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ジャニーズ事務所はなぜSMAPを潰したのか
「ザ芸能界 TVが映さない真実」第1回 

光には必ず影が伴う――。一連の騒動は、そのことを全ての人に改めて知らしめた。この国で最後の「聖域」、芸能界。強烈な個性と、したたかな駆け引きがものを言う世界に、世間の常識は通用しない。

解散の自由すらない

一連のSMAP解散劇は不思議な事件だった。

音楽、ダンスのグループは個人の集まりである。好き嫌いといった人間関係、方向性、様々な理由でときに集団内には不協和音が起こり、解散に至ることもあるだろう。ところが、SMAPのメンバーが神妙な顔つきで謝罪する様は、彼らが得体の知れない何かで縛られているようだった。

メンバーは最年少、39歳の香取慎吾を除いてみな40歳を超えている。社会的に十分に判断力があると考えられている年齢である。その彼らに解散の自由さえないことは不気味だった。ニューヨーク・タイムズはこの解散を報じる記事の中で〈長い場合には10年以上にわたって、稼ぎの半分以上を取り上げる「奴隷契約」を結んでいる〉と書いた。

〔PHOTO〕gettyimages

彼らの手綱を握っているのは、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川、そして姉である副社長のメリー喜多川である。

興味深いのは、この姉弟を直接知る人間は、二人はそれぞれ極めて優秀なクリエイターと経営者であると褒めることだ。

このSMAP解散を理解するには、ジャニーとメリー、84歳と89歳になる二人が辿ってきた道を簡単に説明せねばならない。

アメリカ生まれのジャニーが芸能界に関わるようになったのは62年1月のことだ。アメリカ国籍を持つ彼は朝鮮戦争に従軍後、日本でアメリカ大使館関係の仕事をしていたという。そして近隣の少年たちを集めて、「ジャニーズ」という野球チームを結成していた。

ジャニーはこの少年野球チームの子どもたちに、池袋にあった芸能事務所名和プロダクションで演技や歌のレッスンを受けさせるようになった。

名和プロダクションに住み込んでいた演歌歌手の秋湖太郎は、当時のジャニーの姿を知る貴重な人間の一人である。

「アメリカのチョコレートなどのお菓子、缶詰、飲み物など、子どもたちが喜びそうなものを車に積んで持ってきました。アメリカ育ちだから、人を呼ぶときは“You”です。これをやっておいてよ、You、みたいに頼むのです」

名和プロは二階建ての木造住宅で、一階が三十畳ほどの稽古場、二階が住居になっていた。ジャニーはしばしば白いクライスラーに乗って稽古場に姿を現した。

この頃、長沢純らが所属するコーラスグループ「スリーファンキーズ」が人気を博していた。スリーファンキーズについてジャニーが「これじゃ物足りない」と呟いているのを秋は聞いたことがあるという。

「うちのグループは歌って、踊れるグループにしたいと言っていました」

ジャニーの脳裏にあったのは、ブロードウェイのミュージカル『ウエストサイドストーリー』だった。旧来の興行の世界とも、バンド出身の創業者が率いる渡辺プロやホリプロとも違う、きらびやかなミュージカルの世界をジャニーは思い描いていたのだ。

 

「You、すごくいいよ」

ジャニーズ事務所で最初に大成功を収めたのは、北公次、青山孝史、江木俊夫、おりも政夫の四人からなる「フォーリーブス」である。その中の一人、おりも政夫は当時の思い出をこう語る。

「ジャニーさんのいいところは、どんなに忙しくても年に2週間から1ヵ月は所属のタレントをアメリカに連れて行ってくれること。そこでショーを見させたり、レッスンを受けさせたりするんです。ジャニーさんは、教えるよりも見るほうが早いと考えていた。一流のショーを見させてどんどん吸収させる」

53年生まれのおりもは劇団若草に所属して子役として舞台に出演していた。その後、ジャニーズの解散ミュージカルに出たことがきっかけで、ジャニーズ事務所に入っていた。

「劇団にいたときは、厳しく欠点を指摘されました。そこから這い上がってこいということだったんでしょう。一方、ジャニーさんは『You、すごくいいよ』って。子どもは褒められたら嬉しいし、よし頑張ろうという気になれる。ジャニーさんは子どもの長所を引き出すやり方を知っていました」

ジャニーの口癖は「君たちはアイドルじゃない」というものだった。

「大きなミュージカルに出られるミュージカルタレントになりなさい。歌、踊り、芝居の三つの要素を勉強しなさい」

ジャニーはファンの気持ちも分かる人間だった。

「ぼくたちがフォーリーブスとして売れ出すと、ファンが付くようになったんです。でも舞台では笑顔で対応していても、例えば車で移動するときは無愛想になっていた。

そのときにジャニーさんがこう言ったんです。『なんでファンに手を振ってあげないんだ。ああいう子たちが一番、君たちを応援してくれているんじゃないか。あの子たちはずっと君たちを待っていてくれたんだよ、そっぽ向いちゃいけないんだ』と。そしてジャニーさん自ら、車の窓を開けて、ファンに対して手を振っていました」

そのジャニーの姿勢は今も変わっていない。チケットはほとんどファンクラブ会員を対象に販売し、価格は1万円以下に抑えている。若いファンたちが出来るだけ足を運びやすいように、という配慮である。

ジャニーと30年以上付き合いのある元テレビ局幹部は、ジャニーズ事務所の要諦はジャニーの目利きにあると指摘する。

「ジャニーさんは稽古場でどんどん踊らせていって、目に付いた子を前に出して行く。それを繰り返して、グループが出来ていくんです。正直なところ、ぼくにはどの子がいいかなんてさっぱり分かりませんでした。そして個性の違った子どもを組み合わせていく。すべてジャニーさんの感性なんです」

そして、ジャニーはネーミングの天才でもあると付け加えた。

「田原(俊彦)、野村(義男)、近藤(真彦)に『たのきんトリオ』と名付けたのもジャニーさん。『そのまま読めば、タノコンじゃないの』とぼくが訊ねると、『まあ堅いこと言わないで』と苦笑いしていた。KinKi Kids、光GENJI、関ジャニ∞などの名前も全部彼がつけた。それぞれ全くテイストが違う名前を付けるのが、彼の凄いところですね」

ジャニーは少年たちをどのように育てるか、だけを考えて生活している男だった。食事は少年たちと一緒にファミリーレストランで取る。身につけるものにも頓着しない。合宿所に置いてある少年たちの服を着て外出してしまうこともあった。

また、ジャニーは徹底した現場主義者である。コンサート会場では、しばしば彼の姿を見つけることが出来る。関係者が「ジャニーさん」と挨拶すると「ファンの子はぼくのことを知らないんだから、ジャニーって呼ばないで」と返すという。