十年前、まだ美容院に行っていた頃のこと。
その美容院は大きなところで、数十人の美容師が在籍していた。だからなのか、ランク制をとっていた。いちばん下っ端は普通のスタイリスト、すこし偉くなるとトップスタイリスト、その上にはサロンディレクターがいて……という感じだった。それぞれに料金が違うわけだ。
私を担当している人のランクは「トップスタイリスト」で、名前は藤村さん(仮)といった。だから店に行くたび次のように挨拶されていた。
「よろしくお願いします、トップスタイリストの藤村です」
これでいつも笑いそうになっていた。「すげえ自画自賛してくるじゃん」と思ったからだ。堂々と自分のことをトップ扱いしている。自信満々だ。まあ、自分のランクだから名乗らなきゃ仕方ないということなんだが。
藤村さんは謙虚な人だったので、その後は普通に髪を切られるだけだったが、私はいっそのこと自信満々でいてほしいと思っていた。ひたすら自画自賛している美容師を体験してみたかった。
つまり、「どうも、トップスタイリストの藤村です」にはじまって、
「今日はどうされます? 僕がやると結局カッコよくなっちゃいますけど」
「えりあしどうされます? 僕に任せてもらえば完璧になりますけど」
「かゆいとこあります? ていうかココでしょ?」(ぜんぜんちがう)
ずっと自画自賛してるわけだ。「よし」とか「きまった」とか「俺ヤバい」とかつぶやいている。さらに調子が出てくると「才能……」と連呼しはじめる。ハサミの音と、BGMのジャズと、ためいき混じりの「才能……」である。
「あれ……お客さん……才能に髪切られてませんか……?」
鏡ごしに言われる。
会計のときは、「この値段で天才の時間を買えるってすごくないですか?」と言われる。そしてスタンプカードを渡してくる。
「これ貯まったらどうなるんですか?」
「僕と肩組んで写真撮れます」
そんな男がいればいい。
しかし冒頭で書いたように、まだ上のランクがあった。だから藤村さんはさらに進化するかもしれない。すると自画自賛はなりをひそめ、かわりに帝王のような威厳を身にまといはじめるだろう。真の強者はむやみに自分の凄さを語らないからだ。
私が店に行くと、藤村さんは玉座に深く身をしずめている。こちらに視線を向け、低い声で「待ったぞ……」と言う。もはや美容師と客という関係性はブッ壊れている。私は「貴様」と呼ばれるし、髪の伸び具合には「その程度か」と不満げだ。
「貴様に愛刀を使うまでもない」と言われ、鼻毛用の小バサミで髪を切られてしまう。その間も、藤村さんは美容師と人類の二千年に渡る長い散髪の歴史を語っている。
「貴様が私に髪を切られることは二千年前からの宿命なのだ」
これはほとんど最終形態のように思える。
しかし、まだ通過点にすぎない。もうひとつ先の世界がある。そして最初に言っておくと、私の「究極」に関するイメージは漫画『バガボンド』に植え付けられている。
「剣を極めた男に、剣は不要」
これである。
よって、究極の境地に達した藤村さんはハサミを持っていない。
私が店に行くと、藤村さんがいる。しかしそこには若かりし頃の野心にみちた姿や、壮年期の威厳にみちた姿はない。静かに座禅を組んでいるのだ。背筋はスッと伸びている。その姿は雪舟の筆による一本の枯木を思わせる。
ドアが開くと藤村さんは気配を察知してパッと目をあける。こちらが名乗るまでもない。藤村さんはほほえんで言う。
「あなたが来ることは知っていました」
ちなみに、予約の電話は普通に入れている。
私は席に案内される(というか藤村さんは案内してくれないので勝手に座る)。藤村さんはゆっくりと座禅を終え、私のうしろにやってくる。しかし手には何も持っていない。私が不思議そうな顔をしたことに気づいたのだろう。藤村さんは静かに語りはじめる。
「もはや、私にハサミは不要なのです。この風、この空気、この大地、そのすべてがハサミなのであり、私はハサミと一体であるゆえに、私とはハサミであり、ハサミとは私であり、あなたとはハサミであり、ハサミとはあなたであり、ゆえにハサミはなくともよいのです」
澄み切った瞳で言われるが、私はいまいち意味もわからないし、それよりも背もたれを倒してほしいと思っている。藤村さんは口をひらく。
「背もたれを倒す必要はないのです。時が来れば自然と樹木が倒れるように、背もたれもまた自然と倒れる時が来るのです。われわれにできるのはその流れに身を任せることであり、無理に背もたれを倒す必要はないのです」
しかし私は自分でスイッチを押す。背もたれは倒れる。
「そうすることは知っていました」と藤村さんは言う。
私は無言で座っている。ケープも何もない。
「もはやケープは不要なのです。切られた毛はあなたであり、あなたは切られた毛であり、切られた毛は切られる前の毛と同じであり、世界はひとつなのですから、服に毛のつくことを嫌がる必要はないのです」
藤村さんは続ける。
「シャンプーをする必要はないのです。シャンプーとは私であり、私とはシャンプーであり、リンスとは私であり、私とはリンスであり、あなたとはシャンプーであり、私とはシャンプーなのですから、シャンプーをされるまでもなくあなたの髪は洗われているのです」
藤村さんは続ける。
「髪を切る必要はないのです。もはや何も切る必要がないと思った時、すでに髪は切られていて、世界はもともとひとつなのだから、髪を染めたいと思わなければ、すでに髪は染まっているのだし、パーマをかけることは、パーマをかけないことと同じで、あなたは私であり、私はあなたであり、すべてはひとつでしょう?」
「大きい……」
ずっと黙っていた隣のスタッフが涙を流しながら言う。
そして長い沈黙。
どうも施術は終わったらしい。
私は会計をする。髪は来店時とまったく変わっていない。長い御託を聞かされただけである。
「15000円です」と藤村さんは言う。
そこは取るのかよ、と私は思う。紙幣は私であり私は紙幣でありあなたは紙幣であり紙幣はあなたなのだから、会計などなくてよいのではないのかよ。
しぶしぶ払う。藤村さんは金を受け取ると、礼を言うこともなく座禅に戻る。スタッフも礼は言ってこない。泣くのに忙しいからである。私は自分でドアを開けて店を出る。
帰り道、ぼさぼさの髪をいじりながら思う。「店、変えよう」と。