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第二次世界大戦を終え突入した冷戦時代。ベルリンは東西に分断された。緊張が高ま理を見せる中、ベルリンの壁の建築が始まり、有刺鉄線のフェンスが張られた。
そんなとき、二人の若者が歴史を作ろうとしていた。一人は国境を飛び越えて西側に走り込み、もう一人はそれをフィルムにおさめることで・・・この写真は、西側メディアで広く取り上げられ、冷戦を象徴するアイコンの1つとなった
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この象徴的な写真は東ベルリンから逃げる若き東ドイツ兵士、コンラート・シューマンをペーター・ライビングが撮影したものである。
以下は修整なしのオリジナル版だ
西ドイツ警察の協力を得た極秘の亡命計画
1961年8月15日、19歳の写真家ペーター・ライビングは、西ドイツ警察からベルナウアー通りでこの日になにかが起こると事前に知らされていた。
同じく19歳で、人民警察機動隊の隊員として国境警備任務に従事していたコンラート・シューマンは、建設が始まったばかりのベルリンの壁のところに立っていて、張られた有刺鉄線を押しつぶして低くしていた。これは今からそちらに向かうという、西ドイツ警察への合図だったのだ。
事態は緊急を要していた。東西ベルリンの国境に有刺鉄線が張られたとき、ドイツ人たちは騒然となって、壁の両サイドから警察や警備隊に向かって大声をあげたり、悪態をついたりしていた。その水面下で行われた亡命計画。境界線を隔てた西側では、警察のバンが亡命者の為に後部のドアを開けて待機していた。
ライビングが現場に到着したとき、ある東ドイツの若い国境警備員が壁に寄りかかって、落ち着こうとしているのか、ひっきりなしに煙草を吸っているのに気づいた。
彼のふたりの同僚は向こう側の道路をパトロールしている。ライビングには、どの男がいつ、どのタイミングで亡命するのかまるでわからなかったが、とにかくその瞬間をとらえようと、エクサクタのカメラをスタンバイさせて待ち続けた。
数時間が過ぎたがなにも起こらない。午後4時、ついにライビングは決定的瞬間をとらえた。結果的にその写真が被写体の人生を変えることになったのだ。
後日シューマンはこう語っている。
神経がキレそうになっていて、もう限界だった。とても怖かった。ぼくは飛び出して、ジャンプして車の中に駆け込んだ。3、4秒ですべてが終わった。
壁付近には、大勢の報道カメラマンが集まっていた。だが、翌日の新聞に載ったのは、ペーター・ライビングが撮ったものだけだった。
ライビングは以前から有刺鉄線に注目しており、シューマンが有刺鉄線の上を飛び越えたまさにその瞬間をとらえたのだ。シューマンは右手で銃を持ち、左手でバランスをとっている。
1時間前くらいに彼に狙いを定めることにした。彼が飛び越えるような気がしたんだ。本能ってやつかな。ハンブルグの馬の障害レースで写真を撮っていたとき、どうしたら絶妙なタイミングで跳躍の写真を撮ることができるか学んだ。馬の足が地面を離れた時と、柵をクリアした時をとらえなくてはならない。その要領でシャッターを切った。それで終わりさ
使用したのは200ミリ望遠レンズつきのカメラ。皮肉なことに、この東ドイツ製のエクサクタがずっと冷戦のイメージをひきずっていくことになる。ネガはたったひとつだけ、手動のカメラで、そのタイミングしかなかった瞬間をとらえた唯一の写真だった。
以下は「自由への跳躍」と名付けられた亡命の瞬間を連続で見せている珍しい動画である。ビデオカメラで撮影されたもののようで、既に編集されているが、編集前のものには左に撮影者ライビングの姿が写っていたという。
Conrad Schumann Escapes East Berlin, 1961
シューマンはベルリンの壁を越えた最初の亡命者となった
