国会爆竹事件とうちなーぐち裁判 2000/10/21 Voice of Okinawa  ⇒台日地区研究総合ホーム阿川亭ホーム

復帰ではなく、沖縄の解放を求めた
ーーー沖縄青年同盟の挑戦ーーー
 沖縄返還協定を審議したいわゆる「沖縄国会」開会中の一九七一年十月十九日午後一時十五分ごろ、佐藤栄作首相の所信表明演説中に沖縄青年同盟の三人(うち一人は女性)が、衆議院本会議場傍聴席で爆竹を鳴らし「全ての沖縄人は団結して決起せよ」と呼びかけるビラをまいて逮捕された。「日本人に沖縄の運命を決定する権利はない」「沖縄返還協定は欺瞞だ」という在日沖縄人青年たちによる国会の場での非暴力による「復帰阻止」の実力行動だった。

 二年前の六九年に佐藤・ニクソンの共同声明が発表され、沖縄の施政権が七二年に日本へ返還されることになっていた。沖縄では復帰運動が主流だったが、「復帰」が具体化するにつれて人々が望むものとは異なる形で進行する「復帰」への疑念が出始めていた。「復帰」幻想を揺さぶる「反復帰論」も主張される。七〇年の「国政参加選挙」には「国政参加拒否」の運動も起きた。さらに沖縄返還協定粉砕、反対や見直しなどを求める声が沖縄で広がり、七一年五月、十一月には十万人規模のゼネストが行なわれた。

 日本に滞在する沖縄出身の勤労青年・学生が沖縄人という意識で結びついた沖縄青年同盟は、反復帰論の影響を受けていた。彼らは自らは沖縄人であるという意識を持ち、七二年の「復帰」を第三の琉球処分と考えていた。そして、祖国幻想に満ちた復帰運動を乗り越えて、沖縄人の解放を目指すべきだと主張する。

 組織としての沖縄青年同盟は二年余で消滅するが、強い沖縄人意識で結びつきながら、日本の国会や裁判所という場で、ぴゃーしんごー(爆竹)やうちなーぐち(沖縄語)という象徴的な仕掛を使って、日米政府が進める「返還」への異議申し立て行動を展開した。

 国会爆竹事件の三人は、建造物侵入と威力業務妨害の罪で十一月九日、東京地裁に起訴された。初公判となった七二年二月十六日、被告らが法廷でうちなーぐちを使いだしたため、法廷は混乱に陥った。沖縄青年同盟は「沖縄の文化の正当性をより広く主張するためにも、本公判でウチナーグチをつかうことを宣言する」と表明。被告らは事前に仲間たちと、法廷ではうちなーぐちを使うことを打ち合わせていた。

 裁判官の質問に対し被告の一人は「むかせー、かいしゃいんやたしが、なまー、ぬーんそーねーん」と答えた。聞きなれない言葉に、動揺して日本語で答えなさいと注意する裁判官には「ぬーんちぃうちなーぐち、ちかてーならんがー」。さらに「うちなーやにほんどやがやー」などの言葉に法廷は混乱する。被告三人それぞれが八重山、宮古、沖縄と出身地が異なるため、弁護側は別々の通訳を要求した。裁判では琉球の歴史などを説明し行為の正当性を主張した。

 うちなーぐちの使用は、「裁判所では、日本語を用いる」(裁判所法第七四条)との規定を逆手にとり、「(日米政府によって「復帰」させられる)沖縄は日本なのか。どうなのか」という問いとなった。「日本が沖縄の運命を決定することはできない」という彼らの主張や行動は波紋を呼んだ。事件後まもない七一年十一月二十五日には、在京の学者や知識人らが沖縄青年同盟の行動に対して、支援を呼びかける「アピール」を出す。沖縄の新聞では読者の投書などが掲載された。

 結局、沖縄青年同盟が実力で阻止しようとした沖縄返還協定は、自民党によって衆議院特別委員会で強行採決される。衆議院本会議では社会党、共産党が不参加のまま自民党の賛成多数で可決承認された。衆議院には七〇年の「国政参加選挙」で米軍統治下の沖縄から選出された安里積千代、上原康助、国場幸昌、瀬長亀次郎、西銘順治がいた。

 そして、爆竹を鳴らし「沖縄返還協定粉砕」を訴えた三人に対し、東京地裁は七三年九月六日、懲役八月、執行猶予三年の有罪判決(求刑は懲役一年)を言い渡した。三人は東京高裁に控訴したが刑は一審通りに確定している。

