【広島】山本一義氏が死去 最後までカープ愛、病院のベッドで25年ぶりリーグV見届けた
1960年代から70年代にかけて、広島の主軸打者として活躍し、引退後は広島の打撃コーチ、ロッテ監督などを歴任した山本一義(やまもと・かずよし)氏が、9月17日に尿管がんのため広島市中区の病院で亡くなっていたことが3日、分かった。78歳だった。葬儀、告別式はすでに近親者で営まれた。広島が9月10日に25年ぶりのリーグ優勝を決めた直後で、祝賀ムードに水を差さないようにと、故人の意向で公表が控えられていた。
最後までカープ愛を貫き、静かに逝った。山本氏は今年2月頃に体調を崩し入院。その後は入退院を繰り返していた。広島の25年ぶりのリーグ優勝は、旧市民球場近くの病院のベッドで見届けた。天国に旅立ったのは、そのわずか1週間後の9月17日。広島の街がVの余韻に浸るムードを壊さぬよう、家族には自身に最悪のことがあっても公表を遅らすように伝えていた。
1960年代から4番打者としてチームを引っ張り、75年の初優勝時は兼任コーチだった。ベストナイン2度。オールスター戦出場5度。当時弱小だったチームを主将として支えた。指導者としても厳格な熱血指導で、高橋慶彦、金本、緒方、江藤らを一流打者に育て上げた。
広島商から法大へ進学。大学4年時には、高校、大学の先輩である鶴岡一人監督が率いる南海への入団が内定。しかし、地元のスターの流出を嘆く広島県民の声を受け、後に首相となる池田勇人通産相(当時のカープ後援会名誉会長)に翻意を促された。加えて、さびしそうにしている父の心中を察し、広島入団を決断。
75年に現役引退後は79年まで広島でコーチを務め、近鉄の打撃コーチを経て、82年からはロッテで2年間、指揮を執った。その後も南海(現ソフトバンク)、広島でコーチを歴任。また、巨人・長嶋茂雄終身名誉監督、ソフトバンク・王貞治球団会長との親交も深かった。近年は評論家活動の傍ら、全日本少年硬式野球連盟の会長を務めるなど後進の指導に当たっていた。
◆山本 一義(やまもと・かずよし)1938年7月22日、広島・呉市生まれ。広島商3年時に春夏連続で甲子園に出場。法大では主将を務めた4年春の東京六大学リーグ戦でチームを12年ぶりの優勝に導き、全日本大学選手権も制覇。広島では外野手として1年目からレギュラーに定着。75年の引退後はロッテ監督、広島、近鉄、南海で打撃コーチなどを歴任した。左投左打。
訃報・おくやみ