平河総合戦略研究所「ウェブサイト」解説に当たり、最近教育界で論議を呼んでいるゆとり教育と学力低下をめぐる論争についての私見を述べたい。

 経済協力開発機構(OECD)が実施した高校一年生の学習到達度調査(PISA)で、前回調査で一位だった数学的応用力が六位に、八位だった読解力が十四位に転落し、日本の子どもたちの学力が大幅に低下し、「できる子」と「できない子」の二極分化が進んでいることが明らかになった。国際数学・理科教育動向調査(2003年度版)でも、数学・理科ともシンガーポール、韓国、香港、台湾に負けており、英語力(TOEFLの平均点)もアジアの最低レベルであることが明らかになっている。

 その背景を探ると、政府の臨時教育審議会は「個性重視」を強調したが、その後の教育改革が目指してきた基本的な考え方は、「個性に応じた教育を行えば教育は良くなる」「受験教育・詰め込み教育をなくせば教育は良くなる」「教育の画一性を排除すれば教育は良くなる」というものであった。「教育が良くなる」というのは、子どもの学力や意欲が向上し、いじめ、不登校、学級崩壊、少年の凶悪犯罪などの教育問題が解決し、個性や創造性が発揮されるようになることを一般的には意味しているようである。

 では、臨教審以後の教育改革によって果たして子どもの学力や意欲が向上し、このような教育問題は解決したのか。答えは「ノー」である。「落ちこぼれ」が教育問題の元凶であり、これを救済するためには授業の理解度の改善をはかる必要があるとして、1980年代から「ゆとり」教育路線がしかれ、その路線を受け継ぐ形で学習指導要領の改訂に伴い、「新しい学力」「生きる力」の育成が強調されてきた。学歴社会・受験教育・詰め込み教育批判、「落ちこぼれ」救済のスローガンはターゲットが存在しないので耳障りがよく誰も傷つかないが、受験がどんどん多様化、安易化していく中で、大学受験を経ないで大学に入学する者が4割近くに達し、猛烈な受験勉強をしない通常の高校までの教育の成果が大学生の基礎学力になりつつある。

 そもそも平成4年から「新しい学力」観への転換が提唱されたのは、公務員の週休2日制の流れを受けて教育労働者である教師にも週休2日を、という労働の論理が本音で、これを正当化するために、「新しい学力」観への転換という美しい教育の大儀名分を掲げたというのが実態であることは文部省幹部も認めているところである。日教組が主張した学校週五日制、授業時間数削減に同調して、文部省が「ゆとり教育」路線に転換したことが根本的に間違っていた。「新しい学力」という極めて漠然としたスローガンについては教育界に根強い批判の声があったが、これらの批判を封殺して文部省は「生きる力」の育成を新たに打ち出した。 

 しかし、「新しい学力」という美辞麗句の建前とは裏腹に、2県11校の高校の調査(昭和54年と平成10年の調査)によって、学習離れと学習意欲の低下が進み、不平等が拡大していることが明らかになった。

また、東京理科大の澤田利夫教授の調査により、授業理解度の改善の失敗と学力低下の実態が浮き彫りになった。

中学校の理科の問題の通過率(正答でなくとも正答に近ければよい)は昭和58年に比べて平成7年の方がかなり下がっている。

 また、中学生の授業の理解度は、1979年に比べて、1998年は「よくわかる」と「ほとんどわからない生徒」は倍増しているが、「だいたいわかる」「半分くらいわかる」「わからないことが多い」生徒は減少している。

 「ゆとりの教育」と「新しい学力」の定着を目指した教育改革が子どもたちに一体何をもたらしたのか、その成果を厳しく検証してみる必要がある。東京大学の刈谷剛彦教授(教育社会学)は藤沢市教育委員会の調査を中心に、「思い込み」と「善意」の結合がもたらした検証なき教育改革の成果を鋭く分析している。それによれば、勉強時間も勉強の理解度・自信・意欲、勉強への集中度のいずれも低下の一途をたどっている。これが「ゆとりの教育」と「新しい学力」観による教育の実態なのである。

 また親の学歴や職業などによって三つの社会階層に分類した調査によれば、下位の生徒は「学校外での学習時間」の減少が著しく、「落第しない程度の成績でよい」と開き直り、「今の成績に満足している」生徒が増えている。ゆとり教育が学習意欲の低下と学習意欲の格差の拡大をもたらし、階層化を促進し、平等社会の崩壊に拍車をかけていることは明らかである。

 ゆとり教育が“失敗”した根因の一つは、従来の教師中心の「指導」を放棄して、子ども中心の「支援」へと転換したために、子どもの興味・関心を掘り起こす「内発的動機づけ」の過度な信仰に陥り、教師の意図的な働きかけや誘因を軽視するようになってしまったことにある。各学校段階ごとの課題設定のミスが勉強の価値を貶める風土を醸成し、自由と放任の混同、誤った児童中心主義に拍車をかける結果となった。

 誤った児童中心主義は小学校のみならず幼稚園、保育所にも蔓延した。平成2年に改訂された幼稚園教育要領、保育所保育指針でそれまでの集団主義的一斉保育から「自由保育」への転換を図り、幼児の「主体的な活動を促す」ことが強調された。ところが、これを多くの教師が誤解して、幼児の「主体的な活動を促す」ということは「指導」してはいけないことだと履き違えた結果、意図的な働きかけを控える傾向が顕著になり、小学校低学年の児童の私語や立ち歩きなどによって授業が成立しない、いわゆる「学級崩壊」の温床となってしまったのである。

 知的な学習に背を向け「学びから逃走」する子が増えているという新たな現象に対応するためには、「ゆとり」に代わる新しい教育観に立脚する必要がある。まず「ゆとり教育」の四半世紀と決別し、明治の近代化、戦後の民主化を目指した教育改革に続く「第三の教育改革」の新たな教育理念と具体的課題の全体像を明確化が求められている。

明星大学教授 高橋史朗
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