先週あたりから、この『空気の研究』を読んでいました。この本は、日本人の思考・決定を影で支配しているものは「空気」であること、なぜそれが生まれてくるのか、どうしたら良いかを論じたものです。
- 作者: 山本七平
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1983/10
- メディア: 文庫
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おりしも、ちょうど今問題になっている豊洲市場問題に関して、小池知事が会見でこの本に言及しているのを見ました。
豊洲問題、不可解で、頭にきますよね。なぜあんな決定を都は秘密裏にしてしまったのか。駄目プロジェクトの典型を見ているようです。そして、調査をしても、よく分かりませんという結果しか出てこない。
知事は、「流れの中で空気の中で決まったとしか言いようがなという『空気の研究』で終わらせてはいけない」というような趣旨の発言でこの本に言及していまたように思います。
この本、読むのに結構時間がかかりましたが、久しぶりに骨のある本を読んだ気がしました。
結構ややこしく書かれていますし、出版が1977年と古く、当時の日本の状況が分かっていないのでよく理解できないところ、現在から考えるとあまりしっくりこないところも多いのですが、読んで良かったなと思わせる本でした。
以下、私が理解した範囲で感想を書いてみたいと思います。
「空気」とは何か
では、日本人を支配している空気とは何なんでしょうか。
それは、何かを決定する時点でも、後から振り返っても、けっして論理的とは言えないような決定をさせてしまう、日本人を影で支配している力のことです。
空気に支配された例として、著者は
- 戦艦大和の出撃
- 日本版マスキー法をめぐる、車に対するバッシング
- イタイイタイ病をめぐる、反公害の世論の盛り上がり
などを挙げています。
戦艦大和の出撃の例では、軍事の専門家が論理的に考えたとしたらするであろう決定とは全く反対の出撃という決定が空気の中でされてしまったことが述べられています。
また、大気汚染に対応するために自動車の排気ガスの基準を厳しくした時に、一種魔女裁判のような車に対する科学的ではないと思われるバッシングが行われたことや、イタイイタイ病の問題の際にも、病気の原因はカドミウムではないというような主張は許されないような世の中の空気が醸成されたことが述べられています。
私はまずここで、この本全体に対する、違和感を感じました。
戦艦大和の例は、この本が書かれたときには既に歴史になっており、そういう理解でも良かったのでしょう。「空気」に支配されて間違った決定をしてしまったということです。
本当に「空気」が原因か
しかし、上で挙げた例の後の二つは、今現在から考えると、結局は車の排気ガスは大気汚染の原因だったし、イタイイタイ病の原因もカドミウムだったし、それらが明らかになり公害対策が進んで良かったと思う人が多いでしょう。
空気に支配された一般世論の方が結果的には正しい判断をしていたということです。
しかし、「今の日本はなぜ大気がきれいなんですか?」「なぜ、日本の車は環境性能が良く世界でバカ売れなんですか?」と聞かれた時に、「当時の非科学的な一般人が空気に流されたおかげです」という答えにはならないでしょう。「科学的に考えて、車の排気ガスが大気汚染の原因であるという説を正しく信じ、それに対応するために日本の自動車メーカーが科学的に頑張ったからです!」となるでしょう。
結局、「空気」という言葉を、何かまずい決定をしてしまったことの言い訳をする時の単なる常套句として、あるいは批判したいものに対してそれに支配されていてけしからんという理由として使っているだけではないでしょうか。
例えば、空気に流されて間違った決定をしてしまったと言われる人にも、保身とか、仕事が面倒でやりたくなかったので手を抜いたとか、かもしれませんが、そこに何か自分の目的に向かっていくという論理性はあったのかもしれません。しかし、そんなことは言えない(正直に言ったら袋叩きにあうから)から、「その場の空気に流されて」という言い訳をして、責任を誰でもない「空気」という言葉に転嫁してしまう。
豊洲問題の原因
私は、豊洲の問題も、原因はそんなところじゃないかと思うんです。上からは予算やスケジュールを守れとうるさいのに、引き継ぎもちゃんとされていなくてよく分からないので、やる気も起きない。盛土をやらないでスケジュールが守れるならそれでいいか、やり過ごせばいいや、こんなところかと(もっと深刻な犯罪が絡んでいる可能性ももちろんありますが)。
目的関数が、市場の利用者や都民にとは異なっていただけなのです。