東ドイツ側は最初、シューマンの亡命を拉致事件として片づけようとしたが、この写真により、制服を来た兵士が逃げ出した事実が表沙汰になってしまい、そうしたでっちあげをこれ以上維持することができなくなってしまった。
警察の報告書は、シューマンは西側に東の体制の不安定要素についての貴重な洞察を与えてしまったとしている。
無事に亡命を果たしたシューマンは、亡命前の日々について暴露している。
東ドイツ体制を維持するために休むことなく働き、東ベルリンに配備された東ドイツ軍同様、ほとんど睡眠もとれなかった。東ドイツでは、西ドイツについてのあることないことが吹き込まれたという。西ベルリン境界付近にたむろしている輩は犯罪者だとか、西ドイツ警察は西ベルリン市民を引き留めるためなら、発砲を含めなんでもするとかいったことだ。
しかし、シューマンは国境を警備している間に見聞きしたことから、言われていたことはみんな嘘であることに気づいていた。西ベルリン市民と警察の間に衝突などなく、"自由地帯"はあくまでも自由だった。
入念な亡命計画と亡命直後
シューマンは入念に準備を進め、鉄条網を越えるのに、弾を抜いた空のPPSh-41短機関銃を投げ捨てた。本人も言うように、空にしておかなければ、投げ捨てたときに暴発してしまっただろう。午後2時、シューマンは部下の兵士に任務を与えて、不審に思われないように彼らを分散させた。そして、自分は壁にもっとも近い場所に待機した。誰にも気がつかれなかったという。
亡命後、シューマンは西ベルリンのマリエンフェルドにある難民センターに、9月末まで留まった。他二人の歩哨、エーリッヒ・フィエルスとペーター・クロガーは、シューマンが鉄条網に引っかかって、その場で捕えられたりしたら、撃たざるをなかっただろうとのちに語った。しかし、秘密警察、シュタージのやり方を知っていれば、発砲はまだ温情ある選択肢のひとつだったと言えるだろう。
コンラート・シューマンは冷戦の間、自由の象徴となった
東ドイツの生活は恐怖によって支配されていた。シュタージが常に市民を監視し、反社会活動を疑われた人間は監禁され、牢獄へ追いやられて重労働をさせられた。
東ドイツの住民は恐怖に苛まれ、西側の人間といえどもシュタージに拉致された者もいて、標的にされる可能性があった。
西では英雄、東側では裏切者。シューマンのその後
西ドイツ政府は西側でのシューマンの生活を支援したが、彼は孤独だった。1942年、ナチ政権下のザクセン州ツショッハウで生まれ、一介の羊飼いだったシューマンは、家族も友人も東側に残して亡命したためだ。のちに彼はバイエルン州へ向かい、そこで病院の看護師として働き始めた。しかし、西側での最初の10年は、苦しみを麻痺させるために飲酒にふけるようになり、生涯アルコール依存症と戦うことになった。
妻となる女性と出会い、結婚して息子アーウィンをもうけ、1963年には初めての車フォルクスワーゲンビートルを購入した。東ドイツでトラバントを買うのに8年も待たなくてはならなかったのとは大違いだった。ワイナリーで新たな仕事を始め、インゴルシュタットにあるアウディの組立工場でも職を得た。サッカーのバイエルン・ミュンヘンを誇りをもって応援し、日曜には教会に行き、両腕にタトゥーを入れた。
しかし、シューマンはシュタージに目をつけられていて、東側に残して来た両親や妹に宛てた手紙は検閲されていた。家族からは彼が東に戻ればすべてうまくいくという手紙を受け取っており、シューマンは家族が住むザクセン州に帰りたがっていた。だが、その手紙はすべてシュタージが書かせたものであることが判明する。亡命から13年がたって、やっと父親はシューマンに会うことを許された。
シュタージの圧力にもかかわらず、結局シューマンは東ドイツに帰らなかった。恐怖と妄想が彼の生活をむしばみ、自分の意図に反して有名になってしまったことにも苦しめられ、生涯、うつとアルコール依存症に苦しんだ。「1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊してやっと、本当の自由を実感した」と彼は語った。
シューマンは、写真を撮ったライビングを決して非難しなかった