 【時代の目】

 当時、沖縄の人々に知らされなかった事実が復帰後、いくつも明らかになっている。

 佐藤栄作総理大臣の密使として沖縄返還交渉にかかわった若泉敬の「『緊急時の沖縄への核持ち込みに関する密約』が日米両首脳の間で交わされた」という証言(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』、一九九四年)。共同通信が、米核軍縮団体研究員らの論文をもとに報じた復帰前の沖縄に十八種類、千二百発の核爆弾があり、最終的に撤去されたのが復帰後の七二年六月だったという事実(「沖縄タイムス」九九年十月二十一日朝刊)。さらには、米軍基地の移転費用など金銭的な補償をめぐり日米でなされた機密の覚え書きの存在(我部政明、『沖縄返還とは何だったか』、二〇〇〇年)など。

 世替わりの大きな節目で、沖縄は自らのあり方を主体的に決めることができなかったばかりか、重要な情報を知らされていなかった。次々と明らかになる事実は、沖縄側から見ると、当時「だれが罪を犯していたのか」「だれの行為が罪として裁かれるべきか」ということへの再考を迫るものだ。 三十年近い歳月を経へた沖縄の現実からは、「復帰」をとりまく意味がさらに異なって見えてくる。国会爆竹事件やうちなーぐち裁判の再評価を行うべき時期に来ているだろう。

 国会での意思表示の手段として、なぜ爆竹だったか。爆竹を鳴らした一人は、興味深い理由を語っている。「(爆竹を使うことは)人を傷つけずにかつ効果的だということに加えて、その裏に沖縄の文化的な意味も込めた。沖縄ではソーロン(お盆)のとき、ヤナムンをはらすためにピャーシンゴーを鳴らし、豊年祭の綱引きのときにも鳴らす。そこで、国会にいるヤナムンをはらそうという意味でやろう、ということだった。それは、ヤマトンチューには意味が通じなくてもウチナンチューならすぐに理解できるし、賛同を得やすいだろうという読みもあった」

 国会爆竹事件を起こした沖縄青年同盟の思想と行動は、沖縄の二十世紀において少なくとも二つの点で重大な意味を持っている。

 一つは彼らが明確な形で沖縄人意識にもとづいて行動し、沖縄人宣言を行っている点だ。自らを「在日」沖縄人と位置付けた彼らにとって、沖縄人意識や沖縄人という宣言はきわめて自覚的、積極的な意味を持っていた。沖縄人宣言は、日本人への同化を突き進み、沖縄(琉球)人意識を封印することで問題を解決しようとしてきた近現代における沖縄(琉球)人の在り様に、重要なメッセージを投げかけている。

 もう一つは、「反復帰」や「沖縄のことは沖縄が決める」という主張、さらには七二年の「返還」が、沖縄の人々の望んだ形で進行しなかったということを沖縄の文化的な意味を込めた行動で、日本社会に対しても伝えたということだ。現在の沖縄が抱える課題の大部分は、「復帰」という節目で型にはめられ、固定化されたものである。国会爆竹事件、うちなーぐち裁判は、世替わりの際にその枠組みや内実に対して、「沖縄人の口が封じられていた事実」を証言している。

 「復帰」という二十世紀の沖縄にとっての大きな節目で起きたさまざまな事件は、歴史は過去の事実だというだけでなく、現在の事実でもあることを示している。国会爆竹事件、うちなーぐち裁判は、若い沖縄人たちが「沖縄人にとって何が大切なのか」ということを考え、沖縄の主体的な選択を求めて行動し、歴史に刻み込んだ事件だとみることができる。「沖縄人の主体的選択」を志向する思想と行動という点からも、今日的な意味をもっているといっていいだろう。

沖縄青年同盟

 『沖縄大百科事典』によると、沖縄青年同盟という組織は過去に三つあった。一つは一九二六年(大正十五)に那覇市で結成された全日本無産青年同盟の地方組織。広津和郎の「さまよへる琉球人」へ抗議をしたのはこの団体。戦後まもないころの沖縄青年同盟は、四五年に東京で沖縄出身者相互の連絡と救援をはかり、民主主義により沖縄再建に貢献するため結成された沖縄人連盟の青年部が、四七年に発展解消してできた団体。

 国会爆竹事件やうちなーぐち裁判を行なった沖縄青年同盟は、沖縄出身勤労者・学生によって復帰直前に組織された。七〇年に結成された沖縄青年委員会のメンバーのうち「沖縄の自立、解放」を掲げるグループが、沖青委海邦派となり、そして七一年十月十六日に沖縄青年同盟と改称した。

後田多敦
『沖縄タイムス』(2000年9月30日朝刊)

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