なので、今回の豊洲問題も含めて、実は、日本の問題は、空気の支配とかではなくて、本当に興味・熱意を持っている人にその仕事をやらせるというマッチングが上手く出来ていないために、熱意のない人がその仕事を責任感なく行うことが多く、そのためにお粗末な結果になることが多いということなんじゃないかなと思ったりもします。
卸売市場が大好きで、素晴らしい新市場を作りたいという熱意を持つ人達のチームが担当していたら、豊洲のプロジェクトはこんなことにはならなかったはずです。でもそれはその人が完全に悪いというわけではありません。道路には興味があるが、市場にはあまり興味がないという人もいるはずです。問題は、そういう人に道路の仕事ではなくて、市場の仕事をやらせることです。まあ、大前提として都民のためになりたいという熱意がそもそもない人はだめですけどね。
これは、自分自身が会社勤めをしていた時に実感したことでもあります。組織というものは、組織の維持のために、個人の意志とか熱意とか適性といったものが無視される傾向がありますからね。私自身も、心底熱意を持てない仕事をやらされて、悶々としていた時期があったことを思い出します。
熱意のない仕事はやらない、やらせない。これが重要なのではないでしょうか。
本書の話に戻ります
冒頭を読んでそんな思いを持ちながら、多少批判的にこの本を読んでいくと、空気に流されやすい日本人の気質は、大失敗も起こすが、大成功も起こすということが後ろで書かれていました。明治維新とか、戦後の驚異的な復興などがその例です。そして、日本人は、空気には支配されていますが、その空気を簡単にスイッチすることもできるのです。それならば、少し納得です。
車の排気ガスによる大気汚染についても、当時はある人から見たら、科学も分からない一般人が空気に支配されて過剰反応としていると思われたのかもしれません。しかし、その過剰反応が、メーカ―の開発を促し、世界で唯一の環境技術を持つことを可能にしたのです。
さて、本書で出てくる空気の醸成に関わる重要な概念を整理すると
- 臨在感的把握(物に何かがあるように感じて、心理的影響を受けること)
- 臨在感的把握の対象へ感情移入し絶対化すること
- 一神教=唯一の絶対の神以外は、全て相対的把握をしないと罪になる世界
- われわれ=アニミズム(物神論)。おっちょこちょい。熱しやすく冷めやすい。本能的。
- 絶対化するものが、時々で簡単に変わる ← 巧みな方向転換となることも
- 空気に水を差すもの=通常性、現実、現状維持
- 日本的状況倫理=自分は悪くない。状況が悪かった。
- 日本的平等主義=みんなオール3。そうなるように尺度(=状況)の方を変化させる態度。
- 「孝=父は子のために隠し、子は親のために隠す」を「忠」としてしう忠孝一致
のようになります。これだけでは何を言っているのかわからないかも知れません(私もよく分からなかった無い所があります)。興味のある方は、是非本書を読んでみてください。
最後の章「日本的根本主義」では、当時のアメリカにおけるカーター人気を話題に、アメリカの根本主義(ファンダメンタリズム)と宗教改革の関係、その改革が、聖書という絶対化するという超保守主義から生まれたことなどが述べられていて、興味をもって読めました。
では、結局、日本人は空気に支配された社会をこれからも続けていって良いのでしょうか。
結果をみると、それにもかかわらず日本はそこそこ科学技術で成功し、良い国になっているようにも思います。結局、空気でさえも現実の科学的事実からは逃れられず影響を受けるから、長い目で見れば大きく外れるということも無いのかもしれません。ただ、空気が、本来の日本の力を阻害しているということであれば、その呪縛をとく努力をしてみても良いのかもしれません。
著者は最後に、空気の呪縛から逃れるためには、空気の支配があるという事実をまず把握することが出発点だと言っています。結局「気づき」が大切なのでしょう。
まとめ
山本七平『空気の研究』を読みました。今日本では、豊洲市場の問題が起きていますが、この本に書かれている典型的な日本人の反応の形がまさにそのまま出ているなあと思いました。空気や流れによって盛土をしないと決めた都の職員や幹部(私の見立ては少し違いますが)、やっぱり汚染されていたところに市場を作るのはそもそも気持ち悪いよねという空気に支配された一般人、その気持ちを盾に取り過剰に騒ぎ立てるマスコミ、法や手続きよりも科学が勝るという態度(「基準値以上でも飲まないんだから安全だし良いじゃないか」)でそんな空気に水を差そうと躍起になる人たち。
色々考えさせることがある、良い本だと思いました。ただ、どうも著者は、種々の例の挙げ方からして、共産党的なもの、市民運動的なもの、非専門家的なものを嫌っているのかな?とような感じを受けました。空気には、官であろうが、専門家であろうが、一般人であろうが影響を受けるのですから、もうちょっとバランスよく書かれていると、より広い読者層にアピールするのではないかと少し残念に感じました。