日本とオーストラリア――“西洋コンプレックス”の似たもの同士

アジアの東の端に赤道を挟み北と南に位置する日本とオーストラリアは、一般的にとても違う国と認識されている。実際、歴史、民族、文化、自然、そして国土の広さはもちろん人口規模も二国は大きく異なり、ある意味好対照の国ということが言える。したがって、日本とオーストラリアは似た者同士だ、と言うと、奇異に思う人が多いだろう。しかしながら、両国の国際舞台、とくにアジア地域における言動を注視してみると、その相似性が鮮明に浮かび上がって来る。

 

日本とオーストラリアは、その過程は大きく異なりつつも、共に時代が新しい世紀-20世紀-に入る頃に近代国家として成立している。その意味で両国は世界の歴史の流れ中で同世代に属する国家であり、それぞれが国家としてのアイデンティティを形成していった時期が重なることから、必然的にどこか似た“性格”を持ち合わせているのである。近年、日豪は“アジアにおける最良の友”とか“特別な戦略的パートナー”と称され、関係が緊密化しているが、それはその相似性に理由の一つがあると思われる。

 

 

潜水艦燃え尽き症候群?

 

今年の夏(オーストラリアは冬だが)の日豪関係は、あの2年前の熱狂は“真夏の夜の夢”だったのか、あるいは“から騒ぎ”だったのか、と思わせるぐらい、静かなものとなっている。2014年の7月、安倍首相はニュージーランド、オーストラリア、そしてパプアニューギニアを歴訪する7日間に亘る大洋州訪問を行った。中でもオーストラリア訪問の内容は濃く、トニー・アボット首相(当時)のほぼフルアテンドの手厚い歓迎を受け、二国が“特別な関係”に至ったことが強調され、日豪関係は湧いていた。

 

それから2年、二国間関係の話題が低調なのは、一つには、この7月は日豪共に“選挙の月”となり、両国の視線がそもそも国内を向きがちだったことがあろう。と、同時にここ2年ほど日豪関係で注目を集めた案件の一つ、オーストラリアの将来潜水艦建造事業を日本が受注できなかったことで、とくに日本からオーストラリアに対して向けられていた熱い視線が一気に冷えた感がある。

 

日本がこの案件を受注できなかった理由については、安倍首相との間にはケミストリーがある、とまで言われ、この案件についても熱心に日本にアプローチしていたアボット首相が昨年9月に党内から不信任を突きつけられて、首相の座を追われていたことや、後任のマルコム・ターンブル首相が“中国寄り”と評され、今回の案件も中国に配慮して日本は受注に至らなかったのだ、というような解説がメディア上で展開された。

 

潜水艦という国防に関わる案件であり、オーストラリアがフランス案を選択するに至った理由は、当然のことながらその性能の問題などいくつかの要件が複雑に絡み合ってのことであろうが、大きな要因の一つは、フランス案であれば造船産業が存在する南オーストラリア州に雇用機会を生むことができたことである。労働者の権利主張が強いオーストラリアでは、労働者を無視してコトを進めることは非常に困難で、今回も国内で一番失業率の高い南オーストラリア州への配慮がなされた結果と言えるだろう。

 

したがって、今回日本が受注できなかったのは、主要因はオーストラリアの国内事情によるもので、日豪関係云々とは無関係の理由だったと言えるわけだが、確かにこの案件に関しては、元々オーストラリア側が日本に持ち掛けてきたもので、当初ほとんど日本ありきで走り出し、日本としてもそれに応えるべく「武器輸出三原則」も「防衛装備品移転三原則」に変えるなど満を持して受注を準備していただけに、何かメンツを潰されたようで、オーストラリアに対して苦々しい思いを抱いている日本側関係者がいても不思議ではない。結果、メディアの報道などを見ていると、今回のことで日豪関係が疎遠になってしまうのでは、と読む向きもあった。

 

しかしながら、この問題に関しては、むしろこのような案件がそもそも両国の間に持ち上がったこと自体に注目すべき点がある、と捉えるべきなのではないだろうか。

 

 

日豪関係の来し方

 

日本とオーストラリアは、ここ3、40年安定した友好関係を築いてきた。しかし、歴史を振り返ると国対国の関係が信頼に基づく良好な関係だった時期は必ずしも長くない。1788年に英国が入植を開始し、アジアというその出自とは異質な空間に、ヨーロッパの出先機関として存在してきたオーストラリアは、19世紀半ばから同じく英国の植民地であったインドにおける地元民の蜂起(セポイの反乱)、ゴールドラッシュをきっかけとした中国人の流入、そして開国以来急速な近代化路線をひた走る日本の台頭を目の当たりにし、自らの後背地に大きな人口を抱えるアジアが存在することを強く意識するようになった。当時オーストラリア大陸に住む人たちの数は少なく、南東部に比較的集中して住んでいたために、大陸の北部には大きな空白があると捉えられ、そこにアジア人が大挙して押し寄せて来るのではないか、と脅威を感じていた。

 

それが連邦政府設立直後の移民制限法の制定に繋がる。これは入国時にヨーロッパ言語での聞き取りテストを実施することによって、アジア人を中心とする有色人種の人たちの移民を妨げる、言い換えればオーストラリアの中をなるべく白く保つ政策で、「白豪主義」と称されるようになる。この政策の導入は一般的には中国人労働者流入阻止のためだった、と解説されることが多いが、同時に日清戦争に勝利し、軍事的にもプレゼンスを益してきていた日本を警戒しての措置でもあった。

 

したがって、1941年12月8日に始まった戦争は、豪北部地域への90回を越える爆撃や、シドニー湾における特殊潜航艇による攻撃など、直接国土を攻撃されたことから、正にその恐れていた日本による“侵略”が現実のものとなってしまった戦争、と捉えられた。加えて、東南アジア戦線にて日本軍に捕えられ、日本国内外で使役された戦争捕虜の人たちへの非人道的扱いがあったことから、オーストラリアは戦後長らく日本に対して怒りや嫌悪感、また不信感を抱いてきた。そのようなことから、戦後両国は人的交流、そして貿易を通じて、地道に健全な二国間関係を築いていったが、安全保障、あるいは戦争の文脈で日本がポジティブに言及されることは皆無に等しかった。

 

それが21世紀に入ってから事態が一般の我々にもはっきり見えるかたちで変化していった。現在の日豪の親密さを安倍・アボットの人的関係に求める解説は多いが、実際にはそれより前から二国の安全保障面での連携強化は始まっている。【次ページにつづく】

 

 

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