査を実施し検討を続けている。
・一方、親の世代は既に亡くなった人が多くなった。この日の集会に参加したのは2人。いずれも我が子に重い障害が残っている。
もう私の時代は終わりました。もうみんな若い人に任せますので、また娘のこと宜しくお願いします(女性)
いろいろお世話になりました。もうこれで終わりですから(別の女性)
・60年という節目を迎えても、母親たちの心の区切りはつかない。80半ばの自分の背中を必死に追ってくる我が子。その足音が、あの日と同じ自責の念を呼び起こす。
病気させたっていうことは私が悪いでしょ。結局ミルクを飲ませなかったら、絶対にああいうふうな病気になってないでしょ…それまで元気で遊んでいた子が全然立てないようになって、1年半過ぎてでないと歩くことができなかったんだから。それはかわいそうなことしたと思うて、私はほんとになんぼ泣いても泣ききれんです(ある母親)
<被害者女性に取材者が尋ねた>
・鈴本雪枝さんは今、娘との残された時間を大切にしたいと考えている。この日は自ら郁己さんを施設まで迎えに来た。
・郁己さんを連れてきたのは、父・松夫さんとも度々訪れた動物園。かつて郁己さんは施設で癇癪を起こしたり、手を上げたりすることがよくあった。しかしここ数年、急に仲間に接するようになった。
・二人きりになった家族。郁己さんもこの60年、事件が家族にもたらした苦難と闘ってきた。
取材者:ちょっとね、郁己さんにお聞きしたいことあるんですけど。森永ヒ素ミルク中毒事件っていう事件のことって聞いたことがありますか?
郁己さん:聞いたことある。
取材者:あっ、聞いたことがありますか?
郁己さん:はい。
取材者:どんなことを聞かれました?
郁己さん:…。
取材者:どなたから、誰から聞きました?
郁己さん:…。
取材者:事件のことってお分かりになります?
郁己さん:うん。
取材者:ありがとうございます。
郁己さん:(鳥のいる飼育舎に向かって)鳥がおる。鳥がおる。
<事件が忘れ去られることへの不安>
・石川宗二さんは今年62歳になる。これまで訴訟や森永製品不買運動に加わり、その後は障害者団体の代表も務めた。最近これまでの症状に加えて、しびれや耳鳴りなどにも悩まされるようになった。
・しかし一番の気がかりは、被害者がみな死んでしまった後、事件が忘れ去られてしまうことだ。
僕たちがいなくなったときに、この事件の記憶を伝えていってくれるのか。僕たち継いでもらう人がいないんです。それだけに、何かの形で残しておかないといけないかなと。原子爆弾とか落とされた広島とか長崎は後に続く人が沢山いると思うんや。それはそれで気の毒やと思うし。でも運動は次の世代にも生かされると思うし。でも僕たちの場合、一過性やからどこまで残せるか。記憶しかないんで、その記憶をどこまで置いていけるか。最後はそこら辺かな(石川さん)
<癒えない傷を抱きしめている母と子>
・郁己さんが自宅に帰ってきたこの日、雪枝さんは郁己さんの白髪を染めようとしていた。
やっぱり、まだ若いんじゃけ白髪いうのはね…(雪枝さん)
・「恒久救済を勝ち取った」と言われる森永ヒ素ミルク中毒事件。母と子は60年経っても癒えない傷を抱きしめていた。
(2016/7/28視聴・2016/7/28記)
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中坊公平・私の事件簿 (集英社新書)
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