思い返せば、私は娘を甘やかして育てた。
と同時に娘にとっては小うるさいことを言う父親であったろうと思う。
だから晴天の霹靂と言うにはちょっとおこがましいとは思うが、それでも娘から「パパ死んで」と言われた私の心は、もう心と呼ぶにはその原型を留めていない。
生まれたばかりの娘をこの手に抱いたことを、つい昨日のように思い出す。
高熱を出した娘のために仕事を休み、点滴に付き添ったことも今となっては懐かしい思い出だ。
「パパ一緒に寝よ」
そう言って、もみじのような小さな手で私の腕を引っ張ったことも、いや、あれは私の自分勝手な思い込みが歪ませた都合の良い記憶なのだろうか。一緒に寝ようと言ってくれた同じ口から「死んで」なんて言葉が出るはずもない。
私の友人の子どもで、娘にとっては2つ年上のお兄ちゃんがいた。その彼に娘がほのかな恋心を抱いていたことも私は知っている。実にあのときも、私の心は猛獣にえぐられたようなダメージを受けたが、同時に嬉しくもあった。彼は好男子であったし、何より娘がひとりの女性へと成長した証しでもあったのだから。
娘の名前をつけたのは私だ。
どんなにつらいことがあっても、前向きに生きて欲しいと願いつけた名前。思えば面と向かって確認したことはなかったけれど、娘は自分の名前を気に入ってくれているのだろうか。少なくとも私は、娘がその名に恥じぬよう成長してくれたと思っている。
いまの、こんな私にできることは、間違っても明日なんかに、うっかり不慮の事故にあって死んでしまわないことだ。そんなことにでもなれば、娘は私に発した言葉を生涯気にし続けてしまうかもしれない。そんなことを私は決して望んでいない。
最期に、もとい最後に、なぜ私が娘からあのような言葉を受けたかについて、軽く触れておくことにしよう。
お風呂から上がった娘があられもない姿でスマホをいじっていたので、このままでは風邪をひいてしまうと心配になり「さっさとパジャマに着替えない」と私は言った。そのことに娘は腹を立てたのだ。
考えてみれば当たり前のことだ。いったいいつまで私を子ども扱いするつもり? ということだろう。私は知らぬ間に、自分は決してそうなるまいと思っていた毒親になっていたのだ。
娘はもう3歳だ。
それなのに私はどうしても彼女がまだ子どもにしか見えない。自分をしっかり持ち、恋心も覚えたひとりの女性として接することができない。こんな身勝手な父をどうか許して欲しい。そして許されるものなら、もう一度娘の好きだった動物園に行って、私の隣で「パパ」と微笑む娘の顔を見てみたい。
追記
今回書いた内容について、半分ネタっぽく書いたつもりだったのですが(それでもウソは書いてませんが)コメントを見るとご心配をかけてしまったようなので追記しておきます。
実際、私もかなりショックを受けて娘を諭すこともできずその場を去ってしまったのですが、妻が後からきちんとフォローしてくれていました。誰かに「死んで」なんて言葉を使ってはいけないことを。私も娘に、とても悲しい気持ちになったことを伝えました。
娘も言ってはいけない言葉だということは、言う前から理解していたふしもあり、仲直りもできました。でも娘は娘で私に腹が立ったのは事実で、またそのことをうまく表現する術をもたないので、今回のようなことになったのだと思います。
これからもいろいろなことが起こるのでしょうけど、ひとつひとつ乗り越えて行きたいです。
ご心配をいただいたみなさま、ありがとうございました。
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真田丸にて、徳川家康の暗殺に失敗した出浦さまに感情移入しすぎて未だに無念を引きずっているかたがいたら、日曜朝に早起きしてジュウオウジャーをご覧いただくと元気が出るかと思います。日曜朝から着ぐるみきてがんばる出浦さまを楽しむことができますよ〜。
— ほう太パパ (@houta30) 2016年10月2日