菊水
真実の天皇家一族の紋in伊仙
上の紋は徳之島伊仙にある江戸時代の墓石に刻まれた紋です。その当時先祖たちは自分たちが真実の天皇家一族と認識していた、そのことを墓石に刻んで後世に伝えています。奄美の民族学学者(故)田畑英勝氏はその著『奄美の伝説(P104)』の中で伊仙のことを次のように紹介しています。「伊仙は伊仙町の中心地で昔から『伊仙袖振りゃ』(昔の役人たちが大宮人よろしく袖振り歩いていたので)といわれた由緒ある町。」 この伝説を裏付けるのが天皇家一族の標識である日輪・菊水の紋です。また島の先祖に、この紋を彫らせたのは、我が家の先祖に承継され、江戸時代墓石の下に隠された天叢雲剣です。人は正当な理由が無く皇家の紋を彫ることはありません。一族の墓石の紋が、我が家の剣を真正草薙剣と証ししています。徳之島は伊仙以外にも古い墓石に天皇家の紋があると聞きます。わたしは天城町で一基それを確認しています。多くの島人はそれが天皇家の紋と認識してないようです。
「徳之島」の名の由来
徳之島の名は中世の頃に始まります。それまでは「阿麻彌島」と記されています。奄美の師玉家系図で知りました。隠れ天皇家一族は1263年に天城町平土野に密かに入っています。これも師玉家の系図にあります。
徳之島王国
中世、徳之島に王国があったとの説があリます。徳之島郷土研究会の穂積氏が書いています。『奄美の歴史と年表』のP38参照。徳之島に南三島(徳之島・沖永良部・与論)を統べる大按司がいたとのことです。その根拠としている史料は沖縄の「おもろ草子」で、その中に「与論の親ノロが徳之島の大按司に金をささげる、島のすべてを捧げる」と詠っている箇所があるとのことです。穂積氏に源為朝が隠れ皇族という発想はありませんので、・・・・・・・・。仕方のないことです。
徳之島王国の実在は、隠れ皇族が徳之島に来ていることを根拠にしなければ、島を武力で治めた大王の存在が見えない以上、与論の親ノロが島を全部捧げるというのは不自然で、説得力を持ちません。大王天皇の権威が徳之島にあったと考えて初めて、徳之島王国の実在は納得できます。
冠位十二階
「冠位」とは朝廷でかぶるべき冠で、その身分を表示するものです。冠位には12階あります。「徳・仁・礼・信・義・智」の位階を大・小に分けて12階としています。天皇・皇族の位階が「徳」であることはいうまでもありません。中世、阿麻彌島平戸村に琉球から隠れ皇族である源為朝ー舜天王の子孫が密かに入っています。そして一時期、南三島を統べ治めたた可能性があります。その素姓は「隠れ皇族」と、それとなく知られていったことでしょう。それで島の名前が「皇族の島」を意味する「徳之島」と変わっていったと思われます。または先祖が「徳之島」と定めた可能性があります。いずれにしても隠れ皇族が中世以降、島に来て住んでいる事実が徳之島の名の由来と考えられます。そしてそれは徳之島王国・日輪紋・草薙剣とつながります。
また島名を「徳島」としないで「之」を入れて「徳之島」としている点にも皇族のしるしを感じます。皇族と関係のある姓は「の」を入れて読むからです。源為朝は「みなもとのためとも」と読みます。平清盛は「たいらのきよもり」と読み、藤原基経は「ふじわらのもとつね」と読みます。豊臣秀吉の正しい読み方は「とよとみのひでよし」です。「とくのしま」はその読み方からも皇族関係の島と分かります。沖永良部島の正しい読み方は「おきのえらぶじま」です。ここから皇族の島徳之島と関係の深い島であると分かります。徳之島では沖永良部島の女性と結ばれると好運に恵まれるとの伝えがあります。
先祖は第二尚氏の琉球王から紫の鉢巻と金の髪指しを頂戴したと伊仙町の佐栄久由緒記前文に記されています。「紫」は徳の位階を示す色です。金の身位はいうまでも無いことです。
「徳之島」とは、「皇族の島」の意で「冠位12階」がその由来と推定します。いかがでしょうか。・・・・・・・・・・。
畏敬の島
徳之島は徐福王の島、女王卑弥呼の島、真実の天皇家一族の島、畏敬すべき神の島。
起こされたダビデの子孫
平安天皇ヨシュア from徳之島