この有名な写真が縁となり、シューマンは撮影者のライビングと生涯ささやかな友情を築き、たびたび会っていた。その中で、シューマンはライビングに亡命の理由を明かしていた。
(壁を越えようとする)誰かを撃たなくてはならない状況に陥りたくなかったというのがその理由だった。軍事制裁に向かっていく東ドイツの教育のせいで、シューマンも結局は銃を持ち出さざるをえなくなるのは目に見えていたのだ。
シューマンはのちに亡命の理由を公の場で話している。
境界線の警備警官として、西ベルリンにいる祖母に会いに行こうとしていた幼い少女を見た。その子は国境警備に引き戻されて、西ベルリンに入ることは許されなかった。鉄条網が張られた場所のほんの数メートルのところに祖母たちが待っていたのに、少女は東ベルリンに送り返されてしまったんだ
亡命から20年後、ペーター・ライビングの撮った写真の前に立つシューマン(1981年)
ベルリンの壁崩壊後
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊後、シューマンは東ドイツに残してきた家族と再会することができた。しかし、これだけ時間がたっても、東側では彼の行動が正当化されないことがはっきりわかった。
家族の中でも、いまだに彼を裏切者とみて、口をきこうともしない者もいた。以前の同僚とも溝ができ、家族やきょうだいを訪ねてザクソンに行くのもはばかられるほどだった。
シューマンは1998年、自ら命を絶った。享年56歳。遺書はなかったが、結局、彼は恐怖に苛まれた人生から最後まで逃れられなかったのだというのが一般的な見方だ。
彼もまたベルリンの壁の多くの犠牲者のひとりだったのだ。
ピーター・ライビングの撮ったコンラート・シューマンの写真「自由への跳躍」は、2011年にユネスコの記憶遺産(後世に伝える価値があるとされる記録物を保全する事業)に登録された。
Conrad Schumann・vintagなど、/ translated konohazuku / edited by parumo
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コメント
1. 匿名処理班
NHKでやってた「映像の20世紀」でのこの場面の動画映像は衝撃的だったよ
2. 匿名処理班
この写真の人が自殺していたなんて……知らなかった……
3. 匿名処理班
戦争も冷戦も同じ。絶対に駄目。
何があっても戦うことだけは許されない。
4. 匿名処理班
シュタージというと「善き人の為のソナタ」の、容疑者を尋問したあとに椅子の座面布を切り取ってラベリングしてたシーンを思い出すなぁ。あれの主演俳優は俳優学校時代のクラスメイトと講師が彼を監視するシュタージだったらしいけど、その事実を知った時はゾンビ・寄生モノみたいな気持ち悪さだっただろうな。
5.
6. 匿名処理班
なんとなくこの人は天涯孤独なんだろうなと思い込んでた。
国家の監視からは逃れられても「家族を捨てた自分自身」からは自由にはなれなかったのね。
今は海外の裕福な国を目指して家族を捨てる人が大勢いるけど、その中のどの程度が自由な自分を手に入れられるのかね…。
7. 匿名処理班
東ドイツから西ドイツへ合法的に移住する方法があり
例えば未婚女性が結婚した場合が当たる
でもこの方法を取るには相手がいないと無理だったし
いくら移住が合法的でも周辺住民や身内から批判や
酷評もあり、いくら楽な方法とは言え安易にこの方法を
取る女性は少なかったみたいだ
8. 匿名処理班
東ドイツのスパイ網はすごいからな
西ドイツの総理大臣秘書で各種の政治的決定を行う会議の場に出席できた人物が東ドイツのスパイで逮捕時に東ドイツ軍士官であるので士官としての扱いを要求したりしている
西ドイツ国内でもそんな状態であるのでこの亡命した兵士が東ドイツの秘密警察の監視下にあったことは容易に想像できる
9. 匿名処理班
最後は自殺してしまったのか…。
悲しい。
10.
11.
12.
13.